執権(鎌倉幕府)

登録日:2025/04/04 Fri 08:03:50
更新日:2025/04/25 Fri 19:44:24
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執権(しっけん)とは、鎌倉幕府における役職の一つ。
幕府の主導者たる征夷大将軍、通称「鎌倉殿」の最側近、時には代行として政務を補佐する者。
……そして、時代が下るに従って「将軍を支える者」から「将軍に代わって政治を取り仕切る者」へと意味が変わっていった役職である。
なお、ここでは執権の地位と関連が深い「得宗」という存在についても合わせて解説する。

●目次

◆概要

そもそも執権という役職は、三代将軍実朝就任の頃に生まれた。
当時実朝は12歳と若く直接的な政治の取り仕切りは難しい側面があった事から、祖父にあたる北条時政とその関係者が政治を主導する形になった。
無論ずっとそんな感じではなく、実朝が成人した後は彼自身の判断で裁可を下したりもしていた。
そもそも「執権」という職名自体この時点では明確に定められてはいなかったらしく、あくまでも「数多いる御家人の内で、将軍の最側近たるポジションに時政が立っていた」といった感じ。
時が下り、時政から息子である北条義時へとその立場が移った際も、状況は概ね変わらなかった。

が、実朝が暗殺され、その後任として公家から2歳かそこらという幼子・三寅を「鎌倉殿」に迎え入れる羽目になった事で、事態は一転する。
三寅は成長後に「藤原頼経」と名を改め、征夷大将軍に任ぜられるのだが、それは10数年後の話。
この時点ではまだ「次期将軍になる幼児」でしかなく、北条政子が後見という立場に就きこそしたが、将軍不在という事実そのものは変わらない。
そのため「執権を事実上の指導者とし、側近たちと共に各種政務を実行する」という政治体制が、問答無用で確定化されてしまう。

更に、直後巻き起こった前代未聞の大騒乱の結果、幕府が事実上朝廷を上回る立ち位置に立った事で、それを主導し、実質的に朝廷と上皇の権威を地に叩き落とした執権の存在・権限は圧倒的な領域に達した。
事実、鎌倉幕府における訴訟への裁可は、本来将軍の名において行われる筈なのだが、頼経以降は将軍ではなく執権の名で文書が作成されるなど、将軍ではなく執権が幕府中枢での決定権を握っていたのは公然の事実となっていた。

この体制は、代を経て北条家内部でもゴタゴタが巻き起こっても形式上は受け継がれ、1333年の幕府滅亡まで継続した。
というか、一般的に鎌倉幕府滅亡とされるこのタイミング自体、当代の将軍ではなく執権が争いに敗れ、一族諸共自害した時。
鎌倉幕府の命脈は最後まで執権、そして北条一族が握り続けていたのは、名実共に明らかと言える。


得宗(とくそう)

「とくしゅう」とも読む。
北条一族における当代の最高位、いわゆる「家長」を表す言葉。
由来は二代執権・義時の別称や法名、戒名などとされるが正確なところは不明。
基本的に「執権」は北条家の当主が代々継承する事になった都合上、得宗と執権は事実上イコールの存在と言えた。

ただ時の天皇からして「実権を握る『治天の君』は譲位した上皇」「上皇の指示で天皇が皇太子へ譲位する」という、制度上のトップよりも家長の方が強い事がよくある時代。
時代が下るとだんだん「執権の地位は後継に譲るけど、得宗の座には引き続き居座る」ケースが増え、「幕府の組織的には『執権』が事実上最高だけど、北条一族としては『得宗』の方が偉い」という矛盾が発生。
結果、組織的な地位より北条の家長の意見が幕府の意見として通る、という事態が頻発した。
オマケにその得宗にしても、北条家内部(北条家の血族と、彼らに代々仕える『御内人(みうちびと)』)での権力闘争によって権威が強かったり御飾りになったりがあった。
酷い時には御内人が得宗を事実上傀儡にして実権を握るなんてケースもあった。
執権が「将軍の権威を形骸化させ、幕府を掌握した」存在である事を踏まえると、なんとも皮肉な話である。



◆執権一覧


・初代執権:北条(ほうじょう)時政(ときまさ)

 〈在職期間:1203年~1205年〉
 〈在期中の将軍:源実朝〉

元は伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)の地方豪族の当主だった。また桓武平氏の子孫ともなっているが、系譜から不明点もある。
しかしこれを裏付けるかのように、伊豆に配流されてきた源頼朝の監視役を命じられるも、娘の政子が源頼朝と駆け落ちし、正室となった事で彼と姻戚関係になる。
以後は頼朝の後見にして側近として鎌倉幕府創建に関わり、将軍外戚としての権力を確保していく。
だが頼朝が没し頼家の代になると、その後見たる比企家と対立。最終的には当主どころか頼家の子供も含めて族滅に追い込んだばかりか、頼家までも将軍の地位から追い落としてのけた。
そして実朝が将軍に就いた際には、まだ年若い彼を補佐する立場――即ち「執権」の地位に立つ。

事実上鎌倉の頂点に立った時政は、以後も権力の誇示及び拡大に余念がなかったが、その過程で他の御家人を蹴落とす事も増加。必然的に反発や反感を抱かれる機会も増えていった。
特に、自身の支配圏拡大の過程で対立した御家人・畠山(はたけやま)重忠(しげただ)を謀叛の嫌疑で討伐した際には、重忠がそういう野心とは無縁の人物だった事は多くの御家人が知るところであったのに、強引すぎる方法で対処・誅殺した事で御家人どころか、実子である義時や政子からも反発を受けてしまう。

追い詰められた時政は、ここで「実朝を将軍職から廃し、自分の娘婿を後釜にすえる」という無謀を通り越した強硬策をしかける。
……が、他ならぬ息子達の妨害によってこの計画は頓挫。完全に権威を失った時政は、出家の上で伊豆国に送致という、事実上の追放処分を受ける。
以後鎌倉に戻る事はなく、10年後に同地で没した。

地方の一豪族に過ぎなかった北条家を、関東有数の御家人一族にまで押し上げたのは紛れもなく彼の功績なのだが、無謀な策で晩節を汚す格好になったせいか、以後の北条家は息子の義時を「北条家の繁栄を築いた父祖」として顕彰する一方、時政については全くと言って良いほど触れる事はなく、回忌の催事もロクに行わなかったという。


・二代執権:北条義時(よしとき)

 〈在職期間:1205年~1224年〉
 〈在期中の将軍:源実朝→藤原頼経(北条政子)〉

時政の次男。初代北条得宗
父の暴走を抑止し、事実上追放した上で後任になった。
一豪族の身でありながら、三上皇の配流と現天皇の廃位という、後にも先にも唯一無二の大偉業を成し遂げ、以後600年に渡って続く「武士階層による日本の統治」の礎を築いた人物。
詳細は彼の項目にて。


・三代執権:北条泰時(やすとき)

 〈在職期間:1224年~1242年〉
 〈在期中の将軍:藤原頼経〉

義時の長男。
父と共に頼家・実朝に仕え、承久の乱においては幕府軍の総大将として京に進軍。
勝利後は朝廷監視の為に新設された「(ろく)波羅(はら)探題(たんだい)」の政務に当たっていたが、父の急死に伴い伯母である北条政子から次代の執権に命じられた。
以後は幕府中枢の政治改革を推し進め、伯父の北条時房を執権に次ぐ地位として「連署(れんしょ)」に置いて協力体制を構築。
更にそれまでの将軍による専制体制を改め、「評定衆(ひょうじょうしゅう)」と呼ばれる11人の有力御家人代表、そこに執権・連署を含めた13人による「評定」会議という最高意思決定機関を成立させた。

父が築き上げた鎌倉の地盤を盤石のものとした、幕府中興の立役者
特に「武士・武家を対象とした史上初の成文法」である「御成敗式目(ごせいばいしきもく)貞永(じょうえい)式目)」を制定した功績は絶大で、以後の室町・戦国・江戸時代における各武家の法令は、原則この式目を土台としている。
父・義時が「武士の世を切り拓いた立役者」なら、泰時は「武士が世を治める上での基本理念を築いた功労者」である。

人格面においてもかなりの高評価が多い人物で、「道理」を重んじ誠実に職務に当たる姿は、各種文献でべた褒めされている。
一方で父と共に承久の乱で朝廷相手に大立ち回りを演じ、以後も朝廷側にはかなり強権的な対応を取っていた事から、一部公家などの文献では蛇蝎の如く嫌われている(残当ではあるが)。

一方、彼の生母は義時の側室に当たる女性だったらしく、加えて義時は正室(後に離縁)、そして後妻も迎えており、当然というか子供も複数人いた。
このため北条家内部の立ち位置は正直微妙であった*1ため、兄弟や義母には結構気を使っていたらしく、例を挙げると
  • 父の没後、義母が義弟を執権に押し上げようと画策していたのが発覚し処罰されかかるが、義母及び義弟に対し(当時の鎌倉においては)凄まじく緩い処分で終わらせる
  • 父からの遺産相続に際して「自分は執権だから」という理由で僅かしか受け取らず、残りは兄弟姉妹に渡した。
などのエピソードがある。

とはいえ、鎌倉幕府の基盤を構築した功績は大きく、また在位期間も父に次いで18年と、太平の世を築いた人間にふさわしい長さを誇っている。


・四代執権:北条経時(つねとき)

 〈在職期間:1242年~1246年〉
 〈在期中の将軍:藤原頼経→藤原頼嗣〉

泰時の子・時氏の長男。
父が若くして病没し、その兄弟も数年後に亡くなったことから、以後祖父である泰時の後継者として扱われ、泰時の没後に19歳で執権に就いた。
が、この時点で北条家は多くの分家が存在しており、本家筋とは言え若輩の経時の執権就任は分家にとって面白いものではなく、不安要素の強い環境でのスタートとなった。

その後は評定会議の合理化・訴訟手続きの簡素化といった政治改革を進めるが、周囲の情勢は落ち着かないばかりか、当代の将軍・頼経がそれを利用して反執権勢力を形成。
頼経自身はその後将軍職から降りた(というか降ろされた)が、引き続き鎌倉で反執権勢力糾合を図るなど、不安定な状況は継続していた。
この頃から経時は病に伏すようになり、体調も悪化の一途を辿っていた事から執権職を弟に移譲。
その直後、就任から約4年後に23歳でこの世を去った。


・五代執権:北条時頼(ときより)

 〈在職期間:1246年~1256年〉
 〈在期中の将軍:藤原頼嗣→宗尊親王〉

経時の弟。
経時の病状悪化に伴い、一門と重臣達の合議の末就任が決定した。
もっともどういう話の末にそうなったのかは現在も意見が分かれるところではある。

従前の「長子直系による継承」ではなかった事から、就任当初は支持が低く、結果反執権・北条勢力がさらに勢いを増すことに。
ついには武装蜂起一歩手前の状態に陥るが、時頼は先手を打ってこれを鎮圧。反対勢力を処罰し鎌倉中枢から一掃し、関与していた先代将軍・頼経も京へ強制送還した。
宮騒動」と称されるこの一件で、時頼は執権としての地位を確立。ようやく安定期になる……と思ったら、今度は有力御家人・三浦(みうら)氏と安達(あだち)氏の間で対立が激化し武力衝突が勃発。
時頼は安達氏と同調し、結果的に三浦一族を滅亡に追いやった(宝治合戦(ほうじかっせん))。
関連する御家人も処罰・処刑された結果、ただでさえ強かった北条一族の権威は完全に独走態勢に突入するに至った。
その後は当代の将軍・頼嗣を京に追放し、新たに後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を将軍に据えるなど、更なる権益強化を図っていった。

こうしてみるとかなり強権的な人物に思われるかもだが、当人は質素かつ堅実な性格、また信仰に厚い人物だったらしく、配下の御家人に対して行政改革などで宥和政策を取ったり、渡来した僧侶を招いて寺院を建立したりしている。
特に一般民衆に対しては「撫民(ぶみん)(撫でるように民を慈しむ)」政策を取っており、その生活安定に心血を注いでいた。
対して支配者層たる武士階級については、強権的な対応で民衆を搾取する事の無いよう法令を整えるなど、武士を「支配者」ではなく「統治者」として変革させようとしていたとされる。
こうした施策・手腕は、後年において確立された「武士道精神」にも大きな影響をもたらしており、祖父の執った施策や理念をブラッシュアップして当世に広めた名君とも言える。

……だが、まったくもって清廉潔白な人物など早々居ないのは、歴史において多々ある話。
統治者としては優秀でも、権力者としては高評価がつくか、は別問題である。

というのも、1256年に時頼は流行り病に罹り一時は危うい状態に陥った。
それを契機に執権職を息子に継承させようと考えだしたのだが、当時息子は6歳という幼子。
そこで自身の義兄(妻の兄)を「息子に移譲するまでの一時的な代理人」として執権に任命し、自身は出家した……が、以後も引き続き政治の中枢に参画し続けた。
組織人としては引退したけど実権は持ったまま」という状態を、時頼は選んだのだ。
それは「執権」という地位に就く者では無く「執権に就いた『得宗』」たる人物こそ最高指導者であるという体制の始まりであり、同時にそれまでの幕府中枢における権力構造・組織体制が形骸化を告げた時でもあった。

何の皮肉か、それはかつて祖父と曾祖父が打倒した上皇が取っていた「院政」と似たり寄ったりの体制であった。

それから7年後、病状が悪化した時頼は37歳で世を去った。
宗教心に厚かった彼らしく、最後は袈裟をかけ座禅を組み、阿弥陀如来像の前で息を引き取ったという。

水戸黄門よろしく身分を隠して諸国漫遊していた伝説から能の『鉢の木』*2の題材になっていたりする。


・六代執権:北条長時(ながとき)

 〈在職期間:1256年~1264年〉
 〈在期中の将軍:宗尊親王〉

北条義時の三男・重時の嫡男。
時頼の病状悪化を受け、義兄に当たる彼が執権の座を引き継ぐ事になった。
……が、先に触れた通り、その継承は事実上の中継ぎであり、以降も時頼が政治の実権を握り続けたため、彼自身の執権としての業績と言えるものは実質無い。
というか当人は権力欲が薄く温和な性格で、かつ適切に事務処理を行うことに長けた人物だったため、着任に伴う権力闘争が起こりにくいキャラ故に代打とされたのでは、と考えられている。
だが彼も時頼同様病魔に蝕まれており、時頼の死から1年後の1264年にそれを理由として出家・辞任。
その僅か1ヶ月後に35歳で亡くなっている。

何とも幸薄い人生にも思えるが、彼から始まる北条家の分家「赤橋(あかはし)」は、以後の幕府において重要なポストに就いたり昇進が早かったりと、本家たる得宗流に次ぐ家格を誇る事になる。
その背景に、彼の執権就任がある事は間違いない事実であろう。


・七代執権:北条政村(まさむら)

 〈在職期間:1264年~1268年〉
 〈在期中の将軍:宗尊親王→惟康親王〉

北条義時の五男。
父の没後、生母が自身を執権に就けようと画策する一悶着があったが、当人はそうした野心は薄かったらしく、兄・泰時の温情もあって罪には問われなかった。
以後は兄の補佐として幕閣に加わっており、1256年には執権に次ぐ地位である「連署」に就任していた。
だが時頼・長時と執権在籍者及び最高指導者が相次いで病没し、後任として確定していた時頼の息子はまだ14歳と若かったことから、これまた中継ぎとして執権就任が決定。
政治的話題は当代の将軍を更迭して京に送還した程度(……程度?)であり、幕府運営は御家人たちとつつがなく進めていった。

が、1268年。一通の書状が大宰府(現在の九州・福岡県)に届く。
送り主は、日本海を越えた先の先、現在の中国一帯を征服していた「蒙古(モンゴル)帝国」――後に国号を改め「元朝」を称する国であった。

文面自体は「お互い初めましてだから文書送るわ。これから一つ仲良くしようや(意訳)」な感じだったが、幕府はこの文書を「侵攻の意志あり」として危険視*3
そこで政村はいずれ来る対外脅威に向けて権力の統一を図るべく、執権の座を時頼の息子へ移す事を決定。
自身は連署の座に再就任し、そのフォローに当たる事とした。
以後、1273年に亡くなるまでその地位と仕事を全うした。


・八代執権:北条時宗(ときむね)

 〈在職期間:1268年~1284年〉
 〈在期中の将軍:惟康親王〉

時頼の次男(嫡男)。
幼い頃から後継としての座を約束されており、父の死に伴い13歳で得宗に、伯父の死に伴う政村の執権就任と合わせて14歳で連署に就任し、そして18歳にして執権に就き、前代未聞の国外からの脅威「元寇に対処する事になる。

時宗は元への対応として警備体制の強化を進める一方、国書に対する返答はせず無視を決め込んだ。
何度か派遣された使節団そのものに対しても同様で、大宰府などの要衝には近づかせない、来ても国書をとりあえず受け取るだけでそのまま使節団を追い返す、といった拒絶的な対応に終始した。
一方で自身の権益強化、そして来たる蒙古迎撃における憂いの排除を目的として、九州地域で大きな影響力を持っていた名越流北条氏の時章・教時兄弟、並びに義兄にして六波羅探題に在していた北条時輔を謀反の罪で誅殺した*4

そして1274年、ついに元からの侵攻部隊が九州に押し寄せた(文永の役)が、在地の御家人たちが総力を挙げて迎撃し、最終的に撃退に成功。
これを受けて時宗は更なる防護体制の強化(軍備の増強と防塁の造営)を指示し、再度の襲来への備えとした。
また時期を同じくして降伏勧告に来た元の使者については、側近の反対を押し切って処刑するなど、徹頭徹尾侵攻に抗う姿勢を見せた。
そして1281年の2度目の襲撃弘安の役)においては、自らの名において作戦を立案・指示し、天候の運も手伝って再度これを退けた。

斯くして時宗は未曾有の危機から日本を救った……のだが、その代価は非常に高くつき、そして残された問題も山積みであった。
というのも、この時代における武功への恩賞は、基本的に領土。
そしてその領土は、原則「攻め滅ぼした相手側の物」が、戦功に応じて関係者に配分される仕組みだった。
だが、今回の戦いは防衛戦、戦った相手は国外、それも海を渡って朝鮮半島を越えた先に有る国家である。
必然、戦いに勝って得られた物など、土地はおろか金品などの財産すらロクに無い。そもそも賠償を求めようにも、その為には海を越える必要がある=今度は自分達がボッコボコにされる公算が高く、論外
結果「恩賞として御家人に分け与える物が何もない」状態に陥ってしまったのだ。

当時の情勢を踏まえれば当然の話ではあるのだが、命がけで戦った御家人にしてみれば「必死に戦って勝ったのに褒美がこれっぽっちも無い」という不満全開な状況。
そしてこれは「将軍(幕府)が御家人の所領を確保・保障する」のと引き換えに「御家人は将軍(幕府)の意向に従って武力を行使する」という、当時の統治機構の基盤を揺るがす大問題でもあった。
一方で「また蒙古が進撃してくるのでは」という恐れは拭えない以上、戦いで割とボロボロな御家人たちに対外用の賦役を課さざるを得ず、更に反発を招く……と、見事に八方塞がり。

しかも時宗は(先の粛清も手伝って)並び立つ者がいないほどの高みに立っていた=重大な決定・判断を下す人間が自分しかいない(●●●●●●●)状況にあった。
つまり「仕事を他の誰かに投げられない」=「全部自分が介在して処理するしかない」という、ワンオペまっしぐらな有り様。
現代社会でもそんな環境に居たら1年と置かず体調を崩す訳で、時宗も例外ではなく。
弘安の役からわずか1年後、34歳で世を去った。

2度にわたる外国からの侵攻を防ぎ、国を守るべく的確な対応を取ったとして高く評価される一方、使者を問答無用で処刑するなど露骨なまでの元への抗戦姿勢は、一指導者としては余りに強引だとして否定的意見も多い。
とはいえ誰も経験した事の無い事態に若くして直面しながら、執権として鎌倉、そして日本をまとめ上げて戦うというのは、余人には到底理解し得ない環境であり、同時代を生きた僧侶から「四十に満たない人生だったが、その功績は七十年以上生きた人間のそれに匹敵する」と称されたのも、まあ納得できる話である。
そして激動の生涯を駆け抜けた時宗の後を追うように、北条一族と鎌倉の崩壊は加速していく。


NHK大河ドラマ『北条時宗』(2001年)の主人公になった他、北条得宗家の中では海外知名度が最も高い人物。
というのも、各国の歴史上の指導者となって覇を競う戦略シミュレーション洋ゲー『Civilization Ⅵ』で、日本の指導者に選ばれたからだ。
尤もゲーム販売時点での知名度は絶無に近く、家紋の三つ鱗をトライフォースと見做されて「ゼルダファンボーイ」と呼ばれることになったが……


・九代執権:北条貞時(さだとき)

 〈在職期間:1284年~1301年〉
 〈在期中の将軍:惟康親王→久明親王〉

北条時宗の嫡男。
父の死に伴い執権に就任した……のだが、この時まだ13歳。しかも就任直前に北条一族内で不正疑惑やら陰謀が露見するわで、安定とは程遠い船出となった。
若年故に当初の政治は有力御家人の安達(あだち)泰盛(やすもり)が主導したのだが、執った施策に北条家の御内人(家臣)である(たいらの)頼綱(よりつな)が反発。
貞時の執権就任の翌年に両者は武力衝突を起こし、泰盛を含めた安達氏本家が族滅の憂き目にあう(霜月騒動(しもつきそうどう))。

斯くして政治は「貞時を支える」という名目の下、頼綱が主導。
一時は執権すら凌ぐ権勢を誇る事になった(あれ、どっかで見たなこの構図)が、そもそも頼綱は「北条家の家臣(御内人)」であって「将軍直下の幕府主要構成員(御家人)」ではない。
現代に置き換えれば「会社の運営に、幹部どころか社員でもない『社長が個人的に雇ってる秘書』が口出ししている」ような状態で、どうやっても無理な権力構造にならざるを得なかった。
しかも頼綱は自身に向けられる不平不満を強権的な対応で押し込めようとしたことで、とうとう他ならぬ貞時が三行半を突きつける。

折しもこの時、鎌倉一帯を文字通り揺るがす大地震が発生したのだが、貞時はこの混乱に乗じて頼綱ら一族を強襲。一気に攻め滅ぼしてのけた(平禅門(へいぜんもん)の乱)。
こうして実権を取り戻した貞時は、父と同様の得宗への権力集中・専制政治の道を選択。
以後、自身の支持勢力を新たな訴訟手続担当とする改革や、西国支配と国防の強化などの政策を執り行っていった……のだが、一度陰りを見せた得宗専制体制は、既に限界を迎えていた。

にもかかわらず貞時は1301年に出家した際、実権はそのままに執権の座を従兄弟に移譲。
中継ぎを経ていずれ自身の息子に執権を受け継がせるという、祖父・時頼と同じ権力継承を試みた。
必然、こうした得宗への権力集約は北条家諸派からの反発を呼ぶも、貞時はこれを武力と謀略を以って制圧。次席である連署も誅殺してのけた(嘉元(かげん)の乱)が、それでも幕府内部の問題は消える事も無かった。
おまけに同時期、幼い息子2人に先立たれるという不幸に見舞われた事も手伝い、次第に貞時は酒に溺れ政務を蔑ろにするようになっていった。

が、貞時がそんな有り様でも、幕府自体は御内人・御家人による協議体制の下(諸問題はあったが)つつがなく運営されていた。
皮肉な事に、得宗の権力強化に腐心した貞時の最晩年においては、得宗も将軍と同様お飾りの存在へと成り果てていたのだ。
やがて貞時は1311年に41歳で世を去るが、父から受け継いだ得宗の権力を息子に受け継がせる事は叶わず、むしろ自身の代で北条、そして鎌倉の終焉を決定づける一因を築いてしまった。


・十代執権:北条 師時(もろとき)

 〈在職期間:1301年~1311年〉
 〈在期中の将軍:久明親王→守邦親王〉

北条時宗の同母弟・宗政の子。
若くして鎌倉中枢の職を歴任しており、北条家庶流という出身に反しキャリア的にはかなりの扱いを受けていた。
これは貞時が自身の権力基盤を固める過程で師時に信を置いていたが故の産物ともいえるが、それをこなせるだけの才覚を持っていたのも事実であろう。
執権就任も貞時から息子までの委譲における「中継ぎ」であったが、逆に言えばそういう事を請け負っても構わないくらいの忠誠を師時が持っていた事の裏返しでもある。
だが、この時点で政務は北条家の御内人・長崎(ながさき)円喜(えんき)を中心とした指導体制が出来上がっており、もはや執権も得宗も実権が喪失している状況にあった。
結果、特に何かを成したという事もなく、貞時の死のひと月前、37歳にしてこの世を去った。


・十一代執権:北条宗宣(むねのり)

 〈在職期間:1311年~1312年〉
 〈在期中の将軍:守邦親王〉

北条家の庶流・大仏(おさらぎ)流北条氏の当主。
当時は連署に就任していたが、師時の死を受けて繰り上げ人事的に執権に就いた。
だがこの時点で54歳と高齢であった事、貞時の代で政治関係は北条家の御内人や御家人たちでやりくりする事が確定的だった事も手伝い、当人は全くと言っていいほど政治に関与しなかった。
就任から1年で地位を譲り、同年に死去した。

なお、義時以降の執権の中ではこの宗宣だけが義時の子孫ではない。*5


・十二代執権:北条煕時(ひろとき)

 〈在職期間:1312年~1315年〉
  〈在期中の将軍:守邦親王〉

七代執権・政村を祖とする政村(まさむら)流北条氏の当主。
宗宣の後任として連署に就任しており、その引退を受けてこれまた昇格する形で執権に就いた。
故に(やっぱりというか)政務への参画実績はほぼ無く、わずか3年後に病のため執権を辞職。同年中に亡くなった。
一方で歌人としての側面も持っており、当代の勅撰和歌集に歌が選ばれている。


・十三代執権:北条基時(もととき)

 〈在職期間:1315年~1316年〉
  〈在期中の将軍:守邦親王〉

北条家庶流・極楽寺(ごくらくじ)*6の更に分家である普恩寺(ふおんじ)流北条氏出身。
煕時の辞職に伴い就任するも、翌年には貞時の嫡子を執権とする運びが決定したことで、即移譲が決定。
同時に出家し、以後政治中枢に関わることも無かった。
後年、後醍醐天皇による倒幕活動が本格化すると、その鎮圧に赴き善戦するも、最終的に敗北を察し自刃した。


・十四代執権:北条高時(たかとき)

 〈在職期間:1316年~1326年〉
  〈在期中の将軍:守邦親王〉

貞時の三男。だが兄は2人とも早世しており、9歳の時に父も亡くなった事で事実上の後継者となった。
そして数代にわたる中継ぎ執権を経て14歳で執権に就くが、この当時鎌倉幕府の統制はガタガタも良いところで、国内各所で騒乱・反乱が頻発。
1321年には時の天皇・後醍醐天皇自ら倒幕を企図した事が発覚する(正中(しょうちゅう)の変)有り様だった。
しかも先述の通り当時の幕府内政は御内人・御家人による協議対応が主流であったため、高時自身に実権はさして無かったとまで考えられている。

オマケにその協議による施策も「形の如く子細なく(先例に従い形式通りに)」と評される、過去の執権・政務担当者が取った対応・判断をなぞった前例踏襲全開だったため、変容しつつある時代の動きに全く対応しきれず、却って反発や不満を増大させるという亡国コースまっしぐらな状態だった。

そんな日々に加え生来病弱気味だったことから限界を感じたのか、24歳の時に執権を引退・出家する。
……が、この時子どもは生まれたばかり(どんなに見積もっても2歳、下手すると生後3ヶ月程度)であり、次期執権を巡る問題が当然勃発。
高時の子供への継承を企図する御内人の長崎氏と、高時の弟を執権に就けんとする北条家外戚にして御家人・安達氏*7とで揉めに揉める事になった(詳細は後述)。

……この時点で、執権および得宗の権威は落ちるところまで落ちていた。
そんな状況下での悪手の一つが、先の倒幕計画を企図した後醍醐天皇への対応だった。
朝廷による倒幕計画自体は幕府初期にも起きていたが、当世において高時らは「一度捕縛した天皇を『事実上の無罪放免』に処する」形で決着させた。
義時が聞いたら「お前は何をやってるんだ」と真顔になりそうなくらい緩い処断である。

これは幕府側に前例踏襲を繰り返す政治体制が染みついた事による「現実と将来への見通しの甘さ」、ひいては「面倒事はさっさと話を終わらせよう」という弱腰全開の判断に基づく対処だった。
積もり積もった弱点をさらけ出す格好になった幕府に対し、後醍醐天皇は1331年に造反勢力の楠木(くすのき)正成(まさしげ)と共に挙兵する……が、流石にこれ以上野放しにするのはヤバいと感じた高時が、圧倒的兵力を以ってこれを鎮圧。
後醍醐天皇を隠岐島に配流してケリを着けた。

が、これもよく考えると、過去の『承久の乱』での処断と同じ、つまり前例踏襲
現在の情勢は鎌倉初期と全く異なっており、「天皇を追い出せば事は片付く」という判断は、情勢の読みの甘さをモロに露呈していた。
それを裏付けるように、天皇と共謀していた楠木正成は逃走し抵抗活動を継続。
寡兵ながらゲリラ戦や投石戦法などあらゆる戦法を以って抗戦を続け、高時配下の幕府軍は翻弄されっぱなしとなる。

これが各地での反幕・倒幕気運を高める格好になり、ダメ押しとばかりに(懲りない)後醍醐天皇が1333年に島を脱出し再度挙兵。
これには高時も本腰を上げ、後醍醐天皇討伐を目的とした軍の派兵を決定。
「打倒天皇」という大看板を背負う司令官の一人として、源氏一族の血脈を有する有力御家人・足利高氏を選んだ。

……そう、歴史研究家をして「支離滅裂」と断じられる程行動が行き当たりばったり、ぶっちゃけその場のライブ感とカリスマ性だけで生きてきたと評される、中世屈指にして日本史上でも随一の「わけがわからない」人物――後に名を変え「足利尊氏」と称する男・高氏を選んだ。
選んでしまった。
そしてこれが、最大の致命傷になった。

最初の内は普通に進軍していた高氏だったが、途中で「父親の法要期間中だったのに出兵させれられたから、鎌倉裏切るわ(唐突)」と叛意を決め、密かに後醍醐天皇と接触。
共に随行していた武将・北条高家が敗死したタイミングで決起し、西国の反鎌倉勢力を糾合して六波羅探題を制圧。
これによって鎌倉は完全に西国・朝廷への対処能力を喪失してしまう

そしてトドメの一撃は、上野国(現在の群馬県)の武将・新田(にった)義貞(よしさだ)が挙兵したことだった。
こっちの挙兵理由は(高氏と違って)まともであり、当時反乱勢力を制圧するための軍事費がかさみにかさんだ幕府が、新田家の所領一帯へ莫大な額の徴税を短期間で求めた事にある。
これに激怒した義貞が徴税に来た役人を殺害した事で関係が致命的になり、後醍醐天皇の挙兵・六波羅探題の陥落も後押しになり決起するに至った。
鎌倉に近いエリアでの反乱に加え、楠木を始めとした既出の反抗勢力への対処で手薄になっていた鎌倉に、新田らを迎撃・鎮圧出来るだけの勢力は残されていなかった。

高時ら北条軍の抵抗も虚しく、新田ら反乱軍は進軍し鎌倉市街に侵攻。
最終的に北条一族は菩提寺である東勝寺にこもり、そこで高時含め全員が自刃し果てた(享年31歳)。
高時の死を以って北条一族は事実上の滅亡、そして鎌倉幕府もその歴史に終止符を打つ事になった。


・十五代執権:北条貞顕(さだあき)

 〈在職期間:1326年〉
  〈在期中の将軍:守邦親王〉

金沢(かねさわ)流北条氏*8の当主。
基時の執権就任に伴い連署に就き、次代の高時の補佐も引き続き行っていた。
病気による高時の執権辞任時は、貞顕も一緒に引退・出家する気満々だったのだが、通算5回に渡る出家の要望を引き留められてしまう。
これは高時の子への権力移譲に向けた御内人・長崎(ながさき)高資(たかすけ)の判断であり、(毎度おなじみの)後継者が成長するまでの中継ぎ人事を企図してのものだった。
そして慰留から数日後、執権に就く事が決まった貞顕はまさかの棚ぼた事案に大喜びしていたとの事。

が、この人事に高時の弟・泰家(やすいえ)が出家という形で反発。これに連鎖して泰家及び安達氏側の御家人たちもこぞって出家し出す事態が発生。
貞顕の執権就任なんて祝う者はいない」と暗に示すこの状況は風聞を呼び「貞顕は暗殺されるのでは」なんて疑惑まで浮上する始末。
完全に追い詰められた貞顕は出家を宣言し、今度はアッサリ受理され辞職。就任から辞職まで都合10日余りという超最短記録を打ち立てた(通称:嘉暦(かりゃく)の騒動)。

以後は息子たちの栄達を祈りながらの日々を送るが、新田義貞の挙兵に伴い応戦するも劣勢となり、息子を含め一族の多くを失う事に。
その後は高時と共に東勝寺にこもり、自刃して果てる事となった。


・十六代執権:北条守時(もりとき)

 〈在職期間:1326年~1333年〉
  〈在期中の将軍:守邦親王〉

六代執権・長時の曾孫。赤橋流北条家出身。
鎌倉幕府最後の執権

貞顕の就任から辞職までのゴタゴタ騒ぎの結果、「就いたらどんな突き上げや反逆喰らうかわかったもんじゃない」という恐れが生じ、北条一族の誰も執権に為りたがらないという異常事態が発生。
最終的に当時引付衆(現代で言うところの裁判官的ポジション)の一番トップに居た守時に白羽の矢が立った。

当然というか、政治は得宗の高時及び側近の長崎高資が主導し、彼に権限的なモノは無し。
しかも足利高氏の決起が(色んな意味で)追い打ちをかけた。

というのも、高氏の正室・登子(とうし)と守時は兄妹であり、彼から見て高氏は義弟に当たる。
オマケに高氏が出陣した時点で、彼女とその子・千寿王(せんじゅおう)*9は鎌倉に居たのだが、高氏の決起直後に同地を脱出してのけた。
つまり「義弟は大反乱起こす」「その義弟との交渉材料(人質)となる妹と嫡男には逃げられる」のダブルパンチ
彼らと姻戚関係にあった守時の立場は一気に悪化した*10

裏切り者ではないかとすら噂される状況を払拭すべく、守時は新田義貞率いる反乱軍への先鋒として出陣。
先陣を切って新田軍に応戦し奮戦するも、戦力差を覆す事は出来ず、最後は自刃した。


・十七代執権?:北条貞将(さだゆき)

 〈在職期間:1333年旧暦5月22日?〉
  〈在期中の将軍:守邦親王〉

15代執権・北条貞顕の嫡男。
「いやさっき『最後の執権』って書いたやん」と思われるかもだが、実は後世の研究で彼こそ最後の執権ではないか、という説が浮上している。
ただしその期間は、僅か1日足らず
任命されたタイミングから死亡までにほとんど時間差が無いため、下手をすれば数時間も無いという歴代最短記録保持者である。

元々六波羅探題や引付衆といった幕府要職を歴任していたが、新田義貞の挙兵に対し幕府軍として出陣。
抗しきれず撤退こそしたが即座に軍の再編成を行い防衛戦を指揮するなど、劣勢下にあっても奮戦を続けていた。
だが自身も手勢も限界を迎えつつあり、やがて貞将は東勝寺に籠る高時の元に「最後の挨拶」に赴く。
そこで高時からその忠義ぶりを賞賛され、恩賞を与えられた貞将は「良い冥土への土産ができた」と応えて寺を去り、新田軍への突撃を敢行。
壮絶な討ち死にを遂げるのだった。

そんな彼の執権就任説の論拠には、この最後の挨拶時に高時から与えられたという『恩賞』にある。
軍記物の一つ『太平記』において、貞将はこの時「六波羅探題職と相模国守護職を与えられた」とあるのだが、この時点の貞将は引付衆のトップに座しており、その前には六波羅探題に就任もしていた。
恩賞を授けるならば「今よりも高い地位」が当たり前な以上、六波羅探題という「過去の役職」を授けると言うのは考えにくい。
一方で相模国守護職は代々執権に就いた者が歴任していたという経緯があり、さらにこの数日前に守時が死亡し執権が空席となっていた点などから、高時は貞将に執権の地位を事実上与えたのではないか……という話である。

もっとも、この時点で鎌倉幕府&北条一族は滅亡まで(比喩抜きで)秒読み段階な手前、就任したからといってどうにかなった訳もない、と思う人も居るだろう。
だが、(内容がなんであれ)最早滅びしか見えない主君からの恩賞に、最後まで抗戦する事で応えたという事実は、貞将が鎌倉、そして北条に対し強い忠誠を誓っていた事の裏返しであろう。



◆番外

・北条時行(ときゆき)

十四代執権・高時の次男にして、北条一族最後の当主(得宗)に相当する人物のため、ここに記する。

父を含めた北条一族が軒並み東勝寺にて自刃した中、彼だけは北条家の家臣である諏訪(すわ)頼重(よりしげ)*11によって鎌倉から脱出。
そのまま信濃国諏訪郡(現在の長野県諏訪地域)へと逃れ、以後数年を諏訪氏を中心とする武士団「諏訪(すわ)神党(しんとう)」の庇護下にて過ごす事になる。

その間、倒幕を果たした後醍醐天皇は、朝廷及び天皇による政治体制の再構築を目指す政治改革「建武(けんむ)新政(しんせい)」に取り掛かるが、倒幕前夜からの日本各地における混乱を収拾させるには至らず、不満や反発の火種はくすぶっていた。
加えて滅亡した北条家が代々所管していたエリアの豪族・武士達はほとんどが建武政権下では冷遇、ないし参画の機会が無かった事も手伝って、各地で北条家関係者による反乱が頻発していた。

そこにきて1335年、京に潜伏していた北条高時の弟・泰家が後醍醐天皇暗殺を企図する事件が露見。泰家自身は遁走に成功し、各地の北条残党へ決起を呼びかけた。
これを受けて時行は頼重ら旧北条家家臣らと挙兵。破竹の勢いで進撃を進め、遂には当時鎌倉を管理していた足利(あしかが)直義(ただよし)を打倒し、同地を奪回してのけたのだった。

……が、そんな時行に立ちはだかったのが、直義の兄・足利尊氏
鎌倉陥落の報を聞くや直ちに討伐軍を編成し進軍した尊氏の前に、時行ら反乱軍は抵抗しきれず敗走。頼重ら主要勢力の多くを失い、奪還から僅か20日余りで鎌倉から脱出。
後に「中先代(なかせんだい)の乱*12と呼ばれる軍事行動は終結し、時行は再び雌伏の期間へと入る事になった。

だがこの尊氏による迎撃は、後醍醐天皇の許可を得ないうちに独断で行われたものであり、おまけに戦後の恩賞配分まで勝手におっ始めるなど、この争いを機に尊氏と後醍醐天皇の関係は悪化。
最終的に後醍醐天皇は新田義貞らへ尊氏討伐の命を下す。

この戦いは結果的に尊氏側の勝利となり、ここに「室町幕府」が開闢。
敗れた後醍醐天皇はその地位を、尊氏が擁立した光明(こうみょう)天皇に明け渡す事になったのだが、直後に京を脱出し南部の吉野(奈良県)へ向かうとそこで自身の皇位正当性を主張*13し、独自の朝(南朝)を開いた。
斯くして日本史上でも指折りの混乱期かつ歴史ドラマのネタにし辛い時代南北朝時代」がここに幕を開けるのだが、時行はここで後醍醐天皇に接触し、彼が開いた「南朝への帰順の意を表明。
鎌倉滅亡時に下された「朝敵」の扱いを免除されることになった。
時行から見れば後醍醐天皇も鎌倉の仇と言える存在故、この判断にどのような背景があるのかは研究者でも意見が分かれるところではあるが、兎も角時行は足利氏と戦う機会を再び得た。

そして1337年、奥州の北畠(きたばたけ)顕家(あきいえ)が京奪回を目指し進軍すると、伊豆国に潜伏していた時行も挙兵。
ここに新田義貞の子・義興(よしおき)も加わり一大勢力となった軍勢は、激戦の末に鎌倉を制圧
時行は再び同地に帰り着く。

その後、顕家と時行の連合軍は勢いそのままに京を目指して進行し着実に勝利を重ねたが、途中で損耗から京への進軍ルートを変更せざるを得なくなる。
だがここで転進先として南朝軍の総大将・新田義貞が居る越前国(福井県)でなく伊勢国(三重県)を選んだ事が仇となり、連戦の果てに大敗を喫し、顕家は戦死
結果南朝の主力が瓦解するという大打撃を被ってしまった。
が、時行はこの状況下でも生き残り、再び潜伏。一説では伊勢国に留まり同地で過ごしたとされている。

その後の南北朝騒乱は北朝優勢のまま小康状態にあったが、時を経て1352年。
室町幕府(というか足利一族)内部での政治闘争に端を発した全国的な騒乱(観応(かんのう)擾乱(じょうらん))を経て、再度南朝派が挙兵。
京都と鎌倉の同時奪還を目指し動き出した。
その後、新田義興・義宗兄弟率いる軍勢によって鎌倉は占拠されるのだが、その軍勢の中に時行の姿があった。
都合3度目となる鎌倉の奪還を、時行は果たしたのだ。


二度あることは三度ある、とはよく言ったもので、
新田兄弟による侵攻を前に鎌倉から脱出した足利尊氏が、再度軍を編成して反撃に転じた結果、時行はまたも鎌倉から逃れる事態となる。

そして、翌年の1353年旧暦5月20日。
父・高時の死と鎌倉幕府滅亡から、間もなく20年が経つその日。
足利の軍に捕らえられた時行は、鎌倉の龍口にて処刑された。


彼の死によって、北条得宗直系の血脈は完全に絶たれた。
一介の地方豪族から始まった栄達の歴史は、一介の豪族残党の死によって終わりを迎えたのだった。

……だが、一方で「時行は子孫を残していた」とする説も多い。
一時期潜伏していたとされる伊勢国や、幼少期を過ごした信州の諏訪国、更には熱田神宮の娘との間に子を成した、等々……
真相は定かならず、全ては歴史の果ての中ではあるが、
幼少期から始まり、幾度となく死線を潜り抜け生き延び続け、3度に渡る鎌倉奪還と敗走も切り抜けた生粋の「逃げ上手」ならば、あるいは……と、後世思われても然るべき人物であったのだろう。




そして、時を経て戦国時代。
北条得宗の血が途絶えて久しい世において、それでもなお「北条」の威光は残っていた。
そして、足利茶々丸を討ちその名を掲げる新たな氏族が関東に興り、戦乱の世を駆け抜けることになるのだが
それはまた、別の話――




追記・修正は北条一族の方々がお願いします。

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最終更新:2025年04月25日 19:44

*1 当時の慣習では「家督継承が発生した時点での正妻の子」が継承者となるケースが多かった

*2 大雪の夜、御家人の佐野源左衛門常世のところに旅僧がやってきた。佐野は僧のために秘蔵の梅・松・桜の鉢植を炉にくべてもてなし「今は落ちぶれているが、号令があれば「いざ鎌倉」とばかりに馳せ参じるつもりだ」と語った。その旅僧の正体こそ北条時頼であり、鎌倉に呼び出された佐野は雪の日の恩義と忠義を時頼に讃えられ、梅・松・桜に因んだ3つの荘園を貰い受けたという。諺「いざ鎌倉」の語源とされる。

*3 元によって侵攻された中国王朝・南宋出身の僧侶が当時渡来しており、元(というかモンゴル帝国)の「他国に対する価値観」のヤバさが伝播していたのが理由とされる。

*4 前者は「反得宗寄りであった2人が蒙古迎撃の前線基地となる九州で影響力を有していたため、迎撃に伴いその発言力が高まる事を危惧して」、後者は「長兄なのに得宗の座を幼少期から弟に奪われた事で反発心を持っていたため」時宗に排除対象とされた、というのが通説。

*5 大仏流は義時の弟・時房の子孫にあたる

*6 北条義時の三男・重時を祖とする分家

*7 貞時の時代に起きた「霜月騒動」で族滅された安達氏の分家

*8 北条義時の六男・実泰を祖とする分家

*9 後の室町幕府二代将軍・義詮

*10 付け加えると、脱出した千寿王はその後新田義貞と合流し、反鎌倉勢力が更に新田勢へ集まる切欠となっている。守時から見ればまさに踏んだり蹴ったりである。

*11 文献等では連れ出したのは「諏訪盛高」という人物とされているが、盛高と頼重は同一人物とも考えられているので一応頼重表記とする。

*12 先代(北条氏)と後代(足利氏)の間、という意味。

*13 簡単に言うと「私が皇位継承に必要な『三種の神器』を足利側へ引き渡したと皆思ってるだろうが、アレは偽物だ」と言い、それを根拠に光明天皇への皇位継承は不成立=自分が現在進行形で在位している、という理論。