征夷大将軍(鎌倉幕府)

登録日:2025/03/16 Sun 02:16:36
更新日:2025/04/20 Sun 17:35:48
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征夷大将軍とは、奈良時代に制定された官職の一つ。
律令制の中に規定が無く、各種の情勢に応じて新設・任命される「令外官」に該当する官職。
この項目では、源頼朝を初代とする鎌倉幕府の征夷大将軍について説明する。以降の征夷大将軍については

室町幕府はこちら→征夷大将軍(室町幕府)
江戸幕府はこちら→征夷大将軍(江戸幕府)


なお、当時は「鎌倉幕府」という呼称は使われておらず*1、当時の文献等では拠点とした「鎌倉」の地から鎌倉ないし「鎌倉殿」と呼ばれていた。
そしてその最高指導者に位置する人物(=征夷大将軍)もまた「鎌倉殿」と呼ばれていた。


◆前段―征夷大将軍の立ち位置―

役職自体は前述の通り古くから存在したが、頼朝就任の前と後、さらに言えば鎌倉時代以前と以降ではその意味合いが大きく異なる。
旧来では征夷大将軍は『朝廷の名の下に、蝦夷を征伐する軍の最高指揮官』という意味。

蝦夷とは現在の東北地方以遠の地域を指し、朝廷の本拠地が置かれた京とその周辺からは物理的に離れている事から、その影響力が及ばないエリアであった。
そこを征伐する――つまりは「朝廷の傘下に入らない勢力」に対して軍事進攻を仕掛ける際、その軍を指揮する司令官、といった存在だった。
あくまで「特別編成された軍隊の最高位」であって、重大な責務を負う立場ではあるが「政治的・権力的」な面で見ると、そこまで大それた立場でもない、という案配である。

が、この「権威はあるけど権力はさほどでもない」という役職を大幅に変容させたのが、源頼朝だった。
平安時代末期(1180年頃)の頼朝は、鎌倉を中心に関東近縁の豪族を支配下に置いており、その勢力は誰の目から見ても無視できない規模になっていた。
これは当時京と朝廷で権勢をほしいままにしていた平家一門に頼朝が反旗を翻した事で、同様に平家への反発意識があった地方豪族たちがその下に集結した事にある。
父が権力闘争に敗れた事で流罪になり、ロクな資産も手勢も持ち合わせていなかった頼朝だったが、元は平家と同等の家格を誇る源氏の嫡流。つまり「反平家の旗頭」にはうってつけ。
それを一番理解していた頼朝は、家格を種火とした各種政治工作を展開し、見事関東一円に大勢力を築き上げた。

一方朝廷との関係も良好であり、その意に従って対立勢力を討伐した活躍に応じて位階*2を授けられるなど順調だった。
……が、一方で頼朝は朝廷から「東国の徴税管理を正常化する」事を名目として、「東国一帯での行政権行使」の許可を取り付けるなど、着々と「自身を中心とした統治機構」の強化・確立を合法的に(●●●●)進めていった。

更に平家を壇ノ浦の戦いで滅ぼし、弟・義経の追討というフェーズを経て、
「地方では今だ騒乱が絶えないが、その都度いちいち関東から軍勢を派遣させるのは大変」
 ↓
「だからあらかじめ全国各所・各地域に、管理者となる武士を配置して統治させる」
 ↓
「治安維持と地方の管理の意味もあるから、そいつらには警察権や徴税権を与える」

といった論法で、全国への武士の配置――世に言う『守護・地頭』の設置を朝廷に要求。
朝廷にとっても地方の騒乱は年貢徴収にも悪影響を及ぼす以上、断る理由は無かった。

だがこれは「日本各地を『自分の配下』である武士たちに管理させる」こと、転じて全国各地へ自分の意に従う武士を派遣し、治安維持や徴税管理を建前に統治する事が可能という、実質的な全国統治を成立させる制度でもあった。
配下になる武士――御家(ごけ)(にん)にとっても「頼朝の指示に従う」という前提さえ気にしなければ、一定の領土が確保され内治は自分達の裁量が効く、というおいしい話。
『御恩と奉公』と呼ばれるこの互恵的関係の成立によって、頼朝は「関東一帯の事実上の直接支配」に続いて「全国への『自分の配下』たる武士の配置による間接的統治」を見事成立させるに至った。

そして、最後のダメ押しとして朝廷に要請したのが「自身の征夷大将軍への任官」であった。

この時点で頼朝は弟の義経、及びその後ろ盾になっていた奥州藤原氏も滅ぼしており、対立する勢力は事実上存在しなかった。

だがそれは言い換えれば「主だった騒乱の種が消えた」事、つまり今までそれを理由に看過されていた「東国含め日本各地の豪族・武士の統率」が根拠薄弱になりだした事でもあった。

そこに来て、征夷大将軍は先の通り「朝廷麾下の軍勢の最高指揮官」という役職。形式的とはいえ「全国の武士・豪族を事実上『自分の軍勢』として管理・運用できる」という特有の職権があった。
つまりこの役職は頼朝にとって「既存勢力を従前の理由以外で勢力下に置く」根拠となり、同時に今後出てくるであろう対立・反抗勢力に対しては「朝廷の下軍事を司る将軍に逆らう」=「朝廷への反逆」として扱い、攻め滅ぼす格好の口実となる。
自身の権力基盤の強化以後の統治体制の論拠、その2つを同時に確保できる事に繋がったのだ。

ついでにこの時点での頼朝の位階は「従二位」だったが、コレは朝廷における行政職の最高位「左大臣」に就く人物の位階。
これが逆説的に「征夷大将軍の職責・権威は左大臣クラスのそれと同等だ」というある種の「箔付け」としても作用し、結果『征夷大将軍』の性質は一変
「朝廷の軍勢の最高指揮官」から「全国の武士・豪族を指揮し、支配権も掌握した『武家の棟梁』」へ、一気にランクアップしてのけたのだった。

その後、頼朝が没してから数十年後。
朝廷に対して鎌倉幕府が真っ向から喧嘩し、完膚なきまでにボコボコにする」という事態を経て、「武士」という階層の在り方が「力があるだけの中・下層の存在」から「天下すら動かしうる厳然たる権力者」に変化した事で、彼らを統べる征夷大将軍の権威も変容。
「朝廷すらその意に抗えぬ、事実上の『日ノ本の最高権力者』」に跳ね上がった。
室町、そして江戸時代へと引き継がれ、以後の日本の歴史を大きく握る「征夷大将軍」という地位は、こうして確立されたのだった。



◆本章―鎌倉殿は全9人―

さて、そんな歴史上に大きな影響を与えた鎌倉幕府の将軍は、全部で9人存在するのだが、ぶっちゃけ、初代である頼朝以外は


影が薄い

めっちゃ影が薄い

猛烈に影が薄い

(大事な事なので3回言いました)


コレは頼朝以降鎌倉幕府における将軍の立ち位置・有り様が変容していった事に起因する。
創建時点での鎌倉幕府の政治体制は「将軍による直接的な裁可の下、政治が取り行われる」形態だった。
だが(後述するが)頼朝から数代にかけての将軍職の推移が急激かつ唐突、そして当の将軍自体は就任時若く経験不足、という事態が連発した。
一方、「最高指導者」が居なかろうが若かろうが、政治自体の遂行に一日の間を置く事も許されないのは、今も昔も同じ。
そうした事情(と血みどろの権力闘争の果て)に、頼朝の鎌倉創建に貢献した地方豪族・北条氏が「執権」として中心に立ち、その他の側近達と合議の上で政治的判断・裁可を下す体制が定着していった。

一見すると近代の議会制にも感じられるかもだが、これは裏を返せば「将軍が意思決定をしなくても政治の話は進む」という状況。
また、先にも触れたが頼朝以降の将軍はその多くが若年で就任した都合上、政治に口を出そうにも経験不足過ぎて何も言い出せず、成長したらしたで「今まで何にも言わなくても政治は廻っていった」事実がのしかかって、これまた何も言えない状況に陥ってしまった。
結果、代を重ねる程に「将軍が保有する影響力」が目減りしていく=権威がドンドン減衰した事で、わざわざ文献に記す程の話題・逸話も少なくなり、それに比例して歴史書などでも扱われることが無くなってしまったためである。




◆将軍総覧


・初代将軍:(みなもとの)頼朝(よりとも)

 〈在位:1192年~1199年〉

鎌倉幕府初代将軍
就任は1192年だが、統治機構としての「鎌倉幕府」設立は1185年頃と考えられており、組織の長としての在職期間は結構長い。

武家の頂点の家系「源氏」の一流・河内源氏家の嫡男であったが、1159年に父の義朝が平家との争いに敗北した事で伊豆国(現在の静岡県伊豆半島地域)に流罪となった。
その後、頼朝は同地の豪族・北条家の娘と婚姻関係を結び一応の後ろ盾を得るが、立ち位置は一地方武士のそれでしかなく、おまけに(たいらの)清盛(きよもり)率いる平家全盛の当時においては何の力も持たないに等しい状況だった。
だが1180年、時の最高権力者・後白河法皇(ごしらかわほうおう)の皇子・以仁王(もちひとおう)が、諸国の源氏へ平家追討の命を下した事が転機となる。

当初頼朝はこの命令には従わず静観を決め込み、以仁王も程なくして討たれて事態は決着したのだが、「全国の源氏へ『平家討伐の命』が下った」事は事実であり、各地で反平家の機運が急速に高まっていた。
これは伊豆国でくすぶっていた頼朝にとっては、蹶起を仕掛けるに足る最高の情勢であり、同時にここで動かないと逆に平家側が更なる源氏弾圧を仕掛ける可能性もあった。
ここに至って頼朝は挙兵を決意。
在地の武将・豪族を次々と味方に引き入れて勢力を拡大・復権し、蹶起からおよそ二か月余りで関東一帯を事実上の支配下に治めた。
その後、鎌倉を拠点とした史上初の武家政権樹立を果たし、同時に抵抗・対立勢力も軒並み倒していき、遂には宿敵たる平家一門を打倒・滅亡に追いやるまでに至った。

一般に冷酷、ないし猜疑心の強い人間だったとされており、実際自身に逆らう者は勿論、障害となりうる可能性がある者に対しても容赦が無かった。
これは貢献度の高い部下や血縁関係者であっても例外ではなく、その最たる例が、ご存知、弟の(みなもとの)義経(よしつね)との関係である。
義経の他にも、もう一人の弟だった源範頼を放逐したり(一説には暗殺までしたともされる)、猜疑心から御家人の平広常*3を誅殺したり、甲斐源氏の大物・武田信義を疑い、その長子を殺したり、所領の甲斐に攻め込んだりと、枚挙にいとまがない。

またその最期は、年明け早々に体調を崩しての急死(病死)であったのだが、当時から暗殺説だの平家や討伐した相手の呪いだのが囁かれた辺り、積み上げていた業の大きさは並ではなかった事が伺える。
記録書の吾妻鏡では式典の帰りに落馬のキズがもとで亡くなったと記載されているが、死去から数年経ってから書かれたものであり、はっきりしていない。
この辺の逸話と、自らが前線で戦う機会が少なかった事もあって(弟の義経とは対照的に)あまり好印象を抱かれない感じだが、歴史の大転換を起こす切欠となった稀代の英雄なのは紛れもない事実。
それまでの「天皇or上皇を頂点とし、朝廷が政治を取りしきる」のが当たり前の時代において、「武士階層を中心とする朝廷から独立した統治機構の創建」、「『御恩と奉公』の観点に基づく各地の武将(御家人)との主従関係の構築」など、政治家・統治者としては間違いなく当代無比の傑物

先述の征夷大将軍就任までの経緯も、既存の権威や制度を的確に利用し自身の権益強化を果たす一方で
  • 対朝廷:やたらと官職や地位を貰おうとせず(場合によっては辞退するなどして)表向きは謙虚に振る舞い好感を引き出す。
  • 対武士:土地という当時における最大の資産・財産の保証をカードに自身の配下へ引き込む。
など、対外折衝スキルも頭抜けている。

加えて、後に続く2つの幕府の創建者と比べた場合、両名共に一定の資産や配下を保持する家に生まれ、それをしっかり引き継いだ時点でスタートなのに対して、頼朝は流罪になった事で手勢も資産も実質ゼロ。事実上の無一文状態から始まっている。
それだけに「軽い神輿」と嫁ぎ先から思われていた節もあるが。かの「政子の後妻打ち」の過激な反応も、「飼い犬に手を噛まれた」がゆえの怒りなら納得がいくというか。
唯一の手札である「源氏の嫡流」という家格にしても、当時全盛を誇る平家に反逆した源氏の一門である以上、豪族たちから見れば「丁重には扱うけど親密にはなりたくない」という腫れ物扱いその物、手を誤れば自滅確定なカードである。
こんな絶望的極まりない環境から日本全域に届く支配体制を構築してのけたというのは、ひとえに彼の才覚が傑出していた事の裏返しであろう。
その影響は没後どころか鎌倉幕府滅亡後にも引き継がれ、「武家政権の最高地位は征夷大将軍である」という慣習が生まれたのも、他ならぬ頼朝の影響による。

また武芸についても「戦場で放った弓矢は百発百中」と記されているなど、実力自体は相当なモノだった事が伺える。
平安時代のモビルスーツとの血縁は伊達ではなかった*4

なお、3人いる各幕府初代将軍の共通点「一度大敗して命からがら逃げきっている」の始まりは(当然ながら)この人。
打倒平家を決めて決起した直後に、平家寄りの武将たちに強襲を受けて大負け
数日間の山中逃亡の末、伊豆から海を越えて安房国(現在の千葉県南部)へ脱出した。
が、そこで再度戦力集結を行い、結果大敗からわずかひと月余りで情勢を逆転し関東一園を平定してのけた辺り、流石と言える。


・二代将軍:源頼家(よりいえ)

 〈在位:1202年~1203年〉

頼朝と正室・政子の長男。
父の急死に伴い、弱冠18歳にして家督を継承。「鎌倉殿」に就任した。
ただし征夷大将軍に任官されたのはそれから3年後 *5だったため、任期に微妙な間が開く格好になっている。

が、鎌倉殿就任から程なく、幕府の意思決定を従来の「将軍による直接の裁可」から「側近13人の合議を踏まえた上での裁可」を主とする政治体制が発足すると頼家は反発。独自に側近を選出して対抗するなど、早くも内情がゴタゴタし出す。
……というか「最高権力者の頼家の意に沿わない政治体制の樹立」という時点で、鎌倉が権力闘争で大荒れ状態なのは言わずもがな。
さらに最側近として重用していた有力御家人・梶原景時を、他の家臣多数からの訴状を受けて追放せざるを得なくなるなど、権力基盤がふらついていく。

そうした事による疲労・心労によるものか、あるいは密かに毒でも盛られたか、1203年には体調を崩し、一時は危篤状態にまで陥ってしまうが、程なくして回復した。
……が、この危篤状態の間に、妻の実家であり自身の後見役でもあった「比企家」と、母の実家であり父の後ろ盾でもあった「北条家」の対立が激化。
結果策謀を巡らせた北条家によって比企一族は滅亡し、巻き添えを食って妻と長男まで死亡する事になった。

回復後に事態を知った頼家は激怒し、北条家の討伐を命じる……が、従う御家人は居なかったという。
実は比企滅亡と前後して、北条家及び鎌倉首脳陣は「頼家が病死したので次の将軍を選定したい」という通知を朝廷宛に送っていた。
どれだけ征夷大将軍に権力があっても、形式上は「朝廷から任官される」立場にある以上、そっち方面から手を回されては打てる手は無し。加えて当時は通信手段が手紙だけ、それも発送から送達まで圧倒的に日数を掛ける都合上、一度送られた文書を取り消すのは凄まじく困難である。
つまり頼家は、この時点で死んだも同然の扱い、どうあがいても将軍職を明け渡さざるを得ない「詰み」の状況にあったのだ。
御家人が従わなかった理由もそこにあり、結果頼家は問答無用で出家させられ、伊豆の修善寺へ押し込められてしまう。
事実上の幽閉の憂き目を見た頼家は、翌年に同地で死去。
その死に様も、「死の報が届いた」と簡潔に記す物から「暗殺された」と記す物まで様々。
人物評にしても「前例無視の裁可を下したり、部下の愛妾を取ろうとした」などと暗君と記すものもあれば、「武芸に通じた優秀な人物」と記すのもあったりとチグハグ感が目立つ。
これは「頼家追放に至る経緯を正当化するために暗愚に記している」「優秀な人物だったが、頼朝という絶大な支配者の後釜としては力不足だった」など、後世における評価研究でも意見が分かれる所。
「2代目は影が薄い」とか言われがちだが、頼家の場合は在位が短期間すぎる*6事に加え、あんまり過ぎる顛末も加味すると、むしろ「幸が薄い」といった方が適切かもしれない。*7


・三代将軍:源実朝(さねとも)

 〈在位:1203年~1219年〉

頼朝と正室・政子の次男。
兄の急病(とその間の謀略・謀殺合戦)の結果、12歳の若さで鎌倉殿及び征夷大将軍に就任。
兄より更に若年での就任だったため、就任後当面の間政治は祖父に当たる北条時政、及びその後継の北条義時が主導した。

このため、彼の業績は政治面より文化面での方が大きく、実際「小倉百人一首」を始め、和歌集に自身の歌が数多く入れられるなど、優秀な歌人として当時から知られていた。
一方で「夢の中で『自分の前世は宋(中国)の寺院の長老』というお告げを受けた」事を契機に宋への渡船計画を構想。巨大な船を建造させた……が、海に浮かばせる事すら叶わず、船は浜辺に野晒し、という事態を招いている。

こう書くと何か君主としてはダメな印象を抱きがちだが、なんだかんだで鎌倉源氏将軍として在任期間は最長である。
何より、彼の存在は朝廷からかなり重要視されていた、とも言われている。
何しろ「実朝」という名前自体が当代の上皇より名付けられたものであり、妻もその上皇の姪娘。更に官位の昇格スピードも破格で、最終的には「右大臣」という当時の武士階層としては異例の地位を朝廷から授けられる*8など、一目置かれていた事が読み解ける。

政治についても、御家人による謀反計画が露見した際、首謀者の親族から恩赦を求められると、親族の功労を踏まえた上で「赦免出来る者と出来ない者」をキッチリ分けた対処を取った記述が残っている。
また先述の渡宋計画も、失敗こそしたが国家規模の一大プロジェクトを主導・推進出来たのは事実であり、この点からも相応の権威・指導力を確立していたのは間違いないとされている。

……が、まさにその権威の象徴、右大臣就任の催事として鶴岡八幡宮に参拝した日。
先代将軍にして兄である頼家の遺児・公暁の襲撃を受け、暗殺されるというあまりにも悲劇的な最後を迎えてしまう。
公暁は当然誅殺されたし、その弟の禅暁も殺され、他の頼朝の親族も度重なる謀略・謀殺に巻き込まれて根絶やしにされてしまっていた。
そして実朝も子がなかった。*9
実は実朝は、そのあまりに急速な昇進を諫められたことがある*10。その際の返答が「源氏の正統はもはや縮まろうとしている。子孫が続くこともないだろう。せめて官職を高めて家名を挙げたい」だったという。古来より「言霊」という概念があることや、家を残してこそ武士という価値観からすると驚くべき放言であるが、一族が次々死に絶えていったことを含めて、実朝には先が読めていたのかもしれない*11
オマケに実朝の後任をめぐる騒動で朝幕関係が一気に悪化し、のちの大騒乱へと繋がるなど、皮肉にも当人の業績以上に、その死が鎌倉幕府、ひいては日本の歴史を大きく揺るがす事態の幕開けとなった。


・四代将軍:藤原(ふじわらの)頼経(よりつね)

 〈在位:1226年~1244年〉

ここから教科書では鎌倉幕府の将軍の存在が一切語られなくなるので、よほどの歴史好きじゃないと存在を認識していない可能性が高い
九条(くじょう)頼経とも呼ばれる。通称「摂家将軍」の第一号*12
実朝の没後、鎌倉側は上皇の皇子を実朝の後任に迎えられないかと打診したが、当の上皇がこれを拒絶。
すったもんだの末「両親が共に頼朝の同母姉妹・坊門姫の孫である=頼朝と僅かながら血縁関係がある」かつ「公家の中でも最高クラスの家系『摂関家*13の一つ『九条家』出身」である彼が選ばれる事になった。
ただし、選定された時点で頼経はわずか2歳あまりという幼児であったため、政治自体は実朝の代と同様に側近である義時、彼の没後はその嫡男・泰時が行う格好になった。
まあ「神輿は軽くてパーがいい」っていうしね

……が、その後彼が元服し征夷大将軍へ就任するまでの間、ある大騒乱によって朝幕関係が完全に逆転。
それを主導した義時・泰時ら側近の権威も大幅に向上した事で「鎌倉の政治は側近が取り仕切る」体制がすっかり定着。その存在はお飾り同然となり果ててしまった。

権威回復を図る頼経は、現体制への反感を抱く鎌倉御家人を糾合・同調する事で権力基盤の強化を図るも、当然ながら首脳陣とは対立する格好に。
オマケに同時期、朝廷を掌握していた実父・九条道家が幕政への干渉を進めてきた事から、その存在が鎌倉における危険因子とみなされてしまい、息子へ将軍職を移譲させられる(●●●●●)事になってしまった*14

その後も鎌倉には留まり勢力を保ち続けていたが、彼とその周辺勢力による幕府への反抗計画が露見。とうとう将軍辞任から2年後に京へ強制送還される(通称「宮騒動」)。
それでもへこたれる事無く、鎌倉への帰還を果たそうと在鎌倉の一部勢力と協調し続けたが、実る事はなく、京へ送られてから10年後に病で斃れた。

酷い話の連続にも思えるが、そもそも彼が将軍になれたのは「先々々代将軍(●●●●●●)の姉妹の末裔」という、当時は勿論現代感覚で見ても遠すぎる血縁に由来する以上、どうあがいても権威の背景が弱すぎた。
オマケに政治は側近である北条一族が長く取り仕切っており、幕府内のパワーバランスがすっかりそちらに寄ってしまった結果、自身が政治主導したり権威回復しようとすればするほど、幕府の現体制に揉めの種を生んで疎まれるという、最早どうしようもない状況。
こういう結末に至るのもやむを得ない……とも言えるかもしれない。

また、彼の正妻は頼家の娘、つまり源氏将軍直系で唯一の生き残りとなった竹御所であったが、第一子(男児)を死産の後本人も死去したため「頼朝の血統」そのものがここで断絶した

・五代将軍:藤原頼嗣(よりつぐ)

 〈在位:1244年~1252年〉

九条頼嗣とも。「摂家将軍」の第二号にして最後
父から譲られる形で、わずか6歳で将軍職に就くハメになった。
しかも父が京に追放されてもなお復権を図っていた事が仇となり、幕府は頼経とは別の血縁者を新将軍に据える事を決定。
就任から8年で将軍職を追われ、京へ追放された。
それから4年後、父の病没と同じ年に、彼もまた病に斃れる事になった。

彼を最後に「初代将軍・頼朝の縁者が将軍職に就く」という体裁というか建前体制は終わりを迎え、以後は更なる将軍職の形骸・傀儡化が固定化する事になる。


・六代将軍:宗尊(むねたか)親王(しんのう)

 〈在位:1252年~1266年〉

皇族から選ばれた将軍「宮将軍」の第一号。当代の上皇・後嵯峨(ごさが)上皇の第一皇子。
上皇からは相当可愛がられていたのだが、生母の出自が低い事から皇族としての将来に暗雲が立ち込めていたところへ、鎌倉側から新将軍の選定要請が飛び込んできて事態は一転。
皇子に相応の地位を与えたい上皇と、摂家将軍に変わる新たな人物を将軍に据えたい幕府の思惑が一致し、結果11歳にして新将軍となった。

こうなると将軍としての権限はもはや絶無であり、もっぱら和歌に打ち込んで歌会を開きまくっていたという。
もっとも、その結果鎌倉御家人から優秀な歌人が何人も誕生する事に繋がるなど、文化面では思わぬ功績を残した。

だが25歳になった頃、自身の正室が僧侶と密通していた事実が露見。更に同時期「歌会と称して人を集め、首脳陣の排除を目論んでいる」という噂が出回った事で、鎌倉首脳陣は将軍の解任・京への送還を決定。有無を言わさぬ形で鎌倉から追い出される格好になった。
とは言え、その際に生活基盤となる所領を幕府から献上されるなど、ある程度の配慮はされていた模様。
そのまま8年後に京で没した。


・七代将軍:惟康(これやす)親王

 〈在位:1266年~1289年〉

宗尊親王の嫡男。父の廃位に伴いわずか3歳で将軍となった。
宮将軍二号……なのだが、実は就任から4年後に臣籍降下(現代で言う「皇族離脱」)して「源」の姓を賜与されている。
このため在位期間の大半は「(みなもとの)惟康(これやす)」と称していた。
この対処は惟康親王のみのケースで、正確な理由は不明。
ただ、彼の就任直後、モンゴル帝国(元朝)からの使節団が来訪した事で、朝廷・幕府共に大陸からの脅威を警戒する空気が漂い始めていた。
このために将軍に源氏姓を持たせる事で初代将軍・頼朝の威光に肖り、対外への対処に向けて御家人・鎌倉全体を結束させようとしたのでは、とも考えられている。
……逆に言えば、当時の情勢でその有り様がコロコロ変えられる程、将軍に就いた者への扱いは「軽い」ものだった、とも取れるのだが。

そして後に元寇(蒙古襲来)が勃発した……のだが、相変わらず直接の対処は側近らが進め、彼自身がどうこうしたという史料は少ない。
そして、1287年に彼は親王宣下*15を受け、再び皇族に復帰する。
これは「皇族に戻すことで鎌倉からの追放をやり易くした」と見る意見もあるが、その当時の朝廷側の都合も多分にあったという。

実はこの時期、天皇の家系は主に2つの系統(大覚寺統(だいかくじとう)持明院統(じみょういんとう))に分かれており、それぞれから交互に天皇を選出・即位する「両統(りょうとう)迭立(てつりつ)」の状態が続いていた。
このため、両派は自系統の皇族を次期天皇へと推し、同時に相手の系統の天皇を速やかに追い落そうと躍起になっていた*16
そして惟康親王自身は父共々この両統から外れていたため、大覚寺統は彼らの自派への抱き込みを図って皇族復帰させ、逆に持明院統は自系統の皇子を次の将軍にする事で幕府との関係強化を図るべく追い落としを……とまあ、彼の立ち位置はとにかく情勢に左右されまくりであった*17

そして、親王宣下から2年後の1289年、(毎度おなじみ)幕府の意向で将軍職を外され、京へと送還。
その時の状況も、
  • まだ将軍とその従者が出立してないのに、御家人が土足で屋敷に入って片付け(というか解体作業)をおっ始める。
  • (むしろ)で覆われた粗雑極まりない御輿に乗せられる。
など、扱いも酷いものだったという。
一方で大病といった心身に直接纏わる不運とは縁遠かったらしく、亡くなったのは退任から37年後と、鎌倉幕府将軍の中ではもっとも長命であった。
……それで前半生における悲運っぷりと釣り合うかどうか、は微妙な話ではあるが。


・八代将軍:久明(ひさあき)親王

 〈在位:1289年~1308年〉

後深草(ごふかくさ)上皇の第六皇子。惟康親王とは従兄弟にあたり、入れ替わる格好で13歳で就任。
生母の出自の低さから親王宣下も受けられない立場にあったが、将軍に選ばれた事を契機に親王宣下を成した。
故に(もう言わずもがなだが)幕政における実権は絶無であり、鎌倉の歌壇の中心的存在として歌を詠み、幾つかの歌が勅撰和歌集に選ばれたりした。

……言い換えれば、彼の将軍としての功績(と言っていいのかは微妙だが)はそれくらいであり、1308年には幕府の意向で将軍職を解任。京へ送還された。
相変わらずぞんざいにも程がある話だが、先の宮将軍2人よりは幕府との関係は「マシ」だったらしく、1328年に没した際は鎌倉が弔意を示す対処を取っている。


・九代将軍:守邦(もりくに)親王

 〈在位:1308年~1333年〉

久明親王の子。
惟康親王の娘の子でもあり、父に代わって8歳で就任した。鎌倉幕府最後の将軍であり、在位期間も歴代最長。
……以上。


これは冗談抜きに「業績に関する資料がロクに残っていない」ため、将軍として何をやったのかがマジで分からない事が理由。
この頃になると、将軍の権威はお飾りにすらなっていなかったらしく、しかもそれは幕府・朝廷どちらも周知の事実であった。
現に後醍醐(ごだいご)天皇が倒幕運動を企図した際、討伐対象として側近の北条一族を並べた一方で将軍の名は挙げられていなかったという。
つまり、打倒・幕府を掲げる側からですら、その幕府の最高指導者であるハズの将軍・守邦親王は視界にすら入れられずガン無視されていたのだ。

そして1333年、足利(あしかが)高氏(たかうじ)を筆頭とした反幕府勢力の攻勢を受け、北条一族は滅亡。鎌倉幕府はその歴史に終止符を打つことになった……のだが、その時の守邦親王の動向すら「将軍を辞して出家した」という事ぐらいしか分かっておらず、更にその3ヶ月後に死亡した際の状況についてもロクにわかっていない。
何もかもが不明瞭、鎌倉幕府の将軍の有り様の局地。
その地位に反して歴史の影に埋もれていった人物、と言える。




◆番外

(みなもとの)義仲(よしなか)


平安時代末期、頼朝と同時期を生きた人物。今日においては「木曾(きそ)義仲」の名前でも知られている。
歴史書などでは「征夷大将軍に任命された」と記されている事も多いが、近年これは間違いで、彼が任じられのは「()大将軍」であった、という論が主流。
職務自体は征夷大将軍とほぼ同質につき、ここに記述する。

彼もまた源氏の一門に連なる人物であり、頼朝の挙兵と同様の経緯で木曽国(現在の長野県木曽)にて決起。
破竹の勢いで進撃し、平家一門を京から追い出し入京する事に成功した。
だが、追放された平家が当代の天皇を連れ去った事で、その命運は変わり出す。

朝廷は連れ去られた安徳天皇(あんとくてんのう)(当時5歳)に代わる新たな天皇を選出しようとしたが、ここで義仲は自身が決起する要因となった以仁王の遺児・北陸宮(ほくろくのみや)を即位させるべきと主張した。
というのも、北陸宮は父の敗死後、逃走の末に義仲の庇護下に置かれており、義仲は彼の存在を旗印として京へ進軍した経緯があった。
義仲から見れば「以仁王の命(及び北陸宮の存在)が無ければ自分達は進軍しなかった」事実に加え、安徳天皇に至るまでの数代の皇位継承の経緯に平家が大きく関与・干渉していた点などから、北陸宮の即位主張は当然の意見であった。

が、この要望は通らず、最終的に安徳天皇の弟が次代の天皇に選出された。
そもそも以仁王には生前の時点で皇位継承可能な立ち位置におらず、加えて当時京には安徳天皇の弟が二人いたため、継承順位的に北陸宮が即位できる可能性はほぼゼロであった。
オマケに当時は「皇位継承は皇族・公家が取り仕切る」というのが慣例であり、義仲の主張はそれを無視した格好となり、朝廷関係者からの嫌悪・孤立化を招いてしまう*18
更に京一帯の治安回復に手間取るばかりか、自軍の統制を取り切れずにむしろ悪化させてしまった*19事で更に信用を失ってしまうのだった。

挽回すべく、義仲は西国へ逃げた平家の追撃に打って出るも、その隙に頼朝が朝廷と交渉して東国の支配権を確保したばかりか、その直参として義経率いる頼朝の軍が入京してくると知ると大反発
踵を返して京に戻り、頼朝の軍に対抗する意思を示すが、既に朝廷にとって彼は「切り捨てるべき目障りな存在」に成り果てており「西に進軍して平家を討て。そうでなく頼朝軍と矛を交えるというなら叛逆者と見做す」と最後通牒を突きつけられる。

これに抵抗した義仲は、最高権力者である後白河法皇(ごしらかわほうおう)の御所を襲撃するという強硬策に出る。
この計画は成功し、法皇を幽閉し一時は朝廷を事実上制圧。その後自らに「征東大将軍」の官位を与えさせることで形式的には自身を官軍として扱い、打倒頼朝を果たそうとした。
……が、こんな強引すぎる策に追随する者は少なく、義経率いる頼朝軍を前に大敗。
僅かな手勢と共に逃走するも、最終的に討ち取られた。

武勇・軍略に長けた人物ではあったが、快進撃の結果急成長した自軍の統制が出来なかった事に加え、当時の朝廷のしきたり・常識に疎かった*20事が災いし、結果的に身を滅ぼす事になった。


北条(ほうじょう)政子(まさこ)

初代将軍・頼朝の正室。頼家と実朝の実母でもある。
伊豆国の豪族・北条時政の娘。
後述する理由から「将軍に相当する地位にあった」人物につき、ここに記述する。

鎌倉幕府の始まりは、彼女が頼朝と婚姻関係を結んだ事に端を発する。
在地の豪族・北条家の娘との婚姻を契機に、頼朝は同地における後ろ盾を確保。以後の権益拡大へ繋がる足掛かりを得た。
その後、勢力の増大や鎌倉幕府の設立などで「鎌倉殿」の権益が強化されていくに従って、彼女もまた「地方豪族の田舎娘」から「将軍・鎌倉殿の正室」として高い権威・権力を獲得していく事になる。

夫の没後は出家し尼僧となるも「鎌倉を創建した英雄の妻」「2人の将軍の母」という影響力はかなりのもので、以後も鎌倉中枢で政治に関与していた。
実際、実朝の代において、まだ彼が幼かった時期には彼女が御家人へ恩賞を下すなど、ある意味将軍に比肩しうる権威を誇っていた。
そして実朝の後任として当時2歳の頼経に将軍職が回ってきた際は、その後見・代行として事実上の将軍の地位に立った。このため付いた異名が「尼将軍」。
実際その権威と影響力はまさしく将軍のそれに近く、特に同時期に勃発した騒乱「承久の乱」に際して、去就に迷う御家人達に彼女が聞かせた演説とその効果は、日本史を学んだ人なら誰もが知る有名な話である。
以後、1225年に亡くなるまでの間、幕府における最高権威としてあり続け、鎌倉の体制確立に大きな貢献を果たした。

一方で積極的に政治に関わり、時には後ろ暗い策謀にも関与したその姿勢は、後世に於いては「悪女」として扱われる事もあったりと、毀誉褒貶が激しい人物でもある。
また、結構嫉妬深いというか夫の浮気癖・女好きっぷりには苛烈な対処を(浮気相手の女性に対して)取ってたらしく、有名な話として
  • 夫が他の女と密会(しかも自分が妊娠→出産してる間)してる事を知り、ブチギレて女の住む屋敷を破壊するよう命じる*21
  • 頼朝の子を別の女性が産んだ際、それを知ったら政子が大激怒すると恐れた頼朝の意向で子供(男児)は人目を隠す様に扱われ*22、「将軍直系の男子」とは事実上見なされなかった。
……とまぁ、世の妻子持つ男性諸氏にしてみればなんともおっかないエピソードは多い*23

一方で御家人から強い尊崇の念を抱かれていた=それだけの信頼関係を築ける人間性を持っていたのも事実な上、次男である実朝の暗殺時には悲嘆に暮れる心情が文献に残されるなど、苛烈な面だけが彼女の本質ではない。
先述した「悪女」イメージも、過激なエピソードが大きく語られた事や、価値観が鎌倉時代から変容した後世の基準で歴史研究が成された事も一因と言える*24

余談だが、「頼朝の正室であった北条一族の女性」の名前が「北条政子」であった事を示す史料は現時点で存在しない
そもそも「政子」という名前は、彼女が朝廷から官位を賜わる際、文書にその存在を記すために授けられた呼称*25ものであり、出生時に与えられる「本名」については文献に記載がない*26
これは当時、本名((いみな))を直接呼んだり文書に記す事を忌避する文化があったためで、「頼朝の正室」についてはもっぱら「御台所」「尼御台」といった尊称・通称で記されていた。
実家の名字「北条」を名乗る事に至っては、当時の姓名などの仕様や社会通念上更に考え辛く、こっちも後世において「名称不明の頼朝の正室」の指す際に「北条家出身である」事を明記するためにつけられ、それが一般化されていったものとされている。




追記修正は、本当の鎌倉の支配者の方々にお願いします。

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……さて、
ここまで読んだ諸氏におかれては、必然的に1つの疑問が浮かぶ事だろう。
鎌倉幕府において、征夷大将軍という存在は、頼朝から代を重ねる毎にその権威は失われ、政治上の実権は無いに等しいものと化していった。
では、そんな鎌倉において実際に政治を取り仕切った者たちは、一体誰なのか? と。

そう、征夷大将軍なぞ偽りの君主、武家の棟梁など虚飾の玉座。
其は、鎌倉を真に統べる者、日の本の武士を支配下に治め、朝廷すらその意には抗いきれぬ力を得た者。
以後の室町・戦国・江戸時代にまで続く、武家による日本の支配を確立させた者。




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最終更新:2025年04月20日 17:35

*1 使われだしたのは江戸幕府から

*2 正〇位、従〇位などの、征夷大将軍のような「官職(職業的地位)」とは別に朝廷・国家から授けられる等級であり、当人の各種業績に応じて与えられるモノ

*3 頼朝の挙兵に呼応しその下へ集まった豪族の一人。当時の鎌倉内では最大規模の軍勢を保有していた。

*4 頼朝の父・義朝は為朝の弟。つまり頼朝・義経から見て為朝は伯父にあたる。

*5 「鎌倉殿」は「鎌倉幕府の最高権力者」であり、征夷大将軍と密接に結びついてはいるが完全に一致する、というわけでも無かった。

*6 「鎌倉殿」として見ても5年にも満たず、将軍職に至っては1年程しか就いていない。

*7 同じく2代目将軍である足利義詮と徳川秀忠は影が薄いし致命的なミスをしたこともあるが、幕府の地盤を固めた概ね優秀な将軍であると評価されている

*8 幕府の創立者であり平家討伐など様々な実績を持つ父・頼朝すら凌いでいる。平清盛は武士から太政大臣になっているが、当時の平氏を武家と見るべきか公家と見るべきかは見解が分かれるところである。

*9 そのせいもあって、政子が取り計らって公暁を実朝の猶子…義理の息子扱いにしたのに、この結末である。ホント、この時代の鎌倉は地獄…

*10 これ自体、実朝があまりにも朝廷と仲良くなって「鎌倉武士の代表」から「朝廷の一員」になりつつあったことを牽制した政治的な動きであったという意見もある。

*11 一説では男色の気が強かったため、ともされるが、当時そういう嗜好は割と普通で、それでも多くの家は後嗣を残しているので、実朝に子ができない説明にはならない。

*12 なお、頼朝・頼家・実朝の3名は「源氏将軍」と称される。

*13 朝廷において、摂政・関白への被任命権を有する5つの家系の事。

*14 鎌倉時代を記す文献『吾妻鏡』では本人の意向とされているが、状況的に見れば「強制的に移譲させられた」のが妥当、というのが通説である。

*15 簡単に言うと「皇位継承権が与えられる」事

*16 なんでこんな事になったかというと、1272年に後嵯峨上皇が没した際、2人いた後継者候補の内どちらを正式な「治天の君(政務の実権を持つ者)」にするか明言せず、その一方で「次の『治天の君』は鎌倉幕府の意向に従え」と遺した事で大悶着が勃発。二者とその血縁系統間で大きな分断が生じ、やがて幕府が「以降の天皇・治天は両系統から交互に出す」という決定を下した事で完全に分かたれる事になったため。

*17 先述の臣籍降下も、背景にはこの皇位継承をめぐる対立があったという説もあるレベル。

*18 そもそも「以仁王による平家討伐の命」自体、当時の朝廷から見ると看過し得ない要因があったため、義仲の入京時点で以仁王への朝廷関係者からの心象は悪かった。そこへ以仁王をヨイショする発言をしたらどうなるかは火を見るよりも明らかである

*19 義仲の軍は大半が京への進軍過程で吸収していった「寄せ集め」の状態だった事に加え、数年前の飢饉で食糧事情が最悪な京に大軍で居座った結果、食糧を求めた自軍の一部が略奪行為に及ぶという事態を招いた。

*20 同じ源氏でも、頼朝は若い頃に在京経験があり、人脈もあったためにその手の知識は保有していたが、義仲は信濃国(現在の長野県)で育った結果、そういった事にはかなり疎かったと考えられている。

*21 なお、この屋敷自体はその女性のモノではなく、頼朝の指示で住まわせていた家臣の家。とばっちりにも程がある

*22 なお、結局バレた結果、存在隠匿に関わった家臣が処罰された。だからとばっちりにも程がある

*23 もっとも、彼女の出自がどう足掻いても低い以上「頼朝の後継者の生母」という絶対的な立場の確保は死活問題であるのだから、こういった反応もやむなしとは言えるのだが。

*24 日本人の多くは「武士の家では基本男が物事を主導・決定し、女性は口出し出来ない立場だった」と認識しがちだが、この感覚は江戸時代以降に出来上がったもので、それ以前、特に政子の生きた鎌倉時代では普通に女性も家の事情に介在したり、家長たる夫が死んだ場合、息子は勿論妻及び娘にも夫の土地や財産の相続権が認められたりしていた。

*25 父・北条時政から一字取って「政子」。こうした名称は官位を受ける際に名乗る・授けるのが一般的で、生まれた時から名乗っていた可能性は限りなく低い。

*26 曽我物語には記載があるが、そもそも史書ではなく軍記物語なので、信憑性で言えば太平記と大差ない。