登録日:2021/12/17 Fri 04:54:21
更新日:2024/11/25 Mon 15:16:04
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さようならマルゼンスキー
語り継ごうおまえの強さを。
讃えよう君の闘志を。
1978年1月15日 東京競馬場スタンドに掲げられた横断幕より
マルゼンスキーとは、
日本の元
競走馬・種牡馬。
いわゆる「持込馬」であり、当時の規定によってクラシック三冠などのレースには出られなかったが、
その圧倒的強さから「
スーパーカー」の異名を取った優駿として知られ、種牡馬としても成功を収めた。
【データ】
誕生:1974年5月19日
死亡:1997年8月21日
父:ニジンスキー
母:シル
母父:バックパサー
調教師:本郷重彦
生産者、馬主:橋本善吉
産地:早来町
セリ取引価格:30万ドル
獲得賞金:7660万1000円
通算成績:8戦8勝 [8-0-0-0]
主な勝鞍:76'朝日杯3歳S
【誕生】
1974年5月19日、
北海道早来町(現安平町)の橋本牧場に生まれる。
父は
ノーザンダンサー産駒初期の最高傑作にして35年ぶりの英国クラシック三冠を無敗で達成したニジンスキー。母シルの父は
アメリカで31戦25勝のレジェンドホース・バックパサーという超良血に生まれる。
オーナーの橋本善吉氏は当時牛の仲買人をしており、かねてより競走馬生産への意欲を示していたところに運良く勤め先であった農協のアメリカへの研修旅行に欠員が出たことで参加を決意。
希望者のみのオプションであったキーンランドのセリ会場で、後にマルゼンスキーの調教師となる本郷重彦と出会う。本郷師はシルを絶賛し、橋本氏も繁殖牛の知識しかなかったが、
「母親として優秀な体型は人も牛も馬も同じだろう」
と考え、既に身籠っていたシルをフランスの調教師との競り合いの末30万ドルで落札。
なおこのシルの競りには社台グループ総帥である吉田善哉氏も参加していたが、25万ドルのあたりで降りていた。
こうしてシルを競り落とした橋本氏だが、保険やら手数料やらでさらにコストがかさみ、日本に到着するころには1億2000万円にもなっていたそうな。
さらにアメリカの酪農誌からは「ウシ屋がとてつもなく高い馬を買っていった。どうやら気が違ったようだ」と評される始末。その高い馬が後にとんでもないことを起こそうとはよもや誰が思うだろうか
そうして日本にやってきたシルが出産した牡馬に、橋本氏は屋号「丸善」とニジンスキーの名を取って「マルゼンスキー」と命名。
ニジンスキーの仔としてデビュー前から注目を集めた……が、同じニジンスキー産駒がデビュー戦で惨敗して勝手にガッカリされたりした。
なお誕生後、アメリカでシルのセリから途中で降りた吉田善哉氏が息子の勝己氏を連れて「庭を見せてもらいに来た」と言ってマルゼンスキーを見に来ていたとか。
【戦歴】
1976年にデビューしたマルゼンスキーは新馬・特別・府中3歳ステークス(現GⅡ 東京スポーツ杯2歳ステークス)と順調に勝利を重ね、朝日杯3歳ステークス(現GⅠ 朝日杯フューチュリティステークス)も快勝。
堂々と1977年クラシック世代のトップに…はならなかった。
上述の通り生産はアメリカだったが、マルゼンスキー自身は母親の胎内にいる状態で日本にやってきて産まれた「持込馬」である。
しかし当時「持込馬」は外国産馬の扱いであり、加えて現在よりも外国産馬に対する制限が強く、
日本ダービーを含むクラシック三冠や天皇賞といった今で言うGⅠ級の権威あるレースの大半には出走すらできなかった。
そして出走できる数少ないレースでさえ、その強さに恐れをなした他の陣営が出走を回避し、競走不成立になりかけたこともあった。
しかもタイムオーバーのルールを避ける意味合いもあり、マルゼンスキーは強すぎて相手にされなかったのである。
一貫して主戦騎手だった中野渡清一氏は「日本ダービーに出させてほしい。枠順は大外でいい。他の馬の邪魔は一切しない。賞金もいらない。この馬の能力を確かめるだけでいい」と話すほどであったが、結局マルゼンスキーが日本ダービーを走ることは叶わず、陣営は裁判も検討したが断念。
これを受けてJRAも緩和策を打ち出したが、今度は競走馬の生産者団体が猛反発。緩和策は白紙撤回にされた。
生産者団体の猛反発には「マルゼンスキーほど強い外国産馬を大きなレースに出場させてしまえば国内産馬の価値が下落する」という大きな理由がある。
要するに、外国産馬の解禁を認めてしまうと「『勝ち(稼ぎ)たかったら外国から馬連れてくりゃいいじゃん』になってしまう」ということである。
そうなれば生産者の商売上がったりというのは当然として、日本の馬産が衰退するのは日本競馬そのものにとっても大問題。
実際マルゼンスキーに手も足も出ず、4年後に開催された第1回ジャパンカップでは遠征してきたGⅠクラス未満の海外馬にすら蹂躙されたことを鑑みれば、賢明な判断だったと言っていいだろう。
後に、海外から優秀な種牡馬を購入するなどして順調に進んだ日本競馬のレベルアップにより、外国産馬の流入を恐れる必要がなくなっていったことで徐々に制限が緩和され、2007年には欧米と同等のパート1国への昇格を果たしたことで完全解禁へと進んでいったのである。
ダービー出走が叶わなかった陣営は「残念ダービー」とも呼ばれていた日本短波賞(現GⅢ ラジオNIKKEI賞)に出走。マルゼンスキーの雄姿を見ようと中山競馬場に8万人の観客が押し寄せるなか、後に菊花賞を獲ることになる2着プレストウコウに7馬身差をつけての圧勝。
この時、第3コーナーで謎の失速をし後続に詰め寄られる場面もあったが、鞭を入れると急加速。最後の直線を独走するなど、格の違いを見せつけた。この「レース途中に失速、再加速してからぶっちぎりで勝利」という勝ち方から「日本競馬史上唯一、重賞を遊んで大楽勝した馬」との評価もなされている。
さらに札幌競馬場の短距離ステークス。デビュー以来初となるダート戦かつ1200m。さらに重賞勝利経験もある古馬も交えたレース。
そこでマルゼンスキーは10馬身差の大勝を収める。10馬身差、新馬戦ならともかくとして、一般的な中央ダートの短距離ではまずお目にかかれない着差である。当然レコードタイムでの勝利。
次に陣営は外国産馬も出走可能な年末のグランプリ・有馬記念へ向かうプランを発表。
ファン投票の結果も後に
TTGと呼ばれる一時代を築いた3頭、「流星の貴公子」
テンポイント・「天馬」トウショウボーイ・「緑の刺客」グリーングラスに次ぐ第4位に選ばれるなど、実力を示すための準備が整っていた。
しかし有馬記念を目前に控えた最終調教のさなか、一つ問題が起きた。
マルゼンスキーの脚の爆弾が爆発寸前だったのである。
実はマルゼンスキーは生まれつき前肢が外向きであり、また症状が年を経るごとに悪化する一方で、故障のリスクもあり強い調教ができなかったのである。そのハンデがありながらこの強さだったというのも恐ろしい話だが。
また騎手の中野渡氏は、騎乗中もスピードが出すぎて壊れてしまうのではないかという不安が常に付きまとっていたと語っている。
発症したのは屈腱炎。しかし幸いにも症状は比較的軽いもので有馬記念への出走も十分可能な状態と診断されたが、陣営は大事をとって出走を回避。また宝塚記念と有馬記念以外に出走できる目標レースもなかったことから、種牡馬となるべく引退。
通算戦績8戦8勝。各レースの2着との馬身差を足し合わせると61馬身。1戦あたり約7.6馬身差の計算になる。
ページ冒頭の一文は東京競馬場で執り行われた引退式の時に掲げられた横断幕のものである。
さようならマルゼンスキー。語り継ごうおまえの強さを。讃えよう君の闘志を
その無類の強さゆえか、21世紀現在で言うとGⅠ・GⅡ・GⅢそれぞれで一勝しかしていないにもかかわらず、1990年に
顕彰馬に選ばれている。
【引退後】
引退後は種牡馬入り。引退式でオーナーの善吉氏は
この馬は持込馬という宿命にあって、クラシックレースに出られなかったのは非常に残念ですけど、この鬱憤は子供たちで必ず晴らします。
クラシックを獲れるような馬を生産してファンの皆様に応えるべく頑張りますから、よろしく応援してください
とスピーチ。そして種牡馬入り後はそのスピーチの内容をほぼそのまま実現し、競走馬時代に走り切れなかった鬱憤を晴らすように種牡馬として活躍。
特に母父としての功績が非常に大きく、
ライスシャワー、スエヒロジョウオー、
ウイニングチケット、
メジロブライト、
スペシャルウィーク、プリモディーネ、メジロベイリーなどを輩出。
さらに母母父として
カレンチャン等を輩出しており、今日の競走馬の血統を遡っていくとそれなりの確率でマルゼンスキーの名前を見かけることになるだろう。
もちろん本馬の産駒も活躍し、自身が走れなかったクラシックの内菊花賞を1982年にホリスキー、1991年にレオダーバンが勝利。日本ダービーを1988年に
サクラチヨノオーが勝利。
他にも1985年の宝塚記念馬スズカコバンやサクラチヨノオーの兄で1994年の天皇賞(秋)馬ネーハイシーザーの父となった七夕賞馬のサクラトウコウ、
デビュー戦の斜行失格で知られる弥生賞・七夕賞馬サクラエイコウオー等多数の重賞馬産駒に恵まれた。
またマルゼンスキー人気から、彼と同じ父ニジンスキー・母父バックパサーの条件馬ヤマニンスキーもマルゼンスキーの代用種牡馬として活躍し、サクラチヨノオーと同世代の皐月賞馬
ヤエノムテキが生まれている。
なおマルゼンスキーブームにより日高各地にニジンスキーの血が回った事が、後世の日高でニジンスキーのラストクロップ世代馬ラムタラが大苦戦する一因になったのは別の話。
ただBMSに比べて父系孫世代の活躍馬がネーハイシーザーやアングロアラブ種最後の中央重賞馬シゲルホームラン、笠松競馬の重賞8勝馬レジェンドハンター等と少なめで後継種牡馬に恵まれず、レオダーバンに至っては馬主が逮捕された事等も合わさり種牡馬を廃用後行方不明に…。
2021年現在ではスズカコバンの孫クラグオーが唯一頭辛うじてマルゼンスキー父系を保っている状況である。それでもクラグオーの数少ない産駒から牝馬クレモナが2021年園田競馬場重賞「のじきく賞」に勝っており、血統の底力を見せている。
1995年、高齢を理由に種牡馬シンジケートが解散するも依然種牡馬としての人気は高く、1997年には約70頭に種付けを行なっている。
しかし1997年8月21日早朝、翌年の種付けシーズンを迎えるべく体づくりの軽運動をしていた最中に突如嘶いて倒れ、そのまま死亡。享年23歳(旧表記だと24歳)、死因は心臓麻痺だった。
マルゼンスキーを溺愛していた橋本氏は自身の次男として弔い、3日後に多数の関係者を招いた告別式が開かれた。その遺骸は当時なお健在であった母・シルにも見送られ、棺に納められた状態で橋本牧場に埋葬された。
なお「姉」の聖子氏は「弟」の棺へメダルを入れたという。この時入れられたメダルは資料によってばらつきがあり、アルベールビル冬季オリンピックで獲得した銅メダルを入れた、世界選手権大会で獲得した金メダルを入れたの2つの資料がある。
【伝説の光と影】
こうしてマルゼンスキーは伝説となった。
しかし、圧倒的な勝利がもたらした物は決して輝かしい栄光ばかりではなかった。
実はマルゼンスキーの同期である77年クラシック世代は日本の競馬史に残るレベルで悲惨な運命を辿った世代として有名だったりする。
例えば1978年の有馬記念を勝利し年度代表馬にも輝いたカネミノブは、種牡馬を引退後しばらくして行方不明。その後も報告が全くない。
1977年の皐月賞馬ハードバージは種牡馬を引退後に引き取られた先で過酷なホースショーのブラック労働の末にやせ衰え放牧中に日射病死(実質過労死)。
その悲惨な末路は新聞に取り上げられて大きな社会問題になり、JRA公式の競走馬養老施設や助成制度が作られる契機となった。
その他の面子も、韓国に事実上の左遷をされた挙句現地で夭折したが、その短い期間に残した僅か4頭の産駒の中から年度代表馬タンディチェイルを出してギリ子孫を残せた1977年の日本ダービー馬のラッキールーラと、引退するはずが何故か地方競馬で走らされるも、紆余曲折の末最後は無事故郷に帰れた1978年の天皇賞(秋)馬のテンメイが相対的に勝ち組扱いされているレベルと言えば察してもらえるだろうか。
菊花賞馬プレストウコウに至っては
中央競馬で史上初めての芦毛馬によるクラシック制覇を成し遂げたにもかかわらずマルゼンスキーに大差負けしたイメージが強すぎて、
タマモクロス、
オグリキャップ台頭まで人々は
「芦毛は走らない」と言い、彼の活躍は忘れ去られていた。
日本短波賞当時のプレストウコウはコズミを患っており万全の体調ではなかったのだが、
マルゼンスキーも常時脚部不安を抱えていたので何の言い訳にもならなかった。
何なら
菊花賞後は「メチャクチャ遊んでいたマルゼンスキーに大差で惨敗した2着馬が菊花賞を勝った=マルゼンスキー>>>>>世代の牡馬(笑)が確定した」と言う扱いすら受け
下記テンメイを破った事も込みで「空気読めよ(負ければよかった)」とまで言われていたレベル。
秋になり万全の体調と本格化、重賞2連勝の勢いで菊花賞を勝利するも、関西の名牝トウメイの息子テンメイを破ったため関西のマスコミに
「銀髪鬼」などと揶揄され、マルゼンスキーが引退し不在の第22回有馬記念ではテンポイントとトウショウボーイ、グリーングラスに次ぐ4着に敗れた。
人々がマルゼンスキーの不在を惜しんだのは言うまでもない。
天皇賞(春)ではTTGの残った一頭・グリーングラスへのリベンジを果たせるかと思いきや、プレストウコウは2周目の向正面で
鞍ズレが発生して競走中止となり、天皇賞(秋)では、
絶好のスタートを切ったのに5枠5番のパワーシンボリのゲートが開かず発馬できないというアクシデントが発生してカンパイになり、
スタートがやり直しになった。仕切り直しで興奮気味にスタートするも、最後の直線でテンメイに差し切られ、菊花賞のリベンジと天皇賞母子制覇を達成されてしまった。
…競馬の神はプレストウコウに何か恨みでもあるのかと疑いたくなるような噛ませ馬ぶりである。
なお、プレストウコウは引退後種牡馬入りしたものの種付けの頭数に恵まれず、ラッキールーラと同時期に韓国馬事会へ譲渡される。
22頭の産駒を送り出したのちに、1994年12月30日に老齢と失明のため
安楽死処分された。
日本では既に父系は断絶しているが、繁殖牝馬ヤマトマリオンの血統にかなりギリギリで名前が残っている。
勘違いしないで頂きたいが、彼らは決して鳴かず飛ばずに終わったわけではない。
彼らは全員が歴史ある八大競走を勝った馬……つまり現代に当てはめればGⅠ馬であり、かつ複数の重賞を勝っているという、胸を張れる実績を残した面々である。
にも拘らず何故こんな事になってしまったのか。
間違いなく影響を与えたことが、マルゼンスキーが圧倒的に強過ぎたためだった。
マルゼンスキーが出走できなかった当時のクラシックは「敗者復活戦」と呼ばれ、
「マルゼンスキーがクラシックに出ていればどのような素晴らしいレースをしただろうか」「古馬になったマルゼンスキーは、いくつビッグタイトルを取っただろうか」と、
同世代たちは常にマルゼンスキーの幻影と対比され、あげくに「大レースで勝てたのはマルゼンスキーがいなかったから」と、悉く過小評価されてしまっていたのである。
まあ日本ダービーの勝ち時計がオークスに負けていたのはちょっとフォロー出来ない気もするが。
その低い評価は種牡馬時代にも持ち込まれ、マルゼンスキーの種牡馬としての成功と常に比較され続けた。
また同時期に、「日本の馬産界を一変させた」とまで言われた、ノーザンテーストの快進撃が始まっていたのも彼らの大きな向かい風となった。
かと言って低評価を逆手に取った種付け料の安さを武器にしようにも、そちらは抜群の安定性と破格の種付け料から「中小牧場の救世主」と称えられたトウショウボーイが高い壁となって立ち塞がっていた。
こういった要因が重なった末路が、上記の通りになったのだった。
74年生でビッグタイトルを取った馬たちは、勝利の栄誉とはかけ離れた「不運の世代」として、人々の脳裏に刻み込まれていったことを覚えておいてもらいたい。
【創作作品での登場】
登場ウマ娘中ぶっちぎりでモチーフ馬が
おばあちゃん最年長の
ウマ娘。
「だいじょーブイ」「モチのロン」「ガビーン」という
ナウい言葉を使いこなす気さくで優しい激マブなチャンネー。
センスが古臭い。やっぱりおばあちゃんじゃないか。
異名が異名なだけに
自動車の運転が趣味だが、その運転技術はまさに「スーパーカー」。具体的に言うと、
シートベルトを締めないと「飛ぶ」。なんなら車が飛ぶ。締めときな、飛ぶぞ。
世話好きな性格から多くのウマ娘に慕われているが、理事長秘書の
駿川たづなとも仲が良くドライブに誘うこともある。
主人公のミドリマキバオーは
凱旋門賞馬の父タマーキンと、母父マルゼニスキーというマルゼンスキーをもじったと思われる馬との血統を持つ。さらにこの血統は同じく
凱旋門賞馬の父トニービン、母父マルゼンスキーの血を引くウイニングチケットがモデルではと推測されている。
また、作中で「マルゼンスキー状態」という言葉が出てきており、マキバオー世界ではマルゼニスキーとは別にマルゼンスキーも過去に存在していた事がうかがえる。
追記・修正お願いします。
- 故障で引退せず有馬記念に出走していたらやっぱりマルゼンスキーが勝っていたのかな? -- 名無しさん (2021-12-17 15:42:38)
- ↑永遠に分からないたらればだけど、1800までしか走ってない、同期はTTGで一番格下のGに苦戦した、産駒は長距離実績あり、っとどちらも勝ってもおかしくない要素が盛りだくさんなのよね。三強の中でTTGが伝説化したのはGの踏ん張りもあるだろうけど、マルゼンスキーとの対決が流れて永遠に語れるようになったのもあると思う。 -- 名無しさん (2021-12-17 18:09:12)
- 項目のラストを読むとウマ娘世界のマルゼンスキーの同期がどうしてるか心配になる -- 名無しさん (2021-12-21 06:32:29)
- 某掲示板に種牡馬時代の関係者が出没していていろんなエピソードを教えてくれる -- 名無しさん (2022-10-27 17:31:19)
最終更新:2024年11月25日 15:16