ヘンリー・ダーガー

登録日:2025/10/05 Sun 12:38:45
更新日:2025/10/08 Wed 22:02:19
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さて、いきなり問題だが「世界で一番長い小説」としてギネスブックに登録されている作品をご存じだろうか。

答えはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』

「プルースト効果」*1の語源になったことでも有名で、著者であるプルーストが14年かけて書き上げ、総ページ数は3000ページにも及ぶ畢竟の大作である。

しかし、それは完結し公に出版した作品という前置きがつき、その条件を外せば『失われた時を求めて』を超える長さの小説がいくつか存在する。

……その小説の総ページ数は15000ページ、著者が19歳の頃からその死の直前まで約60年間も書き続けられた。
しかし、その作品が著者に金銭的な利益を与えることは一切なく、作品が陽の目を浴びたのもその死後のことである。

その作品の名前は『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』

タイトルも自体も長いため

『非現実の王国で(In The Realms of the Unreal)』

と略される小説を執筆した男の名が……

ヘンリー・ダーガー(Henry Joseph Darger, Jr.)

である。

孤独に満ちた幼少期

ヘンリー・ダーガーは1892年アメリカのシカゴに生まれる。
一応日本ではヘンリー・ダーガーとして通っているが彼の名前の発音は人によって異なっており、生前の知人には「ダージャー」や「ダァジャア」と発音するものもいる。

母は4歳の時に妹が生まれた時の感染症で死亡、8歳の頃には父も体調を崩し、ヘンリーを育てられないとの理由で孤児院に預けられた。
彼自身は妹の顔も名前も知らないと言っているが、この妹との別れは彼の心に暗い影を落としている。

しかし、その孤児院も口や鼻から奇妙な音を立てる彼自身の奇矯な振る舞いによって周囲から「クレイジー」とあだ名され、検査の結果精神障害を理由に障害者施設へと送られる。

……当時のアメリカ20世紀初頭。現在のように精神疾患への理解は進んでおらず、で叩くなどの児童虐待が横行しており、身体的にも精神的にも多大な苦痛を受けたと日記に記されている。

生まれた町シカゴへ

さらに悪いことは続き、11歳の頃には父の死の知らせが届く。

なんだかんだ、施設での規則正しい生活は性にあっていたのだが、毎年夏になると牧場に移されるのが恒例だった。
しかし環境の変化を嫌がるヘンリーにはそれが苦痛であり、父の死が重なったヘンリーは限界を迎え、農場から脱走。
イリノイ州から100キロもの道のりを歩き、シカゴへと帰還する。

しかし子供の頃は父と暮らしいい思い出ばかりだったシカゴという町も、親もいなければ保護者もいない、障害者施設から脱走した少年を暖かく迎えることはなかった。

知人の紹介でなんとか掃除夫の仕事は見つけるも、ほとんど最低賃金な上、上司には施設へ連れ戻すという脅迫を受けながらそれでも生活のために働き続けた。

日記には「施設での暮らしは天国だった。天国から逃げ出すなんて馬鹿なことをしたものだ」と書き残されている。


ヘンリー・ダーガーと『非現実の王国』

こうして悲惨な生活を送るヘンリーだが、その苦しみから逃れるためだろうか、19歳の時から執筆活動を始める。

その小説のタイトルが『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』

ロビンソン・クルーソーよりはマシだが長いタイトルのため一般的には『非現実の王国で』と略されている。

その内容は、正義のキリスト教国「アビエニア」と子供奴隷制を持つ軍事国家「グランデリニア」が繰り広げる大戦争の経緯を経糸、アビエニアの最高軍事指導者であるヴィヴィアン皇帝の7人の娘達(通称「ヴィヴィアン・ガールズ」)の独立部隊としての活躍を緯糸として編まれた仮想戦記
双方銃器を主武器にする一方で騎兵部隊も活躍しており、鉄道輸送も行われているので文明レベル的にはおおよそアメリカ南北戦争レベル。
いわゆる「アウトサイダー・アート」の顕著な特徴として「全体の流れにあまり関与しないように思える細部描写が異様に細かい」というのがあるが、本作はこれの典型例。その時々の天候や両国の指揮官・各部隊の設定などが執拗に書き込まれている。
そんな中でヴィヴィアン・ガールズ(7人皆が乗馬と射撃の名手であり、優れた機転を働かせる優秀な戦士である)は、敵情報を盗み出し、捕虜を救出したりといった特殊作戦で活躍。戦いの趨勢に多大な貢献を果たしていく。

+ 痛めつけられる者たち
本作は「誰かに読ませる」という事を考えていないためか、展開にも描写にも一切の自重がない。
そのため、作中での残虐行為の描写があまりにも容赦がない。グランデリニアンの大人たちは捉えた子供を 鞭打ち、切り刻み、血を流させ、板に打ち付けてトーテムにする。板で組まれた枠状の構造物に、内臓を撒き散らす惨殺死体が数え切れないほど吊るされた光景が「挿絵」としてバッチリ描かれている。もし展覧会が開かれたとしても、とても衆目に晒せるようなものではない。
(ちなみにこの内臓描写は概ね正確に描写されており、ヘンリーが解剖学に関連するまっとうな資料を参考にしていたのは確かである)

あらすじだけみれば、中学生の時にする妄想のようであるが、ヘンリーの『オズの魔法使い』や『不思議の国のアリス』をはじめとした児童文学への造詣や、障害者施設へ入る前ですら教師と論争を行っていたほどの南北戦争への深い知識、彼のキリスト教を下敷きとした独特の価値観や感性と、ロリ・ペド・リョナ趣味が相まって唯一無二の作品となっている。

さらにヘンリーは300点を超える挿絵も自分で制作しており、雑誌や新聞の切り抜きを集め、それをトレースやコラージュして独特の作品世界を彩っている。

なおこの作品自体がヘンリーの精神世界の日記のような役割を担っているのか、現実世界で起きたことがしばしば反映される。

例えば、物語には「ヘンリー・ダーガー」の名を持つキャラが、従軍記者・アビエニア軍の子供を守る英雄・グランデリニアの悪名高い軍人と様々に登場し、彼の精神状態によってヴィヴィアン・ガールズ達を助けたり、苦難を与えるなど役割が変化している。

さらにヘンリーの所持していた写真の一つにシカゴで殺害されたエルシー・パローベクという少女の写真があり、この少女をモチーフとしたアニー・アーロンバーグという少女は子供奴隷制への反乱軍のリーダーとして作品内に登場し、ヴィヴィアン・ガールズを導いている。

以上のことからもわかる通り、その写真は彼の大のお気に入りであった。
しかし、ある時ヘンリーは不注意からその写真をなくしてしまう。
いくら探しても、神への祈りを捧げても見つからず、深い絶望に包まれた彼は物語内でアニー・アーロンバーグを惨殺

以降もこのことは物語に強い影響を与え、時折アビエニアに災禍をもたらし、ヴィヴィアン・ガールズも苦難に晒されている。


『非現実の王国』の発見

ヘンリーが自ら『非現実の王国で』を公表・公言することはなかった。

作品自体決して低レベルなものではなく、当時まだ小説家になろうやカクヨムどころか、インターネットすらない時代とは言え、出版社への持ち込みなどで世に売り出す方法もあった筈だが、後述の事情から推測するに没頭していた趣味以上のものではなかったのかもしれない。

そんな陽の目を見ることなく朽ちていくだけだったその作品群は、ヘンリーが住んでいた部屋の大家、ネイサン・ラーナー氏によってその運命を大きく変えることになる。

成人しても奇矯な振る舞いを続けるヘンリーとも交流のあった彼は、ヘンリーが高齢によって入院するときに部屋の整理を頼まれる。

その中にあった数々の文章や絵をヘンリーは捨ててくれと頼んでいたが、写真家として活動する*2ラーナー氏はその芸術的価値の高さを認識。それらの著作や絵を四半世紀に渡って保存し、世界に向けてその素晴らしさを発信し続けた。

1973年にヘンリー・ダーガーは81歳で死去するが、以降ヘンリーの手で60年にわたって制作され続けたその作品は、「アウトサイダー・アート」の代表として一躍脚光を浴びることになる。

なお、隣人が入院中のヘンリーを訪ね、その作品を褒めた時に、彼は「もう遅い」と呟いたと言われている。
彼は一体何を思ってそう呟いたのだろうか。


ヘンリー・ダーガーという人物

では、ヘンリー・ダーガーとはどんな人物だったのだろうか。

周囲の人々からは彼はいつも小汚い格好をした奇妙な人物として映っており、あまり人付き合いは得意なほうではなく、引きこもっていたとの証言もある。

しかし、キリスト教の信心と子供への愛情は本物で、毎週末の教会でのミサは熱心に通っており、聖餐も恭しく受け取っていたという証言も残っている。
が、その分自身の苦難に満ちた人生から来る神への憎悪もあったようで、前述のエルシー・パローベクを紛失した際には神を呪う言葉を書き、アビエニアとヴィヴィアン・ガールズの運命を人質に写真を返すように脅迫までしている。失くしたのは自分の不注意なのに。

子供に対しては、近所の子供からは愛想はあまりいい印象はなかったのだが、養子を持つことを望み役所に申請まで行っていたという。残念ながら却下されてしまったが。

なお、前述した『非現実の王国で』の挿絵には男性器を持った少女がしばしば描かれており、これは彼が生涯女性と縁がなく、女性の身体を知らなかったからと言われることもある。
しかし、彼が集めた写真にはポルノ雑誌のものもあるためそんなことは考えづらく、作中に男性器が描かれていない少女も登場している。
勇猛さを表すためのものとも言われているが、確実な結論は出ていない。

冒頭に『非現実の王国で』は完結し公に出版した作品ではないため、「世界で一番長い小説」と認定されていないと述べたが、この作品は出版がなされていない*3

本作のエンディングは2パターン用意されており、アビエニアとグランデリニア双方が勝利する結末が残されている。

しかし、その膨大な分量から日本での翻訳版はおろかアメリカ本国での出版すら行われておらず、このためギネス記録としては認定されていない。
なお、一部のページを抜粋する形で画集は販売されている。

……シカゴの片隅で、誰にも顧みられることなく作品を制作し続けた孤独な掃除夫。
彼は一体何を思い、何を考えていたのだろうか。
それは、誰にもわからない。

ただ、彼の墓にはこう刻まれているという

芸術家

子供たちの守護者

と。


追記・修正は60年間誰にも見せない作品を制作してからお願いします。

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最終更新:2025年10月08日 22:02

*1 特定の香りを嗅いだ時、その香りに結びついた過去の記憶や感情が無意識的に呼び起こされる現象のこと。

*2 その他、工業デザイナー、大学教員としても活動していた。

*3 逆に「出版はされたが完結していない」作品としては栗本薫の『グイン・サーガ』が挙げられる(完結前に著者が死去。続きは五代ゆうらの手で書き続けられているが、前述のギネス記録は「同一人物の手で」という条件もあるため、完結しても更新はされない)。