登録日:2026/8/20(木) 23:12:06
更新日:2026/08/21 Fri 01:03:41NEW!
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エルヴィス・プレスリー(正確にはエルヴィス・アーロン・プレスリー)とは、
アメリカの男性ミュージシャンである。
概要
簡単に言えば1935年に生まれ、1954年から没年の1977年までミュージシャンとして活動していた、音楽史に名を残す傑物ロックンローラー。
全世界でのレコード等の諸々の総売上は5億枚を超え、更に『史上最も成功したソロアーティスト』のギネス世界記録も含む偉大な記録に、ロックンロールを始め音楽界、果てに人間社会にまでとてつもない影響を与えたその功績からキング・オブ・ロックンロールと称される。
その曲は後世に語り継がれ、彼の名前を知らない、作品を見たり聞いたりしたことがないという人はまずいない……………
………………というわけではないかもしれないのが現状(少なくとも今の日本では)。
原因はいくつか考えられるが、やはり1番の理由は年代だろう。エルヴィスは早逝だったし、一般的に彼の全盛期と呼ばれるのは1950年代後半から1960年代半ばほど。その時代を知る者のほとんどは既に亡くなっているか、ご存命でもネットをバリバリに使いこなしはしない…はず。
現代のロックはエルヴィスよりも
ビートルズ的であるため、そこも影響しているかもしれない。『ザッツ・オール・ライト』を聞かせて、「これが最初期のロックンロールだぜ!」なんて言っても現代のロックとの繋がりは見えにくいだろう。
また、貧困一家の生まれから史上トップレベルのスーパースターにのし上がったという経歴からアメリカン・ドリームの象徴とされることも多い。
その生涯
生誕の地、トゥペロ
…………1935年1月8日、アメリカミシシッピ州の辺境の村、イースト・トゥペロ。
北アメリカ南部にしては珍しく寒さの厳しい冬の日の夜、水道も電気もない粗末な掘っ立て小屋で新たな命が生まれようとしていた。
母グラディス・ラブ・プレスリーが陣痛に苦しみ、父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリーが見守る中、ようやく出産する……しかし、それは未熟児、死産だった。
終わりか…と思われたその時、母を再び陣痛が襲う。医師の診断と異なる出来事に困惑しながらももう1人の子供を出産。今度こそ、元気な男の子であった。
信心深い両親は神がくれた子宝に強く感謝し、亡くなってしまった方をジェシー・ギャロン・プレスリー、元気なもう一方をエルヴィス・アーロン・プレスリーと名付ける。
彼らの暮らしは順風満帆とは行かなかった。まずそもそもが出産費用の15ドルを福祉に頼らなければならなかったほどに貧しかった上、息子の誕生により更なる極貧生活を強いられてしまう。ジェシーの墓石すら立ててあげられない有様だった。
それだけではなく、例えば1歳の時に竜巻がトゥペロを襲来。僅か32秒ほどで死者216名、被害を受けた家屋900戸以上というほどの大災害であり、エルヴィス家も直撃こそ免れたものの、余波で屋根は吹き飛ばされ、壁板が捻じ曲げられる等の被害を受けてしまった。
更に、エルヴィスが3歳時、父ヴァーノンが家族に楽をさせようとしたのか、手を出してしまった小切手偽造がバレてしまい逮捕、収監されてしまう。罰を受けるのは自業自得だし、幸い8カ月ほどで釈放されたが、幼いエルヴィスにとって父親がそれだけの期間会えなくなるというのがいかに辛い出来事であるかは想像に難くない。ご近所さんの中には「パパがいなくなった」と道で泣く彼を見た者もいるという。
それでも、両親は彼を精一杯に愛情を込めて育てた。父がいない間グラディスはいつも精一杯エルヴィスに接し、不安がる息子を「ジェシーが天国から守ってくれている」と言い聞かせた。いつしか2人の関係はより親密になっていった。そしてお互いを慰める様に、教会に足繁く通うようになった。そこは2人の救いの場であり、ヴァーノンが帰ってきてからもこの習慣は続いた。(まぁ
キリスト教信者の一家だから当たり前っちゃ当たり前だが)
この教会…アセンブリーオブゴッド教会では常日頃ゴスペルが流されており、表現豊かで大きく体を動かす様な激情的なこれらの曲と演奏スタイルは、エルヴィスに大きく影響を与えることとなる。
さて、そんなこんなで月日は経って11歳の誕生日。彼はプレゼントとして自転車(あるいはライフル?)をねだった。しかし親はどちらも危ないとして拒否。代わりにアコースティックギターを買い与える。すると以外にも、彼はギターにハマり、どこへ行くにもギターを持ち歩くほどの音楽大好き少年となっていった。この出来事がまさに、ミュージシャン『エルヴィス・プレスリー』の原点となったのだ。
伝説の始まりの地、メンフィス
1948年、エルヴィスが13歳の頃に一家はかねてより計画していたテネシー州の都会メンフィスへと引っ越す。
そして、その1年後に低所得の白人用の公営住宅へと転居することが出来た。の、だが……ここで少し当時のメンフィスの話をしよう。
ちょうど当時は機械化により地方で農業を営んでいた小作人等の多くが失業、彼らが職を求めて都会に流れ込んでくる時期であった。もちろんメンフィスも例外では無く、多くの人が移住して来ており、その中には黒人が多くいた。
しかし、当時のアメリカは今以上に黒人への差別が厳しく、何と人種差別が事実上合法であり、メディアは黒人を迫害することの正当性を具体例付きで常日頃からアピールし、白人からすれば黒人は「原始の本能に生きる獣未満の野蛮人」という認識が常識のクソみてぇな世界であった。
それ故、元々メンフィスにいた黒人も含め彼らのほとんどは白人達によって専用の黒人地区や低所得用の地域に追いやられ隔離されることとなる。
話を戻すと、つまり低所得同士居住域が黒人とプレスリー家で合致したのである。そのためエルヴィスは本当の黒人たちを常日頃から非常に近い場所で見ることが出来た。そして学んだのだ。
そこに「道徳心も判断力も動物の枠を出ない野蛮人」はいないことを。
そこに「下品で淫らな歌詞に、野卑なリズムが加わった獣以下の騒音」な曲など流れないことを。
エルヴィスは彼らの音楽に夢中になった。
エルヴィスは彼らは、自分達と同じ貧しい中で日々を必死に生きる仲間達であることを知った。
このメンフィスでの生活が、黒人のリズム&ブルース的な音楽をエルヴィスに授けると同時に、彼が黒人への差別偏見を全く持たない様に育てたのだ。
トゥペロでのゴスペル、メンフィスでのR&B、そして差別意識の無さ。エルヴィスをキング・オブ・ロックンロール足らしめる要素が、ここに揃った。
そしてとうとう、伝説が始まる。
全てはこの一枚から
メンフィスに引っ越し、多くのことを学び、音楽へのめり込んでいくにつれ、エルヴィスは夢を抱くようになった。ミュージシャンになるという夢である。
その夢を叶えるべく、サム・フィリップスが経営するメンフィスの『サン・レコード』の録音スタジオに赴く。エルヴィス的にはフィリップス本人に会いたかったそうだがあいにく留守。しかしフィリップスの助手に歌のカバーを録音してもらい、それを介して認知してもらうことに成功。どうやらこの時点で助手はエルヴィスに眠る才能の片鱗に気づいていたらしい。助手グッジョブ。何度かの来訪の末、同スタジオでオーディションに望むことに。実施日は1954年7月5日となった。
オーディション当日、フィリップス含め3人の前で幾つかの歌を披露。滞りなく進むもあまり良い成果は得られず、一旦お開きにしようということになる。
………サン・レコードの皆は優秀だ。しかし、彼らは…いや、誰であろうと予測できなかったはずだ。この結末を。
エルヴィスが突然おもむろにギターを持ち、『ザッツ・オール・ライト』という曲を歌い出す。1946年、ある有名なブルース歌手が世に出すも、あまりヒットせず終わった曲であった。
しかしエルヴィスのその曲は、単なるカバーで片付けて良いものではなかった。何故なら、黒人的なR&B、ゴスペルと白人的なカントリーミュージックが彼の下で一体となって生み出された、非常に独創的で革新的なものであったからだ。
まさに革命。これを聞いたフィリップス達サン・レコードメンバーは大興奮。この音が何処かへ行かない内に急いで録音を始め、微調整の末遂に完成。オーディションの合格不合格すっ飛ばしていきなりシングルリリース決定という事態になる。これなんてなろう系?
試しにフィリップスは姉のドゥーイ・フィリップスにこの音源を渡し、彼女にラジオでかけてもらったところ大反響。リクエストの電報が14通、電話が47本寄せられ番組が終わるまでに7回(14回という説もある)かけられることになる。ちなみにこれ関連のインタビューでエルヴィスは自分は黒人ではないことをリスナーに明かしている。
良い手応えを得たサム達はそのままシングルを7月19日にリリース。地方の一レコード会社からの発売であったが故か全国的なチャートに名を連ねることは無かったが、エルヴィス伝説に、そしてロックンロールの歴史において大変重要な一枚と言えるだろう。
そして、キングへ
そんな出来事によってサン・レコードと契約を結んだエルヴィスは計5枚のシングルを発表し、小規模な公演を行うなど立派に歌手としての道を歩み始めていた。のだが、この頃のエルヴィスに早くから目をつけていた人物がいた。今後長年に渡って彼と関わることになる、トム・パーカー大佐である。彼はエルヴィスの音楽スタイルの先進性に目をつけ、大手レーベルから売り出せれば更に売れると確信していた。そのため最初は小さいことからエルヴィスに接触し、じわじわとその関わりを広げていくことで1955年にとうとう、サン・レコードにエルヴィスを大手レコードレーベル『RCAビクター』に譲渡させ、かつ彼のマネージャーに就任することに成功する。
大手からの手厚い支援を受けることが出来るようになったエルヴィスは手始めに1956年1月に第6弾シングル『ハートブレイク・ホテル』をリリース。パーカー大佐の読み通り、エルヴィスにとっては初の全米1位をとるほどの大ヒットシングルとなった。
続けて3月にはデビューアルバム『エルヴィス・プレスリー登場!』を発売。これもまた全米1位。
4月には『アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラブ・ユー』を発売、これまた全米1位、7月の『ハウンドドッグ/冷たくしないで』は全米1(ry、10月の『ラブ・ミー・テンダー』も全米(ry
………………もうお分かりだろう。端的に言おうか。
完全に無双状態に入った。
もうこの頃には並ぶもの無し。ロック、ポップス、ブルース何でもござれ。エルヴィスが何か曲出しゃ必ず爆発的に売れ、Billboardにランクインし、当たり前の様に1位を取っていく。もはや前例が無いほどの大スターである。
もちろん弱点もあった。この頃に前後してテレビ出演も行ったのだが、『ハウンドドッグ』を歌った際に白人でありながら黒人の曲を歌うに飽き足らず、更に黒人的なパフォーマンスを敢行。これが保守的な層からの怒りを買い、もう荒れに荒れた。
警察、PTA、宗教団体、青少年保護団体その他一般市民等が名指しで批判、テレビ放送の禁止を訴え、カリフォルニア等の多くの州がロックンロール禁止令を発令、一部のラジオはエルヴィスのCDを叩き割って警告し、大手雑誌が「クッソ下手くそな歌という欠点を性しか頭に無い猿と大差ない踊りでカバーしている(意訳)」とか酷評する騒ぎに。欠点のカバーとは。]終いには公演中に警察が乱入、腰を振る動きをしたら即逮捕するつもりで監視するなんてこともあった。その公演では小指だけを動かして難を逃れた。独特の腰の揺らす動きに『骨盤ダンス』、エルヴィス本人への『骨盤エルヴィス』という蔑称が定着したのもこの頃。
しかし、そんなものではエルヴィス人気の上昇は止まらなかった。彼は激しい批判も意に介さずこれまでの様に歌って踊り続け、その社会に逆らう反逆的な様、整った顔、そしてエルヴィスによって広められたロックンロールというジャンルの人気の爆発、これらの要因により若者にとんでもなくウケ、そしてそれは留まることを知らなかった。エルヴィスが何処かに出没すればそれを追うように大量のファンが集まっては彼に群がり、ラリった目をしたヤツらがエルヴィスの服を剥ぎ取っていく(!?)という有様である。信じられるか?あいつらがキメてるのドラッグじゃなくて人間とロックなんだぜ?
単なる音楽だけの人気では無い。若者達はエルヴィスの髪型、服装などに至るまでを真似するようになり、遂には新たな文化すら誕生した。これが今日でも言われる『若者文化』の起源である。
そして、これほどまでの人気がある故、テレビ側もエルヴィスを出さないという選択肢をなかなか取れないのだ。
1つ、エルヴィスの人気を物語る話をしよう。
当時のアメリカにはNBCとCBCという2つのテレビ会社があった。しかし、この頃はCBCの一強。何故って?
『エド・サリヴァン・ショー』である。
詳しい内容の説明は省くが、当時この番組はとんでもなく人気があった。具体的には『この番組を見逃した場合は日常会話に支障をきたす』と大まじめに言われるレベルである。
しかし、他のテレビ会社からすればそれは面白くない。「どうにかしてサリヴァン・ショーに勝ちたい……」と考えたNBCが目をつけたのが同じく大スターであったエルヴィスである。サリヴァン・ショーの司会者エド・サリヴァンはあらかじめ「エルヴィスは出さない」と宣言していたため都合も良い。エルヴィス・プレスリーとエド・サリヴァン、2大巨頭の対決が実現した。
そういうわけで、サリヴァン・ショー同日同時刻にエルヴィスが出る新番組をぶつけてみたところ……
『エド・サリヴァン・ショー』:視聴率15%
『NBC新番組』:視聴率55%
何と、嘘の様に圧勝してみせたのだ!
この結果にサリヴァンは前述の宣言を撤回、それによって『エド・サリヴァン・ショー』にエルヴィスが出演することとなる。
共演は3回に渡って行われたが、その内の初回は何と視聴率82%とキチガイじみた記録を打ち立てた。
また、番組内でサリヴァンはエルヴィスのことを、「実に謙虚で素晴らしい青年」と絶賛、それによって彼への批判がある程度沈静化したなんていう2人のスターの世間への影響力を示す逸話もある。
RCAからしても彼の活躍は大助かりで、最初の一年は会社のレコード売上の半分をエルヴィスが占めていたなんて発表もある。
………まぁ長々と語ってきたが、彼はこの様にして『キング・オブ・ロックンロール』となり、絶頂に至ったのである。
絶頂から低迷へ
絶頂期に至った辺りから、「エルヴィスを出演にして
映画作ればボロ儲けじゃね?うはw俺天才www」みたいな考えと共に、俳優業としての仕事を依頼され始める。事実この考えは間違いでは無く、エルヴィスをいずれも挿入歌ありの主演映画に終始させ、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出した。また、エルヴィス自身は映画出演に乗り気であり、独学で演技を勉強するほどの熱意があったらしく、制作スタッフ側も本気で取り組んだ故『監獄ロック』等の名作も生まれるなどWin-Winな関係だったのだが………この顛末は後述しよう。
1958年、エルヴィスはアメリカ軍からの徴兵通知を受ける。当時の
アメリカは徴兵制度を施行しており、陸軍は2年間の徴兵期間を設けていた。プレスリーは、スター用の特例任務に就かず、ほかと変わらぬ普通の一兵士として西ドイツにあるアメリカ陸軍基地で勤務し、1960年に除隊した…のだが、この兵役期間中に母グラディスが死亡してしまう。幼い頃から支え合ってきた母の死は彼に深い影を落としたことは言うまでも無いだろう。エルヴィスファンの中には、彼が低迷したのは兵役を終えてからと言う者もいるが、仮にそうならやはりこの出来事が関係しているのかもしれない。
まぁとにかく、2年間のブランクを経て帰ってきたわけだが、ここでパーカー大佐の意向により俳優業としての活動をメインにされてしまう。まぁこれ自体は良いとしても、この辺りから依頼される映画が話題性オンリー…つまりは『エルヴィスが主演だよ!曲もエルヴィスが歌うよ!』しかアピールポイントが無く、中身は無く低質なクソ映画ばかりになってきていた。これにはエルヴィスも不満で、「脚本作り直せや!」と言って突き返したり、毎度「より良い脚本の奴を求めてます」と公言していたのだが……ここでパーカー大佐が牙を剥く。
マネージャーとしての権限でバンバン映画の出演契約を結び、特に内容もスケジュールも考慮せずエルヴィスを出しまくる暴挙に出たのだ。
これによってエルヴィスは大半の時間を演技や撮影、サントラ作りに労力を割かなければならなくなってしまう。しかも苦労して作った映画がヒットするならまだしも大半が興行的にも評価的にも大失敗なのでたちが悪い。中には1週間で撮影完了させるとかいう「映画ナメんな」と言いたくなるほどに低質なものもあった。これらに加えて通常の歌手としての仕事や公演もこなさなければならなくなった結果、完全にワーカーホリックと化し、ドンドン疲弊していってしまった。
それを証明するかのように、チャートの方も基本変わらず1位は取るものの、稀に取り逃がすようになってしまう。
そして、そんな彼に追い打ちをかけるかの様に、『ブリティッシュ・インヴェイジョン』が到来する。
知らん人向けに簡単に言うと、イギリスの文化がアメリカを席巻し、元からあったアメリカの文化にとって代わろうとした出来事…みたいなものである。
この革命はアメリカのミュージシャン達にも直撃し、在野のアーティストが軒並みチャート下位に追いやられるなんて事態が起きる。そんな流れに対し、疲弊し、本業から離れすぎたエルヴィスに抗う力は残っていなかった。なんせ、この革命の御旗を最前線で振りかざすのはあの
ビートルズ。流石に相手が悪いと言えよう。
これら以外にも様々な要因が重なった結果、1962年の『グッド・ラック・チャーム』以降、ビートルズが全米TOP5を自曲で独占するなか、エルヴィスはTOP10を逃すことすらザラという、かつての彼からは考えられないほどの絶不調に陥ってしまう。
もはや、彼は終わったのだろうか?『キング・オブ・ロックンロール』エルヴィス・プレスリーは、今や過去の人になったのだろうか?
…………彼の曲がチャート1位にならなくなってから実に6年が経った1968年1月、ある番組の放映が発表された。
その番組の名は『ELVIS』。
同年クリスマスの時期にエルヴィスが8年と5ヶ月ぶりにTV出演し、7年ぶりに観客の前でのショーをするらしいことが分かったその番組は、実際のところ裏では多くの人間の努力と考えがあった。
この番組の制作を考えついていたのはパーカー大佐。映画の費用を工面してもらう代わりにこの番組の独占ネットワーク権を与えるという契約をNBCと交わしていた。
元々、彼はただひたすらクリスマスソングをエルヴィスに歌わせ続けるという内容で考えていた。が、番組のプロデューサー兼ディレクターのスティーブ・ビンダーらが猛反対。このビンダー、彼は上層部から反骨精神が強いことを買われ、この番組のプロデューサーに推されたのだが、彼自身はこの番組の仕事を受ける気は無かった。しかし、同僚からの説得によって翻意したという背景があった。そんな彼の中には、どのような番組にするべきかという構想が既に出来ていた。彼は強情な大佐と粘り強く交渉を続け、遂に折れさせることに成功する。全ては、彼が思い描く番組のために。
制作陣はエルヴィス本人とも深く関わり、お互いの理解や信頼を深めていく。
ある日、エルヴィスはビンダーにこう聞いたそうだ。
「私のキャリアは今どんな位置にあると思う?」と。
ビンダーはこう返した。
「トイレの中じゃないかな」と
昔ほどの勢いがないとはいえ、依然スーパースターであるエルヴィスに対してつまらない世辞を言わないその姿勢を、彼は気に入った。
またある時、ビンダーはエルヴィスにこう提案した。
「サンセット大通りに出てみないか?」と。
ビンダーには目的があった。エルヴィスに身をもってあることを体験させるためだった。
提案通り、エルヴィスは午後4時、人通りの多い時間帯にサンセット通りに現れた。
……………だが、依然の様な熱狂は起こらない。
大通りが人で占拠されることも、理性を失ったファンに服を剥ぎ取られる危険も、今や無かった。試しに通行人に手を振ってみたり、アピールをしてみても変わらない。
彼らが熱狂するものが他に出来たからか、はたまた国民性の変化か…とにかく時代は変わった。それを、エルヴィスは身をもって体感した。
更にある時、エルヴィスとビンダーはパーカー大佐に呼び出された。
パーカー大佐は言う。
「クリスマスソングをもっと歌うべきだ。エルヴィスもそう思っている。そこのビンダーにハッキリ言ってやったらどうだい?」と。
エルヴィスはしばらく黙り込み、やがて呟いた。
「はい。俺はクリスマスソングを歌いたいです」
パーカー大佐は満足したように、2人を解放した。
帰りの道で、エルヴィスはビンダーに耳打ちした。曰く、
「気にしなくていい。このままでいこう」と。
そして、幾つもの思惑が渦巻いてぶつかった後に訪れた、1968年12月3日午後9時。
テレビの画面に映るのは、ボクシングのリングの様な四角のステージに立つエルヴィス。ビンダーが本当に見せたかったエルヴィス・プレスリー。
黒いレザースーツを纏い、長身を引き締め、往年のヒット曲を歌う彼は、決して、劇中で軽い曲を歌っては微笑む映画俳優では無く。
決して、家族で安心して聞けるクリスマスソングを歌い続ける平和的な歌手でも無く。
かつての野性的で、反逆的で、挑戦的なエルヴィス・プレスリーであった。
『キング・オブ・ロックンロール』の完全なる帰還が、ここに成ったのである。
最後に全てを出し切るかの様な新曲『明日への願い』の熱唱…否、絶唱で締められたこの番組は『カムバック・スペシャル』の別名で知られ、今なお音楽史上最も劇的な復活劇として語り継がれている。
視聴率も42%、瞬間的には70%を超えたと言われ、この番組の衝撃を表している。
そして1969年、『サスピシャス・マインド』がエルヴィスの曲として久々に全米1位の座を奪還。これを以て、エルヴィスの第2の全盛期が始まったとする者も多い。
これ以降彼の活動はガラッと変わる。
『ELVIS』に影響されたのか不明だが、コンサート等の公演をメインに活動するようになったのだ。
代表例を2つ挙げよう。
まずはラスベガス公演。ラスベガスでのインターナショナルホテルのこけら落としとして公演を実施し、それ以降年に2回の定期公演を行った。それ故ファンからは現在も聖地の1つとして認識されている。
次にアロハ・フロム・ハワイ。癌基金のチャリティコンサートとして開かれたこの公演は、世界初の人工衛星による世界同時生中継が行われた史上最大にして最後のショーで、視聴者は10億人以上とされ、概ねどの国でも30%以上の高い視聴率を叩き出している。
これら以外にも大なり小なりの公演を数多く行ったとされ、1970年代は毎年100回以上開催した模様。それでもってそれらの全てがちゃんと全席完売しているのだから恐れ入る。
しかし、これほどの過密スケジュールで本当に大丈夫なのだろうか…?
巨星が堕ちた時
大丈夫なわけが無かった。
1977年8月16日、テネシー州メンフィスの自宅グレイスランドで、交際相手のジンジャー・アルデンによって寝室のトイレの床に倒れているプレスリーが発見された。すぐさま病院へ搬送されたが、治療も虚しく死亡が確認された。42歳没。あまりにも早すぎる死であった。
直接の死因は心不全とされているが、晩年のプレスリーはストレスからくる過食症に陥ったことが原因で体重が激増したこと、あまりにも過密なスケジュールに加えて、1975年頃からは処方された睡眠薬などを誤用していた。
違法薬物は一切使用していないが、この処方薬が遠因であると言うのが定説である。また、プレスリーのDNAに、肥満や心臓疾患を引き起こす要因があるとの発見もある。
当初プレスリーはメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬されたが、遺体の盗掘未遂事件が起きたため、母親と共にグレイスランドに再埋葬された。グレイスランドには、プレスリーの様々な遺品などが展示されており、現在も世界中からファンや観光客が訪れている。世界で最も訪問される墓としてギネス認定されており、アメリカの国定史跡にも指定されている。
死の翌日には彼のレコードが飛ぶように売れ、この日の売り上げは『一日で最もレコードを多く売ったアーティスト』
としてギネスに認定されている。彼の死が世界に与えた衝撃がいかに大きかったかが分かるだろう。
また、当時存命だった父は「俺もすぐ行くからな」と泣き、実際に後を追うようにこれまた心不全で亡くなっている。
どうか家族全員で、天国で今度は贅沢な暮らしをしていてほしいものだ。
彼の功績
ここまでの長々とした文を読んでもらっても、大半の人はエルヴィスについて「人生の浮き沈みが激しい、メッチャ売れた人」くらいの認識しか生まれないだろう。
というわけで、彼の成し遂げたことをより深掘りしていくことにしよう。
・ロックンロールというジャンルの誕生、普及に大きく貢献
彼を『キング・オブ・ロックンロール』足らしめる最大の所以。
基本的にロックンロールはザックリ定義すれば、『白人のカントリーミュージックと黒人の音楽を結合させた大衆音楽』となる。が、曲としてのロックンロール第一号はどれか?誰が発明したのか?という問いは一口に答えられるものではなく、現在も議論が続いている。
この内の、「誰が発明したのか?」という問いについては、今現在は「一人に絞ることはできない」と返す他ない。つまるところ、色んな人物のロックの要素を持った音楽が組み合わさり、完全なロックンロールが生まれたというわけだ。
そして、エルヴィスは人ごとに意見の違いはあれど、概ねロックンロールのパイオニアの一人とされている。
また、そんな偉大なるパイオニアたちの中でも、『世界中に普及させた』という点では他の追随を許さない。単純にロックンロールの大ヒット曲という意味ではビル・ヘイリーの『ロック・アラウンド・ザ・クロック』等が先んじているが、ほぼこの一曲のみの大ヒットであった彼とは違い、エルヴィスは安定して何度も大ヒット曲を送り出したという点で異なる。また、ただヒットを連発しただけで無く、歴史を見渡しても比肩する者がほとんどいないほどの人気を誇ったロックンローラーであったという点も見過ごせないだろう。とにかく彼の活躍が、ロックンロールを一躍大衆音楽に押し上げたのだ。
今や誰もがロックンロール…今はロックと呼ばれるそれを聞いたことがあるだろう。エルヴィスがいなければ、ロックはマイナーなジャンルの別物になっているか、最悪存在しない可能性が高い。
また、そんな人物であったが故に後発の多くのシンガー達に影響を与えた。
ジョン・レノン、ボブ・ディラン、エルトン・ジョン、フレディ・マーキュリー、ブルーノ・マーズ……沢山の偉大なロックンローラー達が彼の影響を公言している。
・白人文化と黒人文化の融合
先程のロックンロールの誕生に関わってくる話だが、ここで語るのは白人の黒人に対する歩み寄りに関してである。
当時は人種差別が今よりずっと厳しい世界だったと前述したが、それは音楽においても変わりなかった。黒人がどんな音楽を作ろうと、普通R&Bというジャンルに分類され、白人のカントリー・ミュージックの世界から隔離される。これが当時の常識であり、それ故どんなに黒人が良い音楽を作ろうと、そのままでは白人社会のアメリカで、ましてや世界でヒットするなど有り得ない話だった。
しかし、エルヴィスは白人でありながら、黒人的に音楽を歌ってみせた。『白人』『エルヴィス』というフィルターを通すことで黒人の音楽を世界に広めてみせたのだ。これは、
アメリカの社会に黒人の音楽を受け入れさせるための土壌を作ったとも取れる。恐らく、音楽界で最も直接的に人種の壁を破ったアーティストはかの
『King of Pop』マイケル・ジャクソンだろうが、エルヴィスが作った土壌が無ければ、彼に代表される多くの偉大な黒人アーティストの活躍も無かったのかもしれない…というのは考えすぎだろうか。
・若者文化の創造
さっきも少し触れたが、昔の人間社会には子供と大人しか存在していなかった。しかし、エルヴィスがティーンエイジャーを中心に人気を博したことにより、世界には、『子供』というには成熟してて、『大人』というには物を知らない…そんな『若者』という存在がいることが明らかになった。彼らは決して大人が無視出来る存在では無く、時には社会を揺るがすほどの爆発力を持っていた。そんな『若者』達が独自に作る流行や文化によって莫大な金が動くことを知り、それに対応するように社会の形は変化したのだ。
また素晴らしい記録や受賞歴も数多く持ち、主要な物を挙げると、
ギネス編
- 全米No.1シングル18曲(歴代3位)/全英18曲(歴代1位)
- 最多ゴールド、プラチナ、マルチ・プラチナレコード獲得数(140タイトル)
- 最も長期に渡ってNo.1アルバムをチャートに送り込んだアーティスト(1956〜2002年)
- 1日で最もレコードを売ったアーティスト(死の翌日)
- 世界に最もファンクラブが多いアーティスト (現在625)
- 世界で最も訪問される墓(グレイスランド) エルヴィスの墓であるグレイスランドは、年間約70万人が訪れる墓。死後18年にあたる1995年には、歴代最多の753,965人が訪れた。
その他編
- ロックの殿堂入り
- カントリーの殿堂入り
- ゴスペルの殿堂入り
- グラミー賞受賞3回
- 他多数
………等である。
代表作
代表曲
ここでは主にシングルを紹介する。「アルバムは?」と思った方もいるかもしれないが、当時は今以上にシングルでの販売がメインであり、アルバムは今で言うベストアルバム的な側面が強かったのだ。ちなみにこの風潮を破ったのがかのビートルズである。
全てはここから始まった。デカいヒットこそかまさなかったが、学術的には大変重要な曲の1つ。何せ、世界最初のロックンロールのレコードなんて説もあるほどなのだから。
ちなみに、イギリスの大手雑誌『Q』の投票では世界の音楽を最も変えた曲として認定された。
エルヴィスの最初の大ヒットシングル。チャート2部門で1位を取り、7週間維持し続け、年間1位にも輝いた。初期のロックンロールでもあるが結構大人しめな曲で、発売当時も会社側は派手な要素が無いとして見くびっていたが、エルヴィスはこれはヒットすると確信しており、実際にその通りとなった。
それぞれ同一シングルの両A面で出され、共にエルヴィス曲トップレベルの大ヒットをかました。
『ハウンド・ドッグ』は原曲はヒモ男のことをボロクソに言う内容なのだが、エルヴィスは本当の犬のことを歌っている。また、原曲とエルヴィス版でそれぞれ大きく雰囲気が違うのも特徴。
スタンダードで一般受けするロックンロール曲としてエルヴィス含め多数の歌手にカバーされた名曲。作者はカール・パーキンスという、エルヴィスと同様にロックンロールを盛り上げ、『サン・レコード』の名をあげたこれまっ偉大なアーティスト。
エルヴィスの初出演映画『やさしく愛して』の主題歌として発表。元は歌詞の無い大衆歌謡にエルヴィスが新たに作詞して生まれたという経緯であり、珍しくエルヴィス本人が歌唱以外で関わった一作。
全米1位だけでなく初の全英1位も獲得した名曲。キャッチーな歌声に、ギタースラップが取り入れられた軽快なメロディが気持ちいい。
映画2作目にして初主演の『さまよう青春』の挿入歌として作られた曲。本人が「テディベアは大好き」と言ったところファンから大量にテディベアが届き、そんなビッグウェーブに乗って急遽制作されたという逸話がある。
尚、全米1位7週間維持とヒットしたが、エルヴィス自身は「何でこんな曲が流行ったのか分からん」とのこと。
同名の映画『監獄ロック』の主題歌。8ビートの力強いリズム、強烈なテンポ、2つのコードの半音進行によるイントロ等が楽しいパーティソング。人気も高く、2005年の再発シングルでも全英1位を獲得するほど。
軍役から戻ってきたエルヴィスが最初に出した一曲。全米1位も取り、彼の健在を示した。『エルヴィス・イズ・バック』というアルバムに普段選曲には口を出さないパーカー大佐が珍しく入れさせたらしい。収録時、彼は雰囲気作りのために室内の光を消して行ったため、最後に頭をぶつける音が誤って入ってしまっている。
彼の代表的なバラード曲。曲の途中にシェイクスピアの戯曲から引用した語り(ポエトリーリーディング)が入るのが最大の特徴。
元々、映画『ブルー・ハワイ』の劇中歌の1つなのだが主題歌を超える評判を受けたためシングルカットされたという経歴の曲。『ブルー・ハワイ』のサウンドトラック・アルバムの人気にも大きく貢献し、その甲斐あってグラミー賞にも最優秀サントラとしてノミネートした。
すっかりお馴染みとなった甘い声、後半の野太いコーラスが特徴の一曲。全米、全英共に1位を取るも、これ以降は大ヒットに見放されてしまう。
『ELVIS』、あるいは『カムバック・スペシャル』で白いスーツに着替えたエルヴィスが最後に歌った曲として有名。
番組制作中、キング牧師やケネディ大統領の様な、黒人差別に真っ向から立ち向かったり、強硬な態度を取ったりした人間が相次いで暗殺され、アメリカは暗い雰囲気に包まれていた。エルヴィス本人や制作陣もこれらに打ちのめされた末、番組のラストを差別や偏見の中で育ちながら、それらを全く超越した人間の姿を世に知らせ、アメリカに立ち込める闇を晴らすという形にすることを決定。そのために作られた本曲はまさしく理想の歌であり、平和の歌であり、祈りの歌であった。
これ以上多くは語るまい。後は『ELVIS』での彼の絶唱を見てほしい。
久々にエルヴィスを頂点へと返り咲かせた大人のラブソング。当時のポップスにしては長い4分半の尺に、ゴージャスなサウンドやフェードイン・アウトするエンディングが特徴。全米1位はこの曲で最後となった。
恋心を炎に例えて歌った疾走感溢れるロック。チャート2位にまで入るも惜しくも1位は逃してしまった。なお、阻んだのはチャック・ベリー。ロックンロールの開祖に最も近いとされる偉大なアーティストであった。全米TOP10に入ったエルヴィスの最後の曲でもある。
映像作品
ドキュメンタリーを除く映画出演作全てに主役で出演している。このうち「殺し屋の烙印」を除いて作品中で楽曲を披露している。
あまりにも多いので評価や興行が高い一部を抜粋して紹介しよう。
俳優としての出演作
殴り合いの喧嘩の末に相手を殺してしまい、服役することとなったトラック運転手のお話。
主題歌の『監獄ロック』を歌いながら数十人のエルヴィスが踊るシーンは初期のMVの先駆けとも呼ばれるほどに有名。
アメリカ国立フィルム登録簿に登録されるほどの作品であり、ミュージカル映画の古典的傑作との評価を受けている。
『カサブランカ』等で知られる巨匠マイケル・カーティスが監督を務めたシリアスな犯罪ドラマ。音楽もさることながらこの映画ではエルヴィスの演技力が注目される。そう、彼は演技も普通に上手かったのだ。本人も「1番のお気に入り」と認め、興行的にも評価的にも成功した1本。
兵役を終えて帰ってきたチャド・ゲーツがハワイで観光ガイドを始める物語。全編通して流れるハワイアンな景色と『好きにならずにいられない』に代表される名曲達が象徴的で、ファンからの評価は高い1本。
レーサーがラスベガスのホテルでウェイターとして働きながら、恋とレースに奮闘するというラブコメディ。
60年代以降のエルヴィスの映画はクソ映画率が高いが、こちらは例外的にエンターテイメント作品として純粋に評価が高い。
伝記映画
エルヴィス
エルヴィスの生涯をパーカー大佐の視点から描いた作品。
批評家や観客からも概ね好評で、興行収入も2億8600万ドルほどと伝記映画としては大ヒットし、アカデミー賞にも8部門でノミネートした傑作。オースティン・バトラー演じるエルヴィスは必見。
余談
ビートルズとの対談
エルヴィスにとっては強力なライバルであり、ある意味では弟子の様な存在でもあった『ビートルズ』。
そんなロックンロール界の2大巨頭とも言える2者が対談したことが一度だけある。1965年8月27日、ロサンゼルスのエルヴィスの邸宅で彼らは出会った。
この会見の内容は証言によって食い違いがあるが、とりあえず1番有名な物を採用させてもらおう。
『ビートルズ』メンバーのジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターは平静を装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。そこでプレスリーはテレビを見ながらベースを演奏してくつろいでいた。大スターであり憧れの生エルヴィスにさすがの4人も呆然としてしまった。気まずい沈黙とぎこちない会話の後、プレスリーが「一晩中俺を見てるだけなら俺はもう寝るぜ?せっかく演奏ができると思って待ってたのにさ」と発言。これにより、全ロックファン感涙ものの、エルヴィスとビートルズの即興セッションが始まった。 なおスターはドラムが無かったため一人寂しくビリヤードに勤しむことに。
そんなこんなで雰囲気もすっかり温まってきた…のだが、ここで事件が起こる。
日頃からビートルズ好きを公言していたエルヴィスは「君たちのレコードは全部持ってるよ」と敬意を持って述べた。
これに対し、なんとレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と爆弾発言。せっかくの良い雰囲気もぶち壊しとなってしまい、会談はそれを引きずったまま終わる。
レノンの名誉のために補足すると、彼の発言は「お前なんて眼中にねーよwww」という意味では無く、過激な冗談だったとされている。そもそも彼の音楽活動はエルヴィスの『ハートブレイク・ホテル』を聞き、衝撃を受けてレコードを買ったところから始まったと言っても良いため、実際のところは普通に1枚以上持っている。それを裏付ける様に、レノンは関係者に「エルヴィスがいなければ今の自分はいない」と伝えるよう頼んでいた。
2人のキング
ビートルズ、エルヴィスに並ぶ世紀の大スターであり、『キング』の名を冠するもう1人の
マイケル・ジャクソンとの関わりについては実はあまりなかったとされている。
ただ、直接の関係が無いというだけで、無関係では無い。何故なら、マイケルの最初の妻はエルヴィスの娘リサ・マリー・プレスリーであったからだ。つまりマイケルからすればエルヴィスはお義父さんにあたる。
…が、この結婚生活は長く続かなかった。2年足らずで彼らの関係は終わってしまったのだ。
エルヴィスも1967年にプリシラ・アン・ボーリューと結婚し、先述の娘を産むほど関係は良好だったのだが、結婚前から続く彼の悪い生活習慣、数ヶ月にも及ぶツアーによる別居生活などのさまざまな理由から1973年に離婚してしまう。
一方で、離婚後も2人は友人として良い関係を築くことが出来たそうだ。
エルヴィスサンド
エルヴィス・プレスリーが大層好んだとされるサンドイッチであるが、とにかくめちゃくちゃカロリーが高い。
何しろ
- 焼いたバナナ、炒めたベーコン、ピーナツバターをたっぷりパンに挟んでたっぷりのバターで揚げ焼きする
という聞いただけで胃もたれしそうな調理方法なのである。
だが実際に試してみた人いわく、これほど脂ぎっているにもかかわらずとても食べやすくて美味しいのだとか。
エルヴィスの母がよく作ってくれたらしく、彼にとってまさしくママの味だったのであろう。
…ただしめちゃくちゃハイカロリーであり、
エルヴィスの晩年の死因はこれの食べすぎが原因ではないかとも言われている代物なので
決して毎日のように食べないように!
追記・修正はロックンロールを奏でながらお願いします。
- エルヴィスサンドも入れていいのでしょうか? -- 名無しさん (2026-08-20 23:34:57)
- トム・パーカー大佐は、最初に出会った頃のうちはエルヴィスの躍進に必要な人物だったはずが、いつしか足を引っ張ってばかりのトンでもない疫病神みたいに成り下がっていったのが辛い。クイーンにもそんなポジの関係者の人いたよね。 -- 名無しさん (2026-08-21 00:07:36)
- ↑2知ってる限り追記しました。詳しい人はもっと追記してくださるとありがたい。 -- 名無しさん (2026-08-21 00:10:52)
最終更新:2026年08月21日 01:03