登録日:2025/08/18 Mon 21:20:31
更新日:2025/09/03 Wed 18:08:13
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『
ザ・ビートルズ(英:The Beatles)』とは、
イギリスのロックバンドにして、
世界で最も売れたアーティストである。
【概要】
1962年から1970年まで活動。バンド名の由来は「Beetle(カブトムシ)」+「Beat(ビート)」の造語。
彼らの活躍はそれまでの世界の音楽史を塗り替え、各種音楽雑誌で「最も偉大なミュージシャン・バンド」として幾度も名が上がり、世界中を探しても知らない人はまずいないであろう。
当時冬の時代だったロックを再隆盛させただけに留まらず、現代におけるポピュラー音楽のスタンダードを確立させた存在で、直接的・間接的問わず後進のアーティスト達への影響は計り知れず、世界の音楽史はビートルズ出現前と出現後に分かれているといっても過言ではない。
音楽性だけでなくファッションやライフスタイル等にも多大な影響を与え、ビートルズのコピーバンドデビュー前のイギリスにタイムスリップしてしまう漫画(『僕はビートルズ』)や、ある日突然世界からビートルズが存在しなくなったパラレルワールドを描いた映画(『
イエスタデイ』)が作られるなど、
単なる音楽史どころか、世界の文化史に大きな1ページを残した存在といえよう。
日本でも来日後に「グループ・サウンズ」と呼ばれるブームを巻き起こし、以降の歌謡曲・フォークソング・ニューミュージック・J-POP・そしてアニメソングにも多大な影響を与え続けており、現在でもファンを増やし続けている。
アニオタ諸君も、ファンでなくとも名前くらいは聞いたことがあるだろうし、実際に著名なアニメ監督にも熱心なファンを公言する者や歌詞や曲名の借用が非常に多い。
ビートルズをリアルタイムで知らない世代からは、ソフト・ロックや平和的なバンドのように思われがちだが、危険で際どい歌詞やシャウトといったパフォーマンス、メンバーのファッションなど、当時としては過激・斬新な一面も目立つ。
そのため、かつては学校や保護者などから(ビートルズひいてはロックそのものが)「不良の象徴」「風紀を乱す存在」として敵視され、「ビートルズ禁止令」「ロック禁止令」「エレキギター禁止令」などが出されることもあった。
いずれにしても、彼らの音楽性とパフォーマンスがそれまでのブルース、ロカビリー的な音楽をより進化させたことに疑いの余地はない。
彼らの始めたことが、今日では当たり前に行われていることが多すぎて、若い世代には何が新しかったのか分かりづらいことが、彼らの影響の大きさを物語っている。
【音楽性】
彼らの音楽的な特徴は色々あるが、最も特筆すべきは、やはり自分たちで作詞作曲を行うアーティストであったことだろう。
今では当たり前かもしれないが、当時は曲の自作自演は(バディ・ホリーなど少数を除き)ロックミュージシャンではあまりいなかった。
彼らの先輩格にあたる大スターのエルヴィス・プレスリーも自作した曲はさほどない。
しかし、ビートルズの大ヒットでザ・ローリング・ストーンズなど多数の後続アーティストがこれに倣い、現在に至っている。
また、ビートルズの場合は各メンバーの得意分野や個性がそれぞれ分かれており、その違いを楽しめるというのも大きな特色であった。
基本はエレクトリックギターを中心としたロックバンドだが、前期はシンプルなロックンロール、中期は実験的なサイケデリック、後期は様々な音楽を取り入れた芸術性の高い作品まで、非常に音楽性が幅広い。前期と後期が違い過ぎて、別のバンドかと思うのはビートルズあるある。
また、ハーモニーが非常に美しいバンドでもあり、一見シンプルに聞こえる歌でもパートを分解してみると、かなり凝ったハモリになっていることも多い。
【メンバー】
担当楽器は中期以降、頻繁に入れ替わるのであまり意味をなしていないが一応記載。
●ジョン・レノン
担当は主にリズムギター。ハーモニーは低音担当。
フルネームは「ジョン・ウィンストン・レノン」で、オノ・ヨーコとの結婚後はヨーコの苗字「小野」を入れた「ジョン・ウィンストン・オノ・レノン」に改名している。
言わずと知れたリーダーで口の悪い毒舌家。後期およびソロ時代の丸眼鏡にロングヘアー(+ヒゲ面)がトレードマークとなっており、子息のショーン・レノンも氏に似たビジュアルで活動している。
両親が離婚し里親に預けられるなど複雑な家庭で育ち、学生時代は相当な不良であった。
しかし、エルヴィス・プレスリーにのめり込んだことでロックに目覚め、さらに実母のジュリアからギターコードを教わると、高校の仲間と共にクオリーメンを結成。
当時の流行りの曲をカバーする傍ら、自作曲も作るようになる。幾らかメンバーの脱退等を経てビートルズとしてデビュー。
ギターの腕はそこまで高くないが、『All my loving』の三連符や『Get back』のソロなど名演奏も残している。初期はハーモニカも演奏していた。
作品の傾向はポールと比較すると内省的なものが多かった。
ビートルズ活動初期にシンシア・パウエルと結婚し、息子ジュリアンを授かるも、複雑な家庭で育ったジョンは子供との接し方がわからず、結局そこに現れたオノ・ヨーコ(小野洋子)と深い仲になっていき、ついに彼女と結婚した。ヨーコとの新婚旅行先で、ホテルの部屋のベッドに横たわったままインタビューを受けた一件はあまりにも有名。
なおジュリアンとはヨーコとの再婚後に何度か面会しているが、父子の溝が埋まることはついになかったという……。
解散後はアメリカでヨーコとの間に娘と息子ショーンを授かり、反戦運動などにヨーコと共に参加。
『Imagine』などの名曲を残しながらも、ポールと歌詞の中で中傷合戦を繰り広げたが、1970年代後半になると和解。
しかし、ビートルズ再結成をほのめかす発言をしていたが、1980年12月8日、狂信的なファンの男マーク・チャップマンに撃たれ、40歳の若さでこの世を去った。
ヨーコとの結婚後からも分かるように、歌舞伎や日本庭園などの日本芸術に興味を示す等、大変な親日家で来日経験もある。
長野県軽井沢にある万平ホテルのカフェテリアでは、ジョンが直々に伝授した淹れ方で提供するロイヤルミルクティーが今でも看板メニューになっている。
子息のジュリアン、ショーン共にミュージシャンとして活動しており、日本では両名ともホンダのCMに出演経験があるという奇妙な共通点がある。
●ポール・マッカートニー
フルネームは「ジェームズ・ポール・マッカートニー」。
主にベースを担当。愛用していたカール・ヘフナー社製のエレキベースは「
バイオリンベース」の愛称で今なお親しまれている。
また
左利きで、ポールに倣ってか漫画の世界でも
左利きでベースを弾くキャラクターが度々登場する。
ベースのフレーズはメロディアスで耳に残りやすく、数多くのベーシストに影響を与えた(よくあんなの弾きながら歌ってたな…)。
特に後期のベースラインは非常に凝ったものになり、『Something』『Come together』などで聴くことができる。
しかし、実際はベースどころかギターは勿論ドラムなども演奏できるメンバー1のマルチプレイヤー。ピアノでもメンバーで最も複雑な演奏を行っている。
さらに歌唱力もメンバーで最も高く、主に高音ハーモニーを担当。彼の高音はバンドの特徴であった。
ジョンと共に数々の名曲を書いたバンドの中心の一人で、後期は事実上のリーダーだった。
ジョンに比べると優等生なイメージで見られやすく、明るくポップな曲が多いといわれる。
しかし、メンバー中最初に前衛芸術に手を出すなど実験的なことも数多く行っており、実際はポップに落し込むのが巧かったと言えるだろう。
ジョンが『Revolution 9』を録音したのもポールに対する対抗という説もある。
解散後は出だしは遅れたものの、当時の妻リンダ・マッカートニー、60年代からの友人で元ムーディー・ブルースのデニー・レインと共にウィングスを結成。
結成後は軌道に乗り72年の『My Love』を皮切りに、それ以降も『Band on the Run』『Venus and Mars』等ヒット作を出し続け、また、メンバー唯一70年代にワールドツアーを成功させている。
日本での逮捕を切っ掛けにウィングス解散後はソロに戻り、スティーヴィー・ワンダーや
マイケル・ジャクソンのデュエットでヒットを飛ばしたり、元10ccのエリック・スチュワートやエルヴィス・コステロなど、多くのミュージシャンともコラボレーションを行い、2020年代現在でもコンスタントにアルバムリリースやツアーを続けており精力的に活躍中。
意外な所では、2017年に公開された映画
パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊で、ジョニー・デップ演じる主人公ジャック・スパロウの叔父「ジャック叔父さん」として登場したことも。
子息は5人おり、中でも長男のジェイムズ・マッカートニーは現在でもミュージシャンとして活動中。
ポールの作品のレコーディングにも参加しており、2010年にはデビューEPも発表している。
また、三女のステラ・マッカートニーはファッション・デザイナーとして、既にポールの名前に頼る必要がないくらい高名。たぶん「え!ビートルズってステラ・マッカートニーのお父さんがいたバンドなの!?」って思う層も珍しくないのではないだろうか。
ちなみにTBS系のバラエティ番組「
水曜日のダウンタウン」では、現在のビジュアルを例に出して「ポール・マッカートニー 知らない人が見たらおばあさん説」という
失礼極まりないどころかよく放送できた説が紹介されたことがある。
●ジョージ・ハリスン
最年少で主にリードギター担当。ハーモニーは中音域を担当。
ビートルズ活動中はあまり技巧的なギターソロはなく、中期以降は他のメンバーに取って変わられてしまうことも多かった。
しかし、ソロ後はスライドギターの名手として活躍している。
初期はあまり曲を書かず、ジョンとポールの書いた曲を歌うことが多かった。
そのため地味な存在であったが、特に『Revolver』以降作曲家として頭角を現し、後期はレノン・マッカートニーと肩を並べるレベルにまで成長した。
それでもバンド内での地位は高くはならず不満を募らせ、これがビートルズ解散の原因の一つとなった。
またメンバーの中でも特にインドにのめり込んでおり、同国の楽器シタールの導入や、インド人活動家との交流などを行い、自身の音楽に取り入れていった。
ソロ後は最も早く活動をはじめ、70年代初頭は快進撃となった。
しかし、70年代後半にはクォリティは高いもののセールス面で徐々に落ち込んでしまい、ジョン追悼でリリースした『All Those Years Ago』がヒットしたのを除き、80年代初頭頃には殆ど音楽活動から距離を置くようになっていた。
しかしその後、1987年にジェフ・リンのプロデュースでリリースしたアルバム『Cloud Nine』で復活。当時は落ち込んでいったポールと入れ替わる形で再ブレイクを果たし、その後ジョージとリンを中心にボブ・ディラン、トム・ペティ、ロイ・オービソンと組んだ変名グループ、
トラヴェリング・ウィルベリーズが好評を得て、更にエリック・クラプトンのバンドを率いて来日公演を果たすなど、第二の黄金期を迎えることになる。
90年代後半には暴漢に刺されるアクシデントに見舞われたがなんとか一命は取り留める。
再び音楽活動を再開しようとしたものの、末期がんが見つかってしまい、懸命の治療も空しく2001年に死去。
子息のダニー・ハリスンもミュージシャンとして現在でも活動中。
容姿・歌声ともにポールをして「ジョージが昔の姿のままここにいるみたいだ」と評するほど瓜二つと評判。
●リンゴ・スター
本名はリチャード・スターキー。ドラムス担当。芸名の由来は指輪をいつも付けていたことから「Ring」(指輪)のスペルをひねって「リンゴ」で、
果物のリンゴは無関係。スターは名字のスターキーを縮めたもの。
実は4人の中では唯一、クオリーメンからのオリジナルメンバーではなく、デビュー直前に解雇されたピート・ベストの後に加入したメンバー。
それまでは別のバンドに参加していた。
歌うことはあまり多くはないものの、ほのぼのした低い声が特徴で最も聴き分けがつきやすい。
作曲やハーモニーにもあまり参加しなかったため、やや地味よりな存在だが、リンゴのドラムスはポールのベースと並びビートルズの要だった。
とにかくドラムフレーズの引き出しが多く、聴き慣れた人からは「ドラムを聞いただけで何の曲かわかる」と言われるほど、どれもが見事に楽曲とマッチしている。
またビートルズで最大の人格者とも言われ、解散後も全メンバーと良好な関係を保ったのはリンゴのみとされる。
実際「自分はビートルズで二番目に好きなメンバーでは一位になれる」と本人も語っているように、温厚で謙虚な性格はビートルズの人間関係の潤滑剤となり、リンゴがいなければビートルズはもっと早く解散していたと言われる。
ソロ後は70年代初頭に絶頂期を迎えるもその後は低迷。
しかし、90年代ころから持ち直し、現在は大ヒットこそ出さないものの、マイペースに活動を続けている。
また、あのテレビ人形劇「
きかんしゃトーマス」のナレーションを務めていたことがある。
夫人は
007シリーズでボンドガールを演じた経験もある女優のバーバラ・パック。
子息のザック・スターキーも現役のドラマーで、ザ・フー、オアシス、矢沢永吉等往年のロックスターたちのサポートメンバーとして参加している。
特にザ・フーのキース・ムーンはザックにとってドラムの師匠のような存在で、1996年からは同バンドのサポートドラムとして亡きキースの後を受け継いだ(2025年脱退)。
【元メンバー】
●ピート・ベスト
ドラム。しばしば「5人目のビートルズ」に名前が挙がる人物。
1962年のメジャーデビュー直前に脱退(実質的には解雇)。
脱退理由は「ドラムの演奏技術が低かった」「ポール・マッカートニーとの不仲」等諸説あるが、はっきりした理由は分かっていない。
また、マネージャーのブライアン・エプスタインや、プロデューサーのジョージ・マーティンも揃って「他の3人と比べると、ピートのドラミングは劣っていた」「曲は素晴らしいが、ドラムがダメだ」とコメントしていた。
そもそもビートルズは中々ドラマーが定着せず、一時はポールがドラムを代行していた時期もあったほどで、ピート加入の経緯は「まともなドラムセットを持っていたから」であるとも言われている。
またピート本人も不良スタイルからマッシュルームカットにスーツ姿への変化を嫌がり、ただ一人リーゼントヘアを突き通したことや、度々ライブを欠席するなど、協調性にも欠けるタイプだったとも言われ、ピートと仲の良かったジョージも「ピートは僕ら3人(ジョン、ポール、ジョージ)に比べると少しまともだった」とも述べている。
美男子だったこともあってファンも多かったため、ピートの解雇はリヴァプールでちょっとした騒動となり、怒りの矛先を向けられたエプスタインは襲撃を警戒してボディーガードを雇う羽目になったという逸話がある。
脱退後は芸能界を引退し、公務員として働く傍らアマチュアで音楽活動を続けていたが、2025年にそれも引退している。
●スチュアート・サトクリフ
ベース。愛称は「スチュ」。ジョン・レノンとは高校時代の同級生で、ビートルズの前身バンドであるクオリーメンは彼とジョンが中心になって結成し、さらにビートルズの名付け親でもあるという最古参メンバー。
ジョンとは親友同士で、一時は同居するほど関係が深く、ポールがその関係性に嫉妬していたと言われている。
ただ、ベースの演奏技術が上達しなかったことや、本人は元々音楽ではなく画家を志していたこと、この頃より頭痛などの体調不良が続いたことなどから、ビートルズがハンブルク公演を終えた1961年に脱退。
しかし体調が悪化し、1962年の4月に21歳の若さで死去。
ジョンは葬儀には参加しなかったが、後年になって妻のヨーコに「スチュはもう一人の自分だった」としばしば語っていたという。
【スタッフ】
●ジョージ・マーティン
プロデューサー。『Let It Be』を除くビートルズの全作品をプロデュースし、「5人目のビートルズ」筆頭候補と名高い名仕事人。
ビートルズより一世代上の「大人」だが、柔軟な感覚を持ち、メンバーの無茶なアイデアにも最大限に対応し続けた陰の功労者。
『Rubber Soul』以降増えていった管弦楽器のアレンジはほとんどの曲で彼が手掛けており、『Yesterday』のストリングスアレンジに成功して以降、様々な楽曲に取り入れるようになった。
また、ピアノをはじめとするキーボード類やコーラス等の演者としてもレコーディングに参加しており、有名なところでは『In My Life』のピアノは彼の演奏。
そして本人の人柄もまさしく「英国紳士」のような謙虚な人物で、手柄を主張せず裏方に徹する、そういう意味でも「大人」な人物であった。
2016年3月に死去。
●ブライアン・エプスタイン
メジャーデビューを果たした1962年からマネージャーを務めた。通称「エピー」。
ユダヤ人の裕福な家庭に生まれ、リバプールでレコード店を営んでいたが、受注の多かった無名グループが気になりキャバーンまで観に行ったところビートルズのサウンドにショックを受け、マネージャーに名乗り出る。ジョンに一目惚れしたという説も。
マーティンが作曲で多大な貢献をしたならば、彼はイメージ戦略やメンバーのヘルスケアで多大な貢献をし、ビートルズを世界のスターへ仕立て上げた功労者と言える。
クオリーメン時代の革ジャンを着て平気でステージ上で酒を飲んだり「F〇ck」と叫ぶようなパンキッシュなイメージを一新させ、
「全員マッシュルームカットのスーツ姿」「曲の〆に一礼」等今日の我々にも馴染み深いビートルズのパブリックイメージを生み出したのもエプスタインの尽力によるもの。
そしてメンバーの誰にも肩入れをせず同じ距離感で扱い、バンドを仲違いさせないように徹底的に気配りをしていた。彼がいなければ間違いなくバンドはもっと早く空中分解していただろう。
ビートルズがツアーを辞めてからは発言力も衰え、孤独に耐えかねて薬物依存に陥っていたという。
その結果、1967年にアスピリンの過剰摂取で32歳の若さで死去。彼の死がビートルズ崩壊の第一歩だったといわれている。
そしてこのたび、彼を主役に据えたビートルズの伝記映画「ブライアン・エプスタイン 世界最高のバンドを育てた男」がジェイコブ・フォーチュン=ロイド主演で公開されることとなった。
2025年9月26日公開。
●ニール・アスピノ―ル
ローディーで、後にビートルズが設立した事務所「アップル・コア」の取締役を務めた。
マルがレコーディング等でも活躍していたのに対し、ニールは裏方に徹することが多かった(録音への参加は2曲程度)。
しかし、ジョージが体調不良で参加できなかったTV出演時のリハーサルに代役として立ったことがある(実際、細面でジョージに雰囲気が似た人物である)。
2008年逝去。
●マルコム・エヴァンス
通称「マル」。ニールと並ぶビートルズの名物ローディー。
197センチの巨体を買われてビートルズのボディガードを任されると、大きな身体とは裏腹の心優しくよく気がきく性格からメンバー4人の絶大な信頼を寄せられた。
メンバー外ではおそらくマーティンに次いでビートルズの録音に参加している人物と思われる。ビートルズやジョン、ジョージらのソロ作でパーカッションや簡単なキーボードの演奏で多数クレジットされている。
ビートルズ解散後は、そういった活動の傍ら音楽プロデューサーを志すが、次第に薬物とアルコールで精神を病んでいき、1976年にロサンゼルスで警官に射殺されるという最期を迎えた。
【略歴】
●結成前夜
1956年、高校在学中のジョン・レノンが友人達とバンド「クオリーメン」を結成。その後、友人の紹介でポール・マッカートニーを紹介され、ポールが加入した。
その後、ポールの紹介でジョージ・ハリスンが加入、ジョンは親友のスチュアート・サトクリフを強引にベーシストとして加入させた。
1960年にはバンド名も「ビートルズ」に改められた。
しかしドラマーは中々決まらず、結局ピート・ベストが加入。
何人かのメンバーの脱退を経て、ジョン、ポール、ジョージ、スチュ、ピートでメンバーが固定された。
ドイツのハンブルクで公演を行った際、別バンドで活動していたリンゴ・スターと出会い、親交を持つことになる。
そしてハンブルグ公演終了後にスチュが脱退し、デビュー直前にピートが解雇され、以前からピートに代わって時折ドラムを叩いていたリンゴ・スターが正式加入し、1962年についにメジャーデビューを果たした。
●デビュー後
アルバム『Please Please Me』発売後、破竹の勢いでイギリスで大ヒット。1964年に『I Want To Hold Your Hand(邦題:抱きしめたい)』がアメリカで待望のヒットを記録すると、エド・サリヴァン・ショーへの出演を皮切りに
アメリカに上陸。世界中に「ビートルマニア」と呼ばれる熱狂的なファンが発生した。
さらにビートルズの後に続く形でローリング・ストーンズ、キンクス、アニマルズ等の英国産ロックバンドも立て続けにアメリカで大ヒットする、所謂
「ブリティッシュ・インヴェイジョン」を引き起こすことになった。
映画『Hard Day’s Night』も公開され、同名アルバムも大ヒットし世界ツアーも大成功を収め、同名のアルバムも軒並み大ヒットしていた。
デビューして暫く経った1965年、メンバーはついに幼少期からの憧れのロックスター、エルヴィス・プレスリーと最初にして最後の会談をエルヴィス邸で行なった。流石のビートルズも全員緊張していたが、徐々に打ち解けて一緒にギターを弾いたりと軽い演奏を挟みながら打ち解けていった。しかしエルヴィスの「君たちのレコードはすべて持ってるよ」という賞賛に対しジョンが緊張のあまり「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」とあまりに空気を読まないジョークを発してしまい周囲を凍らせてしまう。会談後にジョンはエルヴィスの関係者に「エルヴィスがいなければ今の自分はいない」と本人に伝えるよう頼んだようだが、失言が大きく後の政治主張のすれ違いも相まって、二人の溝が埋まることは無かった。反対にジョン以外のメンバーとは晩年まで良好な交流が続いた。
しかし1966年、ジョンがアメリカで
「僕らはキリストより人気がある」と発言しアメリカで大問題に発展。さらに、当時偏見の強かったロックへの風当たりもあり、アンチが大量に発生した。
同年には
日本公演が行われるも、日本武道館にてロックバンドの演奏をするという前代未聞の事態に、右翼や挙句の果てに国会で反対が出る。
しかし、そんな大人たちの予想に反して日本の若者からは熱狂的に迎え入れられた。
前年にようやくクラシックコンサートが初開催されたばかりの日本武道館で、いきなり斬新なロックを披露するという挑戦は、
音響が当時の基準から見ても悪めの方だった(マイクスタンドの不備等)なんてハプニングがあり、セットリストが全11曲と現在から見ると短めのライブ時間でもあったものの、
観客達に生ビートルズの感動を与えるには十分な程の衝撃であり、その後「武道館公演」が歌手・バンドの一つの目標点になる流れを築いていった。
また本番前に「前座」として日本側のバンドによるミニライブ・パフォーマンスが行われており、
その前座組から内田裕也・尾藤イサオ・「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」(翌1967年にレコード大賞受賞)、ザ・ドリフターズが有名になる事で、別な意味でも歴史に残る事となった。
ちなみにこの公演にはのちにドリフメンバーとなる
志村けんも観客として見に来ていたことも有名なお話。
ただし、ファンが熱狂的過ぎてビートルズ達のオフ時の行動も安全のため制限され、前述した右翼等の反発も考慮して武道館周辺は厳重な警官隊による警備で保護されていたという。
しかし、続く
フィリピン公演で当時の大統領夫人の歓迎会を「滅多にない休日だった」として辞退。
これが切っ掛けでフィリピン国民が暴徒化し、4人はフィリピンを脱出。
これらのことが重なり、かねてより多忙を極めていたこともあり、我慢の限界に達したビートルズはライブ活動を終了し、レコーディングアーティストとして活動していく。
●ライブ活動終了後
次作『Revolver』では、それまでのライブでの再現を前提としていた作品から一転し、レコーディング技術を用いたライブ再現が不可能な作品を作っていく。
そして、世界初のコンセプトアルバム『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』を発表。
当時のトレンドであるサイケデリック要素を前面に押し出した作品を続けて発表していった。
さらに以前からその傾向はあったが、ギター以外の楽器もそれまで以上に積極的に使われるようになっていく。
しかし、長年マネージャーを務め、初期のビートルズにとって指導者的役割を担っていたエプスタインが死去。
ポールが(悪気は全然無いのだが)半ば強引にメンバーを取りまとめようとしたこともあり、この頃からメンバー内の不仲が表面化していく。
そして二枚組のボリュームを誇る『The Beatles(通称ホワイト・アルバム)』を発売。前作よりもサイケデリック色が弱まり、高評価だったもののソロ作品の寄せ集めのような作品となった。
●後期から解散
この状況に危機感を覚えたポールの主導で「もう一度原点に返り、ギター主体のシンプルなライブバンドとしてのビートルズをやろう」とゲット・バック・セッションを開始。
紆余曲折あって、ビートルズのレコーディング風景をドキュメンタリーとして公開し、最後に屋上でのゲリラライブをやることになったのだが、結局このセッション中に不仲がさらに悪化。収録された曲も一時お蔵入りになる。
その後、『Abbey Road』を発売、結果的にメンバーが最後に揃ってレコーディングに参加した作品になってしまった。
ゲット・バック・セッションで録音された曲はフィル・スペクターをプロデューサーとして起用し『Let It Be』として発売された。
そして、ジョンとポールはレコード会社との契約更新中に口論となり、ジョンが脱退宣言。
ひとまずは秘密裏に収めるも、ポールが独断専行でソロアルバムをリリース、ジョンを出し抜く形で脱退を公表してしまう。
その後、ポールがロンドンの裁判所にビートルズの解散を訴え、1976年にようやく結審、裁判所がこれを認めビートルズは正式に解散した。
またこの時期には長年に渡ってローディーとしてビートルズを支えていたマルコム・エヴァンスが亡くなっている。
●解散後
解散後は4人はソロアーティストとして活動。
しばらくはポール対他の3人という図式で不仲な関係が続くものの70年代後半にはポールがジョンの自宅を訪問するなどあって関係は修復される。
しかしその矢先、1980年にジョンが銃撃され死去。同年にジョンへの追悼歌として制作されたジョージの楽曲『All Those Years Ago(邦題:過ぎ去りし日々)』のレコーディングで久々に元メンバーが集まることに。
そして、1990年代にアンソロジー・プロジェクトとして、生前のジョンの未発表曲を元メンバーで完成させ、1995年『The Beatles Anthology』を発表。
その後2001年ジョージが死去。
その後の新作はないと思われたが、2023年に90年代では技術的に難しかったジョンの未発表曲を完成させ、正真正銘の最後の曲『Now And Then』が発表された。
【主な作品】
約7年間の活動の中で、英国オリジナル盤基準で計29枚のシングルと計12枚のアルバムをリリースしている。
『Yellow Submarine』を除いたアルバムは英国で売上チャート1位を獲得し、それ以外の国でも米国と日本を中心に高順位にチャートしたものが殆どである。
本項では最も有名な英国盤のオリジナルアルバムとベストアルバムを中心に解説していく。
そして世界的ロックバンドなだけあり、音楽に留まらず映像作品もいくつか制作しているため、有名なものも一部紹介。
●オリジナルアルバム
『Revolver』までのアルバムに関しては英国盤と米国盤で収録曲が異なっていたが、現在は英国盤が正式とされる。
()内は英国でリリースされた日付。収録曲は全て英国のオリジナル盤準拠。
〇Please Please Me(1963年3月22日)
デビューシングルから約半年後にリリースされた記念すべきデビューアルバム。上記の日付はモノラル版のリリース日で、約1か月後の1963年4月26日にはステレオ版もリリースと、このアルバムのみ日付を分けて発売された。
ジャケットはEMI本社の吹き抜け階段で撮影され、後にベストアルバム『赤盤』『青盤』でも同じ撮り方が踏襲されることに。ついでにリンゴの貴重なリーゼントヘアーが拝めるのも本アルバムだけ。
当時からクオリーメンの時代を通して各所でライブをしてロックバンドとしての腕を鍛えてきた彼らだったが、2ndシングルとしてリリースした『Please Please Me』が全英1位にチャートインする大ヒットを記録。その流れで、本アルバムが制作されることとなった。
本アルバムもリリース約1か月後にチャート1位を獲得し、そのまま約30週もの間1位に居座り続けた。
さらに言えば本アルバムを1位の座から蹴り堕としたのも、ビートルズ自身(2ndアルバム『With The Beatles』)だった。
大半の楽曲が1日で録音され音質に荒はあるものの、この時点で数々の名曲が収録されている。
全14曲中8曲がオリジナル楽曲で、ビートルズ基準で言えばカバーの割合が多めのアルバムではある。
しかし、前述の通り当時は作詞作曲は分業体制ないしカバーが主流だった中、オリジナル曲メインをデビューアルバムで出したビートルズが異例中の異例であった。
さらに当時は今以上にシングルリリースがミュージシャンとして基本的な形態であり、アルバムは今でいうベストアルバム的な「シングル曲の寄せ集め」と言う認識が強かった。
対してビートルズはアルバムに収録していないシングル曲もこの時点から多数存在し(本アルバム時期の著名な楽曲で言えば『From Me to You』『She Loves You』等)、「オリジナルアルバム」と言う概念を生み出したのもビートルズが発端と言う意見も存在する。
・I Saw Her Standing There
本アルバムのファーストナンバー。
当時らしいオーソドックスなロックンロールだが、この頃からビートルズによって「ロックンロール」が「ロック」へと昇華していく様が聞き取れる。
・Misery
元々は当時ツアーを一緒に回っていた女優のヘレン・シャピロへ提供するために制作された楽曲で、アルバム制作の際に楽曲数を埋めるために急遽セルフカバーされることとなった。
同年にシンガーのケニー・リンチがカバー。ビートルズの楽曲で初めてカバーされたのもこの楽曲である。
・Love Me Doo
記念すべきファーストシングル。初期ビートルズらしいシンプルな愛を歌ったナンバー。
実はドラム担当がピート、リンゴ、アンディ・ホワイトの3バージョン存在しており、シングル盤はリンゴバージョンでアルバム盤はアンディバージョン。
・Please Please Me
本アルバムの表題曲。
元々はもう少しスローテンポな楽曲だったが、マーティンの提案によりオリジナルよりアップテンポになった。
・Twist and Shout
米国のR&Bグループ・Ten Top Notesのカバー曲。
アルバム制作の最後に録音された楽曲で、一日で累計数百曲以上リテイクした後だったためジョンも死にもの狂いでレコーディングに挑んだとのこと。
カバー曲でありながら100万枚以上売れたシングルであり、全英チャートでも2位を獲得。ちなみに、その際の1位はまたしてもビートルズの『Can’t Buy Me Love』だった。
〇With the Beatles(1963年11月22日)
前作からわずか7か月後にリリースされた2ndアルバム。
前作で不動の人気を手にしたビートルズだが、本作は数多のツアー・テレビ・インタビュー・イベントへの出演等で多忙極まる最中に、クリスマス商戦を見据えて制作が開始された。
ポップで明るい初期ビートルズの傑作。
発売前の予約の時点で約50万枚が確保され、リリースされると前作『Please Please Me』を首位の座から蹴落とし、21週連続1位を記録することに。
さらに著名な音楽評論家からも「1963年の傑出した英国人作曲家はジョン・レノンとポール・マッカートニーである」と知識人階級からもこの上ない評価が与えられ、これまで若者カルチャーとバカにされてきたロックに音楽的価値を見出されることとなった。
なお、ジョンはこの評価を「さっぱり訳が分からなかったけど、おかげでインテリ層にも受け入れられた」とジョンらしく皮肉交じりに喜びを見せていた。
ジャケットはホテルの廊下で自然光を活かし、陰影を強調した「ハーフシャドウ」と呼ばれる撮り方をされている。
やはり有名なジャケットで、後年多数のパロディジャケットが出ているほど。
また、前作と違いメンバーの表情が「笑顔じゃない」点も当時としては斬新であり、バンドにはアイドル的人気を求められカメラ目線の笑顔なジャケットが主流だった当時ではかなり異質なものだった。
そのためEMIの上層部もこのジャケットでのリリースには難色を示したが、マーティンの説得で無事採用されることとなった。
ちなみに発売日は奇しくも米国でジョン・F・ケネディ大統領の暗殺事件が起きた日でもある。
また、本アルバムリリースの翌年にビートルズは初渡米を行なうのだが、そこにはケネディ暗殺で暗くなっていた国のムードを盛り上げる役割も狙われていたとのこと。
・It Won’t Be Long
非常に激しいアップテンポな楽曲。
元々はシングル用に制作された楽曲だったが、諸事情で見送られアルバムにのみ収録となった。
ビートルズファンの桑田佳祐もフェイバリットに挙げている。
・All My Loving
ポールがツアーバスの移動中に制作を開始し、その出来にジョンも嫉妬したほどの名曲。
奇しくも後年ジョンが銃殺された時刻にラジオで流れていた曲である。
・Please Mister Postman
モータウン発の女性ボーカルグループ・マーヴェレッツの楽曲カバー。
オリジナルは女性ボーカルらしく「恋人からの手紙に待ち焦がれて配達員に手紙があるか尋ねていく歌」と言う可愛らしい内容だが、ビートルズの演奏とジョンの力強い歌い声でさながら「恋人からの手紙を待ちわびて配達員に『お前手紙持ってんだろ!?とっとと出せ!!』と恫喝している歌」に聴こえると評判。
・I Wanna Be Your Man
元々はライバルであるローリング・ストーンズに提供した楽曲。
当時ロンドン市内で偶然会ったジョンとポールをミック・ジャガーとキース・リチャーズがスタジオに招き、その際に楽曲の提供を求め、二人が即興で完成させたとのこと。
目の前で名曲が出来上がっていく様を見せられたミックとキースが触発され、オリジナル楽曲を書くようになったとか…。
・Don't bother me
ジョージが初めて作った楽曲。ホテルでの体調不良時に作曲練習がてら作ったとのこと。
ジョージ自身は後に本楽曲を「特別良い曲だとは思わないし、曲じゃないかもしれない。でも『書き続ければ何とかなる』と分かっただけでも収穫だった」とバンド末期における才能の爆発を予期させるようなコメントを述べている。
〇A Hard Day’s Night(1964年7月10日)
同名映画のサウンドトラックでもある3rdアルバム。
アメリカで大ヒットしブリティッシュ・インヴェイジョンを起こし、全世界の「ビートルマニア」たちを熱狂させている真っただ中に制作された、脂がのりまくっている時期のアルバム。
ビートルズのディスコグラフィーでは、初めてカバー曲が無く全てレノン・マッカートニー作のオリジナル楽曲で構成されている。
ジョンの曲が大半を占めており、対してポールの単独曲が3作と少ない。
バンド初期の「リーダーにして兄貴分のジョン」と「その弟分のポール」の関係性が最も如実に表れていると言える。
このアルバムでジョージの12弦リッケンバッカーが有名になった。
邦題は「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」という意味不明なものだった。
・A Hard Day’s Night
アルバムの表題曲。
イントロが有名な楽曲でもあるが、実はこのイントロ、たった1音ながらも「ギター1本では再現できない=ジョン、ポール、ジョージ全員が同時に違うコードで弾いている」と言うさらっとすごいことをやってのけている。
タイトルの由来はリンゴが多忙な日常で発した、所謂「リンゴ語録」から。
ジョンとポールのパートが聞き分けやすいため、聞き分けに慣れていない初心者におすすめ。
・I Should Have Known Better
『Love Me Doo』等を彷彿とさせる、ハーモニカを交えた初期ビートルズらしいラブソング。
しかしこの楽曲を最後に、ハーモニカを大々的にフィーチャーした楽曲は制作されなくなった。
・If I Fell(邦題:恋に落ちたら)
流れを変えるかのようなしっとり目のバラード。
中盤のポールが入るあたりでキーを下げ、タイトル通り「恋に落ちる」様を見事に表現している。
・And I Love Her
本作の数少ないポールの楽曲。
ジョージのナイロン弦やらリンゴのボンゴやら普段よりラテン風でアプローチが特殊になっている。
楽曲の大半はマイナー調だが、〆の部分のみメジャー調を使う「ピカルディ終止」が用いられ、夜明けに向かっていくような雰囲気を感じ取れる。
・Can’t Buy Me Love
同年にリリースされたシングルからの収録。
初期ビートルズらしい、馬鹿正直に愛を歌う明るいロックンロール調の楽曲。
〇Beatles for Sale(1964年12月4日)
前作から半年もしないうちに出された4thアルバム。
前作までとは一転して、アコースティック主体なフォーク路線に重きを置かれている。
やや地味寄りなアルバムながらも、『Eight Days A Week』など名曲も多い。日本公演ではこのアルバムの曲が多かった。
・No Reply
元々は他のアーティストに提供する予定だった楽曲。
・Rock And Roll Music
チャック・ベリーの楽曲のカバー。
スカンジナビア諸国ではシングルカットもされ、チャート1位も獲得している。
・Eight Days A Week
本アルバムで最も有名な楽曲。
曲名は多忙極まる日常でリンゴがたまたま口にした言葉をそのまま拝借した所謂「リンゴ語録」。
イントロがフェードインして始まる楽曲だが、ポップスで用いられたのは本楽曲が初めて。
〇Help!(1965年8月6日)
同名映画のサウンドトラックでもある5thアルバム。旧邦題『4人はアイドル』。
再び明るい路線に戻った作品。
表題曲の『Help!』をはじめ『Ticket To Ride』『Yesterday』など日本でもなじみのある作品が収録されている。
・Help!多忙なジョンの心の叫びを歌った、日本ではテレビ番組「開運!なんでも鑑定団」の主題歌、関東圏で展開されているスーパーのイトーヨーカドーの店内ソングとしても有名な楽曲。
リリース当時はあまりの多忙でメディア出演もままならず、代わりに各テレビ局に提供されたのが有名な「四人掛けの縦長な椅子に座り
傘担当のリンゴ以外で演奏しながら歌う映像」である。
・You've Got To Hide Your Love Away(邦題:悲しみをぶっとばせ)語りかけるようなジョンの歌い方やギターのみで始まるイントロ等ボブ・ディランの影響を感じる楽曲となっている。同年にビーチ・ボーイズがカバー。
・Ticket To Ride(邦題:涙の乗車券)歌い手の元から女性が去っていく、哀しき失恋ソング。
後年に米国のポップデュオ・カーペンターズによってカバーされたバージョンも有名。
Mr.Childrenの楽曲『Cross Road』の歌詞にも出てくる。
・Yesterday「世界一カバーされた楽曲」と評されている、ビートルズの全楽曲の中でもトップクラスに知名度の高い名曲。
なんとビートルズが活動していた時代の時点でも約1000を超えるカバー音源が存在したという。
ロックでストリングスが使用された初の試みとも言われている。
〇Rubber Soul(1965年12月3日)
ライブバンド時代最後のアルバムにして、バンド中期の大名盤。
前作までよりも技巧的な作品が目立つようになっており、後のレコーディングアーティストとしての片鱗を感じさせる。
ほんのりと溢れ出るサイケデリックな雰囲気も相まって本作を「マリファナ」、次作『Revolver』を「LSD」と表現されることもあるとか。
アルバム名は、当時ソウルやR&B等の黒人音楽をカバーしていた白人ミュージシャンに対して黒人ミュージシャンが発していた「プラスチック・ソウル(=紛い物の魂で歌ってる似非モノ音楽)」という揶揄に対抗して付けられた。
「ラバー(=ゴム)」とするなら差し詰め「柔軟に様々な形に変化する=何にでもなれる魂」と言ったところか。
ジャケットはレノン邸の庭で撮影され、撮った写真を写したボール紙をメンバーに見せる際にボール紙の不具合で歪んで見えたものをメンバーが気に入りそのまま採用されたもの。
また、ジャケットにビートルズのバンド名が記されていないのも本作が初めて。
ここまで来れば、書かなくてもビートルズの作品だと分かるだろうと言うEMI並びに制作陣の強気な姿勢が現れている。
やはり多忙の中制作されたと言うこともあり、没曲やデビュー前の楽曲を掘り起こして収録されたり、果てには締め切り13時間前になっても3曲足りずギリギリでジョンとポールが過去の没曲を持ち寄って何とか間に合わせた逸話もあるほど。
ライブバンド時代らしく収録曲の大半はラブソングではあるものの、過去作より大人な恋愛観やネガティブなニュアンスが目立った内容の楽曲が増え、後の哲学的な楽曲に通ずる変化が見て取れる。
前作同様、日本公演ではこのアルバムの曲からの選出が多かった。
余談だが、米国のサーフロックバンドであるビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが本作に触発され、60’s屈指の大名盤『Pet Sounds』を制作したのは有名な話。
なお、ウィルソンに影響を与えた『Rubber Soul』が英国版と米国版のどちらなのかという点はしばしば議論の対象となっていたりする。
・Drive My Car
スターを夢見る女性が主役の楽曲。
全編にわたってジョンとポールのデュエットで歌われ、〆で少しだけポールがスライドギターを弾いている。
最後の歌詞は車のクラクション音を表現している。
・Norwegian Wood(邦題:ノルウェーの森)
インドでの経験を得て、シタールが初めてロックに使われた楽曲となった。
本曲を皮切りに、ローリング・ストーンズ等他のロックバンドも音楽にシタールを用いるようになった。
・Nowhere Man(邦題:ひとりぼっちのあいつ)
ビートルズとしては初の愛やロマンスを歌わない歌詞で、後年のジョンが好んでいた哲学的な表現をメインに書かれている。
余談だが、本曲でジョンとジョージは全く同じモデルの水色のストラトを弾いている。
・Michelle
楽曲の原型自体は学生時代から存在し、クラスメイトがフランス語の歌を歌っていた際にポールが即興で歌ったのが本楽曲。
・Girl
「Tit」を含むかなり攻めた歌詞のコーラスがある。
晩年のジョンもソロで『Woman』と言う楽曲を制作するが、これについても「ビートルズ時代に作った『Girl』の1980年版だよ」と語っている。
・In My Life
ジョンのこれまでの人生を語っている楽曲で、リヴァプール時代に利用していたバスの路線から着想を得ている。
レノン・マッカートニー名義の楽曲ではあるが、メインの作曲者はジョンとポールが互いに自分だと主張している。
〇Revolver(1966年8月5日)
レコーディングアーティスト時代最初の、米国と英国で収録曲が異なる最後のアルバム。
サイケデリックで浮遊感のある曲が目立つようになり、ライブでの再現が困難な音遊びに近いレコーディング技術も多数盛り込まれている。
一方でジョージの楽曲が3曲も収録されており、彼の成長がうかがえる。
また、メンバーが初めてミックスに立ち会ったアルバムでもある。逆に言えばそれまでは録音が終わったら次に自分たちの楽曲を聴くのはリリース後のレコードやラジオ等から…だったとのこと。
さらに、ステレオ版のミックスは一日で終わったのに対しモノラル版はかなりの時間をかけてミックスされた。そのため本作を本気で聴き込むならモノラル版推奨なのだが、聴く手段がレコードかモノボックスくらいしかなくハードルが高め。
ジャケットのイラストを手掛けたのはクラウス・ヴーアマン。ビートルズとはハンブルグ時代からの友人でベーシストでもあり、解散後のポール以外のソロアルバムにもベースにアートワークに多数参加している。
・Taxman
初めてファーストナンバーに起用されたジョージの楽曲。
タイトルは「税務署員」の意味で、当時イギリスで富裕層へ課せられていた非常に高い税金への抗議として書かれた。
ポールによるインド風のギターソロはジョージからも絶賛された。
後のパンクロックの前身とする意見もある。
・Eleanor Rigby
孤独な人々の行く末を歌った楽曲。ポール作曲だが、作詞の大半はジョンも携わっている。
タイトルはジョンとポールが初めて会った教会の墓標に刻まれていた名前から引用されている。
元々はギターの弾き語りでの演奏だったが、マーティンのアイデアでストリングスが導入されることに。
収録時は8人のスタジオミュージシャンが演奏しており、彼らによる弦楽八重奏となっている。
反対にメンバーは歌唱のみで一切演奏は参加しておらず、『Yesterday』以上にクラシック色が強い。
・Here,There And Everywhere
ビーチ・ボーイズの『God Only Knows(邦題:神のみぞ知る)』に影響を受けて制作された楽曲。
神々しささえ感じる美しいメロディ・ハーモニーに度肝を抜くこと請け合いで、実際に作曲者のポールどころかジョンやマーティンもお気に入りの楽曲として出来を賞賛している。
・Yellow Submarine
童謡みたいな可愛らしい歌詞の、リンゴがリード・ボーカルを務めた中で最も知名度が高いであろう楽曲。
初めて曲中にSEが取り入れられ、潜水艦内での慌ただしさをコミカルに表現している。
さらに途中のブラスバンドの演奏はレコーディングされた音源ではなく、その暇さえない状況だった中ポールとマーティンがEMIの倉庫で見つけた過去の音源がそのまま拝借され、ある意味サンプリングの先駆けともなった。
後年には本曲を題材にしたアニメ映画が公開され、本曲も同名のアルバムに再収録された。
また、1982年には「イエローサブマリン音頭」としてカバーされた。これはビートルズ結成20周年を記念して企画されたもので、歌唱は民謡歌手の金沢和子、プロデュースは大瀧詠一、日本語作詞は松本隆が担当。
発売当時はビートルズファンからの評判が非常に悪かったが、「洋楽と日本の伝統音楽の融合」という斬新なコンセプトから現在では一定の評価を獲得している。
・Doctor Robert
患者に麻薬を処方する医者との会話を歌った、まるでLSDに入り浸ったジョンの今後を予見しているようにも取れる、絵に描いたようなドラッグソング。
タイトル並びに曲内に登場する「Dr.ロバート」はニューヨークに実在していた医者ロバート・フライマンだと推測されている。…が、後年ポールは自伝で「空想上の人物」と語っているため真意は不明。
・Tomorrow Never Knows
ラストナンバーだが、本アルバムのセッションで初めてレコーディングされた楽曲。歌詞の内容はティモシー・リアリーら共著のドラッグ指南書『チベット死者の書-サイケデリック・バージョン』に触発されて書かれたもの。
著書のタイトルに倣ってジョンはエンジニアのジェフ・エメリックに「数千人ものチベットの僧侶が経典を唱えているような感じにしたい」となかなかに無茶な要求をしたが、結果ジェフはドップラー効果を活かし見事ジョンの要求に応えている。
曲自体は非常にシンプルな作りで1つのコード進行で構成されている。
〇Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band(1967年5月26日)
『Rubber Soul』に触発されてビーチ・ボーイズが制作した『Pet Sounds』に触発されて制作されたアルバム。
現在では「世界初のコンセプトアルバム」と評されており、メンバーは架空の音楽隊という設定で作品を披露するというもの。
アルバム名の「サージェント・ペパーズ」は、飛行機内でマルコム・エヴァンズが言った「ソルト&ペッパー」をポールが聞き間違えた際に浮かんだ単語が由来。
前作『Revolver』がツアーの最中にも制作されていたため、完全にライブ活動から撤退した後に時間をかけて作られた初のアルバムでもある。
当時メンバーはライブバンド時代の「お行儀よく髪型も服装も揃えて演奏するお坊ちゃん」なイメージに心底うんざりしており、お客にキャーキャー言われる「パフォーマー」ではなく良い作品を生み出す「アーティスト」へと舵を切りたがっていた。
そんな中ポールは飛行機の中で「ビートルズとは別のペルソナを作る」と言うアイデアを思いつき、本作の制作へと至ることに。
ビートルズのサイケデリック期における最高傑作と評され、後のポップミュージックに多大な影響を与えた。
作品そのものの魅力もさることながら、「当時のテープレコーダーの技術力でこれを作れてしまったのは凄い」というテクノロジー的な観点からも顧みられることも多々あり、ビートルズのアルバムの中でもとりわけ語られる機会が多い一枚。
ファンの間でもビートルズの最高傑作と言われると本作を挙げる声が比較的多めか。
・Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band
歌詞は正しく「これから演奏していく架空のバンド(サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハート・クラブ・バンド)の紹介」を歌った所謂ウェルカムソング。
リリースからたった3日後にジミ・ヘンドリックスもライブでカバーしている。
・With A Little Help From My Friends
上記の楽曲と演奏が繋がっているセカンドナンバー。
本曲の制作後に全曲とシームレスに繋げるアイデアが取り入れられ、当時としては異例の2曲が1曲に繋がった楽曲となった。
・Lucy In The Sky With Diamonds
「不思議の国のアリス」作中の「ジャバウォックの歌」にインスピレーションを受けて制作された、幻想的なメロディ・歌詞とサイケデリック感極まれりな楽曲。
タイトルの頭文字を取ったら「LSD」になるのは有名な話で、そのおかげでBBCから放送禁止処分を食らった。
ジョン本人は「ジュリアン(ジョンの息子)が『Lucy In The Sky With Diamonds』と言いながら見せてきた絵を見て作った。頭文字が『LSD』になったのは偶然」と否定しているが…。
・She’s Leaveng Hone
駆け落ちのために家出した少女と慌てた両親を歌った、前作の『Eleanor Rigby』のようなストリングス路線の楽曲。
こちらもメンバーは演奏に参加していない。
ジョンとポールのツインボーカルで、少女側の歌詞をポールが、親側をジョンが担当している。
ポールがブライアン・ウィルソン邸を訪れた際にピアノで演奏し、ウィルソン夫妻が感動で泣き出してしまうほどの名曲。
・Within You Without You
前作・前々作で才能を発揮し出してきたジョージだが、本作で作曲したのはこの楽曲のみ。
当時ジョージがハマっていたインド音楽調に演奏され、どことなくスピリチュアルな印象を感じる。
・Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band (Reprise)
1曲目のリプライズバージョン。
1曲目のオリジナルを「ウェルカムソング」と言うならば、本曲は「グッバイソング」とでも言うべきか。
曲の〆に拍手喝采が入り、そのまま『A Day In The Life』へと繋がっていく。
・A Day In The Life
壮大なコンセプトアルバムを締め括る、ある男の日常・人生を描いた壮大な名曲。
拍手喝采の中始まるのは、バンドのアンコール曲と位置づけているから。
ジョンが新聞を読んでいた際に着想を得て制作され、ポールのパートは少年時代の記憶をもとに書かれたとのこと。
総勢40名のスタジオミュージシャンによる複雑な演奏が入り乱れる楽曲で、ライブでの再現が困難極まると評されている。
演奏終了後の不気味な音は、高周波のノイズや笑い声を逆再生したもので、本作以外のベスト盤等ではカットされている。
〇The Beatles(1968年11月22日)
シンプルなタイトルと白一色のジャケットから『ホワイト・アルバム』と呼ばれているアルバム。一般的にはこちらの名前で呼ばれることの方が多い。
エプスタインの死、メンバーのインド訪問、アップル・コア設立、オノ・ヨーコ登場、…等バンドの激動期の中制作された大作。
バンド初の二枚組アルバムで、収録数も計30曲と大ボリューム。50周年記念ボックス・セットにもなると各曲のデモ版も収録され、計100曲を超える収録数となった。
前作までのサイケデリック色は抑えられ、アコースティックな弾き語りから、当時誕生しつつあったハードロック、果ては現代音楽までとカオティックなほどに非常に幅広い作風の楽曲が収録されている。
メンバー間の緩衝材的役割だったエプスタインの不在、部外者のヨーコを連日スタジオに招き入れるジョンの身勝手な独断、さらには同時期に設立したアップル・コアの経営不振により、メンバー間に亀裂が入りはじめ一気に不仲が加速し始めた中での制作となった。
また、アップル・コアの設立により当時は午前中に会社の会議を行ない、午後にレコーディングをするのが基本的な一日の流れとなっていた。
しかし経営が上手くいってない会社の会議が和やかに終わるはずもなく、結局最悪な空気のまま午後のレコーディングが始まってしまう…と皮肉にもエプスタインが税金対策に遺してくれた会社がメンバー間にさらなる大きな溝を作る要因となってしまった。
さらに、あの温厚なリンゴがポールにドラムプレイを何度も口出しされたことに限界を迎え、ビートルズの脱退を妻に宣言。
数日間家に引きこもり、メンバーが連れ戻しに来ないことにも苛立ちを覚え始めるようになる。
結局リンゴ側が折れ、脱退は撤回されることになった。…が、それでもバンドの崩壊はこの頃から徐々に進みつつあった。
当時はリンゴだけでなく、メンバー全員が「自分以外の3人だけ楽しそうに歌っている」とそれぞれ疎外感を感じていたとのこと。
アルバムから漂う緊張感や統一感皆無な選曲もそのあたりの事情が関係していると言われている。
・Back In The U.S.S.R.不快なフライトを乗り越え、故郷のソ連への帰還を喜ぶ男を歌ったロックナンバー。
タイトルはチャック・ベリーの『Back In The USA』をもじったもの。
リンゴ脱退時にレコーディングされたため、ドラムはポールが叩いている説が有力。
当時はわざわざ1曲ごとに演奏クレジットが表記されなかったため、ポールは聴いた人にリンゴが下手だと思われないように緊張してレコーディングに挑んだとのこと。
なお、タイトルにもなった当時のソ連国内ではビートルズをはじめとしたアメリカ・イギリスの楽曲は「資本主義の侵略」として全て発禁処分を食らっていた。
後にポールはモスクワにある赤の広場の前で本曲を演奏しており、今や戦禍の中心にいる人物ウラジーミル・プーチンもそこで演奏を聴いている。
・Glass Onionタイトルはモノクルのイギリスでのスラングから。
本曲はまるでそんなモノクルを付けながら、ビートルズの楽曲をあれやこれやと解釈・評価してる人々を皮肉っている楽曲となる。
歌詞にはこれまでのビートルズの楽曲から引用された表現が組み込まれている。
・Ob-La-Di, Ob-La-Daとある男が歌手の女と結婚し人生が続いていく様を歌った、本作でも比較的牧歌的な楽曲。
タイトルはポールがクラブで聴いた演奏者の言葉(所謂スキャット的なもの)から引用したもの。
冒頭のオルガンはジョンが演奏しているが、所謂トランス状態で弾いている。
これは何度もリテイクを求められた挙句これまでのリテイクをポールが全て破棄したことにジョンが激怒しスタジオを飛び出してしまい、マリファナを吸ってスタジオに戻り明らかにテンションがおかしい状態でリテイクをしたため。
それでも数日にわたり何度もリテイクが繰り返され、さらにはスタッフ側のマーティンにも挑発的な言葉を投げ激怒させたりと、メンバーは終始ポールの完璧主義に振り回されることとなった。
途中でポールが男女の登場人物を逆に歌ってしまい、もちろん撮り直す予定だったがジョンの
「このままの方が面白い」と言う鶴の一声でリテイクされずそのまま収録されることとなった。
単にこれ以上リテイクをしたくなかっただけではないと思いたい。
・While My Guitar Gently Weeps中国の儒教の一つ「易経」にあった「優しく泣く(Gently Weeps)」と言う表現に着想を得て制作された楽曲。
ファンの間では歌詞はメンバー間の不和を嘆いているものという認識が通説か。
リードギターはジョージの友人でもあるエリック・クラプトンが担当。
当時は流石のクラプトンもビートルズのレコーディングに参加するのは躊躇っていたが、ジョージの強い希望に押され参加を承諾した。
実際に演奏を聴くとジョージの
「良い演奏なんだけど、ビートルズっぽさが足りない」と言う意見から、普段のクラプトンらしからぬミックスが施されることに。
なお、この一件からジョンはクラプトンのことをいたく気に入り、後にプラスティック・オノ・バンドを結成した際にも
「クラプトンなくして結成はあり得ない」とさえ言い放った。
・Happiness Is A Warm Gun短い曲ながらすべて異なる3つのセクションの、複雑な構成をしている楽曲。
タイトルは全米ライフル協会の雑誌に掲載された記事のタイトルからの引用。
銃愛好家の撃った後の銃口が熱を帯びているのを悦ぶ様を表現しており、「熱を帯びた銃」と言うことで当然…まぁ…
そういう意味も含まれている。
歌詞で明らかにヘロインに言及している内容のものもあり、アルバム内でも過激さが際立った楽曲となった。
・Blackbirdポールとマーティンのみでレコーディングされた、アコースティックな弾き語りのナンバー。
女性を黒い鳥に例えて歌われており、当時盛んだった公民権運動にもなぞらえている。
本曲は屋外でレコーディングされたため、曲内の鳥の鳴き声はサンプリングで足されたものもあれば本物の鳴き声もある。
もちろん普通は風の音やら通行人の声等アクシデント塗れの屋外でレコーディングなんて前代未聞でしかない。
・Helter Skelterヘヴィメタルの元祖とも言われている、ギターサウンドが激しい超ハードなナンバー。
ポールがザ・フーのピート・タウンゼントのインタビューを見て対抗心を燃やし制作された。
タイトルは螺旋状の滑り台をイギリス英語読みしたもの。転じてカオス・転調の意味もある。
アウトロはリンゴの
「I got blisters on my fingers!(指にマメができちまった!)」というシャウトで〆られている。
紛うことなき名曲だが、一方で元ヒッピー・コミューン指導者の殺人鬼チャールズ・マンソンに前述の『Blackbird』とともに
「白人と黒人の人種戦争について歌ったもの」と都合の良い解釈をされ、後にテート・ラビアンカ殺人事件という凶行を引き起こすことになった。
もちろん作曲者のポールにそのような意図は露ほどもなく、後年に自伝で
「マンソンがあの曲を旗印に掲げてしまってから、あらゆる類の不吉な前兆、という意味に捉えられるようになった」と嘆いており、完全な被害者なのは言うまでもない。
・Revolution 1「ホワイト・アルバム」で一番初めにレコーディングされた、タイトル通り革命・共産主義に関する楽曲。
1曲目の時点でジョンの精神は不安定になっており、アンプの音量を耳が劈くレベルの大ボリュームまで上げたためエメリックが「少しボリュームを下げてくれないか」と頼んだところ、
「お前の仕事なんだから黙ってやれ」「いい加減仕事を覚えろ」とパワハラ染みた返しをしている。
シングル版とアルバム版ではアレンジが異なっている。
元々『Hey Jude』とA面をどちらにするか話していた際に、『Revolution 1』派だったジョンにポールが言った
「その曲はテンポが遅めだからシングル向きじゃない」と言う言葉を真に受け、ジョンがテンポを早めに作り直したのがシングル版の『Revolution』となる。
〇Yellow Submarine(1969年1月13日)
同名のアニメ映画のサウンドトラック。
この映画に対して当初メンバーはあまり意欲的ではなく、新曲の出来が(彼ら基準で)悪いと「『Yellow Submarine』に入れるのにちょうどいい!」などの冗談が飛ばされるような扱いだった。
後に試作を見て評価を改めたものの十分な楽曲を提供できなかったため、A面はタイトル曲や映画用の新曲を含むビートルズの6曲(新曲は4曲)、B面は映画に使用されたマーティン作のオーケストラ曲という変則的な構成となった。
・Hey Bulldog『Lady Madonna』のPV撮影のついでに録音されたというぞんざいなエピソードで知られるが、リラックスしたセッションだったせいか想定外にハイクォリティに仕上がった。
ビートルズのハードロック面を代表する楽曲の一つで、ファンキーなピアノにワイルドなギター、ヘヴィなリズムセクションが暴れ回る。
タイトルはエンディングまで出てこないが、歌詞とブルドッグは何の関係もなく、ポールが勝手にふざけて吠えたのが由来。
・It's All Too Much同名映画の事実上のエンディングテーマとも言える、ジョージ作の超尺ナンバー。
CとGのコードを延々8分以上(最終的には編集して6分台になっている)繰り返し続けるトリッピーなサウンドは後年のテクノやトランスにも通じるものがある。
イントロのフィードバックするギターは
ジミ・ヘンドリックスの影響で導入されたと言われている。
・Pepperland厳密にはビートルズの曲ではなく、B面に収められたジョージ・マーティン・オーケストラのオリジナル曲で、映画のサウンドトラック用に書かれたうちの一つ。
熱心なビートルズファンでもB面を聴かない人は少なくないこのアルバムだが、実はこの曲を代表として非常にクォリティの高いサントラ作品である。
この美しいメロディに一度改めて耳を傾けてみてほしい。
〇Abbey Road(1969年9月26日)
ビートルズのメンバーが最後に揃って録音した、事実上のラストアルバム。
メンバー間の不和が極まって解散間近と言えるほど緊張感のある状態で収録され、メンバーのこれまでの経験で洗礼されたサウンドと奇跡的な融合を果たし結果的に60’sを代表するほどの大名盤となった。
ジョージの才能が本格的に開花して『Something』『Here Comes The Sun』等の名曲を産み出し、最後にしてついに作曲者としてジョンとポールに肩を並べる存在となれたと言える。
レコードではB面途中から、CDでは9曲目から16曲目に収められた計8曲にわたるメドレーも「ビートルズの大団円」と言われるほどに評価が高い。
アルバム名はレコーディングを行なったEMIレコーディングスタジオの所在地から引用された。
ジャケットでメンバーがスタジオ前の横断歩道を渡っているもので、「世界一有名なジャケット」と言われているほどに有名。
もちろん現在は観光名所となっており、英国政府によって文化的・歴史的遺産に指定されている。ただし、交通量が多く事故も絶えない場所でもあるため、行った際は気をつけよう。
さらにジャケットをよく見たら「ポールだけ目を瞑ってるように見える」「ポールだけ裸足」「左利きなのにタバコを右手に持っている」「後ろの車のナンバープレートに『IF28(=ポールがもし生きていたら28歳)』」「(服装的に)ジョン=牧師、リンゴ=葬儀屋、ポール=死人、ジョージ=墓掘人」とこじつけら読み取れることから、「ポール死亡説」の根拠として挙げられていた。
・Come Togetherブルースにサイケデリック要素を合わせた傑作。
「ドラッグの教祖」と呼ばれた心理学者のティモシー・リアシーがカリフォルニア州知事選に立候補した際の応戦ソングとして制作された。
チャック・ベリーの1956年の楽曲『You Can’t Catch Me』がモチーフとなっている…おかげで後年チャックの著作権所持者から盗作と訴えられた。
和訳すると無秩序で理解が難しい歌詞ゆえに、再版されたアナログ盤『Abbey Road』の日本語歌詞カードが
対訳不可能と匙を投げた記載がされたほど。
・Somethingジョージのビートルズ時代最高傑作と名高い名曲。
『Come Together』との両A面シングルとしてリリースされ、ジョージの楽曲としては初めてA面になった楽曲でもある。
この時期のビートルズにしては珍しくメンバーやプロデューサー等から満場一致で楽曲の出来を賞賛され、あの皮肉屋のジョンでさえ
「『Abbey Road』で一番の曲」と評したほどである。
……が、当時の人々にとってはジョージのソングライターとしての実力が充分に伝わっていなかったようで、
フランク・シナトラからは「
僕が好きなレノン=マッカートニーの曲」と勘違いされ、さらにキング・オブ・ポップこと
マイケル・ジャクソンからは面と向かって「
えっ、あなたの曲だったんですか?レノン=マッカートニーの曲だと思ってた」と言われてしまう始末だった。
ビートルズの楽曲の中では『Yesterday』に次ぐ種類のカバーが存在するが、中でもジョージはジェームズ・ブラウンのバージョンを気に入っている。
・Maxwell's Silver Hammerポールによる物語調の楽曲。
マックスウェル・エディスンという医学生の日常がテーマで、童話のようなほのぼのとしたメロディーが特徴。
が、肝心の内容は「
マックスウェルがハンマーで次々に人を撲殺していく」というもので要するに
連続殺人鬼を描いた曲。
極めて殺伐としたダークな歌詞とは裏腹にポールの歌声は陽気そのもので、それが却って不気味さを感じさせる。
制作者のポールはシングルとして発売を検討するほど自信を持っていた曲だが、レコーディングに膨大な時間がかかったせいもあって他のメンバーからの評価は押し並べて低く、
ジョンは
「嫌いな曲。覚えてるのは何百回もやり直させられたことだけ」と評し、ジョージは
「ポールは時々僕たちにとんでもなくくだらない曲を演奏させる」とこき下ろし、
あのリンゴですら
「本当に最悪のセッションだった。気が狂うかと思った」と語っている。
・Oh! Darling50年代風のロックンロールサウンドの楽曲。
ポールも本曲のレコーディングには力を入れており、収録に来たら朝一の喉が温まってない状態でレコーディングをし、喉を休めてまた明日朝一にレコーディングをする…と言う方法を繰り返しリテイクを重ねていった。
そのおかげか出来栄えをジョンも
「自分が歌えばもっと良い曲になってたのに」と冗談交じりに賞賛していた。
・I Want You (She's So Heavy)ビートルズが4人揃ってレコーディングを行なった最後の楽曲。
ジョンがヨーコに捧げるために制作された、7分を超える大作。
しかし長い演奏時間に反比例して、登場する単語はたった15種類と言う非常にシンプルな歌詞も特徴的。
一方でコード進行やメロディ等の楽曲の構造は非常に複雑…とまるで1曲目の『Come Together』を反転させたかのような作りの楽曲となっている。
ちなみに実際の演奏時間はもう20秒ほどあったのだが、その前にジョンがエンジニアに
「そこでテープを切れ」と指示をしたためプツンといきなり終わるようなアウトロになった。
・Octopus's Gardenリンゴ作曲だが、実際にはジョージとの共作と言えるほどジョージも制作を手伝った楽曲。
メンバー間の不和が楽曲を通して感じ取れる緊張感のある本作でも飛びぬけて明るい内容になっている。
『The Beatles(ホワイト・アルバム)』のレコーディングを口論で抜け出して家族と行ったサルデーニャ島への旅行中に、ヨットの船長から聞いたタコの生態(海底で石や瓶を集めて庭を作る)から着想を得ている。
また、あまりに険悪な雰囲気のセッションにほとほと参っていたリンゴの
「海の底にでも潜って全てから逃げてしまいたい」という心情が反映されているんだとか。
・Here Comes The Sunキラキラしたアルペジオからはじまる、『Something』と並ぶジョージのビートルズ時代最高傑作の名曲。
当時アップル社の経営問題等の会議続きで辟易としていたジョージが、ついに会議をサボって親友であるクラプトン邸の庭で制作した楽曲。
ジョンを除いた3人(+マーティン+スタジオミュージシャン)でのレコーディングとなったが、それを差し置いても非常に完成度の高い名曲に仕上がった。
・You Never Give Me Your Money『Abbey Road』名物である後半のメドレーのトップバッターを飾る楽曲。
何ならこの曲単体でも一種のメドレーのような作りとなっている。
タイトルは直訳すると
「君は僕に一銭もお金をくれない」と言う意味になるが、これは当時メンバー間不和の原因のひとつでもあった金銭問題から着想を得ているため。
特にポールが新しいマネージャーのアラン・クレインに強い不信感を募らせていたため、このようなシビアな話題が表れていると言われている。
なお、冒頭のメロディーはメドレーの最後から2番目の『Carry That Weight』にも流用されている。ちなみに元々は当時製作中だった楽曲『Every night』のサビ部分のメロディでもある。
・Golden Slumbersメドレーの後半部分のオープニングとなる楽曲で、曲名と歌詞の元ネタはポールが実父の家にあった義妹のピアノ教本から発見した同名の子守唄。
基本的にはピアノやストリングスを中心とした美しいバラードだが中間では歌唱・演奏ともに盛り上がりを見せ、短いながらも起伏のある楽曲。
ここから後述の『The End』までの3曲はメドレーの中でも独立して扱われることも多く、後年のポールによるソロライブにおいてもラストの定番となっている。
2007年には伊坂幸太郎による
同名の小説が発売されており、映画化の際は斉藤和義が本曲をカバーしている。
・The Endタイトル通り、メドレーの最後を飾る楽曲。
メンバー全員によるソロパートがあり、リンゴのドラムソロから始まり、ギターソロがポール→ジョージ→ジョンの順にリレー方式で演奏された。
特にリンゴのソロは本曲がビートルズの全楽曲で唯一収録なほどに珍しい。
最後の有名な歌詞も相まって、まるでビートルズの集大成ないし大団円と言えるようなタイトルに相応しい名曲となった。
〇Let It Be (1970年5月8日)
解散後にリリースされた、一般的にはビートルズのラストアルバムに位置づけられる作品。
ゲット・バック・セッションと呼ばれる一連のレコーディングをジェフ・エメリックが纏めきれず、棚上げになっていたものをジョンとジョージに要請されたフィル・スペクターによって再構成、一部の曲にはオーケストラやコーラスを加えるなどして編集し、完成させたアルバム。
しかし、本来は「シンプルなロックンロールに立ち返ろう」というコンセプトのアルバムだったため、ポールはこの編集に激怒した。
ファンの間でもいまだに賛否両論のアルバムだが、日本で最も売れたビートルズ作品でもある。
・Let It Beアルバムの表題曲にして、近年ではテレビ番組「家、ついて行ってイイですか?」のテーマソングにも使用されている、ビートルズで最も有名な楽曲のひとつ。
ビートルズが活動中に出した最後のシングルでもある。
加速していくメンバー同士の不和にポールが嘆き苦しんでいた時期に、夢で見た亡き母メアリーの「Let It Be(あるがままに)」と言う囁きから着想を得て制作された。
シングル版とアルバム版でバージョンが異なり、前者はマーティン、後者はフィル・スペクターがプロデュースしている。
・The Long And Winding Roadポールがスコットランドに合った農場で書いた楽曲で、タイトルは農場近くにあった道に由来している。
レコーディング中、ベースを弾いていたジョンがベースラインを間違ったテイクがいくつかあったが、フィル・スペクターのプロデュースの際にそのまま採用された。
しかしこれによってポールの意図しないコードへの書き換えが発生。その結果ポールが激怒し、裁判所を巻き込んでビートルズの解散騒動が激化することに…。
・Get Backゲット・バック・セッションから先行シングルとしても発売された曲。リリース時点ではアルバムはこの曲をリード・トラックとした『ゲット・バック』になるはずだった。
ビートルズから逸脱しつつある他のメンバー(特にジョンとジョージ)に対し「昔に戻ろう」と呼びかけるテーマをポールらしいキャラクター仕立てに仕上げられたのが本曲。
リンゴのマーチング風のリズムにビリー・プレストンのファンキーなエレクトリック・ピアノが絡むと絶妙なR&Bになる。エンディングは編集でカットされているのでシングル・ヴァージョンで聴けるポールのアドリブは収録されていない。
歌詞に出てくる「Jojo」こそが、かのジョジョの奇妙な冒険に出てくる主人公たちの名前及び愛称の元ネタのひとつではないかとファンの間では通説となっている。
また、
3部ラストシーンの
承太郎&
ジョセフと
ポルナレフの空港での別れのシーンにて、ジョセフがウォークマンで本曲のカセットを聴きながら去るカットが挟まれながら物語は締め括られている。
●ベストアルバム
〇1(2000年11月13日)
英国・米国のチャートで1位を獲得したシングル曲を収録したベストアルバム。オリジナルアルバム未収録ながら有名な楽曲も多数収録。
後述の『赤盤』『青盤』と比べるとそこまでのボリュームはないが(それでも計27曲収録)、日本でもCM等で使われる曲も多いので聴けば「これ、聴いたことある!」となること間違いなし。
・She Loves You
愛をハモりながら歌う、初期ビートルズらしい楽曲。
ボビー・ライデルの楽曲『Forget Him』のアンサーソングとして制作され、この時期では珍しい第三者視点の歌詞はジョン曰くポールのアイデアとのこと。
1960年代で最も売れたシングルとされている。
・I Want To Hold Your Hand(邦題:抱きしめたい)
シングルが『She Loves You』に続いてミリオンセラーにもなった、初期の代表曲。
この曲でアメリカのチャートで初めて1位を獲得し、後に世界のスターとなりブリティッシュ・インヴェイジョンを引き起こす火種となった。
最終的に全世界で1,200万枚を売り上げた本曲は、現在でも世界歴代シングル売上第5位にもランクインしている。
・Day Tripper
イントロのリフが特徴的な、『We Can Work It Out』との世界初の両A面シングル曲。
ビートルズ初期のドラッグソングでもあり、タイトルは「日帰り旅行者」と言う意味もあれば、「ドラッグでトリップする人」と言う意味もあるダブルミーニングとなっている。
・We Can Work It Out(邦題:恋を抱きしめよう)
当時ポールの婚約者だった女優のジェーン・アッシャーとの関係をモチーフにした楽曲。
シングルは『Day Tripper』との両A面でリリースされたが、これはA面を『Day Tripper』にすべきと主張したジョンと、キャッチーな『We Can Work It Out』にすべきと主張したその他大勢による対立の折衷案を採用されたため。
・Lady Madonna
バンド後期には珍しい、ブギウギの要素も混ざったスタンダードなロックンロール。
過労で疲れ果てた母親が1週間で毎日のように新たな問題に直面している様子を描いている。
サビのメロディがDr.MARIOの「FEVER」にどことなく似てるとネタにされているとか。
・The Ballad of John and Yoko(邦題:ジョンとヨーコのバラード)
邦題ではバラードと銘打たれているがそのタイトルに反したアップテンポなナンバー。
……というか原題はballadeではなくballadである事や楽曲の内容からすると恐らく誤訳に近く、ジョンとヨーコのバラッドが意味としては正しいと思われる。
1969年3月に正式な夫婦となったジョンとヨーコの結婚前後の出来事をそのまま曲にしたエッセイソングとも言える楽曲。
ジョンはこの曲を一刻も早く発表したいと思っていたことからポールの自宅を直接訪れてレコーディングを依頼、ジョージとリンゴはスケジュールの都合が付かなかったことからビートルズの楽曲の中で唯一ジョンとポールの二人だけでレコーディングされている。
当時はアップル・コアの経営不振などでメンバー間の不和が急速に進んだ時期だっだが、このレコーディングに関しては参加していたジェフ・エメリックが「まるで魔法のようなひと時だった」と評すほどに和やかな雰囲気だったらしく、
ドラムを叩くポールへジョンが「The gonna be a faster,Ringo.(少しテンポを上げてくれ、リンゴ)」とふざけて呼びかけ、それに対してポールが「OK,George!(わかったよ、ジョージ!)」とこれまたジョーク交じりに返答するという微笑ましいやり取りが残されている。
また、意外かもしれないがビートルズの楽曲としては後述の『Now And Then』が更新するまでは本作がイギリスのシングルチャートで一位を獲得した最後の曲だった。
・Hey Jude
計約7分とビートルズ最長の演奏時間を誇り、ビートルズで最も有名な楽曲のひとつでもある壮大なバラードソング。
ポールがシンシア(ジョンの最初の妻)宅を訪れた際に当時5歳のジョンの息子ジュリアンが両親の関係悪化に苦しんでいるのを知り、帰りの車内で彼とシンシアに捧げる形で制作された。
曲の途中でピアノを間違えたポールの「Fu〇king Hell」と悪態を付いた小声が聞こえる。
後半の約4分にもわたるリフレインが特徴的で、7分どころか後半の4分より短い楽曲が主流だった当時としては異例中の異例とも言える長さである。
リンゴのドラムが少ししてからはじまるのは、リンゴがトイレに行ってるのに気づかないままレコーディングを開始し、帰って来たリンゴが2番からドラムを叩き始めたのをポールが気に入り採用されたから。
なお、ポールはザ・ドリフターズの楽曲『Save the Last Dance for Me(邦題:ラストダンスは私に)』を聴きながら本曲を作曲したというエピソードがあり、コード進行も一致している。
これに因み、1981年には両曲をマッシュアップした作品「ラストダンスはヘイ・ジュード」が発表された。こちらも「イエローサブマリン音頭」と同様大瀧詠一プロデュースで、歌唱はザ・キング・トーンズ。
〇The Beatles/1962-1966/The Beatles/1967-1970(1973年4月2日)
それぞれ二枚組の計4枚で構成された、前述のものよりもボリューミーなベストアルバム。ジャケットの色からライブ活動期の楽曲を集めた前者は「赤盤」、レコーディングアーティスト期の楽曲を集めた後者は「青盤」と呼ばれている。
上記の日付は米国での発売日で、英国では約2週間後、日本では約1か月半後にリリースされた。
ジョージによって選曲されたベスト盤と銘打ってリリースされた。…と言われていたが、実際には元マネージャーのアラン・クレインの指示でアップル・レコードの責任者が選曲しており、ジョージもクレインも選曲には携わっていない。
捨て曲が一切なく、このアルバムの曲を知っていれば十分ビートルズファンであると言えるだろう。
バージョンが複数あり、現在聴くのであれば同じ立場なはずの『Free as a Bird』『Real Love』を差し置いて収録された新曲『Now And Then』含めた計9曲が追加された最新の2023年エディションがおすすめ。
・Now And Then
2023年に発表された、解散から実に53年ぶり、1996年の『Real Love』以来27年ぶりの新曲。
元々は70年代後半に撮ったジョンのデモ音源に収録されていた楽曲で、ジョン没後のアンソロジー・プロジェクトの一環で残った3人主導の元音源の抽出をしつつ制作が開始された。
しかし同じデモテープから完成させた『Free as a Bird』『Real Love』は制作完了したのに対し、本曲はデモ音源のジョンの声が小さく雑音も多かったため、当時の技術では音源の抽出が困難で制作がお蔵入りに。
そこから27年後の2023年、進歩したAI技術を使い見事ジョンの音源のみをクリアに抽出することに成功。
同年の11月2日に「ビートルズ最後の新曲」としてリリースされることとなった。
「AI技術」と聞いて勘違いされやすいが、「AI」はあくまで音源の増幅やノイズの除去といった抽出の技術として利用したのみで、断じてジョンの声をAIで再現したわけではないため留意されたし。
27年の間に急逝したジョージの音源もアーカイブとして残っており、名実ともに約半世紀ぶりのビートルズ4人が揃った楽曲となった。
若い30代のジョンと老いた80代のポールのツインボーカルはファン感涙もので、4人は最後まで全世界のビートルマニアたちを感動させる名曲を産み出してくれたのだった。
●その他
〇Magical Mystery Tour(1967年11月27日)
エプスタインの死去後、初めて自分たちで取り組んだプロジェクトで制作された同名映画のサウンドトラックとして、アメリカで先行してリリースされたアルバム。
後に約1年後に日本でリリースされ、そこから約8年後にイギリスでもリリース。
ジャケット・楽曲ともに今までのアルバムの中でもとりわけサイケデリック要素が強い作風となっている。
米国発と言うこともあり他のオリジナルアルバムとは別枠で扱われるケースも少なくないが、日本での知名度が高い楽曲も多数収録されている。
・I Am The Walrus
音割れしたジョンの歌声・パトカーのサイレン・「リア王」の朗読等が入り乱れるカオティックな楽曲。
「不思議の国のアリス」作中の「セイウチと大工」からインスピレーションを受けて制作された。
オアシスによるカバー版も有名。
・Hello, Goodbye
非常にシンプルな歌詞で、下手したら小学生でも分かるくらい簡単な単語だけで構成されていながらも、テーマは「二面性」と深淵な楽曲。
エプスタインのアシスタントであったアリステア・テイラーがポール宅を訪れた際に作曲の秘訣を知り、そこでポールの質問「相対するものを言って」と頼んだ際にテイラーが言った言葉がタイトルの単語である。
簡単な歌詞なのも相まってか、音楽の教科書にもよく掲載されている。
・Strawberry Fields Forever
ジョンが幼少期に遊んでいた戦争孤児院「ストロベリー・フィールド」での思い出をモチーフに制作された楽曲。
ポールによるメロトロンのイントロや不気味なアウトロが何ともサイケな雰囲気を感じる。
最後のジョンの言葉が「I buried Paul(ポールは僕が埋めた)」に聞こえると話題になり、当時巷で噂になっていた「ポール死亡説」を裏付ける根拠としてよく語られていた。…が、実際には特に意味もなく「Cranberry Sauce(クランベリーソース)」と言っているだけだった。
・Penny Lane
故郷のリヴァプールに実在する通り「ペニーレイン」をモチーフに制作された楽曲。
途中で流れるピッコロトランペットはポールが作曲に悩んでいた際にテレビで演奏を見て、そのときテレビで実際に演奏していた人物を呼んでそのまま録音に参加してもらい撮ったもの。
・All You Need Is Love(邦題:愛こそはすべて)
日本だと「ポンキッキーズ」のテーマ曲としても有名な「サマーオブラブ」の代表的楽曲。
世界初の衛星放送で全世界24カ国宇宙中継特別番組『OUR WORLD 〜われらの世界〜』のために書き下ろされた。
楽曲内では殆ど聴き取れないが、当時番組に参加していたミック、キース、クラプトンと言った豪華な面子がコーラスに参加している。
〇Past Masters Vol.1/Vol.2 (1988年3月7日)
英国オリジナル・アルバム未収録曲、レア・バージョンをまとめたコンピレーション・アルバム。
ビートルズはシングルとアルバムを分けて考えており、シングルヒット曲がアルバム未収録ということも非常に多かった。
そのためアルバムだけを集めても代表曲を網羅できないという現象が起こっており、その辺の落穂拾いは様々なコンピレーション盤が担っていたのだが、87年に始まったCD化プロジェクトの際にダブりが発生しない形で本作として纏められた。後に二枚をまとめた形でも再発されている。
ジャケットが素っ気ないが、特にVol.2は青盤との共通部分も多く、ベスト盤としても聴ける裏名盤。
〇The Beatles Anthology Vol.1/Vol.2/Vol.3 (1995年11月20日/1996年3月18日/1996年10月28日)
1994年に発足した「アンソロジー・プロジェクト」の一環としてリリースされたコンピレーション・アルバム。
全て二枚組で、全140曲という大ボリュームな内容。
バンドの全活動期におけるデビュー前の音源、ライブ音源、デモ、テイク数違い、未発表曲等マニアックな音源を詰め込んだビートルマニアからすれば垂涎ものの作品。
中でもジョンが生前に遺したデモ音源から完成させた楽曲『Free as a Bird』『Real Love』は当時「ビートルズ25年ぶりの新曲」と話題を呼び、それぞれのシングル盤もイギリス・アメリカでチャートにランクインした。
そして当時の技術的に完成させられずお蔵入りとなった唯一の楽曲が、前述の『Now And Then』である。
ちなみにアンソロジー・シリーズとしてDVDと書籍も発売されており、DVDはビートルズの歴史を網羅した全6巻のドキュメンタリーになっている。
なお、2025年11月にはアンソロジー30周年を記念して「Anthology Vol.4」を加えた8枚組CDボックスも発売される。11月過ぎたら誰か修正してね
・Free as a Bird
・Real Love
ジョンの生前のデモテープから完成させた新曲。それぞれVol.1、Vol.2に収録。
プロジェクト発足後にポールがジョンの未発表曲を求めてヨーコを訪ねた際に、ヨーコから提供されたデモテープに収録されていたのが『Now And Then』を含めた後の新曲3つだった。
制作中もたびたび先立ってしまったジョンに感傷的な気持ちになり集中できなかったようで、気持ちを抑えるために「自分のパートを早々と済ませたジョンが『あとはやっといてくれ』と遺して休暇に出かけてしまった」となんともジョンらしい理由を考えて収録に挑んだとのこと。
また、アンソロジーの新曲はいずれも初めてメンバーがプロデュースに携わっている作品でもある。
メンバー以外にも当然マーティンにもプロデュースを依頼するため声を掛けたが、高齢ゆえの聴覚の衰えを理由に断られた。代役としてジョージと親交のあったミュージシャン兼プロデューサーのジェフ・リンが参加することに。
〇Yellow Submarine Songtrack (1999年9月13日)
こちらもアニメ映画『Yellow Submarine』のサウンドトラックだが、1969年発売のサントラとは異なりビートルズの楽曲に特化しており、あちらに収録された楽曲に加えて映画に使用されたその他の曲を合わせた計15曲を収録。
イントロ等の限定的な部分の使用に留まった楽曲も収録されている。
収録曲は全てリミックスされており、本アルバムに前後して映画の方もDVDで発売された。
●映像作品
〇A Hard Day`s Night(ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!)
1964年公開のビートルズ初主演映画。リチャード・レスター監督。
全編白黒作品で、ポールのおじいちゃんに(特にリンゴが)振り回されつつもテレビ出演やライヴをこなしていくビートルズの日常をコミカルかつリアルに描いた作品。但しおじいちゃん等ビートルズ以外のキャストは役者が担当している。
ラストのライヴシーン(演奏は口パク)の観客役(実際にはエキストラ)として、子供の頃のフィル・コリンズが出演している。
本作でオネエ口調のTVプロデューサーを演じたヴィクター・スピネッティは他のビートルズ映画でもレギュラー的に出演している。
電車の中でポール達にナンパされる女の子は本当にジョージにナンパされて結婚することになるパティ・ボイド。顛末は
Eric Clapton(ギタリスト)の項目を参照。
〇Help!(HELP! 四人はアイドル)
1965年公開の主演第二作。同じくリチャード・レスター監督。
今回はカラーになり、フィクション濃度も増した。アジアの怪しい宗教「カイリ教」の生贄の指輪を嵌めてしまったリンゴを狙うカイリ教徒と指輪のエネルギーを狙う変な科学者(前作にも出演のヴィクター・スピネッティ)、彼らから逃げるビートルズとカイリを裏切ってビートルズを助ける美女アーメのドタバタコメディ。
時期的にジョンは既婚のはずなのに、オープニングで4人一緒に未来的からくりハウスに住んでいるのは気にしないでおこう
後のモンティ・パイソンにも通じる英国産コメディの味わいが全編に流れる佳作だがファンの間でも賛否両論。だが批判的な筋にもYou're Going to Lose That Girlのレコーディングシーンなどの映像美には息を呑むはず。
前作では無茶苦茶可愛い嫁と出会ったジョージだが、今回はインド音楽、シタールと出会っている。ここでインド思想にハマらなければ嫁とも別れなかったかもしれないが。
ちなみに本作の影響からか日本でもグループ・サウンズブームの際、『ザ・スパイダースの大進撃』(スパイダースのボーカルが謎の皮無しタンバリン・リーダーが謎の書類カバンをそれぞれ偶然入手したせいで2つの悪の組織に追われる)・『ザ・タイガース 世界は僕らを待っている』(タイガースが偶然宇宙人王女と出会い行動を共にした結果中盤で宇宙側の追っ手と戦い、終盤では武道館ライブと宇宙側の思惑が絡んでえらいことに)・『進め!ジャガーズ 敵前上陸』と言ったオマージュと思しき映画が製作された。
〇Magical Mystery Tour(マジカル・ミステリー・ツアー)
1967年制作。監督はビートルズ自身。劇場公開作品ではなくTV用に作られた。
エプスタインの死後、ポール主導で進められたプロジェクトで、ビートルズと様々な人々がサイケデリックなバスに乗り込み、行く先々で起こるハプニングを撮影して作品を作ろうという計画のもとほぼ行き当たりばったりで撮影が開始されたが、何も起こらなかった為、
無理矢理巨体のおばさんと貧相なおじさんのラブストーリーや大量のスパゲッティやストリップ劇場やパリでポールがフラフラするだけの映像と演奏シーンを撮ってどうにかまとめ上げた作品。当然酷評の嵐で、ビートルズ初の失敗と呼ばれた。
しかし、演奏シーンは前作同様PVとしても優秀で、そこだけ抜き出しても観れるし、ストリップのシーンに登場したボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンドは当時最新鋭のサウンドの一つと言って過言ではなかった。
なお、ヴィクター・スピネッティはポール少佐の隣で怒鳴り散らす軍曹役で出演。
ジョージは生涯の親友となるニール・イネス(前述のボンゾズのメンバー)と出会った。
〇Yellow Submarine(イエロー・サブマリン)
1968年制作のアニメ映画。ジョージ・ダニング監督。
アルバムの項目にある通りビートルズはやる気が無く、おざなりな楽曲提供をしていたが、ヘインツ・イーデルマンによるデザインや、新進気鋭のアニメーター勢が好き勝手に気合を入れて制作した映像美には感動し、もう少し真面目に関わればよかったと後悔したらしい。
音楽を嫌うブルー・ミーニーズの侵略を受けたペパーランドを、ビートルズが音楽で開放するというシンプルなストーリー。極論すれば映像と音楽が美しいだけ、という作品だが、音楽映画としてはそれだけで十分な価値ではなかろうか。
ジョージは特に何とも出会っていない。
〇Let It Be(レット・イット・ビー)
1969年制作のドキュメンタリー。監督はマイケル・リンゼイ・ホッグ。
ざっくり言えば「ビートルズ解散ドキュメンタリー」である。基本的にはトゥイッケナム・フィルム・スタジオでのリハーサルとアップル・スタジオでのレコーディング・セッションを延々と記録し、編集したもの。特に寒々しいトゥイッケナムのシーンは終始陰鬱な雰囲気が漂っており、ジョージとポールが口論するシーンは有名。反面、ジョージが機嫌を直した後半は楽しげかつ建設的なセッションが白い壁の明るいアップルスタジオで繰り広げられ、コントラストになっている。そして最後の屋上ライヴで映画としては大団円になっているのだから監督というのはすごい。
後年同じ素材を再編集して「メイキング・オブ・レット・イット・ビー」とでも言うべき「GET BACK」が制作され、このセッションも意外に和気藹々としていたということがわかってきたが、上述の口論シーンはその後のジョージ脱退のシーンまで克明に描写され、これはこれでコントラストがすごいことになっている。
ジョージは特に何とも思わなかったどころかビートルズと別れた。
【関連項目】
Wiki篭りが追記・修正しにやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!
- 偉大すぎる存在だからこうやって項目にまとめるのも大変だったと思う、建てた人お疲れ様でした。あまりにも人気が出すぎたのと当時の技術力の限界で、多すぎる観客を受け止めきれず(フルパワーで鳴らしても観客の黄色い歓声に全部かき消されて音楽として成立しないくらいのレベルだったらしい)、それでライブが出来なくなったって逸話は可哀想だと思った。 -- 名無しさん (2025-08-18 23:44:45)
- アビーロードのジャケットは有名だから知ってるけどそんな大変な時期に出たアルバムだったのか… -- 名無しさん (2025-08-19 01:15:43)
- おいおいついにこのバンドの項目ができたか…!ビートルズファンとしては追記したいんだけど、超ガチ目に書くと多分今の10倍前後の長さになりかねんから簡単に手が出せないと言う -- 名無しさん (2025-08-19 01:35:33)
- 洋楽わかってなくても名前だけなら聞いたことある存在……レット・イット・ビーしか分からなかった時に大学の英語の先生が流したルーシー・イン・ザ・スカイが衝撃的だった -- 名無しさん (2025-08-19 07:54:28)
- ピートとかスチュとかの元メンバーや、エピーやニールやマルと言ったスタッフも書きたいが、書いてしまうと恐ろしく長くなるんだよなぁ -- 名無しさん (2025-08-19 08:17:02)
- johnsonさん、履歴が流れてしまうのでもっと一回にまとめて編集した方がいいと思います -- 名無しさん (2025-08-19 08:19:49)
- 8年しか活動してなかったことをこの記事で初めて知って驚愕してる -- 名無しさん (2025-08-19 09:30:33)
- ジョジョ6部で登場した「14の言葉」の中でカブトムシだけ4回言うのはビートルズのメンバー数に由来すると聞いて面白いネタだなーと -- 名無しさん (2025-08-19 11:36:23)
- 初めてビートルズを知ったのは「悪霊島」のCM -- 名無しさん (2025-08-19 14:42:58)
- 小さい頃に親が聞いてた赤盤、青盤を聞きながら育ったなあ・・・ -- 名無しさん (2025-08-19 20:26:08)
- 某漫画に「音楽が世界を壊す」というセリフがあるが、それを(ポジティブな意味で)現実にやっちゃった人たちだよな -- 名無しさん (2025-08-20 17:29:09)
- 映像の世紀で取り上げられていたけど、あの特徴的なマッシュルームカットとタキシードがマネージャーであるブライアン・エプスタインの入れ知恵とは知らなかった。 -- 名無しさん (2025-08-20 17:56:08)
- Flash全盛期ぐらいの頃にビートルズの曲を使ったスタイリッシュでかっこいいモーショングラフィック風のFlash動画があったんだけど何の曲だったか思い出せないから検索できない…… -- 名無しさん (2025-08-20 20:02:20)
- ↑YouTubeでFlashで制作されたという動画を見ましたがそれかな。確かそっちはNowhere Manだった気がします。 -- 名無しさん (2025-08-21 16:23:10)
- ジェームズ・ディーンはアビーロード発表時もう亡き人だったのでは… -- 名無しさん (2025-08-21 18:20:40)
- MOTHERと2にビートルズのオマージュとサンプリングが多いと聞いてその凄さの片鱗に触れた -- 名無しさん (2025-08-22 13:08:57)
-
コメント時のルール
-- 名無しさん (2025-08-24 13:31:51)
最終更新:2025年09月03日 18:08