登録日:2025/08/18 Mon 21:20:31
更新日:2025/08/18 Mon 23:44:45NEW!
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『
ザ・ビートルズ(英:The Beatles)』とは、かつて活動していた
イギリス、リヴァプールのロックバンド。
【概要】
1963年から1970年まで活動したロックバンドであり、世界で最も売れたアーティストである。
彼らの活躍はそれまでの音楽史を塗り替え、ポップミュージックのスタンダードを作り上げてしまったと言っても過言ではなく、今日のアニソンは勿論、J-POPにも間接的に影響を与え続けており、現在でもファンを増やし続けている。
アニオタ諸君は、ファンでなくとも名前は知っている人も多いだろう。実際に著名なアニメ監督には、熱心なファンを公言する者も多く、歌詞や曲名の借用も非常に多い。
【音楽性】
彼らの特徴は、自分たちで作詞作曲を行うアーティストであったことである。今では当たり前かもしれないが、当時は曲の自作自演はバディ・ホリーなど少数を除き、ロックバンドではあまりいなかった。しかし、ビートルズの大ヒットでザ・ローリング・ストーンズなど多数のアーティストに模倣され、現在に至っている。
基本はエレクトリックギターを中心としたロックバンドだが、前期はシンプルなロックンロール、中期はサイケデリック、後期は様々な音楽を取り入れた芸術性の高い作品まで、非常に音楽性が幅広い。前期と後期が違い過ぎて、別のバンドかと思うのはビートルズあるあるである。
また、ハーモニーが非常に美しいバンドであり、一見シンプルに聞こえる歌でもパートを分解してみると、かなり凝ったハモリになっていることも多い。
何より、彼らの音楽性がそれまでのブルース、ロカビリー的な音楽をより進化させたことは疑いの余地はないだろう。
【メンバー】
担当楽器は中期以降、頻繁に入れ替わるのであまり意味をなしていないが…
●ジョン・レノン
担当は主にリズムギター。ハーモニーは低音担当。
言わずと知れたバンドのリーダーであり、口の悪い毒舌家で志村けんに似ている。後期は丸眼鏡にロングヘア―が特徴的。
複雑な家庭で育ち、学生時代は相当な不良であった。しかし、エルビス・プレスリーにのめり込んだことでロックに目覚め、ビートルズとしてデビュー。ギターの腕はそこまで高くないが、All my lovingの三連符や、Get backのソロなど名演奏も残している。
作品の傾向はポールと比較すると内省的なものが多かった。
ビートルズ活動初期にシンシアと結婚し、ジュリアンを授かるも複雑な家庭で育ったジョンは子供との接し方がわからず、結局オノ・ヨーコと深い仲になっていき、ついに結婚した。
解散後は反戦運動などにヨーコと共に参加。イマジンなどの名曲を残しながらも、ポール・マッカートニーと歌詞の中で中傷合戦を繰り広げたが、70年代後半になると和解。ビートルズ再結成をほのめかす発言をしていたが、1980年、マーク・チャップマンに撃たれ死去。
●ポール・マッカートニー
主にベースを担当。しかし、ギターは勿論ドラムなども演奏できるメンバー1のマルチプレイヤー。ピアノでもメンバーで最も複雑な演奏を行っている。歌唱力もメンバーで最も高く、主に高音ハーモニーを担当。彼の高音はバンドの特徴であった。
彼のベースはメロディアスで耳に残りやすく、数多くのベーシストに影響を与えた。
ジョンと共に数々の名曲を書いたバンドの中心の一人で、後期は事実上のリーダーだった。ジョンに比べると優等生なイメージで見られやすく、明るくポップな曲が多いといわれる。しかし、Revolution No9など実験的なことも数多く行っており、実際はポップに落し込むのが巧かったと言えるだろう。
解散後は出だしは遅れたものの、ウィングス結成後は軌道に乗り70年代後半以降もヒットソングを出し続けた。ウィングス解散後はソロでも
マイケル・ジャクソンとのコラボなどでヒットを出し続けている。
現在でも精力的に活躍中である。
●ジョージ・ハリスン
バンド最年少で主にリードギター担当。ハーモニーは中音域を担当。
ビートルズ活動中はあまり技巧的なギターソロはなく、中期以降は他のメンバーに変わられてしまうことも多かった。しかし、ソロ後はスライドギターの名手として活躍している。
初期はあまり曲を書かず、ジョンとポールの書いた曲を歌うことが多かった。そのため地味な存在であったが、インドの楽器であるシタールを取り入れたり等サウンド面ではかなり貢献していた。その後、特にリボルバー以降頭角を現し、後期はレノン・マッカートニーと肩を並べるレベルにまで成長した。
しかし、バンド内での地位は高くはならず、これがビートルズ解散の原因の一つとなった。
ソロ後は最も早く活動をはじめ、70年代初頭は快進撃となった。しかし、70年代後半には徐々に落ち込んでしまい80年代初頭は殆ど音楽活動はしなかった。しかし、80年代後半にクラウドナインで復活。ポール・マッカトニーが落ち込んでいく中、再ブレイクを果たした。
しかし、90年代後半に暴漢に刺される。一命は取留め、再び音楽活動を再開しようとしたものの、末期がんが見つかってしまい、懸命の治療空しく2001年に死去。
●リンゴ・スター
本名はリチャード・スターキー。ドラムス担当。歌うことはあまり多くはないもの、ほのぼのした低い声が特徴で最も聴き分けがつきやすい。
4人の中では作曲にあまり関与せず、ハーモニーにもあまり参加しなかったため、やや地味よりな存在だが、彼のドラムスはポールのベースと並びビートルズの要だった。とにかくドラムフレーズの引き出しが多く、聴き慣れた人は「ドラムを聞いただけで何の曲かわかる」と言われほど、曲と妙にマッチしている。
4人の中では唯一、クオリーメンからのオリジナルメンバーではなく、デビュー直前に解雇されたピート・ベストの後に加入したメンバーである。それまでは、別のバンドに参加していた。
ビートルズで最大の人格者と言われ、解散後も全メンバーと良好な関係を保ったのは彼のみである。「自分はビートルズで二番目に好きなメンバーでは一位になれる」と本人も語っているように温厚で謙虚な性格はビートルズの人間関係の潤滑剤となり、彼がいなければビートルズはもっと早く解散していたと言われる。
ソロ後は70年代初頭に絶頂期を迎えるもその後は低迷。しかし、90年代ころから持ち直し、現在は大ヒットこそ出さないものの、マイペースに活動を続けている。
【略歴】
●結成前夜
1956年、高校在学中のジョンが友人とバンド「クオリーメン」を結成。その後、友人の紹介でポール・マッカートニーを紹介され、ポールが加入した。
その後、ポールの紹介でジョージが加入、1960年にバンド名も「ビートルズ」に改められた。しかしドラマーは中々決まらず、ピート・ベストが加入したがデビュー直前に解雇され、以前から知り合いだったリンゴ・スターが加入し、1962年についにメジャーデビューした。
●デビュー後
アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」発売後、破竹の勢いでイギリスで大ヒット。その後、エド・サリヴァン・ショーへの出演を皮切りに
アメリカに上陸。世界中にビートルマニアと呼ばれる熱狂的なファンが発生した。
映画『ハード・デイズ・ナイト』も公開され、同名アルバムも大ヒットし世界ツアーも大成功を収め、自作のアルバムも軒並み大ヒットしていた。
しかし1966年、ジョンがアメリカで「僕らはキリストより人気がある」と発言しアメリカで大問題に発展。さらに、当時偏見の強かったロックへの風当たりもあり、アンチが大量に発生した。
同年には
日本公演が行われるも、日本武道館にてロックバンドの演奏をするという前代未聞の事態に、右翼や挙句の果てに国会で反対が出る。しかし、そんな大人たちの予想に反して日本の若者からは熱狂的に迎い入れられた。
しかし、続く
フィリピン公演で当時の大統領夫人の歓迎会を「滅多にない休日だった」として辞退。しかし、これが切っ掛けでフィリピン国民が暴徒化し、4人はフィリピンを脱出。これらのことが重なり、かねてより多忙を極めていたこともあり、我慢の限界に達したビートルズはライブ活動を終了し、レコーディングアーティストとして活動していく。
●ライブ活動終了後
次作「リボルバー」では、それまでのライブでの再現を前提としていた作品から一転し、レコーディング技術を用いたライブ再現が不可能な作品を作っていく。
そして、世界初のコンセプトアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を発売。一気にサイケデリックな作品となった。以前からその傾向はあったが、ギター以外の楽器もそれまで以上に積極的使われるようになっていく。
しかし、長年マネージャーを務めビートルズの事実上のリーダーだったブライアン・エプスタインが死去。この頃からメンバー内の不仲が表面化していく。
そして二枚組のボリュームを誇る「ザ・ビートルズ(通称ホワイト・アルバム)」を発売。前作よりもサイケデリック色が弱まり、高評価だったもののソロ作品の寄せ集めのような作品となった。
●後期から解散
この状況に危機感を覚えたポールの主導で「もう一度原点に返り、ギター主体のシンプルなライブバンドとしてのビートルズをやろう」とゲットバックセッションを開始。紆余曲折あって、ビートルズのレコーディング風景をドキュメンタリーとして公開し、最後に屋上でのゲリラライブをやることになったのだが、結局このセッション中に不仲がさらに悪化。収録された曲も一時お蔵入りになる。
その後、「アビー・ロード」を発売、メンバーが最後に揃ってレコーディングに参加した作品になってしまった。ゲットバックセッションで録音された曲はフィル・スペクターをプロデューサーとして起用し「レット・イット・ビー」として発売された。
そして、レノンとマッカートニーはレコード会社との契約更新中に口論となり、レノンが脱退宣言。
その後、ポールがロンドンの裁判所にビートルズの解散を訴え、裁判所がこれを認めビートルズは正式に解散した。
●解散後
解散後は4人はソロアーティストとして活動。しばらくは不仲な関係が続くものの70年代後半には収束する。しかし1980年にジョンが銃撃され死去。ジョージの「過ぎ去りし日々」のレコーディングで久々に元メンバーが集まった。
そして、1990年代にアンソロジー・プロジェクトとして、生前のジョンの未発表曲を元メンバーで完成させ、1995年「ビートルズ・アンソロジー」を発売。その後2001年ジョージが死去。
その後の新作はないと思われたが、2023年に90年代では技術的に難しかったジョンの未発表曲を完成させ、正真正銘の最後の曲「Now and then」が発売された。
【おすすめアルバム】
いきなり、アルバムをすべて追うのは大変なのでまずはベストアルバムから聴いてみよう。
●ベストアルバム
〇ザ・ビートルズ1
ビートルズの有名曲を集めたアルバム。そこまでのボリュームはないがCM等で使われる曲も多いので「これ、聴いたことある!」となること間違いなし。
〇ザ・ビートルズ1962年〜1966年(通称赤盤)、ザ・ビートルズ1967年〜1970年(通称青版)
前述のものよりもボリューミーなアルバム(それぞれ二枚組の計4枚)。赤盤はライブ活動期、青版はレコーディングアーティスト時代の作品が収録されている。
ジョージが選曲したベストアルバムで捨て曲一切なし。このアルバムの曲を知っていれば十分ビートルズファンであると言えるだろう。
●オリジナルアルバム
当時はイギリスとアメリカで曲が異なっていたが、現在はイギリス版が正式とされる。
〇プリーズ・プリーズ・ミー
デビューアルバムであり、当時は一発撮りであったため音質に荒はあるものの、この時点で数々の名曲が収録されている。
〇ウィズ・ザ・ビートルズ
セカンドアルバム。ポップで明るいビートルズの全盛期。ジョンも嫉妬した名曲「All my loving」など、ポールが頭角を現した。ジョージも「Don't bother me」で作曲家デビューしている。
〇ハード・デイズ・ナイト
同名映画のサウンドトラックである第三作目。このアルバムでリッケンバッカーの12弦が有名になった。ジョンの曲が大半を占めており、ポールは単独曲が三作と少ないのは珍しい。邦題は「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」という意味不明なものだった(この邦題をつけたのは、金曜ロードショーの解説者として有名な水野晴郎氏だったといわれる)。
〇ビートルズ・フォー・セール
前作までとは一転して、アコースティック主体のフォーク路線となった。やや地味よりなアルバムながらも、「Eight days a week」など名曲も多い。日本公演ではこのアルバムの曲が多かった。
〇ヘルプ!
同名映画のサウンドトラック。再び明るい路線に戻った作品。表題曲の「ヘルプ」や世界一カバーされた曲である「イエスタデイ」など日本でもなじみのある作品が収録されている。
〇ラバー・ソウル
ライブバンド時代最後のアルバム。前作までよりも技巧的な作品が目立つようなっており、後のレコーディングアーティストとしての片鱗を感じさせる。フォー・セールと同じく、日本公演ではこのアルバムの曲が多かった。
〇リボルバー
レコーディングアーティスト時代最初のアルバム。サイケデリックで浮遊感のある曲が目立つようになり、レコーディング技術も多数盛り込まれている。また、ジョージの曲が3曲も収録されており、ジョージの成長がうかがえる。
〇サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド
ビーチボーイズのペットサウンズに触発されて制作したアルバムで世界初のコンセプトアルバム。メンバーは架空の音楽隊という設定で作品を披露するというもの。ビートルズのサイケデリック期の最高傑作であり、後のポップミュージックに多大な影響を与えた。
〇ザ・ビートルズ
通称「ホワイト・アルバム」、こちらの名前のほうが有名かもしれない。サイケデリック色は抑えられ、アコースティックな弾き語りから、当時誕生しつつあったハードロック、果ては現代音楽まで非常に幅広い作品が収録されている。
〇イエロー・サブマリン
同名のアニメ映画のサウンドトラック。メンバーが当初、余り意欲的に制作しなかったため、過去作の寄せ集めとジョージ・マーティンのオーケストラ曲が中心となっている。
〇アビイ・ロード
ビートルズのメンバーが揃って録音した最後の作品。「Something」、「Here comes the sun」などジョージがついにレノン・マッカートニーと並んだ作品。B面のメドレーも評価が高い。
あの横断歩道を4人が渡るジャケットは非常に有名で、現在観光名所となっている(ただし、交通量が多いので行った際は気をつけよう)。
〇レット・イット・ビー
ゲットバックセッションの曲をフィル・スペクターがオーケストラやコーラスを加えるなどして編集し、完成させたアルバム。しかし、本来は「シンプルなロックンロールに立ち返ろう」というコンセプトのアルバムだっため、ポールはこの編集に激怒した(後にネイキッドとして本来の形のものが発売された)。
【関連項目】
Wiki篭りが追記・修正しにやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!
- 偉大すぎる存在だからこうやって項目にまとめるのも大変だったと思う、建てた人お疲れ様でした。あまりにも人気が出すぎたのと当時の技術力の限界で、多すぎる観客を受け止めきれず(フルパワーで鳴らしても観客の黄色い歓声に全部かき消されて音楽として成立しないくらいのレベルだったらしい)、それでライブが出来なくなったって逸話は可哀想だと思った。 -- 名無しさん (2025-08-18 23:44:45)
最終更新:2025年08月18日 23:44