ラブレイ=デシ・ミリア・ミスウィ・ヘルツァーヴィヤ
理語: lablei-deci mili'a micwi helzarvija
"paltdzarl" es anfi'e fon atavergilon tlestesesyko tlest mors. la lex m'es niv "qunergerl", la lex veles tujo "kaima".
『知恵』とは曖昧なものを曖昧にしたままにできる能力である。それは知識ではなく、而て『勇気』とも呼ばれるものである。
――『銀河で生き抜くための考え方』
ラブレイ=デシ・ミリア・ミスウィ・ヘルツァーヴィヤ(アイラニーヤ語:lablei-deci mili'a micwi helzarvija)または単にラブレイ=デシ・ヘルツァーヴィヤ(シンテーア暦1730年13月1日 - NNNN年N月N日)は、ファルトクノア共和国出身の哲学者、思想家である。独裁政治・獣人差別が台頭するファルトクノアから亡命し、様々な国を転々としながら哲学・形而上学研究を推進し、戦前ファルトクノア政府を批判して「近代全体性・仕切りの暴力性」批判を通して形而上学的な暴力性と社会の連関について分析した。省略名称であるデヘルまたは単純に名前でラブレイと良く呼ばれる。経済学者としてアポラの中長期経済計画にも関わっている。
人名の由来
名前であるラブレイ=デシ(lablei-deci)はアイル語で「尊敬すべし導きの星」を表す。言及されやすいラブレイのみでも「名誉ある者」の意があるため、大きな問題はない。
家名であるミリア・ミスウィ・ヘルツァーヴィヤはそれぞれ「意義不明」「息子」「波の者」を示す。おそらく漁業関連の職業をしていた家の分家である可能性が高い。
生涯
シンテーア暦1730年13月1日、ファルトクノア紛争の直後にアイラニーヤ人の両親の元、ラブレイ=デシ(lablei-deci)家に生まれる。父も母もアイラニーヤ系の貧しい賃金労働者であったが、デヘルを高等教育機関に向かわせることに心酔していた。デヘルは、
ファルトクノア共和国政府の許可を受けて、シンテーア暦1749年にユエスレオネ中央大学哲学部に入学し、ユエスレオネ本土の空気に触れながら過ごす。1757年に許可期間が終わり、帰国。 ファルトクノアに戻ってからはショアン人組織「イェスカ主義研究会」の後身である「イェスカ思想研究所」に就職し、研究を続ける。デヘルは政府批判まがいのことを繰り返しており、政府による圧力が強まっていった。1775年、デヘルは輸送ルートを通じて、ファルトクノア共和国から○○○○に亡命した。
ファルトクノア共和国内戦が起こると、政府とユエスレオネ連邦を批判し、ユエスレオネの政治の方向性を変えたと評価されることもあるが、これには諸説ある。
戦後は
スロンミーサ宙軍大学校の政治学部教授を担う。
思想
エピソード・人物
- 話し方は質素で固めだが、礼儀正しく落ち着いている。
- 一方で、服装のセンスは微妙である。あからさまに地雷というわけでもなければ、スタイリッシュだというわけでもない。
- 俗な文化には触れないお硬い人だという印象があり、目立っては居ないがグラメクをやっていたりする。
- 1766年3月のツァイヴァ3世による「fqrrcclûsreorcaiet(fqrr光s宇宙)」という投稿を見て、「対象を認知できないものを議論の俎上に置くことは出来ない」として関連する陰謀論を批判した。一方で、「fqrr光s宇宙はすぐそこに来ている」と投稿するなど、ジョーク精神も発揮していた。
- ハッシュタグ「#CPUを見せろリヤルト・グラーツェン」に対して「リヤルト・グラーツェンをアンドロイドと見間違えるのは、数百年前のアンドロイド開発現場に取り残された民衆だろうか?」と投稿し、多方面に皮肉と批判を飛ばした。
- 『銀河で生き抜くには』の大ファンで、1788年には著書「銀河で生き抜くための考え方」で思索の原点となっている。
ギャラリー
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関連リンク
- 心論争……ゲスト哲学者として参加・意見表明を行った。
- シャリヤは革命に見られた……ラブレイ=デシ・ヘルツァーヴィヤによる同根性考察。
- 刻印主義……戦前から支持していたものの、戦後は政府のラッテンメ人・アンドロイド圧政に繋がったとして一転して批判に回った。
最終更新:2023年06月01日 23:33