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村上謙吾

村上謙吾(むらかみけんご、1899年12月9月~1988年9月)は、日本の政治家。
衆議院議員、内閣総理大臣(村上内閣)、共和党総裁、商工省官僚。
生 1899年12月9日
長野県(現飯田市)
没 1988年9月
東京都(虎の門病院)

来歴

生い立ち

1899年12月9日、長野県の飯田村(現在の飯田市)に生まれる。父の家系は、飯田藩随一の名門庄屋であった。旧制一高小石川分校、東京大学経済学部に学んだ。

商工官吏

1922年、東京大学経済学部卒業後、高等文官試験行政科をパスして、商工省へ入省。入省推薦人は、郷里の先輩である伊藤鶴之助(衆議院議員)。東大経済学部が圧倒的に強かった商工省にして、若い時から能吏ぶりを発揮。生産管理政策では、海軍呉繊維工廠の建設設計が著名な功績であった。
1930年、第71期国費留学生として、イギリスのケンブリッジ大学経済学院政経学研究科に学ぶ。3年の履修を経て、修士(経済学)を授与する。大学院修了後には、商工省英国事務所に駐在したのち、在英日本国大使館へ出向。その後、本省で貿易政策、製造政策、物価安定対策に長らく従事。戦時中は、東京商工金庫取締役、日本繊維統制会東京支部長などを務めた。

政界進出

1943年1月に商工省を退官して日独交流会館理事などを務める傍ら、大日本政治会政治局総務庶務部長に就任。商工統制政策、国際貿易政策を立案した。一方で、日独間の通商交流を民間外交の観点分野から展開した。派閥抗争の流れの中では、幹事長の竹田信哲の知遇を受けて同志会に入会。同志会のライバル派閥であった保守研の鶴田正弘は、個人的にも縁のある商工省の4期先輩で、大学の直属の先輩であった。1944年3月に同志会系内閣として組閣した葉山内閣では、商工省の先輩にあたる松野洋祐(内務長官)の内務長官参与を務めた。

1945年1月以降、大日本政治会政治局文書部長代行を経て、戦後は共和派(同志会)の流れを汲んだ日本共和党へ入党。同年12月の第13回衆議院総選挙で初当選を果たす。大路晴雄の有能な補佐役として存在感を発揮し、協同共和党発足後には、初代政務調査会長を務めた。しかし、1947年8月、日本共和党から移籍してきた和光修次にその地位を譲ることになると、信頼関係にも陰りが見え始める。当時もすでに引退していた竹田信哲の同志会支配に頭を抱えていた大路晴雄は、自派閥として二期会を発足させて自ら反旗を翻すと周囲の大路派議員を連れて派閥として独立。はしごを外された竹田は怒りのあまり病床に伏すこととなる。以来、1951年1月の逝去まで表舞台に立つことはかなわなかった。
1947年10月には、運輸大臣に横滑りする形で初入閣。当時の岡持喜朗大臣が東京商船タンク疑獄事件で強制捜査に踏み込まれた関係から大臣更迭後の入閣となった。この時、ともに就任した運輸事務次官の岡留九朗は、警察官僚出身のタカ派政治家で、終生盟友関係を構築する(この直後、同志会の門閥となる)。

共和党結集

民主党結党に強く勧誘されたものの加わらず、1949年3月に共和党に結集。初代両院議員総会長を務めた。

1950年8月、日本共和党が完全に解体され、鶴田正弘率いる保守研が党内新興勢力ながらに強い力を持つようになる。この時期、竹田信哲から同志会会長の地位を承継され第2代同志会会長に就任する。当時の党内3大派閥の一角を担いながら、保守研に近づく。1952年ごろから大路晴雄総裁の容体が悪化する中、幹事長の和光修次が実質的な総裁代理を務める関係を疎んじており、総裁交代を強硬に主張していたが、その関係もあり、1953年に両院議員総会長を更迭される。

1954年には、「第6回共和党党大会」で第2代総裁に就任した鶴田正弘の下、党政調会長に起用された。その後、派閥調整の意味合いも込めて鶴田内閣の組閣本部に入り若手議員を斡旋。自らも商工大臣として入閣する。しかし、1956年12月に「国際航空機輸入協定」締結を実現する目的で、党幹事長の杉浦静が、商工大臣として入閣。村上が、党幹事長に回ることになった。
鶴田正弘が、第18回衆議院総選挙を経て共和党総裁を辞任する意向を表明すると、後継指名を受けた、構造研の遠山昇と同じく構造研で派閥会長であった小原真郎が真っ向から対立する形で1957年共和党総裁選挙が幕を開けることになる。このさなか、自派閥の同志会からも立候補者を募る中、鶴田内閣の大蔵大臣だった多田信勝に白羽の矢が当たる。多田の擁立によって支援を表明した大路晴雄の二期会と和光修次の雄伯会の影響もあったものの、2人の求心力低下と鶴田の強い選挙戦略によって過半数の票を獲得した遠山昇が共和党総裁に選ばれる。

鶴田院政の真っ盛りであった関係からもわかるように、遠山内閣では、農林大臣として入閣。対米英の食料品輸出入貿易の自由化推進運動などを展開した。しかし、内閣の方針となった対中国貿易の拡大路線には、利益的側面から反対軸の政策を進めて閣内で対立する。このような関係性の中、国際空港開発法問題で党内が二分化。

この時期、自身の前任者にあたる糸原幸喜(前農林大臣)からの要請で、進歩会の相談役となり、進歩会と同志会は友好関係を結ぶことになる。1959年の総選挙後、鶴田正弘が派閥最高顧問に退き、後継会長に就任した杉浦静が組閣。この就任に際して行われた、1959年共和党総裁選挙で、いわゆる密談の結果、後継者として自身が就任することが決まった。杉浦の下では、大蔵大臣、党幹事長の要職を歴任する。しかし、個人的な感情としては、「僕は杉浦君が好きじゃない。無礼な若造だ」と非難している。1961年8月には、杉浦静の政治的名略を決定づけた出来事として語られる、鶴田正弘の進歩会への移籍を裏で後押しした。

組閣(村上内閣)

前述の鶴田正弘の派閥移籍事件などの影響から、内閣総理大臣である杉浦静の共和党内部での影響力は着実に低下していた。1961年8月の共和党大会で、この時分に初めて共和党総裁規定を持ち出して、総裁任期は衆議院総選挙に依存する旨を再確認させた。党幹事長として、この確認に最後まで疑問符をつけていた村上であったが、時の両院議員総会長であった岡田八曇(保守研)に押し切られる形で再確認まで進んでしまった。

1962年8月、共和党挙党体制確立協議会(通称:挙党協)が初めてとなる会合を開き、主要4派閥(雄伯会、二期会、同志会、進歩会)の領袖による次期総裁の決定と、派閥の垣根を超えた挙党体制の確立を協議した。この会合にオブザーバーとして出席したのが、無派閥で自治大臣の田村一だった。

1962年10月、挙党協の中心メンバーであった二期会の岡村幸利が、両院議員総会に対して共和党総裁への問責決議案を提出。4派閥の総勢120名による署名提出を受けて、岡田総会長と杉浦静総裁が緊急で密談を開き、最終的に両院議員総会を開くことになる。この密談を斡旋したのが、時の幹事長である村上であった。この時、杉浦総裁は、幹事長の村上を外して幹事長代行の石原幸一を昇格させる人事案を検討していたが、結局はあきらめている。

総会後、後に引けない杉浦総裁は、12月6日(木)に1962年共和党総裁選挙を行う旨を発表する。発表後、総理大臣執務室に真っ先に辞表を提出した村上は、幹事長職務代理に石原幸一を充てて総裁選立候補を表明。挙党協メンバーの120名を中心に、150名規模にまで膨れ上がった選対本部を差配したのが、雄伯会の竹上一郎だった。対抗する保守研は、杉浦静の続投を目指すために構造研などの他派閥や参議院議員への攻勢を強めた。

1962年共和党総裁選挙では、史上初めての一騎打ち選挙となり、勝利を果たした。挙党協の4派閥出身者のみで組閣を実現し、党の主要メンバーも同様に挙党協から選出した。特徴的な人事としては、自身の城代家老を経て参議院議員となった岡島成夫「後の参議院自由党のドン」を政調会長に起用した(参議院議員としては初めての起用、当選二回での起用も最若手)。

1963年7月、任期満了に伴う第20回衆議院総選挙では、結党以来最低の147議席で過半数を大きく逃す結果となった。選挙結果を受け入れたしたたかな村上は、同志会の党内最大派閥となるために、二期会との個人的なパイプもあった立命会の石原幸一に接近して立命会の同志会支持を勝ち取った。この後、立命会も挙党協に加わることになる。

村上は、早々に1963年共和党総裁選挙の日程を決めて、後継総裁に二期会の赤城勇作を指名。この判断に反対した雄伯会が挙党協から外れることになった。挙党協とは別に、鶴田正弘の手腕もあってはくあ会も赤城支持に回ることになる。総裁選では、赤城陣営の勝利を導いた功績を引き下げて、伊原大四郎に派閥会長を禅譲する。

「村上院政」

総裁を退いたのち、挙党協座長としての権力差配に注力した。赤城内閣ののち、白石内閣までの政権運営を支えたものの、雄伯会から黒田綾継の出現を許したことで挙党協自体の存在意義がなくなったこともあり、一派閥の最高顧問の地位に連綿とすることになった。

1967年11月、立命会の全会一致によって22名の議員が同志会に合流。これによって派閥会長代行となった石原幸一がの影響により、派閥名誉顧問に就任する。これ以降、事実上の石原派にすげ変わることになる。これ以降、共和党7個師団による協議政治が日本政治に巣くうことになり、挙党協は歴史の主で舞台から退くことになる。

略年歴

学歴
1899年 12月9日 長野県飯田市 出身
1912年 4月 旧制第一高校小石川分校 入学
1918年 3月 旧制第一高等学校小石川分校文科 卒業
4月 東京大学文科二類 入学
1922年 3月 東京大学経済学部商学科 卒業
1930年 10月 ケンブリッジ大学経済学院政経学研究科修士課程 入学
1932年 9月 ケンブリッジ大学経済学院政経学研究科修士課程 修了
修士(経済学)
職歴
1922年 4月 商工省 入省(高等文官行政科)
7月 鉄鋼局金属課 主務
1923年 10月 軽工業局繊維課 主務
1925年 10月 (出向)海軍軍需総監部
海軍呉繊維工廠設計委員
1927年 1月 工場局生産課 係長
1930年 1月 第71期国費留学生
1932年 9月 英国駐在員事務所駐在員
11月 在英日本国大使館経済部理事官
1934年 9月 通商局付(経済課)・欧州経済室長
1936年 4月 通商局物価安定課長
1938年 7月 工場局生産管理課長
1940年 4月 東京商工金庫取締役 投融資部長
1941年 10月 日本繊維統制会東京支部長
1943年 1月 退官
政治歴
1943年 1月 日独交流会館理事
大日本政治会政治局総務庶務部長
5月 共和派系同志会 入会
1944年 3月 内務長官参与(葉山内閣)
1945年 1月 大日本政治会政治局文書部長代行
9月 日本共和党 入党
12月 第13回衆議院総選挙において旧長野2区から初当選
1946年 8月 協同共和党 入党
党政務調査会長(~1947.8)
1947年 10月 運輸大臣(第2次大路内閣) 初入閣
1949年 3月 共和党 入党
党両院議員総会長(~1953.5)
1950年 10月 同志会第2代会長
1954年 12月 党政務調査会長
1955年 5月 商工大臣(鶴田内閣)
1956年 12月 党幹事長
1957年 6月 農林大臣(遠山内閣)
1959年 7月 大蔵大臣(杉浦内閣)
1960年 6月 党幹事長
1962年 12月 内閣総理大臣(村上内閣)
1963年 7月 党最高顧問
10月 同志会最高顧問
1967年 11月 同志会名誉顧問
最終更新:2026年10月26日 16:43