来歴
生い立ち
商工官吏
政界進出
1943年1月に
商工省を退官して
日独交流会館理事などを務める傍ら、
大日本政治会政治局総務庶務部長に就任。商工統制政策、国際貿易政策を立案した。一方で、日独間の通商交流を民間外交の観点分野から展開した。派閥抗争の流れの中では、幹事長の
竹田信哲の知遇を受けて
同志会に入会。同志会のライバル派閥であった
保守研の
鶴田正弘は、個人的にも縁のある
商工省の4期先輩で、大学の直属の先輩であった。1944年3月に同志会系内閣として組閣した
葉山内閣では、商工省の先輩にあたる
松野洋祐(
内務長官)の
内務長官参与を務めた。
1945年1月以降、大日本政治会政治局文書部長代行を経て、戦後は
共和派(同志会)の流れを汲んだ
日本共和党へ入党。同年12月の
第13回衆議院総選挙で初当選を果たす。
大路晴雄の有能な補佐役として存在感を発揮し、
協同共和党発足後には、初代政務調査会長を務めた。しかし、1947年8月、
日本共和党から移籍してきた
和光修次にその地位を譲ることになると、信頼関係にも陰りが見え始める。当時もすでに引退していた
竹田信哲の同志会支配に頭を抱えていた大路晴雄は、自派閥として
二期会を発足させて自ら反旗を翻すと周囲の大路派議員を連れて派閥として独立。はしごを外された竹田は怒りのあまり病床に伏すこととなる。以来、1951年1月の逝去まで表舞台に立つことはかなわなかった。
1947年10月には、
運輸大臣に横滑りする形で初入閣。当時の
岡持喜朗大臣が
東京商船タンク疑獄事件で強制捜査に踏み込まれた関係から大臣更迭後の入閣となった。この時、ともに就任した
運輸事務次官の
岡留九朗は、警察官僚出身のタカ派政治家で、終生盟友関係を構築する(この直後、
同志会の門閥となる)。
民主党結党に強く勧誘されたものの加わらず、1949年3月に
共和党に結集。初代両院議員総会長を務めた。
1950年8月、
日本共和党が完全に解体され、
鶴田正弘率いる
保守研が党内新興勢力ながらに強い力を持つようになる。この時期、
竹田信哲から
同志会会長の地位を承継され第2代同志会会長に就任する。当時の党内3大派閥の一角を担いながら、保守研に近づく。1952年ごろから
大路晴雄総裁の容体が悪化する中、
幹事長の
和光修次が実質的な総裁代理を務める関係を疎んじており、総裁交代を強硬に主張していたが、その関係もあり、1953年に両院議員総会長を更迭される。
鶴田院政の真っ盛りであった関係からもわかるように、
遠山内閣では、
農林大臣として入閣。対米英の食料品輸出入貿易の自由化推進運動などを展開した。しかし、内閣の方針となった対中国貿易の拡大路線には、利益的側面から反対軸の政策を進めて閣内で対立する。このような関係性の中、
国際空港開発法問題で党内が二分化。
この時期、自身の前任者にあたる
糸原幸喜(前
農林大臣)からの要請で、
進歩会の相談役となり、進歩会と同志会は友好関係を結ぶことになる。1959年の総選挙後、
鶴田正弘が派閥最高顧問に退き、後継会長に就任した
杉浦静が組閣。この就任に際して行われた、
1959年共和党総裁選挙で、いわゆる密談の結果、後継者として自身が就任することが決まった。杉浦の下では、
大蔵大臣、党
幹事長の要職を歴任する。しかし、個人的な感情としては、「僕は杉浦君が好きじゃない。無礼な若造だ」と非難している。1961年8月には、
杉浦静の政治的名略を決定づけた出来事として語られる、
鶴田正弘の
進歩会への移籍を裏で後押しした。
前述の
鶴田正弘の派閥移籍事件などの影響から、
内閣総理大臣である
杉浦静の
共和党内部での影響力は着実に低下していた。1961年8月の
共和党大会で、この時分に初めて共和党総裁規定を持ち出して、総裁任期は
衆議院総選挙に依存する旨を再確認させた。党幹事長として、この確認に最後まで疑問符をつけていた村上であったが、時の両院議員総会長であった
岡田八曇(保守研)に押し切られる形で再確認まで進んでしまった。
1962年10月、挙党協の中心メンバーであった二期会の
岡村幸利が、両院議員総会に対して
共和党総裁への問責決議案を提出。4派閥の総勢120名による署名提出を受けて、岡田総会長と
杉浦静総裁が緊急で密談を開き、最終的に両院議員総会を開くことになる。この密談を斡旋したのが、時の幹事長である村上であった。この時、杉浦総裁は、幹事長の村上を外して幹事長代行の
石原幸一を昇格させる人事案を検討していたが、結局はあきらめている。
総会後、後に引けない杉浦総裁は、12月6日(木)に
1962年共和党総裁選挙を行う旨を発表する。発表後、総理大臣執務室に真っ先に辞表を提出した村上は、幹事長職務代理に石原幸一を充てて総裁選立候補を表明。挙党協メンバーの120名を中心に、150名規模にまで膨れ上がった選対本部を差配したのが、雄伯会の
竹上一郎だった。対抗する
保守研は、
杉浦静の続投を目指すために
構造研などの他派閥や
参議院議員への攻勢を強めた。
1963年7月、任期満了に伴う
第20回衆議院総選挙では、結党以来最低の147議席で過半数を大きく逃す結果となった。選挙結果を受け入れたしたたかな村上は、
同志会の党内最大派閥となるために、
二期会との個人的なパイプもあった
立命会の
石原幸一に接近して立命会の同志会支持を勝ち取った。この後、立命会も
挙党協に加わることになる。
「村上院政」
総裁を退いたのち、
挙党協座長としての権力差配に注力した。
赤城内閣ののち、
白石内閣までの政権運営を支えたものの、
雄伯会から
黒田綾継の出現を許したことで挙党協自体の存在意義がなくなったこともあり、一派閥の最高顧問の地位に連綿とすることになった。
1967年11月、
立命会の全会一致によって22名の議員が
同志会に合流。これによって派閥会長代行となった
石原幸一がの影響により、派閥名誉顧問に就任する。これ以降、事実上の石原派にすげ変わることになる。これ以降、
共和党7個師団による協議政治が日本政治に巣くうことになり、挙党協は歴史の主で舞台から退くことになる。
略年歴
学歴
| 1899年 |
12月9日 |
長野県飯田市 出身 |
| 1912年 |
4月 |
旧制第一高校小石川分校 入学 |
| 1918年 |
3月 |
旧制第一高等学校小石川分校文科 卒業 |
|
4月 |
東京大学文科二類 入学 |
| 1922年 |
3月 |
東京大学経済学部商学科 卒業 |
| 1930年 |
10月 |
ケンブリッジ大学経済学院政経学研究科修士課程 入学 |
| 1932年 |
9月 |
ケンブリッジ大学経済学院政経学研究科修士課程 修了 |
|
|
修士(経済学) |
職歴
政治歴
最終更新:2026年10月26日 16:43