加賀型航空母艦

かががたこうくうぼかん

大日本帝国海軍、第一航空戦隊所属の航空母艦。実在した。


大日本帝国海軍所属 航空母艦「加賀」
日付:1936年(昭和11年)}
原典:広島県呉市海事歴史科学館所蔵品}
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

建造所 進水まで:川崎造船所
艤装:横須賀海軍工廠
運用者 大日本帝国海軍
艦種 戦艦→航空母艦
母港 佐世保
艦歴
計画 大正6年(1917年)度 (八四艦隊案)
発注 1919年1月
起工 1920年7月19日
進水 1921年11月17日
竣工 1928年3月31日
最期 1942年6月5日沈没
除籍 1942年8月10日
要目(改装後)
基準排水量 公表値 38,200英トン
公試排水量 42,542英トン
全長 247.65m
水線長 240.304m
水線幅 32.5m
深さ 15.45m
飛行甲板 248.576m x 30.48m
吃水 9.479m
ボイラー ロ号艦本式重油専焼缶 大8基
主機 ブラウン・カーチス式タービン(高低圧)2基
艦本式タービン(高中低圧)2基
推進 2軸 x 210rpm、2軸 x 280rpm
出力 127,400shp または 125,000hp
速力 28.34ノット または 28.95ノット
燃料 7,500トン
航続距離 10,000カイリ / 16ノット
乗員 最終時 1,708名
兵装 20cm単装砲10基10門
40口径12.7cm連装高角砲8基16門
25mm連装機銃11基 または 14基
11式軽機銃6挺(1938年)
装甲 舷側:152mm~279mm
傾斜:14.0°
舷側:5インチ(127mm)VC鋼(傾斜15度)
搭載艇 12m内火艇2隻
11m内火艇1隻
12m内火ランチ4隻
9mカッター5隻
6m通船1隻、13m特型運貨船2隻
搭載機 零式艦上戦闘機:21機
九九式艦上爆撃機:27機
九七式艦上攻撃機:27機
合計:75機


概要



戦艦時代


加賀型航空母艦とは、八八艦隊計画三、四番艦として建造が計画された大日本帝国海軍の戦艦である。

はい、戦艦です。その予定だったんです。空母じゃなかったんです。

本来は長門型戦艦の拡大改良型として竣工するはずでした。というか計画上は長門型の三番艦です。
計画途中で長門型の不具合を解消した上で、41センチ連装砲5基10門に強化することが予定されていました。ちなみに長門型は41センチ連装砲4基8門。
装甲配置もユトランド沖海戦の戦訓を取り入れた設計に一新されている。舷側を上部まで装甲化させたこれまでの配置から、水線部に装甲を集中させた所謂「集中防御方式」を採用、煙路防御や傾斜装甲を取り入れるなど、長門型より攻撃力・防御力ともに向上した戦艦として誕生する予定でした。


川崎造船所製作の戦艦「加賀」完成予想模型。昭和初期に公開された。
日付:1925年頃
井静夫『海軍艦艇史 1 戦艦・巡洋戦艦』KKベストセラーズ、1974年、181頁。 ISBN 4-584-17013-4
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

しかし、ワシントン軍縮会議により主力艦の保有数が制限され計画は頓挫、建造中止。そのため予定では天城型巡洋戦艦の空母化の資材となる予定となる。なんでかと言うと、巡洋戦艦のほうが速度が速いから。
……が、ここで関東大震災。
建造中の天城型巡洋戦艦の一番艦「天城」が船台から横転、竜骨が破損したため廃艦に。「天城」の代艦として「加賀」を空母に改造することが決定されたのである。


関東大震災直後の横須賀海軍工廠。巡洋戦艦「天城」は中央のガントリークレーン下の船台上。後に解体
日付:1923年9月3日
原典:日本海軍全艦艇史p122
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1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

本来であれば加賀型二番艦「土佐」は射撃実験の標的艦となり1925年(大正14年)2月9日に自沈処分している。
本作に登場しているのはこの「土佐」である。バレたらエライことになってたでしょうな。


日本海軍戦艦加賀型二番艦「土佐」。タグボートに曳かれて長崎港を出港し、呉へ向かうところを撮影したもの。
1922年8月1日
原典:呉市海事歴史科学館所蔵品
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1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。


そう、元戦艦で速度の問題があったから、天城型2隻を空母にすることにしたんですが、1隻使えなくなったのであればしょうがない……というわけで「加賀」に白羽の矢が立ちました。
まぁ速度の問題と言っても、最大速力は26.7ノットあったんですがね。今の護衛艦(30ノット)とさほど変わらないくらい。空母としても十分。


とはいえ、進水までは戦艦時代に済んでる。
時は大正10年11月17日。
最新鋭戦艦「加賀」の進水式の拝観に集まった人数、実に約10万人。多すぎて観覧台が壊れて負傷者が出るほどだった。
そら海軍の顔である「長門」を超えるという謳い文句で誕生したんだから無理もない。

逆に「翔鶴」、気象台も予想できなかった大嵐。晴れ時々大荒天。
拝観者も「加賀」ぐらい居て、各大臣に長官、皇族の方も居たんですがね。 あ、ちゃんと進水式は無事に終わりましたよ。

……なんというか、どっちもその人生ならぬ艦生を表してるようなそんな気がする進水式であった。

空母へ改装


そんなわけで「加賀」は赤城同様の三段甲板で竣工しました。
「土佐」は……史実では上記の通りなので「加賀」メインで書きます。

日付:1930年
原典:Kure Maritime Museum, Japanese Naval Warship Photo Album: Aircraft carrier and Seaplane carrier, Supervisory editor: Kazushige Todaka, p. 31.
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。


この写真を見ていただければわかると思うが、煙突が伸びてるのよ、艦尾に向かって。これは実験が目的。
煙って火元から出るじゃない?
燻製ってあるじゃない。あれ煙の熱を使って作るじゃない。そんな熱持ったのがずーっと横に伸びてるとさ、その煙突付近の室温はどうなったかと。
四六時中40度ですよ。
最近、夏に40度オーバーを記録しましたが、当時の夏はここまで暑くはないです。30度ちょいです。
夏の昼より熱い艦内はそれはもう大変なことになっておりました。2018年の夏を乗り切った諸兄は身をもってどんな感じなのかはわかったと思う。エアコンなんてついてないし。
当然気流にも影響。着艦に悪影響ですとも。
ただ冬は喜ばれた。海上は寒いしね。


日付:1928年(昭和3年)11月20日
原典:広島県呉市海事歴史科学館所蔵品
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

三段式甲板も使い物にならんしということで一緒に撤去されました。
この辺は空母黎明期なのでしょうがないね。持ってる国自体も少ないし。

初めて飛行機の有人飛行に成功したのは誰ですか? ライト兄弟ですね。
このライト兄弟が初飛行に成功したのは1903年。
「加賀」ら日米の空母が活躍した太平洋戦争は1941年から。
開戦時、飛行機はまだ出来て40年も経っていなかったんです……


ライト兄弟が人類初の動力飛行機での有人飛行に成功した時の写真。ライトフライヤー号
日付:1903年12月17日
原典:This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID cph.3a53266.This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information.
このファイルは、アメリカ合衆国内でパブリックドメインの状態にあります。これは、多くの場合、最初の発行が1923年1月1日より前であるために著作権が消滅した米国の著作物に適用されます。


更に、日本対ロシアの日露戦争の海戦。ロシアのバルチック艦隊を壊滅させた日本海海戦が1905年である。T字戦法を使って勝ちました。
つまり、「船」が実戦をすでにこなしてるってときに、「飛行機」はやっと飛んだ、って状態だね。
軍艦に限定しなければ、船は有史以来ずーっと人類の歴史と共にありますからね。
こんだけ離れてるもんだから技術やら信頼性やらの差は言うまでもないでしょう。

三段甲板は一段目が離着陸用、二段目が小型機用、三段目が大型機用の発艦用でした。
何が問題かってまずね、これじゃ甲板が短い。特に二段目。そもそも発艦できませんでした。
とはいえこの「発艦と着艦を別ける」という発想は、後にアングルドデッキになって復活する。イギリスで。

煙突の方もね。最初から空母として設計された世界初の航空母艦「鳳翔」で、舷側に煙突を立てたままだと航空機の着艦操作に大きな影響を与えることが判明。
ちなみに当時の日本の空母はこの「鳳翔」のみ。


航空母艦 鳳翔
日付:1922年
原典:広島県呉市海事歴史科学館所蔵品
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

浦霞の技術研究所で模型作ってあれこれやってたんですが、解決策見つからず。しょうがないからイギリスの「アーガス」を参考にしました。これも同じような煙突だったんですよ。
ちなみに「フューリアス」を参考にしたっていう資料もあるけど……あまり変わらんかな。「フューリアス」の次級が「アーガス」です。

竣工当時の「アーガス」
日付:1926年と1929年の間
原典:Official U.S. Navy photo NH 63028 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command https://www.history.navy.mil

というわけで、しかし「赤城」の下向き湾曲煙突のとどっちが良いんだろうということで、この2隻はそれぞれ別の排煙方式をとりましたと。

『蓋しこの方が艦中央部に据ゑられた大砲その他諸計器の為には良好であらう。』

なんて言ってたらしい。

それによって発生した問題は上記のとおりである。
赤城方式に変えたかったんだけどなかなか予算が下りなかった。このときの予算は特型駆逐艦と重巡と金剛型の改装に行ってました。

この状態……日華事変初期まで続いてたのよ。
おかげで付いたあだ名は、「海鷲の焼き鳥製造機」である。海鷲ってのは海軍の搭乗員がこう称されてたの。つまり飛行機とパイロットが焼けちまうと。

最終的に撤去して「赤城」と同じ方式に。あだ名払拭できなかったけど。
……だってね。ボイラー効率悪いんだもの加賀さん。この方、長門型と同程度の速力を想定してたのよ?
「赤城」の方はさ、巡洋戦艦じゃない元が。つまりあっちは実質金剛型の後継なのよ。だからあっちのほうが高速向きと。
だから「赤城」のほうがボイラーが少ない。具体的には「赤城」9缶に対して「加賀」12缶。で、「加賀」は最終的に28.5ノットになったんだけど、「赤城」は32ノットである。
タービンで消費しきれない熱量はどこに行くかって、そら上にある居住区だよねと。
ついでに燃費も悪かったです。

……まぁ、赤城も赤城で「人殺し長屋」なんていうとんでもない蔑称が付いてたんだが。

で、参考元の可能性の片方であるフューリアスはどうなったかというとだ。
煙突取っ払った後に、なんと格納庫内に排煙してそれを電気換気扇で排出という方法をとってました。
イギリスのドクトリンって居住環境大事にするはずなんですがね。どうなったかはわざわざ書くまでもないだろう。筆者はなんでそうしたのか小一時間問い詰めたい。もっとあっただろいろいろと。

そんなわけで「加賀」はまだ空母向きだった「赤城」と比べてまーなんとも……速力足りない全長足りない煙突配置も失敗しましたで、欠陥いっぱいの空母として竣工しちゃいました。


大改装



写真一号再び 改装してこうなりました

昭和9年にようやく降りた予算で大改装。なお莫大というか……ここまで大改装した艦は「加賀」の他は「赤城」だけで、本当に海軍の予算を圧迫しました。おかげで速力を除けば日本空母のトップクラスの性能になったんですが。
具体的には「加賀」の大改装約1年で改装費674万5,104円、「赤城」は改装約3年で改装費731万7,644円かかった。意外なことに「加賀」の方が安い。

缶と主機の半分を換装して艦尾も8メートル延長。高角砲もより強力なものに換装しました。
これによって、さっきも書いたけど最大速力は28.3ノットに。100トンも軽くもなったしね。随伴の駆逐艦や艦隊戦術からみてもデメリットになった証言実例は無いよ。
ただね、この後も散々遅い的な事書くけど、最大速力で艦隊行動を行うことを前提にするのは経済を度外視だからね。燃料すぐなくなるし。
当時の艦載機も26ノットあれば無風でも発着できるように設計されてたし、28ノットは問題ないのよ。ちなみに当時の巡洋戦艦の金剛型は30ノットにやや行けなかったくらいで1ノットぐらいしか差はない。ただ飛鷹型は……24.5ノット……まぁ商船改装だしね……でも普通に運用できてたらしいよ。
「龍鳳」も26ノットで天山を発艦させてるし。


日本海軍航空母艦瑞鳳型「龍鳳」東京湾内にて公試中の写真。
日付:1942年(昭和17年)11月
原典:呉市海事歴史科学館所蔵品
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

「信濃」だって20ノットで流星も天山も紫電改も離着陸できてた。更に良好との証言もある。まあ飛行甲板広いからね。特に横幅。

日本海軍航空母艦「信濃」東京湾にて公試中の写真。取り舵をとっている為右舷に傾斜している。
日付:1944年11月11日
原典:呉市海事歴史科学館所蔵品
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

ついでに言うと、最大速力近くだと海面の状況次第では揺れて艦攻なんか発着無理。
ちなみに竣工時の公称速力は23ノット。長門型と同じくらいだね。妥当。28ノットは秘匿スペックである。
乗員も灼熱地獄からは解放されました。それでも暑いんだが前よりはマシだった。


あと艦橋も新調。右舷に作ったので赤城や飛龍なんかより良好だったんだそうな。
なんで右舷かというとだね。これはレシプロ機の特性。
操縦席から見て時計回りに回るエンジンを積んだレシプロ機は、推力上げれば上げるほど回転の反動で左に寄っていくんですよ。カウンタートルクっていうんだけど。だから完全な直進は難しかったんだそうな。
だから、艦橋は左舷より右舷にあったほうが、万が一があったときに突っ込む危険性がないってことでこうなった。

本当はもっとデカイの作る予定だったんだけどね……友鶴事件ってのがあって、トップヘビーは駄目ってことになった。
だから艦橋には羅針艦橋と操舵室と発艦指令所のみの四層とすげぇシンプル。あまり致命的とは言えないんだけど、小さいから艦隊司令部を設置する余裕はなかった。これは二航戦の2隻も同じ。


日付:1941年より前
原典:Stille, Mark, Imperial Japanese Navy Aircraft Carriers, 1921–45, Osprey Publishing, (2005) New York, p. 15.
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

ただ甲板延長は8メートルでは足りなかった。開戦時保有してた6空母の内、船体より長い甲板を使ってたのは「加賀」だけでした。

三段式甲板は三層の格納庫に。これにより、日本の空母において格納庫面積がこの後に竣工するものも含めても最大に。大和型改造空母の「信濃」よりも大きかったんです。具体的には一段目と二段目で合計7,493㎡ありました。「赤城」より1,000㎡ほど広い。
三段目は……最下層の格納庫はエレベーターの都合、主に分解した補用機用の保管場所になってたんだけどね。だから常用数は翔鶴型と同数。
内約としては昭和十四年で艦戦18、艦爆18、艦攻45の常用機とその三分の一の補用機と定めてました。
……ま……実際は零戦18の補2、九九艦爆18の補5、九七艦攻45の補5で合計93機。旧式の機体で計102機でした。当時はこんな感じです。

将来的には零戦18機の補4、流星45の補5の計72機になる予定でした。
ちなみに赤城が60機、翔鶴型が57機、大鳳が54機、蒼龍飛龍が48機を予定。

改装したからこれで万全と思うだろう? まだ実験は続きます。
それはカタパルトである。
昭和10年台に研究してたフライホイールというのを使った宣揚式と空気式の二種類です。どっちもやりました。
でもどっちも開発進まなかったので、結局停滞しました。

あとは、元が戦艦だけあって安定性は確かなもの。他の空母と比べて揺れないのよ。
真珠湾の時は荒天だったんだけど「翔鶴」より揺れなかったのだそうな。具体的には横揺れ「加賀」3度に対して「飛龍」11度、「翔鶴」20度。「翔鶴」は細長くて重心が高かったのよ。

ちなみに改装後も12.7センチ連装高角砲8基の他に20センチ単装砲10基を搭載してたけど、最後まで使わなかった。
だいたい青葉型相当の砲撃力だったんだが……
まあ改装後の「赤城」も積んでいたし、同じ頃のレキシントン型(サラトガは大戦中の改装で撤去)も積んでいた。
「蒼龍」も初期の設計案に20センチ砲を搭載するものがあったし、当時は必要と考えられていたんだろう。

まとめると、「加賀」で実用性が確認された
  • 全通一段甲板
  • 右舷前部の小型艦橋
  • 下向き湾曲型煙突
  • 飛行甲板周囲の対空砲
等は後の空母に受け継がれていく。


日中戦争


初陣は1932年(昭和7年)の第一次上海事変。鳳翔と共に日本の空母初の実戦参加となった。日本機動部隊の誕生である。
ここで「加賀」が日本初の艦載機隊による敵機撃墜を記録して感状を賜ってます。
この時「赤城」は横須賀工廠で限定的な改装をやってた。

「鳳翔」「龍驤」と共に日華事変を戦いまして、激戦と試行錯誤を繰り返してその練度は他国と比べても最強クラス。
この中にはかの村田隊や友永隊なんかが含まれてる。雷撃の神様よ、村田大佐は。
三隻で世界にその活躍が報道されました。

この頃、日本空母で最も重要な着艦指導灯を自艦工作で開発装備しています。間違いなく「加賀」の一番の功績はこれ。
この頃の演習でも「龍驤」と組んで「長門」を翻弄している。


何故か中国軍として参戦してたロバート・ショートを撃墜し、上海公大基地に帰還直後の生田小隊。「加賀」飛行隊所属、左から生田乃木次大尉、黒岩利雄三空曹、武雄一夫一空兵。後は三式二号艦戦。
日付: 1932年2月22日
原典:神立尚紀『零戦最後の証言II』光人社、2000、p.19
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。



太平洋戦争

「加賀」は「赤城」「鳳翔」「龍驤」と駆逐艦の「曙」「潮」「漣」と共に第一航空戦隊を編成しました。艦これやってる人は「一航戦」という言葉をよく聞いたものと思う。これです。彼女らはその初代でした。
ただちょくちょく入れ替わってるところでもあるというのも覚えておいてほしい。かの五航戦と言われて頭に出てくるであろう翔鶴型も後にここに配属されている。
というか空母の大半がここに来る。軽空母を含めても来てない空母探すほうが早い。理由はお察しください。

でも基本的には他の戦隊艦隊と共に行動するから、一航戦単独での作戦は殆ど無い。上の日中戦争ぐらい。
一緒に行動を良くしてたのは「二航戦」こと第二航空戦隊である。ここには「飛龍」と「蒼龍」がいました。
あとは上の五航戦の翔鶴型二隻も二航戦ほどではないけど一緒に作戦やってました。
で、この空母六隻を「第一航空艦隊」と呼びます。略して「一航艦」は作戦のときには他の艦隊も組み込んで護衛してもらいます。上の「曙」ら三隻は第七駆逐隊だね。例によってこっちもいろいろ入れ替わる。

「三航戦」と「四航戦」もちゃんとあります。
「三航戦」は「鳳翔」と「瑞鳳」が所属。「鳳翔」はこっちに移ったんです。小型だからね……しょうがないね。改装ではどうにもならない。
「四航戦」は「龍驤」と「大鷹」。主に別働隊としての活動が主でした。
ただいずれも軽空母だからね。主力は一、二、五でした。この割り振りになったのは編成順。翔鶴型2隻が完成したのは開戦直前だからね。

例によってこれらもこの後入れ替わったりするので。

で、ようやく本題だが、「加賀」は南雲機動部隊の中核として太平洋戦線を戦いました。
世界初の空母機動艦隊「第一航空艦隊」は真珠湾から始まって世界にその艦載機の威力を見せつけました。
よく大艦巨砲主義がーって言って日本が空母を軽視してたように思っている人がいるんだけど、世界で最初に航空機だけで戦艦を撃沈したの日本だし。

もうちょっと言うと、米戦艦を沈めた唯一の日本軍艦は「加賀」である。
ペンシルバニア級二番艦「アリゾナ」がその米戦艦です。1,177名の兵士と共に1941年12月7日に撃沈しました。

日付:1903年12月17日
このファイルは、アメリカ合衆国内でパブリックドメインの状態にあります。これは、多くの場合、最初の発行が1923年1月1日より前であるために著作権が消滅した米国の著作物に適用されます。

現在も湾の底に沈没状態で静態保存され、船体上にアリゾナ・メモリアルがあります。

……そう、唯一なのよねぇ……

えー、真珠湾三有志という方が折りまして、内二人は「加賀」の搭乗員です。もうひとりは「蒼龍」。
真珠湾攻撃当日の証言がまだ残っております。マイナビニュースに。


飛行機は凄まじい勢いで発達し、初飛行から十年後の第一次大戦ではすでに実戦投入されてます。
その後航空戦力の必要性を感じた各国は空母と航空機の研究を進めることに。
本編読んだ人、ミ帝の人が戦闘行動中の戦艦が沈められるわけないって言ってたじゃない。あんな感じで、まだ航空機は戦艦を沈められないって考えられてたんですよ。実際上からの爆撃だけでは難しい。
逆に、その当時、主力艦としての力はもちろんのこと、国の威信も示してた戦艦は各国が競い合って作ってました。ワシントン条約も作りかけの戦艦を空母に改装していいよとかで主に戦艦を縛ってたし。

だから、結果を出したのが「加賀」「赤城」なのよね。
だが、最初に撃沈した戦艦はアリゾナではない。

「マレー沖海戦」。これ日本対イギリスなんだけどさ。
日本海軍は航空戦力だけでキング・ジョージ5世級二番艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈しました。
航空機だけで戦艦は沈められないという考えはここで崩壊。以後、航空支援を伴わない艦隊行動はどの国も控えるようになりました。
すぐ上で唯一の撃沈って書いたじゃない?こっちはイギリス艦だから。あと撃沈したのは陸上攻撃機の爆撃&雷撃。


日付:1941年12月4日
この作品は、イギリス政府の管轄内で作られ、パブリックドメインで提供されています。
以下の1つに当てはまります。
イギリス政府によって作成され、1957年6月1日以前に撮影された写真である。
イギリス政府によって作成され、1968年以前に商業目的で発表された写真や印刷物である。
1968年以前にイギリス政府によって作成された写真や絵画を含めた印刷物以外の芸術作品である。
HMSOは、クラウン・コピーライトの保護期間満了が全世界で適用されることを宣言しました。この点は、寄せられたHMSOのメーリングリストで確認できます。

真珠湾奇襲でも撃沈してるけど、停泊してた旧式戦艦ね。
でもこっちは作戦行動中の新型戦艦である。とはいえ真珠湾も当事者のアメリカには影響すごかったのよ。
真珠湾奇襲によって空母機動部隊の威力を認識したアメリカ軍は、かの週刊月刊と言わんばかりに空母がずらーっと……それはもうどの船団にも空母がいるってくらいに……こんなの相手に最初は押してたのよ日本。
とはいえ主力じゃない艦隊所属は護衛空母という小さいのだけどね。それでも中期あたりから出てきた正規空母「エセックス級」は24隻もある。


CV-11 Intrepid
日付:1944年11月
このファイルは、アメリカ合衆国内でパブリックドメインの状態にあります。これは、多くの場合、最初の発行が1923年1月1日より前であるために著作権が消滅した米国の著作物に適用されます。

とはいえ、なんでこんなに「加賀」じゃなくて飛行機の話してるのかと言うとだ。「太平洋戦争」の初期に日本の空母が「ずっと私のターン!」と言わんばかりに活躍してたからである。
延々とやってたのよ途中までは。もちろん空母が居ない海戦もあったけどね。前提として必要だったのでなが~く書きました。

なんたって空母が居た海戦って砲雷撃戦が起きるの稀なのよ。
艦戦の主砲の射程外で繰り広げられる航空戦で海戦はほとんど決まる。長射程の戦艦も例外じゃないから、存在意義はどんどん消えて行っちゃった。とはいえまだ当分は無くなりはしないが。

真珠湾の後、加賀は「ラバウル攻撃」「カビエン攻撃」「オーストラリア要衝ポートダーウィン攻撃」「ジャワ島チラチャップ攻撃」等に参加しました。

特にラバウルとカビエンはかなり徹底した攻撃で第二次ラバウル攻撃を成功。抵抗受けずに無血上陸を果たしました。被害は航空機二機のみ。
ポートダーウィンではざっと4万5千トンぐらいを沈めました。この時は被害一機。
他もこんな感じで圧倒的でした。


運命のミッドウェー海戦


ポートダーウィンの後の1942年2月19日、パラオ港にて座礁しちゃったのでセイロン沖海戦には参加してません。この時甲板の支柱を4本増やしました。あとは応急処置。ポートモレスビー攻略を目指したMO作戦は「加賀」だけでやる予定だったんですがね。流石に無理だろってことで五航戦と「祥鳳」が代わりに行きました。上の損傷もあってね。

だが彼女らの命日が来る。ミッドウェー海戦である。


ミッドウェー海戦 戦闘の経過
出典:ウィキメディア・コモンズ https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/Battle_of_midway-deployment_map.svg

昭和17年6月5日10時22分。エンタープライズ及びヨークタウンの艦爆50機が高空より日本艦隊を攻撃、直援隊は10時10分に先に来襲した艦攻隊へ対処するために低空で戦闘中、阻止間に合わず。
マクラスキ―少佐率いるエンタープライズ所属機30機のうち25機が攻撃、最初の3発までは回避に成功するが4発目が命中、これを含め計5発が命中し艦体炎上、小型燃料車に爆弾が直撃、引火・爆発によって艦橋が吹き飛び艦長以下幹部がほぼ戦死してしまう。
艦橋の将校が戦死する中、唯一生き残った天谷中佐……この方は「加賀」の飛行長なんですが、先任士官として指揮をとって全力で消火に努めている。この方は後の空母のダメコン能力の向上に貢献しております。

日本時間6月5日16時25分、ガソリン庫に引火して大爆発を起こし沈没。なお同海戦において死者が一番多かった。
岡田次作艦長以下800名が戦死。ミッドウェーの海底へと沈んでいきました。

ちなみに、本戦は米海軍が初めて日本海軍に勝利した海戦でした。

被弾したのが7時22分、実に9時間炎上しつつも浮いておりました。元が改長門型の戦艦ですからね……ちなみにこの後で攻撃を受けた赤城よりも長く浮いてました。最後も転覆すること無く水平に沈んでいったのだそうな。

駆逐艦「萩風」に救助された加賀艦攻搭乗員の吉野治男一飛曹(当時)の証言では、「加賀の艦首から艦尾にかけての格納庫は焼け落ちて、ほんの数時間前までの威容はまったくありません。それでも上甲板以下はしっかりしていて、元は戦艦として建造された面影をとどめていました」とのこと。
その後、吉野氏を救出した「萩風」と「舞風」から2本づつ魚雷を「加賀」に発射。
沈んでいく加賀に乗員達は挙手の礼でこれを見送った。沈んでゆく加賀の姿に、吉野氏は涙も出なかったという。


ミッドウェー海戦はターニングポイントと呼ばれており、「一時的とは言え日本の機動部隊が壊滅したことにより、日本側の一方的な戦いが終了した」ところであった。
日本保有の主力空母6隻のうち4隻を一挙に喪失というのはやはり大きすぎた。残りと言えば翔鶴型2隻と小型空母数隻であった。


急降下爆撃を受けて炎上する空母飛龍。
1942年6月5日
U.S. Navy photo NH 73064
このファイルは、アメリカ合衆国内でパブリックドメインの状態にあります。これは、多くの場合、最初の発行が1923年1月1日より前であるために著作権が消滅した米国の著作物に適用されます。


さて、一方的にやられたっぽく思うかもしれないが、そうでもない。なんでそうっぽく見える記事ばっかりなんだろうね、ミッドウェーは。
直掩の零戦パイロット達はしっかり戦果を上げています。
とくに米軍の被害で最も多かったのは各空母所属の雷撃隊です。

具体的には、出撃40機中、帰ってきたのは3機。
隊長含めて搭乗員79名が生還できず、壊滅しております。
このときの雷撃隊、実は新型のTBFアヴェンジャーを装備していた。デビュー戦を壊滅で迎えたのだった。

他にもヨークタウンに雷撃を命中させているし、ミッドウェー基地も炎上させているし。


炎上するミッドウェー基地
1942年6月
U.S. Navy photo 80-G-41686
このファイルは、アメリカ合衆国内でパブリックドメインの状態にあります。これは、多くの場合、最初の発行が1923年1月1日より前であるために著作権が消滅した米国の著作物に適用されます。


空母エンタープライズ艦上のTBD雷撃隊。
1942年6月4日
Official U.S. Navy photograph 80-G-17056.
このファイルは、アメリカ合衆国内でパブリックドメインの状態にあります。これは、多くの場合、最初の発行が1923年1月1日より前であるために著作権が消滅した米国の著作物に適用されます。


友永雷撃隊の攻撃により、空母ヨークタウンの左舷に2本目の魚雷が命中した瞬間。
1942年6月4日
Official U.S. Navy Photograph 80-G-414423, U.S. National Archives.
このファイルは、アメリカ合衆国内でパブリックドメインの状態にあります。これは、多くの場合、最初の発行が1923年1月1日より前であるために著作権が消滅した米国の著作物に適用されます。




航空母艦加賀戦没者慰霊碑



一般社団法人佐世保海軍墓地保存会HP [http://kaigunbochi.jp/publics/index/54/>>http://kaigunbochi.jp/publics/index/54/]


  • 碑文

泪く時になく
   笑ふ時に笑ふ
そんな立派な
    戦友だった
御国のため
 身を投し
   もう笑う事も
      泪く事も
出来なくなった
 戦友の御霊を
   少しでも
      安らかにと
こゝに碑を建てる
 安らかに遠久に
   ねむれかし


  • 慰霊碑建立の記

航空母艦加賀は大正9年7月19日神戸川崎造船所にて戦艦として起工
進水後は横須賀工廠にて航空母艦に改装
昭和3年3月31日竣工し昭和9年6月25日から約1年の歳月をかけ近代的最新鋭空母に大改装した
昭和12、3年支那事変に際しては支那沿岸各地に於て幾多の戦功を樹て
昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭長躯真珠湾を奇襲し敵に壊滅的打撃を与え
更に印度洋蘭印ラボールと数次の作戦に参加数々の戦果を収めた
昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於ては敵陸上基地を猛攻し反復攻撃のため準備中敵機の集中攻撃を受け
艦を挙げての必死の防戦にも拘わらず敵艦上爆撃機の急襲により武運拙く
被弾誘爆火災を起し全艦火に包まれ遂に総員退去の止むなきに至り
同日16 25頃ガソリン庫に引火し大爆発を起し沈没
岡田次作艦長以下多数の戦没者は艦と運命を倶にされた
茲に慰霊碑を建立し航空母艦加賀の数々の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念する

昭和50年6月5日
航空母艦加賀遺族生存者有志一同
合掌

碑文より引用


  • 航空母艦加賀戦没者慰霊碑

横須賀工廠で昭和3年3月31日竣工。
艤装中の昭和2年12月10日佐世保を本籍と定められ、9年から1か年をかけて佐世保工廠で大改装が行われた。

(ミッドウェー開戦)
加賀は見張員の爆弾投下の報告と同時に、一斉に対空射撃を開始した。
爆弾第4弾は後部右舷に命中し、飛行機格納甲板及び防御甲板を突き抜けて炸裂。
第7弾は全部昇降機に落下。
第8弾は艦橋前方のガソリンタンク車に命中し、艦橋は破壊され、艦長岡田次作大佐、副長川口雅男大佐ほか艦橋所在者はほとんど全滅した。
第9弾が中部に命中し、発着甲板を突き抜けて、飛行機格納甲板で爆発。
ここには魚雷20本、800キロ爆弾20発、250キロ爆弾40発が置いてあり、たちまち誘爆して全艦火災となる。
消火作業のための水も止まり、多くの機関科員は上甲板に上がることも不可能であった。
加賀はついに前部ガソリン庫に引火、2回の大爆発ののちゆっくりと横倒しになり、徐々に沈んでいった。
時に昭和17年6月5日午後4時25分。
碑は昭和50年6月5日に建立された。
岡田艦長以下800余名の戦死者を祀ってある。

参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷



戦後の「加賀」~DDH184へ


それから50年以上の月日が流れた1999年5月にアメリカの深海調査会社ノーティコスが同海域を調査した結果、深度5,000m付近の海底で加賀の着艦指導灯や右舷後部の銃座の残骸を発見している。
同年9月、米海軍海洋調査船サムナーが残骸を撮影・調査した結果、格納庫隔壁や25mm機銃座、着艦指導灯が確認され、加賀のものだという事が判明。
その時の写真は権利上の都合貼れないのでこちらのサイトへ行ってください。
動画もあるよ。

「加賀」の名前は、長い間海上自衛隊にも海上保安庁にも採用されておりませんでした。「蒼龍」は潜水艦に、「飛龍」は消防船に、「赤城」は小型巡視船になってたんですがね。日本郵船には「加賀丸」ってのがあったんですが。

2015年8月27日、JMSDF いずも型護衛艦二番艦として、DDH-184「かが」が再誕しました。



排水量は初代「加賀」ほどではありませんが、全長248メートル、全幅38メートルという海自最大の護衛艦である。……とはいえこれでも最大限にいろいろと切り詰めた設計なんだが。
でも「加賀」は全長248.6メートルの全幅32.5メートル。大きさはだいたい同じなのよね。
2017年3月22日に正式に引き渡されて竣工しましたが、この場所……実は航空母艦「加賀」が生まれる理由になったところ。つまり、巡洋戦艦「天城」の浮き桟橋でした。



「土佐」の噂、他

当時の少年たちの間で「土佐」は自沈しておらず、どこかに秘匿されている」という噂があったりしました。本作に置いては正解であった。
とはいえ、進水式の際にくす玉が割れないという「事故」が発生し、縁起の悪さが……実際は標的艦だしねうん。
土佐建造に携わった造船関係者は「土佐」の標的艦処分を知らされて「前途を祝福されたはずの土佐がドザ(水死体)になった」と自嘲した……やりきれないよねそりゃ。

あと長崎県にある軍艦島(正式名:端島)の由来が戦艦土佐だと言われている。1916年(大正5年)に大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、その5年後に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる。
現地でどれだけ期待されていたのかがよく分かるだけに……


日本国召喚での活躍


一番艦「加賀」


本作には登場していない。
東遣艦隊が転移したのが1943年、ミッドウェー海戦の後の為、沈没している。

2019年10月18日、ポール・アレン氏のチームによって沈没している加賀を確認。
彼女は水面下5,400メートルで発見されました。加賀は直立しており、フライトデッキの多くが欠落。
アメリカでは潜水艦ノーチラスの雷撃説が根強い模様だが、日本だと不発説が根強い。
詳しくはここを参照。 動画もあります。

なお、加賀は1999年にすでに見つかっているのでこれは確認の意味合いが強い模様。ただ日本海軍の空母で唯一発見されているのが彼女である。
この時調査したのが米国の深海調査会社ノーティコス社であり、ソナーによって海底の4つの空母の残骸を発見したと発表しているため、赤城や飛龍も近くに発見されるかもしれない。
→2023年9月11日、航空母艦赤城発見。
https://www.youtube.com/watch?v=wUz1Vb7I2DU&feature=youtu.be
https://twitter.com/navalhistorian/status/1701013215109615702

二番艦「土佐」


標的艦と見せかけて極秘裏に航空母艦として竣工していた。
東遣艦隊の旗艦。東遣艦隊の司令官を乗せている。転移先での指揮は本艦が行っている。
転移は本艦からその転移の渦へ入っていった。転移後は異世界方面艦隊と名を変えている。

この後、零戦21型が登場するのだが、本艦と「生駒」のどちらの艦載機か明記無しの為不明。

更に後、魔王軍の戦力が西と東に分かれているということで、本艦は西回り側の艦隊となり、こちらでも旗艦となる。

東西に分かれる前にフィルアデス大陸より200kmの海上にてワイバーン200騎と遭遇するも、本艦と「生駒」より発艦した零戦21型50機で全騎撃墜。
撤退する敵を艦攻艦爆と駆逐艦隊で撃滅。敵将グルゴラス戦死。

その後、更に300騎のワイバーンが出撃されるも、本艦と「生駒」の全機が発艦し、更に戦艦や巡洋艦の対空戦闘も加わりこれを撃滅。

他、艦内での会議等の描写はだいたい本艦であった。

トーパ城壁を作った後、行きと同様に本艦から元の地球へ帰還した。1945年8月15日、日本東方約500キロメートルの太平洋上だった。
二日後に横須賀に帰還するも、そこに待っていたのは転移中に日本敗戦の事実。建造と同様に極秘裏に解体され、記録も抹消された。

随時加筆願います。
関連項目
兵器太陽神の使い零式艦上戦闘機21型九七式艦上攻撃機九九式艦上爆撃機

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  • 加賀の生存者僅か40名とあるけど、これ、機関部の生存者数よね?少なくとも1,200名以上乗ってたから400名以上は生き残ってるはずなんだけど - 名無しさん (2020-08-21 17:37:03)
    • 資料返しちゃったのでアジア歴史資料センター見返してるけど、ちょっと確認する。 とりあえず暫定修正。 - 名無しさん (2020-08-21 17:55:29)
    • 今更になるが、証言ミッドウェーという本で、原文と思しきのを見つけた。 - 名無しさん (2021-11-17 21:49:53)
      • 艦内(萩風)にはすでに700名ほど収容され、重傷者もすくなくなかった。 科長以上の生存者は飛行長、軍医長、私(工作長)だけであった 【 中略】 機関科はもっとも悲惨で、上部火災のため脱出し得ず、機関長以下大部の人が戦死。 わずかに、佃中尉以下、補機、電機の者約40名が生存してるのみだった。 - 名無しさん (2021-11-17 21:50:43)
  • いつか艦これとコラボする日も来るか……? - 名無しさん (2018-09-24 10:24:58)
    • 確実にみょうこうと大和辺りはいじられそうですねぇ。二次だと「零これ」がありますし、「異世界大戦」にはそっくりさんがちゃっかり出てるけど。 - ドリフ提督 (2018-09-24 12:47:13)

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最終更新:2020年04月26日 16:36