原文
Loing de sa tetre1 Roy perdra la bataille2,
Prompt eschappé ponrsuiuy3 suiuant4 prins
Ignare prins soubz la doree maille,
Soubz fainct habit & l’ennemy5 surprins.
異文
(1) tetre 1557U : terre
T.A.Eds. (
sauf : Terre 1650Ri 1672)
(2)
bataille: Bataille 1672
(3) ponrsuiuy 1557U : poursuiuy
T.A.Eds.
(4) suiuant: saiuant 1628
(5) l'ennemy: l'Ennemy 1672
校訂
1行目 tetre はこの場合 terre の誤植だろう。1557Uに依拠している
ピーター・ラメジャラーも、そのように校訂している。
2行目の ponrsuiuy は当然 poursuiuy (poursuivi)の誤植。
日本語訳
その領地から離れて、国王は戦いを落とすだろう。
すぐに逃げるが、追撃され、続いて捕らわれる。
(素性を)知られずに捕らわれる、黄金の鎖帷子と
偽りの身なりで。そして敵は驚かされる。
訳について
2行目 suivant は接続詞としての用法はないが、
ピーター・ラメジャラーや
リチャード・シーバースが then と英訳し、
ジャン=ポール・クレベールが「すぐに」の意味に理解していることから「続いて」とした。suivre の現在分詞と理解して、「(それに)続きつつ」と理解すれば近いか。
3行目 maille は網目や網目状に織った生地などのことだが、DMF では mailles と複数形にすれば、 「鎖帷子」(くさりかたびら、cotte de mailles) の意味になったとある。DFEの場合、単複の条件なしにそのまま英語の Mayle (mail)と訳されている。ラメジャラーやシーバースがそのまま mail と英訳し、クレベールが cotte de maille [sic.] と釈義していることもあるので、ここでは「鎖帷子」と訳した。
既存の訳についてコメントしておく。
大乗訳について。
1行目 「かの国から遠くなく 王は戦いをゆるめ」は誤訳。遠い(loing / loin)を否定する語がどこにもないので、「遠くなく」はおかしい(元になったはずの
ヘンリー・C・ロバーツの英訳は普通に far from となっている)。また、「戦いをゆるめ」は意味不明である。おそらく、ロバーツの英訳の lose を loose と見間違えたのではないだろうか。
2行目「機敏にのがれ 従い とらえられ」は、訳語に poursuivi (追撃される)に当たる語がない。
3行目「無知は鎖よろいのコートで金を塗られ」は、単語をバラバラに理解すれば、そういう訳を導けなくもないだろうが、意味不明である。なお、「鎖よろいのコート」はロバーツが maille を coat of mail と英訳していたためだろうが、普通、coat of mail 全体で「鎖帷子」(鎖鎧)と訳してしまうべきだろう。
4行目「装いの習慣のもとに敵にとらえられた」も誤訳。habit は「身なり、服装」以外に「習慣、風習」の意味もある(英語と違い現代フランス語にその意味はないが、中期フランス語にはあった)ので「装いの習慣」は誤りとはいえないが、surprins (surpris)は「驚く」の受動態であって、prins (pris)(捕らわれた)とは区別されるべきだろう。
山根訳について。
3・4行目 「無知の者 金色の鎖かたびら 偽りの装束にて/捕われ 敵をおどろかす」は、倒置を使わず訳すために、3行目と4行目とで一部の単語が入れ替えられている。それ自体は問題ないのだが、「無知の者」は微妙。Ignare は確かに現代語で直訳すればその通りである。ただし、中期フランス語では ignorant の意味もあった。ラメジャラーの英訳やクレベールの釈義では incognito とされていることも踏まえれば、王が身分を隠しているという意味に捉えるのが自然だろう。
信奉者側の見解
テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、ポルトガル王セバスティアン1世(在位1557年 - 1578年)が、モロッコ王位を追われたムーレイ・ムハンマドを支援する名目でモロッコ遠征を行い、アルカッセルキビルの戦い(1578年)で大敗を喫し、モール人たちが戦死したセバスティアンの遺体を10万クラウンでスペイン王に売却したことと解釈した。
この解釈は
エドガー・レオニ(1961年)が敷衍、紹介したこともあって、
エリカ・チータム(1973年)、
ジョン・ホーグ(1997年)らが踏襲した。レオニはアルカッサルキビルの戦いではセバスティアン1世が戦死したと推測されている(つまり遺体は見つからなかった)とし、当時は生存説がささやかれていたことを指摘しつつ、この詩の4行目は実際にセバスティアン1世が戦死ではなく、捕虜とされていたという形で通説的な史実と別の情景を示している可能性を示唆した(当時のセバスティアンの生存説自体は『ブリタニカ国際大百科事典・小項目電子辞書版』などにも載っている。それによると、1640年のポルトガル再独立の際のセバスティアニズムの高揚につながったという)。チータムやホーグも生存説との関わりから論じている。なお、
チータムの日本語版では「十字軍遠征」云々とあってまぎらわしいが、これはセバスティアンのモロッコ遠征が十字軍精神に憧れたものであったということである。当然、中世の十字軍そのものとは時代が違いすぎる。
バルタザール・ギノー(1712年)は、ある王の敗北と捕縛として状況を敷衍しているが、特定の史実とは結び付けていない。
セルジュ・ユタン(1978年)は、(時期を詳述していないがおそらくハノーヴァー朝成立後の)スチュアート家による王位請求の無駄な試みと解釈した。
同時代的な視点
詩の情景は比較的分かりやすいものといえるだろう。自国を離れて大敗を喫した王が、残党狩りか何かの結果、素性を隠して捕まった後に、その素性を知った敵たちを驚かせることになる、といったものだろう。
ピーター・ラメジャラーは、
イングランドの「獅子心王」リチャード1世(在位1189年 - 1199年)が第三次十字軍に失敗して退却した折、ウィーンで(オーストリア公レオポルトに)捕らわれたことがモデルと解釈した。
コメントらん
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最終更新:2015年09月11日 02:31