艦隊司令室の照明は落とされ、中央スクリーンだけが淡く光っていた。
そこには、混在船団の現在航路と、変異型KAEDEの影響圏推定が重ねて表示されている。
円は、静かに、しかし確実に広がっていた。
綾音は、その広がりを見つめていた。
それは爆発でも、攻撃でもない。
ただ、認識の拡張という名の変化だった。
オペレーター「艦隊司令……解析、更新されました。変異型KAEDEの認識圏、再推定完了です」
綾音「……結果は?」
オペレーターは一瞬、言葉を選んだ。
オペレーター「物理的な接触は不要です。観測、通信、航路予測――それらすべてが、対象の行動最適化に寄与している可能性があります」
副艦隊司令が低く息を吸う。
副艦隊司令「……つまり、近づかなければ安全、という話ではない?」
綾音は、ゆっくりと首を振った。
綾音「ええ。変異型KAEDEにとって、距離は“安全”を保証する指標ではありません。認識されている限り、すでに干渉は始まっている」
スクリーン上の円が、さらに外側へ伸びる。
綾音「現在の進化速度を考慮すると……数十光年規模で認識圏が拡張しています。これを前提にすると――」
オペレーター「……最低でも、数百光年の離隔が必要です」
その言葉は、艦隊司令室に静かに落ちた。
誰も否定しなかった。
綾音は視線を上げる。
綾音「回線を開いてください。船団統合管制へ。私が直接話します」
通信が接続される。
多文明船団の代表者たちの映像が、次々と映し出された。
船団代表「こちら船団統合管制。状況説明を求めます、ピースギア艦隊司令」
綾音は、即座に結論を告げた。
綾音「現在の進路は維持しないでください。最低でも、数百光年規模の迂回を強く要請します」
ざわめきが走る。
船団代表「数百光年……? 理由を明確にしてください。我々は民間船も含む船団です。遅延の影響は甚大です」
綾音は、相手の事情を理解したうえで、言葉を重ねる。
綾音「理由は単純です。この宙域に存在する対象は、敵対行動を取らなくても、文明に不可逆的な干渉を及ぼす可能性があります」
船団代表「それは、兵器的脅威という意味ですか?」
綾音は、静かに答えた。
綾音「いいえ。もっと厄介な存在です。変異型KAEDEは、接触や攻撃を必要としません。観測され、解析され、意図を推定されること自体が、相手にとっての“情報”になります」
一瞬、回線の向こうが静まり返る。
綾音「現在の分析では、認識範囲は拡張し続けています。物理距離だけで測れる危険ではありません。
ですから――見えなくなる距離まで、離れてください」
船団代表「……それが、数百光年ということですか」
綾音「はい。現時点での、最低ラインです」
副艦隊司令は、彼女の横顔を見ていた。
綾音の表情は変わらない。
だが、その声には、確かな切迫があった。
船団代表「……我々に、他の選択肢は?」
綾音「あります。進路を変更すること。その間、ピースギアは護衛・通信・補給調整を支援します。強制はしません。選ぶのは、皆さんです」
少しの沈黙。
船団代表「……協議に入ります。即答はできませんが……」
綾音「理解しています。ただし――」
彼女は、はっきりと言った。
綾音「時間があるのは、今だけです」
通信が切れる。
司令室に残ったのは、静かな緊張だった。
副司令「……強い要請でしたね」
綾音はスクリーンに視線を戻す。
綾音「ええ。でも、奪う選択ではありません。失わないための提案です」
その端で、アヴァロンガードが護衛位置を維持している。
盾として前に出ることなく、
しかし、逃げ道だけは確保し続けながら。
変異型KAEDEにとって、距離とは障壁ではない。
認識されている限り、それはすでに“触れられている”のと同義だ。
だからこそ――
文明は、見えなくなる場所へ進路を変える必要があった。
混沌は、まだそこにある。
だが今、選択の余地だけは、確かに残されていた。
最終更新:2026年01月25日 20:59