集うは御子の旗の下 挿話3
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第5話:5-A(戦闘前半1 戦闘前半2 戦闘中盤 戦闘後半 イベント1 イベント2) 5-B(第1戦前半 第1戦後半 第2戦)<<前 インターミッション5(その1 その2 その3 その4) 挿話3 次>>
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人数は私を含めて十七人まで減っていた。壊滅状態にある三個小隊から動ける者だけをかき集めて再編成したはずが、さしたる戦果を上げることもできないまま頭数だけ元に戻ってしまった。ラクシャクの戦線はいよいよ敗色濃厚、通信は数週間前より途絶していて、他の部隊がどこでどう戦っているのかも定かではない。時折遠くから響いてくる戦闘の大音声だけが、ただ「他の部隊」が存在することの証であった。
十七人のうちに手傷を負っていない者はない。レーヴァテイルが生き残っていないわけではないが、食事も休息も満足に取れない日々で心身が疲弊していては回復魔法の効き目は薄い。補給がないので戦う手段にも乏しく、正当に食料を調達できる手段もまもなく失われる。私は、数日前から考えていた選択肢――すなわち、このまま全員が地に伏すまで戦うか、それともラクシャクを脱出してエナの南朝様の下に逃れるか――のうち、後者が実行できる機会は今日が最後であろうと悟った。そして、十七人の命と引き換えに得られるだろう戦利の小ささを思い、決断した。
暗くなるのを待ち、私は廃墟の一室に皆を集めた。隊を解散すること、私はエナに向かうつもりだがラクシャクを脱出できる保証すらないことを伝えた。天井に向かって力なく目を閉じる者、声を立てずに涙ぐむ者、あるいは予期していたことが起こったというある種の安堵。小さな灯火の中でそれぞれの表情はあまり見えないが、息遣いからその反応が感じられた。私は隣の小部屋に移り、十六人の名前を一人一人呼んで中に入れ、今後の意向を聞いた。また、力及ばずこの結果を招いたことへの謝罪と、今までの尽力に対する労いの言葉をそれぞれに送った。四人が「足手まといになる」との理由でラクシャクに留まって投降することを決め、二人が各々の方法で逃亡することを決め、あとの十人が私と共にエナに向かうことになった。残された資源を皆で分配し、僅かな時間を今生の別れを惜しむことに充てた後、我々は廃墟を後にした。
敵の目をなんとか掻い潜って無事にラクシャクを脱出できたものの、レーレの水卸の敵陣を迂回する途上の崖登りで一人が転落し、打ちどころが悪く助からなかった。この彼――よく糧食に文句をつけていたため戦友たちからは“美食家”と綽名されていたが、同時に料理の腕も確かで、彼の手にかかれば古く萎びた食材も熱々の御馳走に早変わりしたものだ――ウーゴが、南朝様の代の戦争つまりパスタリア陥落までの過程において私が見た最後の戦死者である。ラクシャクで別れた六名については、その後の行方は知れない。
十七人のうちに手傷を負っていない者はない。レーヴァテイルが生き残っていないわけではないが、食事も休息も満足に取れない日々で心身が疲弊していては回復魔法の効き目は薄い。補給がないので戦う手段にも乏しく、正当に食料を調達できる手段もまもなく失われる。私は、数日前から考えていた選択肢――すなわち、このまま全員が地に伏すまで戦うか、それともラクシャクを脱出してエナの南朝様の下に逃れるか――のうち、後者が実行できる機会は今日が最後であろうと悟った。そして、十七人の命と引き換えに得られるだろう戦利の小ささを思い、決断した。
暗くなるのを待ち、私は廃墟の一室に皆を集めた。隊を解散すること、私はエナに向かうつもりだがラクシャクを脱出できる保証すらないことを伝えた。天井に向かって力なく目を閉じる者、声を立てずに涙ぐむ者、あるいは予期していたことが起こったというある種の安堵。小さな灯火の中でそれぞれの表情はあまり見えないが、息遣いからその反応が感じられた。私は隣の小部屋に移り、十六人の名前を一人一人呼んで中に入れ、今後の意向を聞いた。また、力及ばずこの結果を招いたことへの謝罪と、今までの尽力に対する労いの言葉をそれぞれに送った。四人が「足手まといになる」との理由でラクシャクに留まって投降することを決め、二人が各々の方法で逃亡することを決め、あとの十人が私と共にエナに向かうことになった。残された資源を皆で分配し、僅かな時間を今生の別れを惜しむことに充てた後、我々は廃墟を後にした。
敵の目をなんとか掻い潜って無事にラクシャクを脱出できたものの、レーレの水卸の敵陣を迂回する途上の崖登りで一人が転落し、打ちどころが悪く助からなかった。この彼――よく糧食に文句をつけていたため戦友たちからは“美食家”と綽名されていたが、同時に料理の腕も確かで、彼の手にかかれば古く萎びた食材も熱々の御馳走に早変わりしたものだ――ウーゴが、南朝様の代の戦争つまりパスタリア陥落までの過程において私が見た最後の戦死者である。ラクシャクで別れた六名については、その後の行方は知れない。
an anecdote about Illusha
The name(s) I bear
The name(s) I bear
エナに到着してからそう日が経たぬうちにラクシャクとパスタリアは相次いで敵の手に落ち、戦争はエレミア人たちの勝利に終わった。大鐘堂はいまや「残党」と蔑みを込めて呼ばれるようになったのだ。その残党たちは宮殿を棄ててエナの地下に逃れることになり、私と共にエナに逃れ着いた九人も、もともとエナ出身であるため帰る家が存在し、負傷もあって除隊を願い出てそれを許された“無表情の”ティボーを除いて、地下で暮らすことになった。
南朝様まで含めて僅か三十五人、かつての大鐘堂とは比べ物にならないほど小さな集団とはいえ、隠れ棲むのは容易なことではなかった。なにしろ、エナも占領したエレミア人たちは物理的に我々のすぐ上にいて、御子の捜索を続けている。幸いにしてエナの市民には征服者に反感を持つ者が多く、この捜索は実を結ぶことはなかった。また、信頼できる協力者をすぐに見つけることができたため、生活の基盤は早い段階で構築することができた。しかし、だからと言って、我々を処刑台に送るために目を皿のようにして捜し回っている敵がすぐ上に居座っていることへの懸念が払拭されるわけは当然ない。常に物音に怯えながらの毎日、それでも私たちには身体を動かす仕事がいくらでもあり、それをしている間は多少は気が紛れ、夜になれば――もとい、休む時間ともなれば、溜まった疲労に意識を吸われるようにして眠った。それを思えば、常に恐怖と向き合わなければならない御子の心労は如何ばかりだったか、実際にこの頃から南朝様は体調を崩されることが多くなってきたらしい。
私はと言えば、大鐘堂騎士隊から近衛騎士隊に編入され、御子様やイリューシャ様の近くに居る時間が増えた。近くに居るとはいってもそれは文字通りの意味で、何か話をしたりするわけでもない。いや、次期御子と騎士という関係の文脈ではもちろん話はする。イリューシャ様は当時十三歳ながらも、南朝様のことをお気遣いになってかとても気丈に振る舞っておられ、私たちを鼓舞するお言葉を掛けて下さることもたびたびあった。しかし、より個人的な範囲に立ち入るような話は、私もイリューシャ様も好まなかった――と当時は思っていた。
さて、イリューシャ様は南朝様のご負担を軽減するため、この地下において御子の地位を継承なさることを提案なされた。それは南朝様のご同意も得られて、遠からず実行されることになった。しかし、南朝様を思い遣るイリューシャ様の御心はやはり不安で満たされていらっしゃったということを、私は間もなく知ることになった。
南朝様まで含めて僅か三十五人、かつての大鐘堂とは比べ物にならないほど小さな集団とはいえ、隠れ棲むのは容易なことではなかった。なにしろ、エナも占領したエレミア人たちは物理的に我々のすぐ上にいて、御子の捜索を続けている。幸いにしてエナの市民には征服者に反感を持つ者が多く、この捜索は実を結ぶことはなかった。また、信頼できる協力者をすぐに見つけることができたため、生活の基盤は早い段階で構築することができた。しかし、だからと言って、我々を処刑台に送るために目を皿のようにして捜し回っている敵がすぐ上に居座っていることへの懸念が払拭されるわけは当然ない。常に物音に怯えながらの毎日、それでも私たちには身体を動かす仕事がいくらでもあり、それをしている間は多少は気が紛れ、夜になれば――もとい、休む時間ともなれば、溜まった疲労に意識を吸われるようにして眠った。それを思えば、常に恐怖と向き合わなければならない御子の心労は如何ばかりだったか、実際にこの頃から南朝様は体調を崩されることが多くなってきたらしい。
私はと言えば、大鐘堂騎士隊から近衛騎士隊に編入され、御子様やイリューシャ様の近くに居る時間が増えた。近くに居るとはいってもそれは文字通りの意味で、何か話をしたりするわけでもない。いや、次期御子と騎士という関係の文脈ではもちろん話はする。イリューシャ様は当時十三歳ながらも、南朝様のことをお気遣いになってかとても気丈に振る舞っておられ、私たちを鼓舞するお言葉を掛けて下さることもたびたびあった。しかし、より個人的な範囲に立ち入るような話は、私もイリューシャ様も好まなかった――と当時は思っていた。
さて、イリューシャ様は南朝様のご負担を軽減するため、この地下において御子の地位を継承なさることを提案なされた。それは南朝様のご同意も得られて、遠からず実行されることになった。しかし、南朝様を思い遣るイリューシャ様の御心はやはり不安で満たされていらっしゃったということを、私は間もなく知ることになった。
地下にいても地上を吹く風の息吹が感じられるような嵐の日だった。朝――実際の時間帯としても間違いなく朝である――の食事を終えられたイリューシャ様は、レギーナと何かを示し合わせて、意を決したご様子で、私を見上げないで済む程度の距離まで近づいていらっしゃった。仰るには、この地下を案内しなさい、と。無論、すぐに私は断りの言葉を差し挟んだものだが、本当にいざとなったときには護衛がそばにいるとは限らない、どこに行けば脱出できるのかくらいは知っておくべきだ、との説明を手始めにレギーナが食い下がって、問答の末に結局私は提案を呑むことになった。……以降私はあの娘の押しの強さを何度も何度も何度も味わうことになるのだが、それはまあさておいて……
イリューシャ様とレギーナを案内するのに私一人では手が足りないと思い、私の部下だった者から二名、“指揮者”ウリヤナとレーヴァテイルの“燃える水の”エロイーズとを連れて、次期御子様の地下道中が始まった。なるほどこの日の天候は好都合で、荒ぶる風雨は人を建物に押し込めた上で戸や窓を激しく叩き続けていて、この地の底で少々声を上げたところで地上に漏れ聞こえる心配はない。それをいいことに、女性陣はさながらピクニック気分でしゃべり始めてしまった。私と違って元部下の二人はイリューシャ様のお目にかかる機会は少なく、したがって会話するのもこれが初めてに近いはずだったのだが、すぐに打ち解けてしまったようだ。楽しそうな表情をお見せになるイリューシャ様を前にしては、私も話を遮る気になれなかった。
地下空間は数層にわたっていて、表面から見るリムの姿からは信じられないような広大さを持つ。実際に、この時点でもまだ我々はこの場所の構造を完全に把握してはいなかった。それに比べて御子様たちが通常行き来できる範囲はごく狭いものであり、それが理由か、厨房・練兵場・倉庫群・配導設備といった見た目上は特に何の変わり映えもない地下の施設であっても、イリューシャ様はそれらを物珍しそうにご覧になった。梯子を上り下りする場所もあったが、彼女は誰の手を借りることもなくその難所を突破なさった。リクエスト通りに出入口を案内するときばかりは、いくらそれが固く封鎖されているとはいっても、さすがに四人も口を閉ざして注意深く歩いた。
物見遊山行は一通り済み、時刻は昼が近づいてきた。私はこれで案内を終えて帰るつもりで、まだご覧になりたい場所はございますか、と聞いた。私でさえ全容を知らないこの地下において施設として使用している場所は全て回った、もはや見るべきものの何が残っているか、という考えだった。しかし、イリューシャ様のご返答は予想外のものであった。少し躊躇するような素振りをお見せになられてから出てきたお言葉は、リムの底まで行ける場所はあるのか、との問いだった。あるにはあるのですが危険でして……と私が答えると、遠くからでもいいから見てみたい、そうしたら戻りましょう、と彼女は言葉を継がれた。安全な場所からお見せするだけでしたら、と私も同意した。
階段と梯子を下り、使われていない通路を進み、また梯子を下りた。地上の音はとうに聞こえなくなっていて、人気のない長い通路はいつまで歩いても不気味な暗闇が目の前に続き、女性陣の会話も自然と途絶えた。ランプの出力を上げて、整えられていない床の上を慎重に足を運び、さらにしばらく歩いていくと向こうのほうがやや明るくなっている。照明が不要になる少し手前のあたりまで進んで、私は足を止めた。
それはリムの底に開いた2ストン四方くらいの開口部だった。折からの嵐によって風が吹き込み吹き出し、不安定な渦がごうごうと音を立てるので、この日はこれ以上進むのは無理だと判断した。私たちが立っている場所からは雲海までは見ることができなかったので、イリューシャ様は、この穴からは確かに雲海が見えるかと質問され、そうですと私は答えた。まだ観光気分でいたらしい元部下二名は自分の目で見に行けないのを残念がっていたが、イリューシャ様が私に「そう、良かった」とお答えになるやいなや、ウリヤナはそれを逃さずに訊いた、良かったのですか、と。
何でもないのよ、とイリューシャ様は一言だけのお返事をなさり、その隣でレギーナは腕を組んでやや困った顔をしている。私ならばそれ以上は追及しないところだったが、雲海だったとしてもやっぱり外が見えたほうがいいですよね、とエロイーズが加勢してきた。「それもそうだけど……」と言い切らない形で返されたことで、当然「そうだけど?」と繰り返しの形式をとった質問が戻ってきて、イリューシャ様は言葉に窮してしまわれた。そろそろ止めに入ったほうがよいだろうか、と私が思案したその隙に、レギーナがなんと逆方向に話を引き取った。
イリューシャ様とレギーナを案内するのに私一人では手が足りないと思い、私の部下だった者から二名、“指揮者”ウリヤナとレーヴァテイルの“燃える水の”エロイーズとを連れて、次期御子様の地下道中が始まった。なるほどこの日の天候は好都合で、荒ぶる風雨は人を建物に押し込めた上で戸や窓を激しく叩き続けていて、この地の底で少々声を上げたところで地上に漏れ聞こえる心配はない。それをいいことに、女性陣はさながらピクニック気分でしゃべり始めてしまった。私と違って元部下の二人はイリューシャ様のお目にかかる機会は少なく、したがって会話するのもこれが初めてに近いはずだったのだが、すぐに打ち解けてしまったようだ。楽しそうな表情をお見せになるイリューシャ様を前にしては、私も話を遮る気になれなかった。
地下空間は数層にわたっていて、表面から見るリムの姿からは信じられないような広大さを持つ。実際に、この時点でもまだ我々はこの場所の構造を完全に把握してはいなかった。それに比べて御子様たちが通常行き来できる範囲はごく狭いものであり、それが理由か、厨房・練兵場・倉庫群・配導設備といった見た目上は特に何の変わり映えもない地下の施設であっても、イリューシャ様はそれらを物珍しそうにご覧になった。梯子を上り下りする場所もあったが、彼女は誰の手を借りることもなくその難所を突破なさった。リクエスト通りに出入口を案内するときばかりは、いくらそれが固く封鎖されているとはいっても、さすがに四人も口を閉ざして注意深く歩いた。
物見遊山行は一通り済み、時刻は昼が近づいてきた。私はこれで案内を終えて帰るつもりで、まだご覧になりたい場所はございますか、と聞いた。私でさえ全容を知らないこの地下において施設として使用している場所は全て回った、もはや見るべきものの何が残っているか、という考えだった。しかし、イリューシャ様のご返答は予想外のものであった。少し躊躇するような素振りをお見せになられてから出てきたお言葉は、リムの底まで行ける場所はあるのか、との問いだった。あるにはあるのですが危険でして……と私が答えると、遠くからでもいいから見てみたい、そうしたら戻りましょう、と彼女は言葉を継がれた。安全な場所からお見せするだけでしたら、と私も同意した。
階段と梯子を下り、使われていない通路を進み、また梯子を下りた。地上の音はとうに聞こえなくなっていて、人気のない長い通路はいつまで歩いても不気味な暗闇が目の前に続き、女性陣の会話も自然と途絶えた。ランプの出力を上げて、整えられていない床の上を慎重に足を運び、さらにしばらく歩いていくと向こうのほうがやや明るくなっている。照明が不要になる少し手前のあたりまで進んで、私は足を止めた。
それはリムの底に開いた2ストン四方くらいの開口部だった。折からの嵐によって風が吹き込み吹き出し、不安定な渦がごうごうと音を立てるので、この日はこれ以上進むのは無理だと判断した。私たちが立っている場所からは雲海までは見ることができなかったので、イリューシャ様は、この穴からは確かに雲海が見えるかと質問され、そうですと私は答えた。まだ観光気分でいたらしい元部下二名は自分の目で見に行けないのを残念がっていたが、イリューシャ様が私に「そう、良かった」とお答えになるやいなや、ウリヤナはそれを逃さずに訊いた、良かったのですか、と。
何でもないのよ、とイリューシャ様は一言だけのお返事をなさり、その隣でレギーナは腕を組んでやや困った顔をしている。私ならばそれ以上は追及しないところだったが、雲海だったとしてもやっぱり外が見えたほうがいいですよね、とエロイーズが加勢してきた。「それもそうだけど……」と言い切らない形で返されたことで、当然「そうだけど?」と繰り返しの形式をとった質問が戻ってきて、イリューシャ様は言葉に窮してしまわれた。そろそろ止めに入ったほうがよいだろうか、と私が思案したその隙に、レギーナがなんと逆方向に話を引き取った。
「私から言っちゃってもいいかな? たぶん、大丈夫だと思うから」
十秒ほど経って、イリューシャ様は無言のまま小さく頷かれた。レギーナはもう一度、大丈夫、と次期御子様の肩をぽんを叩き、それからウリヤナのほうに向き直って話した。
本当に探していた脱出口とは、出入口ではなくここのことだった。つまり、この地下空間の存在が知られてついに大鐘堂の命運が尽きたとき、エレミア人たちに捕まらずに死ぬ方法であった。
この頃にはもう、大鐘堂の将軍だったジェラルド・トラヴェール殿が近いうちに極刑とされるだろうという見通しが知れ渡っていた。エレミア人側の指導者だったアーロン・スピアーズが戦争の最末期というタイミングで狙撃され死亡したという経緯もあり、その後継者である“レーヴァテイル戦争の英雄”マンフレッド・ブラックボーンの巧みな煽動もあって、彼らの我々に対する一種の懲罰感情はまさに最高潮に達していた。そのような中でもし御子が敵の手に落ちたとなれば、受ける扱いについてはもはやぞっとするような想像しかできなかった。
イリューシャ様は、それをお分かりになった上で敢えて御子を継がれることを選択なさった。そして、ずっと後になってジャド殿から聞いた話だが、南朝様は南朝様で、いざとなれば戦争の責任と不名誉を全て自分が被って死ぬことを想定して、引退を決意なさったそうだ。お互いに覚悟があってのご決断だった、が、年若いイリューシャ様はその覚悟を抱えきるのがまだ難しかったのだと、私は思う。そして、その最後の逃げ道の存在を、今日確認しにきたというのであった。
私は、イリューシャ様の真意に接して、言葉を掛けることができなかった。ウリヤナとエロイーズが代わる代わるひっきりなしに慰めるので口を挟む余地がなかったというのがより正しい。
いずれにせよ、この日をきっかけにイリューシャ様は一段の落ち着きを取り戻されたとレギーナは言っている。そして、ただ黙って聞いていただけの私に対しても、一つの秘密を暴露した結果として何らかの親しみを覚えられたのだろうか、たびたび話すように――次期御子と騎士の関係の範疇を外れうる話をするという意味で――なった。
本当に探していた脱出口とは、出入口ではなくここのことだった。つまり、この地下空間の存在が知られてついに大鐘堂の命運が尽きたとき、エレミア人たちに捕まらずに死ぬ方法であった。
この頃にはもう、大鐘堂の将軍だったジェラルド・トラヴェール殿が近いうちに極刑とされるだろうという見通しが知れ渡っていた。エレミア人側の指導者だったアーロン・スピアーズが戦争の最末期というタイミングで狙撃され死亡したという経緯もあり、その後継者である“レーヴァテイル戦争の英雄”マンフレッド・ブラックボーンの巧みな煽動もあって、彼らの我々に対する一種の懲罰感情はまさに最高潮に達していた。そのような中でもし御子が敵の手に落ちたとなれば、受ける扱いについてはもはやぞっとするような想像しかできなかった。
イリューシャ様は、それをお分かりになった上で敢えて御子を継がれることを選択なさった。そして、ずっと後になってジャド殿から聞いた話だが、南朝様は南朝様で、いざとなれば戦争の責任と不名誉を全て自分が被って死ぬことを想定して、引退を決意なさったそうだ。お互いに覚悟があってのご決断だった、が、年若いイリューシャ様はその覚悟を抱えきるのがまだ難しかったのだと、私は思う。そして、その最後の逃げ道の存在を、今日確認しにきたというのであった。
私は、イリューシャ様の真意に接して、言葉を掛けることができなかった。ウリヤナとエロイーズが代わる代わるひっきりなしに慰めるので口を挟む余地がなかったというのがより正しい。
いずれにせよ、この日をきっかけにイリューシャ様は一段の落ち着きを取り戻されたとレギーナは言っている。そして、ただ黙って聞いていただけの私に対しても、一つの秘密を暴露した結果として何らかの親しみを覚えられたのだろうか、たびたび話すように――次期御子と騎士の関係の範疇を外れうる話をするという意味で――なった。
それから少し時は流れ、イリューシャ様は無事に御子をお継ぎになった。状況が状況ゆえ、本来行うべき数々の儀式は軒並み省略され、地下の広間で戴冠式のみが行われた。その間も警戒を緩めるわけにはいかないので、大鐘堂関係者であってもイリューシャ様が第十九代御子となったその瞬間を見届けることができた者はごく僅かな数しかいなかったが、私は立場上、その場に居合わせる幸運に与ることができた。本来この場にいるべきの教皇猊下を始めとして、この戴冠式自体も欠けるところが多かった。それでも私は得も言われぬ誇らしい感情を覚え、また、既に決まっている自らの新しい役職を思って身が引き締まる思いであった。
新しい御子の下で組織の再編が行われ、これまでの二つの騎士隊を正式に廃して大鐘堂軍が発足した。私に将軍になれとの打診が最初に来たときは少々驚いた、なぜなら、大鐘堂騎士隊出身の私よりも組織図上は御子に近い近衛騎士隊の出身者から選ばれるものだと思っていたからだ。とはいえ、御子の護衛で動かないことが多かった近衛騎士隊よりも実戦経験が豊富な大鐘堂騎士隊から選ぶべきという理由があってのことで、私は謹んで拝命することになった。
私の仕事は、それまでとは質を異にするものになった。騎士隊から軍という名称に変更するのは、つまり広く一般から兵士を募る予定であることを意味する。エレミア人たちの目を掻い潜ってそれを実行するには数々の困難が立ちはだかっていることはわざわざ強調するまでもないだろう。だとしても、実行しないという選択肢はない。新たな御子を迎えたのは大鐘堂の歴史に美しき終止符を打つためではないのだ。ゆえに、まずは受け入れるための準備を万全に整える必要がある。準備と一言で言ったが、その具体的な内容は多岐にわたる。エナの街に出ないとできないことも多い、そのためには街に拠点が要る、拠点構築の前にはまず安全に街に出られる方法が要る、ならば万一出入口が見つかっても対応できる方策が要る、そうすると……。準備はまさに無限後退の化け物であって、その長い長い行程を一つ一つ慎重にこなしていくことが求められた。
そのような中で、一つの事件が起こった。イリューシャ様の存在が――というよりは、御子の位を継いだ事実が――エナの人々の一部に知られてしまっていることが判明したのが、そのきっかけだった。
新しい御子の下で組織の再編が行われ、これまでの二つの騎士隊を正式に廃して大鐘堂軍が発足した。私に将軍になれとの打診が最初に来たときは少々驚いた、なぜなら、大鐘堂騎士隊出身の私よりも組織図上は御子に近い近衛騎士隊の出身者から選ばれるものだと思っていたからだ。とはいえ、御子の護衛で動かないことが多かった近衛騎士隊よりも実戦経験が豊富な大鐘堂騎士隊から選ぶべきという理由があってのことで、私は謹んで拝命することになった。
私の仕事は、それまでとは質を異にするものになった。騎士隊から軍という名称に変更するのは、つまり広く一般から兵士を募る予定であることを意味する。エレミア人たちの目を掻い潜ってそれを実行するには数々の困難が立ちはだかっていることはわざわざ強調するまでもないだろう。だとしても、実行しないという選択肢はない。新たな御子を迎えたのは大鐘堂の歴史に美しき終止符を打つためではないのだ。ゆえに、まずは受け入れるための準備を万全に整える必要がある。準備と一言で言ったが、その具体的な内容は多岐にわたる。エナの街に出ないとできないことも多い、そのためには街に拠点が要る、拠点構築の前にはまず安全に街に出られる方法が要る、ならば万一出入口が見つかっても対応できる方策が要る、そうすると……。準備はまさに無限後退の化け物であって、その長い長い行程を一つ一つ慎重にこなしていくことが求められた。
そのような中で、一つの事件が起こった。イリューシャ様の存在が――というよりは、御子の位を継いだ事実が――エナの人々の一部に知られてしまっていることが判明したのが、そのきっかけだった。
そもそもの発端は、“無表情の”ティボーからもたらされた情報だった。エレミア人の暫定政府による大鐘堂残党の捜索が、しばらく動きが見られなかったのに、最近また活発になっているという。その捜索活動への対応のために情報収集を進めるうち、「新しい御子」という言葉が、それを知らされていないはずの一般市民の口から出てきたのである。
俄然、大鐘堂は大騒ぎになった。いったいどこから漏れたのか。私の心には一つの可能性がよぎった。旧近衛騎士隊出身者――貴族階級出身で騎士とは名ばかりの者も多い――の中に、私の将軍就任を面白く思わなかった者がいるのではないかと。実際にはこの危惧は杞憂であったことは、心根まで騎士にそぐわない者はこの地下に至る前に逃げ出しているし、仮に裏切りが出たならば噂になる暇もなく敵が突っ込んでくるだろうことから明らかだったのだが。しかしこの地下で秘密裏に行われた継承がいつの間にか公然の事実になっているということは、ここにいる皆を恐怖の底に陥れた。私は、募兵準備の件をいったん停止して各所の警備を強化するよう命令したが、それでもしばらくは神経質な日々が続いた。
不安に苛まれていたのはイリューシャ様も同じだった。地下探検の件以来、御子様は主に女性の兵士を相手に会話をお楽しみになることが時々あったのだが、今は本当に信頼できる者しか周囲に置くことができない。頼みの綱のレギーナでさえ、当時はまだ武術を始める前の話でもあり、さすがに参っているようだった。
何日か経った日の深夜、私の部屋の戸を叩く音がした。助けてちょうだいと外で言う声は間違いなく御子様のものだ。何事かと思い身支度もそこそこに閂を外して扉を開けると、御子様はお寝間着のままで、焦燥の色を隠さず、レギーナに熱が出ていると仰る。ただでさえ医者を捕まえるのが難しい深夜、加えてこの地下生活であり、レーヴァテイルの回復魔法で賄えないぶんはどうすることもできない。この時点で既に看護師のキャメラ・トリートマンが所属してはいたのだが、今の状況下でも十分信頼できる人物かどうかはまだ未知数であったし、そもそも夜は兄の介護のために戻っている。そうこう思いを巡らす暇もなく、とにかく見てほしいと手を引かれ、誰か代わりの者を遣ることもできずに私は御子様の部屋に連れて行かれた。
大きなベッドにはレギーナが寝かされていた――彼女は御子様の依頼で数日前からここで夜を過ごしているという。さらに近づくには少なからず躊躇いもあったが、そうもいかずに彼女の様子を見ると、発汗に苦しそうな呼吸と、確かに高熱があるようだった。彼女は私の姿を確かめると、アレクセイ将軍、こんな夜中に呼んじゃってごめんね、と申し訳なさそうな微笑を見せた。この症状はレーヴァテイルとしての覚醒に伴うものなのではないのかとの疑惑を御子様は抱いておられ、私もまたそれを考えたのでレギーナに問い質したが、彼女は「私の家系はレーヴァテイルの血を入れないしきたりなんだって」とその可能性を即座に否定した。そうなるとひとまず様子を見る以外には手立てはなく、私は頓服と水を取ってきてレギーナに与えた。それから近くで番をしていたウリヤナを連れてきて、レギーナを自室まで運ばせると、私とイリューシャ様がその場に残された。
イリューシャ様はまだ動揺が収まっていないご様子だった。強い口調で、医学の専門知識がある者がいないことへの懸念を示された。それ自体は全くもってもっともな話であり、私は言い返すことができずにただ聞いていたが、やがてお話はそれ以外のご不満にも広がっていく徴候を見せ始めたので、ついに止めざるを得なくなった。
俄然、大鐘堂は大騒ぎになった。いったいどこから漏れたのか。私の心には一つの可能性がよぎった。旧近衛騎士隊出身者――貴族階級出身で騎士とは名ばかりの者も多い――の中に、私の将軍就任を面白く思わなかった者がいるのではないかと。実際にはこの危惧は杞憂であったことは、心根まで騎士にそぐわない者はこの地下に至る前に逃げ出しているし、仮に裏切りが出たならば噂になる暇もなく敵が突っ込んでくるだろうことから明らかだったのだが。しかしこの地下で秘密裏に行われた継承がいつの間にか公然の事実になっているということは、ここにいる皆を恐怖の底に陥れた。私は、募兵準備の件をいったん停止して各所の警備を強化するよう命令したが、それでもしばらくは神経質な日々が続いた。
不安に苛まれていたのはイリューシャ様も同じだった。地下探検の件以来、御子様は主に女性の兵士を相手に会話をお楽しみになることが時々あったのだが、今は本当に信頼できる者しか周囲に置くことができない。頼みの綱のレギーナでさえ、当時はまだ武術を始める前の話でもあり、さすがに参っているようだった。
何日か経った日の深夜、私の部屋の戸を叩く音がした。助けてちょうだいと外で言う声は間違いなく御子様のものだ。何事かと思い身支度もそこそこに閂を外して扉を開けると、御子様はお寝間着のままで、焦燥の色を隠さず、レギーナに熱が出ていると仰る。ただでさえ医者を捕まえるのが難しい深夜、加えてこの地下生活であり、レーヴァテイルの回復魔法で賄えないぶんはどうすることもできない。この時点で既に看護師のキャメラ・トリートマンが所属してはいたのだが、今の状況下でも十分信頼できる人物かどうかはまだ未知数であったし、そもそも夜は兄の介護のために戻っている。そうこう思いを巡らす暇もなく、とにかく見てほしいと手を引かれ、誰か代わりの者を遣ることもできずに私は御子様の部屋に連れて行かれた。
大きなベッドにはレギーナが寝かされていた――彼女は御子様の依頼で数日前からここで夜を過ごしているという。さらに近づくには少なからず躊躇いもあったが、そうもいかずに彼女の様子を見ると、発汗に苦しそうな呼吸と、確かに高熱があるようだった。彼女は私の姿を確かめると、アレクセイ将軍、こんな夜中に呼んじゃってごめんね、と申し訳なさそうな微笑を見せた。この症状はレーヴァテイルとしての覚醒に伴うものなのではないのかとの疑惑を御子様は抱いておられ、私もまたそれを考えたのでレギーナに問い質したが、彼女は「私の家系はレーヴァテイルの血を入れないしきたりなんだって」とその可能性を即座に否定した。そうなるとひとまず様子を見る以外には手立てはなく、私は頓服と水を取ってきてレギーナに与えた。それから近くで番をしていたウリヤナを連れてきて、レギーナを自室まで運ばせると、私とイリューシャ様がその場に残された。
イリューシャ様はまだ動揺が収まっていないご様子だった。強い口調で、医学の専門知識がある者がいないことへの懸念を示された。それ自体は全くもってもっともな話であり、私は言い返すことができずにただ聞いていたが、やがてお話はそれ以外のご不満にも広がっていく徴候を見せ始めたので、ついに止めざるを得なくなった。
「お言葉ですが、イリューシャ様。医師がいないというご指摘はまことその通りです、ですから我々も探しているのですが、そう簡単に見つかるものではございません」
「簡単じゃないのは分かってる。でも、もしレギーナが何か悪い病気だったら、彼女は……治療も受けられずに死んでしまうかもしれないのよ?」
「簡単じゃないのは分かってる。でも、もしレギーナが何か悪い病気だったら、彼女は……治療も受けられずに死んでしまうかもしれないのよ?」
そうです、と私は返した。冷静に答えたつもりだったが、もしかしたら冷酷と受け取られたのかもしれない。御子様は口を引きつらせていた。意味を補おうと、私は急いで言葉を追加した。地下で隠れて暮らす以上はこれは皆承知の上、覚悟の上です、と。しかしこれはイリューシャ様の感情を逆撫でする結果を招いた。
「覚悟、覚悟って……私だって、ここが見つかったときの覚悟、私が捕まって殺されるときの覚悟はしている。だけど、まだ覚悟があるっていうの!? 仲間の命を、本当だったら助かるはずの命を、見殺しにする覚悟があるっていうの!?」
「違います!」
「違います!」
思わず私も声を上げた。死んでいった私の戦友や部下の姿が脳裏をよぎった。私は彼らの名前を覚えている。白刃のやりとりに落命した者たちや私を庇って斃れた者たちのみならず、ラクシャクに置いてきた四人、エナまでもう少しのところで墜死したウーゴに対してさえも、悔悟と自責の念の表出として「見殺し」という単語を使うことはあったとしても、私は彼らを実際に見殺しにしたつもりはない。
「イリューシャ様と同じく、皆は『自分が』死ぬ覚悟はできているのです! 必要になるのは、その覚悟を受け取る覚悟です!」
「覚悟を受け取る覚悟……?」
「覚悟を受け取る覚悟……?」
イリューシャ様は声のトーンを落とした。私も、今が深夜であることをようやく思い出し、一つ大きく息をついた。
「不安から逃れる方法はいくつもあります。見なかったことにする、別のことに打ちこむ、自分にできることはないという理由をいくつも並べ挙げる……とはいえ、そうしたところで不安の種がなくなるわけではありません。元を断つにはいったん不安と直面する必要がある、それには覚悟が要る、ということはお判りでしょう」
「……ええ」
「覚悟があるからこそ、腰を据えて問題に取り組むことができる。もちろん、取り組んだところでそれがいい結果を生むとは限らない。ですが、だからと言って、悪い結果を恐れていては何もできないのです」
「……」
「皆は自分が死ぬ覚悟はできている。その覚悟を一度ちゃんと受け取ってこそ、死なせないための方策を考え、死ぬような危険から少しでも遠ざけるための手立てを取ることができるのです」
「……ええ」
「覚悟があるからこそ、腰を据えて問題に取り組むことができる。もちろん、取り組んだところでそれがいい結果を生むとは限らない。ですが、だからと言って、悪い結果を恐れていては何もできないのです」
「……」
「皆は自分が死ぬ覚悟はできている。その覚悟を一度ちゃんと受け取ってこそ、死なせないための方策を考え、死ぬような危険から少しでも遠ざけるための手立てを取ることができるのです」
イリューシャ様は落ち着きを取り戻されたようだった。頷いて、一つ謝罪の言葉を述べられた。
「……探していないわけがないなんて、最初から分かっていたことのはずなのに。ごめんなさいね」
「こちらも声を荒げてしまったのは失態でした。申し訳ない」
「こちらも声を荒げてしまったのは失態でした。申し訳ない」
それからしばらく無言の時間が続いた。どちらにせよ本来の用事は済んでいるのでそろそろ戻ったほうがいいだろうと思い浮かび、一度顔を横に向けたちょうどその瞬間、御子様は仰った。
「ねえ、アレクセイ。貴方は、今まで、どれだけの覚悟を受け取ってきたの?」
私は戻る時機を逸した。仕方なく、私はいくつかの名前を例に挙げて、彼らの顛末を話した。敵と絡みあったまま雲海に落ちた“鉄拳”サム、逆に三度も九死に一生を得た“悪運王”フランチェスコ……話すにつれ、私は次に誰の話をしようか迷うほどになってきた。灯されたランプには部屋の隅までを照らすほどの光はなく、私たち二人が立つわずかな床面の周囲の暗がりに、私は確かに彼らの面影とその運命の日の情景を投影していた。
イリューシャ様も興味深そうにお聞き下さったので、つい興に乗じてしまい、何人分の話をしたのか私ははっきりと覚えていない。話が止まったのは遠くから物音が聞こえてきたからで、その瞬間に私は妙な胸騒ぎを感じ、とうとう私は夜の別れの挨拶をして部屋を退出した。しかし、悪いことは重なるとはよく言ったもの、この日の事件はこれからが本番であった。
イリューシャ様も興味深そうにお聞き下さったので、つい興に乗じてしまい、何人分の話をしたのか私ははっきりと覚えていない。話が止まったのは遠くから物音が聞こえてきたからで、その瞬間に私は妙な胸騒ぎを感じ、とうとう私は夜の別れの挨拶をして部屋を退出した。しかし、悪いことは重なるとはよく言ったもの、この日の事件はこれからが本番であった。
部屋を出てすぐ、誰かがこちらに向かって駆けてきた。見ると、出入口の警備に当たっていたうちの一人、私の元部下でもある“逃げ足だけは神速”リナだった。靴が焦げ、脚に軽度の火傷を負っていた。
「暴走です! I.P.D.暴走です! 私と一緒にいたエロイーズが……」
ついに、恐れていたことが起こった。ストレスが溜まりがちな地下生活、暴走のリスクは常に意識されるべきことで、だから少しでも過ごしやすい環境を整えてきたのではあるが、このところの緊張状態にとうとう耐え切れなかったのかもしれない。
イリューシャ様も、おそらくはエロイーズの名前がお耳に入り、こちらにおいでになった。一度取り戻したはずの落ち着きをまた失ってらっしゃるように私には見えた。しかしながら、今はもう説明している猶予はない。私は剣だけを部屋から取ってきて、騒ぎを聞いてちょうど駆けつけたウリヤナを従え、気が動転しているリナはそのまま御子様の元に残し――これから起こるだろう荒事とその結末を見せたくないというのもある――現場に急行した。
イリューシャ様も、おそらくはエロイーズの名前がお耳に入り、こちらにおいでになった。一度取り戻したはずの落ち着きをまた失ってらっしゃるように私には見えた。しかしながら、今はもう説明している猶予はない。私は剣だけを部屋から取ってきて、騒ぎを聞いてちょうど駆けつけたウリヤナを従え、気が動転しているリナはそのまま御子様の元に残し――これから起こるだろう荒事とその結末を見せたくないというのもある――現場に急行した。
状況はまさしく最悪だった。出入口の近くという最悪の場所、暴走詩魔法という最悪の行動、静かな夜という最悪のタイミングだった。“燃える水”の綽名の通り、彼女の詩魔法はまず水を生じ、それが地面などに浸透したのちに時間差で炎を上げる。詩魔法による幻影の火は彼女を完全に取り巻いていて、それが苔を焼く実体の炎に移行しつつあった。地下の狭い空間に煙が漂い始めていて、彼女も私たちもありとあらゆる意味で危険に晒されているのではあるが、なによりこの煙が外に漏れてしまったならば大鐘堂の全てが終わりである。応援を呼ぶ時間も残されていない。一撃で彼女を屠る他に私には選択肢がなかった。私は剣を構え、防御の体勢をとれるはずもない相手に向かって振りかぶって――
『覚悟を受け取る覚悟……?』
不意に、先ほどの御子様の声が蘇った。果たして、エロイーズは私の「もし暴走したなら殺してでも止める」という覚悟を受け止める覚悟はできていたのだろうか?
そうだ、私は言わなかった。私が負っている名前は戦友たちのものだけではない。かつてメタ・ファルスがまだ平和だった時期、かつて私がまだ下っ端の騎士だったころ、そのころも私はこうしてI.P.D.暴走に立ち向かっていた。そうして、ちょうど今この瞬間のように、私はしばしば彼女たちを殺す決心をし、剣を振り抜いていた。本心では命だけでも助けたかった彼女たちの、当然存在するべきその名前を、私が知ることは稀だった。暴走鎮圧は騎士隊の正当な任務であって、その正当行為で余計な感情を抱くことがないよう、私たちに死者の名前が伝えられることはなかった。報道などで知る機会もほとんどなく、ゆえに、私の背負う名前の多くは無名という名だったのだ。
だから、私は言えなかった。御子様に語った名前とは違い、彼女たちの最期は語ることはできなかった。なぜなら、ただ対峙し、そして殺し、それで全てが終わりだったからだ。誰かの興味を惹くような要素はそこにはなく、ただ歴史的事実として、あるいは数字としてのみ残る、そのような最期を私は彼女たちに押しつけたのだ。その扱いは、メタ・ファルスの一人の人間に対するものというよりは、敵のエレミア人に対するそれに近い。よく考えてもみろ、私が覚えていないのは、彼女たちの名前だけに留まらないのではないか? その場で見たはずの彼女たちの姿形、髪や服の色、感情の奔流に任せた詩の声、私はどれ一つとして覚えていないのではないか?
それでいてよく言えたものだ、覚悟を受け取る覚悟などと。結局、私は彼女たちにそれを押しつけたのであり、イリューシャ様にも押しつけ、いま目前にいるエロイーズにも押しつけようとしているのではないか。もう長いこと暴走鎮圧の任務から外れているのをいいことに、私は過去を気持ちよく忘れて、御子様に講釈を垂れ、あまつさえ都合のいい事例だけを得意になって語って……恥ずべきことではないか。恥ずべきことではないか。
彼女たちの怨嗟の詩が聞こえる。過去の咎はエロイーズの身体を得て、暗い呪いの炎を振り撒く煉獄となり、現在の新たな罪を燃やそうとしているのだ。
私の剣は振りかぶったところで止まっていた。幾刹那の間があったのかは私には分からない。ただ、気づいたときには、エロイーズは目を光らせて私を睨んでいた。そして、一瞬の笑みを浮かべるや否や、私に向けて詩魔法を放った。全く対応することもできずに足が竦んだまま、温度のない水が降りかかり、全身が濡れてしまい――
だが、火は点かなかった。私が詩魔法の直撃を受けたその隙を見計らい――否、私が危機的状況にあることを知って、ウリヤナは自らの危険を顧みずに炎を踏み越え、エロイーズの背後に回って首を絞め上げて落としたのだ。エロイーズの意識が失われた瞬間、周囲の火の大半は消え、私の身体も汗だけを器用に残して乾いた。私はまだ狼狽していて、私に代わって親しい仲間を攻撃することになったウリヤナの表情を見ることもできず、彼女に声を掛けられてようやく残り火の後始末に加わるような有様だった。
そうだ、私は言わなかった。私が負っている名前は戦友たちのものだけではない。かつてメタ・ファルスがまだ平和だった時期、かつて私がまだ下っ端の騎士だったころ、そのころも私はこうしてI.P.D.暴走に立ち向かっていた。そうして、ちょうど今この瞬間のように、私はしばしば彼女たちを殺す決心をし、剣を振り抜いていた。本心では命だけでも助けたかった彼女たちの、当然存在するべきその名前を、私が知ることは稀だった。暴走鎮圧は騎士隊の正当な任務であって、その正当行為で余計な感情を抱くことがないよう、私たちに死者の名前が伝えられることはなかった。報道などで知る機会もほとんどなく、ゆえに、私の背負う名前の多くは無名という名だったのだ。
だから、私は言えなかった。御子様に語った名前とは違い、彼女たちの最期は語ることはできなかった。なぜなら、ただ対峙し、そして殺し、それで全てが終わりだったからだ。誰かの興味を惹くような要素はそこにはなく、ただ歴史的事実として、あるいは数字としてのみ残る、そのような最期を私は彼女たちに押しつけたのだ。その扱いは、メタ・ファルスの一人の人間に対するものというよりは、敵のエレミア人に対するそれに近い。よく考えてもみろ、私が覚えていないのは、彼女たちの名前だけに留まらないのではないか? その場で見たはずの彼女たちの姿形、髪や服の色、感情の奔流に任せた詩の声、私はどれ一つとして覚えていないのではないか?
それでいてよく言えたものだ、覚悟を受け取る覚悟などと。結局、私は彼女たちにそれを押しつけたのであり、イリューシャ様にも押しつけ、いま目前にいるエロイーズにも押しつけようとしているのではないか。もう長いこと暴走鎮圧の任務から外れているのをいいことに、私は過去を気持ちよく忘れて、御子様に講釈を垂れ、あまつさえ都合のいい事例だけを得意になって語って……恥ずべきことではないか。恥ずべきことではないか。
彼女たちの怨嗟の詩が聞こえる。過去の咎はエロイーズの身体を得て、暗い呪いの炎を振り撒く煉獄となり、現在の新たな罪を燃やそうとしているのだ。
私の剣は振りかぶったところで止まっていた。幾刹那の間があったのかは私には分からない。ただ、気づいたときには、エロイーズは目を光らせて私を睨んでいた。そして、一瞬の笑みを浮かべるや否や、私に向けて詩魔法を放った。全く対応することもできずに足が竦んだまま、温度のない水が降りかかり、全身が濡れてしまい――
だが、火は点かなかった。私が詩魔法の直撃を受けたその隙を見計らい――否、私が危機的状況にあることを知って、ウリヤナは自らの危険を顧みずに炎を踏み越え、エロイーズの背後に回って首を絞め上げて落としたのだ。エロイーズの意識が失われた瞬間、周囲の火の大半は消え、私の身体も汗だけを器用に残して乾いた。私はまだ狼狽していて、私に代わって親しい仲間を攻撃することになったウリヤナの表情を見ることもできず、彼女に声を掛けられてようやく残り火の後始末に加わるような有様だった。
幸いにして、この騒動はぎりぎりのところで地面の上にいる人々には悟られずに済んだ。私はウリヤナから詳しい事情を聞いた御子様に叱責されることになったが、本当に私の心に堪えたのは、エロイーズが一命をとりとめたことを聞いたときのリナの満面の喜びを浮かべながらの涙であった。
エロイーズはこの事件の後、謳うのが怖くなったと大鐘堂軍を去り、はざま新田の某農場に身を寄せた。御子イリューシャの件がどこから流れたのかは今でもはっきりしないが、結局は我々がエナを回復するそのときまで、もっともらしい噂という範疇を出ることはなかったようだ。
もうあれから五年以上が経つ。私と共にエナに着いた九名のうち、今でも大鐘堂に残っているのは五名となった。“悪運王”に四度目はなく、ベーフェフ対空陣地において撥ねあがった泥が目に入って悶えた隙をガーディアンに刺されて死んだ。“女たらし”バティストは共和国との停戦中にまさかの結婚を果たし、さらに信じられないことに結婚生活に専念すると宣って除隊した。残っているのは“指揮者”に“神速逃げ足”、“火噴き山”のほうのアダムと“静寂”のほうのアダムと、それから“風使い”リリーとなる。この中で一番出世したのはウリヤナだろう、彼女は指揮官としての才に加えて御子様の覚えもめでたく、今では近衛中隊を彼女に任せている。
もうあれから五年以上が経つ。私と共にエナに着いた九名のうち、今でも大鐘堂に残っているのは五名となった。“悪運王”に四度目はなく、ベーフェフ対空陣地において撥ねあがった泥が目に入って悶えた隙をガーディアンに刺されて死んだ。“女たらし”バティストは共和国との停戦中にまさかの結婚を果たし、さらに信じられないことに結婚生活に専念すると宣って除隊した。残っているのは“指揮者”に“神速逃げ足”、“火噴き山”のほうのアダムと“静寂”のほうのアダムと、それから“風使い”リリーとなる。この中で一番出世したのはウリヤナだろう、彼女は指揮官としての才に加えて御子様の覚えもめでたく、今では近衛中隊を彼女に任せている。
名前と綽名が組み合わさって巧妙な鍵となり、私は今でも多くの仲間たちの様々なエピソードをつい昨日経験したかのように鮮明に思い出せる。彼らがすでにこの世を去った者であったとしても、空想すれば今の私と彼らとの会話を楽しむことができるほどに、生き生きと思い出せる。
だが、同時に、名前という鍵が付けられなかった者たちとの落差のことも思う。確かに彼や彼女は我々の敵だったかもしれない。任務における標的であったかもしれない。しかし、あの日ウリヤナが示したように、殺さずに済ませられた可能性もあったかもしれないのだ。
残念ながら、私は見殺しや意味のない死が存在することを認知せねばならない。でも、だからこそ、私は、私の直接見た範囲だけでも、せめて「語られない死」を減らしてやりたい。そのためには、まず死なせないように努力をすることは当然のことである。そしてそれが叶わなかったとき、たとえ刻まれる名前が“無名”であったとしても、せめて無名という名の鍵をつけてやりたい。それが、「『覚悟を受け取る覚悟』を押しつけなければならない立場の者が持つべき覚悟」だと、私は思うのだ。
だが、同時に、名前という鍵が付けられなかった者たちとの落差のことも思う。確かに彼や彼女は我々の敵だったかもしれない。任務における標的であったかもしれない。しかし、あの日ウリヤナが示したように、殺さずに済ませられた可能性もあったかもしれないのだ。
残念ながら、私は見殺しや意味のない死が存在することを認知せねばならない。でも、だからこそ、私は、私の直接見た範囲だけでも、せめて「語られない死」を減らしてやりたい。そのためには、まず死なせないように努力をすることは当然のことである。そしてそれが叶わなかったとき、たとえ刻まれる名前が“無名”であったとしても、せめて無名という名の鍵をつけてやりたい。それが、「『覚悟を受け取る覚悟』を押しつけなければならない立場の者が持つべき覚悟」だと、私は思うのだ。
そういえば、私が御子様――とレギーナから、“アリョーシャ”という愛称で呼ばれるようになったのもちょうどこの事件後のあたりであったと思う。それだけ補足しておいて、この話を終えることにしよう。
第5話:5-A(戦闘前半1 戦闘前半2 戦闘中盤 戦闘後半 イベント1 イベント2) 5-B(第1戦前半 第1戦後半 第2戦)<<前 インターミッション5(その1 その2 その3 その4) 挿話3 次>>
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