劉禅

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劉禅 - (2020/10/19 (月) 11:52:32) の編集履歴(バックアップ)


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更新日:2024/04/07 Sun 22:01:58
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劉禅(りゅう-ぜん)とは三国志における蜀漢の愚帝…つまりバカ殿様である。字は公嗣。
だが幼名の阿斗の方が有名。生没年207-271年。

せっかく趙雲が命がけで救出し、親父が必死こいて蜀を建国し、諸葛亮姜維が命懸けで北伐敢行して魏に戦いを挑んだというのに
コイツが宦官を重用し、酒や女に溺れていたアホだったので蜀は衰退し魏に滅ぼされた。

【逸話】

  • どうしようもない阿斗
蜀が魏に降伏した後、魏での酒宴に劉禅が招かれた際、司馬昭の配慮で蜀の音楽が奏でられた。

元蜀の臣下はしくしくと涙を流しているのに、劉禅1人が太平楽。
司馬昭に「ねぇ、蜀恋しくないの?」と聞かれ、
「いやー、ここは楽しいねぇ。思い出すことなんか何にもないよ、アハハー」

これには司馬昭はもちろん周りの臣までドン引き。たまりかねたのは元蜀臣の郤正(げきせい)
「先祖の墓も蜀にあるし、一日として思い出さない日はないよグスッ…と言いなさい」

なぜかまたしても同じことを聞いて来た司馬昭
「先祖の墓も蜀にあるし、一日として思い出さない日はないよグスッ… …… (あれ涙が出ないな…)

「それ郤正の言葉とそっくりじゃん」

「嘘っばれた?アハハー」

これで元蜀の臣までガックシさせたり、笑いものにされた挙句、
司馬昭に「こいつの補佐は諸葛亮でも無理。まして姜維?どうしようもねぇよ」と評された逸話は有名。この事が「どうしようもない阿斗」の元となった。



追記・修正お願いします












「しばしお待ちくだされ、アニオタをご覧になっておられる皆様方。」
「上に書かれているは「三国志演義」における劉禅様の事であり劉禅様の本当のお姿ではないのであります。」

「(作者の方々には若干失礼とは存じますが)元々演義とは講談などで語られていた各武将や合戦の逸話を繋ぎ合わせて作られた架空の物語に過ぎないのでございます。」
「そしてその演義では史実では滅んだ蜀漢が「正義」として書かれておりました。」
「その為に蜀の人物は「生まれが貧しいが皇帝の血筋を持つ高潔な君主」、「数百人は一人で倒せそうな武将」、「あらゆる事に精通し天候まで操る軍師」と言う様にあからさまな美化や脚色が施されたのでございます。」

「…とは言え史実では蜀は為すすべもなく魏に滅ぼされており、当時の王朝の目に止まる事を考慮すれば*1いくら物語とは言え「蜀が魏や呉を倒して大陸を治めた」などと語る事は恐れ多くて出来無いという事は私めも理解できるのです。」
「となると史実同様に蜀は魏に滅ぼされるという展開になるのですが上記の様に「超人ぞろいの国が滅ぼされる」という展開にすると苦情続出、物語の勢いに水を差すと作者が想定するのも無理はございません。」
「そこで史実では蜀が崩壊した時の君主であらせられた劉禅様が「無能で宦官を重用して先代が築き上げた国を衰退させたから蜀は滅んだ」という展開にして蜀が滅ぶ描写に説得力を持たせる配慮がなされました。」

「この事で三国志演義は我が国…そして海を越えて他の国の人々にまで愛され、登場した武将や文官は理想の人物として親しまれました…が劉禅様やわたく…いえ、重用されていた宦官の黄皓は「先代たちが建てた国を滅ぼした暗愚や小悪党」という形で語られ、愚かな人物と嘲笑と怒りを向けられてそれが真実だと人々に伝えられる事となったのです。」
「ああ、お労しや劉禅様。」


【実際の劉禅の概略】


そもそも正史において、蜀は歴史に関する専門官がおかれていなかったため記録が少なく、劉禅の統治については不明瞭な点が結構多いのが実情である。

政治的に見れば諸葛亮の政策を全面信頼し軍権を預けている。
疑惑に対しても一方的に粛清や左遷をせずに配下を宥めて本人に釈明の機会を与えて疑惑を解消させている*2

しかし主人公とも言える父劉備が建て、意志を託された諸葛亮が盛り立てようとした国が彼の代で滅んでしまった。滅亡させた君主は基本良く言われない。
また諸葛亮や姜維と違い、彼自身の政治的・軍事的な努力の事蹟が歴史に残っていないこともあり、過剰なネガキャンを生み出す結果になってしまった。
このネガキャンはやたら効果があったようで、現代の中国でも滅茶苦茶嫌われており、魏延のように墓が何度も破壊され、時の権力者が「阿斗にはなるなよ」なんて国民への説示のタネにする程扱いが悪い。
幼名の阿斗が「阿呆」の語源なんて説もあったり、救いようのない人間を「どうしようもない阿斗」という慣用句があるほど。
この所為で大体の三国志創作でも暗愚扱いされている。 

ただし創作的要素を抜きにしても、名君・賢君と言った評価は特になく、問題が有りかつ非積極的な人物である事は史実での劉禅に対する言及からほぼ間違いないと思われる。
末期の蜀は全体的に問題が多いため君主の劉禅のせいで蜀が滅んだというのは言いすぎだが、もともと弱小国だった蜀がさらに末期的になった原因の一つくらいではあると言える。

【劉禅の生涯】

【誕生直後】

西暦207年に生誕。しかしこの年は北方にて袁家が滅亡し、天下の流れが曹操一強へと傾いていた時期である。もう産まれた時から手遅れ臭い……

そして、彼がわずか1歳の頃にいきなり父・劉備が曹操に追われ、他の家族や劉備の重臣共々逃避行に走る。俗に言う「長坂の戦い」である。
この時、趙雲が胸に阿斗を胸に抱え、甘夫人共々救出したのは超有名なエピソード。

【皇帝即位後〜蜀漢の滅亡まで】

223年、劉備が夷陵の大敗を原因として病死し、長男の劉禅が皇帝に即位する。
諸葛亮を筆頭に蒋エン・費イ・董允の所謂「四相」を重用して政治を執り行っている。
魏も呉も激しい政争・内輪もめを起こし、皇帝が時には退位させられたり殺されたりもする中で、劉禅はずっと皇帝であり続けた。
40年の在位期間は、三国志の登場人物としては最長である。というか、中国の歴代皇帝全部を見てもかなり上位に入り、これより上は万暦帝*3などがいる。

諸葛亮の死から10年が経ち、メタボな名将曹真の子である曹爽率いる魏軍が蜀を潰しにやって来たが、この時は費イらの見事な対処で魏軍を撃退。
一戦勝っただけと侮るなかれ、これにより魏国内の曹一族の権威が低下、魏は国内で派手な政争や反乱が始まり蜀を相手にする暇がなくなる。

そして国内のゴタゴタを片付けた魏が本格的に攻めてきた時には、姜維の援軍要請を黄皓の「占いでは魏は攻めてこない」という妄言を信じて無視することになり、対処が後手後手となった。

トウ艾が大軍を率いて侵攻し、成都に攻めてきた時は領民を見捨てて南蛮や呉に逃げようとしたが、譙周の勧めであっさりと降伏した。

が、この降伏も劉備や諸葛亮がヒーローの三国志では売国奴扱いされる原因になってしまった。降伏を潔しとせず自決して果てた息子・劉諶との扱いの差を見れば一目瞭然である。
更に、降伏後も姜維の手綱を取れず、姜維は鍾会をたぶらかす形で反逆事件を起こした。
この反乱に伴って成都で領民は大混乱に陥り、魏によって破壊と略奪が巻き起こり、それに伴い劉禅の妾である李昭儀が自殺。
功臣である張翼や太子の劉璿などが巻き込まれて犠牲になっている。

【蜀滅亡後】

投降後はついてきた家臣は郤正 やまだ生きていたけど旅路で没した廖化 以下僅かな者のみだった。
この郤正の補佐を受けて劉禅は魏において落ち度無く振舞うことができたので、劉禅は「郤正を評価するのが遅かった」と嘆いたという。

その後は先祖の故郷・幽州の安楽公*4に封ぜられ、271年に天寿を全うした。
ただし、次男の劉瑤を無視して六男の劉恂を後継者に指名して、またゴタゴタを起こした。
劉禅の子孫は晋の大規模内乱である八王の乱や永嘉の乱で皆殺されてしまったという。*5


【劉禅の人物評価】

皇帝即位後、後宮を増員したり遊び回ったり等の問題行動が多く、董允に諌められていた。
まぁ父・劉備が急に死んでムシャクシャしてたのかもしれないが…*6

また、蜀の末期にはお気に入りの宦官である中常侍の*7黄皓に政治権限を握らせた結果、皇室内も含む様々な問題を引き起こし、蜀の衰退を招いている。
この事は当時盟を結んでいた呉の使者である薛クに「蜀の君主は暗愚で過ちを知らない」「(蜀は)軒先に住むツバメの親子が、家が火事になっても気付かずに、安全だと思って浮かれている、というようなものだ」と称され、
呉の張悌には「蜀は宦官が政治を欲しいままにしている」と非難される程だった。
このように、当時から問題が指摘されている人物ではあった。薛クの例えをそのまま受け取るなら、国の存亡の危機が迫っても暢気に遊んでいたという事になる。

三国志の著者・陳寿からは「白糸は染められるままに何色にも変ずる」=部下次第で名君にも暗君にも変わると評されており、
「四相」が政治を取り仕切っていた時代と、黄皓重用後の蜀の斜陽っぷりを見比べると良くわかる。

資料の信頼性は少々劣るが、上記の宴会の逸話では、司馬昭が「人はここまで無情になれるのか」と呆れるなど、人格や感受性に問題のある人物として描かれている。

宦官の黄皓を気に入って重用した結果がグダグダすぎる上に、
バタバタ重臣が死んだ後まともな人材を集められなかった辺り、人物眼は父のようにあったわけではない。
それでも諸葛亮健在時にはある程度まっとうな性格であったが、その後はNTRの証拠隠滅に臣下を処刑黄皓台頭後は黄皓と反りが合わなかった功臣が左遷させられており、悪い色に染まったようだ。
目立った国内での反乱や政争がなかったため、実際に行われていた政治そのものはそんなに悪くはなかった可能性があると言う意見もあるのだが、蜀が政争を起こす国力すらなかったという面もあるため、劉禅を積極的に評価できる事情とは言い難い。

演義では「酒色に溺れた」とされているが、正史には「酒」がらみのエピソードはほとんどない。この点だけは、阿斗ちゃんは孫権に対して勝ち誇ってもいいかもしれない。
しかしに関するエピソードは豊富で、劉禅の人格を伺える逸話が殆どない中、エロ方面では非常に目立っており以下がその逸話である。

  • 後宮拡張おねだり計画
劉禅は常に後宮の拡張を望んでいた。
後宮には皇帝の私生活の場、という側面もあるのだが、この場合「采女」つまりアハーンできる女の子を増やしたい!という率直な要望であった。正直なやつめ。
しかしお世話係である董允は「古の帝王でも后は12人でした。今既にその数がいるのに、これ以上増やすとかありえんだろjk」とこれを聞き入れようとはしなかった。
この時点で「后妃」扱いされている女性だけで12人なので、手をつけられる女性はその何倍もいたはず。忙しい(はずの)皇帝の身でありながらさらなるハーレム強化計画を練るとは、なかなかの豪の者である*8
まあ英雄色を好む、とも言われるし、ここまでならまあ……という感じではあるが、このため劉禅は「何このおっさん厳しい」と董允を疎むようになったときては話が別である。
もっとも、この諌め自体は聞き入れて断念しており、董允の生きている間政治はまともだったようなので、一線は越えなかったとも言えるが。疎んでも信頼はしていたということか。個人的感情を公事に出さなかったとも言える。
ちなみに、蜀滅亡後、晋に候として迎えられた劉禅の子孫は50人以上もいた*9

  • 臣下の奥さん完全NTR事件
車騎将軍(劉備帝位就任後は張飛が務めたほどの高官)であった劉琰には、若くて美貌の妻がいた。ある時新年の挨拶のために後宮に伺うと、本来ならその日に帰るところを一ヶ月も宮中に滞在させられた
名目の上では「皇太后の命令で」ということになっているが、どう考えても劉禅直々のアハーンな状況である。
劉琰は当然激怒し、戻ってきた妻に散々ドメった挙句、顔面に靴を叩きつけて離縁するという行動に出た。この仕打ちを受けた妻が訴えたため、劉琰は逮捕される。

当時の常識から言うと、家内暴力に公権力が介入するということはまずない。まあ、魏にも似たようなエピソードあるけど。
よって当然アハーンな関係にあった誰かさんの関与があったのは間違いなく、
逆にそういう関係にあったことを裏付けてしまうという墓穴っぷりではあった。そしてその墓穴は劉禅自身の手でどんどん大きくなっていく。

この時劉琰に罪状があったとするなら、妻に暴力を振るったことよりも、「皇帝の不貞を疑ったことで、その権威に泥を塗った」という点だろう。これは重罪として裁くのに充分な理由である。
しかし劉琰は結局晒し首という極刑に処されるのだが、その罪状は「顔は履物を置くところではないから(震え声)」という謎過ぎる理由であった。

こんな理由で極刑にされた人間なんて三国志中見渡しても彼ぐらいだが、罪状が「皇帝の不貞を疑った罪」ではなかったことで、不貞が疑いではなく、実際にアハーンだったことを堂々と示した結果になった。
阿斗ちゃん的には墓穴の中にさらに墓穴を掘ったような始末であり、この事件の後、臣下の妻女が参内することは皆無になったという。



この辺を考慮すると、演義で悪く書かれてしまうのも納得いくのではなかろうか。
やはり、一代で蜀漢帝国を築き上げた父親が偉大すぎたのかもしれない。
もっとも、弱小国を格上を打倒できるほどに強くできる名君などそうそういるものではない。そんなことはめったに起こらないから名前が残るのである。
劉禅自身は無能だったとしても、やる気があるはずが空回りして味方に害を及ぼすようなことがなかったことも併せれば、暗愚だが凡君と言った評価が落としどころであろうか。



「え? やはりただの女に溺れ、宦官に操られていた愚かな君主ではないかと? 滅相もない。」
「…確かに上記の内容は(特に逸話に関しては)否定のしようも御座いません…しかし他においては当時の状況や環境上やむをえない事情や評価できる面もあるのでございます。」


【考察と擁護点】


「白糸は染められるままに何色にも変ずる」
前述の陳寿の評価である。
…とは言え劉禅は決してただのお飾りやイエスマンではなかったのも事実である。

【諸葛亮死後】

李邈「孔明が死んでよかったですね。」
劉禅「え?何で」
李邈「孔明は隙を見て裏切ろうとしていたように思われます。その死は国を上げて祝福すべきことで、悲しむべき事ではありません。」
劉禅「(ぶち切れて即座に)お前、死刑」

能動的な政治的実績の記録が少ない劉禅の数少ない政治的な動きがこれである。
当時劉禅は蜀の権力の大半を諸葛亮に委任しており、その気になれば諸葛亮が劉禅に取って代わることさえ出来たのである。
上記の佞臣の発言も(発言時期を別にすれば)決して間違ったものではなく*10、一族を処刑してしまう可能性もあったのである。その手の讒言や疑心暗鬼から功臣を処刑し、自ら国を弱体化させた皇帝は珍しくない*11
少なくとも諸葛亮健在前後は善悪の判断は出来ていたようであり、また先帝と同じく諸葛亮に最後まで全幅の信頼を持っていたと言う証でもある*12

【姜維の扱い】

演義ではぼかされているが、姜維の北伐は諸葛亮のそれとは違い(特に最後の方は)単に国力を消耗するだけの物となってしまっていた*13
蜀の臣下の大半が姜維の排斥を望んでおり、劉禅のお気に入りの黄皓に依頼して姜維を降格させようとする位であった。
状況的にどう考えても姜維は降格される…と思われたが劉禅は反対し、姜維は権力を維持する事が許されたのである。
(ただし、姜維はもう成都に自分の居場所がないと悟り、軍政にのめり込む結果になってしまったが)

姜維は元々魏の降将であり、謀反や反乱の可能性が諸葛亮とは比べ物にならない程高く*14常識的に考えれば重用すべき人物ではなかったのである。
他に人材がいなかったからという可能性も否定はできない*15が、この事を考慮すると先帝や諸葛亮の遺志を尊重しており、蜀漢の皇帝であると言う自覚は最後まであったようである。
また、臣下の大半が排斥を支持する中で反対しそれがきちんと通る状況を考えれば、少なくとも皇帝としての権力や威厳、他者の意向のまま流されない意志も持っていたと言う事でもある。

確かに劉禅は配下に委任する度合いが強すぎた感が否めないが、要所では皇帝として(良くも悪くも)意志主張をしていたのである。

能力のある臣下に適した仕事を与えて自らは極力口出しせずに能力を発揮させると言うのは君主として間違った行動ではなく、彼らの尽力で弱小国の蜀が40年も持った事実を鑑みれば賢明な判断であったといえる。
こうした君主の在り方は、当時の名君主像の一つですらあった。
また、かの斉の桓公と並べるものもいる。あちらも管仲を信用して成功し、三貴を信じて失敗したし。

少なくとも、やりたい様にやらせてくれた劉禅が君主でなければ、諸葛亮や姜維は権限を制限されて、ただの優秀な内政官や武将としてしか語られず、今日の様な評価はされていなかったであろう。
皇帝自らがあれやこれやとやりだした結果孫皓のように暴政に走ってしまった例もあり、優秀な皇帝が陣頭指揮を執るというのも考えものである。



「上記の内容を「過剰擁護」、「曲解した見方で良く書いているだけ」等と一蹴するのはたやすいことでございます。」
「とは言え劉禅様が統治なされていた蜀漢時代は南方を除けば大した反乱も起こらなかったのも事実でございます。」


その他エピソード

【人材発掘の怠りとそれに伴う黄皓の台頭】

「四相」無き後政務を取り仕切った黄皓の人事によって蜀の中枢はガタガタになってしまい、魏に攻め込まれた際に為すすべもなく降伏するハメになってしまった。
劉禅が暗愚である確固たる証拠としてあげられるのが、黄皓の台頭である。

まずそもそも 中常侍(取次ぎ役)に過ぎない黄皓が政治的権力を握る事自体が、劉禅の政治に対する無関心を象徴するもの であり、
これらの政治的混乱に関して劉禅と黄皓は共犯者といっても過言ではなく、この点は 暗愚と呼ばれてもしょうがないレベルの失態 である。

晋に多くの旧臣が取り立てられた事を見れば蜀にも優秀な人材はそれなりに豊富だったようで、優れた人材がしかるべき地位についていなかったのは事実であろう。
これが劉禅が人材発掘を怠った証拠であるという批判もある。
しかし、劉備や曹操が人材を集められたのはその時点で曹操や劉備が群雄の一人に過ぎず自由が利いたからであり、各地で戦乱状態で人の流動が激しかったという人集めに有利な面もあった。
劉禅の時代には、三国が鼎立して群雄割拠が一区切りつき他の群雄の持っている優れた部下を得ることが難しくなっており、蜀の人材集めという視点からは逆風であった。

組織が固まると人材登用が難しくなるのはよくあることである。
かの劉邦は、旗揚げ直後は人材不足もあり有能な人物と見れば片端から採用していった。
肉屋や簾売り、小役人が将軍や宰相レベルの役職にホイホイ就いていたのだ。
しかし項羽の封建により漢中王となった後では大きく変わっている。
かの韓信が、劉邦の重心である夏侯嬰の推挙により用いられたときも、将軍ではなく治粟都尉であった*16
人材に飢えており、ホイホイ官位を渡していた劉邦軍が、皇帝ですら無い地方の王になった当時ですら人材登用は自由が効かなくなっていたのである。

仮にそれで人材を得られたとしても問題はまだある。
一度力を得た奸臣の排除はしばしば重大な内乱の種となる。魏でも、なまじ優秀であったが故に司馬昭の専横に怒り除こうとした皇帝曹髦は殺されてしまった。
綱紀粛正を行うには内ゲバを起こしても持ちこたえられるだけの国力と代替人材、皇帝自身の力が必要なのだが、元々国力に乏しく、新たな人材発掘もできないため人材もかつての忠臣達の縁故に頼り、
更に北伐で国力の消耗が激しい状態であった蜀には最早内ゲバどころか粛清や権力剥奪を行えるだけの国力は無く、下手に行えばその隙に魏にあっという間に攻め滅ぼされてしまったと考えられる。
また、蜀の内部にも益州出身者と荊州出身者で派閥抗争があったとされ、こういった縁故や派閥を無視した画期的な人材の取立ては却って内乱の種になる恐れもあり得る*17

こちらの項目もご覧いただければ当時の蜀の惨状がより理解できると思われます。」

黄皓が劉禅を堕落させたのではなく、既に堕落して政治に無関心な劉禅や衰退していく国力を目の当たりにした上層部が更なる国力の低下を恐れて綱紀粛正を行えず堕落していった事、
そして功臣の子孫を重用し、人材の育成や発掘がうまくいかなかったツケの具現化が黄皓という佞臣の台頭であり、たとえ黄皓がいなくても別の人物が似たような立場になっただろうという意見もある。

ただ、結果的に国が混乱のうちに終焉を迎えた事を考えれば、予想はどうあれ劉禅は綱紀粛正を断行するべきだったのは間違いないだろう。
年代的に魏も高平陵の変以降は文欽の乱・諸葛誕の乱や曹髦暗殺と内ゲバに忙しい時期であり、魏からのちょっかいが少なくなるこの期が自国の内政を自浄させるのは最大にして最後の好機でもあった。
結局、劉禅が真面目に仕事をしておらず、対症療法すら行わなかった結果が蜀の終焉となれば劉禅にも非はある。

さらに、諸葛瞻、董厥、樊建、それに軍部の廖化など、蜀漢後期の主要閣僚たちも、
私党を組んで争い、咎められれば庇いあい、己の職責は棚上げして責任を擦り付け、そのくせ黄皓と結託する*18始末で、ロクなことをしなかった。これは姜維の項目も参照。
そして、劉禅はそうした無能・無責任・怠惰な閣僚たちの醜態を知っていたはずである。知らなかった・理解できなかったのならば更に問題である。
それらを目の当たりにしながら、何ら監督しなかったために姜維らを苦しめ、内政を混乱させ、蜀漢衰退を招いてしまった。
この結果からすればやはり劉禅は暗愚な皇帝であったといわざるを得ない。


【魏に対して交戦せずに降伏】

まず劉禅に降伏を進言したのは譙周であり、"良いにしろ悪いにしろまず譙周に対する評価とすべき"点は留意したい。
…勿論、政治に直接関われる立場では無かった*19譙周の発言を一蹴せずに聞き入れてそれを取り入れた劉禅も多少は関係があると思われるが、
下記のような評価点があるとするなら、学者から発言が出るまで降伏意見を出せなかったという事であり、それはそれで劉禅を含む上層部には問題がある。

まず、基本的に「命惜しさに降伏した」「それ以外のことは何も考えていなかった」というわけではない。
確かに初期対応が遅れて後手後手に回ったのは落ち度であるが、姜維ら蜀の精鋭は剣閣で劉禅の降伏まで一歩も引かぬ戦いを展開し、
成都までの守備軍の中にも抗戦した諸葛瞻がいる事から*20、取れるべき手段を打った上での降伏であり、無抵抗のまま命惜しさ故に降伏したと言うような指摘は全くの筋違いである。

南蛮や呉への亡命が他の策として挙げられており劉禅も乗り気だったのだが、史実では『同盟相手である筈の呉は火事場泥棒とばかりに白帝城へ攻撃中』、『南蛮も(少なくとも演義の様な)友好関係では無く反乱がたびたび起こっており、
下手をすれば袁兄弟の様な末路を辿る可能性がある』と、最早劉禅の望む逃亡は叶わず、譙周も「逃亡するならもっと早く計画すべきだった」と言及している。
抵抗するにしても上記の通り八方塞がりで救援の望みは皆無。成都に残された守備兵では滅亡までの日数を稼ぐこと位しか出来ずに無残に散るだけという状況であった。
場当たり的な逃亡や無茶な戦いを諦め降伏するという譙周の判断は、決して間違ったものではない。

降伏を良しとせず自決した息子の劉諶と比べて情けないという意見もあるが、既に成都が魏軍に包囲されている状況で劉禅が自決した場合、
国の中枢がゴタゴタを起こして混乱を加速させるだけで次皇帝に余計な責任を押し付けるだけ、或いは痺れを切らした魏軍に攻め込まれて住民含めて皆殺しになる可能性もあり、無責任としか言いようがなかったであろう*21*22
少なくとも皇帝である以上は次の王朝に引き継ぎをし、国と配下と民の行く末を見届けなければならない立場上自決は許されなかったという面もある。


【司馬昭との酒宴でのやり取り】

臣下が故郷の事を思う中で呑気に楽しんでいると言う暗愚さを強調したエピソードであるが…史実かどうかはいささか怪しい。
"当の司馬昭が蜀平定後劉禅が洛陽に移されてから1年半後に病で死んでいる"事を考えると、司馬昭とは酒宴を行わなかった可能性もあり*23
演義等と同じく「そういう設定の作り話」と捉えるべきかもしれない。

仮に史実(或いは後を継いだ司馬炎辺りが似たようなことを行った)とした場合については、人によって見方が分かれる。
もちろん、冒頭で書いたように劉禅が素で回答した可能性はそれなりにある。

これに対して、擁護する立場からは、
①司馬昭は主君たる皇帝を殺害した経験を有する人物であり、下手に疑われるならば自分の命も危うい。
②姜維のように臣下たちが暴走して反乱を起こしたり、反乱に元皇帝として祭り上げられたりしないためにも、蜀に未練はないと思ってもらう必要があった。
③実際、司馬昭も探りを入れてきている描写があった*24
そんな中で、郤正のいうことにバカ正直に従う太平楽でのんきな人物と思ってもらうための演技だった……というのが擁護説である。

他方、司馬昭が本当に「下手な態度を見せれば劉禅を殺すつもりで探りを入れていた」かどうかには疑問符が付く。
確かに司馬昭は皇帝殺害の前科を持っているが、投降してきた敵将の降伏を受け入れるなど、*25投降者に対しての対応は全般に寛大であった*26
更に、蜀の旧臣は旧蜀の地などで南蛮や呉に対する任につくなど重用されていた者もおり、劉禅が害された場合は反乱や寝返りが起きる可能性がある。
また、姜維による反乱と言う前科があるにも関わらず蜀の旧臣を外地での守りに重用し、一方で劉禅を首都に移したと言うことは、劉禅は彼らが反乱を起こさないための人質であったとも考えられる。
また、呉をまだ下していない中で投降した皇帝の劉禅を害するような事になれば、呉を滅ぼす時に態度が硬化するのは目に見えている。
そもそも周囲の人物の反応から分かる通り、この状況で遠くの故郷を偲ぶのは常識の範疇であり、この程度で難癖を付ける気でいるのなら他にどうとでもやりようがある。
そのため、司馬昭としては純粋な劉禅への配慮か、様子を見る意図はあったとしても、よほどのことがない限り特に劉禅をどうしようという意図はなかった可能性が高い。

このため"普通に「蜀が恋しい」と泣いても特に問題は無く"、仮に劉禅の態度が演技だったとしても、それはまったく意味の無い一人芝居だったと言える。
単純に素で回答したのとどっちがマシと考えるかは人による。

指南役の郤正が「蜀が恋しいと泣け」と指導したのは司馬昭側のそういった事情を酌んでの蜀の旧臣たちへの配慮かもしれず、
司馬昭らが劉禅を「ここまで無情になれるのか」と呆れたのはする必要の無い保身で故郷や先祖を蔑ろにする劉禅の態度に驚き、他方の劉禅は疑心暗鬼のままに太平楽を装ったというすれ違いが発生していたのかもしれない。

ごく僅かだが、「私益のために争い、漢復興は無理だと堂々と言うような旧国になんぞ戻りたくない」と言う意味で吐き捨てたのではないかという意見も存在するが、前後の行動と一致しない上にあまりに酷いので無いだろう。

劉禅は最期は反乱などに祭り上げられることもなく天寿を全うした。
少なくとも劉禅は生かしておく価値が生かしておく害を上回る人物と評価されていたことは間違いないだろう。



【その他作品の阿斗ちゃん】


  • 横山三国志
演義同様愚帝でアル中。風貌も愚鈍そうなモブ面である。演義からしてそうだが、誕生時は劉備の嫡子として仰々しい逸話(庭に鶴が舞い降りた等)が挿入されており、落差が物悲しい。
アニメ版では赤壁で終わっているので終始赤ん坊のまま。長坂の戦いで趙雲に助けられるエピソードも描かれるが、趙雲の胸に抱かれたままの彼はあの激しい戦場の最中全く泣きもせず、獅子奮迅の活躍をする趙雲の胸の中でずっと笑っていた。
その様子を見た趙雲は頼もしいと称賛。それがどうしてああなった…。


  • コーエー三国志
シリーズの当初から、武力や知力は全キャラ中最底辺で安定。当初はあくまで「最底辺」であるだけで、そこそこの性能を持つ、劉璋と同レベル程度の単なるダメ君主に過ぎなかった(魅力だけが高水準なのも同じ)。
しかしシリーズが進むに従ってどんどんネタ化が進行。10以降では能力値を3594(さん/ご/く/し)の語呂合わせてとナンバリングにちなんだ魅力で固定されてしまった。

しかし同時にスタッフに非常に(ネタとして)愛されており、11では呂布や張飛並に専用台詞が用意され「強運」という「絶対に戦死しない」という特技を与えられるほどである。ババ抜きのババじゃねーか
また魅力パラメータは一貫して高目をキープしているので、君主として考えた場合そこまで使えないというわけでもない(魅力パラがない作品の場合はお察しください)。

12では魅力が無くなったため全能力一桁という有様に。

三国志13では、なんと

    統率34 武力19 知力30 政治35

ととてつもないパワーアップ。全盛期の力を取り戻したと言ってもよい阿斗ちゃんへと変貌を遂げた(各パラメータは100点満点です)。
これは

    (3)(59)(4)(13)(30)
  (三)(国)(志)(13) (30周年)

のアナグラムであり、「俺らの阿斗ちゃんがパワーアップしつつも新たなネタのスタイルを編み出したんだ!!!」と激賞されることになった。

三国志14では魅力が復活し、再び3594+ナンバリングとなった。

尚、初期の三國志のハンドブックや爆笑三国志では比較的好意的に書かれており、「自分が才が無いのを自覚してあえて無気力に振舞っていた。」、「大愚は大賢に似たり」等と評されていた。
攻略本では暗愚&皇帝成り立て=何も知らない&やる気がない*27=プレイヤー目線で教えを請う、という役目で
度々Q&Aで登場していた。
脳筋や暴政でしか物を考えられない連中に比べれば理解力はあり、教える側のキャラに「やる気ねーな」「大丈夫かこいつ」と思われることも多々だが
孔明が教える場合だと、孔明が丁寧に教えたり、他のキャラと違い呆れる様子もなしに「真面目に勉強しないとダメですぞ」等と言うため頭が上がらない様子が描かれる。


  • 真・三國無双シリーズ
「阿斗」が1や3ではアイテムだったりした。60秒無双乱舞打ち放題というステキアイテムである。
3猛将伝姜維伝では最悪の味方となる。なんと姜維が戦っている最中に敵拠点に向かい降伏しようとするので銅鑼を使って門を開閉し(なぜか二か所あるうちの一方の門を閉めるともう片方が開く仕様)足止めしなければならない、もし門を抜けられたら絶望的だが敵拠点封鎖をしていかないとゲームオーバーである。ちなみに敵拠点はわずかな時間で復活する。くたばれといいたくなるがくたばれば敗北条件である。
4ではモブだが史実・演義同様君主になったりする。あと3とは違って嫁の星彩(プレイヤー)が瀕死になると男気を見せる。システム的にはこれは最強武器獲得のためにわざと瀕死になることが多いし、劉禅が男気を出して前に出てこられても総大将なのでかえって困るのだが(実際星彩に戻れと言われて戻っていく)、3猛将伝とのあまりの違いに感激イベントではある。
最も星彩のモデル元が敬哀皇后・張皇后(史実での劉禅の嫁)なので仕方ない。エンパイアーズではモブ将も使えるという仕様上使用可能。
モーションの一部が親父と共通。名門も混じってる。無双乱舞が弱いが、ユニーク武器は親父より数段強い。

6からはついにユニークキャラ昇格。こちらは恐らくもっとも創作物で優遇されている劉禅だろう。
暗愚とは言い切れない性格で、本気・本心を他人に見せない部分が大きい為、暗君呼ばわりされることも。
クロニクルモードの劉備との専用会話では失望させてしまったり、姜維にどこか低く見られたりしてる。
史実と混同するのもどうかと思うが、自分の立場を守ってくれている君主を姜維はもう少し敬うべきである。
一方、彼の本心を見抜いてる星彩や司馬昭からは高く評価されている。時々意味深な台詞も呟くため、暗愚詐欺ともっぱらの噂。
無双乱舞は「ちょっと待ってくれ」とポーズかけてからぶっ放す腹黒な部分もある。
晋伝EDでは司馬昭の質問に対して「あれをしなさい、これをしなさいと言われませんから」「…とうに死んだ者たちのことで、ね」と意味深な一言を残した。

そもそも上記の司馬昭への返答からわかるように、劉備のように漢王朝はおろか蜀にすら固執していない。
無駄な血を流さないためなら国や帝位すらあっさり捨てられる価値観の持ち主で、上辺のだけの義や醜聞を恐れて躊躇した父との違いがここにでている。
それを踏まえて司馬昭とのやりとりをもう一度見てみると、彼の本心が垣間見える。同作の司馬昭の言を借りるなら、武力で他国を滅ぼし、天下統一というやり方を推し進めていた各国の武将の思想は、彼からすればあまりにも非現実的で
理想家でありすぎた者たちの夢にすぎなかった。
事実、魏ですら国力で劣る蜀に手を焼いていて、一呑み出来る状態でもない有様なのだから、各国が本気でやりあえばさらに泥沼化することは必至。
これ以上戦火が拡大し、泥沼化するよりは、ということで次に中華を担うことになるであろう司馬昭という人物を見極めたうえで後を託すというのが劉禅の選択だった。
それは即ち劉備や諸葛亮を初めとした蜀の礎となった人々の思いを無に帰すことになる、ということ。
蜀の礎となった者たちの夢も想いも理解できるが、彼らは「とうに死んだ者たち」
その為に今を生きる者たちが犠牲になってはならないという思想が故の決断だったのだ。
同シリーズでたびたび父・劉備が悩んでいた刃を振るう矛盾を孕んでいた仁の心は、およそ他の武将や君主が思いもつかぬ形に昇華され、しっかりと受け継がれていたのである。

OROCHIシリーズでも2からプレイアブル参戦。今川義元、長曾我部元親と共に蹴鞠の面白さに目覚めた。
今回の彼は特にマイペースで周囲を呆れさせることもしばしば。所々「遊び」という言葉を使うあたりどこかこの状況を楽しんでいるフシもある。
ただし心に何かを秘めているのはこちらでも健在。元親や左慈にはそれを見抜かれており忠告や気遣いなどを受けている。
無双武将のなかでは珍しく、誰かと険悪だったりライバル視していたり、戦う目的を持っている等といった描写が全くなく、誰とでも、自分の国にトドメを刺した(刺すことになる)司馬昭とすら友好的な反応を示しているので、国や時代の垣根を越えて皆と共に在ることのできる状況が本当に楽しいのかもしれない。

余談だが、OROCHI2シリーズの劉禅は武器の属性次第で特殊能力による無敵化を永続できるという無茶苦茶な性能を持つ。幸い基本性能自体はそこまで高くないのでぶっ壊れ最強キャラ、みたいな事にはなっていないが。

演義でのイメージが普及してることから、製作スタッフ間ではユニーク昇格に付いて色々議論が巻き起こったらしい。
無双シリーズはどちらかといえば劉禅に好意的な作品だったが。


実は数少ない劉禅を擁護している作品
最初の頃は長坂の逃避行でも怯えず笑っていた赤子。勿論史実同様趙雲に救出される。
その後は蛙好きの活発な少年として成長するが、
益州侵攻が原因で呉に帰還しようとしていたヨウさんに懐いていたこともあってついて行こうとする。
しかし「ここから先は敵の陣地や」「阿斗!男前になりや」と諭される。


劉禅をモデルにしたヤウダの国主アト王が登場。勿論暗愚。
むしろこっちは術が超強いコウメイ属する軍師クラスが有名すぎて、彼に気付いた人は少ない。
ヤウダ自体が和風の国だし部下は全員日本人だし…。


  • 白井式三国志
幼少期はプラモ並にザツな体をしており、趙雲が落として額を割っても接着剤で元通りになったほど。
皇帝即位後は劉備と瓜二つ(勿論耳のでかさも)。


  • 一騎当千
原作とアニメには登場しないが、ゲームオリジナルで登場。
特オタである上に技がいちいちライダーチック。
ちなみに劉備との血縁関係は無い。ストーリーモードの最後でタッグを組むが。
モバゲーだと巨乳美少女で結構人気な模様。
馬謖や関平と一緒の絵となる事も多く、共々本編よりも遥かに出番(カードで登場的な意味で)が多い。


  • 三国志魂
ただのバカ。


  • 三国志大戦
1では武力1/知力1/歩兵/復活と最低のスペック。だがレアリティはアンコモン。
3では武力1/知力4/弓兵/復活/魅力と若干ましになったが本人が蜀所属にも関わらず計略「魏はいいところ」が魏の武将にしか掛からない、且つ槍兵強化号令の為あまり使われていない。
1コス武将でありながら英傑号令級の全体強化、しかも重ね掛けも可能と破格ではあるのだが…

新しく2016年から稼働した第二期版にももちろん登場。
初登場時は様式美と言わんばかりに武1知1征1歩兵というどうしようもないスペックだが、特筆すべきはその計略「阿斗の丸投げ」である。
士気11を吐き出して最も武力の高い味方の武力をランダムで上げる、というギャンブル系の計略なのだが、その上げ幅がなんと+1~+99というヤケクソじみた振れ幅。
呂布でさえ武力10、計略を使ってやっと武力26という世界なので、最大値を引いた場合とんでもないことになるのがわかるだろう。
正確な乱数は不明だが、仮に期待値50と考えれば士気11吐き出すことを考えても破格の数値。
知力1が災いしてか効果時間はそこまで長くないので、連環系の法具や計略に注意。
さらに武4知6征2槍の劉禅も追加されている。こちらは旧晩の諸葛亮の計略を軽くした「練兵の号令」を持ってきており、効果時間もそこそこで武力上昇値もお膳立てを整えてやればノーリスクで父の「桃園の誓い」にも匹敵するという、劉禅にしては珍しくガチなカード。


  • 反三国志
異常な蜀贔屓で有名な作品だが、彼は数少ない蜀の不遇組。
特に目立った功績らしい功績はなく、それどころか既に殺されていた呉の武将、徐盛の食客たちの仇討ちとして劉禅は暗殺されてしまう。
流石に捕まった犯人たちは処刑されたが、「彼らは主君のために命を捨てた忠義の士。残酷なことはやめ、処刑すれば十分」と味方から犯人を庇われる。
この時点では劉備は存命していたが、後に劉備の死んだ後、帝位を継いだのは劉諶であった。
決して無能に描かれているわけではない。前述の「白糸は染められるままに何色にも変ずる」の通り優秀な部下に支えられ、
さらにその部下が作品補正でチート強化されていたため、失策をやらかしたことはなかった。
まあ「そういう作品」なので評価が低い劉禅の扱いもね…


  • マンガ三国志 とみ新蔵
時代劇・剣術漫画の大家、とみ新蔵*28の筆致。
演義に反駁して善人に描くという程度の作品はそこそこあるが、群雄を凌ぐ名君として描かれた作品はこれが唯一と思われる。
諸葛亮に学んだ才気あふるる麒麟児として描かれ、その降伏も、戦乱に苦しむ軍民を慮っての判断と解釈された。晋での酒宴も、反戦主義からの態度として同情的に捉えられている。
この評価について、作者は公式ブログにて、無謀な外征と徴兵を繰り返す蜀漢と、それを礼賛する漢民族の思想に疑問を覚えた旨を語っている。
作者の姿勢が果たして実情に合致しているかは評価が別れるであろうが、一つの信念が貫かれていることは疑いがない。
同じく時代劇の大家である兄・平田弘史も、これに近い考え方で戦国時代の清水氏を描いている(リイド社『怪力の母』)。



追記・修正は蜀漢皇帝即位後にお願いします

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