木村拓也

登録日:2010/04/28 Wed 21:15:25
更新日:2025/02/20 Thu 18:49:15
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木村拓也とは、
  1. 巨人などで活躍した元プロ野球選手。故人。本項で解説する。
  2. フジテレビアナウンサー。


木村 拓也(きむら たくや)

日ハム広島、巨人で活躍したプロ野球選手。投手以外ならどこでも守れるユーティリティープレイヤーとして有名。通称キムタク。

また、SMAPのキムタクこと木村拓とは名前も一字違いで同姓同音名。



【経歴】

宮崎県宮崎市出身。
宮崎南高校時代は強肩を生かし、捕手として活躍。
高校通算30本塁打の長打力に加え、走塁も上手く五打席連続三塁打を記録。


1990年に日本ハムにドラフト外で入団。
しかし出場機会に恵まれず、1994年にトレードで広島に移籍。

当時セカンドのレギュラーだった正田耕三が右肩を壊し、年齢から来る衰えも見え始めた事から、セカンドに挑戦。
1996年には右打ちからスイッチヒッターへと転向し、
翌年には正田と同様に怪我と年齢から来る衰えが見え始めた野村謙二郎の控えとして、ショートに挑戦。


さらに、代打の切り札としての勝負強さと、持ち前の強肩と俊足を生かし、広島のスーパーサブとして欠かせない存在に成長していった。

課題だった打撃も徐々に改善していき、一番打者に定着。
東出が故障しセカンドにコンバートされると、ショートかセンターの守備につき、
広島が助っ人遊撃手のシーツを獲得すると、再びセカンドを東出から奪い取る。

2004年のアテネオリンピックでは投手以外どこでも守れるユーティリティーさが評価され野球日本代表に選出。
守備だけでなく打撃でもチームのメダル獲得に貢献した。


しかし、同年に足や腰を故障したのに加え、東出・梵などといった若手の選手の急成長に伴い出場機会が減っていく。

さらに、2006年に就任したブラウン監督の若手起用の方針もあいまって再びトレードで巨人に移籍する。


巨人に移籍してからも変わらないユーティリティーぶりを発揮。若手や助っ人外国人らと正二塁手、正遊撃手の座を争った。
加えて正捕手の阿部慎之助が途中交代した際は、キャッチャーとしての出場にも備えたと言われている。

2008年には打率も三割にのせ、二番打者に定着するも、2009年半ばから若手の脇谷が調子を上げていき、スタメン落ちが増えていった。
また同年9月4日のヤクルト戦、この日はファーストでスタメン出場の阿部と捕手の鶴岡が途中交代、控え捕手の加藤が負傷により退場となったため、
1999年7月6日以来およそ10年ぶりとなる捕手の守備についた。
本人は加藤が退場した時点で自分の役目を把握し、監督が指示する前から準備に着手。
捕手用の道具を持っていなかったため、ミットを鶴岡、プロテクターなどをブルペン捕手から借りに行っていた。

そして10年ぶりの捕手にもかかわらず豊田、藤田、野間口と3人の投手の投球を全て受けきって見せた。
ブランクを感じさせない働きで、しっかり配球を考えて3アウトを取って試合を引き分けに持ち込んだ。

日ハムから『捕手失格』の烙印を押された選手が『捕手』として巨人を支える姿は、投手からボールを受ける度に歓声を浴びた。


そして自身初の日本シリーズ優勝の決まった11月7日、試合後に引退が発表された。



引退後は巨人のコーチとして、選手とは別の形でグラウンドに立つことに。

新たな人生の幕が開けた。そんな矢先のことであった…















4月2日の広島戦の試合前のノック中に突如昏倒。そのまま広島市内の病院に救急搬送される。

その後くも膜下出血と判明。

同僚だった広島、巨人の両選手だけでなく、多くのファンが再びグラウンドに立つ事を信じ続けた。


が…予兆を悉く見逃すという不幸が重なっており、病院に搬送されたときは既に末期症状であった。
結局意識が戻ることはなく、5日後の4月7日、広島市内の病院にて天国へと召されていった。37歳の若さであった……*1



『空いているポジションにスッと入っていくことを目標にしていた』と本人が述べていた通り、持ち前の俊足と強肩を生かした守備が非常に上手く、
何度も書いている通り、投手以外どこのポジションでも守れるため非常に重宝された。
アテネオリンピックにて野球日本代表入りしたのはこの為と言われている(アテネオリンピックではベンチ入りできる人数が少ないため)。

また、同姓同音名かつ同級生のSMAPの木村拓とも親交があり、そのことからSMAP×SMAPでの対談が実現。
その後も親交があった。



4月24日に行われた追悼試合では、長男の恒希君が父と同じユニホームで始球式を行い、
父が唯一守らなかった投手のポジションで見事なストライクを決め、親子二人ですべてのポジションに立った。

追悼試合は劣勢の展開を強いられるものの、木村拓也の同級生である谷佳知が逆転満塁ホームランを放ち勝利。
ウイニングボールを谷が恒希君に手渡しするシーンは号泣必至である。
また木村拓也が亡くなった直後の試合では、先発ではあまりよい結果を残していなかった西村が圧巻の投球をみせ勝ち投手に。

この日の巨人サイドは鬼気迫るものがあった…



【友情のセンターフライ】
2009年10月10日の広島戦は緒方孝市の引退試合であった。
8回表1アウトの場面で打席に立った木村拓也は、まるで狙ったかのように緒方の守るセンターへとフライを放った。
フライを打った瞬間、彼の顔には笑みが浮かんでいた。


木村拓也、彼が残した魂はいつまでも受け継がれていくだろう。


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最終更新:2025年02月20日 18:49

*1 亡くなった当日の試合では全球場で半旗が掲げられ、所属していた巨人及び広島の選手や関係者、当日の対戦チームで広島時代に一緒にプレーしていた阪神の金本や新井、コーチの岡義朗、ヤクルトの福地などが喪章をつけて試合を行った。