サンディ・コーファックス

登録日:2019/11/21 (木曜日) 21:45:00
更新日:2023/04/21 Fri 18:22:58
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サンディ・コーファックス(Sanford “Sandy” Koufax)とは、かつてMLBブルックリン→ロサンゼルス・ドジャースに所属していた野球選手。

  • 利き腕:左投右打
  • 身長:6フィート2インチ(約188㎝)
  • 体重:210ポンド(約95kg)

プロ入り前

1935年12月30日、ニューヨーク州ブルックリンにて敬虔なユダヤ教徒の両親のもとに生まれる。
出生時の名前はサンフォード・ブラウン(Sanford Brawn)であったが、
3歳の時に両親が離婚、9歳の時に母が離婚調停の際の担当弁護士であったアーヴィン・コーファックス(Irving Koufax)と再婚したことで、この時からコーファックス姓となる。

若い頃からスポーツに長けており、高校時代にはバスケットボールに打ち込み、3年時にはチームキャプテンとなり、州大会では10試合出場で165得点を挙げている。
野球については15歳から始め(当時は左投げの捕手)、17歳の時に所属チームのコーチに才能を見初められて投手にコンバートしているが、この頃はまだ野球「も」やっている程度であった。

高校卒業後はシンシナティ大学にバスケのスポーツ奨学生として入学。
野球も引き続き嗜んでおり、入学後間もない1954年春には32イニングを投げて3勝1敗,防御率2.81,51奪三振30与四球と、粗削りながら大器の片鱗を見せている。
これがMLBニューヨーク(現・サンフランシスコ)・ジャイアンツ,ピッツバーグ・パイレーツ,そしてブルックリン・ドジャースのスカウト達の目に留まり、
コーファックスは大学1年にしてMLBの複数球団からトライアウト受験のお誘いを受けることになる。

この後コーファックスはジャイアンツのトライアウトを受けるも不採用となり、次いでパイレーツ,ドジャースのトライアウトを受ける。
そして本拠地エベッツ・フィールドにて行われたドジャースのトライアウトにおいては、監督のウォルター・オルストン(Walter Alston)とスカウト達の見守る中で受験したところ、
実際に打席に立って彼の投球をチェックしたスカウトのアル・キャンパニス(Al Campanis)をして、

“As soon as I saw that fastball, the hair raised up on my arms. The only other time the hair on my arms ever raised up was in Rome when I saw Michelangelo's paintings on the ceiling of the Sistine Chapel.”
(彼の速球を見るや否や、もう総毛立つ思いだったよ。こんな経験、システィーナ大聖堂でミケランジェロの絵画(最後の審判)を見た時以来だった。)

と言わしめたその豪速球に将来性を見出され合格。
コーファックスは当初大学を中退しての契約に迷ったものの、最終的には契約金14,000ドル(現在の131,000ドル),年俸6000ドル(現在の56,000ドル)という破格の条件もあって、
1954年12月13日、18歳でドジャースと契約を交わしている*1
ちなみにパイレーツもトライアウトの結果を受けて彼の獲得を検討していたが、ドジャースの方が僅かに打診が早かったために断念している。

キャリア前半

コーファックスは契約後マイナーリーグを経ることなく、
翌年の1955年6月24日のミルウォーキー(現・アトランタ)・ブレーブス戦にて、19歳の若さで早くもメジャーデビューを飾っている

早すぎる?それもそのはず、当時のMLBには、
「4,000ドル以上の契約金で入団した選手は、最低2年以上MLBの25人ロースターに登録してからでなければマイナーリーグに籍を置けない。」
「これに反した場合、当該選手のマイナー在籍期間中に他球団が移籍交渉のために接触すること、及びこれによる移籍を妨げられない。」
という珍妙な規定があり、コーファックスの契約金額はこの規定額を余裕でオーバーしている以上、他球団に掠め取られないために無理矢理にでもMLBに置かなくてはならなかったのである。

この規定は契約後いきなりメジャーリーグに昇格できうるという点で一見選手にはおいしいように思えるが、
実際はマイナーで経験を積む機会をすっ飛ばしていきなり最高レベルに放り込まれるため、ほとんどの場合洗礼ってレベルじゃないくらいにフルボッコにされるため、むしろデメリットの方が大きかったりする。

実際、当時のコーファックスは速球こそ確かに一流であったものの制球力は完全に落第点であり、MLB初先発となった1955年7月6日には4.2イニングで8四球ノックアウト。
他球団からは「ボーナスベビー(Bonus Baby)」と揶揄され、結局同年は41.2イニング登板,2勝2敗,防御率3.02,30奪三振28与四球とほろ苦なデビューイヤーとなり、
ワールドシリーズ制覇を果たしたチームの盛り上がりからも若干蚊帳の外になっていた。

翌1956年も2勝4敗,防御率4.91とあまり躍進はせず。

1957年には初の先発ローテーション入りを果たすが、それも2週間で外され結局シーズン通しては大きな活躍はできなかった。

ドジャースがロサンゼルスに移転した1958年からは怪我がちになり、先発ローテーションに入ったり外されたりを繰り返すようになる。

1960年にはGMに「今年活躍できなければトレードに出してくれていい」と申し出るなど背水の陣の覚悟で挑むものの、
結局この年も8勝13敗,防御率3.91に100与四球とうだつの上がらない成績に終わり、とうとう心の折れたコーファックスは野球を辞めることを決意、
シーズン最後の試合直後に球場のゴミ箱へ自身のグラブとスパイクを捨ててしまっている

が、クラブハウス職員の日系人ノブ・カワノ(Nobe Kawano)がこれをたまたま見つけて回収、「まだ貴方には必要なものだと思ったので」とコーファックスに返還している。
コーファックスもこれを受け、「もう1年だけ、頑張ってみよう」と思い直し、翌シーズンに挑むことになる。

選手としての特徴

スリークォーターやサイドスローが主流のMLBの投手においては比較的珍しい、紛う事なきオーバースローの左腕投手。
6フィート2インチの長身から投げ下ろす豪速球を最大の武器としており、この速球で押して押して押しまくるのが基本スタイル。

速球こそ誰もが認める一級品であるが、言ってしまえばただそれだけの投手。
特に制球力は壊滅的で、シーズン100与四球を2回,1958年にはリーグ最多の17暴投を記録している。

通算成績(1955~1960年)

691.2イニング,174試合登板(うち先発103試合),36勝40敗4セーブ,防御率4.10,683奪三振,405与四球(+ 5死球,18敬遠),WHIP 1.43,39暴投
獲得タイトル等なし


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“We need just two players to be a contender. Just Babe Ruth and Sandy Koufax.”
(勝つためには、たった二人の選手さえいればいい。ベーブ・ルースとサンディ・コーファックスだ。)
―ホワイティ・ハーゾグ(Whitey Herzog)*2



ターニングポイント

そして迎えた1961年、並々ならぬ意気込みを以てスプリングトレーニングへ挑んだコーファックスは、ある試合で先発登板する。
その試合では初回から四球を出すなどいつものように制球難に苦しむが、この時捕手のノーム・シェリー(Norm Sherry)から、
「もう少し力を抜いて、制球を意識して投げてみろよ。お前の速球はそれでも十分速いんだからさ。」
とアドバイスを受けこれを実行。
すると今までの制球難が嘘のようにストライクが入るようになり、以降この試合を7回ノーヒットで凌いでいる。

更に時期をほぼ同じくして、ドジャースのスカウトの一人が彼のフォームの欠点を発見したことで、長年の課題だった制球難にようやく克服の兆しが見え始める。



キャリア後半

1961年

大器、遂に覚醒。
1961年シーズンは前年の倍以上となる18勝(13敗),防御率3.52,更には当時のナリーグ記録である269奪三振を記録し初のタイトルとなる最多奪三振を獲得。
与四球は96と前年と同程度だが、80イニング以上多く投げてこの数であるため実質的には大幅に改善されたと言ってよかった。
自身初のオールスターゲーム選抜を果たし、MVP投票で18位につけるなど飛躍のシーズンとなった。

1962年

新本拠地ドジャー・スタジアムが開場したこの年は更に躍進。
投手有利とされるこの新本拠地を味方につけ、ホームゲームでは防御率1.75を記録。
6月30日のニューヨーク・メッツ戦では初回を三者連続三球三振で終えると、この試合で初のノーヒットノーランを達成している。

チームは同年ライバルであるジャイアンツとの優勝争いに敗れるものの、
コーファックス自身は14勝7敗,防御率2.54,217奪三振最優秀防御率のタイトルを獲得している。

1963年

この年からストライクゾーンが拡大される方向で改定。
これによりナショナルリーグでは前年比で四球が13%減,三振6%増,得点15%減,打率も.261から.245へ減と、ゲームバランスが大きく投高打低へ傾く*3
コーファックスもこれを追い風にキャリアハイと言えるほどの支配的な活躍を見せ、また5月11日のジャイアンツ戦では2シーズン連続2度目のノーヒットノーランを記録。
当然ながらASにも選出されている。

同年ドジャースはナリーグを制覇。ワールドシリーズではニューヨーク・ヤンキースと対決し、しかも1度もリードを許すことなくスイープという無敵ぶりであった。
コーファックスは第1戦と第4戦に先発していずれも完投勝利を挙げており、その投球はヤンキースの中心選手の一人であるヨギ・ベラ(Yogi Berra)をして、

“I can see how he won 25 games. What I don't understand is how he lost five.”
(彼がどうやって25勝もしたかはよーく分かった。解せないのは何故5敗も喫したかだ。)

と言わしめている。
最終的にこの年コーファックスは、
25勝5敗,防御率1.88,309奪三振*4という驚異の成績で投手三冠王とリーグトップの11完封
更にはサイ・ヤング賞*5,更にはMVP,ワールドシリーズMVP,ベーブ・ルース賞を受賞している。
なおCY賞,MVP,WS MVPの全てを同一シーズンに受賞した選手は、2019年現在でもコーファックスが史上唯一である。

1964年

前年の圧倒的すぎる活躍もあって当然ながらシーズン開始から期待され、他球団もコーファックスへの警戒度Maxで対策を練ってきている。

……が、そんなものなどどこ吹く風。
4月18日には2度目の1イニング三者連続三球三振、6月4日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では3シーズン連続3度目のノーヒットノーラン(しかも1四球の準完全試合)を達成。
この年は8月中旬の完封勝利を最後にDL入りしそのままシーズンを終えたものの、
19勝5敗,防御率1.74,223奪三振で3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得、CY賞投票でも3位につける大活躍であった。

1965年

前年の怪我など無かったと言わんばかりに序盤から無双。
5月30日から11連勝を記録するなど序盤から飛ばしていき、9月9日にはシカゴ・カブス相手に4シーズン連続4度目のノーヒットノーランを完全試合で達成、チームもナリーグを制覇している。

迎えたミネソタ・ツインズとのWSでは、ドジャースは第1戦にもう一人の大エースドン・ドライスデール(Don Drysdale)を先発とするが3回4失点と炎上しそのまま敗北。
コーファックスは第2戦に先発し、6回2失点と試合を作るもチームは反撃の糸口をつかめず2連敗となる。
しかしドジャースはここから盛り返して2連勝、コーファックスも第5戦で完封勝利を収めて3連勝とすると、ツインズも第6戦で反撃し3勝3敗。
迎えた第7戦ではコーファックスが中2日で3度目の先発マウンドに登り、この期待に応える完封勝利を達成。コーファックスにとって3つ目のチャンピオンリング*6を手にしている。

最終的にこの年は、26勝8敗,防御率2.04,当時のMLB記録である382奪三振*72度目の投手三冠王とCY賞*8,及びWS MVPとBR賞を受賞し、MVP投票でも2位となる例年通りの人外じみた成績を残している。

1966年

この年もコーファックスの怪物ぶりは衰え知らず。
前半戦だけで8連勝を含む15勝4敗,防御率1.60を挙げると、6年連続で選抜されたASでは先発の大役も務める。
チームの2年連続でのナリーグ制覇に大きく貢献。残念ながらボルティモア・オリオールズとのWSではスイープで敗北するも、
最終的には27勝9敗,防御率1.73,317奪三振3度目の投手三冠王を達成。
3度目のCY賞も受賞したほか、MVP投票も2年連続の2位となっている。
なお、同年以降のMLBにおいて、27勝をマークした左腕投手は1972年のスティーヴ・カールトン(Steve Carlton)ただ一人、防御率も最小である。

毎年がキャリアハイと言えるような驚異的な成績をマークし続けるコーファックス。
きっと来年も圧巻の投球で観る者を痺れさせてくれるのだろう。
ファンの誰しもがそう思っていた。

しかし、WS閉幕から約6週間後の1966年11月18日、コーファックスは1966年シーズン限りでの現役引退を発表する。
当時30歳と11か月弱。あまりにも早く、突然すぎる発表であった。

早すぎた引退

だが、少なくともコーファックス本人や彼を詳しく知る人達にとっては突然ではなかった。

彼の左肘は覚醒後の登板過多*9により年を追うごとにボロボロになっていき、
登板後の肩や肘のアイシングなどの入念なケアは勿論、1965年ごろからは試合前にコデイン*10を服用してまで登板していたが、
とうとう医者から「このまま投げ続けたなら、左腕そのものが利かなくなる恐れがある」と宣告されるまでに悪化してしまったことで遂に引退を決意したのである。
コーファックスは引退時の会見においてこのことを明かし、同時に

“I’ve got a lot of years to live after baseball and I would like to live them with the complete use of my body.”
(野球を辞めてからも人生は長く続いていく。私はその人生を健康な身体で過ごしたい。)

とも述べている。

引退後

引退翌年の1967年にはNBCのブロードキャスターに就任するが、1973年シーズンを前にして退任。
その後はドジャース傘下のマイナーチームで投手コーチとして雇われたりはしているが、MLBチームでのコーチや監督の経験はなく、引退後は公の場に姿を見せることはほとんどしていない。

1972年のアメリカ野球殿堂審査では、1度目の審査にて野球殿堂入り当時36歳という若さであり、これは2019年現在も史上最年少である。
同年6月4日には、現役時代の背番号32がドジャースの永久欠番に指定されている。

1999年にはMLBのファン投票企画”Major League Baseball All-Century Team”において、投手部門において得票率2位で25人のオールスターチームに選抜される。
ちなみにエントリー選手はMLBが2リーグとなった1901年から当時まで*11の選手から選抜、かつ投手部門1位は右投手のノーラン・ライアン(Nolan Ryan)なので、
コーファックスは100年余りのMLBの歴史上でNo.1の左腕投手に選ばれたことになる。

先述の通り長らく公の場に姿を見せてはいなかったが、2013年1月23日にドジャースのスペシャルアドバイザーに就任。同年4月1日の開幕戦では始球式に登板、
以後も2015年7月14日のオールスターや2017年11月1日のワールドシリーズにて始球式を務めたりと、以前よりはメディアに姿を見せるようになっている。

そして御年84歳となる2019年現在も、かつて酷使した左腕と共に健在。
引退時の「野球を辞めた後の長い人生を健康な身体で過ごしたい。」という願いは、無事叶っている。

選手としての特徴(覚醒後)

足を高々と上げる豪快なオーバースローが特徴的な本格派の左腕投手で、ついたあだ名が“The Left Arm of God”
持ち球はフォーシーム,縦のカーブ,チェンジアップ,フォークであったが、後者2球種は基本的には見せ球で、実質フォーシームとカーブのみの投手であった。

そのフォーシームは球速もさることながら、打者からすれば浮き上がるような軌道を描く所謂ライジングファストボールであった。
だがそれ以上に恐れられたのは、最大落差24インチ(約61㎝)とも言われる強烈すぎるカーブ*12であり、この2球種の高低差で空振りを奪いまくるのが基本スタイルであった。
実際に奪三振は非常に多く、2000イニング以上登板の投手では史上4人しかいない、9イニングあたりの平均奪三振数が9以上(9.28)の投手の一人である。

WS MVPを2度受賞していることからも分かるようにポストシーズンにも強く、
8試合57イニング登板で4勝3敗,61奪三振,防御率0.95,WHIP 0.825を記録している。

一方で打撃はキャリア通算で打率.097,2本塁打,28打点,386三振と、どちらかというと不得手であった。

先述のように全盛期の輝きは眩いばかりであり、
曰く、

“Getting a hit off Koufax is like trying to eat soup with a fork.”
(コーファックスの球を打つのは、スープをフォークで掬って食べるようなもんだよ。)
―ウィリー・スタージェル(Willie Stargell)*13

"He throws a 'radio ball,' a pitch you hear, but you don't see."
(彼が投げるのは、所謂”ラジオボール”だ。音はすれども姿は見えない。)
―ジーン・モーク(Gene Mauch)*14

“The Jewish kid is probably the best of them.”
((※「史上最高の投手は誰だと思う?」という質問に対して)儂はあのユダヤの小僧だと思うぞ。)
―ケーシー・ステンゲル(Casey Stengel) *15

等々、多くの球界関係者から絶賛されており、現在においてもMLB史上最高最強の左腕の誉れも高い。

通算成績

2324.1イニング,397試合登板(うち先発314試合),165勝87敗9セーブ,防御率2.76,2396奪三振,817与四球(+ 18死球,48敬遠),WHIP 1.11
最多勝3回,最優秀防御率5回,最多奪三振4回,投手三冠王3回(歴代1位タイ)
NL MVP 1回,サイ・ヤング賞3回,ワールドシリーズMVP 2回,ベーブ・ルース賞2回
MLBオールスターゲーム選抜6回
ノーヒットノーラン4回(うち1回は完全試合)
永久欠番指定:1972年6月4日(32番、ドジャース)
アメリカ野球殿堂入り:1972年,得票率86.9%(36歳での殿堂入りは史上最年少)

逸話,余談など

  • もう一つのスカウト理由
ドジャースが大金をはたいてコーファックスと契約したのは、勿論彼の才能を高く評価していたこともあったが、他の理由に、彼が「イケメンだから」というものもあった。
当時のドジャースは観客動員数の減少に悩んでおり、その中でコーファックスを雇えば女性の観客の増員が見込めると踏んだのである*16
実際コーファックスの登板時、特に覚醒後は普段よりも観客動員数は1万人は多かったと言われ、その中には黄色い声援も多分に交じっていたそうである。

  • ワールドシリーズとヨム・キプル
先述の通り1965年のワールドシリーズではコーファックスは第2戦に登板しているが、これは本来第1戦に登板する予定であったところ、これを拒否したためである。
その理由は「その日はヨム・キプル(ユダヤ教の安息日)だから」という宗教上のもの
ユダヤ教には「信仰心は口でなく行動で示してなんぼ」という基本通念があるため、このコーファックスの登板拒否は同じユダヤ人達からも模範的だと絶賛され、
後年オバマ大統領も、"I have something in common with Sandy.”(わかるわ。)と言及している。

  • あの若者は今
1988年、コーファックスがドジャースのスプリングトレーニングに帯同していた際、その中に日本プロ野球から留学中のある若い投手がいた。
その投手はコーファックスと同じ左腕投手ということもあり、彼ら日本人留学選手の世話役であった生原昭宏(通称・アイク生原)が「サンディ、アイツどう?」とコーファックスに聞いたところ、
「アイク、彼は駄目だ。すぐにでもサイドスロー投手かトラックの運転手にでも転向した方がいいよ。」
と、かなり散々な評価をしている。
しかしその投手こそ、後にNPB中日ドラゴンズにて数々の最年長記録を打ち立てることになるレジェンド左腕、山本昌である。
まあ当時の昌さんは代名詞のスクリューボールも取得しておらず、星野仙一監督からも入団当初、
「モーションは不格好。球は遅い。強力な変化球もない。制球もダメ。ただ左で投げてるだけのデカブツ(要約)」
とボロクソに言われていたので、この評価も残当ではあるんだけど。



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最終更新:2023年04月21日 18:22

*1 この時のコーファックスは、「クビになった時はこの契約金で大学に復学しよう。」と考えていたそうである。

*2 ナショナルリーグ優勝3回、世界一1回を達成し、殿堂入りも果たしている名監督。

*3 例えば、1968年のアリーグの首位打者の打率はカール・ヤストレムスキー(Carl Michael Yastrzemzki)の.301というデフレぶりであり、これは首位打者としてはMLB史上最低値である。

*4 ご覧の通り、61年に自身が記録した奪三振記録を更新している

*5 当時のCY賞は現在と違い両リーグ合わせて1人の選出であるため、現在の同賞受賞よりも難易度,価値共に高いとされている。

*6 1個目は覚醒前の1959年

*7 1981年にノーラン・ライアンが383に更新している

*8 複数回受賞は史上初

*9 1961~1966年の通算投球回は1632.2イニング,最多は1965年の335イニング

*10 ガンの鎮痛にも使用される強力な鎮痛薬

*11 ただし、サイ・ヤング(Cy Young)のようにデビューは19世紀の選手も含まれる

*12 単純な落差なら全盛期の「大魔神」佐々木主浩が投げるフォークのそれと同等以上であるといえば、どれほど途轍もないかはわかるだろう。

*13 コーファックスと同時代にピッツバーグ・パイレーツの主砲として活躍した選手。殿堂入り。

*14 1960~1980年代に活躍した監督。モントリオール・エクスポズ(現・ワシントン・ナショナルズ)の初代監督でもある。

*15 1940~60年代のヤンキース第三期黄金時代の監督で、5連覇を含むワールドシリーズ7回制覇を達成した名将。勿論殿堂入り。

*16 ただ、結局は歯止めがかけられず、これが市場を求めてのロス移転に繋がるのだが。