シアトルスルー(競走馬)

登録日:2021/11/07 Sun 10:34:33
更新日:2025/03/30 Sun 11:48:40
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Seattle Slew(シアトルスルー)とは、アメリカの競走馬、種牡馬。
ドラマ性、実力、実績、種牡馬としての影響力のどれをとってもアメリカ史上最強クラスの名馬である。

血統背景


ボールドリーズニングはシアトルスルーが初年度産駒…だったのだが、この馬、祖父に大種牡馬ボールドルーラー、母父にサンデーサイレンスの祖父ヘイルトゥリーズンを持ってこそいたが、種付け料は日本円換算でたった14万円と全く期待されていなかった。ちなみに3年間繁用されたのち、種付け中に牝馬に蹴られるというちょっとアレな事故で亡くなっている。
母のマイチャーマーは重賞勝ちこそあれど、血統的にはかなり地味であり、総じて普通の繁殖牝馬という認識に落ち着いていた。

……が、この雑草血統、ただのマイナー血統だったわけではない。
ボールドリーズニングは事故でわずかな産駒しか残せなかったが、本馬の他にもG1ホースを輩出し、かなり高い重賞勝利率を誇っていた。
マイチャーマーの4代母であるマートルウッドは競走馬として活躍しただけでなく、牝系からミスタープロスペクターやチーフベアハートなどの名馬を輩出している。さらにその父、つまり母父のポーカーは名馬バックパサーに勝利した経験があり、のちに母父として二冠馬シルバーチャームを輩出している。

このように現代の目線で見れば成功するのもわかる血統ではある……が、当時の人々はそんなことを知る由はなかった

「醜いアヒルの子」


1974年、ケンタッキー州の小規模牧場、ホワイトホースエーカーズファームで生まれる。
前述の血統背景によって期待度が高いわけではなかったが、見栄えもはっきり言ってよろしくなかった。
あろうことか右後ろ脚は外側に曲がっており、体と顔は大きく、おまけにポニーみたいな短い尻尾まで持ち合わせる。のちに牧場でつけられたあだ名は「醜いアヒルの子」である。ひどい。

地味血統と足の曲がり方をはじめとする見栄えの悪さから、キーンランドの選抜セリ市への出品は許可されず、一般セリでの販売という結果となった。
ここで獣医師のヒル夫妻、材木商のテイラー夫妻の2組の夫婦が本馬を購入。材木商のほうの夫人であるカレン・テイラー氏名義で共同所有することになった。
テイラー夫妻の出身地シアトルと、ヒル夫妻の出身地であるフロリダの湿地帯「スルー」から「シアトルスルー」と名付けられた。

飛翔開始


期待薄なシアトルスルーだったが、調教が始まると評価は一変した。馬なりでダート6ハロン(1200m)を1分10秒という快速で駆け抜け、調教師もびっくりの評判馬となったのである。
1976年9月、フランスのJ・クリュゲ騎手を鞍上にデビュー戦を完勝すると、続く条件戦も圧勝。
当時、フォーザモーメントという良血馬が無敗G1を勝つなど評判になっていたのだが、クリュゲ騎手はそれを差し置いて「シアトルスルーという馬のほうがもっとすごい」と吹聴して回っていたという。
その後の2歳チャンピオン戦であるシャンペンステークスでは鮮やかな逃げ切りで前述のフォーザモーメントを10馬身ぶっちぎって2歳レコードともに圧勝した。
この活躍から、最優秀2歳牡馬に選定された。

アメリカンドリーム


フロリダで休養したのち、3月の一般競争をレコード勝ちして復帰。続いてG1を2連勝し、無敗6連勝でアメリカクラシック3冠の一冠目、そして最大の名誉であるケンタッキーダービーに駒を進める。
しかし、大観衆を前に緊張したのか、スタート時ゲートに頭をぶつけてしまうというアクシデントに見舞われる。が、ここで出遅れながらもうまくハナを奪い、そこから見事な逃げ切り勝ちを収めた。
続くクラシック2戦目プリークネスステークスは2番手からの好位進出で勝利。いよいよ3冠目にして最後の難関、ベルモントステークスに駒を進めた。

アメリカのクラシック3冠はほぼ1か月以内という超過密スケジュールで行われるうえ、最終戦ではダートレースとしては長い部類である2400mを走らなくてはならない。ある馬は距離に泣き、ある馬は疲労で勝てず……この最終戦が、2冠を獲得した馬を叩き落とす最後の関門となっていたのである。
ノーザンダンサーサンデーサイレンスといった名馬も、前2冠を獲得しながらも、このレースを勝つことは叶わなかったのだ。
さて、結果は……競りかけてきた他馬をあっさり競り落とし、見事な逃げ切り勝ち
ここにセクレタリアト以来4年ぶり10頭目、かつ史上初の無敗の3冠馬が誕生したのであった。
さらに、一般セリ市出身の三冠馬2021年現在でもシアトルスルーただ1頭
ここに「醜いアヒルの子」シアトルスルーは、アメリカンドリームを掴んだヒーローになったのだ。

不運を超えて見せた強さ


三冠を達成したシアトルスルーだが、過密ローテ故疲労がかなり溜まっており、調教師は休養を提案。しかし馬主サイドは西海岸への遠征を強行し、迎えたG1スワップスステークスで4着に負け、無敗記録はストップしてしまった。
この敗北がきっかけで生じた馬主と調教師の対立によって、シアトルスルーは転厩することに。
しかもこの直後に謎の高熱を発し、一時は生命の危機に。幸い回復したものの、結局この年はスワップスステークスが最後の出走になった。
また、当然と言えば当然だが、この年の功績を評価されて、最優秀3歳以上牡馬、年度代表馬を獲得している。

翌78年1月には病気から立ち直り、5月と8月に一般競争を勝利。しかし続くG2で2着に敗れてしまい、クリュゲ騎手から乗り代わりになった。
その後のマールボロHCにて、1歳下の三冠馬アファームドとの対決が実現。アメリカでは3冠馬対決は史上初ということで大いに盛り上がった。シアトルスルーは斤量差もあって2番人気だった。
しかしレース本番では、同じ逃げ馬のアファームドとともに前につけて逃げ、終盤でさらに加速するという完璧なレースでアファームドを完封、3馬身差つけて快勝した
続くウッドフォードステークスでは、フランスで活躍後にアメリカに移籍して、確実に勝ちを積み重ねていた強敵エクセラーと対決するも、ここは軽くひねって4馬身差勝ち。古馬になっても相変わらずの怪物ぶりを見せつけた。

当時はブリーダーズカップが創設されていなかったため、古馬にとって最大のレースはジョッキークラブゴールドカップである。アファームドとエクセラーも出走してきたが、前2走の結果からすれば格の違いは明らか。1番人気に推された。なお、レース開始直前にゲートから飛び出すというアクシデントがあったり。

レースではハナを奪って逃げるが、アファームドとペースメーカーがこれに食らいつく。シアトルスルーも競り落とさんと猛烈なハイペースで逃げ、レースはアファームドとのマッチレースの様相を呈する。
やがてアファームドが限界に近づき、いったんペースを落としたシアトルスルー。しかし、後方で控えていたエクセラーが20馬身差以上を一気に突進し、鞍がずれて後退していくアファームドを横目に、シアトルスルーに並びかける。

余力を残していたエクセラーがそのまま勝利……かと思われたが、さすがに史上初の無敗の三冠馬、ただでは負けない。

抜き去っていったエクセラーに対し、凄まじい差し返しで再び肉薄

2枚腰どころか3枚腰を見せつけて場内は騒然となったが、エクセラーはどうにかハナ差を残し、シアトルスルーは2着に敗れた。なおこの時、3着との差は実に14馬身差}だったという。なお、アファームドは事故もあったにせよ、6頭立て5着、19馬身差の惨敗であった。
結果的に、このレースはシアトルスルーの怪物ぶりをさらに際立てることになった。
3冠レースや前2走では強い走り方だったが、一方で同じく無敗3冠の某皇帝のように「強すぎてつまらない」という意見も多かった。そのため、ここですさまじいパフォーマンスを見せつけたことで、敗れこそすれど人気はさらに向上することになる。

その後「130ポンド以上背負わずに勝たないとチャンピオンじゃない」という古参競馬ファンの声に応え、G3のスタイヴサントハンデキャップに出走、もちろん勝利。このレースをもって現役を引退した。
アファームドがいたので年度代表馬には選ばれなかったが、最優秀古馬のタイトルを獲得している。

種牡馬時代


1200万ドルというとんでもない高額シンジゲートから種牡馬入りしたシアトルスルー。
初年度早々にジョッキークラブゴールドカップ連覇などの戦績を上げ、のちに殿堂入りしたスルーオゴールドを輩出。
その後もコンスタントに活躍馬を出し続け、1984年にはリーディングサイアーを獲得。以後2000年代初頭まで長らく種牡馬として活動していた。
セクレタリアトやスぺクタキュラービッドといった他のボールドルーラー系種牡馬がなかなか後継を残せなかった中、この馬は牡馬でもしっかり活躍馬を出し、系統そのものの救世主となった。
シアトルスルーは競走馬としてだけではなく、種牡馬としても実力を見せつけたのである

産駒の中で最も重要なのが、92年生まれのエーピーインディ
BCクラシックを勝利した優秀な競走馬だったが、引退後は種牡馬として大活躍。
2度のリーディングサイアーに輝き、アメリカにてノーザンダンサー、ミスタープロスペクターの2大系統に次ぐ第3勢力として確かな地位を確保している。
他のシアトルスルー系統は零細化しているので、ボールドルーラー系=シアトルスルー系=エーピーインディ系と言えるだろう。

相性問題だろうか、産駒は日本ではそこまで活躍したわけではなかったが、それでもタイキブリザード、ダンツシアトルの2頭のG1ホースの他、マチカネキンノホシやヒシナタリーといった重賞馬をしっかり輩出した。
母父としても、賞金王シガーや直線番長アグネスワールドなどを出している。

1999年にアメリカの競馬雑誌が選んだ『20世紀のアメリカ名馬100選』では9位にランクインしている。

2002年まで種牡馬として活動したが、シーズン中に病気のため種付けを中止、療養中に亡くなった。28歳の大往生であった。
彼は存命中の最後の3冠馬であり、2015年のアメリカンファラオの登場まで、アメリカに3冠馬はいなかった。
なお、彼の偉業から41年後、ジャスティファイによって、薬物疑惑あるけど再び無敗の3冠が達成されている。

余談


同期には日本に渡り、8戦8勝と圧倒的な実力を見せつけていた「スーパーカー」マルゼンスキーがいる。
もしマルゼンスキーが日本に渡らずにアメリカにとどまっていたら、シアトルスルーの3冠は難しくなっていたかもしれない……という話が流布したことがあるらしい。
結局両馬が交わることはなかったが、逆に言えば、それだけシアトルスルーの勝ち方が圧倒的だった、という証拠であろうか。

本馬の他、無敗の三冠馬として知られるシンボリルドルフディープインパクト、コントレイル、および英国のニジンスキーは全て三冠目の次のレースで敗北という妙な共通点がある。

シアトルスルー相手だと突き放されるわ、鞍ずれるわで散々だった上、産駒成績も同期のアリダーと比べて振るわず……と、ともすれば過小評価されてしまうこともあるアファームドだが、彼の名誉のため補足しておこう。
彼は紛れもない歴史的名馬の1頭、アメリカ競馬史に残る怪物である

アファームドは4歳シーズン最初の2戦こそ敗退したものの、騎手乗り代わり後にエクセラーに勝利してからは勢いづき、怒涛の4連勝を飾った。
引退レースでは、レコード更新8回怪我さえなければ3冠は確実だったと言われ、引退レースではあまりの強さに他馬が出走せず単走になったアメリカ競馬黄金の70年代最後の怪物、スぺクタキュラービッドと対決。途中までアファームドをマークし、終盤で猛烈な末脚を見せるスぺクタキュラービッドだったが、アファームドは最後の1馬身を全く詰めさせることなく勝利した
これにより2年連続の年度代表馬を獲得。G1勝利数は驚異の14勝、ケルソの持っていた世界賞金額1位の座を手に入れた。
そして何より、アメリカ3冠馬はアファームドを最後に、アメリカンファラオまで実に37年間登場していなかったのである。この事実がアファームドの強さを証明していると言えよう。


追記・修正は3冠を獲得し、種牡馬として活躍してからお願いします。

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