小栗忠順

登録日:2025/04/16 Wed 19:20:34
更新日:2025/04/22 Tue 22:52:39
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小栗(おぐり)忠順(ただまさ)(1827〜1868年)


画像出典∶wikipedia「小栗忠順」より抜粋

幼名は剛太郎(ごうたろう)、通称は又一(またいち)、諱は忠順。
官職は豊後守、上野介。



概説

江戸時代末期の幕臣。
遣米使節団に目付として渡米。
勘定奉行、陸軍奉行、外国奉行を歴任し、事実上の財務大臣と外国公使から呼ばれた。

誕生

文政10年(1827)6月23日、武蔵国江戸城下駿河台の屋敷に父親が旗本・小栗(おぐり)忠高(ただたか)(禄高2500石)、母が妻・邦子(くにこ)の間に長男として生まれる。
小栗家は徳川家康に仕える三河譜代の家柄で、家康の代に仕えた忠政(ただまさ)が合戦ごとに一番槍を成したため、それまでの通称であった「又市」に「又もや一番槍」の意をこめて「又一」の名を賜ったと伝わる。
それ以来、知行地持ちの名門旗本として代々、存続してきた。
8歳の頃に屋敷内にある安積(あさか)艮斎(こんさい)見山楼(けんざんろう)に入門し、生涯の友人・栗本(くりもと)鋤雲(じょううん)と知り合う。
もう一人、くされ縁という人物として、小栗家に仕えていた使用人がおり、途中で紀ノ国屋の養子になり、両替商として小栗と再会する人物が三野村(みのむら)利左衛門(りざえもん)である。
小栗は別の意味で生涯の友となる煙草と知り合い、12歳頃から煙管から煙をプカプカ吹かせて、14歳になると、大名家の当主が来客に来ても煙草を吹かしながら応対するなど、良くも悪くも相手に合わせない、オレ流を貫くのである。
勝海舟「やーい、ニコチン野郎!」
小栗「うるせー、ヤリチン野郎!」
オレ流というか凝り性、オタク気質を挙げると、嘉永3年(1850)〜文久3年(1863)まで家計簿を記していたり、隅田川の花見でも花や酒には目もくれず治水について語り続け、周囲をあきれさせるなど、人と違うトコロをみせる。

こんな一面はあるが、キチンと武士のたしなみとして武芸を修めている。
先祖は槍で勇名を馳せたが、本人は槍より剣術派で勝海舟と同じ直心影流(じきしんがけりゅう)免許皆伝で、砲術、柔術、山鹿流軍学と学んでいる。頭の回転は良いが、性格は不器用で、身体を使う事は器用にこなすのである。

出仕

天保14年(1842)3月22日、第12征夷大将軍・徳川(とくがわ)家慶(いえよし)に初お目見え、江戸城初登城を行う。
弘化4年(1847)4月16日、部屋住みの身分のまま西の丸書院番に登用され、役料300石を賜る。書院番は親衛隊であり、西の丸は前将軍である大御所か将軍世継ぎの住まいになるので、この場合、世継ぎ・家定の親衛隊勤務となる。
嘉永2年(1849)、播磨林田建部家前当主で政醇(まさあつ)(1万石)の娘・道子(みちこ)を妻に迎える。
嘉永6年(1853)、進物番に登用される。将軍から大名・旗本、大名・旗本から将軍への贈り物を管理する役職で、将軍が出席して贈り物を下賜する時は、将軍の代わりに大名・旗本に渡すのが仕事である。
決められた規則通りに出来ないとボロクソに言われ、出世の道を閉ざされる為、バカには出来ない仕事ではある。
ペリー来航時は警護番を担当し、外国にバカにされるのは、国力が無いからで、国力を着けて相手と同じ力を持たないと対等の交渉すら出来ないと悟る。
嘉永7年(1854)、ペリー再来航に備えて、浜御殿(将軍家の別邸)の警備を担当する。
安政2年(1855)7月28日、新潟奉行を務めていた父が病死、10月22日家督を相続し、又一を名乗る。
安政4年(1857)1月11日、進物番から使番(つかいばん)に異動になった。ここは、将軍の代わりに諸国を見て廻る巡見使(じゅんけんし)を務めたり、江戸市中火災時における大名火消(だいみょうびけし)定火消(じょうびけし)の監督などを行う役職で、対応を間違えるとボロクソに言われ、出世の道を閉ざされる為、バカには出来ない仕事ではある。
同年12月16日、布衣(ほい)を許された。ざっくり言えば京都の公卿と同じ様な服を着る権利を得たのである。面倒臭い規則だが、東アジアで朱子学を基本に文化や秩序を構築した明国、清国、李氏朝鮮なども礼式でがんじがらめに縛り上げた体質であり、共通していた。

安政6年(1859)9月12日、使番から目付に異動になる。目付は監察とも呼ばれ、仕事がキチンと行われているかを確認したり、交渉役や仕事の段取りを決める仕切り役として出世の登竜門と見られた。

世間は江戸で発生した安政の大地震(1855)とその前後に発生した嘉永7年/安政元年(1854)の伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震といった連鎖地震にコレラの蔓延、13代将軍・徳川家定の後継者問題、外国との通商条約締結問題で沸騰しており、家定から事態の収拾を託された大老で近江彦根井伊家当主・井伊(いい)直弼(なおすけ)(35万石)が安政6年(1859)、過激な尊皇攘夷論を唱える長州毛利家家臣・吉田松陰、松陰と親交のあった小浜酒井家家臣・梅田(うめだ)雲浜(ひんぴん)、将軍後継争いで暗躍した越前福井松平家家臣・橋本左内を処刑する安政の大獄が起こる。
翌日、井伊直弼に呼び出されてアメリカに派遣される日米修好通商条約批准書交換使節団に参加する様に任命された。

アメリカへ

この遣米使節団の団長は新見(しんみ)正興(まさおき)(外国奉行・2000石)、副使は村垣(むらがき)範正(のりまさ)(外国奉行・500石)であり、小栗を含めこの3人が使節団の代表を構成している。
11月21日 には従五位下・豊後守に叙任。
安政7年(1860)1月19日、浦賀*1から乗船のポーハタン号が出帆し、同年(3月18日に万延と改元)5月26日に帰国した。アメリカから帰国する際、大西洋からポルトガル領アンゴラ、喜望峰、香港と立ち寄った。
旅の感想を聞かれると、日本が小さい国だと良く分かった。やるべき事はたくさんある、と。
使節は上述の3使節に加えて、役人17人、従者51人、賄方6人が随行し、諸大名の家臣も14人が参加を許されている。
小栗の主な仕事は帰国後に先輩の水野(みずの)忠徳(ただのり)(西の丸留守居役・500石)に手紙で「アメリカに押し切られて締結した為替レートの是正に挑んだが、理解はしてくれたが、是正はしてくれませんでした」と記している。


その頃、日本では安政の大獄や安政の五ヶ国条約に在野の志士が憤慨し、代表して常陸水戸徳川家からの出奔者17名と薩摩島津家からの出奔者1名が安政7年(1860)3月3日、江戸城桜田門外で井伊直弼の行列を襲撃、これを暗殺した事件が発生した。後世、桜田門外の変と呼ばれた。

これ以降、国内は鎖国攘夷の議論が多数を占め、開国和親を口にするだけで売国奴扱いされる勢いだった。しかし、小栗は「ネジ1本、機械で満足に作れない国が攘夷とか、あんたバカぁ?」とか、「機械一つ満足に作れない国が攘夷とか10年早いんだよ!」と煽る有り様で、国内の攘夷派から斬奸状が投げ込まれた。

帰国すると、旧知の三野村利左衛門が両替商となって訪ねてきて、儲け話を聞かれると、小栗から「独り言なんだけどさぁ〜」とお金の内外価格差を調整する為に天保小判から3分の1の価値にした安政小判改鋳の情報を事前に得て、天保小判の買占めによって巨利を得た。
また、この情報を三井家にも売り込んでおり、三井家に重宝された。三井家も共犯者になったと言える。
後に、三井家から小栗とのコネを見込まれ、幕府から命ぜられた御用金50万両の減免交渉を任され、上納額を18万両の3年に渡る分納とすることに成功する。

万延元年(1860)11月8日、目付から外国奉行に異動。

外国奉行は外国との応対、通商などの事務を担当する重職で職制上は遠国奉行の上席にある。*2小栗は幕府の重要任務に携わる事になった。

文久元年(1861)2月3日、ロシア帝国海軍は軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、強引に対馬宗家に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。

同年4月、小栗は咸臨丸で対馬に赴き、5月7日に対馬着。5月10日からポサドニック号艦長であるニコライ・ビリリョフと10日、14日、18日に渡り交渉し、事態の収拾を目指したが、目途がつかず、5月20日には小栗は対馬を離れ、江戸に向かった。

江戸に戻った小栗は老中・安藤(あんどう)信正(のぶまさ)(陸奥磐城平安藤家当主・5万石)に対して対馬を直轄領とすること、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言したが、受け入れられなかったので、7月26日に辞職し、寄合入りをする。寄合は役職の無い旗本の溜まり場。

文久元年(1861)8月15日、ポサドニック号は対馬から退去したが、対馬はイギリスも狙っていて、イギリスとクリミア戦争の二の舞を演じる事を恐れたロシアが手を引いたと言われている。(対馬事件)

対馬の宗家と仲が良かった長州毛利家*3などは事の一部始終を聞き、海上交通の要衝である関門海峡を有する事、自領の近くに竹島があり、そこが外国に領有化される事に危機感を抱き、対馬事件で徳川幕府が解決策に土地や要衝の直轄化を打ち出した事から、自分達も否定されるのではと危機感を抱いた。なんせ、天保義民事件や上知令でそうした事例が出て来て他人事ではないのである。

幕政改革へ

寄合入りした小栗だが、文久2年(1862)3月9日 に小姓組番頭へ出仕、5月には御軍制御用取調を命ぜられ、更に6月5日には小栗の代名詞と言うべき勘定奉行・勝手方に任命される。
勘定奉行は他の奉行同様に複数制を取り一人が不正をしない様に互いにけん制していた。担当が2つに分かれ、勝手方(かってかた)(定数5名)というお金や物価を取り扱う部署(今で言う財務省)と公事方(くじかた)(定数2名)という徳川直轄地の訴訟を取り扱う部署(今で言う法務省の一部)である。土地の管理は郡代*44名が上位に、下位に代官が遠国奉行が支配する地域以外の直轄地を担当した。

勝海舟福沢(ふくざわ)諭吉(ゆきち)などが門閥制度と批判した徳川幕府でも、目付と勘定方は大名家の家臣や代官所の手代など叩き上げなどが登用されるように門戸は開放されていた。
勘定奉行は民情と慣習に詳しい者が好まれ、特に定数5名の勝手方は業務上、普請役→支配勘定→勘定→勘定組頭→勘定吟味役→勘定奉行という抜擢街道を歩んだ人物を1〜2名入れて置くのが約束事だった。
目付にも同じ抜擢街道が用意されており、ここに入れなかった人が『門閥ガー』と遠吠えするのである。*5
幕末期の徳川幕府は勘定方・目付方の抜擢組が有能な官僚集団として様々な分野で実力を奮う事になる。

それでも、外国公使などからは大名政治家の老中・若年寄がリスクを取る事を恐れる余り決断力に欠け、官僚集団は根回しで合意形成に時間が掛かり、決断に時間が掛かると酷評され、決まらない政治に業を煮やした外国公使たちから薩摩島津家や長州毛利家の家臣たちの方が、政権を担った方が良いなどと言われてしまう。

先に出た御軍制御用取調は幕府の軍制改革を担当する役職。安政の幕政改革で海岸防禦御用掛という外交や国防を担当する役職を新設し(長いので海防掛と省略された)、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)(翻訳や語学教育を担当する役所)、講武所(簡単に言えば陸軍)、長崎海軍伝習所(簡単に言えば海軍)を創設して、軍備を再構築しようと試みた。講武所を除けば概ね事業は軌道に乗っていたが、幕府的に陸軍が花形なので期待していたが、期待ハズレだった。
旗本・御家人は銃を持つことを極端に嫌う、最低限の日数だけ出席して後はサボるなどが横行し、関係者を失望させた。

文久期の御軍制御用取調はこの失敗を糧とした。参勤交代が緩和され*6、それに従事していた中間、人足が失業して町中に溢れかえっていた。彼らは重たい荷物を背負って仕事していたので身体がしっかりしている、武家の理不尽に普段から慣れていて精神的にも強いから兵隊に最適として、直轄地の農民や旗本の知行地にいる農民と合わせて武家奉公人として何年契約何両と金で雇い、旗本・御家人の中でヤル気に充ちた者を指揮官に登用し、足りなければ、陪臣を幕臣に採用して、使えない幕臣を隠居させる、という考えをまとめた。
最終的には、旗本は収入の半分を幕府に差し出し、兵隊を雇う為の財源に充てがわれた。
兵隊は口入屋*7から募集をかけて農村、都市部から集め、兵舎に入営させて軍事教練を受ける。この時の兵隊は待遇が最下層ながら幕臣となり、脇差しを差すことは許された。報酬は建前として年間7両で5年契約35両だったが、実際には物価高もあり中々集まらなかったので、年間17両で5年契約85両が相場となった。誠意は言葉ではなく金額とは良く言ったモノである。
因みに幕府海軍の水兵も同様のやり方で集められた。
幕末期の幕府を支えていたのは派遣社員だったのである。

文久2年(1862年)2月、関口水道町で新工場の建設が開始され、12月には小栗忠順が御軍制御用取調の肩書で銃砲製造の責任者に任ぜられた。文久3年(1863年)に操業を開始し、青銅を原材料にしたフランス製の4斤山砲を製造し、慶応3年(1867)にはミニエー銃など兵器の国産化を目指した。

小栗は新制度を考えたり、新規事業を立ち上げたりして金を工面したが、開国に反発する攘夷派の武士が外国人を殺害すると、その賠償金を工面するのも小栗であり、攘夷派に殺意が沸いてきた。特に、在位していた孝明天皇(こうめいてんのう)や京都の公卿、それを担いで幕府に内政干渉してくる薩摩島津家(77万石)、長州毛利家(36万9千石)、土佐山内家(24万石)には人一倍反発した。

島津家の内政干渉で復権し、政事総裁職に就任した元越前福井松平家当主・松平(まつだいら)慶永(よしなが)(32万石)は先代将軍・家定を「凡庸の中でも最も下等」とか、「イモ公方」*8と酷評して江戸城中などで大名仲間に触れ回った行為を嫌悪し、政治顧問を務める(よこ)()小楠(しょうなん)に影響され、徳川の徳川による徳川の政治を改め、朝廷と幕府が一つになり(公武合体)、立法は諸大名の代表が集まり国内の問題を討議し(後の参預会議)、諸大名の家臣から選出した人達が官僚として行政を行う(安政の大獄で処刑された橋本左内の幕政改革論に提案が残されている)事を主張した公議政体論を激しく嫌悪した。

この政体だと、場合によっては破約攘夷論という衆愚政治になるからであり、小栗からして今必要なのは、強力な指導力を持つ強力な国家による、一日も早い西洋式の国家であり、民意の吸い上げも必要だけど、今じゃないという考えだった。

小栗は松平慶永に
「政権を幕府に委任されるのは鎌倉幕府以来の慣習。ところが最近は、朝廷から干渉があるだけではなく、諸大名からもいろいろと申立てることがある。そのために既定の政策を変えるのはもってのほかである。このさい断固として幕府の権威を立てなければ、ついには諸大名に使われるようになるだろう」
とズケズケと言い放った。

小栗が文久3年(1863)4月23日に辞職した時の肩書は勘定奉行・勝手方、歩兵奉行、講武所御用取扱だった。主な理由は、松平慶永の主張に反発したり、歩兵奉行の権限で軍を動かし、京都の攘夷派を武力で排除する計画がバレてクビになったからである。

そこまでの官職の変遷は、文久2年6月5日に勘定奉行・勝手方、閏8月25日に江戸南町奉行に就任し、その2日後に勘定奉行・勝手方兼任。12月1日には南町奉行から歩兵奉行に異動し、勘定奉行・勝手方と兼任。
少し説明すると、江戸町奉行は北と南に分かれ、遠山景元鳥居耀蔵など天保の改革時には、江戸の町に住む人々の調査、将軍や重役からの命令の伝達、各地の事業の陣頭指揮など、行政や治安維持などの役割も担当し、現代風に言うと、東京都知事警視総監裁判長という仕事で基本的に1ヶ月交代で業務を行い、訴訟を受け付けていない期間は未解決の事案の解決に勤しみ、刑事事件に関しては双方とも関係なく処理を行い、管轄が酒や材木、書籍は「北町奉行所」、服や薬は「南町奉行所」と商業に関してはそれぞれ専門に扱っていた。
後に警視総監の位置に文久3年(1863)4月15日、江戸市中取締役が創設され、出羽庄内酒井家当主・酒井(さかい)忠篤(ただすみ)(14万石)が11月1日就任し、治安維持を新徴組が担当する事になる。
歩兵奉行は文久の幕政改革で誕生した役職で陸軍の責任者である陸軍奉行の下で歩兵部隊の総司令官を務める役職。

小栗は京都で行われる薩摩、長州、土佐による京都の公卿を担いで行われる内政干渉や攘夷世論*9を根絶する為、水野忠徳が発案したクーデター計画に協力した。
総司令官に老中格の小笠原(おがさわら)長行(ながみち)(肥前唐津小笠原家世子・6万石)を担いで文久の幕政改革で創設された西洋式軍隊1500人を動員し、攘夷世論を好まないイギリス公使代理・ニール*10とフランス公使・ベルクールから協力を取り付け、兵員輸送でそれぞれの海軍から船舶を借り受け、幕府海軍と共に海路、大坂湾に到着、上陸して孝明天皇に開国和親の勅許を出させ、開国を認めないなら承久の乱後鳥羽上皇みたく島流しにすると公言した。
京都にいる孝明天皇や全ての公卿、諸大名が暴挙と憤り、一触即発の事態になったが、当時、攘夷を説明する為に上洛していた14代将軍・徳川(とくがわ)家茂(いえもち)が説得して、クーデター軍と共に江戸に戻り、失敗した。
イギリスはこれだけ御膳立てして失敗する幕府に見切りを付け、後に薩英戦争で善戦した薩摩島津家を日本に於ける戦略的パートナーとして見直し、提携した。同時に在日外国勢力を総結集して、攘夷派日本代表の長州を見せしめに徹底的に叩いて、孝明天皇から下々の庶民にまで攘夷が無駄という事を叩き込んだ。
文久3年(1863)7月10日、陸軍奉行並となる。幕府陸軍のNo.2である。
小栗は在野の攘夷派浪士からクーデターに加担した事を叩かれ、斬奸状がダース単位で投げ込まれ、他の幕臣にも斬奸状が投げ込まれ、攘夷派を鎮める為に7月29日、辞職して寄合入り。
この後、官職が豊後守から上野介に代わり、周りは上野介ヤメなよと諭されたが、オレが流れを変えてやると、そのまま名乗った。

+ 余談:上野介は破滅フラグ?
江戸時代、特に幕末期になると上野介は今でいう破滅フラグ扱いされた。有名な上野介には、
初代の本多正純(ほんだまさずみ)は権力闘争に敗れた結果である。地味な上野介とも
二代目は忠臣蔵の敵役・吉良義央(きらよしなか)である。吉良上野介とも。
仮名手本忠臣蔵による影響は凄まじく、人物より上野介と聞くと、悪い奴扱いされる程である。
三代目が小栗である。

新たなる力

小栗は元治元年(1864年)8月13日、勘定奉行・勝手方に復帰するが、それまでの1年間、足跡が分からない。
部下の大鳥(おおとり)圭介(けいすけ)や小栗と反対の立ち位置にいた勝海舟が揃って「世界事情に通じていた」と批評しているから、案外、この頃に外国の歴史を学んだり、家族サービスなどに励んでいたのかも知れない。
この頃、禁門の変で長州の攘夷派が壊滅、長州を粉砕すべく幕府は第一次長州征伐を認める勅命を孝明天皇から貰う。そこから長州征伐を実施。同時上映で欧米列強による報復攻撃が長州に行われた。
長州の賠償金を払わせるかが争点になったが、長州は「天皇と幕府の命令でヤりました、長州悪くない!幕府にツケといて」と主張した。
長州系*11の下関を開港すれば賠償金は免除、下関開港を認めないなら、賠償金を支払うの二択で幕府は後者を選び、その資金繰りを担当した。因みに前者だと長州に責任能力有りという話になり、対外的に認められた政府が誕生する。要するに一国二制度である。
小栗は腸が煮えくり返る思いだった。
徳川直轄地の収入400万石で日本全土を守るとか、大名から税金を取る訳でも無いのに、責任だけ背負うのか!こんなバカな話があるか!と。
薩摩島津家や長州毛利家は、徳川将軍がこれに懲りて政権を返上し、力のある大名の有識者会議(参預会議)にて国政を討議して、世の中を変えましょうと目論み、あれこれ挑発してくる。
しかも、幕府はダメだから、大名連合が良いよと煽ったのが勝海舟というのもポイントが高い。
それでも小栗は長州の賠償金300万ドルの支払いを開始し、150万ドルまで支払いを終えたトコロで幕府は倒壊。残額は奇しくも賠償を幕府に投げた長州藩の武士を含む太政官に引き継がれた。
+ 余談:明治期における賠償金支払い
この残額支払い問題は明治4年(1871)11月からアメリカ・ヨーロッパに派遣された使節団の外交案件の一つだった。300万ドルの賠償金の分配は砲撃を受けたアメリカ、フランス、オランダの3ヶ国の艦船が42万ドルを分け、残りの258万ドルを連合艦隊の4ヶ国に分けた為、イギリスは64万5千ドル、他の3ヶ国は78万5千ドルを受け取ったが、アメリカは明治16年(1883)2月23日、下関賠償金78万5千ドルを全額返還した。
アメリカが受けた損害は1万ドルだったが、国際協調で受け取ったと言われた太政官は12年間交渉した結果、アメリカの了解を得た。
アメリカ「下関の賠償金返して、日露戦争も資金繰り協力して、ポーツマス条約まで御膳立てして、真珠湾攻撃とかないわー」

賠償金支払いが軌道に乗ると、同年12月18日軍艦奉行に異動した。主な仕事は前任者の勝海舟がノータッチだった軍艦の整備、補修に関する業務だった。

安政の幕政改革で乗組員を育成し*12、4隻の艦船*13を所有していた幕府だが、その整備はズサンだった。

文久の幕政改革で整備計画案が出て来たが、軍艦奉行並の勝海舟は「500年待ってください。本物の海軍をお見せしますよ」と計画案をブチ壊し、自論である人材育成の教育機関の創設と大名連合艦隊の方に舵を切った。
恒常業務で勝は蒸気船の購入を担当していたが、正式軍艦の新規建造には金が掛かる=自分が使う予算が減るからと、これを避けてイギリス、アメリカのメーカーが中国航路用に建造した、比較的新しい中古蒸気船を購入して、有事の際、陸軍の運搬や大砲を搭載して代用軍艦として運用した。
実際に勝が見分、試乗してみると、半分くらいはハズレ蒸気船として故障するなど実力不足があった。
それを整備する為の施設として造船所があるが、当時は長崎、石川島、浦賀にあるのみで、いずれも規模は小さく、日本人の技術で手に終えない整備は上海、香港にある大規模造船所に持ち込むしかなく、しかも順番待ちがあった。

その手間を無くす為、大規模な造船所が必要となったが、小栗は海軍にそこまで詳しくない。
そんな小栗に助太刀が現れた、しかも二人。
1人目は小野(おの)友五郎(ともごろう)
もう一人は栗本鋤雲。
小野が造船所の建設予定地を視察し、栗本がロッシュと小栗の予定を擦り合わせて会談を段取りし、小栗が造船所建設の財源を確保するという三者三様の役回りを演じた。土地は江戸に近く、波浪の影響を受けにくい入り江である上に艦船の停泊に十分な広さと水深を備えた海面があり、泊地として良好な条件を備えていた横須賀が選ばれた。フランス海軍の根拠地・ツーロン軍港を参考にして規模は3分の2くらいのモノだと言われる。
建設ノウハウは無いのでフランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの指導下で建設にあたり、計画では4年間で製鉄所1ヶ所、艦船の修理所2ヶ所、造船所3ヶ所、武器庫および宿舎などを建設し、費用は総額240万ドルで60万ドルの4年返済。
当初は生糸、銅を独占的にフランスに充てがう予定だったが、イギリスから猛反発を受け、お金で支払う形にした。
元治2年(1865)1月29日、フランス政府と製鉄所建設の約定を交わす。

これは、同時進行で長州の賠償金300万ドルの支払いと合わせて行われている事だった。栗本が資金繰りを問うと、小栗は
『今の財政はまったくの遣り繰りで、この計画を起こさなくても、その予算が他に使えると言うモノではない。故に必要なドック=造船所を作るんだと言えば、他の無駄な金を削る口実になってかえって良い。いったん出来てしまえば、幕府の政権が他に譲る事になっても、土蔵付き売家の方が見映えがイイじゃないか!』
と返答した。今でいうレガシーである。
栗本は別の日に小栗の言葉として
『親が病気で死のうとしている時、もうダメだと思っても、看病の限りを尽くすではないか?自分がやっているのはソレだよ』
と記している。今でいうクオリティ・オブ・ライフ(QOL)=生活の質、人生の質、生命の質などを意味する概念である。栗本はこの小栗の言葉を語り継ぎ、後日、福沢諭吉に伝えた。

フランス語スタッフ育成の為、横浜仏語伝習所が元治2年(1865)3月6日設立され、カションが校長を務め、カリキュラムは、フランス語だけではなく地理学・歴史学・数学・幾何学・英語・馬術で、半年を1学期とし、午前は8時から正午までの4時間と、午後は16時から18時までの2時間を授業時間とし、日曜日・祝日は休業、水曜日は午前のみの半ドンであった。
日本に日曜日が導入された始めての事例であると言われる。*15

横須賀製鉄所の首長にヴェルニーが就任し、職務分掌・雇用規則・残業手当・社内教育・洋式簿記・月給制など、経営学や人事労務管理の基礎が日本に導入された。

しかし、小栗は同年2月21日、軍艦奉行を辞職して寄合入りした後、慶応元年(4月7日に慶応と改元)5月4日、4度目の勘定奉行・勝手方に就任する。

軍艦奉行を辞職したのは、京都にいる一会桑政権*16が幕府の制御を離れ、攘夷派の孝明天皇にベッタリで一行に開国へ進まない国内事情に腹を立て、この排除を訴えたが聞き入れられなかった為という説と横須賀製鉄所の費用が莫大な額になり、幕臣内部から小栗の罷免と事業の中止を求めたが、小栗が事業の中止は論外なので、オレが辞めると願い出たの2つがある。

出入りの激しい人だが、この辺りから辞職はしばらく無い。これだけ目まぐるしく職が変わるのは、小栗のオレ流発言が一言で上役のライフをゼロに持っていく激しさで削り取り、我に帰った上役がブチ切れて免職させるまでがお約束だった。
勘定奉行を務めた時、老中・若年寄が列席して、国費の清算書を朗読して報告する例になっていたところ、小栗は「いま私がこれを朗読いたしましても、閣下方は理解出来ない。この小栗がいる限り、為に成らない事は絶対にしないから、さようご承知下されたく存じます」と放言、小栗の眼中には、老中も若年寄もなかった。
これは小栗と逆の立場にいた勝海舟も同様で咸臨丸で帰国後、老中・若年寄が列席しているところで、「勝、アメリカと日本で何が違う?」と問われ、勝は「うんとねー、アメリカはねー、位の高い人は頭が良いの。日本がねー、バカでも偉くなれるのとは大違いだねwww、スゴイよねー」と老中・若年寄をバッサリ切り捨てた。
2人とも共通して出処進退を明らかにして地位にしがみつかず、若年寄に上がれなかったのが証明している。幕末期になると外様大名や大名の世子でも老中を務めたり*17、旗本が若年寄を務めたり*18したが、時既に遅しと言う感じだった。

栄光と落日

小栗はフランス公使のレオン・ロッシュから欧州は蚕が病気で品不足にあり、アジア産の生糸を直接フランスに輸出出来ないかと相談を受けた。
今までの仕組みだと、イギリスの流通網を利用する関係上、手数料を支払う事になり、費用が嵩むので、生産者である日本から直接購入して、手数料を抑えたいのである。
意図を理解した小栗は見返りに技術、語学、武器などの軍需物資などを求める計画をまとめ、慶応元年(1865)8月、組合商法を幕閣に建議している。
日本の大商人数名とフランスの大商人数名とで「交易組合」を結成し、その代理人として日本人一人をパリに、フランス人一人を横浜に在留させ、ときどきの相場を通報しあい、利益のある商品を「交易組合」で出金して輸出入し、損益も平等に割合う、という計画である。
この計画の為にフランスから日本事務取扱という肩書で慶応2年(1866)正月にパリの銀行家フルーリ・エラールが、日本が中国に次ぐビジネス市場と見てフランス資本家集団の経済使節として帝国郵船会社副支配人のクーレーが同年6月に来日した。
クーレーと幕府との協定は同年8月にイギリス・フランスの共同融資による600万ドル借款契約成立、9月にはフランス輸出入会社と日本の商業・航海大会社による業務提携を結んでいる。更に江戸、大坂、京都の特権商人と結びながら、全国の商品流通網を抑えようとした。
金融面では、旧知の三野村利左衛門が三井家に入り実権を握っているのに目を付け、三井家が江戸や大坂の商人に融資したり、大坂の特権商人達を通して、兵庫商社を設立している。
600万ドル借款はざっくり言えば、イギリスのオリエンタル・バンクとフランスのソシエテ・ゼネラルの共同出資。イギリスが1枚噛んでいるのは、フランスが日本に銀行を持たず、金融上イギリスの銀行を通さないと、大金を融資出来ないからである。
借款の返済には一分銀、銅、日本米を充てた。

慶応2年(1866)5月13日、老中・水野(みずの)忠精(ただきよ)(出羽山形水野家当主。5万石)と四ヵ国代表との間に、江戸協約(改税約書)が調印された。

協約のなかには、税率改訂のほか外国との交通・貿易を積極化するような諸条項がある。
それは、武士・百姓・町人にも外国船の購入を認める事、すべての日本人は、日本、外国問わず外国人と自由に取引できる事、すべての日本人は、所定の旅券を得れば、外国に旅行できる事、などである。
このうち外国旅行の許可については、協約の調印より一ヵ月以上もまえに、幕府みずからこれを全国に布告している。

小栗に従って関税改訂の事務に参加した田辺(たなべ)太一(やすかず)は、「小栗は、茶や生糸の製造からその市場に流通する状態などをよく知っていて、実に感服のほかはなかった」と述べている。

さて、この頃に第二次長州征伐が行われているが、小栗はずっとフランスとの業務提携に掛かりきりで、長州征伐には手を出していない。
というか、長州の賠償金、横須賀の造船所で出費がかさむ中の長州征伐である。
この時、勝海舟も軍艦奉行として復帰して同年5月28日に小栗と対面し、600万ドル借款や長州など反幕府的な大名を潰して郡県制を導入、という話を聞いたと後年、新聞談話に載るのだが、長州征伐の言い出しっぺを勝、大久保利通木戸孝允は会津松平家と主張した。当の会津は孝明天皇に老中をクビにされた松前崇広や阿部(あべ)正外(まさと)(陸奥白河阿部家当主。10万石。)が第二次長州征伐の言い出しっぺで、2人がいなくなると、老中の小笠原長行や板倉(いたくら)勝静(かつきよ)(備中松山板倉家当主。5万石)が強硬論を主張したとある。更に当主・松平(まつだいら)容保(かたもり)が「天皇の住まいに直接砲弾ぶち込んだ奴は死罪、領地召し上げ」が当然だけど、それを実施したら落とし所が無くなる。西日本の諸大名は落とし所として毛利家親子の命を助ける代わりに、謹慎させ、周防一国を没収するのが妥当だと提案していると報告し、その線で事態を収めるのが一番であると主張した。

幕府も孝明天皇もこの線で進めようとしたが、困ったのが長州毛利家である。慶応2年(1866)初頭に締結された薩長同盟の裏書では、朝廷や幕府に対して長州の正義を遮る一会桑政権が敵と明記されている。

薩摩も長州も会津のせいで不利益を被った被害者同士、会津が強硬論を吐いていると世論を誘導した。

幕府側は誰が言い出しっぺか良くわからないままで戦いにヤル気が無いし、戦争で米が大量に消費されるからと買い占めと出し惜しみから米の値段が爆上がり、大坂では打ちこわしが起き、江戸では小栗が長州征伐の言い出しっぺと見做され、米の値段が爆上がりなのは小栗が悪いと小栗叩きが行われていた。

米の値段を下げる為にロッシュに頼んでサイゴン米を輸入したり日本国内の備蓄米を放出して米価を下げた。

第二次長州征伐に際して幕臣・福沢諭吉が慶応2年(1866)7月29日に江戸で木村芥舟に手渡し、木村が大坂に出張した同年9月6日に老中・小笠原長行に上申した「長州再征に関する建白書」が当時の意識高い系幕臣の気分を記している。「外国の兵」を頼んでも「防長二州を一揉(ひともみ)に御取潰し相成」、その余勢をかって「他諸大名をも一時に御制圧遊ばされ、京師をも御取鎮めに相成」、ついに「全日本国封建の御制度」を一変することを説いている。金が足りなければ、長州の領地を幕府が直轄地にして、その収入を充てれば良い、と記している。

小栗も戦地で兵站を担当していた小野から戦況報告を受けて、長州が制度、武器が統一されて、指揮官、兵隊ともに良く訓練されて、実戦経験があるのに対して、幕府軍は大名家ごとに制度、武器がバラバラ、実戦経験も無く、これで勝てるのは無理筋であると聞くと、軍制の再編が必要と痛感し、フランスに陸軍の再教育を依頼した。海軍もそろそろ再教育が必要とロッシュに相談したら、ロッシュはフランス丸投げはイギリスが嫉妬するから、海軍はイギリスが世界一なので、そちらにお願いしますと、助言された。

第二次長州征伐は小倉城や浜田城を長州軍に占領され、将軍・家茂が病死した為、幕府側が「よっしゃ、今日はこれぐらいにしといたるわ」と休戦を発表、長州側は不満タラタラで小倉城、浜田城を占領したまま休戦となる。

その後、孝明天皇が崩御し、朝廷側は明治(めいじ)天皇(てんのう)が践祚、即位し、幕府側は一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)が徳川宗家の家督を継ぎ、周りから推薦される形で15代将軍・徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)となった。

慶喜は側近の(はら)市之進(いちのしん)永井(ながい)尚志(なおむね)らと共にオランダ留学から帰国した西(にし)(あまね)にオランダやイギリスで運用されている立憲君主制を学び、この制度で将来の日本を動かそうと薩摩や福井松平家と手を組んで政局をこちらに引き込もうとした。

小栗たちはフランス式の郡県制で中央集権的な体制を模索しており、フランスからの陸軍顧問団やイギリスの海軍教育、中央銀行の創設、地方行政の再編、鉄道の敷設計画などを実施していたが、余りにも短期間に多くの事業を立ち上げた為、金が足りないのである。
しかし、「借りてしまえばこちらのものだ」と借款を組んだが、相手もバカではない。イギリスが幕府使節団の通訳で二重スパイのシーボルト*19から借款契約を本国の議会に報告。追加の担保案件に樺太の鉱山採掘権と蝦夷地の森林伐採権が有るのを聞くとイギリスは幕府から手を引いた。樺太が当時、日本とロシア帝国が領有権を主張し、両国民の雑居地となっていた。イギリスが担保に樺太を認めると日本に樺太の領有権を認める事になり、樺太の為にロシアと戦争するというのは割に合わないからである。フランスもパリ万国博覧会に派遣した幕府使節団と薩摩島津家が琉球国代表として鉢合わせ、幕府は大名同盟の盟主で、島津家と同じ大名に過ぎないとネガキャンを展開、フランス側も顔色が曇ってきた。フランスもアメリカ南北戦争*20のどさくさ紛れにメキシコに内政干渉戦争*21をして敗北。

プロイセンはいつまでもフランスとロシア帝国の間に挟まれた国ではダメだと一念発起、周辺の小国を統合して一大帝国を作るにはオーストリアやフランスの影響力を取り除く必要があると産業革命や軍制改革に成功、人口爆発も手伝って国力を飛躍的に増大させ、1866年に行われた普墺戦争でプロイセンはオーストリアに圧勝、次はフランスと目標を定めた。

薩摩はパリに派遣されていた家老・岩下(いわした)方平(かたひら)が報告書でフランスはプロイセンと戦争するかも、だから日本に掛かりきりにならない、今がチャンスと記している。

似て非なる慶喜と小栗のやり方だが、外から見ると出来映えが良く、木戸孝允は「慶喜は馬鹿に出来ない。コチラがウダウダ時間を無駄にして、徳川に先手を取られる様だと、実に家康の再来を見ているようだ」と評価した。
アンチ徳川の木戸でこの評価なら、奥羽の諸大名からしたら、「徳川はあと10年は戦える」と評価してもおかしくないだろう。

慶応2年(1866)11月、駐日イギリス公使パークスは小栗を「政府に高く信頼されている」と評した。

孝明天皇の住まいに砲弾をブチ込んだ長州毛利家と同盟相手の薩摩島津家へ徳川幕府打倒の口実として討幕の密勅を慶応3年(1867)10月13日に薩摩島津家へ、翌14日には長州毛利家へそれぞれ下した。
同年10月14日、幕府が大政奉還を行った為、薩摩島津家家臣・吉井友実(よしいともざね)は先に派遣された益満休之助(ますみつきゅうのすけ)伊牟田尚平(いむたしょうへい)に破壊工作の一時中止を書状で指示しているが、雇われたテロリストが、俺達の時代が来た!と関東各地で集団による破壊活動を繰り広げた。

大政奉還の情報が江戸に伝わると、小栗は「大政奉還は薩長の謀略なり、一度掴んだ権力を手放すのは幕府の滅亡を意味する」と強硬な反対論を主張した。

この後、慶応3年(1867)12月9日、「王政復古の大号令」が薩摩島津家、土佐山内家、越前福井松平家、安芸広島浅野家(42万6千石)、尾張徳川家(61万石)と岩倉具視(いわくらともみ)らにより実施され、幕府、摂関政治の廃止、総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職を置き、諸事神武創業の始めに基づき、至当の公議をつくすことが宣言されたが、実際は徳川慶喜が日本国大君として外交権、土地、金は徳川宗家が握ったままだった。

当日夜の小御所会議にて薩摩の大久保利通は慶喜の辞官納地を主張し、会津と桑名を京都守護職、京都所司代を廃止した上で帰国させる勅命を出し、言う事を聞かなければ、朝敵として討つという提案を岩倉具視に提出している。

江戸で薩摩系テロリストの横行を見ていた小栗は今こそ、承久の乱の様にコチラから打って出るべきじゃないか!と主戦論を主張、新徴組を率いて江戸市中取締役を担当する出羽庄内酒井家家老・松平(まつだいら)親懐(ちかひろ)「江戸の民衆は今、泣いているんだ、それが分からないのか?」と主戦論を主張、慶応3年(1867)12月25日、証拠を握った酒井家は大政奉還・王政復古後も治安維持権限は徳川家にあることを理由にテロリストの引渡しを要求するも拒絶され、薩摩島津家屋敷、その分家・日向佐土原島津家屋敷を焼き討ちし、捕縛浪士57人、首5を挙げ、大坂にいる徳川軍の尻を叩いた。

最期

慶応4年(1868)1月3日に鳥羽街道と伏見の市街地ほかで行われた戦いで徳川軍は薩摩島津家と長州毛利家の洋式軍隊に完敗。徳川慶喜は夜逃げ。徳川軍は全軍総崩れからの撤退となり、雰囲気は最悪だった。

徳川海軍が中心となり、残りの兵や金を集めて江戸に戻った。

小栗は軍艦頭並・榎本武揚や歩兵奉行・大鳥圭介やフランス軍事顧問団と迎撃作戦を練り、『軍艦を駿河湾に廻して敵の退路を断ち、敵軍を箱根以東に誘い入れて置いて、江戸付近でこれを討てば、援軍は来るのに道が無く、敵軍は袋のネズミであろう。軍用金の調達の如きは、忠順が誓ってこれを用意しましょう』と慶応4年(1868)1月12日、江戸城に登城して建議している。

後にこれを聞いた太政官側の大村益次郎(長州毛利家家臣。軍務官判事)が「これをヤラれたらクビが飛んでいた」と話し、そばにいた江藤(えとう)新平(しんぺい)(肥前佐賀鍋島家家臣。軍監)は「小栗はバカだ!何故、兵を率いてクーデターを起こして権力を握らないのか?」と笑っていたが、後に明治6年(1873)の政変で江藤は小栗と似たような立ち位置になる。

しかし、慶喜は主戦論に乗れず*22、慶応4年(1868)1月15日、登城すると江戸城芙蓉の間にて、老中・酒井(さかい)忠惇(ただとし)(播磨姫路酒井家当主・15万石)から全ての職を罷免される。
同年1月17日、大鳥圭介が来客。大鳥の話だと、「拙者も領地に引っ込んで鉄砲の2、300挺を持って農兵でも養おうと思う」と語っていた。
同年1月28日、引退、帰農の願い出を提出し、認められる。
同年2月14日、徳川陸軍の古屋(ふるや)佐久左衛門(さくざえもん)*23、三野村利左衛門が訪ねる。
古屋は小栗を担いで太政官と一戦交える気なのだが小栗は「既に天下の大勢は決した。天下泰平した後、必ず内輪揉めが始まる。その時、徳川再興の旗を掲げる。また、その様な事態が起きない時は、政府に従わない頑民として一生を送ろうと思う」と語った。
三野村は三井家で金を出すから、アメリカに亡命しないか?と勧めてきた。
この時小栗は夫人が妊娠しているので、気持ちだけ受け取ると言って断った。
同年2月28日、神田駿河台の屋敷を出発、不要になった千両箱に書物や小銃20挺と弾薬、家財道具を詰めて運んだ為、後年、徳川埋蔵金伝説が誕生した。
小栗一行は同年3月1日、知行地の上野国群馬郡権田村(今の群馬県群馬郡倉淵村)に到着し、東善寺を仮住まいにした。
小栗は権田村に学校を創設して将来、日本を担う人材を育て、社会に送り込むぞ!と豪語していた。文字通り、グレート=G・ティーチャー=T・オグリ=Oの爆誕である。
世直し一揆が小栗の住まいに埋蔵金があると思い襲来すると、小栗は農兵を率いてこれを撃退した。
この行為が太政官への反逆と見なされ、同年閏4月4日に捕縛され、慶応4年(1868)閏4月6日に烏川の水沼河原で斬首された。
小栗は息子として養子の又一がいたが、彼も捕縛され、翌日斬首された。
家族は小栗農兵に守られて会津、東京と転々として、三野村利左衛門が全力で保護した。
会津で道子は忠順の子、国子を出産した。 
三野村没後も三野村家が保護していたが、明治18年(1885)に道子が亡くなると、国子は小栗の父方の血縁である大隈綾子(おおくまあやこ)の夫である大隈重信(おおくましげのぶ)に引き取られた。
明治19年(1886)12月、大隈の勧めで矢野貞雄(やのさだお)と結婚し、矢野が小栗家に婿養子となり、小栗家は再興する。
明治45年(1912)7月、帝国海軍の東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は自宅に小栗貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べた後、仁義禮智信としたためた書を又一に贈っている。

評価

幕臣の田辺太一は
「積弱積貧の幕府をして、伏見の一役まで、其命脈を保維せしめしは、実に小栗の力にありといふも、虚誉ならざるべし」

福地(ふくち)源一郎(げんいちろう)
「小栗が財政外交の要地に立ちし頃は、幕府(すで)に衰亡に瀕して、大勢(まさ)に傾ける際なれば、十百の小栗ありと雖も、復、奈何(いかん)とも為す可からざる時勢なりけり。然れども小栗は敢て不可的(インポシブル)の詞を吐たる事なく、病の()ゆ可からざるを知りて薬せざるは孝子の所為に非ず、国亡び身斃るる迄は公事に鞅掌(おうしゅう)するこそ真の武士なれと云ひて(たよ)まず、身を艱難の間に置き、幕府の維持を以て進みて己れが負担となせり。少くとも幕末数年間の命脈を繋ぎ得たるは、小栗が与りて力ある所なり。」

勝海舟は
「小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の情勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無比の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。あれは三河武士の長所と短所とを両方具えておったのよ。しかし度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった」

小栗の遺児を養育し、妻が親戚関係にあった大隈重信は「明治政府の近代化政策は小栗の模倣に過ぎない」と評している。

戦前の作家・中里介山は作品・大菩薩峠の中で小栗を幕末の石田三成と評している。

戦後の作家・司馬遼太郎は著述・明治という国家の中で小栗を明治国家の父と評している。竜馬がゆくでは売国奴みたいな書き方してたのにな。

メディア

知る人ぞ知る偉人といったところなので、幕末を題材にしたドラマではたまに脇役として出てくる程度。
あとは単発のTVSPドラマで主役に選ばれることもあるといった具合。
また、徳川埋蔵金絡みで取り上げられることも多く、現代を舞台にしたミステリー『謎解きはディナーのあとで』では埋蔵金絡みの事件の時に、歴史回想として登場したりもしている。
ただ、渋沢栄一を主人公とした2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、主人公が経済方面で活躍した幕臣であったことから、小栗もピックアップされ、栄一と絡むことこそなかったもののネジを手にした印象的な役柄で注目を集めた。
そして、小栗の生誕200年となる2027年に、遂に彼を主人公とした大河ドラマ『逆賊の幕臣』の放送が決定した。

映像作品

NHK大河ドラマ

  • 『竜馬がゆく』(1968年、演:安井昌士)
  • 『勝海舟』(1974年、演:原保美)
  • 『龍馬伝』(2010年、演:斎藤洋介)
  • 『青天を衝け』(2021年、演:武田真治)
  • 『逆賊の幕臣』(2027年、演:松坂桃李【主演】)

その他のTVドラマ

  • 『テレビ劇場 ワシントンの日本人』(1960年、NHK、演:川辺久造)
  • 『大奥』(1968年、フジテレビ、演:芦田鉄雄)
  • 『上方武士道』(1969年、日本テレビ、演:渥美国泰)
  • 『新選組始末記』(1977年、TBS、演:幸田宗丸)
  • 『夫婦ようそろ』(1978年、TBS、演:中野誠也)
  • 『影の軍団・幕末編』(1985年、関西テレビ、東映、演:夏八木勲)
  • 『勝海舟』(1990年、日本テレビ、演:風間杜夫)
  • 『悲運の幕臣 小栗上野介』(1991年、群馬テレビ、演:石橋正次【主演】)
  • 『竜馬におまかせ!』(1996年、日本テレビ、演:石丸謙二郎)
  • 『あの勝海舟が最も恐れた男、サムライ小栗上野介!〜世紀末を救うもうひとつの幕末ヒーロー伝説』(1998年、テレビ朝日、演:和泉元彌【主演】)
  • 『またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介〜』(2003年、NHK、岸谷五朗【主演】)
  • 『謎解きはディナーのあとで スペシャル〜風祭警部の事件簿〜』(2013年、フジテレビ、演:小林タカ鹿)

ゲーム

  • 『維新の嵐』シリーズ(コーエー(現:コーエーテクモホールディングス株式会社))
PC9801版ではシナリオ1、2、3の佐幕派側の主人公として選ぶことができる。
続編の「維新の嵐・幕末志士伝」では奉行として学力・兵学・国外見識、国内見識に高い人物として登場する。

  • 漫画『氷室の天地 Fate/school life』の作中ゲーム『英雄史大戦』で偉人カードとして小栗忠順が登場。作中プレイヤーである木下の「マイナー日本偉人デッキ」の一人。「ぼくの考えた最強偉人募集」という読者投稿企画で採用されたキャラクターで、能力(宝具)は「徳川埋蔵金」と身も蓋もないモノ。お金の湧き出る魔法の壺でも持っているのかと思えば、今現在も埋蔵金が発見されていないという事実から、莫大な資金を生み出す鉄壁の防御陣を生み出すという捻った能力になっている。

余談

『花さか天使テンテンくん』で知られる漫画家の小栗かずまたは小栗の末裔(玄孫)で、格闘家の武蔵も血がつながっているとか。なお、武蔵の父親は「先祖を無実の罪で処刑に追いやった」と勝海舟を憎んでいるという。



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最終更新:2025年04月22日 22:52

*1 神奈川県横須賀市

*2 遠国奉行は京都・大坂・駿府の各町奉行と、長崎・伏見・山田(今の三重県伊勢市)・日光・奈良・堺・佐渡・浦賀・下田・新潟・箱館・神奈川・兵庫の各奉行の総称である。伏見のみ大名ないし5千石以上の旗本が担当し、他は旗本しかも1000〜2000石前後の旗本が担当する。父・忠高も新潟奉行であった。

*3 対馬側の漁民を保護したりで付き合いがある

*4 関東郡代(関東圏30万石の徳川直轄地を担当。)、美濃郡代(美濃国中西部と伊勢国桑名郡の一部の幕府直轄領19万石を担当)、西国郡代(九州の徳川直轄領16万2千石を担当)、飛騨郡代(飛騨国全域ならびに美濃国の山間部、越前国および加賀国の一部に所在した幕府直轄領11万4千石を担当)。

*5 明治の太政官も抜擢枠から外れた人達が『有司専制』と遠吠えするので、実は大差がない。

*6 今まで、諸大名は1年おきに江戸と国元を往復することが義務となっていたが、3年に1回とし、大名妻子の帰国を許した。大名の経済的負担が減り国防に金を使える様になったが、大名を支配する幕府の力は衰えた。

*7 現在の人材派遣会社

*8 饅頭、煮豆、ふかし芋などを作り、自分だけで食べずに、時には家臣たちに振る舞った家定の話をその様に断罪した。

*9 これには生麦事件や長州の外国船砲撃事件が含まれる

*10 公使オールコックは休暇中。

*11 厳密には長州の分家筋の領地

*12 長崎海軍伝習所、築地軍艦操練所

*13 観光、咸臨、朝陽、蟠龍

*14 勝はヤル気が有れば多少の学力の無さは目を瞑る教育者だったが、小野は学力が基準を充たすまで進級させない教育者で、特に小野の得意分野である和算、洋算は当時の武士階級が苦手にしている分野で勝も洋算は苦手にしていた。

*15 当時の日本は長州の奇兵隊などは休みを1日、15日の2日と定めたが、これが当時の標準というモノらしい

*16 禁裏御守衛総督・一橋慶喜(御三卿一橋家元当主。10万石)、京都守護職・松平容保(陸奥会津松平家当主。28万石)、京都所司代・松平定敬(伊勢桑名松平家当主。11万石)。3者の頭文字を取ったモノ。

*17 松前崇広(蝦夷松前家当主)、小笠原長行など。

*18 永井尚志、平山敬忠、塚原昌義など。

*19 シーボルトの子供

*20 1861〜65まで行われた内戦。

*21 1861〜67年までフランス帝国がオーストリア帝国から招いた皇帝フランツ・ヨーゼフの弟、マクリミリアンをメキシコ皇帝にして傀儡政権を樹立したが、南北戦争が終わったアメリカの圧力とメキシコ共和国・ファレス大統領の抵抗により、フランスは撤退し、マクリミリアンは処刑された。

*22 イギリス、フランス共に日本でガチバトルをする気はなく、第三国に漁夫の利を取られないように見張っているだけである。事実、4月頃にロシア帝国が樺太に来るという話を聞くと、イギリス艦艇に乗船してフランス軍事顧問団が樺太を視察している。戊辰戦争になるとイギリス軍は横浜で居留民保護、フランス軍は横須賀造船所を保護する為、兵を出している。

*23 筑後久留米有馬家(21万石)の庄屋の次男。旧姓高松。武芸、西洋兵学を学び、幕臣・古屋家に養子に入る。江戸で兵学塾を主催していた。弟に奥医師の高松凌雲がいる。