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水木しげる

登録日:2011/09/18 Sun 01:01:41
更新日:2026/08/13 Thu 20:53:46
所要時間:約 8 分で読めます




水木(みずき)しげるは、日本の漫画家。
本名:武良(むら)(しげる)*1

代表作に『ゲゲゲの鬼太郎』、『悪魔くん』、『河童の三平』などがある。


プロフィール

生年月日:1922年3月8日
没年月日:2015年11月30日
出生地:大阪府西成郡粉浜村(現:大阪市住吉区東粉浜)
出身地:鳥取県境港市入船町
最終所属:水木プロダクション

家族

  • 祖父:武良辰司(実業家)
  • 父:武良亮一(会社員、銀行員等)
  • 母:武良琴江
  • 兄:武良宗平
  • 弟:武良幸夫(水木プロダクションゼネラルマネジャー)
  • 妻:飯塚布枝
  • 長女:武良尚子(水木プロダクション社長)
  • 次女:武良悦子(水木プロダクション勤務)

概要

陸軍二等兵として戦争を体験したのち、終戦後より紙芝居、貸本漫画などを執筆。その後、商業誌デビューし、妖怪を扱った作品により人気作家となる。

また妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任、調布市名誉市民にも選ばれている。
さらに、水木しげる記念館が境港市に作られた。
はっきりと言ってしまえば、後発の妖怪に関する創作の表現や演出の大半は全て水木しげるによる研究による独自の考察や彼自身によるオリジナルとして作られた設定の影響に基づいたものである(まっ平な「ぬりかべ」、人間の姿をしている「砂かけばばあ」、そもそも伝承自体疑わしい「がしゃどくろ」、複数の他者の創作物を合成して作り上げたオリジナルの妖怪とされる「バックベアード」など)。
先人の描いてきた妖怪像を現代に甦らせ、さらには新たな妖怪像を創りあげた、鳥山石燕らと並ぶ妖怪史に残るであろう妖怪絵師である。

生涯

5歳の頃のある日に「」に対して興味を抱き、3歳の弟を海に突き落とそうとしたが、
近所の大人に見つかり、両親に叱られた上に、大叔母に「やいと(灸)」を据えられた。これはれっきとした殺人未遂である。

高等小学校卒業後に印刷所に住み込みで就職するが、朝早い仕事のため睡眠不足となり、寝そべっていた主人の頭を座布団と間違えて踏みつけ、解雇された。
その後、別の就職先では、自転車での外回りの途中、太鼓の製作光景を一日中眺めるなどのサボりっぷりが問題視され、また解雇された。

この頃から絵が得意であったため、美術学校に進んで画家になろうと思い、その前段階の学歴のために園芸学校を受験するが、
50人募集に対し51人の応募があり、水木のみが不合格になった(筆記試験の出来が悪かったわけではなく、面接試験において、将来の目標についての他の受験生の模範解答が「満蒙開拓義勇軍に入ります。」だったところ、茂は「画家になります。」と正直に答えたためではないかと推測されている。なお、この結果に茂本人も惨めさを覚え、「満蒙開拓義勇軍に入るといえばよかったのかな。」と父親にこぼしたが、父親は「本当に行くことになったらどうするんだ。」と言い、優しく慰めたという)。

また、彼は戦争経験者であり、20歳の時、徴兵検査をうけ、21歳の時に招集を受け、本籍地の鳥取連隊に入隊がきまった。
軍隊生活でもマイペース振りを発揮し、その大胆な態度から風呂で将校と間違われて古年兵に背中を流してもらったが、
間もなく新参の二等兵とばれて、張り倒された。

失敗の連続だったため、ビンタ・ビンタで初年兵教育を終え、ラッパ卒になったが、ラッパは上手く吹けず、配置転換を申し出た。
最初は取り合ってもらえなかったが、三度目に曹長から、

「北がいいか、南がいいか。」

と尋ねられた。
茂は寒いのが嫌いなので

「南であります。」

と答えた。
てっきり九州など国内の南の連隊への配属だと思っていたが、南方のラバウル行きが決定し青くなった(なお、そのままラッパ卒を続けていれば、終戦まで内地に残れたはずだった)。
上司の質問に気軽に答えちゃ駄目ということを、身を以て教えてくれた。


ちなみに、茂の部隊以降、ラバウルに派遣された部隊は全て途中で敵に沈没させられた(つまり茂の部隊がラバウルに辿り着いた最後の部隊だった)という。
なお、この時にパラオ―ラバウル間を運んだ船は「信濃丸」である。
1900年に竣工し、日露戦争でも活躍した、当時の船齢40年以上の老朽船である。
茂が「触っただけで船体の鉄板が欠け落ちた」とか。

ラバウルに着いてからも、殴られるのは日常茶飯事だった。おかげで、「ビンタの王様」というあだ名がついたという。

ニューブリテン島ラバウルでは、分隊長である上官の不興を買い、隊列から離されてビリケツの不寝番を命じられたが、それが幸いしてか分隊が敵の急襲を受け全員戦死する中、ただ一人生き残る結果となった。
ようやく敵の目を逃れて崖を這い登ったと思えば日本軍と敵対する部族と鉢合わせし、その上マラリア蚊の大群に襲われ、悲惨な逃避行を辿ることになる。
やっとのことで本隊に帰還するが、いざ帰隊すれば上官から「敵前逃亡した」「なぜおまえだけ生き残った、次は必ず死ね」と叱責された。

戦地での過酷な経験は、茂の心に深い傷を残した。
長女の尚子女史によれば、晩年の茂は戦争の事ばかり話すようになり、悪夢にうなされ、目が覚めると家族に「ここはラバウルか?」と聞いたという。

戦時中、茂はマラリアを発症する。療養中に敵機の爆撃を受けて左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けた。*2
妖怪よりも恐ろしい話である。
腕を切断される痛みをほとんど感じないほどひどい状態だったため、軍医をはじめとした周囲は「死ぬのも時間の問題」とみなしていたが、茂は生まれつきの旺盛な食欲を発揮して一命を取り留め、周囲を驚かせたという。


現地住民*3にも親切にしてもらい、マラリアもすっかり良くなった茂は、駆逐艦隊にて復員した。
この時に彼を乗せたのが、妖怪同然の異能生存体の雪風である。
前述の信濃丸も戦争を生き延びていたりするなど、彼の関わった船も強運持ちであった。

片腕を失ったことに対して茂は、

「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう。」

と語り、さらに

「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか。」

という問いには、

「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある。」

と答えている。

因みに両親は、

「右手で何でもするような子だったから、丁度良い。」

と答えている。

終戦後、職を転々として貸本漫画家を始める。「水木」のペンネームは当時大家をしていた集合住宅の名前から取った。
しかし、鳴かず飛ばずのままで気付けばもう39歳。実家からは心配され、お見合いをすることに。
ところが、見合いから結婚式までわずか5日というスピード婚(当時細君は29歳)。
これが、後の『ゲゲゲの女房』である。

茂に、奥さんの何処が良いのか質問したところ、

「ほら、空母みたいで安心するでしょ。顔が。

と答えている。

子供が生まれても相変わらずの貧乏生活のまま、水木はペンを走らせ続けた。
その時に描かれたのが貸本版『悪魔くん』や『墓場鬼太郎』であり、革命的な描写が多いのも本人の想いだったのだろう。
1965年、『別冊少年マガジン』に掲載した読切漫画『テレビくん』が好評を博し、講談社児童まんが賞を受賞。この時は既に43歳。
同年に『マガジン』に掲載された『ゲゲゲの鬼太郎』は当時の怪獣ブーム、怪奇ブームも手伝って爆発的なヒットを記録し、
あれよあれよという間にアニメ化が決定、一躍国民的マンガに。
こうして水木は遅咲きのスタートを飾ることとなったのである。
何分、メジャーデビューが遅かったのもあり、本人が頑として夜更かしや早起きをしない体質のため、
一番忙しかった時期には庭の柿の木を数秒眺めるくらいしか休憩が取れなかったとか。

1980年代以降はネームと下描きのみを担当しペン入れを村澤昌夫や森野達弥*4といったアシスタントに任せる事も多くなったが妖怪画の色塗りに関しては生涯こだわり続け、彩色を担当した村澤氏が重ね塗りをした所「薄い方から塗らないと駄目だ。」と駄目出し、以後は色塗りを任せなかったという(昌夫の証言より)。

2015年11月11日に自宅で転倒して頭部を強打し、急性硬膜下血腫となって緊急手術を受けた。入院中に頭部打撲は回復したものの、同年11月30日未明に容体が急変し、多臓器不全のためで死去した。93歳没。

遺作は、死の半年前まで「ビッグコミック」で連載された『わたしの日々』となった。

余談

そんな茂は名言を残すことで有名であった。

「自殺者が増えていることに対してどう思うか。」との問いに対して
「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」

「好きなことをしなくて、生きている意味がありますか。」

「眠ってる時間分だけ長生きするんです。幸せなんかも『睡眠力』から涌いてくる。『睡眠力』こそが全ての源ですッ!!」→「…というわけで(手塚治虫、石ノ森章太郎)両氏は早死にしてしまったんだなあ」
ちなみに同じく長命の漫画家であったやなせたかしも、茂の意見に賛同している(さらに、両者は従軍経験のある遅咲きの漫画家という共通点もある)。
そもそも 手塚&石森の展覧会 のゲスト寄稿で「寝ないから2人は早死にしてしまったんだなあ」というオチの漫画を出せるのは彼しかいなかっただろう。

また、毎日午後4時に兄と弟を自宅に招き、お茶会という名のモクモクと甘いものを食べる会を開いていた。

食べ物に関しては、赤子の頃から大食漢で、その食事の姿から「ズイダ」と呼ばれていた。
好物はすき焼きで、天麩羅は苦手らしい。超が付く下戸で、酒は全く飲めない体質。
その食欲は90歳を過ぎても衰えることはなく「メガマック」、「ドミノピザ」、「ケンタッキーフライドチキン」等を平らげていた。

長女は母親に何処か似た普通の顔、次女は父親似の顔で漫画に描かれている。
因みに、後に茂の次女・手塚治虫の長女・赤塚不二夫の娘が対談した時、
「手塚家の息子*5が水木漫画等怪奇ものを見て喜んでいる頃、水木家の姉は手塚漫画を見て喜んでいた。」と明かしている。

自宅の近くにある本屋に水木しげるのコーナーがあり、ちょくちょく来店しては自分のコーナーから本を買って行ったらしい。
また、自分のコーナーから宣伝用のポップまで持っていってしまう。

なお、生前から冗談半分に「生ける妖怪」として名を馳せただけあり、訃報が伝えられた当時、各種ソーシャルメディアなどでは
「ついに本物の妖怪になったか。」
「取材旅行ですね、お気を付けて!」
「新天地でのさらなる御活躍をお祈りします。」
と、実に和やかな追悼のコメントが飛び交った。





追記・修正したければ、させてあげればいいじゃないですか。
彼らは好きでそうするんですから。

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最終更新:2026年08月13日 20:53

*1 武良と言う苗字は全国的には珍しいが、境港市にはたくさんある。

*2 茂の死斑が出来る程の左腕負傷の激痛とマラリアの高熱による意識混濁の症状により、その処置が適切であると判断された

*3 原住民のトライ族。トライ族の人々は、彼らも戦争に巻き込まれて苦しい生活を強いられている中で、高熱に苦しむ茂に果物を届けるなど、親身に世話を焼いた。とくに当時少年だった「トペトロ」は生涯最大の友の一人となり、後年、彼が酋長となってからも友情は続いた。酋長格のイカリアンというお婆さんが茂のことを気に入っており、「家と嫁と畑を世話してやるから残れ」とまで言うほどであったという。イカリアンからの誘いを受けて茂も永住を考えたものの、軍医から「包帯を巻いている左腕の切断面から骨が出てしまっているから、再手術しないと死ぬ可能性がある」と宣告され、帰国を余儀なくされた

*4 水木しげるの弟子の一人で、代表作に『もがりの首』がある。

*5 自主制作映画に父の伝手で茂や楳図かずおをゲスト出演させていて、手塚治虫と水木しげるが共に映る珍しい写真が残されている。