水島合戦

登録日:2025/05/07 Wed 00:00:00
更新日:2025/05/08 Thu 12:37:59NEW!
所要時間:約 24 分で読めます



伝承に曰く、かつて太政入道相国平清盛は、音戸の瀬戸 (現在の広島県の海峡) の開削現場にて述べた。

「かえせ、もどせ」

すると沈みかけた夕日は天へ登り、大詰めだった工事は無事に完遂したという。

それから18年後、沈みかけた太陽(平家)が、今再び盛り返す。






【概要】

水島合戦(水島の戦い)とは、源平合戦こと治承・寿永の乱の中盤の1183年(平家物語では8巻)、西国・備中国水島(現在の岡山県)で発生した海戦である。かの旭将軍(史実では征東大将軍)木曽義仲(源義仲)を破滅させた重要な合戦。

……だがしかし、源平合戦の創作物では妙に存在感が薄い。近年の「アニメ平家物語」(2021年)では一瞬のみ、吉川英治の「新・平家物語」では、ずばり「水島合戦」の回はあれど、こちらも政略、戦略、戦術への言及は少ない。
中には俱利伽羅の戦い→木曾の最期→「鵯越の逆落とし」や「敦盛の最期」で有名な一の谷の戦いと展開し、水島合戦の水の字すら扱わない作品も多い。

しかし前後を掘り下げていくと、源平合戦のターニングポイントの1つであり、複数の偶然と必然が絡み合い、なにより稀代の傑物、新中納言平知盛の知略が光った、日本史屈指の完全勝利が達成された合戦なのだ。


【登場人物】


《平家》

  • 平清盛平安末のゴッドファーザー 既に故人。しかし死せども日本史屈指の文武両道の巨人。彼ら平家の本拠地は伊勢(現在の三重県)。ただし都落ち後は……?

  • 平知盛 …(推定)平家の軍事総司令官 控えめに言って化け物。都落ちの際、兄宗盛や平貞能と共に配下の坂東武者へ帰郷を許した美談、宗盛に譲られた愛馬「井上黒」との離別、壇ノ浦での凛とした最期など、魅力たっぷりな漢の漢、武士の中の武士。身体がやや弱いのが玉に瑕か。しかし本領発揮ともなれば……?

  • 平宗盛 …早世した兄重盛、道半ばに倒れた父清盛に代わり、平家の惣領として一門を率いる。平家物語では暗愚な2代目として描かれるが実態は……?

  • 平教経 …(推定)平家最強の前線指揮官……少なくとも平家物語では

  • 妹尾兼康 …平家の家人。俱利伽羅の戦いで木曽軍に生け捕りにされたが……?

《信濃源氏》

  • 木曽義仲 …本拠地は北陸(現在の長野県)。「俱利伽羅の戦い」に大勝し、平家を都落ちさせて上洛した。今回は足利義清をはじめとした配下を派遣しており、本人は参戦していない(これが幸か不幸かは後述)。

  • 足利義清 …信濃源氏 (木曽軍) の総大将。弟に源頼朝の義兄弟の 某平安末~鎌倉初期を描いた名作やる夫スレでは主人公 になった足利義兼をもつ。治承・寿永の乱の火ぶたを切った「以仁王の乱」へ参戦した。これに敗れると義仲に従い、北陸で平家軍の別動隊と激戦を展開した。このように歴戦の手練れであり、義仲の信頼も厚い将帥だったが……?

  • 海野幸広 …信濃源氏 (木曽軍) の侍大将。海野氏の末裔は、かの徳川家キラーとされる

  • 源行家通称: 平安末のキングボンビー 源為義(頼朝の祖父)の十男。熊野山伏との繋がりから新宮十郎行家と名乗っていた。政略・人脈・謀略、扇動には秀でるが、軍事能力には疑問が残る。「以仁王の挙兵」へ参戦して敗れ、尾張で勢力を立て直し、墨俣川合戦で平家と決戦に臨む……が、杜撰な戦術のために惨敗! 敗走・流浪を経て義仲と協調することになったが……?

《朝廷》

  • 後白河法皇 …頼朝に「日本国第一の大天狗!」と罵倒させた(異論あり)奇人。個性的なエピソードに事欠かない(最大限のオブラート)「策略家」と「暗君」とで評価が割れる。しかし義仲への態度は終始あまり良いものではなかった。

  • 九条兼実日記おじさん 朝廷の重鎮。真面目な性格のせいか、幾度となく不遇・不憫な境遇に遭う受難気質。だいたい日記で嘆いている。彼の日記「玉葉」は、当時を知るうえでの超一級資料

《鎌倉》

  • 源頼朝 …本拠地は鎌倉(関東)。後の征夷大将軍。義仲と表向きは協力関係だった。源平合戦では最初から最後まで鎌倉に引き籠ってると思われがちで、今回も鎌倉から動いていない……しかし目立って動くばかりが能ではない。

  • 足利義兼 …頼朝の義兄弟にして、「義経被害者の会」もとい「平家物語被害者の会」の裏会長。平安のモビルスーツの子との伝説もあるほどの巨躯と、抜群の軍才をもつ。 知盛・義仲・義兼の3トップか? 兄の義清は、転戦の末の義仲に従っていた。兄弟関係については議論中だが、一定の信頼があった可能性がある。

《その他》

  • 甲斐源氏 …本拠地は甲斐(現在の山梨県)「風林火山」で知られる武田信玄の先祖。「平家物語」では扱いが軽いが、実は治承・寿永の乱の重要な勢力の1つ。水島合戦までは源義仲と協調関係にあったが……?

  • 緒方惟義 …九州の平家の家人。都落ちした平家はまず九州の太宰府を目指したが……? また源範頼の渡海、源義経の都落ちにも関与するなど地味に重要な働きをする。やや素行不良の傾向あり



【木曽の背景】

※: あまりにも複雑なので、一部を抜粋して解説

鹿ヶ谷の陰謀、続く平重盛の病死、止まらぬ後白河法皇の傍若無人により、平清盛が治承三年の政変を起こし、全国に混乱が生じた。混乱に乗じた以仁王の挙兵を皮切りに、水鳥の羽音で知られる富士川合戦(源氏連合軍んの不戦勝)、行家のポカが酷い墨俣川合戦(平家Win)など、日本中で戦乱が勃発し、各勢力が一進一退の攻防を繰り広げていた。

木曽義仲が率いる信濃源氏(木曽源氏)も挙兵。横田河原の戦いなどに勝利し、北陸を中心に勢力を拡大していった。同時期に甲斐では甲斐源氏が、関東では頼朝らが、奥州(東北)では奥州藤原氏が一大勢力となっており、義仲は表面上彼らと協力関係を構築した。特に甲斐源氏は、その後の義仲上洛でも共闘しており、それなりに密接な繋がりがあったと考えられる。そうして体制を整えた義仲は、俱利伽羅・篠原の戦いで平家に圧勝、延暦寺を経由し、叔父の源行家などへ別動隊を指揮させ、半ば都を包囲するようにして上洛を果たした。
ここに木曽義仲の名声は頂点に達する!!! (/・ω・)/バンジャーイ

なお源行家は、ここぞとばかりにさぞ独立ですよと振る舞い、しれっと義仲に続く軍功3位を得ている 篠原では平家に押され気味だったのに?知らねーよwww 流石に義仲も困惑を隠せず、両者は緊張状態になったという。よ り に も よ っ て朝廷、院御所の論功行賞の場で。その他のゴタゴタも経つつ、義仲(とオマケで行家)には一定の官位が与えられた。

ところが当時の京は、度重なる出兵、養和の飢饉、平家都落ちの3連コンボで治安崩壊の北斗の拳ヒャッハー状態。そこへ冗談交じりとはいえ昨今ネット上で「蛮族」扱いされる源氏武者が、しかも数万人の大規模で乗り込んだものだから、カオスの天元突破。哀れな庶民はもとより、高貴な貴族、果ては皇族の荘園まで損害が発生した。義仲には平家に代わって都の秩序維持も期待されていたが、こんな様子では満足な統制は困難、いや夢物語だった。

しかも義仲軍は上述したように「源氏連合軍」であり、後の鎌倉幕府のようなトップダウン型の組織ではない。極端な話、付き従う武士たちの多くは勝ち戦の分け前……包み隠さず言えば、敵軍や目的地での略奪が目的である。北陸の粗野で猛々しい空きっ腹の狼の眼前へ、麗しの都が差し出されたのだ。我慢できる方がどうかしている。

大前提として、クレフェルトが「補給線」にて「十六~十七世紀の略奪戦争」と表現し、孫子も「智将は務めて敵に食む」と示したように、近代以前の軍隊は(程度の差や手段、河川の利用などを除き)基本的に兵糧を現地調達していた。
実際「平家物語」の法住寺合戦の冒頭にて義仲本人が述べた。

「華の都の守護者が、馬1頭も飼えないなんて話にならんぞ?田んぼなんざ山ほどあるんだから、少し馬の餌へ回して何が悪い?お馬さんが可哀想だろう??」(馬´・ω・`)オナカヘッタヨネー…(・ω・馬)ウマイモノタベタイヨネー…ウマダケニ(

部下だって人間なんだし腹ペコになる。ちょっと略奪したぐらいで騒ぐ理由になる?ならねぇよなぁ??? そりゃ大臣や宮家へ被害出したなら悪いが…(ry」( ゚Д゚)ナメテンジャネーゾ???

繰り返すが、当時の義仲が評価された理由は、「平家を都落ちさせるほどの武力があったから」に過ぎず、それ以外に朝廷が義仲を特別に重んじる理由はない。しかも坂東で地盤固め・組織づくりに励んだ頼朝と違い、義仲が率いる「源氏連合軍」は、腹心+勝ち馬に乗った地元や道中の勢力+独立勢力の甲斐源氏のため、配下の大半からしても義仲に従う強い動機はない。さらには義仲本人+腹心の多くが上洛へ参加したために、本拠地の北陸は半ばガラ空き(形式上は甲斐源氏や鎌倉と不可侵を約した)である。図らずも都の莫大な兵力のみが義仲の生命線となってしまったのだ。これを失えば朝廷に切り捨てられ、他勢力には一気に侵攻される。だから義仲本人の考えとは別に、軍勢を維持するため略奪を肯定し、行家の身勝手をも黙認したのである(行家は朝廷への数少ないパイプの1つだった)。

これと並行して義仲は皇位継承問題へ異議を申し立てるなど、朝廷(特に後白河法皇など)との関係を日増しに悪化させていった。後白河法皇からすれば、「犬去りて、豚来る」あるいは「犬去りて、狼来る」に陥り、義仲を排除せんと謀略を立て……たかは不明。よく後白河法皇は謀略家として知られるが、それは平家物語での脚色、平家物語の派生作品の影響が大きく、謀略を立てるだけの知恵を疑問視する指摘もある。 とはいえ経緯はともかく結果的に、義仲は念願の都にて、腫れ物に近い扱いを受けることになった。

「かくなるうえは再度平家を打ち破り、失われつつある名声を回復せねば……」( ・‘д・´)
この頃の義仲の心境を推察すると、ちょうど上記のようなものだっただろうか?



【平家の背景】

一方の平家は、俱利伽羅の戦いで惨敗し、情勢不利として都落ちした。平治の乱で官軍として凱歌を上げた栄誉から20数年、ここに平家は官軍から(実質的に)賊軍 一応、平家は安徳天皇を正統としているし、本来それが筋となった。

※: 平忠度や平経正の美談、小松家や頼盛の悲哀に関しては残念ながら省略

平家は清盛が夢見た旧都福原も放棄し、大宰府へ向かった。これは大宰府が宋国との交易で繁栄していた点、宋国との交易を数十年に渡って管理しており、現地との結びつきが強かった点が理由と考えられている。これは後白河法皇を軸とした京都に対し、一応は正統の証たる三種の神器と安徳天皇を奉じた「遠の朝廷」構想だったと推測される。
なお後の逃げ上手の若君のラスボスこと足利尊氏・足利直義の兄弟も、九州へ向かって都落ちしてから挽回し、平治の乱の序盤にて清盛も(実行はしなかったが)西国への都落ちを構想している。

( ˘ਊ˘)「太宰府へ内裏を造営するなどお断りします……昔は昔、今は今でございます」

ところが平家の不運は止まらない。大宰府へ腰を落ち着けたと思ったのも束の間、現地の平家家人のクソ鼻豊後緒方惟義らに拒絶されてしまう。これは後白河法皇らが平家の官職を解いたことが原因とされる。協議や多少の合戦を経て、なおも平家を支持する一部勢力と共に、一行は平知盛の知行国だった長門(現在の山口県)へ向かった。これが都落ちに続き平家没落として悲惨に描かれがちな太宰府落ちの流れである……


[暗愚な後白河法皇]「気分いいぜぇ!昔を思い出さぁアハハハ!」

[調子こいた緒方惟義]「これから死ぬ気分はどうだ平家ぇ!?」

[強がる木曽義仲]「てめえらはもう終りだぁ!」


(平知盛 ゚Д゚)「ふざけやがってぇぇ!!!」


……と思いきや実は悲壮ばかりではない。一説には、この都落ち~太宰府落ちこそ、平家の戦略だったと見なす推察があるのだ。

無論、太宰府が万端で九州を軸に中国・四国地方を支配し、後白河法皇や坂東武者と対峙するのも立派な戦略の1つでもあった。しかし平家は歴戦の武家。勝ち目のない希望的な観測による戦略に一門の命運を賭けるほど愚かではない。太宰府が駄目ならばと、次に白羽の矢が立ったのは屋島(現在の香川県)だった。同地の有力勢力だった田口成良は、以前から日宋貿易や南都攻めに参加するなど、清盛の信任が厚かった(平家物語では壇ノ浦で離反したとされるが、吾妻鑑では最後まで平家方だったとされる)。裁定でも100船単位、最大で1000船以上の大型船は、瀬戸内海を支配するに十分な物量だった。平家は放浪しながら船の調達(要は更なる戦力増強)を行い、それを屋島へ集結させている。

ゑ?('ω')「屋島?海の向こうだろ?船を造って攻めれば良いじゃんw」(^^)イケルイケル

と思ったそこの貴方。「お 前 は も う 死 ん で い る」 (・言・)9

何故か?インフラの発達した現代はいざ知らず、当時の大型船は海辺(せめて大規模な河川)で建造される。大型船を造るのには人・モノ・金、何より時間が湯水のように必要。しかも1隻建造して済む話ではない。軍船なら100船単位となる。軍船の建造だけでもコストが嵩むのに、積み込む武具、こぎ手の水夫の確保、戦闘員と水夫の食料etc……考えだしたらキリがない。

「そこでこの知盛は考える。はたしてお前らはどの程度……軍船を建造・運用できるのかと……200隻か?300隻か?ひょっとすると我らと同じ1000隻は既に所有しているが、分散配備しているのだろうか?……とね……どうなんだ?」(・∀・)9

(;^ω^)「まずいぜ……もう少し財力があっても、50隻ぐらいは建造できるか……今は数隻を運用するのがやっとだ」
(;^ω^)「まずいぜ……もう少し時間さえありゃ、100隻でも200隻でも運用できそうだが、今は資材の確保でやっとだ」


「私が思うに多分……まだ数隻しか運用できない。」(・∀・)9

「軍船を揃えだした敵勢を放置するのは、賢い者のすることではない。まだ……我らのほうが圧倒的有利であったとしてもだ」(・∀・)9

(;・皿・)「「……ッ!」」

「そこで河内源氏!貴様らが軍船を何隻建造し、何隻運用しようと関係のない戦略を思いついた……」(・言・)

それこそが日本史で数少ない(成功を収めた)内線作戦である。聞き慣れないワードのため、一旦ここで屋島を軸とした内線作戦について解説しよう。四国の屋島は、グルりと囲む山陽道(中国地方の瀬戸内海に面する地域)に対し内側の「内線の位置」にある。これは屋島からは山陽道の全てを標的にできる一方、山陽道の勢力から見ると守るべき自拠点が多い(これを「内線の利」と呼ぶ)。

言うまでもないが、屋島ならば京にも遠くなく、将来的な上洛の算段もつけやすい。さらに平家発祥の地である伊賀・伊勢にも近く、同地に残存する親平家勢力とも連携しやすい。

やや余談ながら、俱利伽羅以上に悲惨だった一の谷の戦いを経てなお、平家はこの屋島内裏を中心にした海軍戦略を展開し、自慢の圧倒的なシーパワー(海軍力)をもって、山陽道へ派遣された鎌倉軍の土肥実平や和田義盛らに対し優勢だった。伊勢方面には「海上遊撃」をしかけ、三日平氏の乱の勃発も促している。これは「平家物語」や派生作品の大半で浅く触れられる程度か、酷いと全く無視されており、これのせいで「平家は一の谷の戦いで敗れた後は一気に滅亡した」誤解されがちである(実際には一門の多くが非業の最期を遂げた一の谷の戦いから数えても、壇ノ浦での滅亡までは1年以上の月日が経過している)。


閑話休題。では上記の「内線作戦」を整理したところで、先述の馬鹿(;^ω^)2人の末路に触れよう。
答えはたった1つのシンプルな末路。「軍船の用意をしているところへ平家軍に襲われて壊滅(海上からの弓の一斉掃射で事足りる)する。もちろん集めた物資を根こそぎ焼却か略奪される」これ以外にない。

誇張した表現だが、山陽道を通過もしくは滞在する勢力は、悉く屋島の平家軍の餌となるのだ。
もちろん最終的に平家は滅亡したが、だからといって彼らの戦略・戦術が全て無価値とはならないのである。
※: ハンニバルの「カンネーの戦い」、WW1の「タンネンベルクの戦い」、WW2のフランス電撃陥落、どれも最終的に歯実行した陣営が敗戦したが、全て戦史に刻まれるべき輝かしい作戦である。それと似たようなものだ


かくして平家は屋島で力を蓄え、逆襲の機会を伺う。その姿は都を追われた負け犬ではなく、大海に身を潜ませたサメのようであっただろう。しかも平家は義仲の衰弱を確信できた。何故なら、京都は上述のように深刻な食糧不足に陥っていたからだ。西国の年貢の多くは屋島へ、東国の年貢の多くは甲斐や鎌倉が貯め込んでいる。上杉謙信の逸話じゃあるまいし、我が子を飢えさせてまで敵を肥えさせるほど宗盛も頼朝も馬鹿ではない。ダメ押しに平家は六波羅の平家街や福原を焼き捨てている。このせいで大軍の義仲らは、都での居住にすら支障をきたし、庶民や貴族への乱暴狼藉が加速する。そして都での支持を更に失う悪循環に突入していた。



【合戦直前】


かくして華々しい上洛を飾った義仲は衰弱の一途を辿り、逆に平家は完璧ではないにしろ再起の目処を立てていた同年9月19日。後白河法皇は「略奪騒ぎも戦乱も落ち着かない、屋島の平家は野放し、みんな不便で困っとる!」と義仲を叱責し、剣を与えて西国へ向かわせた(疎ましい義仲を京都から追い出し、平家との共倒れを狙った可能性すらある)。

先述の通り、義仲もまた都でのジリ貧状態を脱するため、また連合軍へ義仲の権威を見せつけるため、西国への派兵を承諾した。義仲は「戦上手の政治下手」と評価されがちだが、(頼朝よりは政治力に劣るとはいえ)彼なりの現状認識があり、閉塞した状況の打破へ向けて動いた一例だろう。しかも今回、義仲は腹心の樋口兼光を京都へ在留させている。都の守護も一因ではあるだろうが、同時に行家や甲斐源氏の動向を警戒してのことだろう。

義仲の軍勢は、播磨国(現在の兵庫県)へ下向した。播磨から何かしらのルートを見つけて四国の屋島へ渡ろうと考えたのだろう。問題は木曽軍にまとまった海軍(水夫や軍船、物資も含む)がなかったことだ。道中の木っ端勢力なんぞ義仲の敵ではないし、播磨までの道中での現地調達略奪で多少は物資の問題も改善される。それでも海軍を調達する当てがないままでは、目的地のない放浪行軍を続けるしかなく、これは破滅の先延ばしに過ぎない。孫子も「兵は拙速なるを聞くも,未だ巧久なるを睹ざるなり」と述べている。これは「戦争行為では多少マズくても早めに終わらせる実例はあっても、上手く長引かせて戦うという実例はない」という意味だ。無論、重要拠点の兵糧攻め、近世の塹壕戦や冷戦などの反例候補はいくつかあるが、概ねこれは正鵠を得ている。軍隊とは非生産的な大人数の集団であり、仮に1000人の部隊を1日維持すれば1000人×3食分の兵糧が必要になる。しかも軍隊は何かを生産することは殆どないから、貴重な物資は日ごとに消耗されるだけ。東国武士の象徴たる軍馬を養うなら、莫大な秣も必要になる。雑に表現するなら、義仲はさらに焦らざるをえない状況に置かれていた。

その頃、屋島の平家は、反攻の機会を待っていた。狙うは敵軍が消耗し、焦って悪手を打った瞬間。ただし平家にも一抹の不安がないでもない。義仲がなりふり構わず全兵力を投入し、周辺を枯らし尽くす略奪も厭わず、徹底的に特定の港を固守されること。そして最悪そこで軍船を建造しまくり、勇猛かつ腹ペコな源氏連合軍の数千~数万が義仲を先頭に四国へ押し渡ってくることだ。西日本とて全てが平家に従っているわけではなく、反攻する地侍などへ注力した隙に義仲らに渡海されたら、勝負がどう転ぶか分からない。よって平家は絶好のチャンスを、それでいて絶対に逃してはならない、義仲軍の先鋒を完膚なきまで叩きのめし、粉砕・殲滅する必要があった。もちろん義仲軍を撃破することで、日和見中の瀬戸内の勢力へ「今こそ屋島の安徳天皇のもとへ集え!!」と宣伝する必要もあっただろう。

かくして両雄の激突は目前となっていた。

※: なお「義仲は決戦を選ばず、山陰道と近畿を抑え、得意の陸戦でもって大きなスケールで屋島を包囲すべきだった」との指摘もある。ただしこれは平家が九州・四国で勢力を増幅させるリスク、親平家の勢力が根強い機内を義仲が支配できるか不明な点、後白河法皇や頼朝や奥州藤原氏がどう動くか分からない点(本拠の北陸を空き巣の同然に占領されるリスクが否定できない)などから、少なくとも確実な最善手とは言えない

【水島合戦】


義仲は配下の矢田判官足利義清を総大将に、海野幸広らを侍大将に任命し、平家との直接対決へ動く。義清ら先鋒が首尾よく軍船を確保できれば良し、渡海前に平家が奇襲してきたら義仲が水際防衛・上手くいけば敵軍を内地へ引きずり込んで逆襲する。どっちにしろ義仲軍の船や物資を確保・防衛し、平家の水軍へ痛手を与えて暫く行動不能にさせる。これが先鋒軍の大まかな戦術目的だった。そして目標拠点が山陽道の水島(柏島と乙島の総称)と定められた。義仲は虎の子の7000人の軍勢、相応の物資を与え、ひたすらに武運を祈っただろう。

義清は義仲の期待によく応え、「平家物語」を参考にすれば約500隻の船を揃えたという。万全ではないにしろ平家水軍の監視が光る中でこれだけの海軍を調達した義清の手腕は、地味ながら高く評価されるべきだろう。もし義仲や義清が海戦での決戦ではなく、港や浜辺での決戦を考えていたなら、最悪、船は粗雑なものでも事足りる。あくまで平家に「このままでは四国へ上陸されるかもしれない」と恐怖させて渡海前に迎撃しに来させる。あるいは船を問わず軍勢を渡海させ、とにかく四国での陸戦に持ち込む。そうであれば頑強な軍船は必ずしも必要ではなく、そこらの漁船で十分だったかもしれない(この場合、気の毒な事に近海の漁師は船を接収されただろう)。ただし「平家物語」では例によって激戦が描かれており、決戦を見越した大人数の渡海であれば、相応に頑強な船(軍船となりえる船)を集める必要があったはずだ。

義清はよく働いたが、この動きを平家軍は察知していた。軍事的には迎撃のため……しかし同時にある者は俱利伽羅に散った一門の仇を討つため、ある者は都で待つ妻子のため、そして全員が、屋島内裏で待つ幼い安徳天皇のため、必勝の誓いをもって屋島から出港した。彼らを率いるのは平家オールスターズだった。壇ノ浦での二刀流で知られる平教経、南都や墨俣川での合戦を勝利に導いた隠れた名将の平重衡、説にもよるが50歳を過ぎた老齢の平教盛や、不憫で知られる小松家の平資盛の名すら見える。そして彼らを率いたのは、稀代の傑物……平知盛だった。


運命の1183年10月1日。ある伝承では平家が宣戦布告の使者を遣わし、またある伝承では義清軍が敵軍の伝令船を発見して追跡したのがきっかけとされる合戦、後世で「水島合戦」と呼ばれる運命の海戦が始まった。

どちらの話にしても、義清軍は500隻の船で出撃している。ありったけの夢ではなく武具を搔き集め、八幡太郎義家へ加護を願いつつ、出撃したのだろう。重要なのは、どちらの説でも義清が出撃したということだ。戦場は海上と決まったのである。待ってましたァ!と迎え撃つ知盛を筆頭とした平家水軍。その数は約1000隻。しかも大半が大型軍船だった。この時点で義清軍はガン不利となったが、平家の攻勢は止まることを知らない。能登守平教経が大声で命を下す。

「おう平家軍に告ぐ!まさか海を知らん北陸の輩に生け捕りされるなんて大恥をかくなよ?まず船と船を繋げ!!」( ゚Д゚)イクゾオメェラ

途端に平家軍の船同士が綱で結ばれ、しかも足場になる板まで敷かれた。これで平家軍の船団はまとまった巨大筏の様相を呈し、波の上であっても安定した移動・戦闘が可能になった。流石の義清とて、その手の準備はなかった。

鬨の声を上げて源平両軍が激突する。まず弓の蔓鳴り・矢の雨から始まり、やがてバタバタと討ち死にが出る。東国武者は流鏑馬に代表される近距離の騎射を、平家は船戦を前提にした射程の長い遠矢を得意としたとの指摘があり、この点でも平家は有利だった。しかし白兵戦となれば勇猛果敢な義清軍も負けてはいない。よくも好き勝手に矢を射かけてくれたな!?と刀や長刀を抜いて、平家の船へ乗り込んだ。敵味方とも斬り死にする者、戦闘の混乱で足を踏み外して海に落ちる者、熊手に引っ掛けられて沈む者、乱闘の末に敵と共に海へ転げ落ちる者、が続出し、海は鮮血に染まった。

平家軍は数の有利をもって義清軍を包囲しようと動く。これは自然な動きだが、数に劣る義清軍にすれば逆襲のチャンスにもなった。仮に平家軍が軍船を2つに分割すれば平家軍Ⓐ500・平家軍Ⓑ500vs義清軍500で局所的には互角。3つに分割すれば平家軍Ⓐ330・平家軍Ⓑ330・平家軍Ⓒ330vs義清軍500で、義清軍が局所的に優位。しかも義清は賢明にも陸へ多少は軍勢を残していたらしく、平家軍はそれに気を取られることも期待できる。もしかしたら港に残る義清軍も応援として出撃したかもしれないし、あるいは力に任せて遠矢を放ち、可能な限り本隊を支援したかもしれない。

おそらく全体としては平家軍のやや優勢、しかし局所的には義清軍も奮戦するといった戦況だった。
ここだけを切り取ってみれば、「水島合戦は源平合戦における最大級の海戦」に収まっただろう。

ところがどっこい、平知盛には奥の手があった。
会戦から暫く経った頃だろうか? にわかに周囲が薄暗くなり始めた。

はじめは目の前の平家武者へ夢中だった義清軍も、一人二人と異常に気付く。

1183年10月1日、なんとこの日は金環日食の発生日だったのだ!!

???「話は聞かせてもらった。日食の意味はただ1つ、義清軍は全滅する!」

「な、なんだってー!?」

この金環日食は近年の研究でも確認されており、よく知られている「平家物語」では省かれているものの、よりストーリーを盛り盛りにした「源平盛衰記」には記載されている。後代の平家物語の編纂者が、流石に合戦のさなかに日食なんて非現実的やろwww と思って削除したのかもしれない。しかし現実には日食が発生していた。これを利用しない平家ではない。平家は長らく都務めであり、都での業務には暦の制定も含まれていた。つまり平家は事前に日食が起きることを知っていたのだ。そして結果論にはなるが、義清はまんまと釣り出された形になった。例え釣り出されようと、船の質で劣っていようと、局所的な兵数有利でもって押し通れる可能性は十分にあった。古来、数に勝る軍隊がハンニバルの猿真似のごとき包囲殲滅へ固執したがあまり、包囲を食い破られて壊滅した事例も少なくない。だからこそ、平家は日食を利用した。指揮官の義清らはまだしも、信濃の山や北陸で育った田舎武者では、日食の詳細なぞ知るよしもない。

義清軍の攻勢が失速した瞬間、平家の大将らが下知を飛ばし、怒涛の殲滅戦が開始された。先ほどまで義清軍は戦闘の熱狂に包まれていたはずが、一瞬とはいえ日食のせいで浮足立ち、今や一転して劣勢に置かれている。そして限界を迎えた。

「侍大将!海野弥平四郎行広を討ち取ったりィ!!」

義清軍の侍大将が討たれたのだ。指揮官を失った部隊は、瞬く間に平家軍に狩られていく。士気の低下、数的劣勢を見て、義清は決断を迫られる。指揮官と僅かな手勢で血路を開いて逃げ延びるか、あくまで残る全軍をもって抵抗を続けるか?義清1人の命を考えるなら、間違いなく前者。だが彼は逃げるどころか自ら太刀を抜き、弓を片手に配下の数名と共に小船へ乗り込み、自ら最前線へ殴り込みをかけた。その様は覇王項羽やリチャード3世を彷彿とさせる突貫ぶりだっただろう。白兵戦なら刀が、逃げれば弓で狙い撃ち、義清は力の限りに奮戦した。

……そして最期を遂げた。足利義清。義仲軍の先鋒の総大将は、力の限りに抗い、瀬戸内海の波間に消えた。生年が不明なため享年も不明。義清・幸広をはじめ、主だった大将は全て戦死した。だが平家軍の猛攻は止まらない。海上の残敵を包囲殲滅すると、余勢のまま陸に残っていた、あるいは陸まで逃げ帰った義清軍を徹底的に討ち取っていった。平家は軍船へ馬を乗せており、船から浅瀬へ、浅瀬から陸へ怒涛の追撃をかけたという。

こうして義仲の虎の子の軍勢7000人と莫大な物資は海の藻屑と消え、義仲が描いていた平家討伐プランは崩壊した。
平家は平知盛の指揮のもと、俱利伽羅峠から以来のリベンジを果たし、瀬戸内に「未だ平家あり!」と示した。
長く続いた平家vs義仲の戦いは義仲の敗北、ひいては義仲の落日というかたちで終局したのだ。


【戦後】

《木曾義仲》

  • 兵力や物資に加え、貴重な腹心や指揮官級の人材を多く失い、連戦連勝で築いてきた名声をも失った。また諸々の喪失の影響で今まで以上に造反者や敵対勢力へ無力になってしまった

《平家》

  • 俱利伽羅峠~都落ち以来の再起と逆襲を果たし、仇敵の義仲を実質的に没落させた。瀬戸内や機内の豪族や地侍への影響力を強め、やがて旧都福原を奪還するまでに至る道筋をつける。

《後白河法皇》

  • 度重なる義仲軍の乱暴狼藉、義仲との対立、挙げ句の水島合戦での大敗北を受け、いよいよ義仲を見限る。以前から頼朝と気脈を通じ、義仲を西国へ追い出した際には、頼朝宛てに「寿永二年十月宣旨」を出し、しきりに上洛を求めるようになった。

《甲斐源氏》

  • 旗色が悪くなった義仲とは関係を薄め、鎌倉の頼朝と結びつくようになる。後に義仲にとって最後の戦となった宇治川の戦いの頃には、源範頼や源義経に並び、残り僅かな義仲一行へ襲い掛かった。

《源頼朝》

  • 形の上では同盟者(実際にはライバル)の義仲陣営が没落し、後白河法皇への売り込みに成功、懸念だった足利義清も(不運ながら)無事に戦死したおかげで、義兄弟の足利義兼との関係が拗れずに済んだ。ある意味では水島合戦で最も得をしたかもしれない。



【参考文献】

  • 平清盛の闘い 幻の中世国家 (元木泰雄,2001)
  • 源頼政と木曽義仲 - 勝者になれなかった源氏 (永井晋,2015)
  • 敗者の日本史5 治承・寿永の内乱と平氏 (元木泰雄,2013)
  • 「義経」愚将論: 源平合戦に見る失敗の本質 (海上知明,2021)
  • 武者から武士へ兵乱が生んだ新社会集団 (森公章,2022)
  • 寿永二年七月二十五日以降の平氏のシーパワーとしての戦略展開 (海上知明,2008)
  • 1183年11月17日の水島日食に関する∆Tの考察 (上田暁俊,et al.2012)
  • 決断過誤を防ぐリーダーの勇気とは何か ―クラウゼヴィッツの軍事的天才論に基づく考察 (奥津康祐)



追記・修正は、平知盛と足利義清への敬意・黙祷を捧げてからどうぞ

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • アニヲタ歴史の時間
  • 歴史
  • 中世
  • 日本史
  • 平安時代
  • 内乱
  • 治承・寿永の乱
  • 合戦
  • 政治
  • 謀略
  • 軍事
  • 防衛戦
  • 防衛戦略
  • 騙し合い
  • 海軍
  • 陸軍
  • 日食
  • 宇宙
  • 天文学
  • 藤原氏
  • 平清盛
  • 平家
  • 源義仲
  • 源氏
  • 征夷大将軍
  • 鎌倉幕府
  • 鎌倉殿の13人
  • 文学
  • 軍記物
  • 平家物語
  • 古典
  • 琵琶法師
  • 諸行無常
  • ゲーム
  • ギオン・ショウジャ
  • 殺し間へようこそ…
  • よろしい_ならば戦争だ
最終更新:2025年05月08日 12:37