源為朝

登録日:2022/02/07 Mon 11:53:05
更新日:2024/07/18 Thu 23:37:58
所要時間:約8分で読めます






昔は矢一つにて鎧武者二人を射通しけり。今は舟を射て多く人をぞ殺しけり。




概要

(みなもとの)為朝(ためとも)(1139-1170)は平安時代末期の武将。別名平安のモビルスーツ鎮西八郎。
父は河内源氏棟梁の源為義。兄には源頼朝や義経の父である義朝がいる。

『保元物語』によると七尺≒210cmの大男で、引くは五人張り*1という古今に聞こえた豪傑。
世間の認知度としてはそこまでなものの、日本史において



最強は誰か



議論する時、機動武士ホンダム絵がうまい風呂嫌いおじさんと並んでまず間違いなく最有力候補となる一人である。

とはいえ史実の活躍はあまり明らかになっていない。『保元物語』では大ヒーローとして描かれているが、『愚管抄』では登場機会が少ない。
もっとも『愚管抄』は保元の乱の勝者側の記録であるし、その上でも為朝が豪傑であったことが透けて見える。
本稿では『保元物語』を中心とする形で述べる。



来歴


源為朝「生まれたで!オカンは遊女で八男やけどオトンは河内源氏の棟梁。文句ないな!」

源為朝「暴れまわるでー。おう兄貴肉持ってこいや」
源為義「あかんこいつ扱いきれんわ」
源為朝「13歳なのに九州に追放されたわ…せっかくやしこっちで暴れるか。今日からワイは鎮西総追捕使*2な!」

源為朝「3年で九州統一できたわ。我が世の春やな」
九州の人達「あいつやばいんですどうにかしてください!」
朝廷「おい為朝、お前調子のりすぎやぞちょっと京に来い」
源為朝「行くわけないやろアホちゃうか」
朝廷「はー? ふざけおってからに! おい為義、お前の息子の責任だからお前がケツ拭け。クビな」
源為義「そんな殺生な」
源為朝「え、オトンがクビになった?…しゃーない上洛するか」


藤原頼長「後白河側の鳥羽法皇も死んだか! せいせいするわ!」
藤原頼長「え、ワイと崇徳上皇が謀反すると企んでる!? ワイは流罪で財産没収?*3
崇徳上皇「こうなりゃほんまにやるしかない…源為義ってやつが使えるらしいな。呼んで来い」
源為義「ワシもう70超えてますし*4ロクにをしてきた訳じゃないんです…」
崇徳上皇「じゃあお前の息子はどないや!」
源為義「長男の義朝はそりゃもう強いんですが後白河側に付いてもーたんで…八男の為朝ってのが中々凄いんですわ。そっちにしてください」
崇徳上皇「ならええわ、とでも言うと思ったか。親が来てこそ子供が来るもんやろ。それで上皇の命令やけどどうすんのや?断んの?」
源為義「行きます…」
崇徳上皇「ニッコリ」


源為朝「義朝の兄貴も清盛も大したことないですわ。夜襲して三方に火討すりゃあとは簡単よ」
藤原頼長「これは天皇と上皇の戦いやぞ。んな乱暴な真似できへんわ!」
源為朝「…兄貴は東国で戦慣れしとるから夜襲してくるやろなあ…」
~その晩~
源為朝「案の定夜襲してきたわ。なんなら火攻めもされたわ


源為義「東国に逃げようとしたけどもうあかんか…義朝がなんとかしてくれるやろうから降伏しようと思うわ」
源為朝「そうはいっても崇徳上皇は後白河天皇の兄貴やし藤原頼長は関白の弟やしそこで争ってきた*5訳で。兄貴が許してくれても後白河が許してくれるとは思えんわ」
源為義「それでもワシの首だけで子供たちはどうにかならんか…」
源為朝「…そうか。俺は東国に逃げるで」
源為義「達者でな」

源為朝「近江*6で湯治してたら捕まったわ」
後白河天皇「はーでっかい男やなあ。もう戦後処理終わってるし、流刑にするか。一応肘抜いて弓を引けんようにしとこ」


源為朝「伊豆に流されたわ。体も治って弓引けるようになったしまた暴れたろ!」
源為朝「おらおらこちとら清和天皇の末裔やぞ!伊豆は俺の領地な!」
源為朝「本島と五島制圧したわ。うん?海鳥追ってったら島があるな…うわ、がおる!? 鬼ヶ島*7かいな」
源為朝「ハッハッハ、制圧したったわ。頼光公金ちゃん綱ちゃんあと2人! あの世で見とるかイエーイ! 今日からここも俺の領土な」
伊豆の人達「あいつやばいんですどうにかしてください!」
後白河上皇「ええ…分かった、討伐してこい」


源為朝「討伐に来よったか…負けるつもりはないけどこれ以上郎党を死なせるのもなあ。さすがに潮時やろうしこれ以上罪を重ねるのもアホらしい」
源為朝「おう家来らはさっさと逃げてまえ。これは餞別や。息子は…すまんが武士の習いや」
源為朝「さて。とはいえ無抵抗もな。最後の一矢やし派手に行くか」
源為朝「300人乗りの船沈めたわ。保元の乱では一矢で二人殺したもんだが、嘉応ではこんなに殺せるとはな。ほな南無阿弥陀仏」

為朝伝説

  • 引く弓は五人張り*8、番える矢は十五束。矢は116cm重さ1㎏の大型の物*9を使い鏃も基本的に鑿の様な鋭く重い物を使用。
  • 左腕が右腕より四寸(≒12cm)も長く弓を引くのに最適な身体。肘を抜かれたら治った時もっと伸びた
  • 体格が大き過ぎた為、家宝の源氏八領*10の内「八龍」を貰ったはいいが着られなかったので、八龍に似せた白糸縅の鎧を新調し着用していた。
  • サブウェポンの刀も三尺五寸(≒133㎝)の大太刀を佩き、刀を抜き一振りすれば多数の雑兵の首が草刈りの様に易々と落とされたという。
  • 一矢撃ったら鎧武者二人を撃ち抜いた。
  • 乱戦中義朝をビビらせようと兜の飾りである「星」を撃ち抜いた。単に力任せの殺傷撃ちしかできない訳は無くこの様な手加減も可能なのである。
  • 膝を撃ち抜かれた武者*11が「あの為朝に狙われて生き残った」と自慢。
  • 300人乗りの軍船を弓で撃ち抜いて沈める(諸説あり)
  • 恐らく日本で初めて切腹をした武者
  • 戦国時代織田信長が「鎮西八郎の鏃」と称するものを徳川家康に贈っており、これを穂先に付けたが「白鳥鞘の鑓」として中津城に保管されている。
  • 九州時代に七股の角がある大蛇を討伐。なお姫を囮にするというあるあるムーブ。
  • 天然痘(疱瘡)を擬神化した疱瘡神すら打ち倒すと考えられ、江戸時代には天然痘やコレラ等が流行する度、病除けとして肖像画や手形が飛ぶように売れた。
  • 流刑後、肘が治ったか試すために鎌倉は材木座の天照山目掛けて矢を放ったところ陸に届いてしまい、ある井戸*12に落ちた。村人が井底から鏃を拾い、明神様に奉納すると水が涸れ、困ったのでまた鏃を井戸に戻すと清水が湧いて来たという。これが鎌倉十井の一つ「六角の井」またの名を「矢の根井戸」である。

琉球王朝との関連

琉球王朝開祖の舜天の父、または舜天その人であるという伝説がある。そもそも舜天の実在性も微妙なところではあるのだが。

伊豆配流後、征伐前に琉球に行っていたパターンと征伐後に琉球に落ち延びていたパターンがある。
前者は為朝が征服した鬼ヶ島が琉球であり、そこで現地の娘に舜天を生ませたというもの。
なんとチンギスハン義経説よりかは信憑性があるらしい。

薩摩の琉球征服に正当性を持たせるための後付けという説もあるのだが、為朝と琉球王朝について記した書物が、薩摩の琉球征服前に成立している。
恐らくは琉球王朝の箔付けとして英雄譚が用いられたというのが正しい。



関連人物

  • 源為義
父親。八幡太郎義家死後の内ゲバと後ろ盾だった摂関家の凋落でズタボロになった河内源氏の棟梁。
再興のため奔走するが、犯罪者をかくまったり粗暴な面があったようである。
ちなみに父親の義親は略奪を繰り返した挙句、平清盛の祖父正盛に討伐され、
義朝や為朝はもちろん、次男義賢*13も不祥事を起こして廃嫡されるなど一族のやらかしが多い。こんなんばっかだな

  • 源義朝
長兄。頼朝、義経の父親。為義から廃嫡されていたとみられ、関係が良くなかったようである。
追放も同然に東国に預けられたが、八幡太郎義家の末裔として坂東八平をまとめ上げ、その武力を背景に出世。嫡男である頼朝を宮中に送り込んだ。
この坂東勢力とのコネクションと政治感覚が後の源平合戦における頼朝の武器となる。

保元の乱では後白河天皇方に付いて為朝らとは敵対。
為朝に「天皇の命令受けた兄貴に弓引くとは何事じゃい!」とキレたら「上皇の命令受けた父親に弓引くとは何事じゃい!」と言い返された逸話がある。
とはいえ肉親の情もあった様で『保元物語』によると父兄弟の助命を二度嘆願している。
しかしながら、後白河天皇に「清盛は叔父を切っているのにその態度は何事だ。貴様がやらないのならそこらの武士にやらせるぞ」と言われ、泣く泣く自らの配下に斬首させた。
これが受け入れられなかった不信と恩賞への不満が、後の平治の乱において後白河上皇と敵対することにつながったのではないかと言われている。
あくまで『保元物語』準拠なので普通に斬首した可能性もある。

  • 源義経
甥。史実上の接点はないが、同じ河内源氏・同じ戦場の英雄でありながら「怪力無双の巨漢」と「非力だが小回りや知略の利く小兵」という対比が利いているためか、軍記物などで言及されることがある。
『義経紀』によると、為朝と同じく八男であった*14があまりの豪傑である叔父に遠慮して九郎を名乗ったとある。
また『平家物語』の「弓流し」の段では、合戦中に誤って取り落とした弓を拾い上げるのに必死になり、「弓一張りに命に代える程の価値がありますか?」と諫められ
「叔父の為朝の様な強弓であればわざと落として取らせるところだ。しかしこんな弱い弓では『源氏の大将九郎義経はこんなの使ってるよ(プークスクス)』と馬鹿にされるだろうが!」と返したという。
義経的に、色々コンプレックスを刺激される存在と思われていたのだろうか。無論平家側にも為朝の事を知ってる世代がまだ居た為実際奪われたら陰で言われていた可能性も高いのだが……。

  • 信西
日本史あるある、この事件大体こいつが悪いんじゃね?枠の坊主。藤原氏出身で後白河天皇の乳母の夫。為義らが処刑されたのはこいつと清盛のせい。
保元の乱後隆盛を誇ったが、案の定反感を招き刺客から逃げ回っていたところ、土の中に隠れているのを発見され殺される。




追記・修正は五人張りの弓を引けるようになってからお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 源氏
  • 武士
  • 武将
  • 平安時代
  • 弓兵
  • 豪傑
  • 大阪府
  • 伊豆
  • 源為朝
  • 巨漢
  • 鎮西八郎
  • 琉球王朝の先祖?
  • リアル鬼殺隊
  • 傍若無人
  • 平安のモビルスーツ
  • 光月おでん
  • 射水為朝
  • リアルチート
  • 平安最強候補
  • Fateサーヴァントネタ元項目
  • 日本史
最終更新:2024年07月18日 23:37

*1 五人がかりで弦を張らなければならないほど強い弓。実際に残っている強弓を張力計で測定すると、●人張り≒●×20~30kgほどになるため、張力100~150kgの弓を平気でぶっ放していたことになる。ちなみに現代の弓道で使用されている弓の張力は、90cmの矢尺で約10kg~25kgが一般的。

*2 言うなれば九州全土の警察

*3 当時頼長は藤原氏の長であったのでこうした扱いは前代未聞であった

*4 ちなみに為義の享年は61歳。原文にはたびたび70歳の身でどうこうという表現がある

*5 皇室も藤原氏も平氏も仲が悪い者同士で争っていたのだが、名目はまた異なるということ

*6 滋賀県

*7 青ヶ島かと思われる

*8 八人張りとも。

*9 当時の矢は長さ88.5㎝、重さ200g程度

*10 河内源氏に伝わる8領(八つ)の鎧。古今東西、全身鎧は非常に高価であり、戦士階級は家伝の鎧を調整しながら大事に使っていた。「八龍」以外にも「楯無」などが有る

*11 大庭景義。狙われているのを察知し、為朝のの首方向を最短距離で横切ったお陰で狙いがブレたらしい。この件で歩行不能の身となったが、後に源頼朝の下に付き、知恵袋として活躍

*12 為朝の館があったという場所から直線距離にして65㎞ほど

*13 木曽義仲の父。保元の乱の2か月前、義朝の長男・悪源太義平に討たれた

*14 8人の兄の内、生没年の記録がないのは四郎義門くらいだが