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岡田以蔵

登録日:2025/12/30 Tue 15:10:34
更新日:2026/07/30 Thu 14:49:30
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岡田(おかだ)以蔵(いぞう)(1838〜1865年)

通称は以蔵(いぞう)、諱は宜振(読み方について、よしふる、たかのぶ、のぶたつ、と諸説ある)。



概説

幕末期に土佐系攘夷派志士として幕末の四大人斬りだの人斬り四天王、後世から「人斬り以蔵」、仲間うちから「天誅の名人」とあだ名された。

生涯

天保9年(1838)1月20日、土佐山内家(禄高24万石)足軽格・郷士の岡田義平(おかだぎへい)(禄高20石)、その妻・里江(さとえ)の間に長男として生まれる。父は旧姓を田所、岡田家に養子に入り、家老・桐間将監(きりましょうげん)支配下の足軽として勤務。
岡田家は足軽、郷士と二重に身分を有しており、以蔵は足軽、弟・啓吉(けいきち)は郷士の身分を継いでいる。土佐山内家では足軽が郷士より格上であるという固有の事情から。
郷士株は購入した、とある。

独学で剣術を始め、嘉永6年(1853)、西洋砲術家・徳弘孝蔵(とくひろこうぞう)に弟子入り、高島流砲術を学んでいる。この時、高島流の秘密を誓う血判状に坂本龍馬武市半平太(たけちはんぺいた)とともに名前を残している。因みに坂本は以蔵の1年後に入門しており、以蔵が兄弟子に当たる。

武市の紹介で中西派一刀流の麻田勘七(あさだかんしち)に弟子入りして剣術を学び、安政3年(1856)9月、武市と共に江戸に剣術修行に出て、鏡心明智流(きょうしんめいちりゅう)桃井春蔵(もものいしゅんぞう)に弟子入りして剣術を学び、目録を授かる。
桃井から「剣の実力は認めるが、人間性が残念(意訳)」と批評される。
安政4年(1857)9月に土佐に戻ると、しばらく落ち着いた生活を送る。

万延元年(1860)8月、武市の武者修行の旅*1に随行、中国、九州を巡る。
途中、以蔵の家が旅費の捻出に苦労するだろうと武市が配慮し、豊後岡・中川家(禄高7万石)の家臣に、以蔵の滞在と参勤交代で江戸行への随行を頼んだ。
武市と別れた以蔵は、岡城下の堀道場で直指流剣術を学び、文久元年(1861)5月、江戸に出て、文久2年(1862)4月土佐に帰った。

世論が尊王攘夷運動に沸き立つ中、文久元年(1861)8月、武市が江戸の土佐山内家屋敷内で土佐勤王党を結成、以蔵も加盟した。
主宰する武市は「土佐一国の攘夷」を実現する為、参政・吉田東洋(よしだとうよう)が邪魔と考え、反吉田派の政敵と手を組み、文久2年(1862)4月8日に暗殺。土佐山内家の実権を握った。
以蔵はこの後、文久2年(1862)6月、参勤交代のお供に抜擢され、武市らと共に参勤交代の列に加わり京へ上る。

武市はこの頃になると、諸国の攘夷派志士と交際を深め、特に長州毛利家の久坂玄瑞(くさかげんずい)が掲げる破約攘夷論や草莽崛起論に心酔し、長州と土佐で攘夷を実現する為、久坂と武市で「京都手入れ」と呼ばれる政治工作を行った。

互いに殿様を上洛させ、長州が朝廷工作、土佐が安政の大獄で攘夷派を弾圧した幕府の役人や宮中の要人に「天誅」という名目で報復テロを行い、京都の幕府権力は無力化され、無政府状態となった。
そのテロの実行に大きく関与したのが以蔵と薩摩系攘夷志士の田中新兵衛(たなかしんべい)である。

多くの佐幕派やそれに従った者たち、かつての同志を殺害したほか、平野屋寿三郎(ひらのやじゅさぶろう)煎餅屋半兵衛(せんべいやはんべえ)*2のように、命は取らないまでも、苛烈な拷問を加えたこともあった。

以蔵が暗殺したと目される人物は以下のとおりである。
ただし、賀川・池内・多田の暗殺に関与した可能性は薄いとみられている(特に多田が京都で暗殺された時期、岡田は江戸に滞在していた記録がある)。
人名 肩書 殺害された原因・最期の様子
(ましら)の文吉 目明し 長野主膳の命を受けて安政の大獄に関与。
元々金貸しを務めており、それによって暴利をむさぼっていたため身分を問わず悪評が高く、
「斬ると刀の汚れになる」として斬殺ではなく縊殺された。
遺体は全裸の状態で晒し者にされた。
宇郷玄蕃頭重国 九条家家臣 安政の大獄と和宮降嫁に関与したため暗殺。なおこの時、宇郷は病気で寝ている妻の代わりに2歳の娘を寝かしつけていたという
本間精一郎 攘夷派浪士 原因は性格の悪さ。今で言うマウント取りが激しかった。滅多切りにされており、遺体はほぼバラバラになっていたという。
賀川肇(かがわはじめ) 千種家家臣 安政の大獄に関与したため暗殺。
手始めに肇の子供に折檻を加え、肇が「子供に何をするのだ」と怒って出てきたところを一斉に襲撃。
死体は切り刻まれ、要人の屋敷に放り込まれている。
池内大学 儒学者 勤皇活動に少しでも早く復帰するために、安政の大獄で自首して減刑された事を「幕府に通じたのではないか」と邪推され、暗殺された。
遺体の頭部は梟首され、頭部以外の部分の死体が切り刻まれて公卿などの要人の屋敷に放り込まれる。
多田帯刀 金閣寺の寺侍で、村山たか*3の息子 母親の身代わり同然に暗殺される。なお、たかの方は「生き晒し」にされた。それ以降は出家して尼となり、息子の菩提を弔いながら明治まで生きた。
渡辺金三郎・上田助之丞・大河原重蔵・森孫六 京都町奉行与力 安政の大獄に関与したため暗殺(江州石部事件)。
岡田星之助 因州鳥取池田家家臣 「佐幕派の間者ではないか」という疑惑がかけられ、暗殺。

長州・土佐の朝廷工作は文久2年(1862)10月に正使・三条実美、副使・姉小路(あねがこうじ)公知(きんとも)による勅使の江戸派遣という形で実現。同年11月27日、江戸城に登城し、江戸城大広間の上段に座り、中段の将軍・家茂に勅書を読み上げた。内容は攘夷を実施し、報告する事。親兵を設置する事の2つ。
12月5日に幕府は勅命を受け入れ、将軍家茂自ら上洛して報告する事を伝えた。
三条ら勅使一行は12月7日に江戸を出立し、23日に京都に到着。これにより外国人へのテロ、長州による外国船砲撃など、日本は攘夷による対外戦争へ一気に進むかに見えた。
この勅使一行に武市や以蔵が勅使の従者という名目で参加した。

その最中、土佐では中川宮をダシに使った土佐勤王党の内政干渉が実権を握る山内容堂(やまのうちようどう)によって潰され、逆に土佐勤王党が潰滅の憂き目にあった。文久3年6月の話である。

以蔵はこの頃、自分なりに進むべき道を模索しているのか、武市と距離を取り、勅使一行から別れて土佐山内家を出奔。文久3年(1863)1月、江戸で長州の高杉晋作(たかすぎしんさく)に弟子入りして行動を共にし、京都に向かっている。
この時、6両の借金をして金銭トラブルになり、京都で土佐勤王党が高杉に返済している。京都で高杉から離れ、同年3月には坂本龍馬の紹介で勝海舟の護衛を行っている。
以蔵が勝の護衛を請け負っていた間のエピソードとしては、以下のようなものを勝が『氷川清話』に記している。
ある夜、邸宅に帰る途中の勝が三人の刺客に襲われた際、岡田は
「弱虫が何をするか」
と一喝して、その内の一人をたちまち斬り捨てた。
残る二人は逃走したため、岡田は勝の命を刺客から守ることに成功したのだが、
後日、勝からは「お前さんは人殺しを嗜むようなことはしちゃあならねえ」と諭された。
しかし岡田は「そうはおっしゃいますが、あの場に私がいなければ、先生の首は胴から離れていましたよ」と返し、
事実その通りだったこともあってか、勝はその岡田の言葉に何も言い返せなかったという。

同年5月に姉小路公知暗殺事件が発生すると、実行犯と疑われた田中のみならず、田中と親交の深い以蔵も嫌疑を受けた。
これにより、以蔵は龍馬や勝の前からひっそり姿を消した。更に上述の土佐勤王党潰滅と8月18日の文久政変で長州系尊攘派が失脚し、無政府状態だった京都は京都守護職を務める陸奥会津松平家と新選組が台頭して治安が回復し、以蔵ら尊攘派の居場所は急速に失われ、扱いも掌返しで悪くなり浮浪者同然の状態で転落していった。

その後、土佐出身の無宿者・土井鉄蔵(どいてつぞう)と名乗り行動していたが、元治元年(1864)2月、商人に対する強盗傷害の容疑で捕らえられ、土佐山内家で身許を確認した後、焼印・入墨のうえ京都を追放処分となり、山内家の捕り方に捕まり、土佐に搬送された。

牢に入れられた以蔵は自白を促すために拷問*4にかけられたのだが、以蔵はこの拷問で早々に心を折られ、泣き喚いた挙句に土佐勤王党のテロ行為を洗いざらい自白してしまう。

当然、命に関わりかねない内情をバラされた武市は怒り心頭であり、手紙などでさんざんに
「日本一の泣きみそ」
「以蔵の親が「我々では手に負えない」というから、私が面倒を見ていただけだ。本間精一郎暗殺の一件以来、私は彼を見放していた」
などと彼を罵倒している。

拷問に耐えかねて泣きわめく以蔵を見た武市は「これ以上以蔵が自白しては、我々の身が危ない」と考え、面会に来た他の勤王党員が以蔵の食事に毒を盛ろうとして、武市がこれに難色を示した。この話を武市が以蔵の食事に毒を盛るエピソードに脚色されたのだが、現在は当時の史料にそうした痕跡がみられないことから、後世の小説家による創作の可能性が高いとされる。

以蔵は慶応元年(1865)閏5月11日に打首、獄門となった。享年28歳。

同日、他の獄中に居た3人の勤王党員も斬首、武市も切腹の処分となった。

以蔵の辞世の句は
「君か為 尽す心は 水の泡 消にしのちそ すみ渡るべき」
とある。

評価

生き残りの土佐勤王党員で明治維新後に長州閥に属した田中光顕(たなかみつあき)は以蔵を「天誅の名人」と評した。ただし田中は武市などの勤王党員が明治になって名誉回復がなされた際、以蔵の名誉回復に反対し続けたとある。
以蔵の自白により、勤王党が潰滅した事を根に持っていたのかも知れない。
或いは、桐野利秋みたく、武市の名誉回復に「天誅」テロリズムは不都合な真実として、以蔵に責任をなすり付け、武市を勤王の志士として美化する為の生贄にされたとも言える。
その意味で河上彦斎や桐野、田中新兵衛と同様に明治維新後に権力を握った人達からすれば、不都合な真実を知る者として人斬りのレッテルを張り付け、黒歴史として封印したかったのかも知れない。
一般的に学の無い暗い人斬りという印象の以蔵だが、実際には高島流砲術を学び、秘密を誓う血判状に署名・押印をしているので、一定の学識、技術は持ち合わせいた。
その後、剣術とテロ行為に人生を特化したので、宝の持ち腐れとなってしまったが。
実家も裕福ではないから、学ぶ機会に限りがあったのも原因かも知れない。
途中で武市から離れたのも、以蔵なりに武市のやり方に違和感をおぼえて、武市と違う道を模索しようと高杉晋作、坂本龍馬、勝海舟と一緒に行動して、変わるキッカケを求めたのかも知れない。結局、この試みは失敗に終わり、政局の変化でお尋ね者になり、酒と女で身を持ち崩し、かつて「激剣矯正なること隼の如し」と桃井道場で称えられた剣の冴えは見る影もない程に衰え、ダメ人間へ転落してしまう。拷問に即落ちする程の豆腐メンタルが付与されてしまった。

それでも、辞世の句をみる限り、不器用なりに足掻き続けて懸命に生きた生涯、と言えなくもない。

以蔵を扱った作品


  • 五社英雄監督映画『人斬り』(司馬遼太郎『人斬り以蔵』が原作。主人公の岡田以蔵を勝新太郎、武市半平太を仲代達矢、田中新兵衛を三島由紀夫、坂本龍馬を石原裕次郎が演じた。)

  • TYPE-MOON作品『帝都聖杯奇譚』及び『Fate/Grand Order』ではアサシンクラスのサーヴァントとして参戦。
    一度見た剣技を模倣できる人斬り。個別項目があるので詳しくはこちらも参照。

  • 漫画『るろうに剣心』に登場する鵜堂刃衛や漫画『ゴールデンカムイ』に登場する土井新蔵のモデルとされている。
    他にも岡田威蔵(パワプロ)、岡田似蔵(銀魂)、岡大蔵(クラッシュビーダマン)など、主役・脇役問わず彼が登場する創作物も多く作られており、漫画やゲームでは知名度と人気の高い人である。

余談

ちなみに、インターネット上には「岡田以蔵の写真」として使われる2枚の写真があり、
1枚は顔の長い、羽織を着用した侍の写真で、もう1枚は拳銃を持ち、長い刀を佩いて西洋椅子に腰かけたぼさぼさの総髪の若い侍の写真であるが、いずれも以蔵の写真ではない。

1枚目は幕臣で軍艦操練所教授方手伝出役の(おか)()井蔵(せいぞう)の写真*5で、もう1枚は海援隊隊士・近藤長次郎の写真である。岡田以蔵の写真や肖像画は現存しない。

令和の時代にはガーシーが自らを令和の岡田以蔵と宣言するなど、憧れる人もいるみたいである。



追記・修正は四大人斬りの集合写真を撮影した方がお願い致します。


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最終更新:2026年07月30日 14:49

*1 実際は情勢の視察

*2 文久二(1862)年5月の勅使大原重徳東下の際に、両名とも士分となり、大原卿に供奉した。しかし、収賄や横領を行っていたため、評判が悪かった。以蔵たちが両名に拷問を加え、殺害しようとする最中、10歳ほどの寿三郎の娘が「お父さんを許してください」と泣いてすがったため、以蔵たちは殺すのを中止して両名を裸にして縄で縛り、往来にさらした。両名の生き晒しの様子は、当時の絵画に残されている

*3 井伊直弼の腹心・長野主膳の愛人で直弼の謡曲の師匠

*4 いわゆる「石抱きの刑」

*5 福沢諭吉たちと渡米した際に撮影した写真の切り抜き。これが「田中新兵衛の写真」としてネット上で紹介されることもあるが、田中の写真や肖像画も存在しない