河上彦斎

登録日:2024/06/21 Fri 07:05:00
更新日:2025/01/03 Fri 01:24:49
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河上彦斎(かわかみげんさい)
天保5年(1834)11月25日生~明治4年(1872)12月4日没。
幕末に人斬り四天王と謳われた剣客。
諱は玄明(はるあきら)、号は彦斎(げんさい)
変名は高田源兵衛(こうだげんべい)




概要

尊皇攘夷の志士として活躍。
戊辰戦争中に手のひらを返した様な太政官の開国政策に反旗を翻し、太政官に攘夷政策の完遂を訴えた。
太政官から攘夷論者としての影響力を恐れられ、有耶無耶に謀殺された。

誕生

天保五年(1834年)肥後国飽田郡熊本新馬借町(現熊本市新町)熊本細川家の家臣小森(こもり)貞助(ていすけ)とその妻和歌(わか)の四人兄弟の次男として誕生。
幼名は彦次郎(ひこじろう)

小森家は兄の(はん)左衛(ざえ)(もん)が相続する予定なので彦斎は11歳で同じ細川家家臣・河上(かわかみ)(ひこ)兵衛(べえ)の養子となり、僧籍であるため名を「河上彦斎」と改めた。

一般的に「げんさい」と読まれることが多いが、河上家は「ひこなり」と読んでいた。

16歳までの5年間は、細川家の学問所である時習館(じしゅうかん)に通い学問、剣道に励んだ。

ちなみに彦斎は竹刀稽古が弱く、いつも負かされては
「竹刀での剣術など遊びに過ぎん」
などと言って負け惜しみが絶えなかった
土方歳三「わかるわー」

成長した時の身長は五尺足らず(150cm程度)、痩せ型。

色白で頬骨が高く、一見女性を思わせるような容姿だった。

16歳になると細川家「御花畠」屋敷*1の掃除坊主として出仕、仕事の合間に儒学(とどろき)武兵衛(ぶへい)に、兵法を宮部(みやべ)鼎蔵(ていぞう)に弟子入りして学び、茶の湯や生け花を学び、和歌や漢詩を嗜み生涯で数多くの歌を残すなど、風流人という一面があり、接客対応が優れ、勤務態度も良好だった。

20歳の時、殿様の参勤交代の供で江戸に参府、そこでペリーの黒船来航を聞く。

泥縄式の対応に終始する幕府に轟武兵衛や宮部鼎蔵からの影響で不安と憤りを感じ、その後熊本に帰り、勤王学者・(はやし)桜園(おうえん)原道館(げんどうかん)に入門。

彦斎の尊皇攘夷論が排外的な尊皇論になった。
(おお)()(てつ)兵衛(べい)加屋(かや)栄太(えいた)*2らも原道館に入門し、マブダチとして付き合っていく。

この頃、家老付きの茶坊主になる。

安政六年(1859)、大老・井伊(いい)直弼(なおすけ)により、過激な尊皇攘夷論を唱える長州毛利家家臣・吉田松陰、松陰と親交のあった小浜酒井家家臣・梅田(うめだ)雲浜(ひんぴん)、将軍後継争いで暗躍した福井松平家家臣・橋本左内を処刑する安政の大獄が起こる。

在野の志士が憤慨し、翌万延元年(1860)、水戸を出奔した浪士達によって桜田門外で井伊大老は暗殺。

この事件で重傷を負いながらも生き残った水戸浪士の(もり)五六郎(ごろくろう)大関(おおぜき)和七郎(わしちろう)森山(もりやま)繁之介(しげのすけ)杉山(すぎやま)弥一郎(やいちろう)の四人が、江戸の熊本細川屋敷にたどり着き、自首するが体力が回復までしばらく休養したいと懇願した。

大老殺害犯四人をいかに扱うか屋敷内は大騒ぎになったが、家老付き坊主として江戸屋敷にいた彦斎は、尊皇攘夷運動を実践した彼らに敬意を抱き、医者を呼び、茶の湯の接待をするなどして丁重にもてなした。

この行為で彦斎の名は全国の志士の間に知れ渡った。

文久元年(1861)、彦斎は細川家家臣三沢家の次女てい(後に彦斎が天為子(ていこ)と改名)と結婚。

この年の暮れ、中山大納言家の諸大夫・田中(たなか)河内介(かうちのすけ)(この年に最初に熊本を訪れ、肥後勤王党志士らと共鳴)の紹介状を携えて清河(きよかわ)八郎(はちろう)が熊本を訪れた。

清河は中山大納言が攘夷を実行するために立ち上がるからと熊本の参加を促したが、田中河内介の紹介でも熊本人は清川が信用出来なかった。

清川を信じたかった彦斎は何とか先輩同志たちを説得するが無駄に終わる。

清河はそれに腹を立てて熊本人へ
「肥後の議論倒れ」
と捨て台詞を吐き去ったが、彦斎だけは評価した。

熊本を去った清河八郎は薩摩へ行き薩摩島津家の実力者・島津(しまづ)久光(ひさみつ)を説得、上京させることに成功。

島津久光が兵を率いて上洛すると聞いて、清河をサギ師の類似品と見下していた宮部鼎蔵は、慌てて熊本細川家を尊皇攘夷に導こうとするが、細川家は動かない。

熊本細川家は下級武士が過激な尊皇攘夷論者で集まる『肥後勤王党』、上級、中級武士たちは徳川幕府を支持する『学校党*3』、横井(よこい)小楠(しょうなん)元田(もとだ)永孚(ながざね)らが提唱する『実学党*4』三者に分かれていた。

『肥後勤王党』は下級武士が熊本細川家の政治に携わる事が出来ない為、影響力が弱かった。

『学校党』が基本的に権力を握り、『実学党』が批判するのが常だった。

肥後勤王党の志士の中には宮部鼎蔵みたく出奔して全国の尊攘派志士達と政治活動に励む者が出て来た。

彦斎はこの頃、結婚したばかりで生活があるし、上洛するだけの金も無かったので、宮部と連絡を取り合い朝廷内の尊皇攘夷色を強くする政治工作に奔走。

それが功を奏し、文久2年(1862)12月、朝廷から熊本細川家へ京都警護の要請が来たので、11代当主・細川(ほそかわ)韶邦(よしくに)の名代として当主の弟・長岡(ながおか)護美(もりよし)が上洛、京都警衛を勅せられた。

随従員として上洛が認められ、蓄髪が許され、坊主職も解かれた。

京都デビュー


熊本細川家は御所警備として乾門(いぬいもん)を担当し、親兵を差し出す様にと朝廷から沙汰があった。

彦斎は親兵として差し出され勤務態度は朝廷内で評判が良く、交代の時期がきても彼だけは引き続き警備の任に就かせていた。

中でも三条(さんじょう)実美(さねとみ)は彼を大いに信頼し、次のような手紙を送った。

『日々の形勢は切迫して、孝明天皇(こうめいてんのう)は悩み事しか頭にない、嘆かわしい事である。

 この秋こそ、天下有志の士の憤発により、いよいよ尊皇攘夷の志を励まし、速やかに孝明天皇の悩みの種を取り除き、心を安静にさせるのです。

 あなたは太陽より明るく、月の光の様に慈愛に満ちた誠の心の持ち主です』

彦斎はこれに感激して、故郷の長男彦太郎(ひこたろう)に自分の手紙も添え、これを送った。

「この書を見るのは父をみるがごとくせよ。

 立派に成長し、父の志を辱めることなく国家のために働きなさい」
と。

念願の志士として京都デビューを果たした彦斎だが、前途は多難だった。

長州毛利家と彼らに担がれた公卿たちは、大衆に対して生活苦が開国と貿易による物価高にあると広言。

また、知識人達には徳川幕府の外交を国辱的と詰り*5、現在の通商条約を破棄して欧米列強と戦争し、その後の談判で新しい条約を定めるという
破約(はやく)攘夷論(じょういろん)
を振りかざし、世論を攘夷へ向けるべく全力疾走。

孝明天皇が外人を先入観から毛嫌いしているのを上手く扱い、孝明天皇から毛利家へ陣羽織を下賜、対外戦争は長州にお任せ!という雰囲気を作った。

長州も自国の海域を通行する外国船に手当たり次第砲撃を行い
帝に代わってお仕置きよ!
とアピール。

幕府から長州へ調査団が派遣されたが、船を拿捕し、使節を殺害するなど勢いが止まらなかった*6

同年8月13日大和行幸の詔*7が出され,同時に長州毛利家当主•毛利(もうり)敬親(たかちか)らに上京が命じられた。

諸大名へも行幸供奉(ぐぶ),軍用金献納が命じられた。

同年8月17日に大和国五条で天誅組の変*8が勃発した。

他の諸大名や公卿たちは
駄目だこいつ……早くなんとかしないと……
と結束

これにより、長州毛利家とその取り巻きの公卿達は京都を追われた。
中川宮「おめぇーの席ねぇーから!
会津武士、新選組「カエレ!」

これ以降、彦斎たちは逆境に入る。

長州毛利家領内に入国し、長州人や長州に亡命した志士達と仲良しになった。

志士達は、会津やその配下の新選組による警備態勢が敷かれている京都へ潜り込み各地の尊攘志士達と連絡を取り合って失地回復を計画。

この流れを変えるには強硬手段しかないと考え、御所に潜入して放火騒ぎを起こした隙に孝明天皇を拉致、騒ぎに駆けつけた中川宮(なかがわのみや)*9、京都守護職・松平(まつだいら)容保(かたもり)*10を暗殺する計画をたてた。

この計画は新選組に知られ、宮部らは池田屋で会談中に襲撃され、宮部をはじめ彦斎の同志でもあり、親しい友人でもあった松田重助(まつだじゅうすけ)や長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)杉山松助(すぎやままつすけ)、土佐の北添佶麿(きたぞえきつま)らが死亡。

長州でその悲報を同志の大楽(だいらく)源太郎(げんたろう)から聞いた彦斎は悲憤し、上洛。

京都に来て、長州系維新志士の久坂(くさか)玄瑞(げんずい)からある事を手伝って欲しいと頼まれた。

人殺しである。

佐久間象山暗殺


話はこうである。

佐久間(さくま)象山(しょうざん)*11という開明的な大物洋学者がいる。

今は将軍後見職・一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)*12の相談役として京都にいる。

彼が門人で会津松平家家臣の山本(やまもと)覚馬(かくま)、同じく公用人・広沢(ひろさわ)富次郎(とみじろう)と組んで孝明天皇をお試しコースで彦根城に来てもらい、そのまま本格コースに切り換えて江戸に連れていき、江戸城で和宮と兄妹仲良く暮らしてもらう計画である。

そんな事をされたら、長州は手も足も出ない状態に陥るから、阻止する為に佐久間を消して欲しいと。

依頼を受けた彦斎は象山暗殺を決意。

元治元年(1864)7月11日、彦斎は同志を集め斬奸状をしたため象山の宿舎の辺りで待ち伏せ。

佐久間象山暗殺に携わったのは彦斎、鳥取松平家家臣・前田(まえだ)伊左衛(いざえ)(もん)、平戸浪士松浦(まつうら)虎太郎(とらたろう)の3人。

三条大橋の辺りで佐久間象山は切りつけられて絶命。

暗殺を成し遂げた彼らは、斬奸状を急いで貼りだし姿を消した。

その斬奸状は。

『この者、元より西洋学を唱え、開国説を主張し枢機の方へ立ち入り国の方針を誤らせる大罪捨て置くことができず、奸賊会津・彦根と共謀し、中川宮とはかり、恐れ多くも天子様を彦根城へ奉ることを企て、その機会を窺っているところであった大逆無道の国賊である。
それゆえ今日三条木屋町にて天誅を加えた。
昼間であったため、さらし首にはできない
皇国忠義士』

というものだった。

そして、これが最後の人斬りとなった。

彦斎は象山暗殺を後に振り返った。

「余人を斬る、なお木偶人形を斬るがごとく、かつて意に留めず。
アミバ「木偶人形、いいねぇ~、友達になろうよ」
しかるに象山を斬るの時において、はじめて人を斬るの思いをなし、余をして毛髪の逆立てに堪えざらしむ。
これ、彼(象山)が絶大の豪傑なると、余の命脈すでに尽きるのきざしにあらざるなきを得んや。
今より断然、人斬りを改めて、まさに象山をもって、その手を収めんのみ」

象山を斬る時に、象山の豪傑さゆえに髪の毛が逆立ち、初めて人を斬る思いが生じた。
そして、これは自分の命が尽きる前兆であると感じ、これ以降、人斬りを止めた。

この時、彦斎が人を斬るときは、右足を前に出してこれを折り、左足を後方に伸ばして膝を地面にすれすれに接し、右手一本で斬りかかる。
(※居合的な「逆袈裟の切り上げ」という事。)
この独特の剣法で彼は、
「人斬り彦斎」
として描かれる事が多いが、確実に彦斎が斬ったのは佐久間象山だけであって、他に誰を斬ったかは分からない。

逆境

象山暗殺の八日後の七月十九日、長州毛利家は京都を追放された長州派公卿、殿様の京都政界復帰を訴える武力行使に出た。
禁門の変である。

国司(くにし)信濃(しなの)福原(ふくはら)越後(えちご)益田(ますだ)右衛(うえ)門介(もんのすけ)の三家老が指揮する部隊が御所を守る会津、薩摩、桑名松平家などの兵と激戦。

彦斎は国司信濃隊に入って戦ったが、幕末武士団番付けの東西両横綱、西の薩摩と東の会津に、加えて新選組を敵に回して勝てる術は無かった。

指揮官・来島(きじま)(また)兵衛(べえ)は戦死、久坂玄瑞、真木(まき)和泉(いずみ)らは自刃、長州軍は撃退された。

彦斎は長州本隊と別れ、しばらく鳥取松平家邸に身を隠し、米子挙兵を三条実美に上奏したが土佐の土方(ひじかた)久元(ひさもと)らに反対され、長州へ再亡命。





と実は国家元首として対外戦争の責任を取らされると解ると、
「オレへ色々吹き込んでくれた挙げ句、オレの家にまで砲弾をブチ込んだ長州へお仕置きからの御詫びと反省が最優先!外国とのやり取りはそれから!」
と懲罰目的で徳川幕府に命じて征討軍を編成させた。

この戦いで政権が徳川幕府寄りに傾いてしまった長州毛利家。

征討軍を揃えた幕府に、毛利家では三家老*13、四参謀*14を処断、謝罪して第一次長州征伐は終了。

高杉晋作(たかすぎしんさく)志道聞多(しじぶんた)(のちの井上(いのうえ)(かおる))ら残りの尊皇攘夷派は毛利家から命を狙われるようになり*15、筑前平尾山荘の野村(のむら)望東尼(もとに)のところに潜伏したが、ネズミの様に逃げ回って死ぬくらいなら、男子たる者大望を抱き一か八かで勝負を挑んで戦った方が男子の本懐と高杉は下関の功山寺で武装蜂起。

長州国内で潜伏していた彦斎はこの高杉の挙兵を喜び自らも一隊を組織しこれに呼応、ついに高杉軍が毛利家を主催する椋梨藤太(むくなしとうた)軍を打ち破り、毛利家の主導権は高杉らによって占められた。

ちなみに高杉はこの後、イギリスに行きたいとか、下関は開国して外人を招いて貿易を盛んにしようなどと口にしていたら、彦斎と大喧嘩して絶交になった。

潜伏していた木戸孝允の帰国、大村(おおむら)益次郎(ますじろう)らの新加入で軍隊を再編成、薩長同盟で海外の武器が薩摩から横流しで手に入り新たな力を手にした長州に対し、孝明天皇や徳川幕府は謝罪と反省が足りないと、第二次長州征伐を敢行した。

彦斎は芸州口、石州口で戦い、最後は小倉口に転戦。

そこで、古巣の熊本細川家の軍隊と対峙する。

それを見て木戸、高杉らが猛反対する中、長州軍を抜け一人熊本に帰る。

時勢に気づいていない細川家首脳達を説得しに。

しかし、返り討ちに逢い、投獄、1年間を過ごす。

自殺はしなかったし、殺されもしなかった。

理想と現実

孝明天皇の崩御、明治天皇(めいじてんのう)の即位、大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争となり、京都に薩摩・長州が中心になって太政官を立ち上げた。

熊本細川家は太政官にコネがないので、長州系維新志士として働いた経歴を持つ彦斎を釈放し、彦斎は外交官として働く事になった。

この時、長岡護美の勧めで名を「高田源兵衛」、後に「高田源兵」と改めた(読みは同じ)。

京都で実際に体験したのは、徳川時代よりえげつない太政官の外交姿勢だった。
徳川幕府の外交を国辱と叩いていた奴らが権力を握るとそれ以下の外交をするとか、質の悪い冗談としか思えなかった。

そんな日本を作るために仲間は死んだ訳じゃないし、俺達は頑張った訳じゃ無い!

今や太政官の中枢にいる木戸孝允や三条実美と面会すると、
「攘夷は愚かの戯言、今は開国して外国の文明を吸収し富国強兵を計るべきだ」
とくるっくるっと手のひら返し。

彦斎は
「確かに今の日本の文明では外国に太刀打ち出来ぬ。
 しかし最初から負けを恐れて開国し夷人にへつらい何が富国強兵だ。
 今は攘夷断行し、たとえ負ける事があっても日本人全員が一丸となれば彼らも礼をもって接して来るだろう。
 開国はそれからでも遅くはない。」
と訴えたが議論は平行線。

三条実美は
「彦斎が生きているうちは枕を高くして寝られない」
と側近に漏らし、木戸は彦斎と話していて、
「貴様は、あの時真剣に攘夷を考えていた者たちを利用し騙したのか!?」
と胸ぐらを掴まれ、壁ドンされ、鼻に傷を負ったとある。

細川家の命令で諸国の状況を観察する途中、佐久間象山の故郷である信濃国松代真田家に立ち寄った時の逸話。

彦斎は宴席で、一人の真田家家臣から
「当家に佐久間象山という偉人がいました。
しかし、御家の河上彦斎に暗殺されました。
その息子の恪次郎(別名三浦啓之助)は仇討ちのために国を出ています」
と伝えられた。

すると、彦斎は
「えぇ、私は河上彦斎をよく知っています。そりゃあ本人だもの
たいへんな腕前ですが、息子の本懐を遂げさせてやりたいものです。やる気スイッチがあればね
機会があれば助太刀したいですねwww挑まない者のカレンダーに機会は無いでしょうwww
と眉ひとつ動かさず、冷静に返した。

江戸では勝海舟(かつかいしゅう)*16に面会していたが、後日、明治30年(1897)9月の新聞談話で
「河上彦斎、古荘(ふるしょう)嘉門(かもん)*17竹添(たけぞえ)進一郎(しんいちろう)*18が東北連合(=奥羽越列藩同盟)を創ったという話を聞いた際、このころ、河上は玄徳、古荘は関羽、竹添は孔明に、なったでもいるかのようなつもりになっていたと評している。張飛「おい」

さらに勝は河上について
「河上はそれはひどい奴サ。
 コワクテコワクテならなかったよ。
 たとえば、こう話して居てサ。
 巌本(=聞き手)と云うものは野心があると云う話が出ると、ハハ、アそうですかなどと空嘯いてとぼけて居るが、其日、スグト切って仕舞う。
 そしてあくる日は、例のごとくチャンとすまして来て、少しも変わらない。
 彦斎は喜怒色にあらわれずだヨ。
 あまりに多く殺すから、或日、ワシはそう言った。
『あなたのように、多く殺しては、実に可哀想ではありませんか』
 と言うと、
『ハハア、あなたは御存じですか』
 と言うから、
『それは分かって居ます』
 と言うと、落ち着き払ってネ。
『ソレハあなたいけません。あなたの畠に作った茄子や胡瓜は、どうなさいます。善い加減のトキにちぎって、沢庵にでもおつけなさるでしょう。
 アイツラはそれと同じことです。
 どうせあれこれ言うて聞かせてはダメデス、早くチギッテ仕舞うのが一番です。
 アイツラは幾ら殺したからと言って、何でもありません』
 と言うのよ。
 己れはそう言った。
『あなたは、そう無造作に、人を殺すのだから、或は己なども、ネラワレルことがあらうから、そう言っておきますが、だまつて殺されては困るから、ソンナ時は左様言うて下さい、尋常に勝負しましょう』
 と言うとネ、
「ハハー、御じようだんどり」と言って笑うのだ。始末にいけない」

と話している(『海舟語録』)。


米沢上杉家家臣・宮島誠一郎(みやじませいいちろう)の案内で奥羽越列藩同盟の本拠地・白石城に赴き、会議の一部始終を聞いていた。

彦斎たちは同盟が太政官を引き付けて戦争を長引かせる間に、軍を率いて大阪や京都を抑えて明治天皇の身柄を確保、東西から太政官を挟み撃ちにする戦略を建てたが、同盟が敗北したので未発。

熊本で政府に従わない民として過ごすと決意し、戻ると厄介払いとばかりに、明治二年(1869)1月、藩治職制*19で熊本細川家から名前を改めた熊本藩から飛び地である大分鶴崎へ派遣、守備隊の隊長に就任。

彦斎は鶴崎で有終館(ゆうしゅうかん)という学校を設立。

17歳から45歳の男子をイギリス式の軍隊に編成し、兵士の養成に務めていく。

土地の儒学者・毛利(もうり)空桑(くうそう)を招いて兵士達に教授させたり、自らも国学を講義するなど、後進を育てる事に尽力した。
ヤン・ウェンリー「私も動くシャーウッドの森を作ったからね」

同年2月に太政官から東京に出て役人として働くようにと手紙を受けたが、
「働きたくないでござる」
とこれを断った。

同年11月に鶴崎にある彦斎の屋敷に、攘夷派の反政府活動家達が訪ねて、
「僕と契約して、究極の攘夷を実現しよう」
と誘われたが、
「この攘夷は出来そこないだ、実現出来ないよ」
と断りを入れている。

翌年(1870)1月に長崎に出張した際も、攘夷派の反政府活動家達が訪ねて、(ry。

殖産振興のため朝鮮、大阪、北海道との交易にも着手しようと長崎に来たのに仕事にならなかったのである。

同年3月、鶴崎で大村益次郎暗殺事件*20や脱退騒動*21に関与した大楽源太郎が逃げてきたので匿って話を聞くと、攘夷より仲間の仇討ちを誘ってくるので、協力は出来ないよと断りを入れている。

暗転

6月に熊本で「学校党」から「実学党」に政権が代わり、有終館は攘夷派の巣窟だからと解体、彦斎は御役御免となり月末に熊本に帰るが、10月に閉門*22を受けた。

彦斎はこのままだと投獄→処刑は間違いないと判断し、諸国の攘夷派と連携して武装蜂起を決心。

そのために藤崎八幡宮で神占を行った処、武装蜂起は凶という占いが出た。

神占=神の意思に従い、彦斎は武装蜂起を放棄。

同年11月14日、熊本藩は反政府分子と付き合っていたからと彦斎ら*23を逮捕、投獄。

明治4年(1871)1月9日の参議・広沢真臣(ひろさわさねおみ)暗殺事件*24に関与したという疑いや、追加で二卿事件*25への関与が疑われ、同年4月29日、東京へ護送された。

熊本を離れる際、彦斎は次のような一首を詠んだ。

「火もて 焼き水もて 消せど変わらぬ わが敷島の 大和魂」

自分の熱い信念は変わることはないという、彦斎の想いが込められています。

吉田松陰なども投獄された小伝馬町の牢屋敷に送られた彦斎を担当した裁判官は、かつて勤王の同志であった岩国出身の玉乃世履(たまのせいり)*26

木戸孝允から欧米視察前に
「彦斎は豪傑であるが、良く言えば意志が固い、悪く言えば頑迷固陋。
 味方にはならないであろう。
 帰ってくるまでに始末しておいてくれ」
と言われていた玉乃は断罪を下すに忍びないと思い、彦斎を呼び出してこう説得した。

「貴兄の気持ちはわかるし、それも一理はあるが、すでに今日は時勢が一変しています。
 どうぞ現政府のなすところに協力して下さらぬか。
 小官(玉乃)は切に国家のために、そして貴兄のために心から勧めたい」

彦斎は玉乃の言葉に対して、

「御厚意ありがとう。
 しかし、自分の尊攘の志は、神明に誓い、同志と約し、死生必ず背くまいと誓ったものである。
 同志の多くは、この誓約のもとに殉じていったのである。
 今日に及んで、生命を惜しんで、その約に背き、志を改めたら自分はどうなるだろう。
 時勢が一変したのではない。
 諸君が国の為にと我が身可愛さを包んで糊塗し、尊攘の志を捨て『時勢が変わった』と念仏の様に唱えて裏切りや寝返りを赦しているだけだよ。
 自分は徹頭徹尾一身の利害のために素志を改め、節を変えるなど、そんなことは出来申さぬ」
と答えた。

明治4年(1872年)12月3日に死刑の罪状が出て、内容は
「太政官を蔑ろにして、不容易な陰謀を企てた不届き者だから、士族から庶民に格下げして首を刎ねます」
というモノだった。

死刑判決を受けた際に詠んだ句は
「君を思い君の御法に死ぬる身をゆめ見こりなそつくせ世の人」
「かねてよりなき身と知れど君が世を思う心ぞ世に残りける」
の2首。

辞世の句は
「君が為め死ぬる骸に草むさば赤き心の花や咲くらん」
と、故郷にいる轟武兵衛に贈ったもので、
「あはれとも人なとへかしはらひあへで浮世の塵に沈むわが身を」
の2首。

処刑は即日、日本橋の小伝馬町にて行われた。

この日は彦斎の他にも二卿事件の盟主・愛宕(おたぎ)通旭(みちあき)外山(とやま)光輔(みつすけ)が切腹、彦斎の他には秋田藩大参事・初岡(はつおか)敬治(けいじ)、久留米藩・小河(おごう)真文(まふみ)、柳川藩・古賀(こが)十郎(じゅうろう)、愛宕通旭家来・比喜多(ひきた)源二(げんじ)が斬罪。

国内の攘夷派が壊滅した瞬間である。

戒名は應観法性信士。

墓は池上本門寺にあり、「河上彦斎先生碑」が建立されている。徳富(とくとみ)蘇峰(そほう)北里(きたざと)柴三郎(しばさぶろう)らが発起人として設立した。

彦斎は殺された理由が上述の人達より弱く、証拠も不十分なモノばかりで、良くて冤罪、悪くても禁錮刑と言われている。

太政官が体制内外の攘夷派を粛清したのは、徳川幕府を倒すまでは幕府の弱腰外交を叩くネタとして攘夷思想を担いだが、いざ、自分たちが外交を担当するとネタに使った攘夷思想が邪魔だから、誰かの独断専行という扱いにして攘夷を有耶無耶にしたかった。

経緯としては戊辰戦争中の年貢半減令にそっくりである。

戊辰戦争中に在野の攘夷派志士から年貢半減令を布告したら長年の悪政に苦しむ民心を引き寄せられると実行すると、太政官が大坂の大商人達から軍資金をお願いしたら、年貢半減令で年貢米収入が半減するから撤回しろと言われ、相楽(さがら)総三(そうぞう)らの独断専行という扱いにして、年貢半減令を有耶無耶にしたみたいに、年貢半減令の相楽総三ポジに入れられたのが、彦斎なのである。

事実、太政官へ攘夷派と入れ代わりに加入したのは旧幕臣出身の海外事情に明るくて事務処理能力が高い人材だった。

これにより、太政官は文明開化政策に大鉈を振るう事が出来た。

太政官を追われた攘夷派はその後、征韓論などの対外強硬論者として日本の国威を発揚するべきだ!、と叫んだり、一部には日本、朝鮮、清の3カ国で大アジアを連帯して、白人の横暴に対抗するべきだ!と叫んだりした。

彦斎は西洋の技術*27日本の美意識を合わせれば、良い国•日本が出来るのにと思ったのかも知れないが皮肉な事に、その答えは彦斎が斬り殺した佐久間象山の「東洋道徳西洋芸術」と同じモノだった。


遺族のその後と現れた足長おじさん。

彦斎処刑後、残された天為子未亡人と遺児・彦太郎は貧乏のどん底に落ちた。

一族も国事犯の遺族だからと距離を取ったか、唯一、長州系維新志士、陸軍軍人の山縣(やまがた)有朋(ありとも)だけは彦斎の遺族を支えて続けた。

ある時県庁から天為子未亡人に呼び出しがあり、県庁に行ってみると「下賜」と書いてある金一封。

山縣有朋からすれば尊皇攘夷運動の先輩である彦斎だか、彦斎が処刑された頃は海外へ軍事制度の視察で外遊中。

自分がいたら救えたかも知れないと悔悟の気持ちはあったとか。

その遺族に対し山縣は「下賜」という形で金銭的な援助を申し出たが、未亡人は
「貧しいけど、私達は物乞い、乞食ではない。
馬鹿にするな!
 このお金は受け取れないし、他の為に役立てて下さい」
と言って県庁の役人を驚かせた。

後に山縣は
「これは失礼極まりない事をした。
さすがは彦斎先生の奥方である。
大和撫子とはこう有りたいモノだ」
と感動して形を変えて援助をし続けた。

人柄

平生は礼儀正しい温和な人物であるが、頑固で野性的、激烈な性格の反面、人情に厚く、親思いで、妻子にも優しかった。

反面平気で人を斬る残忍性も併せ持ち、
「ヒラクチ(蝮蛇)の彦斎」
などと呼ばれていた。

肖像

インターネット上では、笠をかぶり頬かむりをつけた若い侍の写真*28が「河上彦斎の写真」としてしばしば記載されている*29が、彦斎の写真は現存しない。

ただし、肖像画は現存しており、総髪を茶筅髷風に結っている丸顔の画像が残っている。

人斬り四天王

彦斎は人斬り四天王と書かれていたが、目立つ人斬りは佐久間の件だけで、その後は暗殺家業から足を洗っている。

人斬り四天王は他に、田中新兵衛、岡田以蔵、中村半次郎*30

しかし、四人が一同に介した場面は存在しない。

田中と岡田は同時代で活躍したが、彦斎は田中や岡田が失脚した後に京都デビューしたし、中村は目立つ人斬りが慶應3年(1867)9月3日に洋学者・赤松(あかまつ)小三郎(こさぶろう)の件だけで、しかも薩摩島津家での契約満了の後、会津松平家に雇われてイギリス式訓練を教えると聞かされた島津家側が軍事機密漏洩防止と会津武士にイギリス式を教えたら薩摩武士と対等の戦力になり、討幕がやりにくくなるという、それなりの理由は存在する。

中村は明治期に政府高官となった薩摩系の維新志士が先輩の西郷隆盛の名声を保つ為に、西郷の裏仕事や汚い役割を全て中村に被せて、人斬りのレッテルを貼り付けた。

彦斎は太政官が攘夷を黒歴史として葬る為に彦斎に文明開化政策に反対する攘夷系大物活動家として扱い、佐久間、大村、広沢と開明的な人物の暗殺に携わった攘夷派の人斬りとしてレッテルを貼り付けて、有耶無耶の内に処刑した。

彦斎と中村は権力側の都合で付けられたあだ名だと思う。


余談

るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』の主人公、最強の維新志士と謳われる人斬り抜刀斎こと緋村剣心のモチーフである。
なお、るろ剣世界でも彦斎は存在しているらしく、再筆において姿が描かれた。
……が、抜刀斎と容姿も戦い方も似ているのでよく間違えてお互いいい迷惑だと考えており、一度直接会って話を付けなければと思っている
ちなみに抜刀斎は彦斎とは割と対極的な境遇*31であり、維新志士の暗部を知る立場でありながら結果的に謀殺を避ける事ができている。

上記の剣心の件を受けてか『アサギロ』に登場する彦斎は口癖が「おろ」だったりする。

そう考えると、『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』の緋村剣心相楽左之助、剣心のモチーフになった彦斎と左之助の師匠である相楽総三は太政官の闇を知っているが故に謀殺されたという意味では興味深い。




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最終更新:2025年01月03日 01:24

*1 本丸御殿が使い勝手が悪いという理由で作られた屋敷。代々の細川家当主が国許の滞在先にした

*2 後に「霽堅(はるかた)」と名を改め、神風連の乱を起す

*3 構成員が細川家の学問所・時習館を卒業して官職に就任しているから

*4 学問は現実の社会問題を改革するために用いられなければならないと主張。途中から徳川体制を改めて、朝廷の下、立法は諸大名の代表が集まり国内の問題を討議し、諸大名の家臣から選出した人達が官僚として行政を行う公議政体論を主張した

*5 俗に言う城下の盟

*6 朝陽丸事件

*7 尊攘派が政権奪取を企図した攘夷親征の行幸計画。具体的には孝明天皇が大和の神武陵・春日社に行幸し,親征の軍議を行い,伊勢神宮に参宮するというもの。真木和泉らは長州毛利家を動かして天皇の攘夷親征・王政維新を企て,討幕の機運をつくろうとした

*8 攘夷派公卿の前侍従中山忠光(なかやまただみつ)を主将に迎えて発生した武装蜂起。土佐出奔の吉村寅太郎(よしむらとらたろう)、三河出奔の松本奎堂(まつもとけいどう)、備前出奔の藤本鉄石(ふじもとてっせき)らが主導。8月18日の政変で攘夷派の公卿は失脚。大和行幸は偽勅とされ、天誅組は逆賊として孤立し、幕府の追討を受けて壊滅した

*9 皇族。孝明天皇の相談相手、政治顧問。

*10 会津松平家当主

*11 吉田松陰の師匠でもある

*12 後の15代将軍•徳川慶喜

*13 国司信濃、福原越後、益田右衛門介

*14 宍戸左馬之介,佐久間佐兵衛,竹内正兵衛,中村九郎

*15 井上馨は元治元年9月25日、刺客に襲われ、50針を縫う重傷を負い、九死に一生を得る

*16 妹が佐久間象山の妻・順。この頃は徳川宗家の軍事取扱

*17 学校党の人物。後に熊本国権党を創立、衆議院議員になる

*18 学校党の人物。朝鮮弁理公使や東京帝国大学で漢文学の教授。娘が講道館柔道の創立者・嘉納治五郎の妻で義理の父にあたる

*19 明治元年(1868) 10月28日に布達された太政官令。大名家を藩という呼び名で統一し、各大名家でまちまちな職制を,藩主,執政,参政,公議人などの職制に統一。収入の使い方や兵隊の上限などが定められた布達

*20 明治2年(1869)9月4日に発生した長州系大物維新志士の襲撃事件。同じ長州系攘夷派に襲われ大村は11月5日に死亡

*21 明治3年(1870)1月、山口藩で発生した事件。奇兵隊や遊撃隊の兵隊や下士官たちが山口藩に奇兵隊や遊撃隊の幹部連中が隊の公金で贅沢に遊んでも処罰されないのに、戊辰戦争を命がけで戦った自分たちを藩政改革の名の下にリストラして無一文で路頭に迷わせるのか、と反発して武装蜂起。木戸孝允が軍隊を率いて鎮圧した

*22 外出、他国人との面会や文通の停止を命じる刑罰

*23 他は木村弦雄、加屋栄太、鬼丸競、吉海良作、荘野彦七、福岡応助、冨永万喜

*24 長州系大物維新志士の暗殺事件。現場の状況など不自然な点が多々見られ、横井小楠、大村益次郎に続く太政官要人の暗殺に、明治天皇は「賊ヲ必獲ニ期セヨ」と犯人逮捕を督促する異例の詔勅が出た。このとき広沢の妾や使用人を含む80数名が暗殺の容疑者として取り調べられたものの、下手人の特定にさえ至らず、結果として80数名全員に無罪判決が降りた。結局この暗殺事件は迷宮入りとなり、真相は今日に至るまで不明である。

*25 太政官内部で行き場を失った攘夷派公卿や官僚たちが久留米藩、秋田藩など諸国の攘夷派志士と連絡を取り、同時多発的な武装蜂起を画策した事件。処罰者339人、死刑11人は安政の大獄で行われた死刑8人より多い。名前の由来は首謀者の愛宕通旭(おたぎみちてる)と外山光輔(とやまみつすけ)が二人とも公卿だから。これらの事件は安政以来の大獄と後世呼ばれ、飯泉喜内の事件が後に安政の大獄と呼ばれる様になる。

*26 名の読みは「よふみ」とも

*27 鶴崎の熊本藩兵はイギリス式で鍛えていたし

*28 この写真は明治初期に外国人向けの土産物として撮影・販売されたものであるというが、被写体の素性や写真の撮影者は不明

*29 ウィキペディアの該当記事でも記載されていたが、最近になって画像が削除されている

*30 後の桐野利秋

*31 抜刀斎は農民の出であるため、学はなくOVAでは「人斬りに学問はいらん」と言い放つなど人々が平穏に暮らせる新時代を作りたいという想いは強いが攘夷等の思想は薄く、人斬りを退いてからは遊撃剣士として志士達を守り続けたので守られた志士達側も恩義を感じており、直属の上司である木戸孝允に維新後は志士を離脱する事は早々に伝えて許可を貰っている。