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田中新兵衛

登録日:2026/01/06 Tue 13:40:34
更新日:2026/07/31 Fri 10:20:48
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田中(たなか)新兵衛(しんべえ)(1832〜1863年)

通称は新兵衛(しんべえ)、後に雄平(ゆうへい)。諱は親光(ちかみつ)



概説

幕末期に薩摩攘夷派志士として幕末の四大人斬りだの人斬り四天王、「人斬り新兵衛」と呼ばれ、「天誅」テロリズムを象徴する人物。

生涯

天保3年(1832)、薩摩島津家(禄高77万石)の領内に生まれる。
実家や家族を記した記録が無く、薩摩島津家の史料には「鹿児島城下の下町に住む。幼年の時、森山新蔵に奉公する者」と記されている。
要は町人で子供の頃に丁稚奉公で森山家に仕えた身分という事になる。
雇い主の森山家が水産物や農作物の販売をする鹿児島城下指折りの豪商で、島津家の財政再建に協力した見返りに武士に取り立てられた。森山は大久保利通の父親・利世(としよ)と仲が良く、その伝手で後に精忠組*1のパトロンとなった。
利世がお由羅騒動*2で失脚し、利通も無職となり大久保家の生活が苦しくなった際、森山が生活費を支援した。
その使いで大久保家に出入りしていたのが田中で、大久保利通の伝記には「田中はたかが町人。たかが町人と言っても立派な町人もいるけどね」と記している。大久保家が罪人扱いとなり、表立って接触出来ない為、薬売りとか理由をつけて大久保家に出入りしていたのが、後年、田中は薬売りという話になった。船頭説は森山家の漁船で漁に出て船頭をしていたから出て来た話。

安政の大獄前後に精忠組が幕府の大老・井伊(いい)直弼(なおすけ)の殺害と京都への出兵を計画し、森山家を通じて田中に船の準備を依頼される。これが田中の政治参加の第一歩となる。計画は途中で雲散霧消した。

文久2年(1862)、薩摩島津家の実力者・島津(しまづ)久光(ひさみつ)が亡き兄で前当主・斉彬(なりあきら)の遺志を継ぎ幕政改革と率兵上京を実施すると、森山は物資運搬用に鰹漁船2隻を購入、この漁船の船頭に起用されたのが田中だった。
この時、森山家の奉公人から島津織部(おりべ)の家臣として仕える事になる。理由として島津織部は島津家一門で水軍を統括する家柄。島津家の御用を勤めるにはこの形が一番自然だった。

元主人の森山も武士身分を金で購入しているが、のちに息子の新五左衛門が寺田屋事件*3で負傷し、切腹を命ぜられて弱冠19歳で世を去ったことで、自身のこれまでの行動を、
「二本差しなどをありたがって、身の丈に合わないことをした」
と恥じ、
「長らへて 何にかはせん 深草の 露と消えにし 人を思ふに」
と辞世の句を詠み、切腹して果てた。
曾て自身を目をかけて育て、かつ武士としての人生を送るきっかけを作ってくれた恩人の死に、田中は慟哭したという。

森山親子の死を鹿児島で聞いた田中は途中まで久光の行列に参加して京都までやってくると、そこから抜け出して京都留守居役・藤井(ふじい)良節(りょうせつ)の元に身を寄せた。
話し相手は主に海江田(かいえだ)信義(のぶよし)が務めていた。海江田は昔、森山家に生活費を支援して貰っていた時期があり、その頃から田中との付き合いがあった。
海江田は尊王攘夷主義者でその仲間で豊後岡・中川家(禄高7万石)の家臣、小河一敏(おごうかずとし)からの情報提供により、田中は関白・九条尚忠(くじょうひさただ)の家臣・島田左近(しまださこん)が「安政の大獄で長野主膳に協力した島田左近が京都にいる」という情報を知らせてきたので、田中は島田を執拗につけ狙い、文久2年(1862)7月20日ついに島田を夜の闇に紛れて隠れ家にいるトコロを殺害。

一説には島津久光の密命説があり、久光が九条の関白辞職を朝廷に建言。島田殺害の3日後に藤井が事件の報告として江戸へ出立。この説だと、「たかが町人」の田中にそれをヤラせるのはリスクが高すぎるのだが…

とはいえ、デビュー戦で大物を仕留めたメンタルの強さはハンパなく、田中の名前は在京の志士に広まった。
同年8月、小河の紹介で土佐勤王党の武市(たけち)半平太(はんぺいた)瑞山(ずいざん))と知り合いになり、義兄弟になった田中はその子分と言える岡田以蔵と手を組み「天誅」テロリズムの嵐を起こす事になる。

文久2年(1862)9月17日、土佐勤王党の平井収二郎(ひらいしゅうじろう)の日記には、田中が寺田屋事件で没落した森山家を助けるべく、薩摩に帰るという話なので、武市、長州毛利家の尊攘派・久坂玄瑞(くさかげんずい)と別れの宴を行ったとある。

この宴の後、田中は岡田と同年9月23日に石部宿での天誅事件*4を引き起こして、薩摩に帰国する。

薩摩から再び京都に戻る際、田中は通称を雄平に改め愛刀の拵も改めた。
新兵衛から改めた理由は天誅で目立ち過ぎて名乗るのに都合が悪かったから、かも知れない。
田中と深い付き合いの人物に村井政礼(むらいまさのり)がいる。
朝廷の下級官吏で在京の尊攘派のつなぎ役を務めていた。

田中がどれくらい薩摩に滞在したのかは、期間が分からず、京都に戻った時期も分からない。
鹿児島で森山家の残務整理をしていたのかも知れない。
しかし、京都に戻った事を武市や久坂には伝えていない為、彼等からの暗殺稼業はしていないと見るべきなのかも知れない。

文久3年(1863)5月20日午後10頃、京都の禁裏朔平門(さくへいもん)外の猿ヶ辻に於いて、尊攘派の公卿・姉小路公知(あねがこうじきんとも)が暗殺された。
覆面をした3人の刺客に襲われ、姉小路の太刀を持った家臣が逃亡、姉小路と家臣の2人が奮戦して刺客の1人に傷を負わせたが、姉小路も傷口からの出血多量で屋敷に着いたと同時に絶命。刺客側も負傷者1人を出した。
現場には犯行に使われた刀が遺棄され、それが薩摩風の拵である事から、薩摩に容疑がかけられた。
同月22日、土佐勤王党員の那須信吾(なすしんご)が姉小路邸を訪れ、刀は田中のモノに違いない、オレは田中が差している処を見た事があると証言。*5
姉小路家はこの証言を頼りに京都守護職の会津松平家(禄高23万石)、京都東町奉行の永井尚志(ながいなおむね)に田中を犯人として捕らえる様に申し出た。同月26日、朝廷から武家伝奏の坊城俊克(ぼうじょとしかつ)、議奏の三条実美(さんじょうさねとみ)らから田中の取り調べを依頼してきたので、会津側が公用人の外島機兵衛(とじまきへえ)と預かりの浪士組を引き連れて島津家が借り上げている田中の住処を訪ね、同行を要請。田中、同席していた島津家家臣・仁礼景範(にれかげのり)、その従者・太郎が連行された。
町奉行の永井は、田中を尋問しようとしたが、田中は一言も発せず、隙をついて脇差を抜いて割腹、返す刀で喉の頸動脈を突いて即死した。


評価

田中の友人である村井は文久3年(1863)7月11日、田中が姉小路を殺害したのは冤罪であり、捜査のやり直しを求める書状を武家伝奏の野宮定功(ののみやさだいさ)に提出。
そこに普段の田中の人となりが記されている。
  • 田中は貧乏で身分も低いから、良い刀など差す事は出来ない。差し替えの大小も持ち合わせていない。
  • 田中は忠実な性格で、姉小路を殺害するなど大それた事など出来ない。
  • 現場に遺棄された刀には見覚えがない。刀に書かれている名前の鎮英は田中の諱ではない。田中の諱は親光が正しい。オレは田中から諱を直接聞いた。
  • その刀は薩摩の大坂留守居役の家来が森山家から譲ってくれたモノを田中が交換してくれと頼み込んだ。

村井本人が別件で逮捕され、慶応3年(1867)12月12日刑死したので、これ以上は分からないが、薩摩島津家は田中について、「精神不安定で発狂していたかもしれない、知らんけど。」と答えている。

田中本人は商人として奉公し、算盤や読み書きがある程度出来、船頭として人を束ねる手腕もあった。
いつ、武芸を学んだかという疑問はあるが、フィジカルを活かした素手の戦いなどが得意だったのかも知れないし、見様見真似で剣術をしたらサラリとこなしてしまう、物真似が得意な人なのかも知れない。




田中が登場した作品

映画

  • 『人斬り』
司馬遼太郎『人斬り以蔵』を原作とした五社英雄監督の映画。1969年公開。
主人公の岡田以蔵を勝新太郎、武市半平太を仲代達矢、田中新兵衛を作家の三島由紀夫、坂本龍馬を石原裕次郎が演じた。
…田中役の三島が公開の翌年、演じた人物の死に様をスケールアップしたような最期を自ら選んだ事からか、DVD化はビデオ版発売から37年後の2022年(フランスでは2008年)と大分遅れる事になる。

ゲーム

期間限定イベント「ぐだぐだ龍馬危機一髪!」に、史実通り武市半平太の部下(敵専用NPC)として登場。CVは森田了介氏。
同シナリオ終盤、悪神に支配された武市が切腹。痛みにのたうち回る悪神に対して「田中君なら眉一つ動かさん」と言い放つ武市が話題になった。ついでに無意味に無茶振りされまくる田中新兵衛のファンイラストなんかも描かれた。



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最終更新:2026年07月31日 10:20

*1 島津家家臣団内部の尊王攘夷主義者による団体。

*2 嘉永2年(1849)、当主・島津斉興とその世子・斉彬との間に起きた、後継者争いに端を発する「高崎崩れ(お由羅騒動)」と呼ばれる事件

*3 島津家内部の有村新七ら過激攘夷派とそれを止めようする大山格之助(綱良)ら家臣団の間で発生した内ゲバ。

*4 安政の大獄で活躍した京都町奉行の与力4人が江戸に転勤になるので、これを殺害した事件。

*5 那須は土佐で参政・吉田東洋暗殺の実行犯の1人として出奔。京都に逃れて長州毛利家に匿われていた。この頃は薩摩の攘夷派を頼り、潜伏していた。

*6 作家の三島由紀夫は永井尚志の曾孫で、映画で田中新兵衛を演じる事になり、「何か因縁があるな」と口にしている。

*7 文久3年(1863)3月18日、三条実美の建議によって天皇護衛の兵として設置された。10万石以上の大名に対し、1万石に1人の割合で兵を供出させた。 同年9月5日、朝廷は親兵解散を命令した。河上彦斎や宮部鼎蔵、土方久元など尊攘派の巣窟だった。