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更新日:2026/07/31 Fri 10:20:48
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田中新兵衛(1832〜1863年)
通称は新兵衛、後に雄平。諱は親光。
概説
幕末期に薩摩攘夷派志士として
幕末の四大人斬りだの人斬り
四天王、「人斬り新兵衛」と呼ばれ、「天誅」テロリズムを象徴する人物。
生涯
天保3年(1832)、薩摩島津家(禄高77万石)の領内に生まれる。
実家や家族を記した記録が無く、薩摩島津家の史料には「鹿児島城下の下町に住む。幼年の時、
森山新蔵に奉公する者」と記されている。
要は町人で子供の頃に丁稚奉公で森山家に仕えた身分という事になる。
雇い主の森山家が水産物や農作物の販売をする鹿児島城下指折りの豪商で、島津家の財政再建に協力した見返りに武士に取り立てられた。森山は
大久保利通の父親・
利世と仲が良く、その伝手で後に精忠組のパトロンとなった。
利世がお由羅騒動で失脚し、利通も無職となり大久保家の生活が苦しくなった際、森山が生活費を支援した。
その使いで大久保家に出入りしていたのが田中で、大久保利通の伝記には「
田中はたかが町人。たかが町人と言っても立派な町人もいるけどね」と記している。大久保家が罪人扱いとなり、表立って接触出来ない為、薬売りとか理由をつけて大久保家に出入りしていたのが、後年、田中は薬売りという話になった。船頭説は森山家の漁船で漁に出て船頭をしていたから出て来た話。
安政の大獄前後に精忠組が幕府の大老・
井伊直弼の殺害と京都への出兵を計画し、森山家を通じて田中に船の準備を依頼される。これが田中の政治参加の第一歩となる。計画は途中で雲散霧消した。
文久2年(1862)、薩摩島津家の実力者・島津久光が亡き兄で前当主・斉彬の遺志を継ぎ幕政改革と率兵上京を実施すると、森山は物資運搬用に鰹漁船2隻を購入、この漁船の船頭に起用されたのが田中だった。
この時、森山家の奉公人から島津織部の家臣として仕える事になる。理由として島津織部は島津家一門で水軍を統括する家柄。島津家の御用を勤めるにはこの形が一番自然だった。
元主人の森山も武士身分を金で購入しているが、のちに息子の新五左衛門が寺田屋事件で負傷し、切腹を命ぜられて弱冠19歳で世を去ったことで、自身のこれまでの行動を、
「二本差しなどをありたがって、身の丈に合わないことをした」
と恥じ、
「長らへて 何にかはせん 深草の 露と消えにし 人を思ふに」
と辞世の句を詠み、切腹して果てた。
曾て自身を目をかけて育て、かつ武士としての人生を送るきっかけを作ってくれた恩人の死に、田中は慟哭したという。
森山親子の死を鹿児島で聞いた田中は途中まで久光の行列に参加して京都までやってくると、そこから抜け出して京都留守居役・
藤井良節の元に身を寄せた。
話し相手は主に
海江田信義が務めていた。海江田は昔、森山家に生活費を支援して貰っていた時期があり、その頃から田中との付き合いがあった。
海江田は尊王攘夷主義者でその仲間で豊後岡・中川家(禄高7万石)の家臣、
小河一敏からの情報提供により、田中は関白・
九条尚忠の家臣・
島田左近が「
安政の大獄で長野主膳に協力した島田左近が京都にいる」という情報を知らせてきたので、田中は島田を執拗につけ狙い、文久2年(1862)7月20日ついに島田を夜の闇に紛れて隠れ家にいるトコロを殺害。
一説には島津久光の密命説があり、久光が九条の関白辞職を朝廷に建言。島田殺害の3日後に藤井が事件の報告として江戸へ出立。この説だと、「たかが町人」の田中にそれをヤラせるのはリスクが高すぎるのだが…
とはいえ、デビュー戦で大物を仕留めたメンタルの強さはハンパなく、田中の名前は在京の志士に広まった。
同年8月、小河の紹介で土佐勤王党の
武市半平太(
瑞山)と知り合いになり、義兄弟になった田中はその子分と言える
岡田以蔵と手を組み「天誅」テロリズムの嵐を起こす事になる。
文久2年(1862)9月17日、土佐勤王党の平井収二郎の日記には、田中が寺田屋事件で没落した森山家を助けるべく、薩摩に帰るという話なので、武市、長州毛利家の尊攘派・久坂玄瑞と別れの宴を行ったとある。
この宴の後、田中は岡田と同年9月23日に石部宿での天誅事件を引き起こして、薩摩に帰国する。
薩摩から再び京都に戻る際、田中は通称を雄平に改め愛刀の拵も改めた。
新兵衛から改めた理由は天誅で目立ち過ぎて名乗るのに都合が悪かったから、かも知れない。
田中と深い付き合いの人物に村井政礼がいる。
朝廷の下級官吏で在京の尊攘派のつなぎ役を務めていた。
田中がどれくらい薩摩に滞在したのかは、期間が分からず、京都に戻った時期も分からない。
鹿児島で森山家の残務整理をしていたのかも知れない。
しかし、京都に戻った事を武市や久坂には伝えていない為、彼等からの暗殺稼業はしていないと見るべきなのかも知れない。
文久3年(1863)5月20日午後10頃、京都の禁裏
朔平門外の猿ヶ辻に於いて、尊攘派の公卿・
姉小路公知が暗殺された。
覆面をした3人の刺客に襲われ、姉小路の太刀を持った家臣が逃亡、姉小路と家臣の2人が奮戦して刺客の1人に傷を負わせたが、姉小路も傷口からの出血多量で屋敷に着いたと同時に絶命。刺客側も負傷者1人を出した。
現場には犯行に使われた刀が遺棄され、それが薩摩風の拵である事から、薩摩に容疑がかけられた。
同月22日、土佐勤王党員の
那須信吾が姉小路邸を訪れ、刀は田中のモノに違いない、オレは田中が差している処を見た事があると証言。
姉小路家はこの証言を頼りに京都守護職の会津松平家(禄高23万石)、京都東町奉行の
永井尚志に田中を犯人として捕らえる様に申し出た。同月26日、朝廷から武家伝奏の
坊城俊克、議奏の
三条実美らから田中の取り調べを依頼してきたので、会津側が公用人の
外島機兵衛と預かりの
浪士組を引き連れて島津家が借り上げている田中の住処を訪ね、同行を要請。田中、同席していた島津家家臣・
仁礼景範、その従者・太郎が連行された。
町奉行の永井は、田中を尋問しようとしたが、田中は一言も発せず、隙をついて脇差を抜いて割腹、返す刀で喉の頸動脈を突いて即死した。
この事件、容疑者が自害したので、担当した永井は謹慎処分となった。
田中と一緒にいた刺客2人については姉小路の子分格である廷臣の滋野井公寿、西四辻公業が関与したという噂が公家の間で囁かれ、事件前夜には滋野井と西四辻およびその家臣・植田主殿が失踪し、所在不明となっていた。
また当時の史料の中に両名は植田が起草し、学習院に提出した攘夷への建白書を姉小路がボツにした話を聞き、3人が姉小路は裏切った、と見做して「天誅」を下さんという気分が姉小路に遺恨を持っていると風聞に変わり、滋野井と西四辻が田中を抱き込み、人を雇い犯行に及んだとしている。
逆恨みによる犯行の類である。
田中の遺体を姉小路家の関係者に見せたところ、事件当日、田中に傷を負わせた家臣が現れ「この傷は私が与えたモノです」と証言。
同年6月11日、滋野井と西四辻の家臣2人が姉小路殺害の嫌疑から出奔、田中が自害後、薩摩島津家は御所を出禁になっていたが、それが解除された。
滋野井と西四辻は処分を受けたが軽いもので、維新後は華族として滋野井が伯爵、西四辻は子爵に叙爵された。
姉小路はこの頃、幕府の軍艦奉行並・
勝海舟と文久3年(1863)4月25日に大坂に於いて海防視察で面会。
ここで蒸気船の体験乗船、砲台の説明を受けて、それまでの攘夷論から人材育成や産業を振興して国力を蓄えてから攘夷をする大攘夷論者に変化しており、殺害の5日前、同年5月15日に姉小路が主導で繰り出された朝命には「製鉄所建設、海軍振興」が前面に押し出されていた。
更に姉小路はサプライズとして勝を招いて学習院で攘夷論者を集めて海軍の重要性を訴えるプレゼンを企画していた。
変貌を遂げた姉小路を観て、攘夷論者達は危機感を抱き、それが田中を抱き込んだ暗殺劇になった。
桜田門外の変は幕府の大老が白昼、テロにより殺された事件なのに対し、姉小路が殺害された朔平門外の変は天皇に拝謁出来る立場の要人がテロで殺された事件である。
どちらも攘夷論者が関わっているのは共通しているが、前者は持ち上げられるのに、後者は闇の中に消えていった。
黒幕の滋野井と西四辻が華族に叙爵され、西四辻は明治天皇の歌道師範まで務めている、という事実が事件を闇の中に葬り去るのだろう…
大攘夷論者に変貌した姉小路は一部の攘夷論者から「天誅」の対象になっており、田中の住まいに一緒にいた仁礼にはこんな話がある。
昭和11年(1936)に刊行された『痴遊雑誌』(話術倶楽部出版部)には、弁護士・播磨龍城が伝聞として語った説が収録されている。それには、「姉小路を襲撃した下手人は故仁礼景範海軍大将であった」と鹿児島の旧藩士からと伝え聞いたという。同誌に記された話では、当時薩摩藩士たちが「姉小路を討つべし」と評議していたものの決断できずにいたところ、仁礼は「また小田原評定か」と言い放って席を立ち、従者・河田とともに単独で行動を決意。「姉小路一人くらいなら他人の手を借りるまでもない、我輩とお前で十分だ」と述べ、そのまま断行したとされる。
何処かで田中のやった事が伝言ゲーム方式で話が入れ替わり、仁礼になったのかも知れない。
仁礼の取り調べは田中と違い、正規の島津家家臣という事から会津が辞退し、幕府も京都西町奉行の滝川具知が辞退し、犯人探しが暗礁に乗り上げた。
御親兵が捜査を担当し、改めて田中を犯人と断定した。
評価
田中の友人である村井は文久3年(1863)7月11日、田中が姉小路を殺害したのは冤罪であり、捜査のやり直しを求める書状を武家伝奏の野宮定功に提出。
そこに普段の田中の人となりが記されている。
- 田中は貧乏で身分も低いから、良い刀など差す事は出来ない。差し替えの大小も持ち合わせていない。
- 田中は忠実な性格で、姉小路を殺害するなど大それた事など出来ない。
- 現場に遺棄された刀には見覚えがない。刀に書かれている名前の鎮英は田中の諱ではない。田中の諱は親光が正しい。オレは田中から諱を直接聞いた。
- その刀は薩摩の大坂留守居役の家来が森山家から譲ってくれたモノを田中が交換してくれと頼み込んだ。
村井本人が別件で逮捕され、慶応3年(1867)12月12日刑死したので、これ以上は分からないが、薩摩島津家は田中について、「精神不安定で発狂していたかもしれない、知らんけど。」と答えている。
田中が登場した作品
映画
司馬遼太郎『人斬り以蔵』を原作とした五社英雄監督の映画。1969年公開。
主人公の岡田以蔵を勝新太郎、武市半平太を仲代達矢、田中新兵衛を
作家の三島由紀夫、坂本龍馬を石原裕次郎が演じた。
…田中役の三島が公開の翌年、
演じた人物の死に様をスケールアップしたような最期を自ら選んだ事からか、DVD化はビデオ版発売から37年後の2022年(フランスでは2008年)と大分遅れる事になる。
ゲーム
期間限定イベント「ぐだぐだ龍馬危機一髪!」に、史実通り武市半平太の部下(敵専用NPC)として登場。CVは森田了介氏。
同シナリオ終盤、悪神に支配された武市が切腹。痛みにのたうち回る悪神に対して「田中君なら眉一つ動かさん」と言い放つ武市が話題になった。
ついでに無意味に無茶振りされまくる田中新兵衛のファンイラストなんかも描かれた。
追記・修正をお願い致します。
- 幕末四大人斬り最後の一人の項目がようやく立ったな、まだコメントが付いていないが田中君なら眉一つ動かさん -- 名無しさん (2026-01-06 17:21:30)
- ↑新兵衛どん待ってるけど河上さん家の彦斎ちゃんが先に実装されちゃったよ。武市さんに切り捨てられたか、以蔵さんと本当はどんな仲だったかは時間だけが知っている -- 名無しさん (2026-01-06 18:12:51)
- 『だんドーン』だと -- 名無しさん (2026-01-06 22:48:16)
- 『だんドーン』だと、【こいつだけ倫理観が青年誌】という理屈で乳首が描かれるという斬新な表現技法を適用されたりと、かなり闇が深い扱いされてたな -- 名無しさん (2026-01-06 22:50:48)
- 記事を作り感じたのは、田中を含め幕末四大人斬りはかなり脚色されていますね。しかも、勝者の側から。裏が取れないけど、仁礼と太郎が刺客として雇われ田中と一緒にいたのでは?と疑いたくなる。島津家家臣ではなく、闇バイト的な感覚で参加したとか。 -- rokudenashi37564 (2026-01-06 22:58:29)
- 最期が剣呑過ぎる… -- 名無しさん (2026-04-07 10:50:36)
最終更新:2026年07月31日 10:20