幕末の四大人斬り

登録日:2025/01/16 Thu 17:57:39
更新日:2025/04/02 Wed 21:47:35
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『幕末の四大人斬り』とは、日本の幕末(江戸時代末期)~明治時代初期の期間において「暗殺」を行った者たちの中でも、
「人斬り」の異名を取った有名な四名の人物の総称。全員が当時の京都で活動していた。
田中新兵衛、河上彦斎、岡田以蔵、中村半次郎(桐野利秋)の四名が該当する。

この四名は所謂「尊王攘夷派」(討幕派)に所属していたことと、全員が畳の上で死ぬことはできなかったという共通点を持つ。

ただし、現代においては『幕末四大人斬り』という呼称が定着し、広く知られているが、これは昭和期、それも戦後になってからのこと。
その時期にこの四名を題材にした小説や映画が多数作られ*1、人々に名を知られていったという経緯があり、
故にこれらの創作物の影響を強く受けてイメージが徐々に形作られていったと言えることには留意されたい。



●田中新兵衛(1832~1863)


薩摩藩出身。
実家は船頭とも薬屋とも伝わっているが、後述する履歴から、現在は船頭説が濃厚。

幼少期から剣術を好んだが、士分ではなかったので道場には入らず、独学で剣術を学んだ。
流派は不明だが、おそらくは示現流の系統の一派ではないかと推測されている。

船頭として自らを雇ってくれていた雇い主で、鹿児島城下屈指の豪商であった森山(もりやま)新蔵(しんぞう)に士分を買って貰い、武士身分となった。

なお、雇い主の森山も武士身分を金で購入している*2が、のちに息子の新五左衛門が寺田屋事件で負傷し、切腹を命ぜられて弱冠19歳で世を去ったことで、
自身のこれまでの行動を、
「二本差しなどをありたがって、身の丈に合わないことをした」
と恥じ、
「長らへて 何にかはせん 深草の 露と消えにし 人を思ふに」
と辞世の句を詠み、切腹して果てた。
曾て自身を船頭として取り立ててくれ、かつて自身が武士としての人生を送るきっかけを作ってくれた恩人の死に、新兵衛は慟哭したという。

文久二(1862)年に上洛し、先に上洛していた薩摩藩士・有村俊斎(海江田信義)と藤井良節のもとに身を寄せた。
そのころ、岡藩士*3・小河一敏が「安政の大獄で長野主膳に協力した島田左近が京都にいる」という情報を知らせてきたので、
新兵衛は左近を執拗につけ狙い、同年7月についに左近を暗殺した。この事件が、京における「天誅」の嚆矢である。

この事件後に岡田以蔵や武市半平太と親しくなり、翌月には小河の仲介で武市と義兄弟の契りを結ぶ。
以降は武市に命ぜられるがまま岡田や複数の同志とともに、かつての同志・(ほん)()精一郎(せいいちろう)*4や、
安政の大獄に関与した渡辺金三郎・大河原重蔵・森孫六・上田助之丞ら京都町奉行所の役人を殺害した。

文久三(1863)年五月、公卿・(あねが)小路(こうじ)公知(きんとも)が京都朔平門外の猿が辻で暗殺される事件(朔平門外の変)が発生。
現場には遺留品として新兵衛のものと思われる刀と下駄が落ちていたため、暗殺容疑がかけられた新兵衛は逮捕された。
その後、審問を受ける前に京都町奉行所内での取り調べでは、新兵衛は何も話さないまま、突如屠腹して果てた。享年三十二歳。

新兵衛が何も話さないままに自害したため、姉小路卿暗殺の真犯人は未だに不明。
自害の理由も不明なため、実際に新兵衛が実行犯で、関係者を庇うためなどの理由で自害した可能性もあるのだが、
姉小路は公卿の中では開明派で、武市とも親交が深かったことから、新兵衛の主と言える武市に姉小路を暗殺する理由はないと推測されているためである。



河上彦斎(1834~1872)

肥後熊本藩出身の下級武士の家の子に生まれる。
茶坊主として勤務歴があり、漢学、国学、詩歌、茶の湯、生け花など風流を嗜み、礼儀作法に詳しいなど、四人の中ではかなりのインテリ。
後に長州藩に加担し、元治元(1864)年に思想家・佐久間象山を暗殺。正確な記録が残っているのは象山の暗殺事件のみである。

その後、熊本へ藩論を転換するため帰ったが、実権を握っていた佐幕派に投獄され、獄中で明治維新を迎えた。*5
「高田源兵衛」後に「高田源兵」と名を改め*6、かつての仲間で太政官の首脳陣にいる三条実美、木戸孝允らに、
かつての徳川幕府より対外従属的な太政官の外交政策を痛烈に批判。
彼らのことを、
「神の前で誓った仲間との約束を捨て『国の為に』『時勢が変わった』と念仏の様に唱えて裏切りや寝返りを正当化している」
「自分は徹頭徹尾一身の利害のために素志を改め、節を変えるなど、そんなことは出来申さぬ」
と死の間際まで変節漢と批判していた。

ある意味では首尾一貫した人物と言えるが、既に開国路線で進む新政府にとっては河上のような尊王攘夷論派は疎ましい存在であり、
上述した三条らも(河上自身の苛烈な一面もあって)河上を遠ざけるようになっていく。
最期は「二卿事件」等への関与を疑われ、斬首されることとなったが、関与の薄さなどから政府関係者らに謀殺されたとも囁かれる。
詳細は個別項目を参考にしていただきたい。



●岡田以蔵(1838~1865)

高知城下に近い土佐郡江ノ口村の郷士の家の子に生まれた。
家が貧しかったため剣術道場に通えず、安政元(1854)年に武市半平太に師事し、剣術を学んだ。

安政三(1856)年には海防警備のため、藩命で江戸行きが決定した武市に同行する。
その任務の合間、桃井道場で武市らと共に修行に励んだが、剣筋が乱暴であったため、道場主・桃井春蔵(もものいしゅんぞう)から「下品」とバッサリ評価されてしまっている。

万延元(1860)年、武市に従って四国、中国、九州諸藩を剣術修行に回遊。
翌年には自身に何くれと目をかけてくれた土佐勤王党に参加し、勤皇党の同志らと入京。

その後薩摩藩の田中新兵衛と知り合い、やがて田中と組んで天誅行動の急先鋒となった岡田は、
田中たちと徒党を組んで多くの佐幕派やそれに従った者たち、かつての同志を殺害したほか、
平野屋寿三郎(ひらのじゅさぶろう)煎餅屋半兵衛(せんべいやはんべえ)*7のように、命は取らないまでも、苛烈な拷問を加えたこともあった。

また、岡田らは同藩の者にも容赦がなかった。
例えば、参政・吉田東洋の暗殺犯の探索のため上京した藩監察・井上佐一郎が自分たちを嗅ぎまわっていることを察知すると、
井上を言葉巧みに誘い、大量の酒を飲ませ、前後不覚になったところを首を絞めて息の根を止めている。

以蔵が暗殺した人物は以下のとおりである。
ただし、賀川・池内・多田の暗殺に関与した可能性は薄いとみられている(特に多田については、現場は京都であるが、その時期に江戸に滞在していた記録がある)。
人名 肩書 殺害された原因・最期の様子
(ましら)の文吉 目明し 長野主膳の命を受けて安政の大獄に関与。
元々金貸しを務めており、それによって暴利をむさぼっていたため身分を問わず悪評が高く、
「斬ると刀の汚れになる」として斬殺ではなく縊殺された。
遺体は全裸の状態で晒し者にされた。
宇郷玄蕃頭重国 九条家家臣 安政の大獄と和宮降嫁に関与したため暗殺。
本間精一郎 攘夷派浪士 原因は田中新兵衛の項で解説。滅多切りにされており、遺体はほぼバラバラになっていたという。
賀川肇(かがわはじめ) 千種家家臣 安政の大獄に関与したため暗殺。
手始めに肇の子供に折檻を加え、肇が「子供に何をするのだ」と怒って出てきたところを一斉に襲撃。
死体は切り刻まれ、要人の屋敷に放り込まれている。
池内大学 儒学者 安政の大獄で自首して減刑された事を「幕府に通じたのではないか」と邪推され、暗殺された。
遺体の頭部は梟首され、頭部以外の部分の死体が切り刻まれて公卿などの要人の屋敷に放り込まれる。
多田帯刀 金閣寺の寺侍で、村山たか*8の息子 母親の身代わり同然に暗殺される。
渡辺金三郎・上田助之丞・大河原重蔵・森孫六 京都町奉行与力 安政の大獄に関与したため暗殺(江州石部事件)。
岡田星之助 因州鳥取藩士 「佐幕派の間者ではないか」という疑惑がかけられ、暗殺。

文久三(1863)年1月には坂本龍馬の要請を受け、神戸海軍操練所の塾長・勝海舟の護衛を請け負った。
岡田が勝の護衛を請け負っていた間のエピソードとしては、以下のようなものがある。
ある夜、邸宅に帰る途中の勝が三人の刺客に襲われた際、岡田はその内の一人をたちまち斬り捨てた。
残る二人は逃走したため、岡田は勝の命を刺客から守ることに成功したのだが、
後日、勝からは「先日のような人殺しを嗜むようなことはしてはいけない」と諭された。
しかし岡田は「そうは仰りますが、あの場に私がいなければ先生の首は胴から離れていましたよ」と返し、
事実その通りだったこともあってか、勝はその岡田の言葉に何も言い返せなかったという(勝海舟『氷川清話』)。

同年5月に姉小路公知暗殺事件が発生すると、実行犯とみなされた田中のみならず、田中と親交の深い岡田も嫌疑を受けた。
これにより、岡田は龍馬や勝の前からひっそり姿を消した。
さらに、同年に発生した「八月一八日の政変」によって尊王攘夷派の京都における勢力は大幅に後退した。
武市ら勤王党員も例外ではなく、土佐藩によって捕縛され、勤皇党は壊滅状態となった。

岡田は「木を隠すにはまず森の中」の論理で無宿人の「土井鉄蔵」と名乗って京都・摂津間に逼塞していた。
しかし、つまらぬ喧嘩沙汰がもとで強盗容疑で逮捕され、その際に「土佐出身の無宿人・土井鉄蔵」と名乗った。
これがもとで藩庁に連絡が行き、岡田は逮捕された。

牢に入れられた岡田は、曰く女も耐えられるような拷問にも耐えかね、泣き喚いたという。
そして拷問に屈し、勤皇党時代の自身や武市ら勤皇党員の犯行をすべて自白した。
この岡田の醜態を耳にした武市は、手紙などでさんざんに彼を罵倒している。

このエピソードについては現在は当時の史料にそうした痕跡がみられないことから、司馬遼太郎や後世の小説家による創作の可能性が高いとされるが、
拷問に耐えかねて泣きわめく以蔵を見た武市は「これ以上以蔵が自白しては我々の身が危ない」と考え、以蔵の食事に毒を盛ったといわれている。

ともあれ、岡田やその他党員の自供の結果、武市、岡田その他多数の党員が切腹、斬首の沙汰が下され、
慶応元(1865)年5月11日、宣告通り斬首刑が執行された。享年二十七歳。
その翌月に武市は切腹し、ほかの勤皇党員も斬首されたが、岡田は死に際して「武市によろしく伝えてくれ」と言い残し、当の武市に呆れられたという。

ちなみに、インターネット上には「岡田以蔵の写真」として使われる2枚の写真があり、
1枚は顔の長い、羽織を着用した侍の写真で、もう1枚は拳銃を持ち、長い刀を佩いて西洋椅子に腰かけたぼさぼさの総髪の若い侍の写真であるが、いずれも以蔵の写真ではない。

1枚目は幕臣で軍艦操練所教授方手伝出役の(おか)()井蔵(せいぞう)の写真*9で、もう1枚は海援隊隊士・近藤長次郎の写真である。岡田以蔵の写真や肖像画は現存しない。

『幕末四大人斬り』に数えられる人物の中では最も要人の殺害数が多く、また、坂本龍馬や勝海舟等とも交流があったなどの経歴からか、
勝新太郎が主演(岡田以蔵役)を務め、割腹自殺する一年前の三島由紀夫も出演していたことで知られる『人斬り』を始め、
司馬遼太郎が岡田を単独で扱った短編を作っている等、主役・脇役問わず彼が登場する創作物が多く作られており、特に知名度と人気が高い人物。

漫画『るろうに剣心』の鵜堂刃衛の人物像のモチーフとされている。



中村半次郎(1839~1877)

桐野利秋/中村半次郎を参照。洒落者としても知られる。

薩摩藩の城下士の家に生まれ、お由羅騒動*10に連座して父が流罪となり、父の代わりに家の働き手を担っていた兄が病死するなど、苦しい少年時代を過ごした。*11

文久二(1862)年、薩摩藩主国父*12・島津久光に従って大山弥助*13や東郷平八郎、西郷信吾*14等と共に上洛し、尹宮(いんのみや)(中川宮)朝彦親王附きの護衛役を務めた。
このさなか、各藩の尊王攘夷派と知り合い、長州系維新志士から信用を得るにつれ、薩摩の中では長州に親しい人物というポジションを確立。
これと前後して小松帯刀や西郷吉之助(隆盛)と出会い、胆力と知力を見込まれて国事に奔走した。

慶応三(1867)年9月30日、兵学者で自らの軍学の師範でもあった上田藩士・赤松小三郎を暗殺。*15

戊辰戦争では武勲を重ね、江戸城無血開城時、西郷と勝海舟が会談した際には西郷に同席することを許されたという。

会津戦争にも従軍し、会津藩が降伏・開城した際にはその受け取りの使者を務めた。
このとき中村は、敗軍の将となった会津藩藩主・松平容保の心情を、
織豊時代の九州攻めにおいて薩摩の領主・島津義久が豊太閤秀吉に降伏と恭順を申し出た際の際のそれと重ね合わせ、男泣きしたという。
松平は中村が自分の気持ちに寄り添ってくれたことや、会津藩士に親身に接してくれたことを感謝し、後に宝刀を贈ったとされる。

明治維新後は旧姓に復して「桐野利秋(きりのとしあき)」と改名した。

明治四(1871)年に廃藩置県が行われると、桐野は西郷に命じられて御親兵1万人の中に参加。
政府に出仕し、兵部省・陸軍少将・熊本鎮台司令長官、陸軍裁判所所長を歴任した。
しかし明治六(1873)年に発生した「征韓論」に端を発する政変で西郷が政府を去ると、これに呼応して政府を辞した。

その後は西郷や篠原国幹、村田新八とともに『私学校』を設立して貧窮する士族の教育に努める傍ら、
吉田村(現・鹿児島市本城町)で自給自足の生活を送り、訪れる者と天下国家を論じたという。

西南戦争においては西郷軍で事実上の総大将として指揮し、南九州各地で激戦の結果、敗色明らかとなった末、
城山での決戦の際、西郷の自決と別府晋介(べっぷしんすけ)*16による介錯を見届けてから単身敵陣に斬り込み、
額や右太もも・腹部・こめかみに銃弾を受け、戦死した。享年三十八。

幼少から剣術が好きで剣術の腕に優れ、実戦に強かったことから「豪胆な性格」として語られ「人斬り半次郎」の異名で知られるが、
史実として知られるのは赤松小三郎暗殺の一件のみであり、後年の創作であるといわれる。

また、寡黙で冷静、理論家故に他を威圧する威厳を持っていたという大久保利通には桐野も面と向かって話すことが出来なかったといい、
明治初年のある日、桐野は「言いたいことをどんどんあいつに言ってやろう」と意気込んで酒をがぶ飲みして彼との会談に臨んだが、
桐野より背が高く、なおかつ目が大きい顔つきもあって威圧感たっぷりの大久保にじろりと一瞥され、
「何じゃっちぃ?」
と凄まれただけですっかり酔いが醒めて彼の圧に呑まれ、すごすごと逃げ出したという。


四大人斬りが登場する作品・四大人斬りを主題とした作品

小説

  • 司馬遼太郎『人斬り以蔵』
  • 〃『竜馬がゆく』
  • 池波正太郎『人斬り半次郎』

漫画

  • 梅村真也/橋本エイジ『ちるらん 新撰組鎮魂歌』
  • みなもと太郎『風雲児たち 幕末編』
  • 黒鉄ヒロシ『幕末暗殺』*17

映画

  • 五社英雄『人斬り』*18

ゲーム






追記・修正は動乱の幕末を駆け抜けた人斬り達に思いを馳せながらお願いします。


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最終更新:2025年04月02日 21:47

*1 明治~戦前の昭和期の政府にとって、政府の高官になった中村半次郎以外の3人は、言ってしまえば新政府樹立において都合が悪かった存在といえるだろう

*2 これは幕末期より少し前に、五百万両もの借金を抱えていた薩摩藩が債権の放棄を条件に、貸付を行ってくれた商人を武士に取り立てるという政策を行っていたためである。森山家は特に多額の貸し付けを行っていたため、特別措置として士分に取り立てられた

*3 現在の大分県出身

*4 越後出身で、幕臣・川路聖謨に仕えた履歴があり、尊王攘夷派でありながら海外の文明の知識が豊富だった。しかし性格がかなり悪く、かつて所属していた派閥の悪口を別の派閥に吹き込む悪癖があった。おまけに虚言癖もあったため、尊王攘夷派から「仲間をすぐ裏切って幕府にあることないこと吹き込むのでは?」と不信感を向けられ、それが「そうした憂いを断つために消すしかない」と殺意へと変貌した結果である

*5 それ以外に、多数の暗殺事件を起こしたならこの時点で殺されてもおかしくないが、生かされている時点で、実は殺していないのかも知れない。

*6 読み方は同じ。衛は律令下で守るを意味する漢字を表し、畏れ多いとこれを外した

*7 文久二(1862)年5月の勅使大原重徳東下の際に、両名とも士分となり、大原卿に供奉した。しかし、収賄や横領を行っていたため、評判が悪かった。以蔵たちが両名に拷問を加え、殺害しようとする最中、10歳ほどの寿三郎の娘が「お父さんを許してください」と泣いてすがったため、以蔵たちは殺すのを中止して両名を裸にして縄で縛り、往来にさらした。両名の生き晒しの様子は、当時の絵画に残されている

*8 井伊直弼の腹心・長野主膳の愛人で直弼の謡曲の師匠

*9 福沢諭吉たちと渡米した際に撮影した写真の切り抜き。これが「田中新兵衛の写真」としてネット上で紹介されることもあるが、田中の写真や肖像画も存在しない

*10 薩摩藩主・島津斉興の後継者を決定する際に発生したお家騒動。正室・弥姫との子供である斉彬を推す派閥と側室・お由羅の方との子供である久光を推す派閥に分かれ、久光派が斉彬派を弾圧した。このお家騒動が発生した原因は、お由羅の方が息子・久光の藩主への就任を謀り、正室の子である斉彬を廃嫡することを目論んだことであるといわれる。また、斉興も斉彬を嫌い、久光を次期藩主に任命しようとしていた。というのも、斉彬が曽祖父・重豪(蘭学にのめりこむ「蘭癖」によって薩摩藩の財政を苦しくしたという)の影響を受けて蘭学に興味を示すようになっていたためである。斉興の代で傾きかけた財政は一応回復はした(家臣・調所広郷が借金の踏み倒し、唐物抜荷事件、琉球との黒砂糖の密貿易によってこれを回復させたが、これは立派な犯罪であったため、責任が主君・斉興に及ばぬようすべての責任を負って服毒自殺している)が、斉彬が再び「蘭癖」によって藩の財政を圧迫しかねないと危惧していたのであった。とはいえ、このお家騒動では斉彬・久光の兄弟仲は決して悪くなく、むしろ久光は斉彬になついていて蘭学を教わっており、西洋式軍事演習にも同行していた。斉彬も久光を信頼し、久光の子・茂久(もちひさ)を藩主に就任させるにあたり、後見役に任命している

*11 しかし、当時武士にとって欠かせない教養の一つであった漢文への知識は郷中教育へ積極的に参加したという話がなく、本人が謙遜して「学がない」という発言や上司の西郷隆盛がそれを惜しんだ話に尾ひれがついて、「中村半次郎=脳筋キャラ」というイメージがなされた。坂本龍馬ほどではないものの、中村も耳学問の天才的な部分があり、頭の回転は良かった。大隈重信から着こなし上手と褒められる程にファッションセンスが抜群で、後述する西南戦争の折には香水を持参していたという。

*12 藩主の茂久はまだ若く、経験に乏しかったため、父親の久光が「国父」という役柄で実権を握った

*13 後の「巌」。西郷隆盛のいとこ。

*14 後の「従道」。西郷隆盛の弟

*15 赤松は当時薩摩藩にてオランダ式からイギリス式への軍制切り替えとその軍事教練をしていたが、薩摩の軍事機密に詳しすぎた事に加え、薩摩との契約終了後、会津に同じ戦い方を伝授すると知った薩摩側が内通を疑い、機密漏洩防止の為、口封じで殺害した。会津側も彼に求人を出し、同時期に非常勤顧問という形で赤松も会津の求人に応じていた。薩摩との契約が任期満了で終え次第、会津が正式に彼に求人を出した矢先に暗殺だった。この赤松暗殺を中村は日記に記し、殿様の公式記録にも記されている。

*16 1847~1877。桐野の従弟にあたる。

*17 この作品では、岡田が自身や勤皇党員時代の暗殺行動やその首魁の武市がその黒幕となっていたことをを自白した原因は、牢の役人から「武市が本間精一郎の暗殺の下手人が岡田たちであるということを白状したことで、岡田たちを奉行所に売った」ということを聞かされたためであるとされている

*18 司馬遼太郎『人斬り以蔵』が原作。主人公の岡田以蔵を勝新太郎、武市半平太を仲代達矢、田中新兵衛を三島由紀夫、坂本龍馬を石原裕次郎が演じた。

*19 全員が登場するが、漏れ無く敵対することとなる。特に岡田とはイベントが多い他、河上、中村とも長い付き合いとなる。残念ながら田中は任務のボスとして登場するのみ。