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幕末の四大人斬り

登録日:2025/01/16 Thu 17:57:39
更新日:2026/07/04 Sat 10:31:54
所要時間:約 15 分で読めます





『幕末の四大人斬り』とは、日本の幕末(江戸時代末期)~明治時代初期の期間において「暗殺」を行った者たちの中でも、
「人斬り」の異名を取った有名な四名の人物の総称。全員が当時の京都で活動していた。
田中新兵衛、河上彦斎、岡田以蔵、中村半次郎(桐野利秋)の四名が該当する。

この四名は所謂「尊王攘夷派」(討幕派)に所属していたことと、全員が畳の上で死ぬことはできなかったという共通点を持つ。

ただし、現代においては『幕末四大人斬り』という呼称が定着し、広く知られているが、これは昭和期、それも戦後になってからのこと。
その時期にこの四名を題材にした小説や映画が多数作られ*1、人々に名を知られていったという経緯があり、
故にこれらの創作物の影響を強く受けてイメージが徐々に形作られていったと言えることには留意されたい。



田中新兵衛(1832~1863)


薩摩藩の町人出身。
幼少の頃に鹿児島城下屈指の豪商であった森山新蔵*2に丁稚奉公で入り、船頭などを務めて頭角を現した。

森山は大久保(おおくぼ)利世(としよ)(大久保利通の父親)と仲良しでその伝手で精忠組のパトロンを務め、有村俊斎(海江田信義)は良く金を借りに来ていた。大久保家もお由羅騒動で利世が島流しにされ職を失うと、森山が生活費を支援した、とある。

文久2年の島津久光の率兵上京の際、雇い主の森山に士分の株を買って貰い、武士身分となった。といっても家老の家来、陪臣ではあるが…

元主人の森山親子が寺田屋事件のゴタゴタで自刃する話を聞いた田中は文久2年(1862)に上洛し、先に上洛していた薩摩藩士・有村俊斎(海江田信義)と藤井良節のもとに身を寄せた。
そのころ、豊後岡藩士・小河一敏が関白・九条尚忠(くじょうひさただ)の家臣・島田左近(しまださこん)が「ヤバい奴だから*3」という理由から田中は文久2年(1862)7月20日、夜の闇に紛れて隠れ家にいるトコロを殺害。
この事件が、京における「天誅」の嚆矢である。

翌月には小河の仲介で武市半平太と親しくなり、義兄弟の契りを結び、田中はその子分と言える岡田以蔵と手を組み「天誅」テロリズムの嵐を起こす事になる。

文久三(1863)年五月、公卿・(あねが)小路(こうじ)公知(きんとも)が京都朔平門外の猿が辻で暗殺される事件(朔平門外の変)が発生。
現場には遺留品として新兵衛のものと思われる刀と下駄が落ちていたため、暗殺容疑がかけられた田中は逮捕。その後、審問を受ける前に京都町奉行所内での取り調べで、田中は何も話さないまま、突如屠腹して果てた。享年32歳。

田中が何も話さないままに自害し、その理由も不明なため、実際に新兵衛が実行犯で、関係者を庇うためなどの理由で自害したという説はあるが、近年は朝廷内部の攘夷論者が姉小路の転向を憎んで刺客に田中を選んだ、というのが有力。

詳細は個別項目を参照。


河上彦斎(1834~1872)


肥後熊本藩出身。
茶坊主として勤務歴があり、漢学、国学、詩歌、茶の湯、生け花など風流を嗜み、礼儀作法に詳しいなど、四人の中ではかなりのインテリ。
後に攘夷派志士として京都デビュー。元治元年(1864)に思想家・佐久間象山を暗殺。正確な記録が残っているのは象山の暗殺事件のみである。

その後、熊本へ藩論を転換するため帰ったが、実権を握っていた佐幕派に投獄され、獄中で明治維新を迎えた。*4
「高田源兵衛」後に「高田源兵」と名を改め*5、かつての仲間で太政官の首脳陣にいる三条実美木戸孝允らに、徳川幕府より対外従属的な太政官の外交政策を痛烈に批判。
彼らのことを、
「神の前で誓った仲間との約束を捨て『国の為に』『時勢が変わった』と念仏の様に唱えて裏切りや寝返りを正当化している」
「自分は徹頭徹尾一身の利害のために素志を改め、節を変えるなど、そんなことは出来申さぬ」
と死の間際まで変節漢と批判していた。

首尾一貫した人物と言えるが、既に開国路線で進む太政官にとっては河上のような攘夷論者は厄介な存在であり、
上述した三条らも(河上自身の苛烈な一面もあって)河上を遠ざけた。
最期は「国事犯」として斬首されたが、当時から陰謀への関与の薄さを指摘され、太政官により謀殺されたとも。

詳細は個別項目を参照。


岡田以蔵(1838~1865)


土佐藩の足軽兼郷士の家の子に生まれた。
独学で剣術を始め、高島流砲術を学んだり、武市半平太と知り合い、中西派一刀流や江戸に武市と共に剣術修行に出て鏡心明智流の桃井道場で修行に励んだが、道場主・桃井春蔵(もものいしゅんぞう)から「人間性が残念」と評価されてしまっている。

万延元年(1860)、武市と共に中国、九州諸藩を剣術修行に回遊、
翌年には武市が率いる「土佐勤王党」に参加し、勤王党の同志らと入京。

その後薩摩藩の田中新兵衛と知り合い、やがて田中と組んで天誅行動の急先鋒となった岡田は、田中たちと徒党を組んで多くの佐幕派やそれに従った者たち、かつての同志を殺害したほか、
平野屋寿三郎(ひらのやじゅさぶろう)煎餅屋半兵衛(せんべいやはんべえ)*6のように、命は取らないまでも、苛烈な拷問を加えたこともあった。

文久3年(1863)1月、武市から離れて江戸に生き、長州の高杉晋作と一緒に旅をしたり、坂本龍馬の斡旋で勝海舟を紹介してもらい、3月には坂本の要請を受け、軍艦奉行・勝海舟の護衛を請け負った。勝を襲った攘夷派浪士を斬り捨て、勝がやたら滅多らと人斬りは良くないと忠告すると、以蔵は斬らなきゃ、コチラがこうなっていた、アンタ、それが望みか?と話を返し、勝が黙った。

さらに、同年に発生した「文久政変」によって尊王攘夷派の京都における勢力は大幅に後退し、武市ら勤王党員は土佐藩によって捕縛され、土佐勤王党は壊滅。

岡田は無宿人の「土井鉄蔵」と名乗って京都・摂津間に逼塞していたが、強盗容疑で逮捕され、土佐藩庁へ連絡が行き、岡田は土佐に搬送された。

牢に入れられた岡田は、拷問に屈し、勤王党時代の自身や武市ら勤王党員の犯行をすべて自白し、他の党員も自白した結果、武市、岡田その他多数の党員が切腹、斬首の沙汰が下され、慶応元年(1865)年5月11日、打首、獄門となった。享年28歳。
その日の内に武市も切腹し、ほかの勤王党員も斬首されたが、岡田は死に際して「武市先生によろしく伝えてくれ」と言い残し、当の武市に呆れられたという。

詳細は個別項目を参照。


中村半次郎(1839~1877)


洒落者としても知られる。薩摩藩の城下士の家に生まれ、お由羅騒動*7に連座して父が流罪となり、父の代わりに家の働き手を担っていた兄が病死するなど、苦しい少年時代を過ごした。*8

文久二(1862)年、薩摩藩主国父*9・島津久光に従って大山弥助*10や東郷平八郎、西郷信吾*11等と共に上洛し、尹宮(いんのみや)(中川宮)朝彦親王附きの護衛役を務めた。
このさなか、各藩の尊王攘夷派と知り合い、長州系維新志士から信用を得るにつれ、薩摩の中では長州に親しい人物というポジションを確立。
これと前後して小松帯刀や西郷吉之助(隆盛)と出会い、胆力と知力を見込まれて国事に奔走した。

慶応三(1867)年9月30日、兵学者で自らの軍学の師範でもあった上田藩士・赤松小三郎を暗殺。*12

戊辰戦争では武勲を重ね、江戸城無血開城時、西郷と勝海舟が会談した際には西郷に同席することを許されたという。

会津戦争にも従軍し、会津藩が降伏・開城した際にはその受け取りの使者を務めた。
このとき中村は、敗軍の将となった前会津藩藩主・松平容保*13の心情を、
織豊時代の九州攻めにおいて薩摩の領主・島津義久が豊太閤秀吉に降伏と恭順を申し出た際の際のそれと重ね合わせ、男泣きしたという。
松平は中村が自分の気持ちに寄り添ってくれたことや、会津藩士に親身に接してくれたことを感謝し、後に宝刀を贈ったとされる。

明治維新後は旧姓に復して「桐野利秋(きりのとしあき)」と改名した。

明治四(1871)年に廃藩置県が行われると、桐野は太政官に出仕し、御親兵1万人の中に参加、兵部省・陸軍少将・熊本鎮台司令長官、陸軍裁判所所長を歴任した。
しかし明治六(1873)年に発生した「征韓論」に端を発する政変で西郷が太政官を去ると、一緒に辞職した。

その後は西郷や篠原国幹、村田新八とともに『私学校』を設立して貧窮する士族の教育に努める傍ら、
吉田村(現・鹿児島市本城町)で自給自足の生活を送り、訪れる者と天下国家を論じたという。

西南戦争においては西郷軍で事実上の総大将として指揮し、南九州各地で激戦の結果、敗色明らかとなった末、
城山での決戦の際、西郷の自決と別府晋介(べっぷしんすけ)*14による介錯を見届けてから単身敵陣に斬り込み、
額や右太もも・腹部・こめかみに銃弾を受け、戦死した。享年三十八。

幼少から剣術が好きで剣術の腕に優れ、実戦に強かったことから「豪胆な性格」として語られ「人斬り半次郎」の異名で知られるが、
史実として知られるのは赤松小三郎暗殺の一件のみであり、後年の創作であるといわれる。

維新後は勉強不足を恥じて、海外の事情を記した翻訳書を読みあさり、学識を身に付けたがそれまでのギャップに周りが驚くと、「いつまでも昔の姿で見るなよ」と笑い飛ばし、周りも黙ってしまった。

詳細は個別項目を参照。


四大人斬りが登場する作品・四大人斬りを主題とした作品

小説

  • 司馬遼太郎『人斬り以蔵』
  • 〃『竜馬がゆく』
  • 池波正太郎『人斬り半次郎』

漫画

  • 梅村真也/橋本エイジ『ちるらん 新撰組鎮魂歌』
  • みなもと太郎『風雲児たち 幕末編』
  • 黒鉄ヒロシ『幕末暗殺』*15

映画

  • 五社英雄『人斬り』*16

ゲーム






追記・修正は動乱の幕末を駆け抜けた人斬り達に思いを馳せながらお願いします。


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最終更新:2026年07月04日 10:31

*1 明治~戦前の昭和期の政府にとって、政府の高官になった中村半次郎以外の3人は、言ってしまえば新政府樹立において都合が悪かった存在といえるだろう

*2 これは幕末期より少し前に、五百万両もの借金を抱えていた薩摩藩が債権の放棄を条件に、貸付を行ってくれた商人を武士に取り立てるという政策を行っていたためである。森山家は特に多額の貸し付けを行っていたため、特別措置として士分に取り立てられた

*3 安政の大獄で長野主膳に協力して幕政批判をする人物を逮捕するのに協力した。

*4 それ以外に、多数の暗殺事件を起こしたならこの時点で殺されてもおかしくないが、生かされている時点で、実は殺していないのかも知れない。

*5 読み方は同じ。衛は律令下で守るを意味する漢字を表し、畏れ多いとこれを外した

*6 文久二(1862)年5月の勅使大原重徳東下の際に、両名とも士分となり、大原卿に供奉した。しかし、収賄や横領を行っていたため、評判が悪かった。以蔵たちが両名に拷問を加え、殺害しようとする最中、10歳ほどの寿三郎の娘が「お父さんを許してください」と泣いてすがったため、以蔵たちは殺すのを中止して両名を裸にして縄で縛り、往来にさらした。両名の生き晒しの様子は、当時の絵画に残されている

*7 薩摩藩主・島津斉興の後継者を決定する際に発生したお家騒動。正室・弥姫との子供である斉彬を推す派閥と側室・お由羅の方との子供である久光を推す派閥に分かれ、久光派が斉彬派を弾圧した。このお家騒動が発生した原因は、お由羅の方が息子・久光の藩主への就任を謀り、正室の子である斉彬を廃嫡することを目論んだことであるといわれる。また、斉興も斉彬を嫌い、久光を次期藩主に任命しようとしていた。というのも、斉彬が曽祖父・重豪(蘭学にのめりこむ「蘭癖」によって薩摩藩の財政を苦しくしたという)の影響を受けて蘭学に興味を示すようになっていたためである。斉興の代で傾きかけた財政は一応回復はした(家臣・調所広郷が借金の踏み倒し、唐物抜荷事件、琉球との黒砂糖の密貿易によってこれを回復させたが、これは立派な犯罪であったため、責任が主君・斉興に及ばぬようすべての責任を負って服毒自殺している)が、斉彬が再び「蘭癖」によって藩の財政を圧迫しかねないと危惧していたのであった。とはいえ、このお家騒動では斉彬・久光の兄弟仲は決して悪くなく、むしろ久光は斉彬になついていて蘭学を教わっており、西洋式軍事演習にも同行していた。斉彬も久光を信頼し、久光の子・茂久(もちひさ)を藩主に就任させるにあたり、後見役に任命している

*8 しかし、当時武士にとって欠かせない教養の一つであった漢文への知識は郷中教育へ積極的に参加したという話がなく、本人が謙遜して「学がない」という発言や上司の西郷隆盛がそれを惜しんだ話に尾ひれがついて、「中村半次郎=脳筋キャラ」というイメージがなされた。坂本龍馬ほどではないものの、中村も耳学問の天才的な部分があり、頭の回転は良かった。大隈重信から着こなし上手と褒められる程にファッションセンスが抜群で、後述する西南戦争の折には香水を持参していたという。

*9 藩主の茂久はまだ若く、経験に乏しかったため、父親の久光が「国父」という役柄で実権を握った

*10 後の「巌」。西郷隆盛のいとこ。

*11 後の「従道」。西郷隆盛の弟

*12 赤松は当時薩摩藩にてオランダ式からイギリス式への軍制切り替えとその軍事教練をしていたが、薩摩の軍事機密に詳しすぎた事に加え、薩摩との契約終了後、会津に同じ戦い方を伝授すると知った薩摩側が内通を疑い、機密漏洩防止の為、口封じで殺害した。会津側も彼に求人を出し、同時期に非常勤顧問という形で赤松も会津の求人に応じていた。薩摩との契約が任期満了で終え次第、会津が正式に彼に求人を出した矢先に暗殺だった。この赤松暗殺を中村は日記に記し、殿様の公式記録にも記されている。

*13 水戸徳川家から養子に入った、徳川慶喜の弟で喜徳が慶応4年(1868)2月4日、容保が鳥羽伏見の戦いで敗戦の責任を取り、隠退により家督を継いだ。直ぐに容保が後見人に就任したから意味は無くなったが

*14 1847~1877。桐野の従弟にあたる。

*15 この作品では、岡田が自身や勤皇党員時代の暗殺行動やその首魁の武市がその黒幕となっていたことをを自白した原因は、牢の役人から「武市が本間精一郎の暗殺の下手人が岡田たちであるということを白状したことで、岡田たちを奉行所に売った」ということを聞かされたためであるとされている

*16 司馬遼太郎『人斬り以蔵』が原作。主人公の岡田以蔵を勝新太郎、武市半平太を仲代達矢、田中新兵衛を三島由紀夫、坂本龍馬を石原裕次郎が演じた。

*17 全員が登場するが、漏れ無く敵対することとなる。特に岡田とはイベントが多い他、河上、中村とも長い付き合いとなる。残念ながら田中は任務のボスとして登場するのみ。