原文
Vn
Bragamas1 auec la langue torte
Viendra des dieux
2 le sanctuaire
3,
Aux heretiques
4 il ouurira la porte
En suscitant l'eglise
5 militaire
6.
異文
(1) Bragamas : bragamas 1597Br 1603Mo 1606PR 1607PR 1610Po 1627Di 1627Ma 1644Hu 1650Ri 1650Mo 1716PR, Braganas 1611
(2) dieux : Dieux 1665Ba 1716PR 1720To 1840
(3) le sanctuaire : piller le sanctuaire 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri 1650Le 1667Wi 1668 1981EB, la sanctuaire 1653AB 1665Ba 1720To, rompre le Sanctuaire 1672Ga
(4) heretiques : Heretiques 1672Ga 1772Ri
(5) l'eglise : l'Eglise 1568C 1572Cr 1597Br 1603Mo 1606PR 1607PR 1610Po 1611B 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri 1650Mo 1653AB 1665Ba 1667Wi 1672Ga 1716PR 1720To 1772Ri 1840 1981EB
(6) militaire : miliataire 1611A, Militaire 1644Hu 1672Ga
校訂
1行目
Bragamasは何らかの誤記の可能性もあるが、諸説あって特定の修正は難しい。
2行目は明らかに1語以上の欠落がある。文脈と韻律からすれば viendra の直後に動詞の不定法が抜けていると見るべきだろう。
17世紀に見られる piller (荒らす、掠奪する)、rompre (壊す)などの挿入はそれに対応したものだろう。
ピーター・ラメジャラーはカッコつきで rompre を挿入しており、
リチャード・シーバースもこれを踏襲している。
他方、
パトリス・ギナール(未作成)は prophaner (冒瀆する)を挿入している。語形は違うが、
アンリ2世への手紙では聖域(聖所)と冒瀆(prophane) が結びついているので、確かにその可能性もあるだろう。
日本語訳
歪んだ舌を持つ一振りの剣が
神々の聖域(を……し)に来るだろう。
異端者たちに彼は門を開くだろう。
(その行為で彼は)戦う教会を呼び覚ます。
訳について
1行目
Bragamas は諸説ある。
その中にはいくつかの魅力的な読み方もあるが、とりあえず古語辞典(DALF)にある通りの語義で訳した。
また、tort(e) は中期フランス語で「ねじれた、歪んだ」(tordu(e))の意味。
2行目は
パトリス・ギナール(未作成)の読みに従えば「冒瀆しに」、
ピーター・ラメジャラーの読みに従えば「壊しに」を補うべきだろう。
もっとも、「神々」という多神教的な表現からすれば、むしろ神々の聖域を『再興』して異端者たちを迎え入れ、教会の反発を招くという描写に見えなくもない。
ゆえに、1語以上の欠落があるという点では当「大事典」も異論はないものの、とりあえず現存最古の原文に最も忠実に訳しておいた。
4行目 En suscitant はジェロンディフ。同時性や対立などを示す用法だが、この場合は異端派を利する振る舞いが(「彼」の意図に関わらず)「戦う教会」を呼び覚ますことになるということだろう。
また、eglise militaire は若干の表現の違いはあるものの、「戦う教会」(église militante) と同じものであろう。
これは世の罪と戦うという意味で、現世の信者を指す定型表現である。それを「呼び覚ます」というのは、異端派の伸張がカトリックの信徒たちの信仰心を刺激するということであろうが、ここでは直訳した。
既存の訳についてコメントしておく。
大乗訳について。
1行目 「ひどい口調でブラガマスは」は、torte を「ひどい」と訳すことに若干の疑問はあるが、意味を確定させがたい
Bragamasをそのままカタカナ書きするのは一つの訳し方として認められるだろう。
2行目「やってきて神聖さを破る」は rompre が挿入されている底本に基づく訳としてはそれなりに正しいが、des dieux (神々の)が完全に抜けているのは問題だろう。
3行目「彼は異教徒の門を開き」は間違いとはいえないかもしれないが、aux (à + les) はこの場合 「~に」 と訳す方が素直ではないだろうか。
山根訳について。
1行目 「ねじれた舌をもつ冒険好きの傭われ兵」は、
Bragamasの可能性として許容される。
3行目「異教徒にさあどうぞと門をひらき」は意訳としては許容されるだろうが、「さあどうぞ」にあたる言葉は原文にない。
4行目「教会を煽って好戦的にさせるのだ」は誤訳ではないが、神学的な定型表現「戦う教会」との類似性が読み取れないという点では好ましい訳には思えない。その点では大乗訳の「闘争的な教会」の方が良いのではないだろうか。
信奉者側の見解
テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、「神々の聖域」をローマ・カトリックの聖堂と解釈した。
キリスト教はもちろん一神教だが、カトリックの聖堂内では多くの Images (彫像、肖像)が崇拝の対象になっているから、というのが理由である。
(ガランシエールはカトリックを棄教した人物で、カトリックを攻撃した著書もある。カトリックが多神教に堕していると言っているに等しいこの解釈は、彼の信仰上の姿勢と無関係ではないだろう)
その時期の論者では
シャルル・ニクロー(1914年)が解釈している。
彼は
Bragamasを、19世紀の劇作家ヴィクトリアン・サルドゥの演劇の登場人物、ラバガ (Un M. Rabagas) の
アナグラムと見なし、その人物がフリーメイソンリーを利する行為に出たことと、当時の有名なガンベッタの発言「聖職者至上主義、それは敵だ」(Le cléricalisme, voilà l'ennemi) などと結びつけ、詩番号の8巻78番は1878年を暗示しているとした。
エリカ・チータム(1973年)は一般的な詩として、ユグノー戦争にも三十年戦争にも適用できるとしていた。
セルジュ・ユタン(1978年)はローマ・カトリック内の不和などについてとする時期を明記しない解釈しかつけていなかった。
しかし、
ボードワン・ボンセルジャンの補訂(2002年)では、19世紀にイタリア統一運動を推進したガリバルディと結び付けられている。
同時代的な視点
ルイ・シュロッセ(未作成)は
Bragamas を「ほら吹き」(hâbleur) と同一視し、ジャン・カルヴァンがモデルになっていると解釈した。彼の解釈の場合、4行目の「戦う教会」は神学用語ではなく、カルヴァンの神権政治を指す。
ロジェ・プレヴォは、1560年代のフランス大法官(宰相)ミシェル・ド・ロピタルがモデルと解釈した。
この説は
ピーター・ラメジャラー、
リチャード・シーバースが踏襲した。
ロピタルはプロテスタントに融和的な姿勢を打ち出し、カトリック、プロテスタントの衝突を避けようと尽力し、1562年1月の和平王令の発布にこぎつけた。
だが、同年3月にカトリック側のギーズ家によるプロテスタント虐殺事件(ヴァシーの虐殺)によって、第一次ユグノー戦争が起きてしまった。
その後も融和の模索を行なったが、最終的に1568年に更迭された。
詩の情景は「ブラガマス」が異端の手助けをし、それが罪と戦うキリスト教徒の意識を呼び覚ますと読める。
だから、プロテスタントに融和的な政策を採ってカトリックの反発を招いたロピタルに、かなりの程度適合するのは事実である。
他方、(
Bragamas の解釈を措くとしても、)ロピタルが 「歪んだ舌を持つ」人物として描かれているのは、平和の道を模索していたロピタルに対してネガティヴすぎる評価であり、ノストラダムスが果たしてそこまで暴力的な排他性を支持していたのだろうかという疑問も湧く。
この疑問は、ノストラダムスがプライベートな手紙類では、プロテスタントに好意的な意見も書いていたことを考え合わせると、いっそう強化される。
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最終更新:2020年06月22日 21:21