目覚めは、光ではなく音だった。
天井裏を走る配管が、いつものように低く唸っている。蒸気が漏れ、金属が軋む音は、この区画の朝を告げる合図だ。
ユルグはそれを聞きながら、しばらく目を閉じたままでいた。
起き上がる理由を探す必要はない。探さなくても、身体は勝手に起きる。
寝台は、かつて工場で使われていた作業台を改造したものだ。角は丸めたが、冷たさは消えない。
手を置くと、金属の感触が掌に残る。その感触だけが、今でも彼に「自分は物理的に存在している」と教えてくれる。
ユルグは150年以上、この街で暮らしている。
正確な年齢を言える者は、もう
メルズにはほとんどいない。不老登録を拒否した日を境に、戸籍の更新も、年齢の意味も曖昧になった。
老いる身体を選んだことに後悔はない。ただ、それが「選択」として記録されていないことが、少しだけ奇妙だった。
流しで顔を洗う。水は灰色がかっているが、匂いはしない。以前よりは改善された。
権利ドロイドが、配管の一部を交換したからだ。彼らは礼を言われることを期待しない。
だがユルグは毎回、小さく頭を下げる。それは癖のようなものだ。
外に出ると、街はすでに動いていた。
動いている、という表現は正確ではない。人々は忙しくも、活発でもない。
ただ、必要な分だけ、必要な場所へ移動している。
争いは少なく、声も低い。ここでは、感情を外に出すことは資源の浪費と同義だった。
ユルグは路地を抜け、古い工業棟へ向かう。今日は修理の依頼がある。
上層から流れてきた制御ユニットだ。公式には廃棄品だが、動く。動くものは、価値になる。
作業台に向かい、カバーを外すと、懐かしい構造が現れた。
昔、彼が働いていた工場と同じ設計思想だ。過剰な安全装置、冗長な回路。人が扱う前提で作られていた時代の機械。
彼は思い出す。
まだ「労働」が尊敬されていた頃。自分の名前が、工程表に記されていた頃。
その記憶に、怒りはない。怒る相手がいないからだ。
誰かが奪ったわけではない。ただ、不要になった。
昼前、自治評議会の掲示が更新された。
インフラ補修の延期。理由は予算配分。いつものことだ。若者が一人、舌打ちをしたが、それ以上は何も言わない。
怒りは、ここでは長続きしない。
昼食は配給の合成食料だった。
味は単調だが、腹は満たされる。政府は、この街を見捨ててはいない、と公式には言える程度には、制度は機能している。
ユルグはそれを否定しない。否定できないほど、理屈は整っている。
午後、接続意識体の知人が通信障害で混乱していると聞き、様子を見に行く。
彼は昔、肉体を持っていた。今は低速ネットワークの向こう側にいる。会話は途切れ途切れで、沈黙が長い。
それでもユルグは待つ。待つことだけは、時間の余っている者の特権だ。
夕方、上層へ向かう
タワートレインが通過する。
轟音と振動。ユルグは反射的に空を見上げ、すぐに視線を戻す。
あそこは遠い。物理的な距離以上に、制度の距離がある。
夜、街に錆灯が灯る。誰が名付けたのか、もう覚えていない。
青白い光が、廃材と影を照らし、街を一つの風景にまとめ上げる。
ユルグはベンチに腰掛け、古いラジオを回す。海賊放送が入る。音質は悪いが、構わない。
流れてくるのは、労働歌だった。働くことが、生きることと結びついていた時代の歌。
彼は考える。連邦は成功した。戦争はなく、飢えもなく、寿命すら選べる。
それでも、自分たちは「不要になった後の存在」だ。
それは悲劇ではない。悲劇は、誰かが救われなかった時に起きる。
ここでは、誰もが最低限救われている。
ただ、意味だけが配られない。
ラジオがノイズに変わり、風が吹く。
ユルグは目を閉じる。明日もまた、同じ一日が来るだろう。
変えたいとは思わない。変えられるとも思わない。
それでも、ここで生きることを放棄していない自分がいる。
錆灯の下で、彼は名もない市民として、今日も静かに、社会の一部であり続けている。