綾音は席についたまま、背筋を伸ばしていた。
姿勢を崩すと、判断が遅れる気がした。
扉が開く音は小さかった。
だが入室した男の存在は、すぐに空気を変えた。足音が一定で、迷いがない。椅子を引く音すら、周囲に合わせて調整されている。
ヴァンス「共有されない場合、その部分の連携を保障できない」
綾音は瞬きを一度だけした。
ヴァンス「条約外の協力については、存在しない前提で進めることになるだろう」
卓上に、何も映っていないはずの光が揺れた気がした。
綾音の指先が、ペンを回す。
止めようとして、止めなかった。
綾音「……進める、とは」
ヴァンスは肩をすくめた。
その動作に、力は入っていない。
ヴァンス「我が国の沽券に関わる問題だ。必要だと判断した技術を、必要な速度で整備することになる」
言葉の最後に、ほんのわずかな間が置かれた。
綾音はその間に、いくつもの可能性を見た。
見えてしまったから、視線を逸らさなかった。
綾音「それは、こちらの予測範囲を外れます」
ヴァンス「そうだろうね。そこで、今回の取引というわけだ」
否定しない。
むしろ肯定に近い。
ヴァンスは指を鳴らし、壁面を起動させた。
簡素な文が二行だけ、空間に浮かぶ。
情報「共有」に応じるなら、独自の実験には踏み込まない。
それがセトルラームにできる最大限の譲歩だから。
しかし、禁止リストの技術共有は、予測不能の事態を招くかもしれない。
綾音は、文を読み終えてもすぐに反応しなかった。
沈黙が伸びる。ヴァンスは待つ。
待つことが交渉だと知っている男の待ち方だった。
綾音「……それを信じろ、と」
ヴァンス「信じろとは言わない。合理的に計算してみてくれ」
綾音の喉が、小さく鳴った。
水分不足ではない。
身体が、判断の直前に出す癖だ。
綾音「どっちみち、OSTSでは共有されます。それは合理的な提示ですか?」
ヴァンス「無論、OSTSの枠組みには従うがね。その情報が、君たちに共有されるとは限らない。分かるだろう?」
言葉は柔らかいが、否定は鋭い。
綾音は椅子の肘に指をかけ、力を入れた。
爪が沈む感触で、今ここにいることを確かめる。
ヴァンス「我が国は、理解できないものを恐れる。恐れるからこそ、同等の技術力を宣伝しなければならない。シンプルだが、相互等価の原則だよ」
綾音「……作られたものは、防御だけで終わらない」
ヴァンスは少しだけ笑った。
否定も反論もしない笑いだ。
ヴァンス「だから、連絡を寄越した。君たちが知っている『線』を、こちらも知りたい」
綾音は、壁面の文字を消した。
会議室に、再び何も映らなくなる。
綾音「資料群の提供は、簡単な話じゃない」
ヴァンス「承知している」
綾音「提供した瞬間から、可能性が移動します」
ヴァンス「可能性は、今も動いている。君たちは賢い。想定外のリスクを理解できるだろう?」
二人の視線が、卓の中央で交差した。
言葉より先に、立場がぶつかる。
綾音は目を伏せ、短く息を吐いた。
その呼吸が、決断の前触れだと、ヴァンスは見逃さなかった。
綾音「……条件があります」
ヴァンス「言ってみなさい」
綾音は端末を起動した。
いくつもの封印されたフォルダが、光の層として現れる。
綾音「段階的に開示します。最初はカテゴリと兆候指標のみ。実装や理論には触れない」
ヴァンスは頷く。
早い。
拒否する理由がないからだ。
綾音「閲覧者は限定。複写不可。外部接続遮断。監査ログはミラーリング」
ヴァンス「骨が折れる条件だな。こちらの内部が嫌がる」
綾音「嫌がってください」
その一言で、場の温度が下がった。
だがヴァンスは引かない。
ヴァンス「おもしろい要求だ。独自実験の凍結も、条文化しろと?」
綾音「はい」
一拍。
二拍。
ヴァンスは天井を見上げ、すぐに戻した。
ヴァンス「……そうか。話を打ち切って良いのなら、な」
綾音「技術的には、必要です」
沈黙が落ちた。
今度は重い。
綾音は、自分が瞬きを減らしていることに気づいた。
目を逸らしたくなかった。
ヴァンス「いいだろう。ただし、条件を付け加える」
その声は、諦めでも勝利でもなかった。
帳簿に印をつける音に近い。
ヴァンス「凍結と監査を受け入れよう。当面の準備期間として、な。その期限は提供から20年。その後は、明確な線を示してもらう」
綾音は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
開いた時、迷いは表に出さなかった。
綾音「第一段階を、今ここで」
端末の操作音が静かに響く。
最初の箱が開き、淡い光が室内に広がった。
ヴァンスは身を乗り出さない。
ただ、視線だけを固定する。
その目に、期待も恐怖も浮かばない。ただ、国家が国家として反応する色だけがあった。
綾音は思う。
これは譲歩だ。
危険だ。
だが、見えないまま増えるものよりは、ずっと形がある。
光の中に、禁止領域の輪郭が現れる。
会議室に、誰も言葉を置かなかった。
代わりに、未来が少しだけ、形を持った。
最終更新:2026年02月02日 05:07