扉が閉じる。
防音層が完全に噛み合うまで、ほんの数秒。
だが綾音には、その数秒がやけに長く感じられた。
閉じた、という事実が、すぐには実感にならない。
男の残した気配だけが、会議室の空気に薄く張り付いている。
誰も動かない。
椅子も、端末も、照明も。
まるで「次に来る言葉」を待っているかのようだ。
綾音は、机に置いた自分の手を見た。
指先が、わずかに白い。力を入れた覚えはない。
入れていたのだと、今になって気づく。
息を吐いた。
吐いた量より、吸えていなかった時間のほうが長いと分かる。
空調の音が、遅れて耳に戻ってきた。
本部地下特有の、低く均一な振動。
艦のそれとは違う。ここは逃げ場のない場所だ。
「……行きましたね」
誰かの声。
距離感が、少し遠い。
綾音「ええ」
返事は短い。
余計な音を足したくなかった。
照明が通常モードに戻る。
影が薄くなり、部屋の輪郭がはっきりする。
同時に、隠れていたものも露出する。
卓上に並ぶ、暗号化されたフォルダ群。
――渡した。
その事実が、胸の奥でゆっくり沈んでいく。
水に落とした石のように、音もなく、確実に。
情報統括官が前に出る。
靴底が床に触れる音が、やけに大きい。
情報統括官「……第一段階、ですね」
綾音は頷かなかった。
頷けば、整理された判断になる。
今は、まだ整理したくなかった。
綾音「線は、こちらにあります」
声は平坦だった。
だが、喉の奥に小さな引っかかりが残る。
技術監査官が何か言いかけて、やめた。
その沈黙が、むしろ重い。
綾音は、視線をフォルダから外した。
見続けると、そこに「未来」が重なってしまう。
――可能性を、相手の側に置いた。
それは敗北でも、信頼でもない。
ただの選択だ。
それでも、体はその重さを理解している。
椅子の背に、ゆっくり体重を預ける。
背骨がシートに触れた瞬間、思っていたより疲れていることに気づく。
戦略局員「セトルラームが、独自に踏み込む可能性は下がります」
事実だ。
だが、その言葉が綾音の内側で反響することはなかった。
技術監査官「代わりに、こちらが抱え込む」
こちら、という言葉が、少しだけ曖昧だ。
ピースギアか。
それとも、自分か。
綾音は、そのどちらも否定しなかった。
綾音「……最初から、何も抱えずに済む未来はありませんでした」
口に出した瞬間、その言葉が自分に返ってくる。
言い聞かせではない。
確認だ。
通信担当が端末を閉じる。
通信担当「外部反応、まだなし。本部内も静かです」
静か。
それは良い兆候でもあり、嵐の前触れでもある。
綾音の意識が、一瞬だけ内側に沈む。
未来予測。
数字。
分岐。
誤差。
そこに、今日の選択が滑り込む。
まだ計算式には組み込めない形で。
――正しかったか。
その問いが浮かびかけて、消える。
正しさは、今ここでは使えない指標だ。
技術監査官「……綾音司令」
呼ばれて、初めて自分の名前を思い出す。
綾音「はい」
技術監査官「怖くは、ありませんか」
直接すぎる問いだった。
だが、責める響きはない。
綾音は、すぐには答えなかった。
怖い、という言葉が、あまりにも軽く感じられたからだ。
綾音「……分かりません」
それは逃げではなかった。
本当に、分類できない。
胸の奥にあるのは、恐怖よりも鈍いもの。
重さ。
引き受けたという感触。
綾音「ただ、見えないまま増えるもののほうが……もっと、扱えない」
言葉を選んだわけではない。
選ばずに出た言葉だった。
誰も返さない。
返せない。
会議室の外で、警備ドアが切り替わる音がした。
本部は通常運用に戻りつつある。
世界は、もう次の秒へ進んでいる。
綾音は立ち上がり、フォルダ群を最後に一度だけ見る。
あの男は、ここから先も計算する。
条文を読み、監査を測り、線の太さを確かめる。
だが――
線は知った。
それだけで、未来はわずかに形を持つ。
綾音は歩き出す。
会議室の出口で、一瞬だけ足が止まる。
胸の奥に、微かな違和感。
譲歩した記憶。
危険を、選んだという感覚。
それでも、引き返さない。
知らないまま進む未来より、
重さを知って進む未来のほうが、まだ――
扉が開く。
光が差し込む。
綾音は何も言わず、その中へ踏み出した。
最終更新:2026年03月18日 22:34