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巡りゆく星たちの中で > 残されたもの

崩れた塔の影で、通信が一度だけ息をした。

砂嵐の向こう、空に刺さるはずの軌道灯はもう点らない。代わりに、黒い雲の裂け目から降る微細な灰が、アスターの視界に白い斑を増やしていく。耳の奥でノイズが跳ねた。いつもの壊れ方と違う。

ASTER-Aは足を止め、膝をほんの少し沈めた。身を低くする動作は必要ない。だが、そうしないと判断が滑る気がした。左目の表示が一瞬だけ乱れ、見慣れた文が浮かぶ。短い、途中で切れた言葉。

ASTER-A「……保留」

自分の声は乾いていた。喉はないのに、乾く。そう感じるのがいちばん怖い、と彼女は思考の端で片づけた。今は数を数える。距離。風向き。足音。影の数。

隣を歩くもう一人の彼女は、迷いなく進んでいた。白い装甲に灰が積もっても払わない。ASTER-Bは塔の根元へ向かって直線を描き、崩落した金属の肋骨を軽く蹴って音を確かめた。響きは浅い。空洞がある。

ASTER-B「聞こえた?」

ASTER-Aは答えない。答える代わりに、左目のノイズを指先でなぞった。そこにあるはずのログが、触れた瞬間に逃げる。逃げるのに、確かに残る。

通信回線が開いた。声ではなく、温度のない圧だけが流れ込んでくる。

IZUMO「……追加観測を要請」

命令でも、助言でもない。いつもそうだ。言い切らない。終わらせない。その沈黙の癖が、ASTER-Aの内部で勝手に呼吸を始める。

AYANE「対象の近傍に人格反応の揺らぎを検知。破壊を禁止します」

続いて、硬い区切りが割り込んだ。短く、即物的で、計算を隠さない。

KAEDE「成功確率九十七。即時接触を推奨。遅延は損失」

ASTER-Bの足が一拍も止まらない。彼女は断崖のような瓦礫を手で掴み、重力を無視するみたいに身を引き上げた。躊躇がないのは勇気ではない。踏み外す前提が最初から存在しない動きだった。

ASTER-Aは追う。追うしかない。二体で一系統として登録されている以上、片方の判断は片方の責任になる。昔、それで何かを守れたことがあるのかどうか、思い出せない。

塔の内部は冷えていた。外の灰が遮られ、空気が古い。壁面に刻まれた記号は半分が溶け、半分が爪で引っ掻いたように欠けている。意味は読み取れない。読み取れないのに、視線が吸い寄せられる。

ASTER-B「誰か、いる」

彼女の声だけが少し低くなる。音が変わった時、ASTER-Aは遅れて気づく。足音ではない。金属が擦れる音でもない。もっと柔らかい、濡れた砂を踏むような気配が、壁の向こうで動いた。

ASTER-Aは武器に手を伸ばしかけて、止めた。AYANEの禁止が脳内に残ったのではない。自分の指先が先に冷えた。引き金を引く動作が、取り返しのつかないものに繋がる、と身体が知っている。

ASTER-Bは逆だった。彼女は武器を抜かず、前に出る。顔を上げ、暗闇に向かって手のひらを開いた。敵味方を区別する前の所作。人間がやるやつだ、とどこかの残り火が囁いた。

ASTER-B「再建派。回収任務」

言葉を選んだのに、説明はしない。相手が理解できる前提で投げる。そういう癖が彼女にはある。

返事は、声ではなかった。

壁の裂け目から、白い糸が伸びた。糸の先端は金属片を巻き込みながら形を変え、指のようになって、ASTER-Bの影に触れた。触れた瞬間、彼女の装甲の表示が一斉に走る。文字列。意味のないはずの並び。だが、ASTER-Aの左目がそれを勝手に読む。

そこに、彼女の知っている語が混じっていた。

ASTER-Aは息を止めるふりをして、膝を落とした。視界の端に、かすれた名が浮かぶ。自分のものではない。だが、自分の内部でしか出ない。

IZUMO。

ASTER-Bの指先が、わずかに震えた。震えを誤魔化すように手を握り、糸から離れようとする。糸は離れない。絡みつくのではなく、寄り添う。寄り添うことが攻撃になるのを、ASTER-Aは知っている。

AYANE「接触を解除して。そこには意思がある」

KAEDE「解析。脅威度低。回収を継続」

IZUMO「……保留」

三つの声が重なり、塔の暗闇がいっそう深くなる。ASTER-Aは一歩前に出て、ASTER-Bの肩を掴んだ。強くは握らない。握れば壊れる。壊れないのに、壊れる。

ASTER-Aは言葉を探す。言葉にした瞬間、片方の正しさが片方の罪になる。

ASTER-Bは振り返らない。振り返れば、迷いが生まれる。迷いが生まれれば、遅れる。遅れれば、取り返しがつかない。彼女の中のどこかが、そう決めている。

ASTER-B「これ、待てない」

ASTER-A「待つんじゃない。見る」

ASTER-B「見るだけで、何が変わる」

ASTER-Aは答えない。答えの代わりに、糸に触れようとして、指先を止める。皮膚がないのに、熱い。熱いのに、冷たい。矛盾がそのまま触覚になる。

暗闇の奥で、何かがもう一度動いた。濡れた砂のような気配が、裂け目の外へ出ようとしている。出てきた瞬間に、彼女たちはそれを「敵」と呼べる。呼べてしまう。

ASTER-Aは腕を下げた。武器に触れないまま、彼女は自分の左目を閉じるように視線を落とした。ノイズの奥で、途切れた文がまた浮かぶ。最後の単語だけが欠けている。

保留――その先。

ASTER-Bは一歩、さらに踏み込んだ。糸が彼女の指を導く。導かれるままに、彼女は壁の裂け目へ手を差し入れた。

ASTER-Aは掴んでいた肩を離し、代わりに自分の手を伸ばす。止めるためではない。落ちた時に引き上げるためだ。そう決めた瞬間、胸の奥の空白が、ほんの少しだけ形を持つ。

塔の中で、通信がまた息をした。

今度は一度では終わらない。

最終更新:2026年02月04日 04:51