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巻十四 志第四

唐書巻十四

志第四

礼楽四

吉礼四

封禅 巡狩 視学 耕藉 拝陵



【封禅】
  常設の祭祀ではなく、天子が特定の時期に行なう祭祀には、封禅・巡守・視学・耕藉・拝陵がある。

  文中子は、「封禅は、古代の祭祀ではなく、秦・漢の奢侈の心が映し出した儀礼ではないのか」と述べたが、思うに稀代のもので常時行わず、礼の根拠もなかったから、そのため漢代以来、儒生・学官は論議して意見が一致せず、最終的な合意に至らず、そこで当時の君主の意のままに実施するだけであった。隋の文帝がかつて牛弘辛彦之らに儀注を撰定させ、壇を泰山の麓につくったが、祭祀の実施は南郊のようにするだけであって、山には登らなかった。

  唐の太宗が突厥を平定し、毎年の穀物の実りがしばしば豊かになると、群臣は泰山を封ずることを願った。太宗は当初非常に不可としたが、後に中書侍郎の杜正倫を派遣して太山上の七十二君の壇跡に行かせるも、この年に両河の大水のため中止した。その後群臣で封禅を言う者が多く、そこで秘書少監の顔師古・諌議大夫の朱子奢らに命じて当時の名儒博士を集めて論議させたが、決めることができなかった。ここに左僕射の房玄齢・特進の魏徴・中書令の楊師道が広く衆議を採って奏上した。その議は以下の通りである。「壇を泰山の麓につくり、昊天上帝を祀る。壇の広さは十二丈(約27.6m)、高さは一丈二尺(約2m76cm)。玉牒は長さ一尺三寸(約29.9cm)、広さ、厚さは五寸(約12cm)とする。玉検(玉牒を覆う玉製の板)は同様で、厚さは三寸(約7cm)少ない。歯を押し付けたような文は璽のようで、周囲を金の縄で五周巻く。玉策は四で、いずれも長さ一尺三寸(約29.9cm)、広さは一寸五分(約3.5cm)、厚さ五分(約1.2cm)で、玉策ごとに五簡とし、金で象嵌する。昊天上帝に太祖を配侑とし、皇地祇には高祖を配侑とする。祀り終わってから戻って廟を祀り、金の箱に積む。箱の高さは六寸(約18cm)で、広さは玉策を入れるに充分で、つくりは上表を入れる箱のようにし、金の縄で巻き、金泥で封泥し、印は受命の璽を用いる。玉牒を山上に納め、方石三枚で二度重ね、金縄で巻き、石泥で封泥し、印は受命の璽を用いる。その山の上を円壇とし、土は五色を用い、高さは九尺(約207cm)、広さは五丈(約11.5m)、四面を一階とする。天子は南の階段から登り、玉牒を封じる。封じ終わると、土を被せ、築いて封じ、高さ一丈二尺(約2m76cm)、広さ二丈(約4.8m)とする。社首山を禅(まつ)るのもこれと同様である。石検(方石が崩れないようにする石板)は封ずるのに受命の璽を用い、玉検(玉牒を覆う玉製の板)は別個に璽をつくる。璽の一方は一寸二分(約2.8cm)で、印文は受命の璽と同じである。石距(儀場に等間隔に置かれた石)は縦に置かず、用いない。同じく告祭のため壇に向かい、一方は八十一尺(約18.6m)、高さは三尺(約69cm)で、四方に階段が出て、燔柴告至して、神々を望秩する。」 遂に礼に著し、その他の降禅・朝覲はいずれも著さなかった。貞観十五年(641)になって、東に行幸しようとしたが、洛陽に行ったとことで、彗星が見えたたため、沙汰止みとなった。

  高宗の乾封元年(666)、泰山を封じ、円壇を山の南四里につくり、円丘のようで、三方を壁で囲み、壇上を青で飾り、四方はそれぞれの方位の色の通りにし、封祀壇と号した。玉策は三で、玉で簡をつくり、長さは一尺二寸(約28cm)、広さは一寸二分(約2.8cm)、厚さは三分(約7mm)で、金文を刻んだ。玉匱は一で、長さは一尺三寸(約29.9cm)で、上帝の冊を納める。金匱(金属の箱)は二で、配侑の帝の冊を納める。金の縄を五周巻、金泥・玉璽で封泥し、璽の一方は一寸二分(約2.8cm)で、文は受命の璽と同じである。石䃭(石の箱)は四角い石を二枚重ねとし、いずれも一方が五尺(約115cm)で、厚さが一尺(約23cm)で、その中央を四角にくり抜いて玉匱を収納する。石䃭の側面には封印で密封し、刻紋の深さは三寸三分(約7.6cm)、広さは一尺(約23cm)で、規則的に刻まれた文様は深さ三分(約7mm)、広さ一寸五分(約3.5cm)である。石検(方石が崩れないようにする石板)は十枚で、石検ごとに石䃭を置き、いずれも長さ三尺(約69cm)、広さ一尺は(約23cm)、厚さは七分(約1.6cm)で、歯を押し付けたような文は三道にわたり、いずれも深さ四寸(約9cm)で、捺されている璽は一方が五寸(約12cm)、刻まれている文様は広さが一寸五分(約3.5cm)であった。石䃭の側面に石検を立て、南方・北方にいずれも三で、東方・西方はいずれも二で、石䃭から隅まで一尺(約23cm)であった。石䃭は金縄で五周巻き、石泥で封泥する。石は十二個で、それぞれに石䃭の角に置かれ、いずれも二枚重ねとし、いずれも広さ二尺(約46cm)、長さ一丈(約2.3m)で、石䃭に合わせて首を斜めに刻む。また壇を山の上につくり、広さ五丈(約11.5m)、高さ九尺(約207cm)で、四方に階段が出ており、一壁があり、登封壇と号した。玉牒・玉検(玉牒を覆う玉製の板)・石䃭(石の箱)・石距(儀場に等間隔に置かれた石)・玉匱(玉の箱)・石検(方石が崩れないようにする石板)はいずれも同様である。降禅壇を社首山の上につくり、八角形・一段・八階段であることは方丘と同様で、三壁がある。上は黄で装飾し、四方はその色の方角で飾られ、その他はいずれも登封と同様である。その議がだいたい定まると、天子は詔して、「古今の制度は、形式も内容も同じではない。今封禅するのに玉牒・金縄を用いるが、瓦・尊・匏爵・秸(わら)の席は文によって改めるべきである」と述べ、ここに昊天上帝の褥は蒼、地祇の褥は黄、配侑の褥はいずれも紫を用い、尊・爵といった祭酒器も同じく改めた。

  この年(666)正月、天子は昊天上帝を山の麓の封祀壇で祀り、高祖太宗を配侑とし、円丘の礼の通りとした。親ら玉冊を封じ、石䃭を置き、五色の土を集めて封じ、直径一丈二尺(約2m76cm)、高さ一尺(約23cm。『旧唐書』礼儀志、『唐会要』巻七では九尺(約207cm)とする)であった。終わると山に登った。翌日、また玉冊を登封壇に封じた。また翌日、皇地祇を社首山の降禅壇に祀り、方丘の礼の通りとし、太穆皇后文徳皇后を配侑とし、皇后武氏を亜献とし、越国太妃燕氏を終献とし、六宮を率いて登り、宮廷の帷幄は皆錦繍でつくられた。群臣は仰ぎ見たが、多くは密かに笑った。翌日、朝覲壇に御して群臣に朝賀することは、元日の礼と同様であった。そこで詔して登封壇・降禅壇・朝覲壇に碑を立て、封祀壇を名付けて舞鶴台といい、登封壇を万歳台といい、降禅壇を景雲台といい、瑞兆を記した。その後嵩岳を封じようとしたが、吐蕃・突厥の侵攻によって沙汰止みとした。永淳元年(682)、また奉天宮を嵩山の南につくり、行幸した。翌年十一月に封禅しようと、諸儒の国子司業の李行偉・考功員外郎の賈大隠らに詔して詳細な祭儀の計画を行わせたが、後に病に罹り、封ずることができず、武后の時に登り封ずることができた。

  玄宗の開元十二年(724)、全国はよく治まり、この年は豊作が続き、群臣の多くが封禅のことを申し上げ、中書令の張説も同じく強く願い、そこで制を下して開元十三年(725)に泰山を有事摂祭することとした。ここに張説は右散騎常侍の徐堅・太常少卿の韋縚・秘書少監の康子元・国子博士の侯行果と共に儀注を刊定した。円台を山の上に立て、広さ五丈(約11.5m)、高さ九尺(約207cm)、土の色はそれぞれの方角に依拠した。また円台の上に方壇をつくり、広さ一丈二尺(約2m76cm)、高さ九尺(約207cm)で、その方壇・円台の四面に一つの階段とした。また柴を積んで燎壇を円台の東南に設置し、最適な地を選び、柴の高さは一丈二尺(約2m76cm)、一方は一丈(約2.3m)で、上は開き、南に戸が六尺(約138cm)出た。また円壇を山の麓につくり、三段十二角形で、円丘の制の通りである。また柴を積んで壇の南に燎壇とすることは、山上と同様である。また玉冊・玉匱(玉の箱)・石䃭(石の箱)は、いずれも高宗の時の制度と同じである。玄宗はそれより以前、崇山にて祭天し、神を享(まつ)ろうとしたが、喧騒すべきではないと思った。亜献以下を皆山の下の壇で行わせようとし、礼官を召集して講議させた。学士の賀知章らが「昊天上帝は君です。五方精帝は臣です。陛下は君を山の上で享(まつ)り、群臣は臣を山の下で祀るのは、変礼の中というべきことです。しかし礼は三つからなり、亜献・終献は異にしてはなりません」と述べた。ここに三献はいずれも山に登り、五方帝および諸神はいずれも山の麓の壇で祭った。玄宗は「歴代の王朝ではどうして玉牒を秘密にしていたのか」と尋ねると、賀知章は、「玉牒は思いを天に通じるために用いられ、歴代の王朝では、ある皇帝は長寿を祈り、神仙となることを願っていたので、書かれていることは皇帝の私事での秘密でした。そのため外部には知らせなかったのです」と答えた。は「朕は今民のために幸福を祈るから、一つとして秘密にしたいと思うことはない。だから玉牒を出して百官に示せ」と言い、そこで昊天上帝を山の上の壇で祀り、高祖を配侑とした。五帝以下の諸神を山の麓で祭り、その祭祀の礼はいずれも円丘と同じである。卜日(祭祀日の選定)・告天および廟・社・大駕への経過報告・百歳の者への問いかけ・朝覲は、いずれも巡狩の礼と同じである。

  登山すると、大幄を途中の道につくり、止まって休むこと三刻、それから後でまた登った。燔燎の祭りが終わると、侍中が前に進み出て跪いて「具さに官臣の某が申し上げます。玉冊を封じてください」と言い、皇帝は南の階段から登り、北に向いて立った。太尉が昊天上帝の神座の前に進み出て、跪いて玉冊を取り、机に置いて奉った。皇帝は玉冊を受け取ると、跪いて玉匱の中に入れ、金縄で縛り、金泥で封じた。侍中が受命宝(天子八宝の一つ。封禅にて神祇を礼するに用いる)を取って跪いて進み出る。皇帝は受命宝を取って印を玉匱に用い、侍中は受命宝を受け取って、符宝郎に授ける。太尉が進み出て、皇帝は跪いて玉匱を捧げて太尉に授け、太尉は退いて、もといた版位に戻る。太常卿が前に進み出て「再拝してください」と奏すると皇帝は再拝し、退いて大幄に入る。太尉は玉匱を奉って石䃭(石の箱)の南に置き、北向きで立つ。執事は石蓋を開け、太尉は玉匱を奉り、跪いて石䃭の中に収める。執事は石蓋を閉じ、石検(方石が崩れないようにする石板)に封印し、石䃭を金縄で縛り、石泥で封じ、玉宝で印を多数捺し、降りて版位に戻る。執事を率いる者は石距(儀場に等間隔に置かれた石)に封じ固め、また五色の土で丸く封じる。その配座する玉牒は金匱(金属の箱)に封じ、いずれも玉匱を封じた通りである。太尉は金匱を奉って降り、共に版位に戻る。金匱を太廟に入れ、高祖神尭皇帝の石室に入れる。社首山を禅(まつ)るのもこれと同様である。


【巡狩】
  天子が巡狩しようとすると、その方角の州に向かって、「皇帝は某月を以て某に巡狩する。各自、お前達の国境内の警備を平治し、お前達が職事を考校し、敬戒を怠るな。もし敬戒せぬ者があれば、王国には誅殺の大刑がある」と告げ、出発しようとすると、円丘に告祭した。出発一日前、皇帝が潔斎することは郊祀と同様で、昊天上帝に告げ、また太廟・社稷に告祭する。大駕の鹵簿(天子の行列)を整える。通過する州・県では、刺史・県令が境に伺候し、通事舎人が制を承って老人を慰問し、古えの帝王・名臣・烈士を祭る。到着すると、刺史・県令は皆まず奉見する。将作監は告至(皇帝が都の外に出た際の祭祀)の円壇を岳の麓に築き、四方に階段を張り出し、昊天上帝・配侑の帝の位を設ける。

  天子が到着すると、執事は全員一日潔斎する。翌日、岳・鎮・海・涜(大嶺)・山・川・林・沢・丘・陵・墳・衍(平洲)・原(平原)・湿(湿原)に望んで、担当役所は壇をつくる。祭官は東壁の門外の道の南に帷幄を設置し、北向きとし、御供物を幔幕の内側の壁の東門の外の道北に設置し、南向きとし、宮縣(天子の奏楽の時に楽器を並べるところ)・登歌(堂上での奏歌)を設け、穴を掘ってつくる。祭官・執事は全員一日潔斎する。岳・鎮・海・涜・山・川・林・沢・丘・陵・墳・衍・原・湿の尊を設け、壇上の南の階段の東にあって、北向きとする。玉・篚(竹籠)および洗(手洗い用の祭器)を、神座の壇上の北方に設置する。献官は玉幣および爵を岳神に捧げ、祝史は鎮・海以下に捧げるのを補助する。

  翌日、肆覲(天子の礼)をするによって、将作監は行宮の南に壁をつくる。三分した壁の間のうち二つは南にあり、壇を北につくり、広さ九丈六尺(約22m)、高さ九尺(約207cm)で、四方に階段を張り出す。宮縣(天子の奏楽の時に楽器を並べるところ)を壇の南に設け、壇上の北に御座し、佩剣を解いて南の階段の西の席につく。文官・武官は門外の東・西に、刺史・県令は文官の南に、蕃客は武官の南に帷幄を版位とし、輦を道の壇の南に列べる。文官九品の版位は壇の東南に、武官は西南にして、互いに向かい合う。刺史・県令の版位は壇の南を三分した庭の一箇所に、蕃客の版位は西とした。また門の外に位を設け、牙旗を壁の外に立て、黄麾を大仗屯門に立て、短鉾・戟を壁の中に列べる。吏部・主客・戸部の賛群官・外国からの使節は門外の版位につく。刺史・県令はその土地でできたものを贄とし、錦・綺(あやぎぬ)・繒(かとり)・布・葛は括っていずれも五両で束とし、錦は黄色の風呂敷を用い、常貢の物はいずれも篚(竹籠)を用い、その部下はこれらを持って県令の後ろに列ぶ。文武九品は先に入って版位に就く。皇帝の乗輿は北壁の門に入り、北の階段から壇に登り、そこで座して、南向きとなる。刺史・蕃客は全員壁門から入り、版位に到着すると、再拝し、贄を捧げ、立ち上がって、贄を捧げる。侍中が刺史の東北に降りると、全員が拝礼する。宣し終わると同じく拝礼する。蕃客は舎人の告げる制書によって同様にした。戸部は貢物を導いて刺史の前に入れ、亀を先頭に、金をその次とし、丹・漆・糸・綿・四海九州の美物は、二列に陳列した。執者が退くと、東西文武官の前に側立ちした。通事舎人が刺史一人を導いて、帯剣を解いて靴を脱ぎ、贄を持って前に登り、北向きに跪いて「(官名・封号)臣(姓名)らはあえて土地の産物を献上します」と奏じ、贄を捧げる。舎人は跪いて立ち上がり東にいって役人に授け、刺史は帯剣・靴を戻して版位に戻る。それより以前、刺史は昇って贄を捧げ、庭にいる者は次に位の前に捧げると、全員が再拝する。戸部尚書は壇の間に北向きに跪き、貢物を役人に授けることを願い、侍中はお言葉を受け伝えて「よろしい」と言い、役人は贄を受け取って東門から出る。中書侍郎は州鎮の表文を置いた一つの台を持って西門の外で待ち、給事中は瑞兆の表文を置いた台を持って東門の外で待ち、そこで侍臣の版位に就く。それより以前、刺史が入ろうとすると、それぞれの机を持って分かれて東・西の階段の下に進み出る。刺史が登ろうとすると、中書令・黄門侍郎が降りて立ち、刺史が登ると、表文を取って登る。尚書が贄を受け取るよう願い出ると、中書令は前で跪いて読み、黄門侍郎・給事中は進み出て跪いて瑞兆を奏じ、侍郎・給事中は台に導いて退き、文官・武官・刺史・国客は全員再拝する。北向きの版位の者は退出して門外の版位に就く。皇帝は北の階段から降りて入り、東・西の版位の者も退出する。会(酒宴)を設けることは正月・夏至・冬至と同様で、刺史・蕃客は門に入り、いずれも楽を演奏することは上公と同じである。

  会(酒宴)の翌日、制度を考課する。太常卿に命じその地方の詩歌を集めて並べさせ、それで地方の風俗を見る。また市場に命じて取引の品々を提出させ、それによって地方の人民の欲する物を知る。典礼の官に命じ、正しい暦日を示してこれを守らせ、律や零落の基準や、制度や服装の規定を統一させ、誤りを直させるのである。山川の神々に対し祭祀を怠っている者を不恭として責め、宗廟をおろそかにする者を不孝として責め、不幸の者は罰して爵位を落とす。かってに制度や服装の規定を変更している者は叛とし、このような者を討伐する。民治に功の多い者を褒賞する。


【視学】
  皇帝視学では、大幄を学堂の後ろに設置し、皇太子の帷幄を大幄の東に設置する。御座を堂の上に設置し、講榻を北向きにする。皇太子の座は御座の東南に、西向きにする。文臣三品以上の座は太子に南に、やや退く。武臣三品以上は講榻の西南に、執読の座を前柱に、北向きとする。侍講の座、執読者は西北に、武官の前とし、論義の座を講榻の前にし、北向きとする。執如意者は侍講の東に立ち、北向きとする。三館の学官の座は武官の後ろにする。堂の下に版位を設け、脱履(靴脱ぎ)の席を西階の下にする。皇太子の版位を東階の東南にし、執経は西階段の西南に、文官・武官の三品以上は版位を分けて南に、執如意者は一人執経者の後ろにあり、学生は文・武官の後ろに版位した。

  その当日、皇帝は馬に乗り、祭酒は監官・学生を率いて道の左に迎える。皇帝は幄に入り、執経・侍講・執如意者は文武官・学生と共にいずれも版位を堂の下に就く。皇太子は学堂の門外に立ち、西向きとする。侍中は「外辦(お出ましになる準備は出来ております)」と申し上げる。皇帝は北の階段を昇り、座につく。皇太子はそこで入って版位に就き、版位にあって全員が再拝する。侍中は皇太子・王公に勅して昇り、全員が再拝し、そこで座る。執読・執経が釈義する。執如意者はこれを侍講に授け、持って論義の座に来て、疑問点を尋ね、退き、如意を執如意者に授け、戻って座り、そこで全員が降りる。もし会(酒宴)を賜った場合、侍中が制言を宣りたまい、皇帝は帷に戻る。群官が会すると、皇帝は戻り、監官・学生は道の左にて挨拶する。


【耕藉】
  皇帝は孟春吉亥に先農を享(まつ)りし、耕藉で行なう。祭祀の一日前、奉礼は御坐を壇の東に設置し、西向きにし、神位を壇の西南に望瘞(埋めるのを見張る祭礼)し、北向きとなり、官位に従って内壁の東門の内の道の南に、執事はその後ろにいて、奉礼は楽縣の東北に版位し、賛者は南にいた。また御耕藉の版位を外壁の南門の外十歩の所に設置し、南向きとし、従耕の三公・諸王・尚書・卿の版位を御座の東南に、二列で西向きとし、情勢による判断によって列をつくる。三公・諸王・尚書・卿らで非耕者の位を耕者の東とし、二列に並び、西向きで北を班位の上とした。介国公(旧北周帝室の宇文氏)・酅国公(旧隋帝室の楊氏)を御位の西南におらせ、東向きで北を班位の上とした。尚舎は御耒席を三公の北のやや西に設置し、南向きとする。奉礼も同じく司農卿の版位を南に設置し、しばらくして退き、耒耜(鋤)を持つ者たちの版位を公卿の耕者の後に、非耕者の前とし、西向きとした。御耒耜は一具、三公の耒耜は三具、諸王・尚書・卿はそれぞれ三人で合わせて耒耜は九具である。以下の耒耜は、太常がそれぞれ藉田の農人に持たせた。

  皇帝が享(まつ)る以前、耒耜(鋤)を耕根車の御者の間に載せ、皇帝は乗車して自ら宮に行って大幄で降りる。乗黄令が耒耜(鋤)を廩犧令に授け、横から持ち、左の耜(鋤の刃)を席に置き、守らせる。皇帝は望瘞(埋めるのを見張る祭礼)しようとすると、謁者は三公および従耕・侍耕する者・司農卿を引き連れ耒耜を持つ者と共に全員が版位に就く。皇帝が進み出て耕位に就き、南向きに立つ。廩犧令は耒席の南に進み、北向きとなり、袋を開けて耒(鋤の柄)を取り出し、持って立ち上がり、しばらくして退き、北向きに立つ。司農卿は進み出て受け取り、侍中に授け、侍中は奉って進み出る。皇帝は受け取り、耕して三度耒耜を動かす。侍中は前で耒耜を受け取り、司農卿に返し、司農卿は廩犧令に返し、廩犧令は耒を袋に戻し、持って立ち上がり、版位に戻る。皇帝は耕し始めると、耒を持つ者は全員耒耜を侍耕する者に授ける。皇帝が耕すのを止め、三公・諸王は五度耒耜を動かし、尚書・卿は九度耒耜を動かす。耒を持つ者は前で受け取る。皇帝が戻ると、南門から入り、内壁の東門から出て、大幄に入る。享官・従享する者は出ると、太常卿はその部下を率いて千畝を耕す。

  皇帝は宮に戻ると、翌日、太極殿であまねく酒宴して労うことは、元会と同様であるが、賀さず、寿もしない。藉田の穀は、集めて神倉に納め、供物および五斎(神酒)・三酒(飲酒用の酒)にし、実った物は食牲とする。

  藉田は先農で祭り、唐初は帝社をつくり、または藉田壇といった。貞観三年(629)、太宗は親ら耕しようとすると、給事中の孔穎達が議して、「礼には天子は南郊に藉田し、諸侯は東郊でするとあります。晋の武帝は東南でしましたが、今の帝社は東壇ですから、古例と合致しません」と述べると、太宗は「『書』に「東作(春の耕作)のことを整えさせた(『書経』虞書 堯典)」にあるように、青い輅車に乗り、黛耜(青黒色の儀礼用の鋤。青は東と春を象徴する)を動かすことによって、春気がこれに応じるのだ。私の方位は少陽(東)であるから、田は東郊とすべきだ」と言い、そこで東郊で耕した。

  垂拱年間(685-688)、武后は藉田壇のことを先農壇とした。神龍元年(705)、礼部尚書の祝欽明が以下のように議した。「周頌の載芟に「春に藉田して社稷を祈る(『詩経』周頌 載芟序)」とあり、『礼』に、「天子は千畝を藉し、諸侯は百畝とする(『礼記』祭義)」とあり、これによって田は社となり、王社・侯社と呼ばれました。今、先農と呼ぶのは、王社の意味を失っており、名を正しく帝社とすべきです」 太常少卿の韋叔夏・博士の張斉賢らは次のように議した。「「祭法」では、「王は太社を立て、その後に王社を立てる(『礼記』祭法)」とありますが、どこに置かれたのかは、伝がありません。漢が勃興して官社がありましたが、官稷を立てませんでした。そこで官社の後に立て、夏の禹を官社の配侑としました。臣瓚(西晋の姓氏不明の漢書注釈者)は、「「高紀」に、「漢の社稷を立てる(『漢書』高帝本紀 高祖二年)」とあるのは、太社のことである。官社は禹を配侑とするのは、王社のことである。光武帝まで官稷を立てないのは、今に受け継がれている」とし、魏は官社を帝社とし、そのため摯虞は魏の故事では太社を立てると述べているのはこのことなのです。晋ではあるいは廃され、あるいは置かれ、いずれも場所は定まりません。ある者は二社が併存し、王社は西にあったと述べています。崔氏・皇甫氏は二人とも王社は藉田にあると言っています。衛宏の『漢儀』を調べてみますと、「春の始めに東は藉田を耕し、『詩』で先農とあるのは、神農のことである(『漢旧儀』補遺)」と述べており、また『五経要義』に、「田を壇とし、先農を祀ることは社と同様である」とあります。魏の秦静は議して風伯・雨師・霊星・先農・社・稷を国の六神としました。晋の太始四年(泰始四年(268))、東郊に耕し、太牢にて先農を祀りました。周・隋の旧儀および国朝の先農はいずれも神農を帝社で祭り、后稷を配侑としました。つまり王社・先農は同一とすべきではありません。今、藉田において帝社・帝稷を立て、禹・棄を配侑とすべきで、そうすれば先農・帝社は一緒に祀られ、周の載芟の意味に合致するのです。」 祝欽明はまた以下のように議した。「藉田はもともと王社での祭りです。古代に先農を祀りましたが、これは句龍(共工氏の子。后土)・后稷のことです。烈山の子も同じく農といい、周の棄がこれを受け継ぎ、いずれも祀られて稷となりました。共工の子は后土といい、湯が夏に勝利すると、遷そうとしましたができませんでした。そのため二神は、社・稷の主なのです。黄帝以降、羲・農を常祀に含まれませんでした。ではどうして社・稷のことを神農として祭ったのでしょうか。社・稷の祭祀は、神農の耒耜の大功を採用せず、専ら共工・烈山の功績としました。思いますに三皇の創始の跡を採用して教えとしなかったのでしょう。かの秦静というのは何者だというのでしょうか。社稷・先農が二であり、藉田が二壇であることを知っているのですから。先農・王社は同一で、いずれも后稷・句龍の異名で分祭し、牲は四牢を用います。」 祝欽明はまた以下のように申し述べた。「漢が禹を祀ったのは誤りです。王社・先農の号を正そうとしていますが、まだ決まっていません。そこでさらに二祀を加えることはすべきではありません。」 韋叔夏・張斉賢らがそこで上奏して次のように述べた。「経には先農の記載がなく、『礼』に「王は自らの為に社を立てる。これを王社という(『礼記』祭法)」とあるのは、先儒は藉田があると思ったからです。永徽年間(650-655)はまだ藉田と言っていましたが、垂拱年間(685-688)の後は先農としました。だからこそ先農は社と一神であり、今先農壇を改めて帝社壇とするよう願ったのは、古代の王社の意味と合致するからです。その祭りは、孟春吉亥に后土を祀るのに準じさせ、句龍氏を配侑とさせられますように。」 ここに帝社壇をつくり、また帝稷壇を西に建立し、太社・太稷と同様にしたが、壇に方角による方色を設けなかったのは、太社と異なるからである。

  開元十九年(731)、帝稷を停めて神農氏を壇上に祀り、后稷を配侑とした。開元二十三年(735)、親ら神農を東郊に祀り、句芒を配侑とし、遂に自ら耕して畝を固めた。

  粛宗の乾元二年(759)、詔して耒耜(鋤)の雕刻を止め、担当役に命じて改造させた。天子通化門から出て、釈軷(道の神を祭る)して壇に入り、遂に神農氏を祭り、后稷を配侑とした。冕は朱の紘(冠の紐)を用い、自ら九度耒耜を動かした。

  憲宗の元和五年(810)、詔して翌年正月に藉田をするよう通告した。太常修撰の韋公粛は「藉田の礼は廃止されて長い事たっていますが、役人で調査できる者はおりません」と述べた。そこで『礼』に基づいて開元・乾元年間の故事を参照して、先農壇において藉田を行うこととした。皇帝の夾侍二人・正衣二人、侍中一人が耒耜(鋤)を奉り、中書令一人・礼部尚書一人が侍従し、司農卿一人が耒耜を侍中に授け、太僕卿一人が執牛(牛を曳く)、左・右衛将軍それぞれ一人が侍衛となった。三公は宰相が代行し、九卿は左右僕射・尚書・御史大夫が代行し、三諸侯は正員一品の官および嗣王が代行した。歴運の数を推すのはすべて古制を用いた。礼儀使一人・太常卿一人が賛礼で、三公・九卿・諸侯が執牛で三十人、六品以下の官を用い、全員が袴褶を着用した。御耒耜が二で、韜(袋)とともに青色である。制度は農用を採用し、飾りを彫らず、一日の終わりに収納した。耒耜で一丈(約23m)あまりの畝二つを耕す。先農壇は高さ五尺(約115cm)、広さ五丈(約11.5m)で、階段が四つ張り出し、その色は青である。三公・九卿・諸侯の耒(鋤の刃)が十五である。御耒の牛は四頭で、そのうち二頭が予備であるが、牛衣は同じである。牛ごとにそれぞれ一人、絳(深紅色)の衣に介幘で、閑な農務者の役となり、礼司は人を助けて導く。耒を取り耜(鋤の柄)を持つのは、高品の宦官二人で、袴褶を着用しない。皇帝はやって来て耕位に望んで、通事舎人が文・武官を分割して導いて耕す所に就かせる。太常寺はその部下を率いて庶人二十八人を用い、郊社令は一人でこれを管轄下に置く。太常少卿一人は、庶人を率いて耕す所に走る。博士六人は、分かれて耕礼を賛えた。司農少卿一人は、庶人が千畝を耕し終わるのを監督した。廩犧令二人は、うち一人が耒耜を奉って司農卿に授け、五品・六品の清官が代行した。一人は耒耜を持ち、太常寺は本官を用いる。三公・九卿・諸侯は耕牛が四十頭で、その内十頭は予備であり、牛にはそれぞれ一人がつく。庶人の耕牛は四十頭で、それぞれ牛二頭に一人がつく。庶人の耒耜は二十具・鍤(すき)が二具で、木を刃とする。藉田を司るのは県令が一人で、朝服を着て、耕そうとする時に田の側に立ち、終わると退く。京師付近の県令たちは期日に先立って集まり、常服を着用して耕す所に陪従する。老人二十人が、庶人に陪従して耕位の南につく。三公の従者はそれぞれ三人で、九卿・諸侯の従者はそれぞれ一人で、耕すのを助ける。全員が絳(深紅色)の衣に介幘で、本司の隸官を用いる。起草して儀式を備わること以上の通りであったが、洪水・旱魃と戦争のため中止となった。


【拝陵】
  皇帝謁陵では、宮を出発し、陵から十里のところに斎室を設置して御座し、小幄を陵所の道の西南に設置する。大幄を寝の西南に設置する。侍臣は大幄の西南に帷幄を設け、陪従する者は同じく西南に帷幄を設けて、全員が東向きとなる。文官は北に、武官は南に、朝集使も同じくその南で、全員が適宜地に相対する。

  出発二日前、太尉を派遣して廟に告祭する。皇帝は行宮に到着すると、ただちに室で斎する。陵令は玉冊を奉って御署をいただく。御位を陵の東南の隅に設置し、西向きとし、丘の麓の土地に差し障りがあれば、地に応じて適宜処置する。また神位(位牌)を寝宮殿の東の階段の東南に設置し、西向きとする。尊・坫(土製の高台)を堂の戸の東南に陳列する。百官・行従・宗室・他国からの使節の版位を神道碑の左右に設置し、寝宮では方角に分けて序列によって大幄の前に立つ。

  その当日、未明五刻(日の出1時間15分前)、黄麾(乗輿の飾り)・大仗を陵寝に陳列する。未明三刻(日の出45分前)、行事官および宗室の五等の親族・諸王の三等以上に親族および外国の使節の陪従する者の版位に就かせる。皇帝は素服で馬に乗り、華蓋(帝王歩行時の傘形の頂蓋)・繖(大きな絹張りの蓋傘)・扇(かざし)で、侍臣が騎従し、小幄に向かう。徒歩で帷幄を出て、版位に到着すると、再拝し、また再拝する。版位にある者は全員再拝し、また再拝する。しばらくして、太常卿は立ち去るように願い出ると、皇帝は再拝し、また再拝する。奉礼郎は「立ち去られます」と言うと、版位にいる者は再拝する。皇帝は小幄に戻り、馬に乗って大幄の向かい、仗衛は整列して到着を待つ。百官・宗室・諸王・外国の使節は序列によって幄の前に立つ。皇帝は歩いて寝宮の南門に到着し、仗衛は停止する。皇帝が入ると、東序(正房の東の牆)から殿の階段の東南の版位に進み、再拝する。東の階段から昇って、北向きとなり、再拝し、また再拝する。衣服・装身具を点検し、帷を拭き清め、太牢のお供えを進め、ご馳走を加える。皇帝は尊の所から出て、酒を酌んで入り、三つの奠・爵は、北向きで立つ。太祝二人は戸外で玉冊を持ち、東向きで跪いて読み上げる。皇帝は再拝し、また再拝し、戸を出て、以前の場所にて北向きで立つ。太常卿は立ち去るように願い出ると、皇帝は再拝し、東門から出て、大幄に戻り、行宮に宿る。

  太子・諸王・公主のように陵域に陪葬される者は、いずれも寝殿の東廡(正房の東の廊屋)に祭る。功臣の陪葬者は、東序(正房の東の牆)に祭る。神位をつくってお供えを捧げるのは、役人が実施する。

  または皇后が従謁する場合、大幄を寝宮の東に設置し、先朝の妃嬪は大幄の南に幄を設置し、大長公主・諸親王の命婦の幄も同じくその南とし、いずれも東向きとする。行帷で障(屏風)を備えて謁所とし、内謁者は皇后の版位を寝宮の東、大幄の前のやや東に設置する。先朝の妃嬪は西南を版位とし、それぞれ幄に東にし、司賛の版位を妃嬪の東北とし、いずれも東向きとする。皇帝が行宮を出発すると、皇后は四望車に乗って大幄に行き、改めて仮髻(隋唐五代に流行した女性の高髷)とし、白絹の単衣を着用する。内典は妃嬪以下を導いて版位につく。皇后は再拝し、陪従する者も全員拝礼する。しばらくして辞去し、また拝礼し、陪従する者も全員拝礼する。皇后は寝の東の大幄に戻り、陪従する者も退く。皇后は鈿釵礼衣を着用し、乗輿で寝宮に行き、先朝の妃嬪・大長公主以下は従う。北門に到着すると輿を降り、大幄に入り、寝殿前の西階段の西に行き、妃嬪・公主は西を版位とし、司賛の版位を妃嬪の東北とし、いずれも東向きとする。皇后が再拝し、版位にいる者は全員拝礼する。皇后は西の階段から入室し、先帝の前にやって来て再拝し、また先后の前にやって来て再拝し、進んで先后の衣服・装身具を点検し、西廂に退いて東向きに立ち、供食を進る。皇帝が退出し、西の階段から降りて版位に就く。辞去するため再拝し、妃嬪も全員拝礼する。大幄にやって来ると衣を改め、皇帝が通過すると、そこで寝宮の北門を出て、車に乗って帰還する。

  天子が自ら謁しない場合は、太常卿が陵に行く。担当官署は日を選び、車府令は軺車と一頭の馬を準備して道を清め、青衣・団扇・曲蓋・繖(大きな絹張りの蓋傘)を太常寺の門に並べて待つ。幄を陵の南百歩の道の東に西向きで設置する。右校令は掃除用具で掃き清める。太常卿は公服を着用して車に乗り、奉礼郎以下は従う。幄に到着すると、太常卿の版位を陵域の門外の東に設置し、陵官の版位は卿の版位の東南にし、執事はその南にし、全員西向きとする。奉礼郎の版位は陵官の西で、賛引二人は南にいる。太常卿以下は再拝し、版位にいる者は全員拝礼する。謁者は太常卿を導き、賛引は衆官を導いて入り、祭祀の執行、版位に戻る際に全員が拝礼する。出て、車に乗って他の陵に行く。草を刈り取る必要がある場合、刈り取りを命じる。

  概ね国陵の制は、皇祖以上から太祖陵に至るまで、いずれも朔日・望日に食を奉り、元日・冬至・寒食・夏伏(夏の三伏の祀)・臘祭(冬の田神を祭る)・社でそれぞれ一祭とする。皇考(皇帝の亡父)の陵は、朔日・望日および節祭で、一日食を奉る。また諸陵に薦新(死者をまだ葬っていない期間に供物を供える)する場合、その供物は五十六品とする。始めて進御する場合、担当役所は必ずまず太常寺と尚食局に送り、滋味をお供えすることは宗廟と同様である。

  貞観十三年(639)、太宗献陵に謁し、は小幄に到着すると、輿を降り、沓を履き、闕門に入り、西向きで再拝し、慟哭して突っ伏して立ち上がることができないほどであった。礼が終わると、服を改めて寝宮に入り、お供えを取って捧げた。高祖および太穆后の御服を点検して、悲しみを左右の者に伝えた。徒歩で司馬北門を出て、泥濘の中に二百歩歩いた。

  永徽二年(651)、役人が「先帝の時、献陵ができて三年、ただ朔日・望日・冬至・夏伏・臘祭・清明・社で食を奉りました。今昭陵で喪があけましたので、食を奉ることは献陵と同様になされますように」と述べ、この意見に従った。永徽六年(655)正月朔日、高宗昭陵に謁し、取り巻いては哭して版位に就き、再拝して手で胸を打ちながら飛び跳ね終わると、服を替えて寝宮に謁した。寝に入って哭し飛び跳ね、東の階段に進み、西向きで拝礼・号泣し、しばらくして太牢のお供えをし、ご馳走を加え、拝礼・哭泣してお供えをした。御服を点検した後に辞去し、取り巻いては哭して寝の北門を出て、小輦に御して帰還した。

  顕慶五年(660)、「毎年の春季(三月)・秋季(九月)に一巡し、三公に陵に行かせ、太常少卿がこれを補佐し、太常寺が行列を給せよ」と詔し、これによって『令』(「儀制令」)に著された。それより以前、『貞観礼』に毎年の春・秋の仲月(二月・八月)に陵を巡るとあったが、武后の時になって、四季の月や降誕日・忌日に使者を派遣して陵に詣でてご機嫌伺いさせた。景龍二年(708)、右台侍御史の唐紹が以下のように上書した。「礼は墓を祭りません。唐家の制では、春・秋の仲月に行列・衣冠を備えさせて陵を巡ります。天授年間(690-692)の後、ご機嫌伺いすることとなり、遂に故事となりました。ご機嫌伺いは、所作を確認することであり、生きている者に仕える方法であって、陵寝の法ではありません。何卒、四季および降誕日・忌日・節日のご機嫌伺いを停め、式に準じて春秋の二季節に巡陵とされますように。」 中宗は手づから勅して、「乾陵は毎年の冬至・寒食に都外から使者が派遣される。二忌日には宦官の使者が朝奉する。他の陵は唐紹の奏上の通りとせよ」と述べ、ここに献陵昭陵乾陵はいずれも日祭となった。太常博士の彭景直が以下のように上疏した。「礼では、陵は日祭せず、宗廟に月祭があります。そのため王者について、「廟・祧・壇・墠が設けられて鬼神を祭る。この祭りについては、祭られる者と祭る者との間の親疎の差異に応じて礼の大小が定められる。王は七廟を立て、他に一壇一墠を造る。七廟のうち考廟・王考廟・皇考廟・顕考廟の五廟はみな月ごとに祭りを行なうが、遠廟の二祧は、一たび祭りを行なうのに留める。祧に祭る先祖よりももっと遠い先祖を祭るには壇を用い、それよりもっと遠い先祖を祭るには墠を用いる。祈るべきことがあれば祭り、その必要がなければ祭りをやめる(『礼記』祭法)」とあるのです。また譙周(三国蜀の学者)の『祭志』に「天子の始祖・高祖・曾祖・祖・考の廟は、いずれも毎月の朔日にお供えし、生きている時のように朔日に食事をお供えするから、月祭といい、遠祖の二祧の廟は月祭しない」と述べており、つまり古代には日祭はなかったのです。今、諸陵で朔日・望日に食事を奉るのは、古代の殷代の故事に似ており、諸節に日食を奉ることは、古代の薦新(死者をまだ葬っていない期間に供物を供える)に似ているのです。鄭玄は『注礼記』で、「殷では、月の朔月・月半に、薦新にお供えする(『注礼記』曾子問)」と述べ、また「大祥(十三か月の喪)では四時に祭する(『注儀礼』士喪礼)」とあり、祭りはいずれも廟で行なうのです。近世に始めて朔日・望日の諸節に陵寝を祭り、ただ四時および臘祭では、五たび廟に祭ります。経を調べ礼を尋ねてみると、もとより陵で日祭するという文はありません。ただ漢の七廟に関する議論で、京師では高祖から下は宣帝に至るまで、太上皇(高祖の父)・悼皇考(武帝の孫、宣帝の父)とともに陵の旁らに廟を立て、園にはそれぞれ寝・便殿があり、そのため日祭は寝で、月祭は便殿で行われました。元帝の時、貢禹(前漢の御史大夫)は礼節が煩わしいから、郡・国廟を罷めるよう願い出ました。丞相の韋玄成らはまた七廟外について議論し、寝園をすべてまた修めることないよう意見しました。議者はまた「祭はしばしばすることを欲せず(『礼記』祭法)」とあるから、古礼に復して四季には廟を祭るべきとしました。劉歆は『春秋外伝(国語)』の「日祭・月祀・時享・歳貢。祖・禰は日ごとに祭り、曾・高は月ごとに祀り、二祧は時節に享り、壇・墠は年ごとに貢(すす)める(『国語』周語上)」を引用しました。後漢の陵寝の祭には所伝がありません。魏晋以降、いずれも墓を祭りません。わが国家の諸陵の日祭は、何卒、停止して礼の通りとなされますように。」 天子は侍臣に向かって、「礼官は諸陵に日ごとに食を奉るべきではないと言っている。礼というものは人情によって沿革としてきたのだから、どうして古代に拘ることがあろうか。乾陵では朝暮のお供えはもとの通りとせよ。昭陵献陵では日に一度捧げよ。役人が経費が苦しいというのなら、朕の常膳を減らしてでも行え」と言った。

  開元十五年(727)、勅して、「宣皇帝光皇帝陵は、県令検校、州長官が一年に一度巡陵する」とし、また勅して、「毎年春・秋に巡陵し、公卿は儀仗を備えて城を出て、陵の十里を巡って帰還せよ」と述べた。

  開元十七年(729)、玄宗橋陵に謁し、陵の外壁の西闕に到着すると馬を降り、陵を望んで涙を流し、神午門に行くと、慟哭して再拝した。また三府の兵馬をお供にして、定陵献陵昭陵乾陵を謁して帰還した。

  開元二十三年(735)、詔して献陵昭陵乾陵定陵橋陵の五陵で、朔日・望日に食を捧げ、毎年の冬至・寒食の日にそれぞれ一祭を設ける。もし節が朔日・望日・忌日と合致した場合、節に準じて祭料を定めることとした。また橋陵は毎日羊食の半分をお供えすることとした。開元二十七年(729)、勅して公卿が巡陵するのに輅車に乗せ、太僕寺・陵に輅車二乗および儀仗を給付させた。翌年、制書して、「宣皇帝光皇帝景皇帝元皇帝の追尊号・諡については制度があるが、陵寝についてはまだ呼称を奉っていない。建初陵啓運陵興寧陵永康陵と同様に、署官・陵戸を設置し、春・秋仲月(二月・八月)、公卿に命じて手分けして巡謁させた。開元二十年(732)詔して、「建初陵啓運陵興寧陵永康陵、毎年の四時・八節に、担当官署が陵署と共に食をお供えする」とした。天宝二年(743)、毎年の四時・八節に、担当官署が陵署と共に食をお供えする」とした。天宝二年(743)、始めて
九月朔日に衣を諸陵に捧げた。また寒食に甘粥・闘鶏と蹴鞠・雷神と車を捧げ、五月に衣・扇を捧げた。

  陵司はもと「署」と呼称したが、天宝十三載(753)に献陵昭陵乾陵定陵橋陵の五陵の署を改めて「台」とし、令を台令とし、もとの官位から一階昇らせた。この後、諸陵署はすべて台と称した。

  大暦十四年(779)、礼儀使の顔真卿が、「何卒、元陵請朔日・望日・節祭に毎日お供えすることを故事の通りとし、泰陵はただ朔日・望日・毎年の冬至・寒食・夏伏・臘祭・社の一祭のみで、毎日のお供えを罷められますように」と奏上し、制書によって裁可された。貞元四年(788)、国子祭酒の包佶が、「毎年の二月・八月に、公卿が諸陵を朝拝していますが、陵台は所管の陵を案内して陵の麓に到着させるだけで、礼は略されて恭敬を尽くすことはありません」と奏上し、ここに太常寺は旧礼を簡略化して、以下のように草案を作成した。「担当官署はまず吉日を選定し、公卿は輅車・行列で太常寺から出発し、陵の南道の東に幄を設置し、西向きで北を班位の上とする。公卿が幄に到着すると、奉礼郎は版位を北門の外の左に設置し、陵官の版位はその東南に、執事官も同じくその南に設置した。謁者は公卿を導き、典引は衆官を導いて版位につかせ、全員が拝礼する。公卿・衆官は幄で執行し、拝礼して帰還する。」

  故事では、陵を朝拝する公卿が出発しても、天子は政務を行って廃朝しなかった。貞元十六年(800)、拝陵官が出発すると、ちょうどその時に董晋が卒したから、廃朝とした。これ以後、公卿が出発すると、これによって天子は政務をとらなかった。

  元和元年(806)、礼儀使の杜黄裳が故事の通り、豊陵は日祭し、崇陵はただ朔日・望日・節日・夏伏・臘祭を祭るよう願い出た。元和二年(807)、宰相が次のように建言した。「礼には規定が著されており、後世、一時の慕情にしたがえば、煩さが目に余ることになります。それと併せて、そのため陵廟に薦新(死者をまだ葬っていない期間に供物を供える)があれば、節ごとに使者を派遣することになります。何卒、毎年太廟は時享によって、朔日・望日に食をお供えし、諸陵では朔日・望日に捧げ、親陵は朝暮に捧げ、その他の享および忌日は陵に告祭することをすべて停止されますように。」


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最終更新:2025年12月23日 01:37
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