唐書巻十五
志第五
礼楽五
吉礼五
【皇后親蚕】
皇后の年祀は一で、季春吉巳に先蚕をまつり、みずから桑をつむ。後殿で三日散斎し、正寝で一日致斎する。致斎の日の前一日、尚舎は御幄を正殿の西序および斎室の室内に設け、ともに東向きとする。致斎の日の昼、漏が上水一刻(卯時で、日の出)になると、尚儀は版奏して「厳粛にしてください」と言う。尚服は司仗を率いて侍衛を配置し、司賓は内命婦を率いて皇后と同席する。六尚以下はおのおのその礼服を着け、後殿に参上し、皇后をお迎えする。尚儀は「外辦(お出ましになる準備は出来ております)」と版奏する。上水二刻(卯時で、朝)、皇后は
鈿釵礼衣を着け、佩を結び、輿に乗り、西の部屋から出る。華蓋・警蹕・侍衛する。皇后は御座につき、六尚以下と侍衛は常のようにする。一刻頃、尚儀は進み出て跪き皇后に次のように奏上する。「尚儀妾姓某と申します。御座よりお降りになって斎室におもむかれるようお願い申しあげます。」皇后は座より降りて輿に乗り、斎室に入る。散斎の日、内侍は内命婦で占いで吉であった者をひきいて蚕室で養蚕させる。およそ祭祀にかかわる官は全員斎する。
祭祀の前三日、尚舎直長は大幄を外壁の東門の内側、道の北よりに、南向きに設ける。 尚舎奉御は御座を敷く。内命婦と六尚以下の次(並ぶ場所を示す印)を大幄の後ろにすべて南向きにして設ける。守宮は外命婦の次(並ぶ場所を示す印)を、大長公主・長公主・公主以下は南壁の外側、道の西よりに、三公の夫人以下はその南に、二列に位階ごとに、東向きで、北を班位の上とする。お供えを内壁の東門の外側、道の南よりに北向きにして列べる。祭祀の前二日、太楽令は宮縣の楽器を
壇の南、内壁の内側に設ける。それぞれの楽器を担当する女工人はそれぞれ縣の後ろに位置する。
采桑壇を壇の南二十歩の所に作る。一方三丈(2.3m)、高さ五尺(約115cm)、四方に階段を張り出す。尚舎は大きさを量って帷障を外壁の外、四面に門を施し、東門を開けて
厭翟車を入れさせる。祭祀の前一日、内謁者は皇后の御座を壇の東南に西向きにし、望座位を西南に、埋葬穴に対して西向きに設ける。亜献・終献の位を内壁の東門の内側、道の南側に設け、執事者の位をその後ろに二列で位階ごとに整列し、西向きで北を班位の上位とする。典正の位を壇の下に、一つは東南に西向きにして、一つは西南に東向きにして設ける。女史がそれぞれ後ろにつきそう。司賛の位を楽縣の東北に設け、掌賛二人は南に司賛と差をつけて後ろに下げ、西向きにする。また司賛・掌賛の位を埋葬穴の西南に東面して、南を班位の上とする。典楽は挙麾位(指揮台)を壇の上の南の階段の西にし、東向きとする。司楽の
版位は北縣の間にし、壇に対して北向きにする。内命婦の位を終献の南に設け、ここで位は断絶する。二列で位階ごとに整列し、西面して北を班位の上とする。外命婦の位を中壁の南門の外に、大長公主以下は道の東よりに西向きにして、内命婦に対して差をつけて後ろに下げ、太夫人以下は道の西よりに設ける。道からの遠近は公主の位の通りとし、二列で位階ごとに整列し、北向きで西を班位の上とする。また皇后の御采桑位を
采桑壇の上に東向きに設ける。内命婦の采桑位を壇の下に設け、皇后の位に対して東北にし、北向きで西を班位の上とする。皇后の鉤と筐を持つ者の位を内命婦の西、少し南よりに、西を班位の上とする。内命婦の鉤と筐を持つ者の位をその采桑位の後ろに設ける。門外に、祭祀に参与する官の位を東壁の外、道の南よりに、祭祀に従う内命婦の位は祭祀に参与する官の位の東に、北向きで西を班位の上とする。祭祀に従う外命婦の位は南壁の外、道の西よりに設け、次(並ぶ場所を示す印)を設置するようにする。酒尊の位を、壇上の東南の隅に北向きで西を班位の上とする。皇后の洗を壇の南、階段の東南に、亜献の洗をさらに東南に、ともに北向きに設ける。幣を入れる篚(竹籠)を壇上の尊と坫(土製の高台)の所に設ける。夕暮れ後、内謁者はその配下をひきい、尊・坫(土製の高台)・罍洗(清めの水を入れた器)・篚(竹籠)・冪(白布)を祭場に持って入り、壇上に設ける。壇にのぼるときは東の階段からのぼる。祭祀の日の未明十五刻(午前2時から午前4時20分前後)、太官令は料理人をひきいて鸞刀で犠牲をさき、祝史は豆に犠牲の毛と血を取って豆(高坏形の青銅盛器)に置く。さいごに犠牲を烹る。未明五刻(日の出1時間15分前)、司設は壇にのぼって先蚕氏の神座を壇上の北よりに南向きに設ける。
祭祀の前一日、金吾は上奏して、外命婦で
壇に集まることになっている者の夜行を許すことを請う。その中で桑を摘むことになっている者四人は、それぞれ用意して、女侍者が筐と鉤を進めて車に載せて行く。祭祀の日の未明四刻(日の出1時間前)、一鼓をうって一厳とする。未明二刻(日の出30分前)、二鼓をうって再厳とする。尚儀は版奏して「厳粛にしてください」と言う。未明一刻(日の出15分前)、三鼓をうって三厳とする。司賓は内命婦を先導して入り、庭に立ち、二列に並んで西面して北を班位の上とする。六尚以下は皇后の室に参上して皇后を迎える。尚服は宝を持つ。内僕は
厭翟車を閤外に進める。尚儀は「外辦(お出ましになる準備は出来ております)」と版奏する。馭者が車の馬の轡をとる。皇后は
鞠衣を着け、輿に乗って出る。華蓋・侍衛・警蹕する。内命婦はこれに従って門を出る。皇后は車に乗り、尚功と司製は筐と鉤を進めて車に載せる。内命婦及び六尚らが車に乗りつき従う。もろもろの翊駕の官はみな馬に乗り、皇后の駕が動くと警蹕するが、太鼓と角笛は鳴らさない。内命婦、宮人が順次従ってゆく。
祭祀の当日、未明三刻(日の出45分前)、尚儀と司醞はその配下をひきいて祭場に入り、尊・樽をみたし、及び幣をおく。太官令はもろもろの籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)・簋(脚付きの青銅蓋物)・簠(穀物を盛る方形の祭食器)・俎などをそろえ、内謁者はその配下をひきいて厨に行き、食事を奉り、祭場に入って饌幔に設ける。皇后の車が到着すると、女相者は祭祀にかかわる官を先導し、内典引は外命婦を先導し、ともに門外の位におもむく。車は大幄に到着すると門外で一周して南向きになる。尚儀は車に進み出、ひざまずいて上奏する。「尚儀妾姓某と申します。お車をお降り下さいますようお願い申し上げます」と言う。皇后は車を降り、大幄にゆく。華蓋・繖(大きな絹張りの蓋傘)・扇を用いる。尚儀は
祝版を進め、皇后が署名すると、大幄の外に出て、坫(土製の高台)にまつる。尚功と司製が進み出、鉤と筐を受け取って退く。典賛は亜献、終献を先導し、内典引は外命婦を先導してともに祭場に入って位におもむく。皇后は大幄にとどまる。典賛は亜献及び祭祀に従う内命婦を先導してともに門外の位におもむく。司賛は掌賛をひきいて先に祭場に入り、位におもむく。女相者は尚儀、典正、女史、祝史を先導し、尊・樽・篚(竹籠)・冪(白布)を扱う係の女官と東門から入り、
壇の南に対して北面して西を班位の上として立つ。司賛は「再拝せよ」と言う。掌賛はこれを復唱する。尚儀以下はみな再拝する。おわると、尚儀以下はそれぞれの位におもむく。司楽は女工人をひきいて祭場に入り、典賛は亜献、終献を先導し、女相者は執事者をひきいて、司賓は内命婦を率い、内典引は外命婦をひきいて入り祭場に入って位におもむく。皇后は大幄にとどまる。半刻頃、司言は尚宮を先導して大幄の門の外に立ち、門に対して北向きになる。尚儀は「外辦(お出ましになる準備は出来ております)」と版奏する。皇后は幄を出る。東門から入る。皇后は版位に至ると、西向きに立つ。尚宮は「再拝してください」と言うと、皇后は再拝する。司賛が言う。「衆官は再拝せよ」。位にある者はみな再拝する。尚宮は「有司は謹んで儀式の準備をお具え申し上げました。儀礼の事を行われるようお願い申し上げます」と言い、三度音楽を演奏する。尚宮は「再拝してください」と言うと、皇后は再拝する。司賛が「衆官は再拝せよ」と言うと、位についている者はみな再拝する。壇上の尚儀はひざまずいて幣を篚(竹籠)に取り、立ち上がって尊所に立つ。皇后は南の階段から壇に昇り、北向きに立つ。尚儀は幣を奉り、東向きに進む。皇后は幣を受け取る。尚宮は皇后を先導して進む。皇后は北向きにひざまずき、神座に幣をまつって、少し退く。皇后は北を向いて再拝する。皇后は南の階段から降り、版位に戻る。初め内外命婦が再拝し、おわるころ、女史と祝史は犠牲の毛と血が入った豆(高坏形の青銅盛器)を奉り、内壁の東門の外に立つ。皇后が幣を捧げると、毛と血を奉って祭場に入り、南の階段から壇にのぼる。尚儀はこれを出迎え、壇上を先導して進み、ひざまずいて神座に毛と血をまつる。皇后がすでに壇にのぼって幣をまつっているとき、司膳は出て、食事を進める係の女官をひきいて食事を奉って内壁の東門の外にならべる。皇后がすでに壇から降りて位にもどったとき、司膳は食事を先導して祭場に入る。食事が階段に至ると、女祝史はひざまずいて毛と血の豆をかたずけ、東の階段から降りて、祭場を出る。食事は南の階段からのぼる。尚儀は壇上で出迎え、神座の前に設ける。皇后は罍洗(清めの水を入れた器)に参る。尚儀はひざまずき、匜(把手と注口のついた器)を取り、立ち上がると水を注ぐ。司言はひざまずいて盤を取り、立ち上がると水を受ける。皇后は手を洗う。司言はひざまずいて巾を篚に取り、立ち上がって篚を進める。司言は爵を篚に取り、立ち上がって爵を進める。皇后は爵を受ける。尚儀は樽の水をくみ、司言は盤を奉り、皇后は爵を洗う。司言は巾を皇后にわたし、みな初めのようにする。皇后は南の階段からのぼる。酒尊所に参る。尚儀は醴斉(あまざけ)をくむことを賛する。先蚕氏の神座の前に進み、北面してひざまずいて爵をまつり、立ち上がる。少し退いてから立ち上がる。尚儀は
祝版を持ち、神座の右に進み東面する。ひざまずき、祝文を読む。皇后は再拝する。尚儀は爵に上尊(神座前に二個一組で置かれる酒器の、上座に置かれる方)の福酒をくみ、西を向いて進む。皇后は再拝して爵を受けてひざまずき、酒をまつり、酒をなめ、爵を捧げ、立ち上がる。尚儀は食事を進める係の女官をひきい、籩(高坏)・俎を持って神前に進む。三牲の胙肉を切り、それぞれ一切れを俎の上に置く。また籩(高坏)に稷と黍の飯を取る。ともに一盛りを籩に置く。尚儀は飯の籩・胙肉の俎をもち、西向きに進む。皇后は受けとるごとに左右の者に授ける。皇后はひざまずいて爵を取り上げ、最後に爵を飲みほす。立ち上がり、再拝する。南の階段から降りて版位に戻る。皇后の献(初献)がまさに終わろうとする時に、典賛は貴妃を先導し、罍洗に参って手を洗い、爵を洗う。おわると、典賛は貴妃を先導し、東の階段から壇にのぼり、盎斉(白い濁酒)を
象尊に酌み、神座の前に進み北向きにひざまずき、爵をまつり、立ち上がる。少し退いて再拝する。尚儀は爵に福酒を酌み、貴妃は再拝して爵を受け、ひざまずいて酒をまつり、最後に酒を飲みほす。再拝し、東の階段から降りて位にもどる。昭儀の終献は亜献と同様である。尚儀は神座の前に進み、ひざまずいて豆(高坏形の青銅盛器)をかたづける。司賛が「おそなえの肉を賜われました」と言うと、掌賛が「衆官は再拝せよ」と言い、位にある者はみな再拝する。尚宮が「再拝されるようお願い申し上げます」と言うと、皇后は再拝する。司賛が「衆官は再拝せよ」と言うと、位にある者は皆再拝する。尚宮が「望瘞位におもむかれるようお願い申し上げます」と言うと、司賛は掌賛をひきいて埋葬穴の西南の位におもむく。皇后が望座位に赴くと西向きで立つ。尚儀は篚(竹籠)をとり、神座の前に進み、幣を取る。北の階段から降り、西に向かって行き、埋葬穴に参り、幣を穴に置く。司賛が「埋葬せよ」と言うと、東西にそれぞれ四人が土で穴を半ばまで埋めると、尚宮は「礼はおわりました。采桑位におもむかれるようお願い申し上げます」と言い、尚宮は皇后を先導して
采桑壇に参り、西の階段から昇り東向きに立つ。
皇后がまさに望瘞位に参ろうとする時、司賓は内外の命婦で桑を摘むことになっている者、鉤・筐をもつ者を先導し、それぞれ采桑位におもむく。
内外の命婦は、一品がそれぞれ二人、二品、 三品がそれぞれ一人。皇后がすでに采桑位に至ると、尚功は金鉤を奉り、北の階段から
壇にのぼって進み出る。典製は筐を奉り、皇后は鉤を受け取り、桑を摘む。典製は筐を奉り、摘んだ桑を受け取る。皇后は三条摘んでやめる。尚功はすすみ出て鉤を受け取り、典製は筐をもって、ともに退く。皇后が桑を摘みはじめると、典製らはそれぞれ鉤をとって内外の命婦に授ける。皇后が桑を摘みおえると、内外の命婦はつづいて桑を摘む。女史で筐をもつ者がこれを受け取る。内外の命婦の一品の者は、それぞれ五条摘み、二品の者はそれぞれ九条摘んでやめる。典製らは鉤を受け取り、筐をもつ者と退いて位にもどる。司賓はそれぞれ内外の命婦で桑を摘むことになっている者を先導して従う。蚕室に参ると、尚功は桑を蚕母に授ける。蚕母は桑を受け取ってこれを切り、婕妤に授ける。婕妤は蚕に桑を食べさせ、 まぶし一つに桑をそそぐ。尚儀は「礼はおわりました」と言うと、尚宮は皇后を先導して大幄に還る。内外の命婦はそれぞれ次(並ぶ場所を示す印)に戻る。司賛が「再拝せよ」と言うと、尚儀以下はみな再拝して出る。女工人がつづいて出る。
祝版を斎所で焼却する。
皇后が宮に戻った翌日、内外の命婦は宴会を正殿にて設ける。元会の儀のようにする。これを「労酒」という。
役人が毎年常に祀るものは十三ある。立春後の丑日に風師を祀り、立夏後の申日に雨師を祀り、立秋後の辰日に霊星を祀り、立冬後の亥日に司中・司命・司人・司禄を祀り、季夏の土王の日に中霤を祭り、孟冬に司寒を祭る。いずれも一献する。
祝版に「天子謹んで遣わす」とある。
【釈奠】
中春・中秋に文宣王(孔子)・武成王(太公望)を釈奠し、いずれも上丁・上戊に実施する。
国学で祭酒・司業・博士が三献し、軒縣で音楽を演奏する。祭祀の一日前、奉礼郎が三献の版位を東門の内の道の北に、執事の版位を道の南に設置し、いずれも西向きで北を班位の上とする。学官・館官の版位を楽縣の東に、執事にあたる者は西南に設置し、西向きとし、学生の版位を館官の後方に、いずれも二列で北を班位の上とし、観者の版位を南門の内、道の左右に設置し、二列で北向きとし、相対して先頭とする。三献の門外の版位を東門の外の道の南に、執事の版位をその背後に設置し、身分ごとに序列とし、北向きで西を班位の上とし、館官・学官の版位を三献の東南に設置し、北向きで西を班位の上とする。先聖の神座を廟室内の西柱間に設置し、東向きとし、先師の神座を先聖の神座の東北に設置し、南向きとする。その他の弟子および二十一賢は序列ごとに東に陳列し、南向きで西を班位の上とする。その他はすべて常祀と同様である。
皇子束修(学生が師に教えを請う場合に行なう礼)では、束帛が一篚(竹籠)、合計五匹で、酒は一壺、合計二斗で、長机一つに、干し肉が五切れである。その日の夜明け、皇子は学生の服を着用し、
学生の服は青衿である。学門の外に到着する。博士は
公服で、執事者は引率して学堂の東の階段に昇り、西面きとなる。相者は皇子を引率して門の東に立ち、西向きとなる。束帛の篚・壺酒・干し肉の机を皇子の西南に置き、門に対して北向きとなり、二列で西を班位を上とする。将命者(取次)が出て、門の西に立って、東向きとなり、「あわせてくださいとお願いしてください」と言うと、皇子はやや進み出て、「某は先生より学問を学びたいのです。会わせてください」と言い、将命者は伝達のため入る。博士は、「私は不徳の者です。皇子は恥をかかないでください」
もし王に封ぜられていた場合、「王は恥をかかないでください」と言う。将命者は出て伝達すると、皇子は固く願う。博士は、「私は不徳の者で、皇子は席におつきください。私がお会いしましょう」と言うと、将命者は出て伝達する。皇子は、「某は先生が客人だとは思っていません。どうか私に謁見をお許しください」と言う。将命者は入って伝達し、博士は、「命令を拒否することはできません。どうして背くことができましょうか」と言う。将命者は出て伝達し、執篚者は篚を以て東向きとなり皇子に授け、皇子は篚を持つ。博士は降りて東の階段の下で待ち、西向きとなる。相者は皇子を引き連れ、執事者は壺酒・長机を持って従い、皇子は門に入って左におり、西の階段の南に行き、東向きとなる。酒・机を奉る者は皇子の西南で、東向きで北を班位の上とする。皇子は跪いて、篚を捧げ、再拝する。博士は再拝の答礼をし、皇子は辞退し、進み出て、跪いて篚を取る。相者は皇子を引き連れて博士の前に進み、東向きとなって幣を授け、壺酒・長机を持って従い、博士の前に捧げ、博士は幣を受け取り、執事者は酒・長机・幣を持って東に行く。相者は皇子を引き連れて階段の空いている場所の南あたりに立ち、北向きとなり、酒・長机を奉って退出する。皇子は拝礼し終わると、相者が皇子を引き連れて退出する。
学生が束帛・酒・長机を持って面会するのは、皇子と同様である。
武徳二年(619)、始めて
国子学に周公・孔子の廟を建立するよう詔した。武徳七年(624)、
高祖の釈奠では、周公を先聖とし、孔子を配侑とした。武徳九年(628)孔子の後裔を封じて褒聖侯とした。貞観二年(624)、左僕射の
房玄齢・博士の
朱子奢が「周公・尼父は二人とも聖人ですが、
国学で釈奠する際には、夫子(孔子)を祭っています。大業年間(605-618)以前は、すべて孔丘を先聖とし、顔回を先師としていました」と建言したから、そこで周公をやめて、孔子を昇格させて先聖とし、顔回を配侑とした。貞観四年(630)、詔して州・県の学校にすべて孔子廟を建造させた。貞観十一年(637)、詔して孔子を尊んで宣父とし、廟を兗州に建造し、戸二十を給付して奉った。貞観十四年(640)、
太宗は釈奠を
国子学で見て、詔して祭酒の
孔穎達に『孝経』を講義させた。
貞観二十一年(647)、詔して、左丘明・卜子夏・公羊高・穀梁赤・伏勝・高堂生・戴聖・毛萇・孔安国・劉向・鄭衆・賈逵・杜子春・馬融・盧植・鄭康成・服虔・何休・
王粛・
王弼・杜預・范寧の二十二人を全員配侑として祭らせた。孔子廟の学官が廟を祭る際に、「博士である某は先聖に申し上げます」と祝文し、州・県の釈奠では、同じく博士が祭りした。中書侍郎の
許敬宗らが以下のように奏上した。「『礼』に「大学にて官はその先師に釈奠する(『礼記』文王世子)」とあり、鄭氏は「官とは、詩・書・礼・楽の官のことをいう」とあり、四季の学問では、学問を先生に習うので、そのため釈奠ではそれぞれの先生によりますが、国学の祭祀ではないので先聖ではありません。春・秋に音楽を合奏する時、そこで天子は視学し、役人は先聖・先師を祭ります。秦・漢には釈奠の記録がなく、魏では太常が執行し、晋・宋は学官が祭祀を掌りました。また
国学では音楽の軒縣、尊・俎は官が準備し、臣下の管轄とするところではありません。何卒、国学の釈奠では祭酒・司業・博士を三献とし、祭文に「皇帝は謹んで遣わす」とし、州学では刺史・上佐・博士を三献とし、県学では県令・丞・主簿もしくは尉を三献とし、社祭と同様に明衣を給付なされますように。」 ちょうどその時、
皇太子は釈奠し、自ら初献し、祭酒の
張後胤を亜献、光州刺史摂司業の
趙弘智を終献とした。
永徽年間(650-655)、再び周公を先聖とし、孔子を先師とし、顔回・左丘明を降していずれも従祀とした。顕慶二年(657)、太尉の
長孫无忌らが以下のように申し上げた。「『礼』に「その先師に釈奠する(『礼記』文王世子)」とあり、礼には高堂生がいて、楽には制氏がいて、詩には毛公がいて、書には伏生がいます。また『礼』に「始めて学校と立てた時には、先聖に釈奠する(『礼記』文王世子)」とあり、
鄭玄の注に「周公・孔子のごときなり」とあり、そのため貞観では夫子(孔子)を聖とし、儒者たちを先師としました。また周公は礼楽をつくったので、王者の祀と同じくすべきです」 そこで周公を武王に配侑し、孔子を先聖とした。
総章元年(668)、太子
李弘は
国学で釈奠し、顔回を追贈して太子少師とし、曾参を少保とした。咸亨元年(670)、州・県に詔して孔子廟を営造させた。
武后の天授元年(690)、周公を封じて褒徳王とし、孔子を隆道公とした。神龍元年(705)、鄒・魯の百戸を隆道公(孔子)の采邑とし、年祀を奉り、子孫に褒聖侯を世襲させた。
睿宗の太極元年(712)、兗州の隆道公の祠に近い三十戸を清掃に供し、顔回に太子太師を、曾参に太子太保を加贈し、いずれも配享とした。
玄宗の開元七年(719)、
皇太子は
国学に歯冑し、先聖に謁し、詔して
宋璟を亜献、
蘇頲を終献とした。享(まつ)りに臨んで、
天子は歯冑の義を思い、そこで詔して二献はいずれも冑子を用い、先聖を祀る様子は釈奠と同様にした。右散騎常侍の
褚无量が『孝経』・『礼記』の「文王世子篇」を講じた。
翌年(720)、司業の李元瓘が以下のように上奏した。「先聖廟に十哲の肖像をつくり、先師顔子を配侑とし、そこで肖像は本来安座すべきですが、今立ち侍っています。他の弟子は肖像を廟堂に並べていますが祭祀はされていません。しかし范寧らは皆従祀となっています。何卒、十哲を釈奠して上を享り、国の七十子を壁に描かれますように。また曾参を孝によって夫子の門人となったので、何卒、曾参を加えて二十二賢となされますように。」 そこで詔して十哲を座象とし、悉くを祀った。曾参については特に肖像をつくり、次席に座らせた。七十子および二十二賢を廟壁に描いた。
開元二十七年(729)、詔して夫子(孔子)はすでに先聖と称しているから、文宣王と諡し、三公を派遣して持節冊命し、その末裔を文宣公とし、州長史に任じ、代々絶えさせないようにした。この間、孔廟は周公を南面とし、夫子は西壁の下に座した。貞観年間(623-649)、周公の祭を廃止したが、夫子の位は改めなかった。ここに至って、二京の
国子監・天下の州県の夫子は始めてすべて南向きとし、顔淵を配侑とした。弟子たちに公爵・侯爵の爵位を追贈し、子淵を兗公とし、子騫を費侯とし、伯牛を鄆侯とし、仲弓を薛侯とし、子有を徐侯とし、子路を衛侯とし、子我を斉侯とし、子貢を黎侯とし、子游を呉侯とし、子夏を魏侯とした。また曾参以降の六十七人に追贈し、曾参を成伯とし、顓孫師を陳伯に、澹台滅明を江伯に、密子賤を単伯に、原憲を原伯に、公冶長を莒伯に、南宮适を郯伯に、公晳哀を郳伯に、曾点を宿伯に、顔路を𣏌伯に、商瞿を蒙伯に、高柴を共伯に、漆雕開を滕伯に、公伯寮を任伯に、司馬牛を向伯に、樊遅を樊伯に、有若を卞伯に、公西赤を邵伯に、巫馬期を鄫伯に、梁鱣を梁伯に、顔柳を蕭伯に、冉孺を郜伯に、曹卹を豊伯に、伯虔を鄒伯に、公孫龍を黄伯に、冉季産を東平伯に、秦子南を少梁伯に、漆雕斂を武城伯に、顔子驕を琅邪伯に、漆雕徒父を須句伯に、壤駟赤を北徴伯に、商沢を睢陽伯に、石作蜀を郈邑伯に、任不斉を任城伯に、公夏首を亢父伯に、公良孺を東牟伯に、后処を営丘伯に、秦開を彭衙伯に、奚容蒧を下邳伯に、公肩定を新田伯に、顔襄を臨沂伯に、鄡単を銅鞮伯に、句井彊を淇陽伯に、罕父黒を乗丘伯に、秦商を上洛伯に、申党を召陵伯に、公祖子之を期思伯に、栄子旗を雩婁伯に、県成を鉅野伯に、左人郢を臨淄伯に、燕伋を漁陽伯に、鄭子徒を滎陽伯に、秦非を汧陽伯に、施常を乗氏伯に、顔噲を朱虚伯に、歩叔乗を淳于伯に、顔之僕を東武伯に、原亢籍を莱蕪伯に、楽欬を昌平伯に、廉絜を莒父伯に、顔何を開陽伯に、叔仲会を瑕丘伯に、狄黒を臨済伯に、邽巽を平陸伯に、孔忠を汶陽伯に、公西輿如を重丘伯に、公西蒧を祝阿伯に封じた。ここに二京の祭では、
太牢を捧げ、宮縣を演奏し、六佾を舞った。州県では
少牢を捧げて音楽は演奏しなかった。
開元二十八年(740)、詔して春秋二仲(二月・八月)の上丁日に、三公の摂事(代行)とし、大祀を行なう場合には、中丁日を用い、州・県の祭では、上丁日とする。上元元年(760)、
粛宗はこの年が日照りであるから中祀・小祀を取り止めとしたが、文宣王(孔子)の祭は、仲秋(八月)に
太学にて執り行われた。永泰二年(766)八月、
国学の祠堂を修造して完成し、祭酒の
蕭昕が始めて釈奠を奏じ、宰相の
元載・
杜鴻漸・
李抱玉および常参官・六軍の将軍が見た。長安・洛陽の二京が回復してから、ただ正会の楽は宮縣を用い、郊廟の享(まつ)りでは、登歌のみで、文・武二舞は備えることができなかった。ここに至って、
魚朝恩が監事を導いて、そこで宮縣の音楽を論堂で奏で、
教坊の工伎が演技を行った。貞元九年(793)季冬(十二月)、貢挙(科挙)の受験生が先師に謁するの日が親を廟で祭る日と同じであったから、役人は上奏して上丁日の釈奠を大祠と同じにし、中丁日を改めて学に謁する日とした。元和九年(814)、礼部が貢挙の受験生が先師を謁するよう上奏したが、これより再び実行されなかった。
開元十九年(731)、始めて
太公尚父廟を設置し、留侯の張良を配侑とした。中春・中秋(二月・八月)の上戊日に祭り、犠牲・音楽の制は文宣王(孔子)と同様である。出陣が将軍に命じられると、出発の日に将軍を引率して廟に挨拶した。そこで古代の名将十人を十哲の配享とした。天宝六載(747)、詔して諸州で武挙の受験する人が役所にやって来ると、まず
太公廟に謁した。乾元元年(758)、太常少卿の
于休烈が次のように上奏した。「秋に漢高祖廟を享るのに、傍らに侍臣はいませんが、
太公廟は張良を配侑としています。子房(張良)は漢初の生まれで、高祖を助けて天下を定めましたが、当時、太公とは接点がありません。古代の廟庭における配食では、皆その補佐としていており、太公は人臣です。配享をなくすのがよいでしょう。何卒、張良を漢祖廟の配侑となされますように。」
上元元年(760)、太公を尊んで武成王とし、祭典は文宣王(孔子)と同様にし、歴代の良将を十哲とし、肖像を座し侍らせた。秦の武安君の白起・漢の淮陰侯の韓信・蜀の丞相の諸葛亮・唐の尚書右僕射衛国公の
李靖・司空英国公の
李勣を左に並べ、漢の太子少傅の張良・斉の大司馬の田穰苴(司馬穰苴)・呉の将軍の孫武・魏の西河守の呉起・燕の昌国君の楽毅を右に並べ、張良を配侑とします。後に中祀を罷め、遂に祭らなかった。
建中三年(782)、礼儀使の
顔真卿が奏上して、「
武成廟を整備するにあたって、何卒、「月令」の通り春・秋に釈奠されますように。追封には王号を用いていますが、諸侯の数を用い、楽は軒縣を演奏すべきです」と述べ、史館に詔して配享すべき者を選び出させ、古今の名将およそ六十四人を列して図像を描いた。越の相国の范蠡、斉の将の孫臏、趙の信平君の廉頗、秦の将の王翦、漢の相国・平陽侯の曹参、左丞相・絳侯の周勃、前将軍・北平太守の李広、大司馬・冠軍侯の霍去病、後漢の太傅・高密侯の鄧禹、左将軍・膠東侯の賈復、執金吾・雍奴侯の寇恂、伏波将軍・新息侯の馬援、太尉・槐里侯の皇甫嵩、魏の征東将軍・晋陽侯の張遼、蜀の前将軍・漢寿亭侯の関羽、呉の偏将軍・南郡太守の周瑜、丞相・婁侯の陸遜、晋の征南大将軍・南城侯の羊祜、撫軍大将軍・襄陽侯の王濬、東晋の車騎将軍・康楽公の謝玄、前燕の太宰録尚書・太原王の慕容恪、宋の司空・武陵公の檀道済、梁の太尉・永寧郡公の王僧弁、北斉の尚書右僕射・燕郡公の慕容紹宗、周の大冢宰・斉王の宇文憲、隋の上柱国・新義公の韓擒虎・柱国・太平公の史万歳、唐の右武候大将軍・鄂国公の
尉遅敬徳・右武衛大将軍・邢国公の
蘇定方・右武衛大将軍同中書門下平章事・韓国公の
張仁亶、兵部尚書同中書門下三品・中山公の
王晙、夏官尚書同中書門下三品・朔方大総管の
王孝傑。斉の相の管仲、安平君の田単、趙の馬服君の趙奢、大将軍・武安君の李牧、漢の梁王の彭越、太尉・条侯の周亜夫、大将軍・長平侯の衛青、後将軍・営平侯の趙充国、後漢の大司馬・広平侯の呉漢、征西大将軍・夏陽侯の馮異、建威大将軍・好畤侯の耿弇、太尉・新豊侯の段熲、魏の太尉の鄧艾、蜀の車騎将軍・西郷侯の張飛、呉の武威将軍南郡太守・孱陵侯の呂蒙、大司馬・荊州牧の陸抗、晋の鎮南大将軍・当陽侯の杜預、太尉・長沙公の陶偘、前秦の丞相の王猛、後魏の太尉・北平王の長孫嵩、宋の征虜将軍の王鎮亜、陳の司空・南平公の呉明徹、北斉の右丞相・咸陽王の斛律光、周の太傅大宗伯・燕国公の于謹、右僕射・鄖国公の
韋孝寛、隋の司空尚書令・越国公の
楊素、右武候大将軍・宋国公の賀若弼、唐の司空・河間郡王の
李孝恭、礼部尚書・聞喜公の
裴行倹、兵部尚書同中書門下三品・代国公の
郭元振、朔方節度使兼御史大夫の
張斉丘、太尉中書令尚父・汾陽郡王の
郭子儀。
貞元二年(786)、刑部尚書の
関播が奏上して、「太公望は古代では大賢と称えられていますが、時代が下ってから亜聖に降格されています。意味としてこれは正しくありません。仲尼(孔子)の十哲は、いずれも当時の弟子であって、今、違う時代の名将を太公望の弟子の位置に列するのは、同類ではありません。何卒、ただ古今の名将を用いて配享し、亜聖十哲の名を廃止されますように」と述べた。これより、ただ武成王および留侯(張良)を祭って、諸将は再び祭らなかった。
貞元四年(788)、兵部侍郎の
李紓が、以上のように申し上げた。「開元年間(713-741)、
太公廟に張良を配侑とし、太常卿・少卿が三献し、その祝文に、「皇帝が某を遣わし敢えて昭告(神明に申し上げ)いたします」と記しました。上元元年(760)になって太公望を追号して王爵とし、祭典は文宣王(孔子)と同じくし、役人は太尉による献とし、
祝版は天子が親署あらせられました。太公望は周の太師であり、張良は漢の少傅で、今、至尊が礼を臣下や補佐官に屈すれば、臣下であった神はどうして受け入れられましょうか。また文宣王は百代にわたって尊崇されてきましたから、楽は宮縣を用い、献は太尉が行い、師を尊ぶことは道を崇めることなのです。太公の著作は『六韜』止まりであって、勲功は一代に顕れただけでした。何卒、
祝版の文辞は親署をせず、昭告を改めて敬祭とし、留侯(張良)は致祭とし、献官は太常卿以下を用いられますように。」 百官は議論し、多くが李紓の要請の通りにすべきであると申し上げた。左司郎中の厳涗らが次のように意見を申し上げた。「李紓の援規範や尊卑を重んじるという点から考えていますと、妥当ではありますが、また不十分です。名や尊号は、空虚な賛辞であってはならず、しかも太公望は武略・奇計の人であるに過ぎず、殷が徳を失う時にあたって、諸侯を周に帰服させ、遂に天命を助けることに至ったのです。祭祀の典籍には「生前に善政良法を人民に行った者を祭る(『礼記』祭法)」とあり、仲尼(孔子)が尭と舜を受け継いで述べ、文武を手本とし、『詩』『書』を編纂し、礼楽を定め、君臣父子に至るまで皆がこれを基本とし、法を人々に施しました。貞観年間(623-649)、太公は兵家の者の流祖であったから、始めて磻渓に廟を立てました。開元年間(713-741)上戊日に釈奠の礼を徐々に実施、進歩は小さいものではありませんでした。上元年間(760-761)の際に、政治の中枢にある者は軍事に意を注ぎ、遂に太公を王爵に封じ、号は文宣王に擬えましたが、このことは聖人と同一ではありません。武成王の号を撤廃し、また太公廟を再建し、捧げ祭る制度は李紓の要請の通りとすべきかと思います。」 刑部員外郎の
陸淳らが以下のように意見を述べた。「武成王(太公望)は、殷の臣でしたが、紂王が暴虐であったのに諌めず、周を助けて殷を傾けました。道を尊ぶ者はその人を師と仰ぎ、天下の人々にこの廟に入らせました。この堂に登り、その人を考え、その道を思うのならば、節を立てて義に死んだ士はどうして奮闘するのでしょうか。聖人は尭・舜を規範とし、伯夷・叔斎を賢人とし、桓公・文公を不法とし、伊尹を賛美しなかったのは、このような考えによるものなので、武成王の名称は、文宣王と共にし、不刊の典とはならなったのです。臣は上元年間(760-761)廟を戻し、また磻渓の祠を行い、役人が季節の祭りをすることが充分といえるでしょう。」 左領軍大将軍の
令狐建ら二十四人が次のように意見を述べた。「戦争がまだ止まず、武を重んじて忠烈を励ますのが当然のことです。現在、貶しめていますが、これは忠烈を勧める行為ではありません。また王爵を追号し、季節の祠を行ない、武を主に教え、文武が規範として並び立っており、典礼は長いことたっていますので、改めることはよくありません。」 そこで詔して将軍を献官とし、その他は李紓の奏を用いた。これより、上将軍・大将軍・将軍を三献とした。
五岳・四鎮は、年に一度祭り、それぞれ五郊が気を迎える日に祭った。東岳である岱山は兗州にあり、東鎮である沂山は沂州にあり、南岳である衡山は衡州にあり、南鎮である会稽は越州にあり、中岳である嵩高は河南にあり、西岳である華山は華州にあり、西鎮である呉山は隴州にあり、北岳である常山は定州にあり、北鎮である医無閭は営州にあり、東海は莱州に、淮は唐州に、南海は広州に、江は益州に、西海および河は同州に、北海および済は河南にある。
最終更新:2026年04月20日 22:38