エナはここしばらく穏やかな天候が続いている。宮殿から見下ろす小さな貯水池の水量はだいぶ減ってきたが、それを気に掛ける人もほとんどいなくなった。
僕がイリューシャ様にお供してパスタリアを訪れた日から――つまり停戦の日から間もなく2か月になろうとしている。あの戦いの犠牲は決して少なくはなく、心に悲しみを抱えることになってしまった人は多い。死んだ者を悼むなんらかの行事や儀式は毎日のようにどこかで開かれている。とはいえ、こういった悲しみを表出できるだけの生活面での余裕が生まれたのもまた事実である。もうきれいな水を得るために行列に並ぶ必要もないし、嫌がらせのようにエナに飛来し小規模な攻撃を加えるガーディアンの編隊に怯えることもない。
人々が安心して暮らせるようになったことは喜ばしいことだ。だけど、僕はある種の後ろめたさを感じる。本当にこれで良かったのか? 僕たちだけが平和を享受できていいのか?
――彼女の犠牲に、意味はあったのか?
an anecdote about Illusha
Long distance without you
「とりあえず処分するものは捨ててきたよ。まだある?」
「おつかれ、ありがとう。あとはもう大丈夫だよ」
「食器とか調理器具とか、まだ荷物がたくさん残ってそうに見えるけど、いいの?」
「うん。残ってるのはほとんど私物じゃなくて大鐘堂の備品だから、そのまま。食器は違うのもあるけど、持ち歩くには重すぎるし」
「トレーニングマシンも備品なんだから、倉庫にしまわなくても放っておけばよかったんじゃないか?」
「いや、さすがに次にここを使う人が困るでしょ……こんなのが置いてあっても」
この日の夕方、僕はレギーナの部屋を訪れていた。彼女は昨日までで御子付き女官の職を退き、明日の朝にはパスタリアに向けて出発することになっている。
「ともかく、持っていくのはほとんど服かな。それも半分くらいは捨てたし」
「じゃあ、片付けと荷造りはもう終わり?」
「うん」
レギーナはトランク一つとバッグ一つにまとめ終えた荷物を指して答えた。部屋には家具などがほぼそのままの形で残されているので、明日にはこの部屋の主がいなくなってしまうようには到底見えない。
彼女は「そこで待ってて」と僕に言って、お茶の準備を始めた。つまり、それに必要な器具が全て備品であってここに残される、ということでもある。
「レギーナがいなくなると、寂しくなるな」
「ごめんね、私のわがままのせいで。後任の人、早く見つかるといいね」
「ですね。南朝様が良くなってくれればそれに越したことはないわけで」
「……だよね」
大鐘堂内でもまだ知る者はごく一部に留まるけれど、ここ最近、先代御子である南朝様のお身体の具合が思わしくない。特に今はちょうどダイキリティ投与の時期と重なって一時も油断ができず、医師や看護師の方が輪番で常駐している。それで本来の南朝様付き女官であるジャドさんが逆に手が空いてしまい、現在は臨時でイリューシャ様の担当に回っている。
「はい。今日はありがとう、手伝ってもらって」
「うん。じゃあ頂くよ」
「骨折して休んでたときもいろいろと仕事を代わってもらってたけど、私、ぜんぜんお返しできてないね」
「いいよ、別に。それに、お返しできてないってことはないよ。ずっと御子様のことをお世話してくれていたから。その点では、僕なんかよりずっと役に立っていた」
「あーあー、そんなことないって」
レギーナは手を振りながら否定する。でも、あの時に体を張って御子様を守ったのは間違いなく彼女だ。正直に言ってしまえば、パスタリアに家族がいる彼女よりは僕のほうが盾になるには向いているとも思う。僕にはもういないから。
「……そういえば、まだ話していなかったなあ」
「何を?」
「いや、僕のことを。パスタリアで何があったのかを。餞別代わりというわけではないけれど、よかったら、聞いてくれませんか?」
「ああ、そういえばそうだったね。もちろん聞くよ、オーラフがいいなら」
僕もレギーナと同じで一人っ子だった。経済的にはさして豊かな家ではなかったけど、家族の仲は良かったし、僕のやりたいことを自由にさせてくれる親だった。大鐘堂を志望するようになったきっかけは――なんだったかなあ、思い出せない。父は工場労働者だし母は星の市で働いていたから、別に親の影響というわけでもない。でもどこかの段階で、大鐘堂を目指すのは既定路線になっていた気がする。勉強はできるほうだったし、そのころの友達もみんな僕は大鐘堂に行くものだと思ってた。
それで、その通りに試験を突破して大鐘堂に就職した。僕が十五歳のときだから3421年かな、世間的にはちょうどエレミアの難民船の最後の漂着があった頃だった。
当時の大鐘堂は二万人もの難民への対応で大忙しだったから、僕も新人ながら難民キャンプの運営に駆り出されていた。あっちでトイレが壊れたなら修繕を手配し、こっちでは旧市街再整備に向けた要望のとりまとめ……。とにかく、彼らはどこにも帰れない以上、多少の無理をしてでもメタ・ファルスでなんとか受け入れなければならなかった。僕自身もそういう立場の人には同情的だったし、毎日のようにキャンプを歩きまわっているうちに皆に名前を覚えてもらうことが嬉しかった。……そう、あの頃は、僕もエレミア人に対して悪い印象は持ってなかったんだ。
今から考えてみれば、いざこざはいくらでも起こっていた。食べ物が少ない。テントのある場所の環境が悪い。あいつのほうが先に仮設住宅に入ったのは不公平だ。レーヴァテイルには配給は不要だ。彼らと僕たちの間で起こるトラブル以上に、エレミア人同士での揉め事が頻発していた。でも当時は、慣れない環境で生活することを強いられるストレスがそうさせるのであって、仕方ないことだと思っていた。
それに、モイラ・キャンベルさんがいた。難民側の代表として初めて大鐘堂入りした人だね、もしかしたらテレモとかで見たことがあるかもしれない。僕は一度だけ会ったことがあるけど、見た目は本当にただの温厚なおばあちゃんなんだよね。でもそこは元政治家だけあって聡明で人望もあって、難民キャンプのことも誰よりも――それこそ僕よりもずっと把握していて、まさにエレミア人の代表に選ばれるべくして選ばれた人だった。南朝様もヴァサンタ教皇猊下も、すぐに彼女の人柄を信頼したというのも頷ける話で。本当に、すぐ亡くなられてしまったのが惜しまれる。
南朝様も相互理解のために尽力されていた。一種の公共事業を兼ねて交流イベントを主催されたり、彼らの故郷に関する本を出版するのに援助なさったり。その甲斐あって、エレミア文化のブームも起きた。……残念なことに、それは南朝様を裏切る形で終わってしまうわけなんだけど。まあとにかく、その頃はメタ・ファルスを挙げてエレミアの人を歓迎したし、僕もそうだったんだ。
話したかったことから少しずれた気がする。えーと、この難民対応の仕事を始めるときに僕を指導してくれたのがヴェラだったんだ。僕より四つ年上で一つ先輩。彼女は本来ならば僕とあまり関わりのないはずの部署、彼女は交通局で僕は総務だったんだけど、状況が状況だからあちこちから人をかき集めてて、それで一緒になった。そういう意味では、幸運な巡り合わせだった。
ヴェラは――まあ、顔は普通のほうだったとは思うけど、でもとても魅力的な女性だった。いつも明るく快活で、話し上手で、ちょっとドジだったけどそこも含めてみんなに愛されていた。特に子どもたちには好かれていて、旧市街の暗い雰囲気の中で遊ぶこともできずただじっと座っているだけの子どもたちが、彼女がちょっと話をするだけで表情がぱっと明るくなるのがいつもだった。
仕事のほうは、まあ、よくできるとはお世辞にも言えないかな、たぶん。僕も新人だったからけっこう失敗したけど、もう新人じゃないはずのヴェラも僕に負けないくらい失敗していた。彼女はよく確認しないまま思い込みで動いてしまうことが多かったんだと思う。交通局の仕事は性に合ってなかっただろうなあ。
僕が入って早々、旧市街の難民キャンプで戸別訪問をすることがあった。担当する区画を決めて、範囲内にある家やテントを一つ一つ回って生活の状況を聞く。まあ御用聞きみたいなものだけど、それをヴェラと二人一組でやることになった。だいたい彼女が話して――僕が先に話しかけてもどこかのタイミングで彼女が話を主導するようになる、で僕は記録をする。そうやって百か所くらいを訪問してもう夕方近くになったところで、会った人が「また来たのか」って言ったんだ。いえ僕たちはここには初めて来たはずなんですけど、ってよくよく聞いてみたら、同じ日に大鐘堂の別の人が戸別訪問に来ていたらしい。ここで初めて、担当する区画を最初から間違えていたことが発覚したわけだ。あの時の彼女の慌てようが今でも目に浮かぶよ。
戻ったらきつく叱られるんだろうなあと憂鬱に思っていたら、まあ叱られたのは間違いないけど、上司の反応は呆れ笑いだった。彼女は似たようなミスはもう何度もやっているから、今度はお前が地図を見てやれ、と。
最初っからこんな感じだったから、僕の落ち度による不始末であっても、たいていは先に彼女が原因じゃないかと疑われていたね。でも彼女は、僕を責めたりすることもなく、いつも笑っていた。その笑顔は幸せを周囲の人に分け与えるものだった。だから僕は、この幸せが続けばいいと思ったんだ。
彼女の指導――指導と言えるようなものかどうかというと微妙だけど、ともかくそれは三か月で終わって、同じ仕事でも基本的には別行動になった。顔を合わせることはそれなりにあったけど、それも二年経ってだんだん落ち着いてきたところで態勢が見直され、二人とも難民対策の業務から外れて元の部署に戻ることになった。
このままでは会えるきっかけが減ってしまうと思って、一大決心をして――その、まあ、つまり、結局、うまくいった。僕たちは交際を始めることになった。
つき合い始めたとはいっても二人とも忙しかったし、ちゃんと時間を作って会うのは月一回くらいだったかな。遠出もできなかったから、せいぜいパスタリアの中で買い物したり食事したりだった。年齢差もあったし話の上手さもあったし、デートではだいたい彼女のほうが主導権を取ってたかな。それでも着実に仲は進展して、一年も経てばお互いに親に紹介するまでになっていた。……そうだね、僕も十八になっていたし、結婚することも意識していなくはなかった。ぼやっとした夢、程度には。
ああそうだ、ヴェラには弟と妹がいたんだ。向こうの家に行ったときに見た。名前は……なんだったかな? ちょっと今は思い出せない。ご両親もやはり気さくな方で、ヴェラはこういう家で育ったんだなあ、とつい納得したのを覚えてる。
逆にうちの親に彼女を会わせた時は、まあ、舞い上がっちゃって……。普段はあまり飲まない父が、ヴェラにお酒を勧めつつ飲んでいたら見事に潰れたとか。あー、彼女はけっこう飲むんだよね、僕はあの時初めて知った。僕が年齢的に飲めなかったからいつもは遠慮してたのかな? 母は母で、わざわざ僕の昔の写真を引っ張り出してきて見せたりとか……母も彼女も話好きだったから、僕が置いてきぼりになる勢いで盛り上がってた。まあ、嬉しかったんだろうね。僕もそうだったから。
知れば知るほどもっと彼女のことを知りたくなる。何もせずただ彼女を見つめていたくなることがある。一緒にいるときはただひたすら嬉しく、仕事の日は次に彼女に会えるまでの日数を数えて憂鬱になる。会えない日でも夜になればテレモでやりとりするし、それを毎日の楽しみにしていた。でも時々彼女の帰りが遅くなって返信がなかなか来ないと、やきもきするし心配になる。……彼女を独占したいという思いももちろんあって、だけど彼女にも人格はあるのだからとその思いを押さえつける。僕の心はいつも感情に溢れていた。それはきっと幸せなことなんだと思う。
思えば、この頃がいちばん幸せだった。当時は、まだまだ幸せが続くことを疑いもせず信じていたけど。――そう、3424年。戦争が始まった年。
教皇猊下が暗殺され、エレミア人の反乱が始まった。彼らは旧市街、つまり難民キャンプだった場所を拠点に、揚水歯車や農業地区といった周辺の地域を占拠した。大鐘堂軍は敵の優れた武装やガーディアンの前に苦戦し、すぐに鎮圧できるだろうという当初の甘い見通しはすぐに崩れ去った。
戦火はパスタリアでは下から上に広がり、翌年にはリムにも飛び火した。僕の父も勤めていた工場が巻き込まれて閉鎖したときに職を失ったし、さらに家のある地区も危険になってきたので、より上のほうにある僕の家に引っ越してきた。もともとそれほど広くなかった家はさらに窮屈になり、彼女を呼ぶこともできなくなった。
ヴェラは交通局だったから軍の統制の影響が強くて、勤務の形態が変わり、次第に会える日程が取れなくなってきた。ただでさえ忙しい上に心の休まる時間がなくて、僕も彼女もどんどん消耗していった。会っても悲観的になったり喧嘩したりすることが増えるばかりで、彼女のあの笑顔は、いつの間にか隠れてしまっていた。
一度、彼女から別れ話を切り出されたことがある。ちょうど、御子様が――南朝様とイリューシャ様がエナ宮殿に疎開した直後のタイミングだった。テレモの文字通信でそれを見た時は、何が起きたのか分からないという困惑も、とうとうこの話が来たかという諦めもあった。
返信でヴェラに真意を質すと、彼女にしては珍しく、長く読みづらい文章が戻ってきた。別れて身軽になりたい、そうすればお互い気兼ねすることなく大鐘堂を辞めたりリムに避難したりしやすいから、という趣旨での別れ話だという。でも本当の理由はそうじゃなくて、きっと僕のことを気遣ってのことだと思う。このとき彼女は飛空艇の運行に関わっていて、パスタリアの生命線の一部を担っている以上、業務から逃げるのは容易なことではなかったから。
どちらにせよ、別れるのは僕の望みではない。ただ、それを伝えるのにも、ちゃんと会って話をしたかった。だから、どうにかして時間を作って会おう、これで最後になるかもしれないから、と彼女を説得して了承を得た。
実際に会えるまでにはひと月かかった。そして、彼女も本当は別れたくないと思っているのはすぐにわかった。彼女は話をするのは上手いけど、本心ではないことをすらすらと口から出すような真似はできなかったから。結局、この事件で二人の想いを再確認することになった。辛い状況でも二人で支えあって頑張ろうと。そして、いずれ平和が戻ったなら――
僕は今でも思う。もしこのときに違う選択をしていたら、彼女は生きていたかもしれない……?
四年前、だから3428年。当初のクーデターの首謀者であるアーロン・スピアーズを討ち取ったが、結果的にこれが当時の大鐘堂の最後の一矢になった。
将軍直属の最精鋭部隊がパスタリア宮殿に籠城しての必死の抵抗も空しく、ついに降伏することが決まった。僕たち下っ端の大鐘堂職員に知らされたのはその前日。そして、難を逃れようと宮殿に匿われていた住民を――僕の両親もこの中にいたんだけど、できるだけリムに運ぶという使命が大鐘堂での最後の仕事として与えられた。使えるのは軽武装で鈍足の大型飛空艇が三隻だけ。制空権はほぼ喪失し、護衛の戦闘機も出撃可能なのはごく僅か。危険は明らかだった。
時間もなく、選択肢もなかった。飛行は一度きり、敵の攻撃を逃れるために夜間に飛行し、ラクシャクの空港に向かうのではなくエナ近辺の畑に着地させる。飛空艇は住民を乗せるだけでほぼいっぱいで、職員の大半は兵と共に宮殿に残り、降伏の時を待つことになる。
誰がパスタリアに残り誰がリムに行くのかを部署ごとに決めることになった。本当だったら、僕は残るべきだったのかもしれない。だけど、ヴェラは職務上飛空艇に乗ることが決まっていたから、僕もリムに行くほうに手を挙げた。
異変が起きたのは、市民を飛空艇に搭乗させている最中のことだった。どこから情報が漏れたのかは分からないけど、ほぼエレミア人勢力に制圧されたパスタリア市街に残っていた住民が、自分もリムに脱出させろと押しかけてきたという。
僕が確認しに行った時点で、宮殿の入口にはすでに数百人が詰めかけていて、それが時間とともにどんどん増えてくるようだった。今も鮮明に覚えている、暗い夜に、手に手に明かりを持つ群衆の姿を。ありあわせの材料で作ったと思しき松明を持ってきた人もいて、いつ放火に使われるかと気が気でなかった。
でも、僕たちには何もできなかった。仮に職員を降ろしたところで焼け石に水、全員乗せることは不可能だったから――いや、こんなのただの後付けの言い訳なのは分かってるけど――彼らを見捨てることしかできなかった。
膨れ上がる群衆は口々に大鐘堂や南朝様を罵倒し、長引く戦乱で溜まった恨み辛みを吐き出し、ついに投石をする者や窓を破って侵入しようとする者が現れた。その後どうなったのかは分からない、僕は飛空艇に乗るために戻ったから。もはや一刻の猶予もなかった。
政府空港まで引き返してきたとき、ちょうど最初の一隻が飛び立つところだった。いつ門が破られてもおかしくない状況なので、準備ができたところから出発することになったようだった。
飛空艇に乗り込んだ僕が最初に感じたのは、安堵だった。これで全てが終わる。大鐘堂は敗れ、戦争は終わる。あの怒れる群衆を相手にする必要もない、だって僕の勤め先もなくなるんだから。もうこりごりだ。エナに着いたらヴェラと一緒になって、もう行政の仕事には関わらず、つつましく暮らそう。僕が悪かったわけじゃない。そもそもやりたくて始めた仕事じゃなかった。大鐘堂にも南朝様にも運がなかった。
感情のこもらない言葉だけがどんどん頭の中を巡るうちに、僕の乗った三隻めの飛空艇もパスタリアをゆっくりと離れた。今から思えば、あの時もう事実上大鐘堂は無くなっていたのかもしれない。職員である僕ですら、もう愛想を尽かしていたようなものだったから。後方に遠ざかっていく故郷パスタリアの名残を惜しむこともせず、僕は前の窓から灯火の少ない暗いリムを、そしておそらくヴェラが乗っているだろう先に行く飛空艇から洩れ出るわずかな明かりを、じっと目を凝らして見ていた。
一方で、そこまでの間ずっと、少しも考えが及ぶことはなかった。“エレミア人占領地域”の“住民”に情報が広まっているくらいだから、そこを支配する者にももう知られてしまっている可能性を。
目が眩んだ。リムに向けて順調に降下を続ける途中、突然、前の飛空艇が強い光を発した。何が起きたのかを把握するよりも早く、僕の乗る飛空艇も強い揺れに襲われた。気味の悪い微かな傾きが発生して、前の船が右に曲がったのかこっちが左に曲がったのか分からないけど、三隻の飛空艇は隊列を乱した。申し訳程度の武装による応戦の射撃が始まって、ここでようやく、僕は僕たちの飛空艇以外の何かが周囲を飛んでいることに気がついた。
さらに二発、三発、被弾の轟音と振動が続いて悲鳴が上がる。僕は前にいた飛空艇の行方を探した。それが一隻めか二隻めかは分からなかったけど、赤い火が右方向にどんどん離れていくのが見えて、それが最後だった。
「僕の乗った飛空艇はエナの近くに落ちて、なんとか無事だった。二隻めの船は、鉄板砂漠に――ちょうどベーフェフ対空陣地があったあたりだね、あのへんに落ちて、そのままエレミア人に捕まったらしい」
「……」
「一隻めは行方不明だ。残骸も見つかっていない。ただ、ラクシャクにはあの夜にリムのさらに下のほうに落ちていく飛空艇を目撃した人がいる」
「……そう」
「僕の両親がそれに乗っていたのは確実だ、僕が案内したんだから。ヴェラも担当として乗っていたはずだ」
レギーナは何も言わなかった。僕は喉の渇きを覚え、久々に溢れそうになった感情をお茶で押し流して腹に戻す。
「あとはまあ、レギーナも知ってる通りかな。エナで茫然自失していた僕を見つけて、イリューシャ様のところに連れて行ってくれた」
「うん」
「皮肉なことに、彼女を失って僕はここにいる意味を見つけたんだ」
「意味?」
「目的と言ってもいいかな。最初のうちは、メタ・ファルスではなくエレミア人のためであり、それはエレミア人が反乱をしたときに失われた。二番目も、大鐘堂や御子様のためではなく、ヴェラのためだった」
「あー、そういう意味ね」
「そして今は、パスタリアを取り戻すためにここにいる。イリューシャ様やメタ・ファルスの人々、そしてパスタリアにまだいるはずのヴェラの家族のために」
「オーラフ自身のためでもあるでしょ」
「うん。そうだ、レギーナはパスタリアにどのくらい滞在するの?」
「うーん、決めてないけど。早ければ一日でラクシャクに行っちゃうつもり。もしかして、何かできることがあるんだったら、喜んで手伝うよ」
「……やっぱり、なんでもない。自分でやらなくてはね」
「?」
言いかけた言葉を止める。やはり自分でする必要がある、ヴェラの墓を探すところから。そのためにも、パスタリアを取り戻さなくてはならない。
「これで、僕の話は終わり。聞いてくれてありがとう」
「こっちこそ、話してくれてありがとう」
「……罰が、当たったのかな」
「え? なんの?」
「僕たちだけの幸せのために逃げようとしたから」
彼女は答えなかった。代わりに、
「生きる意味なんて持ってなくても生きてていいんだよ。いつもそんなことを考えていたって疲れるだけだし、世間は理屈で動くものじゃないし、他人にまで意味づけを求めるのはただの傲慢だから」
そうかもね、と答えて今度こそ本当にこの話題は終わった。もういくらか世間話を続けたのち、僕はレギーナの部屋を後にした。
夢を見た。夢の中では今でも父と母がいる。もちろんヴェラもいる。昔の家、実家のほうの家だ。今回はなぜかイリューシャ様もいる、当時御子だった南朝様ではなくて。大きな木製のテーブルの上にはさまざまな料理と酒が並んでいて、彼女を会わせたあの日にどことなく似ている。見ると父はやっぱりできあがっている。ということは案の定、母はアルバムを引っ張り出してきている。あの中に恥ずかしい写真が一枚紛れ込んでいて、それを見られてしまったときの記憶があり、夢の中じゃなくてもときどき思い出しては大声を上げたくなる衝動に駆られる。
ただ、集まっている目的は顔合わせではなく、旅行の相談だった。旅行先の候補に挙がっているのは、エナ、みくりの森、あとどういうわけかネオ・エレミア。母はみくりの森を勧め、イリューシャ様はエナを推す。ヴェラは笑ってどこでもいいよと言い、父は元からこういう時は他の皆に話を委ねるタイプだった。エナにはもう住んでいるから、という筋道の合わない答えを僕がして、目的地はみくりの森に来まった。
僕はみくりの森には行ったことはない。テレモの番組で見たか、もしくはパスタリアから遥か見下ろすかだけだ。エナやラクシャクに匹敵する面積を持つ広い森の内部は、僕の想像でしかない。
スフレ軌道で出発し――つまり、またパスタリアとエナが混同されている――みくりの森の駅に到着する。駅の周囲には絵に描いたような綺麗な森が広がり、いくつか散策コースが整備され、駅前にはパスタリア星の市でも見かけるようなテラス席つきの喫茶店がある。イリューシャ様は喫茶店で待っていると言い、父と母と、それからいつの間にかついてきていたレギーナとそこに残る。僕とヴェラだけが森に入っていく。もちろんヴェラが僕の前を歩く。
落葉を踏む乾いた音がとても心地よくて、僕は足元を意識する。いつしかそれはリズムを刻み、風が葉を揺らすざわめきと混じり合って、単純だけど美しい音楽になっていく。ヴェラが振り返って、仕方ないな、オーラフは子どもなんだから、と微笑む。僕はヴェラにもやってみるよう促すけど、彼女は見ているだけだった。
気が付けばヴェラの姿はない。僕は途端に不安になる。先ほどまでは明るかった森が、鬱蒼とした暗い森に姿を変える。森を出なくては。僕は走り出す。でも足が思うように動かない、一歩進むのに三秒もかかり、普通に歩くより遅い。ついに足が動かなくなり、僕は地面に倒れる。それでも手を使って這いずるように進む。どちらに行けばいいのかも分からず、ただ闇雲に進む。その時、唄が聞こえた。
そうだ、レギーナに言い忘れたことがある。彼女はレーヴァテイルだった。詩魔法は一つも使えなかったしダイブもしたこともない。僕が延命剤をやってあげたこともない。だけどレーヴァテイルらしい。そして、詩魔法は使えないけど、彼女は唄が上手かった。故郷を失ったエレミアの人たちのために、戦争で親を失くした孤児たちのために、そして僕のために、彼女はよく歌ってくれた。どれだけ悲しくても、どれだけ辛くても、彼女の唄う古い歌を聞いているときはそれを忘れられる。僕は思う、これこそが、彼女の本当の魔法だったと。
唄は僕に進むべき方向を与えた。手に力が入り、這う速度が上がり、ついには僕は空を――とはいっても地面に手が届くくらいの高さだけど――飛び始めた。腹ばいの体勢のまま宙を舞い、手で地面を蹴って進む。だんだん周囲が明るくなってきたのを感じる。樹がまばらになって、ついに森を抜けた。僕は手でブレーキを掛けて草の地面に着地して、足が動くようになっていたので立ち上がった。
細いリングでいくつかに区切られた青空に、今となっては見慣れた、横から見る塔の姿。どうやらリムの端まで来たようだ。だんだん明るさに目が順応してくると、ヴェラの姿が見えるようになった。塔をバックに、彼女はこちらを向き、笑っている。
僕はただ嬉しかった。そして、今こそだ、と思った。僕はヴェラのほうへゆっくりと近づいていく、ついに言えなかった言葉を伝えるために。
ここで僕は目を覚ました。ベッドに座ったまま、僕は手で目を拭った。
僕の行く道に、ヴェラはもういない。パスタリアを取り戻し、彼女の家族と再会し、彼女の墓にお参りできたとして、その後はどうなるだろうか? 行く手は未だ見えないまま、今日も僕は歩き続ける。