厳島の戦い

登録日:2012/04/05(木) 09:50:49
更新日:2024/03/13 Wed 18:30:58
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謀り事多きは勝ち、少なきは負ける








厳島の戦い とは、戦国時代に安芸・厳島を舞台に大内氏(陶氏)と毛利氏との間で行われた戦いである。


当時、小大名に過ぎなかった毛利元就が知謀を尽くして中国地方最大の守護大名・大内家に挑むという下克上の典型ともいえる有名な戦い。

河越夜戦、桶狭間の戦いと並んで日本三大奇襲戦の一つにも数えられる。
一ノ谷の合戦?屋島の戦い?
こまけぇこたあ(ry


◎そもそもの発端 〜大寧寺の変


応仁の乱から1世紀近くの時が経ち、世は正に戦国時代。
美濃の蝮・斎藤道三の国盗りや河越夜戦による名家の没落など、下克上の風潮が強くなる一方、
織田信長や木下藤吉郎(豊臣秀吉)ら戦国の主役が現れる戦国時代中期のお話。

中国地方の守護大名・大内氏の当主・大内義隆は出雲の守護代大名・尼子氏との戦い(月山富田城の戦い)で敗走の折に跡継ぎだった大内晴持を亡くし、
そのショックで政治を捨て、芸能文化に傾倒していた。
その影響で当時の大内家では厭戦気運が強く、文治派の家臣が台頭する一方、武断派の家臣は遠ざけられていた。


この状況に危機感を募らせた武断派筆頭の陶隆房は爆発
同じく武断派の杉重矩と謀反を起こし、義隆を葬り去った。

これが大寧寺の変である。



当時の大内家は多くの国人(=地方の小勢力)を傘下に置いており、この報は彼らにも衝撃を与えた。

しかし、安芸の国人・毛利氏の当主である毛利元就は第一次月山富田城の戦いでの損耗に対する大内側の損失補填の少なさも相まって大内氏から独立する動きを見せ始め、むしろこの混乱を利用する事を考えていた…。


◎主要人物
  • 大内義隆
大内家の当主。
戦よりも風雅に生きん」と、後のファンタジスタ氏真みたいな事を言い出したせいで謀反を起こされてしまう。
なお、実際には宿敵だった少弐氏を滅ぼし、大友宗麟と和を結ぶなど、結構やり手だったようである。
また、両刀使いで美男子を好み、ウホッ的な意味でもヤリ手だったそうな。*1
「気にするな!隆房とて必死だ、そのくらいはやるだろう」

信長の野望では大した能力を持たないが、初期のシナリオでは大内家が領土を多く所有している為、物量差で西国のラスボスになりやすい。
ただし『創造』では史実を反映して途中から勢力拡大しなくなる。

  • 陶隆房
大内家の重臣。名字は「スエ」と読む。
元々は義隆の小姓アッー
文治派の重臣を暗殺しようと企んだが、逆に義隆にバレて大目玉を食らうなど、どことなくおっちょこちょいな面がある。
また、義隆が堕落する元凶となった尼子攻めを主導した人物でもある。
ちなみに大寧寺の変のだいぶ前から「武断派を軽視してるとヒドい目にあうよ?ほんとだよ?」と言っていたが、
「ダチョウ倶楽部か何か?(無知)」と相手にされなかった。
「仏の顔を三度までという名セリフを知らないのかよ」
意外にも末端の兵士には優しかったらしい。

第五十二代毛利家当主。
ご先祖様は文官として鎌倉幕府成立に貢献した政所初代別当の大江広元。
後に西国最大の大名家として名を馳せる毛利家も今はまだ安芸の国の一勢力に過ぎない。
元は尼子氏傘下だったが、家督相続で謀聖・尼子経久と一悶着起こし、大内氏傘下に鞍替えした。
しかし月山富田城攻略計画が大内による国人の掌握の稚拙さで頓挫し自身も死にかけたにもかかわらずその後の補填が滞っていたため、大寧寺の変では安芸の国人の支配権を条件に陶側についた。
また、本人も家臣に城を乗っ取られて乞食になったりした苦労人である。
「この中国地方でドデカい事をやって、満足しようぜ?」


◎陶政権と毛利の対立

大寧寺の変で大内家の主導権を握った隆房は名前を陶晴賢に改名し、大友家から大内義長を呼び寄せて傀儡の当主に据え、
元々対立する事の多かった謀反の同志・杉重矩を始末して大内家を完全に掌握。
いわば陶政権を樹立した。


が、元々武断派上がりの晴賢は政治に暗く、困ったらとりあえず暗殺してばかりだったため、家臣や国人達は陶体制の大内氏に失望し出していた。
とくに同じく大内氏家臣であった吉見氏は陶氏と元から険悪だったため、吉見正頼は陶側の不忠を非難しながら挙兵する。

その中の一人で安芸の大物となっていた毛利元就は陶晴賢と距離を取っていたが、晴賢が吉見正頼を攻略するためと毛利家と他国人の関係を寸断するために元就の許可を得ずに密かに安芸の国人たちに出陣を催促する書状を2月下旬より送っていた。
が、大内に忍従するために送られていた養子を粛正するのに毛利が協力してくれたことに恩義を感じていた平賀広相が密使の僧を捕らえて毛利に突き出したため、晴賢の裏工作が露見。本格的に毛利氏は陶氏との全面対決に舵とることになった。

晴賢が陶政権から離反した吉見氏の討伐に乗り出した隙を突き、陶方の城を攻略。
安芸国を全て影響下に置いた元就。


こうして陶晴賢毛利元就は完全に袂を分かつ事となった。

◎主要人物2
  • 陶晴賢
大内家の重臣にして、実質的支配者。
武勇に長ける反面、知略には疎いようで、国盗り後の家臣調略が上手く行かず、元就につけ込まれる結果に。

  • 吉見正頼
応仁の乱以来から陶氏とは犬猿の仲だった吉見氏の当主。
大寧寺の変の陶晴賢の不忠を非難し、石見国三本松城で挙兵し粘り強く戦う。
結局兵糧が尽きて降伏するが、その間に毛利側は陶側を迎撃する準備を着々と整えていった。

  • 毛利元就
安芸一国に勢力を広げた小大名。
無論、陶政権が安芸を取り戻しにくるので、本番はこれからである。

建前としては主君(大内義隆)の仇討ちで挙兵した事になっているが、元就は大寧寺の変では陶方についていた。
そのため裏切りを受けた陶晴賢も自分のことは棚に上げ大層頭に来たらしく、元就を指し 「猛悪無道」 という言葉を残している。
なお元就から晴賢への言葉は 「弑逆の悪なので天誅」 とのこと。似た者同士である。
ただし、義隆は討つがその長男を跡継ぎに据える条件で陶方についたのに当の陶が降伏した長男ぶち殺して傀儡呼び寄せるとかやらかしたからキレた説もある。こっちもやはりどっちもどっち。

  • 毛利隆元
毛利元就の優秀だが卑屈な嫡男。実は今回の戦の発端。
元々元就は上述の通りそもそも陶方であるし、勢力差から戦には慎重だったが普段は大人しく温厚篤実な隆元が徹底抗戦を主張。元就もこれに納得し戦が始まった。
隆元は幼い頃、大内義隆の下に人質として送られたが、大内の下で優雅な暮らしを送り、当時としては最先端の文化や教養を身につけ、更に義隆から「隆」の字をいただくなどなかなかいい扱いを受けていたので晴賢が許せなかったのかも知れない。

  • 尼子晴久
毛利元就のライバルにして大内義隆をニートにした元凶。
今回の出来事は大内・毛利のどちらかを叩く絶好のチャンスだがこの頃は備後や備中の小勢力と戦ったり、中央政権を目指す一環で反骨的な一門衆「新宮党」を粛清していたりで今回は見送り。


◎元就の知略戦

VS陶政権の情勢が決まった元就は早速策略を張り巡らせる。
何せ、相手は中国地方最大の大名家・大内家の勢力をそのまま保有しているのに対し、元就はあくまで安芸の一勢力。
まともに戦っても勝ち目など無いのだ。


元就は手始めに厳島に宮尾城を築城し、安芸国の制海権を手に入れた。

が、


家臣「ここに城なんか建てたりして、もし陶方に奪われたら毛利は終わりですよ!?」
元就「あ、ほんとだ。てへぺろ
(・ω<)


それを間諜から聞いた晴賢はニヤリ

そして、


その様子を聞いた元就もニヤリ


そう、宮尾城築城の真意は制海権の奪取ではなく、陶軍をおびき寄せる為の餌であった。

確かに宮尾城は毛利の急所なのだが、陶勢の大軍と野戦で戦う事もまた、寡兵の毛利にとっては不利極まりないのである。


そんなことは夢にも思わない晴賢は毛利家臣・桂元澄の偽りの内応もあり、宮尾城攻めを決行。
かくして、厳島の戦いの戦端が開かれた。


◎厳島の戦い

晴賢は二万の大軍を率いて厳島に上陸。
宮尾城攻めを開始する。
なお、元就はこの間に村上水軍を調略。

陶軍の猛攻に落城寸前な宮尾城だが、守将・坪井元政らがこれを死守。

すると、天の恵みか暴風雨が厳島を襲う。
これを好機と見た元就は夜間に息子の隆元・元春と3000の兵を率いて暴風雨に紛れ厳島西岸に上陸。

三男の隆景は1000人の別働隊を率いて東岸に布陣。

夜明けと共に陶軍を左右から挟撃した。


驚いたのは陶軍である。
毛利方の朝駆けにより、陶軍は大混乱。
おまけに厳島は手狭な土地で、大軍の利を生かしづらい地形だった。
(だからこそ元就はこの地を決戦の場に選んだ)

陶軍は大軍であるが故、一旦崩れだしたらもう統率がきかない。

我先にと船に群がり厳島からの脱出を図るが、そこには毛利・村上水軍が待ち構えていた。

陶軍の多くが溺死。
大将・陶晴賢に至っては本土へ逃亡をはかるが、すでに全ての船が無くなっていて、「なん…だと……?」して自刃した。

この戦いで大内家の勢力をごっそり削った元就は大内家の傀儡当主・義長を謀略で葬り
めでたく(?)中国地方の大半を手中に収めたのでした。

◎登場人物3
  • 陶晴賢
二万を率いてたのに負けた人。
前述の事以外にも「宮尾城攻めは野戦を避けたい毛利の思惑」という配下の助言を無視したり、元就の謀略にまんまと引っかかって配下の勇将を処刑したりと、
終始元就の掌で踊らされていた。
全ては自分が招いた結末であると悟ったのは、己が死ぬ間際だった。
いいところ無しの彼であるが最後は自らの愚かさを認め、潔く散っていった。

何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に


  • 毛利元就
見事優秀な息子達と奇襲を成功させた謀神
これ以降領土拡大に乗り出すのだが、国人盟主という立場上、他の国人の顔色を伺わなければならず、手間のかかる嫡男と孫の存在もあり、
想像以上に苦労していたらしい。

  • 村上水軍の皆さん
元就の頼みに応えて力を貸し、陶晴賢を倒すのに貢献した方々……
と言われているが、能島・来島・因島の村上水軍三氏から本当は誰が参戦したのかよく分かっていない。
有名な逸話は能島村上氏の村上武吉が「一日だけ船を貸してくれと頼まれそれに答えた」というもの。
これが史実通りかはさておき、資料で確認できるのは三氏のうち「来島村上氏の加勢に感謝する元就の書状」のみである。
そのため来たのは来島だけだよ派の研究から、能島や因島は既に毛利と仲が良かったから*2、来島だけ特別に感謝状があるんだよ派まで意見が割れているのが現状である。

  • 吉見正頼
正頼が時間稼ぎしてくれたことに元就は恩義を感じていたのか、人質として陶氏に囚われていた息子の広頼の奪還に協力してもらえた。
そのため、のちの防長経略では積極的に毛利の援護をし、それが認められて毛利の家臣となった。

なお、厳島の戦いが明記されているのは江戸時代の書物だけであり、実際にあったかどうかは相当疑わしいとか。
もっとも、その後の毛利の発展をみるに、厳島合戦と同規模の戦いがあったのは事実だとされている。


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最終更新:2024年03月13日 18:30

*1 と言うよりもこの時代では珍しいを通り越して前代未聞に近い、「子供出来ない理由? あっちが抱かねえからだよふざけんな!」と妻の方から夜の営みが無い事を理由に離縁を喰らうとかやらかしている

*2 事実因島は既に、小早川家の影響下にあった。