徳川光圀(史実)

登録日:2016/03/15 Tue 18:39:12
更新日:2020/08/17 Mon 21:25:39
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 江戸時代に生きた人々の中で、特に知名度の高い人物と言えばやはり水戸黄門こと徳川光圀だろう。
 お供を連れて諸国を巡り、悪を懲らしめるご老公の姿はすっかりお馴染みかもしれない。

 しかし、史実の徳川光圀も負けてはいない。
 彼が打ち出した、正しい歴史を纏める大事業『大日本史』編纂は、やがて日本と言う国そのものを世直しする原動力に繋がっていったのである。

 この項目では、楽あれば苦あり、涙と笑顔あり、徳川光圀が辿った波乱万丈の生涯を、彼に関係した人物と共に紹介していく。

【目次】


【生涯】

◇誕生

 徳川光圀の生涯は、1628年(寛永5年)に生まれる前から波乱に満ちていた。
 水戸藩の初代藩主である父・徳川頼房の側室であった母・久子がお腹に子を宿した際、頼房はその子を堕胎して殺してしまえ、と命令したのである。
 しかしそれを哀れに思った水戸藩の家臣・三木之次とその妻が久子を匿い、誕生後はしばらく三木夫妻の孫として育てられた。

 ただ、光圀本人の回想によれば、母は身分が低いのに頼房から愛され子供を宿した為、その結果久子の母や正式な側室が憤慨し、
 やむなく堕胎の命令を出す事になってしまったのが真相らしい。
 なお、同じく久子を母に持つ光圀の兄・松平頼重も同じような事情でしばらく江戸の屋敷で秘密裏に育てられている。

 幼少期の名(幼名)を長丸(ちょうまる)と言った光圀だが、その人生にはもう1つの波乱が待っていた。

 江戸時代当時、農民の土地や武士の世継ぎは「長男」が行う事が常識であった。特に将軍家や各地の藩主の場合、長男は「嫡男」と呼ばれ、父の後を継ぐこととなっていた。
 八代将軍・徳川吉宗が末っ子にも関わらず紀州藩の藩主となったのも、2人の兄(と兄の子供)が相次いで亡くなってしまった事が理由である。
 しかし、頼房の長男であった頼重(幼名:竹丸/八十郎)は母である久子が幕府から正式に側室として任命される前に生まれた子供であった事もあり、
 後継ぎとするのは非常に難しかった。
 そのため、頼房はかつての悪友である三代将軍・徳川家光と相談の上、長丸を水戸藩を継ぐ存在=世子として育てる事になったのである。

 6歳になった長丸は江戸城に入り、城内にある水戸藩の屋敷で世子としての英才教育を受ける事となった。

 この頃には長丸の存在はしっかり父に認められ、武芸に長けた優秀な武将になるべく教育を受けている。
 かなり凄まじい中身であり、罪人の生首を夜中に持ってくるように言われたり、飢え死にした死体でいっぱいの川を泳ぐよう命令されたり、
 年長の幼い身として緊張の連続だったらしい。
 しかしどれも全て達成している辺り、流石黄門様である。

 そして9歳になった時、仮元服(現在で言う「半成人式」)を行った際、
 将軍家光から自らの名の「光」と中国の古文にちなんだ「国」から、「光国」と言う名を与えられた。
 ここに、後の水戸藩二代目当主・徳川光国が誕生したのである。

 なお、お馴染みの「光『圀』」と言う表記に自らの名を改めたのは50代になってからなのだが、
 この項目では分かりやすいようにその後も「徳川光圀」と表記していく。ご了承下さい。
 ちなみにこの「圀」の字は、中国唯一の女帝である武周の武則天(則天武后)が制定した「則天文字」の一つ。
 17字ほど存在するが、本国の中国でもとっくに使われておらず、日本でも光圀やそれに因んだ寺院・本圀寺に使われている程度。

◇成長

 こうして後継ぎとして特別な扱いを受けるようになった光圀であったが、立場とは裏腹に彼はグレていった。
 グレた理由として本来藩を受け継ぐべき長男を差し置いて水戸藩の後継者となった事にかなり引け目を感じていたようでその事でストレスが溜まっていたらしい。
 この事は次の水戸藩の藩主を自分の息子では無く長兄の息子へと譲った事からも見て取れる。

 ド派手な格好で町をうろつくかぶき者(今で言う「不良」)になってしまい。夜な夜な江戸の町にやって来ては梅の鉢を盗んだり相撲でボロ負けしたり、女遊びをしまくっていたのだ。
 挙句の果てに低い身分であった人を斬り殺すにまで至った。
 あまりの事態に、指導役から厳しい直訴状が届けられ、「こんな事ばかりやっていては藩の皆が悲しく思う」と諌められるにまで至っている。
 また藩内の若い武士たちにもかなり反感を買っていたらしい。

 そんな彼に転機が訪れたのは18歳。中国の歴史家・司馬遷が記した中国の歴史書『史記』との出会いであった。

 「先んずれば人を制す」「臥薪嘗胆」「四面楚歌」「酒池肉林」「雌雄を決す」「傍若無人」「百発百中」など、現在でも当たり前のように使われている故事成語を多数残したことに加え、
 様々な思想や宗教観をまとめ中立的な立場から中国の長い歴史を纏めたこの書物は古くから日本でも読まれており、祖父の家康公も好んでいたとされている。

 そこに書かれていた文章を読むうち、光圀は次第に感銘を覚え、それまでの自らの行いを深く反省。
 そして学問に目覚め、儒学や和歌など様々な文学や思想を学び始めた。
 その後もこの『史記』は、光圀の人生に大きく関わる事となる。

◇明暦の大火

 承応元年(1652年)、侍女であった玉井弥智との間に男子が生まれる。
 光圀の血を引くただ1人の子供であったが、後述の理由で光圀の息子として扱われる事は無かった。
 正式に結婚したのはそれから3年後、承応3年(1657年)の事であった。お相手は先の関白の娘・泰姫(後の尋子)である。

 一方で、東照大権現こと祖父の徳川家康時代から長らくブレーンとして活躍していた儒学者・林羅山とも師として交友関係を持っていたと言う。

 こうして順風満帆だった光圀の人生に再び大きな転機が訪れた。日本の歴史上にも残る大火事、明暦の大火である。

 江戸に住む庶民の家のみならず、江戸城の天守閣をも焼き尽くしたこの火事の被害は当然各地の大名屋敷にも及び、水戸藩の屋敷も大きな被害を受けた。
 それに加えて、この火災により多くの貴重な書物や記録が炎に消えてしまった。
 粗末な仮住まいの生活を余儀なくされ、環境も激変した事が災いし、体調を崩した尋子は21歳の若さで死去。
 さらに火災により貴重な資料を一挙に失った衝撃で林羅山も体調を崩し、亡くなってしまった。

 この出来事を機に、光圀は日本の歴史を纏める『大日本史』の編纂作業に着手する事となった。

 そして寛文元年(1661年)、水戸藩初代藩主の父・徳川頼房が死去。
 同年8月、光圀は幕府からの命を受け、水戸藩の二代目藩主となった。

◇藩主・徳川光圀

 こうして藩主となった光圀は、早速様々な政策を行い始めた。

①水道の整備
 水戸の城下町は元々湿地だったところを埋め立ててニュータウンとして開発した場所であったが、そのため水質が悪く、住民は新鮮な水の確保に困っていた。
 そこで、光圀早急の課題として町奉行・望月に綺麗な水を城下町に届ける水道を作るよう命じた。望月は藩の農村行政を担当している平賀保秀らと共に開発に着手。
 全長10kmの人工水道「笠原水道」が建設された。
 その後、明治時代に近代的な水道が整備されるまで大いに活かされる事となる。

②寺社改革
 後述の通り、とにかく財政に苦しい水戸藩の改革の一環として、領地の中にある寺や神社の整理を断行。
 各地に点在していた由緒不明で不真面目な寺や神社を次々に廃止させる一方、由緒正しい寺や神社は保護し、支援を行う事とした。
 また、村単位に「開基帳」を作成させたり寺社奉行を設置したりして、寺や神社の管理を行いやすくしている。
 この政策はご隠居となった後も続き、「神仏分離」を徹底させている。

 なお、藩主となった当時の光圀はどちらかと言うと神教寄りで仏教を嫌う一面があったものの、歳を経るにつれ次第に仏教に関心を示すようになっていった。

③朱舜水を招く
 寛文5年(1665年)、光圀は大陸から日本に亡命していた亡き王朝・明の遺臣である朱舜水を水戸藩に招いた。
 実理を重んじた実学派の思想を持つ彼を主体とした「学校」を水戸藩内に設置する、と言う目的があったようだが、水戸藩の財政難のためか結局実現しなかった。
 だが舜水はその後も光圀たちのブレーンとして活躍。天和2年(1682年)に亡くなった後も水戸徳川家代々の墓地に葬られるなど破格の扱いを受けた。

 ちなみに舜水曰く、光圀は当時の視点からすればかなりイケメンだったらしい。

④蝦夷地探検
 松前を除いて当時まだ未知の世界であった蝦夷との交易を考えた光圀は、巨大船「快風丸」を建造させ、蝦夷地への探検を行わせた。
 2度目までは様々な事情があり松前までしか進めなかったが3度目はそれより北、現在の石狩に到着。アイヌの人々と物資を交換し合い、船を下りての実地調査も行っている。

 だがそれ以降は進まず、快風丸も光圀死去から3年後に解体されている。

⑤節制
 徳川御三家と言う高い身分の者が収める場所であった水戸藩であったがそれ故に出費が嵩み、さらに農耕に向いた土地が少ないと言う事情から、水戸藩は万年財政危機であった。
 そのしわ寄せは当然農民にもおよび、他の藩よりも高い年貢率に苦しめられていた。
 そのため、光圀も貧困層への支援や農民への税率軽減など様々な策を講じ、自身も食事を少なめにしたり粗末な衣装を着たり率先して節制に務めていた。

 ただ、後述の『大日本史』編纂事業なども重なり、結局光圀の藩主時代にはこの状況は改善されず、その後も幕末まで水戸藩の上層部は財政難に苦しみ、領民たちも高い年貢に苦しむ事となる。
 本人もその事は苦悩しており、隠居時の挨拶では家臣にこの事態を詫びている。

※鎌倉漫遊(?)の旅
 水戸藩は他の藩と異なり、藩主は水戸ではなく小石川の屋敷に住み、必要に応じて許可を得て水戸に向かうと言う体制であった。
「副将軍」と言う異名もこれが由来である。
 光圀も何度か水戸に戻っているが、5度目にやって来た際は普段とは異なり、鎌倉を巡る遠回りのルートを通り江戸へと戻っている。
 様々な天災を受けた水戸藩の実情をつぶさに見ると共に、鎌倉の由緒正しい物件をじっくりと味わうのも目的だったとされている。
 現在発見されている資料の限り、これが光圀が自らの意志で行った唯一の「旅」であるとされている。

 ちなみにこの2週間の旅は超綿密に計画を立てられており、わずか4日の間に100ヶ所以上の場所を巡り『新編鎌倉志』に記録されている。
 特に4日目は強行軍で1日で62か所も回ったと記されている。
 当然光圀本人だけでなくお付きの藩士たちが行った場所も含まれているだろうが、光圀本人も当時危険と言われていた竜穴などの探索を行っており各地に足を運んでいる。

 実はこの当時の鎌倉は鎌倉幕府滅亡以降寂れて廃墟寸前であり、旧征夷大将軍である源頼朝の邸宅跡地は光圀が来訪した当時は既に田んぼになってたり、
 あの鎌倉大仏も所持者不在でボロボロの状態だったらしい。
 この調査の後、新編鎌倉志の内容はガイドブックに引用され鎌倉の町は各地の町人の人気観光地として甦り現在へと続いている。

 また旅ではなく藩主としての行動かもしれないが、記録として金沢・日光・房総・熱海・勿来へ行った事も残っている。
 ただ藩主がそもそも余所の土地へ向かう事が余りにも異例であり、旅と言われたほうがまだ納得が行くかもしれない。
 金沢には光圀の1歳年上の姉が嫁いでいる為、その関係で向かったのかもしれないが。
 なお日光参詣は父頼房のお付きで行った事が記されている。

◇『大日本史』編纂

 光圀が行った最大規模の事業は、何といっても『大日本史』だろう。
 神武天皇から始まり、動乱を経て南北朝が統一されるまでの歴史を纏めた一大データベースである。
 それまでも日本の歴史を纏めた書物は多数存在したが、その多くは歴史を年表で書いた「編年体」が常識であった。
 同じ頃に幕府の命を受けて、師父・林羅山たちが編纂していた歴史書『本朝通鑑』もそのタイプである。
 しかし、この『大日本史』は、この アニヲタwiki(仮) のように、
 様々な歴史上の王朝や人物などのコンテンツをそれぞれ細かく記している「紀伝体」になっているのが特徴である。
 実はこれ、光圀が影響した『史記』も同じタイプである。
大日本史は、いわば『日本版史記』のようなものなのかもしれない。もしくは格式が高い アニヲタwiki(仮)

 藩主となる前から始まったこの事業だが、光圀が水戸藩二代目藩主となって以降編纂事業が本格化。
 専用の史局彰考館(しょうこうかん)を設け、総裁の下で多くの史館員が日本全国に赴き、正しい歴史を集めるために奔走した。

 その中でも代表的なメンバーと言えばこの2人だろう。

佐々 宗淳(さっさ むねきよ) 1640-1698
 京都出身。彰考館三代目総裁。通称介三郎(すけさぶろう)
 佐々成政の姉の曾孫に当たる。
元は京都にある妙心寺の僧侶であったが、次第に仏教の教えに疑問を持つようになり、僧侶の肩書きを捨て水戸藩の一員となった。
その後は光圀の腹心として日本各地を巡り、各地に名を残す事となった。
 「佐々木助三郎(助さん)」のモデル。

安積 澹泊(あさか たんぱく) 1656-1737
 彰考館六代目総裁。通称覚兵衛(かくべえ)
 水戸出身で、父により朱舜水の生徒となり、一目置かれる優秀さを発揮。その後彰考館の一員となって江戸に赴き、編集作業で活躍した。
光圀が亡くなった後も83歳まで生き続け、徳川家康の生涯を纏めた『烈祖成績』など数々の書籍を手掛けている。
 彼が亡くなった後、『大日本史』編纂事業は一時停滞してしまう。
 「渥美格之進(格さん)」のモデルだが、宗淳とは16歳も年齢が離れている。

 ただ、あまりの大事業であったために江戸時代どころか20世紀まで編纂作業は続き、最終的に完成したのは明治39年(1906年)となった。
 また予算不足で幕府から借金する事態も起き、上記の財政難の一端となってしまっている。

 一方、朱舜水からのアドバイスもあり、ここで纏められた歴史の中では後醍醐天皇が築いた「南朝」が正当な天皇家の血筋であり、
 室町幕府初代将軍・足利尊氏側の「北朝」は逆賊とされている。
 これを含めた『大日本史』は元々徳川家による支配を正当化する目的もあったのだが、様々な経緯の後「天皇第一! 外国排除!」をモットーにする「尊皇攘夷」と言う考えに繋がり、
 幕末の日本を揺るがす「世直し」へと発展していく事となる。

 ちなみに光圀が『大日本史』編纂を考えたきっかけには上記の明暦の大火を受けた使命感の他、『本朝通鑑』への対抗意識もあった事が語られている。
 そしてもう1つ、「何かでっかい事やって名を後世に残したい!」と言う名誉欲たっぷりの思いもあったらしい。
 また、光圀が生きていた時代は正式な名前は特に無く、彼の後を継いだ三代目藩主・徳川綱條の時代に『大日本史』と言う名前が定められている。

※余談だが、光圀がライバル視した『本朝通鑑』は中国の名著・『資治通鑑』がモデル。
 資治通鑑は「編年体の史書」としては最大級の知名度を誇り、「紀伝体の史書」の最高峰の位置する史記と併称される。
 ひょっとしたら「日本版資治通鑑があるのに、なんで日本版史記がないんだ!」という思いもあったのかもしれない。

◇ご隠居・徳川光圀

 元禄3年(1690年)、幕府の許可を得て隠居。江戸を離れ、水戸藩に作られた質素な隠居用の屋敷・西山荘で余生を過ごす事となった。
 また同年、「権中納言」の位を授かっている。
 『水戸黄門』に登場する先の副将軍・水戸光圀公はこれ以降の光圀がモデルとなっている。
 また「黄門」と言う名前もこの「中納言」と言う位を中国における同等の位に例えた言葉である。

 隠居の身になった後も『大日本史』編纂事業や寺社改革を進め続けるなど活躍。
 また、飛鳥時代に作られた古碑那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)が発見された際、その周辺の発掘調査を行うよう命を下し、
 その後後世により詳細な研究が行えるよう出土品を頑丈な箱に入れ埋め戻しを行っている。
 これが日本で初めて行われた遺跡の発掘調査とされている。

 隠居後は水戸藩内の農村を漫遊しており、農民と一緒に食事したりその地の家に逗留したりしている。
 正月をそこで過ごしたり食事に使う葵の紋の入った食器を複数置いて帰ったりとかなり自由人を満喫していた模様。
 この時代に葵の紋入りの物を農家に置いて帰るとかさすがは黄門様、凄まじくフリーダムである…。
 なおこの食器は日立市の博物館で今も展示されている。

 更に農民に対し120にも及ぶ症例に対し見慣れた薬草による対処法の本を作り配布している。
 若い頃から動植物の知識を蓄えていた光圀ならではのアイデアである。


 一方、綱吉の命により江戸を訪れた際、後述の刺殺事件を引き起こしている。


 元禄12年(1699年)の頃から次第に体調を崩し始め、寝込むようになっていった。
 そして翌年、元禄13年(1700年)12月6日、食道癌のため死去。享年70歳であった。

 光圀が死んで間もなく江戸の住人たちの間で

 『天が下 二つの宝 尽き果てぬ
            佐渡の金山 水戸の黄門』  

 という狂歌が広まりその死を嘆き悲しんだと言われる。

 そして平成の世となった今、佐渡の金山は残念ながら枯れてしまったが、徳川光圀の名は今も水戸の黄門様として語り継がれ尽きる事無く生き続けている。


【性格】

 若い頃は様々な要因でかなり荒れていた光圀だが、学問に目覚めた後は自他共に「仁義礼節」を重んじる真面目な一面が強く出ている。

 「人間には長所もあれば短所もある。完璧を求めすぎれば周りから誰もいなくなる」と言う本人の言葉通り、
 少しの過ちなら快く許して名誉挽回の機会を与え、礼儀を重んじる人は身分が低くても高く賞賛していた。
 藩の中を見回った際、親孝行や善行に励む者を見つけると功績をたたえて褒美を与えていたと言う。
 また、関ヶ原の合戦で敗北した武将・石田三成についても「義を重んじた名武将」と高く評価している。
 真田信繁に関しても武士たるもの斯く在るべしと言ったらしい。

 しかし規律を守らない者、仁義礼節を軽んじる者に対しては非常に厳しく、上級の家臣でもあっても死刑や御家断絶を辞さない態度で臨んでいた。
 その態度は幕府に対しても同様であり、自らの家臣が江戸城内で殺人事件を起こし、その場で刺殺された際にも
 「悪事を働いたのは確かだが、理由も聞かずにぶっ殺すとは不届き千万!」とブチ切れたと言う。


 一方、かぶき者であった頃のハチャメチャな気質はその後も健在であり、様々な逸話が残されている。

  • 動物保護を推し出した「生類憐みの令」を無視し、平気で肉を食いまくった。
    ただし当時の庶民も案外無視しまくっていたらしい。
  • ラーメン、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆を日本で初めて食べたのは徳川光圀と言われている。
    またワインも大好きだったという。
    なお、ラーメンの作り方を伝授したのはあの朱舜水である。
  • 各地から珍しい動植物を大量に輸入し持ち込んでいた。
  • ヨーロッパから奴隷として持ち込まれた黒人2人を蝦夷地探索の為に雇い、そのまま家臣とした。
  • 藩主になっても相変わらず女遊びをしまくっていたスケベ
    「男同士は一方しか快楽を味わえないが、男女ならどっちもギシギシアンアン喜べる。だから政治は『女色』風がいいよね♪」とは本人の言。女同士はどうなのかは不明。
    ただ、尋子が亡くなった後光圀は正室=妻を娶る事は一切無かったという。

 なお、生類憐みの令を出した五代将軍・徳川綱吉に犬の皮詰め合わせギフトを送りつけたと言う話も有名だが、創作と言う見方が強い。
 ただ生類憐みの令自体にはかなり不快感を覚えており、「なんで罪人は処罰を受けるのに害獣は殺されねーんだよ!!」「狩りぐらいいいじゃねーか!!」と度々愚痴っていた。

 またこの時代の武家としては異例とも言えるほど身分差に対する意識は低い。
 特に武家の頂点である徳川の御三家の当主としては異常なレベルと言える。
 大日本史編纂の際には各地の史家を集める為に相手の身分を問わず自ら文を認め懇切丁寧に願い出たり、小石川に庭園(小石川後楽園)を造営した後は町民にも開放しそこでの食事も認めている。
 ちなみに後楽園の名前の由来は「他の人の『後』に自分も『楽』しむ」という意味である。
 隠居後は水戸藩内の農村を回り、各地の農民と寝食を共にし正月もそこで過ごしたと記録が残っている。(これは泊まる場所を提供した家の記録がそのままその家に現代まで伝わっていた物との事)

 若い頃に傾奇者をやってた為か町民への意識がより近い場所にあったのかもしれない。


 こう言った破天荒さとその奥にある真面目さを併せ持った性格も、その後人々から「名君」と称されるようになった理由の1つかもしれない。
 そして、これらの性格のある意味真骨頂とも呼ばれるのが、次に述べる事件である。

【藤井紋太夫刺殺事件】

 晩年の光圀公に関して特に有名なのは、水戸藩の重役である「大老職」に就いていた藤井徳昭(通称:藤井紋太夫)との一件である。
 少年時代から光圀に仕え、彼から重宝されていた紋太夫は出世を重ね、光圀が隠居した後も三代目藩主・徳川綱篠の元で活躍を続けていた。

 だが元禄7年(1694年)11月23日、事件が起きた。
 その日、水戸藩の屋敷では幕府や各地の藩の重役を招いて能が披露されており、光圀も自ら役者として登場した。
 そして無事芝居が終わった後、光圀は自ら楽屋に紋太夫を呼び――。


 ――言葉を交わした後、彼をその場で殺したのである。


 紋太夫が傲慢になり藩政にまで影響するようになっていた、光圀失脚を狙っていた、などその理由は様々語られているが、未だその真実は不明である。

 テレビドラマ『水戸黄門』第一部で黄門様が最初に解決し、自ら斬る事になった相手がこの藤井紋太夫である。
 また小説『光圀伝』でも、この一件が物語を貫く重要な出来事となっている。


【主な登場作品】

○『水戸黄門漫遊紀』、映画・テレビドラマ『水戸黄門』、アニメ『まんが水戸黄門』など
 徳川光圀と言えばやっぱりこの作品群だろう。
 登場人物と名前が実際と異なるのは、江戸時代の頃は上位の人物の名前をそのまま用いるのはタブーであった為。
 江戸時代後期に製作された『水戸黄門漫遊紀』を元に古くから多数の作品が製作されており、世直しの旅に赴く黄門様ご一行はすっかりお馴染みである。

 詳細はこちらも参照。

○NHK大河ドラマ『葵徳川三代』
 2000年に放送されたNHK大河ドラマの語り部役として、「大日本史」編纂が始まった頃の徳川光圀とお供の2人(佐々介三郎、安積覚兵衛)が登場。
 光圀は二代目中村梅雀が演じた。

 非常に重厚なドラマ本編とは裏腹に、それらを視聴者に伝える役割である光圀ご一行はやりたい放題。

  • 「フェイント作戦」「逆転ホームラン」など横文字単語を当たり前に使う
  • お供役がなぜか女性キャストで、安積役は『うる星やつら』のサクラ先生の中の人
  • 過去の時代である本編に平気で乱入したり、過去の時代の人物と普通に会話して死後の事を伝えようとする
  • 赤ん坊の頃の父や自分自身をあやす
  • かぶき者だった若い頃の父上をボコボコにして狼狽する(詳細は後述)
  • 突然現れた現在のマスコミから取材を受ける
  • 最終回には放送時間に絡むメタ発言まで言ってのける

 ……等、史実以上のハチャメチャぶりであった。
 勿論『水戸黄門』のパロディも披露されている。

 一方で短気な面もしっかり出ており、覚兵衛と口論になった際は刀を取り、危うく斬りかけた場面もある。 

「わしは水戸黄門が見たい!そろそろわしが出る頃じゃ!」

○小説『光圀伝』
 『水戸黄門』で有名となった光圀像ではなく、史実の光圀を突き詰めた小説作品。
 若い頃の光圀の苦悩や成長が大きな要素となっており、意外な歴史上の有名人も彼に関わっている。

【関連人物】

○父・徳川頼房
 幼い息子に生首を持ってこさせたり死体だらけの川を泳がせたりと言うとんでもない父・徳川頼房であったが、
 実は彼も若い頃はかぶき者=不良であり、悪友である甥っ子徳川家光と一緒に夜な夜な町に出ては女遊びをしたり酒を飲みまくったりやりたい放題であった。つまり暴れん坊将軍&副将軍
 幼少の頃にも父・家康公に「天下が欲しい!」と堂々と告げて愕然とさせたり、藩主になった後も相変わらずだらしない格好や風貌が好きだったりとハチャメチャだった事が伝えられている。
 水戸藩の藩主が普段江戸に住む事になり「副将軍」と言う通称が生まれた理由も、上記の発言を受けて家康公に警戒されたからと言う説がある。

 子が子なら親も親である。

 なお、大河ドラマ『葵徳川三代』でも頼房が家光とつるんでかぶき者になっていた頃が描かれており、
 何故か未来にある息子・光圀の屋敷に仮面を被って忍び込み、彼の一撃を受けて気絶させられていた。
 その後2人の顔を見た光圀は大慌てする羽目になったとさ。

○兄・松平頼重
 ハチャメチャな父や弟とは対照的に、兄である松平頼重は非常に礼儀正しく、家来からの評判も良かった。『光圀伝』では、そんな優しい兄を抑えて自分が水戸藩を継ぐことになった事への自責の念が光圀を荒れさせた要因とされている。
 光圀が水戸藩を継いだ一方、彼は下館藩(現在の茨城県筑西市)の藩主となったが、数年後に訳あって江戸幕府の直轄となった讃岐高松藩を収める事となった。

 立場は違えど光圀は生涯兄を慕い、彼の子供を養子として貰い受けている。光圀から水戸藩を継いだ3代目藩主・徳川綱條もその1人である。
 一方逆に光圀も兄に自らの長男・松平頼常を養子として送っており、後に2代目讃岐高松藩藩主となった。が彼もまた頼重の孫を養子とし、以後の水戸藩は頼重の曾孫系統で維新まで行くため、残念なことに光圀直系は現代に残っていない。
 ちなみに彼の末裔の中から幕末に「最後の将軍」徳川慶喜や「高須松平家」出身者(会津藩主松平容保や尾張家主徳川義勝など)、現代においては徳川宗家当主徳川恒孝氏(容保の曾孫)が現れている。
 ただ、光圀は兄を慕う心があまりに強すぎるが故に、長男が生まれた際には「兄上の子を跡取りにしたかったのに……」と後ろめたく感じ、殺してしまえ と命令してしまっている。光圀自身同様、幸い頼常は家臣の家で無事生まれたものの、最後まで光圀は父親として彼に接する事が無かったと言う。

 なお、光圀にはもう1人、「亀丸」と言う別の母を持つ兄がいたが、彼は4歳で敢え無く他界してしまった。

【余談】

  • 戦国武将「真田信繁」の名前を真田信仍(のぶより)であると勘違いしており、書物にも堂々と「真田幸村ではなく真田「信仍」だ」と書いてしまっている。
    ただ、これは信繁の自筆のくずし文字が読みづらかった事も原因であり、光圀以外にも同じ勘違いをしていた人がかなり多かったらしい。
  • 光圀の生きてる間の官位は中納言だったが、死後明治になってから最終的に位階の最高位である正一位まで昇格している。
  • 徳川家康の遺訓として知られている「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」と言う名言だが、尾張徳川家第21代当主・徳川義宣の研究により、家康ではなく光圀が書いたとされる書物「人のいましめ」が初出である事が判明している。
    ただし、この書物も本当に光圀が記したものなのかははっきりしておらず、未だにこの言葉の由来は謎のままである。



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徳川光圀
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最終更新:2020年08月17日 21:25