スコット・ホール

登録日:2017/04/10 Mon 07:12:34
更新日:2024/03/17 Sun 13:48:51
所要時間:約 7 分で読めます




『スコット・ホール(Scott Oliver Hall)』は、1958年10月20日生まれの米国のプロレスラー。
フロリダ州タンパ出身。

90年代前半のWWFを代表するスーパースターの一人であり、WWF(現:WWE)では“バッド・ガイ”レイザー・ラモン(“The Bad Guy” Razor Ramon)のリングネームで活躍。*1
爪楊枝を口に咥えて入場し、それを相手に投げつけて挑発するパフォーマンスでも知られる。

決め台詞は“Hey Yo”


96年に相棒のケビン・ナッシュと共にライバル団体のWCWに引き抜かれると、レイザー・ラモンの名前がWWFの商標登録となっていた関係から本名で活動。

ナッシュと共にハルク・ホーガンと結託してオリジナルのNWOを結成して一大ムーブメントを起こした関係から、現在では本名のスコット・ホールの方が知れ渡っており、後にWWEでNWOとして復帰した時にもスコット・ホールとして登場した。

2m前後の長身に均整の取れた筋肉質の肉体という恵まれた体格と、伊達男と呼ぶに相応しいセクシーなルックスに加え、非常に巧みなレスリングセンスを併せ持った名人であり、自身は世界王座までには届かなかったものの、元々は不器用だった相棒のナッシュがトップに立てたのはホールの存在が大きかったとも言われている。
仕事人としての評価はレスラー仲間からも高い一方、若い頃よりアルコールとドラッグ漬けの生活を送っており、00年前後のWCW崩壊以前の頃より素行の悪さや問題行動が伝えられていた。


2011年にESPN(ディズニー傘下のスポーツ専門チャンネル)で放映されたE60シリーズにて、日によっては自力で歩けない程に弱った老人のように衰えた姿を晒してファンに衝撃を与えた。

【略歴】

“フォー・ホースメン”の一員としても知られるバリー・ウィンダムのトレーニングを受けて84年にデビュー。
最初は“スターシップ・コヨーテ”を名乗り、“スターシップ・イーグル”こと、全日本プロレスでも活躍したダニー・スパイビーとのコンビでNWA傘下の団体で活動した。

85年より本名のスコット・ホールとしてAWAに参戦。
カート・ヘニングとのコンビやシングル戦線でも活躍し、トップの仲間入りを果たす。

87年からはAWAと深い繋がりをもっていたマサ斎藤の招聘に応じて新日本プロレスに参戦。
米国に帰ってしまったホーガンの再来とまで期待されていた他、若手だった船木誠勝と共に骨法の道場にも通っていたという。
新日本プロレスへの参戦は90年の春頃まで続き、この頃には同時期に参戦していたパニッシャー・ダイス・モーガンと組んでIWGPタッグ王座にも挑戦している。

90年7月にカルロス・コロン(カリートの父)の主宰するプエルトリコのWWCに参戦。
同年8月と11月には日本でも蝶野正洋らが修行場所としてしたことでも知られる、オットー・ワンツが主宰するオーストリアのCWAに“テキサス・スコット”を名乗って参戦している。

91年より自身が発案した“世界一セクシーな男ダイヤモンド・スタッド”を名乗りWCWに参戦。
尚、このリングネームはマネージャー役を務めたダイヤモンド・ダラス・ペイジに肖ったものだったという。
多くのトップレスラーと絡む活躍を見せるも、結局はタイトル戦線に絡めないまま92年に入り離脱している。

そして、同年5月より“ダイヤモンド・スタッド”のキャラクターに“マイアミからやって来たキューバの密入国者でヤクの売人”の設定を加えた“バッド・ガイ”レイザー・ラモンとしてWWFに登場。

トップヒールであったリック・フレアーやレックス・ルガーと共闘すると共に、自身も数々のベビーフェースの有力選手を破る活躍を見せる。
93年4月のレッスルマニアⅨでは、日本でも活躍した元WWF王者ボブ・バックランドをシングルで降している。

93年5月にジョバー(負け役)であったショーン・ウォルトマンから3カウントを奪われてしまい友情ストーリーが組まれてベビーフェースに転身(ウォルトマンとは本当に後々までに続く盟友となる)。

9月には元AWA王者の“ザ・モデル”リック・マーテルを決定戦で破りインターコンチネンタル(IC)王座を獲得。
このIC王座を巡り、WWF以前から親交のあったショーン・マイケルズと抗争を開始。
特に94年3月のレッスルマニアⅩで行われたWWF史上初のラダーマッチは、両者の独創性とタフさが遺憾なく発揮された名勝負となり、現在でもWWE史上に残る傑作の一つとして語り継がれている。

このIC王座を巡ってはマイケルズを初めとして、彼のボディーガード役であったディーゼル(ナッシュ)やジェフ・ジャレット、ディーン・ダグラスといった同世代の有力選手らと抗争を展開。

また、この頃から更に親交を深めていたマイケルズ、ナッシュ、ウォルトマンにハンター・ハースト・ヘルムスリーを加えたグループである“クリック”*2が、プライベートを越えてリング内外にまで影響力を発揮しはじめる。

敢然と待遇に不満を述べるようになったホールとナッシュは、素行不良を理由に96年に出場停止処分を受けると古巣のWCWからのオファーに応じて契約が残っていたにもかかわらず移籍を決めてしまう。
これに対してWWFは裁判所に二人の移籍は契約期間であり無効だとする訴えを起こすが、裁判所が回答を回避したために予定は少し遅れたものの、本当にトップレスラーの二人がライバル団体へと電撃移籍してしまった。

WWFでの実績を元に嘗てとは比べ物にならない待遇で迎え入れられた二人は「WWFの命令でWCWを潰しにきた」とのギミックで“ジ・アウトサイダーズ”を名乗り参戦。
当初は番組の責任者であったエリック・ビショフとも表向き対立するも、勿論これはビショフのプロデュースによるギミック設定であった。*3

この二人に対して敢然と立ち上がったのが、衰えを感じさせていたもののプロレスファンにとっては絶対的なベビーフェースであったホーガンだったのだが、何とホーガンは彼等と結託。
WWFからウォルトマン(シックス)をも呼び寄せたばかりか、ビショフの政治力までも加えた超派閥NWOとして、猛威を奮うことになった。

NWOとしてはナッシュとのコンビでタッグ王座を保持してスタイナー兄弟と抗争。
蝶野のNWO入りにより、日本でもNWO 人気が巻き起こっていた97年3月の新日本プロレスのドーム大会では蝶野とのトリオを結成して、対戦相手に武藤敬司&スタイナー兄弟を迎えるという超豪華な6人タッグを実現。
試合でも快勝をおさめ、日米の NWO 時代の到来を告げるような試合となった。

その後もNWO の中核メンバーとして活躍するも、ナッシュとのタッグ王座獲得が多かった為かWCWでも世界王座には縁がなかった。
98年5月にNWO がホーガン派 NWOハリウッドとナッシュ派NWOウルフパックに分かれると、ナッシュと離れてホーガン派に参加。

以降、相変わらずWCW自体の中核選手として活動しUS王座戦線で活躍するも、WCWの方向性自体が行き詰まりを見せ初め、ホール個人の問題行動が取り沙汰されるようになっていく。
そして00年2月にアルコール依存症を理由に繰り返していた無断欠場と暴力事件での逮捕を理由に逸早く解雇。
一時期はWWFを崩壊直前にまで追い詰めた筈のWCWの末路を予感させる出来事でもあった。

解雇後はECWや新日本プロレスに参戦。
しかし、精彩を欠いてしまっており新たな活躍の場とはならなかった。なお、新日本参戦時にはまだまだ若手だった棚橋と対戦。油断したところを丸め込みで敗れている。棚橋はこの時にスコット・ホールから「タナハシは新日本のフューチャーだ」と評され、他のレスラーにも「彼は金を産む」と言っていたらしく、後にその言葉は現実のものとなる。

WCW、ECW崩壊後の02年2月に、ホーガン、ナッシュと共にNWO のオリジナルメンバーとしてWWEに復帰。
3月のレッスルマニアⅩ8までのストーリーラインが組まれ、二大エースであったザ・ロックストーン・コールド・スティーブ・オースチンと激突した。

レッスルマニアⅩ8ではストンコとシングルで対決。
好勝負を展開した末に、スタナー二連発を受けて敗退。
しかし、この時のホールの動きが“神受け”と評される程に凄まじく、一発目は吹っ飛ばずに耐えたと思った所にすかさず二発目が叩き込まれると、長身のホールの巨体が無重力のようにフワリと浮き上がった場面は、現在でもスタナー受けの最高傑作の一つとして語り継がれている。

……この、スタナー受けだけでもWWEでのホールの地位は安泰したと言っても良いはずだったのだが、5月に遠征先の英国でトラブルを起こし早くも解雇されてしまう。
ホーガンがレッスルマニアⅩ8での戦いで早くもベビーフェースにもどってしまっていたこともあり、ウォルトマンを加えてもホールを欠いた状態のNWOでは商品価値が見出だせるはずもなく、ナッシュやウォルトマンもまた程なくしてリリースされてしまっている。

以降は、インディー団体や日本マットを相棒のナッシュやウォルトマンと合流して短期間で転戦。

04年からはTNAを主戦場とし、WWC等に参戦しつつも、相変わらずトラブルによる解雇を繰り返していた。
そして、10年の解雇を最後に遂に満足にリングに立てなくなってしまい、ESPNに於ける衝撃的な姿を晒すことになる。

また、この番組中のインタビューでステファニー・マクマホン・レヴェックからホールの治療はWWEもバックアップしていたことが語られている。

番組では、ホール自身の言葉により自身の半生とキャリア、満足に省みることの出来なかった家族への想いが語られており、番組の通りに父の後を追ってプロレスラーとなった息子コーディ・ホールのプロ生活の支援も開始。

コーディのコーチやマネージャー活動を経て、引退後のダイヤモンド・ダラス・ペイジが主宰して高評価を得ているヨガ教室に通いリハビリに励む等、番組当初よりもここ数年での体調は回復の兆しを見せてきており、11年のマイケルズの殿堂入りには駆け付けることが出来なかった状態だったものの、自身が14年にレイザーラモンとしてWWE殿堂に迎え入れられる程に回復。
この授賞式にはインダクターを務めたナッシュの他、マイケルズ、トリプルH、ウォルトマンも姿を現し、漸くの“クリック”の勢揃いとなった。

そして、15年3月にはWCWの象徴的存在だったスティングとトリプルHによる本当に最後の“WCW vs WWF”とも呼ぶべき遺恨マッチという名の記念試合にて、トリプルHを助太刀したD-ジェネレーションXに対して、ホーガン、ナッシュと共にNWOとしてスティングの助太刀として現れ、多くの関係者やファンにとっても長い時を経て完結した物語を締め括るのに力を貸している。
また、これはNew World OrderD-GenerationXという、クリックの生み出した一大派閥同士の夢の邂逅でもあった。

2022年3月、股関節の手術後に血栓によって心臓発作を起こす。後に盟友のケビン・ナッシュやXパックが危篤であることや、家族が揃い次第生命維持装置を外す旨を発表。
3月14日、人騒がせで粋なバッド・ガイは家族と仲間に見守られながらこの世を去った。

Hard work pays off, dreams come true. Bad times don't last, but BAD GUYS do.(努力は報われる。夢は叶う。悪い時間は続かない。でも悪いやつは続く。)

父のファイトスタイルも継承する息子のコーディは新日本の他、日本マットでの活動が目立つ。
まだまだ年齢もキャリアも若いものの、今後の活躍を期待しつつ見守っていきたい所でもある。

【得意技】


■レイザーズ・エッジ/アウトサイダーズ・エッジ
相手をハイジャック・バックブリーカーの体勢で高々と吊り上げておいてから、勢いよく前方に倒れ込むと共に相手をスライドさせるように鋭角に叩きつけていく剃刀の刃(変形のパワーボム)。
シェイマスやバッドラック・ファレ等も使った、この系統の技の元祖であり、ホールの場合は自らが膝を付くような体勢で落とすことが多かった。
ホールの指導により、ホールより更に背が高いコーディも引き継いでいる。
NWOとして活動していたWCW時代は、前述のリングネームの商標登録の関係からかアウトサイダーズ・エッジと称していた。

■フォール・アウェイ・スラム(ブロックバスター)
■クローズライン(ラリアット)
■チョークスラム
■アブドミナルストレッチ(コブラツイスト)



追記・修正は“Hey Yo”してからお願い致します。

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最終更新:2024年03月17日 13:48

*1 ※プロレスファンとしても有名なお笑いコンビ「レイザーラモン」の由来でもある。HGとRGは心底マニアなのだ。

*2 ※命名はレックス・ルガー

*3 ※新日本プロレスとUWFインターの抗争からの発案だったが、人数の問題もあったのか上手くいかなかった。