カート・ヘニング

登録日:2024/04/11 Thu 18:49:13
更新日:2024/04/15 Mon 17:57:17
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カート・ヘニングは、米国の元プロレスラー。故人。(1958年3月28日〜2003年2月10日:享年44歳。)
ミネソタ州ロビンズデール出身。
本名:カーティス・マイケル・ヘニング。
主な通称・別リングネームはMr.パーフェクト
公証サイズは身長183cm。体重106〜115kg。

尚、ファミリーネームの“Hennig”は、本来は“ヘニッグ”と発音するのが正しいのだが、日本では父親(“獅子王”ラリー・ヘニング)の代から使われはじめ、息子(カーティス・アクセル/ジョー・ヘニング)の代でも一貫して“ヘニング”から訂正・変更されていないために本項目でも“ヘニング”表記とする。


【人物】

数々の有名プロレスラーを排出しているミネソタ州ロビンズデール出身で、やはりプロレス一家に生まれる。
父親である“獅子王”ラリー・ヘニングとテリトリー(AWA)のボスであるバーン・ガニアからトレーニングを受けて1980年にデビュー。

父ラリーは大柄な体格を売りとするラフ&パワーファイターであったが、息子であるカートは、後にプロレス史上に残る名人として業界に伝説を残す程のテクニシャンとなった。

入場時には常に白いタオルを首にかけていたが、これは往年のNWA世界王者バディ・ロジャースからニック・ボックウィンクル、そしてカート・ヘニングへと引き継がれた王者の装いであった。


【略歴】

※以下は基本的に“ヘニング”と紹介。

先ずはAWAに於いてキャリアを積んだ後にニューヨークに主戦場を移し(ビンス)シニア時代のWWF(現:WWE)に参戦。
大物相手の負け役(ジョバー)を務めながら経験値を積む。
この時期には、日本から遠征してきて米国に於いてもセンセーションを巻き起こした初代タイガーマスク(佐山聡)とも対戦。
佐山とはエルヴィス(プレスリー)好き同士ということで意気投合し、移動でも共に行動していたという。
このWWF時代にはボビー・ダンカンのパートナーとして新日本プロレスに初参戦・初来日を果たしてMSGタッグリーグに出場しているが、本国と同じく白星配給係であった。


1984年よりAWAに復帰。
当時のAWAはヘニングとは入れ違いでハルク・ホーガンといった主力選手を(ビンス)ジュニアの経営となった新体制のWWFに引き抜かれていた頃であり、ジョバーだった若者は一転して主力選手として迎え入れられ、矢張りトップに立つ前のスコット・ホールと組んでAWA世界タッグ王座を獲得。
更には、当時のエースで80年代の絶対王者であったニック・ボックウィンクルからAWA世界ヘビー級王座を獲得と伝統的なテリトリー制のプロレス興行の末期とはいえ世界(北米)三大王座の一つに名前を連ねることになった。
とはいえ、この試合では途中でラリー・ズビスコが介入したことによる不透明決着というアングルが付けられていたために物議を醸したものの、後に正式に奪取が認められ、これと同時にデビュー以来は一貫して正統派のベビーフェイスであったのが、この悪どい勝ち方を機にヒールに転向。
以降は、ほとんどの期間をヒールとして活動。
アングル上でベビーとなってもシナリオ上の立場を変えるのみで、小憎たらしいファイトスタイルそのものは変更しなくなった。
ヒールになると共に、その類稀なるレスリングセンスで対戦相手を翻弄するような小憎らしいスタイルになっていき、その異常とも呼べるレベルのテクニックがレスラー間での話題を集めるようになっていく。
また、この間の85年には今度は全日本プロレスに参戦。
AWA王者として定期的に参戦していたニック・ボックウィンクルの弟分として活躍し、長州力のPWF王座に挑戦したり、自身がAWA王者として2代目タイガーマスク(三沢光晴)の挑戦を受けている。
尚、同時期の全日本プロレスには過去に“ミスター・パーフェクト”を名乗っていた先輩レスラーのア・シーク(ジェリー・スタッブス)も参戦していたので、ヘニングはジャック・ダニエルズ一瓶で自分が“ミスター・パーフェクト”を名乗る権利を得させてもらったという。


長期政権を築いたが、88年5月に“キング”ジェリー・ローラーにタイトルを奪われるとWWFに再登場。
ここで、TV興行を主体とするようになっていたWWFではヘニングに何をやらせても完璧(パーフェクト)な男=ミスター・パーフェクトというキャラを付けて大物ヒールとして売り出した。

因みに、この宣伝の為にプロモーション映像=ヘニングが様々なスポーツ(ベースボール、バスケット、アメフト、卓球、ボウリング、高飛び込み、ダーツ…etc)に挑戦してスゴ技を披露する……という撮影が行なわれたのだが、ヘニングはプロを招いて指導を受けたとはいえ、本番では殆どを一発撮りで成功させてしまった……という伝説を作り関係者の度肝を抜いた。
この時の決め台詞は「I'm Perfect」

WWFでは技巧派のIC王者として長期政権を樹立して伝説を作る。
シングル転向の後にトップに立つ前のブレット・ハートの最後の壁として立ち塞がり、ブレットに敗れてベルトを失ったものの、その高度な技術戦から史上最高のIC王座戦と讃えられる試合の一つとなっている。

しかし、この頃よりハードパンプ*1による弊害からか背中に負傷を抱えるようになり、惜しまれつつもシングルの第一線からは退きタッグ戦線に移行。
後には表ではマネージャーやカラーコメンテーターとして、裏ではコーチ役として有望な若手の指導に当たるようになった。

97年にWCWに移籍。
相変わらず一線からは後退した立場ながらUS ヘビー級王座を獲得した他、ビッグネームとしてホーガンのnWoやリック・フレアーのフォー・ホースメンにも参加。
nWo時代にはnWoジャパンの助っ人として新日本プロレスに久々に来日。
シングルで小島聡を破っている。
00年頃にWCWが崩壊直前となると退団して、プエルトリコのWWCに参戦。

02年にWWEに復帰。
しかし、移動中の飛行機内で酒に酔って売り出し中のまブロック・レスナーと諍いを起こしてしまい3ヶ月後に解雇。
その後、創設されたばかりのTNAに参戦。

そして、年の明けた03年2月に試合の為に訪れていたフロリダ州タンパのホテルにて薬物の過剰摂取を原因とする心臓麻痺で急逝。
急性コカイン中毒と共に、日常的にステロイドや鎮痛剤を常用していたと見られている。

07年にWWE殿堂に向かえられる。
インダクターは元メジャーリーガーのウェイド・ボッグス。(前述のPVの際に野球の指導に来た縁からで、ヘニングは指導によりホームランを連発した。)
このセレモニーに参加していた息子のジョー・ヘニングは、この後に祖父ラリー・ヘニングの弟分であったハーリー・レイスのWLWで指導を受けて、カーティス・アクセルのリングネームでWWE入りを果たしている。


【ファイトスタイル】

余り大技は使わないものの、何気ない受け身ですら人目を惹き付ける程の類稀なる身体能力の持ち主であり、素人目には全く凄さが伝わらないタイプの名人の極致とも呼ぶべき選手。
前述のPVでも、圧倒的に身長が足りない筈なのにバスケットではダンクシュートまで決めていることからもその片鱗が窺えるはず。

とにかくレスラー間での評価が高く、リック・フレアーやショーン・マイケルズ、ジェフ・ジャレットといった名人級ですら“史上最高の選手”と讃えている程である。

ファン向けにも“神業”として知られているのがフィニッシュとしていた“パーフェクト・プレックス”で、当人も「どんな技でも極めれば必殺技になる」を持論としていた。
実際、当人が“試合の都合”で外さない限りは確実に毎回3カウントを取れていただろうと思える位の絶妙なバランス力を持つ技であった。


【得意技】


■パーフェクト・プレックス
所謂“フィッシャーマンズ・スープレックス”なのだが、ヘニングの技巧の粋を究めた技として知られ、決まれば殆ど必殺となった。 (シナリオの都合上で途中で返された(外した)ことは幾度かある。)
その必殺性は元祖の小林邦昭ですらが、どちらかと云えば“見せ技”としていたのとは大違いな位に徹底しており、抑え込まれた後にはどんなにもがこうがクラッチから抜け出せずに3カウントを聞くことになる。
特に何か目立った動き(叩きつけるのが速いとか落とす角度がキツい)等も無いにもかかわらず、その必殺性が認められていたのは偏に圧倒的な実績故にだろう。
クラッチさえ出来れば確実に相手を(は)投げられるという信頼通りに、WCWではザ・ジャイアント(ビッグ・ショー)をも完璧に投げきっている。
日本でも若手から脱却しかけていた当時の小島と対戦した時にも若い小島に殆ど攻めさせておきながら、最後はこの技のみで動けなくして勝利している。


■バックドロップホールド

■フィギュア・フォー・レッグロック

■ドロップキック


【余談】


  • AWA時代から付き合いのあったショーン・マイケルズのニックネームである“ハートブレイクキッド”の発案者。




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最終更新:2024年04月15日 17:57

*1 プロレスに於ける“激しい受け身”の意味だが、単に危険な技を受けるのみならず、単純な受け身でも敢えて派手に吹っ飛んだりすることで試合を盛り上げる動きも指す。ヘニングはその“プロレス史で見ても最高レベルの達人”であった。