白面金毛九尾の狐

登録日:2017/07/15 Sat 15:29:02
更新日:2025/03/18 Tue 04:01:00
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()れ太極の一理 陰陽の両儀と別れてより。

天あれば地あり、暑あれば寒あり、男あれば女あり、

善あれば悪あり、吉あれば凶あり。




されば乾坤開闢(けんこんかいびゃく) 呂律(りょりつ)の気は清みて軽きは昇つて天となり、

濁りて重きは降りて地と成り、中和の霊気大となれり。



()の大気禽獣(きんじゅう)となる時に、不正の陰気凝って一箇のとなるあり。

開闢(かいびゃく)より以来、年数を経て(つひ)に姿を変じ、

全身金色に化して面は白く九ツの尾あり。


名つけて白面金毛九尾の狐といへり。





元来邪悪妖気の生ずる所ゆへ世の人民を殺し(つく)し魔界となさんとす。










― 「絵本三国妖婦伝」(高井蘭山)より







白面金毛九尾(はくめんこんもうきゅうび)(きつね)(以下、『白面金毛』)とは、
その名の通り白い顔と金色の毛並を持ち九つに裂けた尻尾を持つ魔性の狐のことである。
好んで美女に化けその国の権力者に取り入り、彼らを操って国を傾けたという。

鈴鹿山の大嶽丸(おおたけまる)、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)らとならぶ日本における三大妖怪の一体であり、
日本すべての妖魔悪鬼の中でも最も強大かつ邪悪な存在。


【概要】

「白面金毛九尾」 と称される狐は元々、江戸後期の読本作者高井蘭山の著作、 『絵本三国妖婦伝』 に登場する妖怪である。
高井蘭山は玉藻前をはじめとした妖狐・悪女譚をモチーフに妖婦伝を書きあげた。
そしてその妖狐悪女らをモデルにして作り上げたのが白面金毛という大妖怪なのである。
彼女のモデルとなった妖狐や悪女については後述の解説を参照してほしい。

作中における白面金毛は、齢千年とも言われ妖艶な美女への変化をはじめとした数々の妖術を操る古狐である。
妖術だけではなく古今東西神羅万象に関する知識、人を惹きつけるための作法礼法と、
人を誑し込み骨抜きにするあらゆる手練手管を併せ持っている。


○外見・性格

白面金毛九尾の狐は、その名の通り金色の毛並と白い顔九本の尾を持っている狐である。
体の大きさは子牛ほどもあると表現され、身の丈7尺*1、尻尾まで入れると1丈5尺*2にもなるという。
女に化ければ天下の 美女 となり、時の帝に感嘆させたほど。

また「この世の邪念・妖気そのものである」と表現される彼女はこの上なく邪悪で残忍な性格の持ち主
「人を殺し尽くしこの世を魔界とする」という目的があるとされてはいるが、
作中の表現を見る限り、特に目的意識もなにも関係なくあきらかに人を殺すことを楽しんでいる。
しかもただ殺すだけでなくいかに苦痛を与えむごたらしく殺すかということに腐心し、それを眺めて楽しむのだ。
なので国の王をたぶらかし権力を握ったが最後、その国には想像を絶する地獄絵図が現出する。

また人を堕落させることも好み、自分の夫らを自分と同じように死と殺しを好むような人間に仕立て上げたり、
周りの人たちに恐怖や憎しみをふりまき、互いに恐れあい憎しみあい殺しあうように仕向けてほくそえむことも多い。


○能力

白面金毛の能力としてあがるのが、まず第一に変化術をはじめとした妖術
第二に古今東西あらゆる分野における卓越した知識
第三にそれらを駆使し人の心を意のままに操る人心掌握術だろう。

●妖術

彼女が操る妖術としては、美しい女性に化ける変化術が有名。
絶世の美女と化し、男を容易にたぶらかすのだ。
もちろん男性や子供、赤ん坊に化けることも可能。
また特定個人の姿に変化することも、あるいは特定の人間を殺して中に入ることでなりかわってしまうこともある。
人ではなく岩や風や炎など無機物に変化することもできるらしい。
これにより、消えたり現れたりと巧みに姿をくらまし幻惑する。

また危機が迫った時毒気を吐き出す巨大な石「殺生石」に変化したが、
これはどうやら最後の手段であるらしく、一度変じたが最後そこから狐に戻ったり生まれ変わったりすることはできないらしい(後述)。

それから人に幻を見せる幻術や、人の心を捕らえてしまう魅惑術なども用いることが出来る。
これらはその身に危機が迫った時に使うことが多く、黒雲の幻を巻き起こして追っ手を撒いたり
自分を討とうとするものを魅了し手出しできなくさせたりしてしまうなどして身を守る。

●知識

長年生きてきた彼女は、ありとあらゆる分野における知識をその頭に蓄えている。
その知識は歴史・仏道・神道はもちろん医術といった実学、
詩や短歌・歌や楽器といった文学・芸術の分野までさまざま。

さらに彼女は弁論術にも長けており、膨大な知識の中から適切な語句を瞬時に選び取り、
それを堂々たる態度の元でよどむことなくすらすらと口にすることが出来る。
専門家でさえ、自分の専門分野で言い負かされてしまうほどである。

●人心掌握術

彼女の最も恐ろしい能力で、彼女を象徴している能力でもある。
他の能力は妖術も知識も全て、これを補助する手段にすぎない。

彼女は標的とした人物にとってもっとも愛される姿に変化する。
子供のいない夫婦の前で赤子に化けたり、権力者の男性の前では女性に化けたり自由自在である。
さらにその姿のみならず、言動も所作もなにもかもその人物から愛されるものを選び取ることが可能。
彼女に魅入られてしまったが最後、その誘惑をはねのける手段は皆無と言っても等しい。

そして彼女は自分を失うことを相手に恐れさせ、その心を自由自在に操るのだ。
彼女の力をもってすれば赤子の自身を拾わせ十二分な保護のもと育てさせることも、
時の権力者にとり入り、彼らに悪政を行わせるばかりか残虐な行動に駆り立てることもたやすい。

●その他

恐るべき能力を持つ彼女だが直接の戦いは決して得意ではなく、人ひとり殺すくらいならなんとでもなるが武装した多数の人々相手にはとてもかなわない。
なので正体を暴かれてからはあっけなく追い払われ討ちとられてしまうことが多い。

殺すのもそう難しくはなく、普通の人間が普通の武器で殺すことも可能。
殺すよりむしろ正体を暴く方が難しく、神仏の加護に頼るほかないことが多い。

しかしたとえ殺されてしまっても、他の人間の体を使うなどしてふたたび再生してくることもできる。
物語の中では何度となく討たれてもそのたびに蘇り、再び世を魔界にせんと暗躍した。
ただやはりある程度の期間をおかないと再生することはできない。
また殺生石と化してしまった後は、生まれ変わることができなくなってしまった様子。

あと正体を暴かれてしまうと、心をつかんでいた相手でもあっさりと離れていってしまう。
狐でも魔物でもいい、というところまで魅了させるのはさすがに無理らしい。その人がケモナーだとか人外も好きだとかいう場合は不明
それから彼女に魅入られるとあっという間に生命力を失い病んでいってしまうが、
これは単に病気にさせているだけなのか生命力を吸い取っているのかは不明。


○略歴

+ ...
西暦 所在国 王朝名など 化身の名 概要
紀元前20世紀~∞? 不明 なし 誕生? 妲己の時点で「齢千年の狐」と言及されている。
紀元前11世紀ころ 中国 寿羊(じゅよう) 少女を喰い殺してなりかわり紂王の妾に。名を妲己(だっき)と改める
妲己(だっき) 武王に討伐され、天竺へと逃れる。
紀元前9世紀ころ 褒姒(ほうじ) 数々の怪異とともに誕生。老夫婦に拾われ宮廷に献上される。
紀元前8世紀ころ 周の幽王の寵愛を得て、暴政をはたらかせる。
伯服(はくふく) 反乱がおき、周が滅亡。褒姒はわが子に化け脱出。
紀元前5世紀ごろ? 天竺 摩訶陀(マガダ) 華陽夫人(かようふじん) 殷から逃れ出現。この地の王子斑足太子を惑わせる
正体を見抜かれ北へと逃げ去る。
734年 中国 若藻(じゃくそう) 吉備真備の船に同乗。
735年 日本 奈良時代 来日、姿を隠す。
736年以降 およそ370年にわたり潜伏。
1098年 平安時代 (みくず) 赤子の姿で武士に拾われる。(みくず)と命名。
1104年 和歌の才を見出され宮中入り。
1120年3月 高陽殿で体から光を放つ。玉藻前(たまものまえ)と改名。後鳥羽上皇の寵愛を受ける。
同年5月 玉藻前(たまものまえ) 安倍泰親と対峙、論戦で圧倒。
同年9月 安倍泰親に正体を暴かれ退散。那須野へと逃亡。
1123年 討伐軍が那須野にさしむけられる。
1137年 討伐軍に討たれる直前、毒石へとその身を変ずる。
1166年以降 平安~鎌倉時代 殺生石(せっしょうせき) 朝廷から何度となく僧侶が派遣されるが、そのことごとくを毒殺。
建長年間
(1249~56)
鎌倉時代 玄翁和尚により殺生石が粉砕される。


【伝承】

白面金毛は中国・インド・日本の三カ国を渡り歩き、それぞれの国で時の王を誑かし
暴虐をはたらかせたり悪政を行わせたりして民を大いに苦しめたとされる。

ここではそれら全てのエピソードを網羅している「絵本三国妖婦伝」をベースに、
脚色や私見をまじえて彼女の経歴をその化身ごとに紹介していく。なので正確な記述でないことは了解されたし。

ただ殷→天竺(摩訶陀国)→周という彼女の経路については時系列がおかしなことになっている*3が、これはあくまで原典準拠のものである。


○誕生


彼女がいつどこで誕生したかに関しては、あまりはっきりとは記されていない。
妲己の時点で齢千年の古狐とされているが、この「千年」というのは
実年齢ではなく比喩的表現なのだろう。

少なくとも本記事冒頭の誕生時の描写を見る限りさらに古くから、
それこそ天地開闢のすぐ後に生まれ落ちていてもまったく不思議ではない。



― はじめ、この世にはなにもなかった。すべてがひとつだった。
けれどそのひとつはいつしか、陰のものと陽のもの、ふたつにわかたれていった。

澄みわたって軽いものは上に昇って天となり、
濁って重いものは下に降りて地となった。
そしてそのはざま、ただなかに、あらゆる命を産む大きな霊気が生じていった。

その霊気が獣たちを産むとき、不浄の陰気だけがよりあつまり、一匹の狐が産まれた。
その狐は齢を経て、ついに白面金毛九尾の狐に変じた。

邪悪・妖気そのものである彼女は、人々を(みなごろし)にしこの世を魔界と成さんとするという ―



妲己(だっき)の章


寿羊(じゅよう)から妲己へ


彼女が最初に人間たちの前に姿を現したのは、実在が確認されているもののなかでは
中国で最も古い王朝においてである。
初代の湯王が夏王朝を倒してから28代の帝、紂王の治世のころ。冀州(きしゅう)寿羊という16歳になる少女がいた。
容姿端麗にして音楽書道をたしなみ、また評判の働き者でもあり世に並ぶものない乙女と噂されていた。

この評判を聞きつけた紂王は後宮に迎えようと寿羊の親蘇護(そご)をたずねるが、娘を王の妾にすることを忍びなく思った蘇護はこれを断る。

怒った紂王は名臣西伯候(せいはくこう)姫昌(きしょう)に命じ、蘇護のもとに軍勢を指し向ける。
しかし西伯候は軍勢で蘇護を脅すことをよしとせず、使者を送って交渉を行った。
蘇護は紂王への恐れと西伯候の誠実さの前に、泣く泣く寿羊を差し出す。

寿羊は父、そして紂王より遣わされた武士や腰元らとともに一路都へと向かう。
そして道中で宿に泊まった折のこと。
寿羊の部屋に一陣の怪しき風が吹きこみ、灯火を吹き消した。
腰元のひとりが寿羊を守るため妖しき気配に立ち向かう。
しかし彼女は、たちまちのうちに何者かに蹴り殺されてしまった。

あくる朝、寿羊の部屋にいた腰元の一人がいなくなっている。
寿羊に聞いたところ「夜半に怪しい気配がして、灯火が消えた」と答えた。
辺りを探したところ、近隣の草むらの中で腰元の遺体が見つかる。
一行は大いに怪しみ、すぐにその地を出立した。



しかしこの時、寿羊もまた既に死んでいたのである。



昨晩、寿羊の部屋に忍びこんだ何者かは彼女の精と血を吸いつくし
抜け殻となった体に入りこみ乗っ取ったのだ。
それこそが、徳によって治められる大国殷を滅ぼさんと乗りこんできた
白面金毛九尾の狐だったのである。

都に着いた寿羊を一目見た紂王は、たちまちその美しさの虜になってしまった。
王は寿羊の名を妲己(だっき)と改めさせ、政務を投げ捨てて彼女におぼれたのである。


(いん)紂王(ちゅうおう)


紂王はもともとは大国殷の王にふさわしく聡明にして勇敢、大小数多くの国を束ね万民の尊敬を集める主君であったと伝えられる。
しかし寿羊を見初めたときから、あきらかに様子がおかしくなりはじめた。
そして彼女を妲己として迎え入れたときには、酒色におぼれる暗君と化していた。
紂王は王宮内に楼閣をつくり、妲己とともにその中で楽師らをはべらせ
臣下のたびかさなる諌めにも関わらず出てくることは無かったのである。

南山の道士雲中子は、殷の王宮を禍々しい気配が覆い尽くしているのを感じ取る。
宝鏡照魔鏡で王宮を映し見てみると、それは千歳にならんという妖狐の姿をしていた。
雲中子はただちに都に赴き進言するが、それを耳にした妲己は紂王にこう囁く。



「このような美しい楼を建てたのです、なんの祟りがありましょうや。

妖しき方士の妄言に惑わされることの無きよう…」



紂王は雲中子の進言を伝えた役人を斬らせ「妖しき妄言を広めようとするものはこうなる」
という(みことのり)を発した。これにより臣下たちはもはや何も言おうとはしなくなった。

それでも皇后が紂王を諌めるが、妲己は皇后を奸臣費仲(ひちゅう)とともに死に追いやる。
皇后は楼閣から突き落とされ、ついに妲己が皇后にまで登りつめた。

紂王は妲己に請われるがまま王宮内に庭園を造り、池には酒を満たし干し肉を林のように吊るして毎晩酒宴にふけった*4
また些細なことで人々を処刑し、ついにはそれを楽しむようにさえなった。
中で炭をおこし真っ赤に熱せられた銅柱に人を抱きつかせてあぶり殺す焙烙(ほうろく)の刑
地面に穴を掘って蛇や毒虫の類を敷き詰めておき、裸に剥いた女性を放りこむ蔓盆(たいぼん)の刑

これらの残酷な刑罰を微罪に対しても執行し、それを眺めて楽しむという有様だった。


またあるとき妲己は十数人の妊婦を紂王の前に集めてこう言った。



「この女らのお腹の子が男の子か女の子か当てて進ぜましょう」



妲己は全員の赤子の性別を予想すると、たちまち全員の腹を裂いてそれを確かめさせた。
彼女の予想はことごとく的中しており、夫妻はこれを見て手を叩き笑いあったという。


西伯候(せいはくこう)姫昌(きしょう)


紂王は国内に圧政をしき、自身たちの浪費を民からの重税や労役でもって賄っていた。
さらにそれを払えない者には上記のような残虐な刑罰で報いた。
そんな王の暴虐を前に、ついに殷の民が国を捨てて逃げ散りはじめる。
国を捨てた民を名臣西伯候は自らの領土であるの地に迎え入れ、彼らの生活を支えていた。

ここに至り、西伯候はじめとした家臣や紂王の息子たちが王の前に集まり一身を賭して紂王を諌めようとする。

しかし紂王はもはやその諌めをまったく耳に入れようとはしなかった。
それでも剛毅をもってなる西伯候が重ねて諌言を行う。
これに対し妲己は王をそそのかし西伯候を捕らえさせる。
それに憤った西伯候の息子伯邑(はくゆう)は紂王と妲己の前でこう訴える。



「どうか父の代わりに私を獄につないでください。

この身がどうなろうと王を恨むことはございません!」



妲己は彼に向かいこう語りかける。



「あなたは琴をたしなむそうね。 一曲弾いてくれないかしら?」



伯邑考は仰せのままにと一曲奏でてみせる。
それを前に妲己はこうあざわらった。



「まあ、なんて子でしょう。

父が苦しんでいるときに、のんびり琴を奏でていられるとは!」



伯邑考は激怒し妲己の顔に唾を吐きかけ、その不実をののしる。
紂王はこれを見てたちまち伯邑考を斬り捨ててしまった。
その死体を前にして、妲己は薄く笑ってこう言った。



「『この身がどうなろうと』と言っておりましたね。

その言葉がまことかどうか、試してみようではありませんか



紂王は妲己の勧めのまま、伯邑考の遺体を塩漬けにして父である西伯候に送り届けこう伝える。



これを喰えばそなたとそなたの息子の罪を許す。喰わねば刑に処す」



西伯候は煩悶したが、自分を信じ救いを求めて集まってきた人民たちのために心を殺してこれを喰らう。
紂王は言葉通り西伯候を許し、彼を解き放つ。
それを聞いた人民たちは怒りに打ち震え、続々と西伯候のもとに集った。

その勢力はついには国内の人口の3分の2近くに膨れ上がるのである。


(しゅう)武王(ぶおう)


国内の反紂王勢を糾合した西伯候は、志半ばにして97歳で亡くなる。
しかし西伯候は軍師呂子牙に息子である姫発(きはつ)を託した。
そして息子にも、病床からこう言い渡す。



「……従えるのではない。 お前が、太公望(たいこうぼう)に仕えるのだ。おまえが私に仕えたのと、同じように。」



呂子牙こそ、西伯候にその名を与えられた名軍師太公望であった。
姫発は周の武王を名乗り、太公望とともに殷へと進軍する。

妲己は幻術で反乱軍を足止めしようとするが、呂子牙により術をことごとく破られる。
こうなると疲弊しきっていた殷の軍に反乱軍を押しとどめる力はなかった。
武王の軍勢はたちまちのうちに殷の都へ攻め入り、奸臣費仲、そして紂王を討ちはたす*5
さらに武王は妲己を捕らえ処刑しようとした。
しかし妲己が艶然と笑いかけると、どの処刑人たちも彼女に手を出せなくなってしまった。
そこで呂子牙が雲中子に与えられた照魔鏡白面金毛の正体を暴く。



「おのれ、口惜しや!この恨み忘れまいぞ!」



狐の姿となった妲己は黒雲をかきおこし、そこに紛れて逃げ去ろうとした。
そこにすかさず宝剣が投げつけられ、地面に打ち落とされた白面金毛をさらに雷が撃ちすえる。
さしもの妖狐の体も3つに砕け、その死骸は瓶に詰められ土中深くに埋められた。

こうして殷王朝は倒れ、新たに周王朝が打ち建てられたのである。
しかし白面金毛は敗れこそしたが、徳高き紂王を堕落させ、殷王朝の名を貶め、これらを滅ぼすことには成功したのだ。



華陽夫人(かようふじん)の章


斑足太子(はんぞくたいし)


はるか西の天竺摩訶陀(マガダ)には斑足太子(はんぞくたいし)という王子がいた。
獅子の血を引き、名の通り足にまだらの模様があったというこの王子は、
獅子の勇敢さと文学と音楽を愛する穏やかな心をあわせ持つ青年であった。

ある日その王子が得意の笛を吹いていたとき、異国の服を来た美しい女性が現われる。
女性は笛に合わせて歌い、王子はその歌声に魅せられた。

女性は自分のことを殷の紂王に仕えていた官女だと名乗る。
国を滅ぼさんと攻めこんできた武王に、慰み者にされんとしたところを逃れてきたと。
哀れに思った斑足太子は彼女を連れ帰り召使いとした。

しかし斑足太子はたちまちのうちにその女性の色香におぼれてしまう。
この女性こそ、武王に追われ殷から逃げのびてきた白面金毛の化身だったのである。


華陽夫人(かようふじん)


連れ帰った女性に身も心も蕩かされた斑足太子は、彼女を華陽夫人と名付け妻にした。
そして公務も勉学も投げ捨て、夜となく昼となく酒色に耽るようになってしまう。
王子の臣下や勉学の師が彼を諌めるが、その場では聞き入れるもののついに華陽夫人を遠ざけることは無かった。
逆に斑足太子は進言を行う臣下を冷遇したり放逐したりして遠ざけてしまうようになった。
特に年若く名臣との誉れ高い鷓岳叉(しゃがくしゃ)に対して、華陽夫人はこう斑足太子に耳打ちした。



「あの者はわたしに懸想しているのです。だから説教がましいことを申し立て

わたしとあなたを引き離そうとしているのでしょう」



太子は疑うことも無くこの言葉を信じ、いずれ鷓岳叉を断罪せんと心に決めた。
王子は堕落の一途をたどり、民をことにつけて断罪し、処刑されるさまを夫人とともに眺めて喜ぶようになってしまう。
父王の命でさえ、彼の心を改めさせることはできなくなっていた。

そんなある日、斑足太子はお供とともに外出中、花園の中で一匹の狐が眠っているのを見かける。
太子が矢を狐に射かけると、その矢に額をかすめられた狐は一目散にやぶの中へ逃げていった。

王子が王宮に帰ってみると、華陽夫人が頭に布を巻き床に臥せっている。
彼女いわく、武王に追われた時のことを思い返し、頭が痛むようになってしまったという。
その痛みは王宮の典医たちがよってたかって診ても、まるで快方には至らなかった。
思いつめた太子は、国一番の名医を呼ぶこととしたのである。


耆婆(ぎば)


王子は床に臥せった夫人のために、国一番の医者を王宮に迎える。
その者こそ釈迦の病を治したという当世一の名医耆婆(ぎば) *6であった。
華陽夫人のかたわらに立った耆婆は、手始めに彼女の脈をとる。
しかしどうも様子がおかしい。耆婆は大いに驚いた様子でしきりと首をひねっていた。

耆婆は別室に移り人払いをし、太子にこう告げる。



「夫人の脈は人のものではございません。恐らくは狐のものであろうと思われます。

一刻も早く彼女を遠ざけるべきでしょう」



斑足太子は大いに驚き、華陽夫人に事の次第を問う。
夫人はあわてず騒がずこう答えた。



「あの者は鷓岳叉(しゃがくしゃ)と口裏を合わせて示し合わせ、

わたくしを除こうとしておるのでしょう」



斑足太子は怒り、耆婆を呼び寄せる。
太子のもとに出向いた華陽夫人は、耆婆を見るなりこう言い放つ。



「太子の臣の分際でこのわたしに邪恋をもよおし、

淫らな文をよこすとはどのような了見か?」



耆婆はおどろきあきれ、そんなものがあるなら出してみよと言うが
夫人はあざけり笑いこう言った。



「そんなもの、封も切らずにそなたに送り返したわ。

この期に及んでまだとぼけるおつもりか?」



その後耆婆は専門の医術の話になっても、
正確極まりない医学の知識をとうとうと述べる彼女を言い負かすことができなかった。
耆婆は大いに面目を潰され、王宮を後にする。

しかしその後、彼の夢枕に天人が立ちこう告げたのである。



「あの化生の正体を暴かんとするなら、ここより一千里のかなたにある

金鳳山(きんほうざん)
薬王樹(やくおうじゅ)*7を用いよ ―」


鷓岳叉(しゃがくしゃ)


耆婆は夢のお告げに従い金鳳山へと旅立ち、厳しい旅路の果てについに薬王樹の枝を手にする。
摩訶陀(マガダ)国へと戻った耆婆は鷓岳叉らと密会し、華陽夫人…いや、太子を惑わす古狐を退治するための策を巡らせた。

鷓岳叉ら重臣たちは王宮へ出向き、太子に重ねて夫人を遠ざけるよう進言する。



「王子よ、夫人を遠ざけ精進潔斎(しょうじんけっさい)なさいませ!

耆婆の言葉通り、あの女は悪しき狐に違いありませぬ!」



業を煮やした太子は兵に命じ彼らを捕らえさせる。
しかしその隙に耆婆が華陽夫人の前に立ちあらわれ、薬王樹の枝を振りかざした。
夫人は身を震わせ、たちまち白面金毛九尾の狐と化す。



「おのれ!おのれえぇぇぇっ!!

いますこしで天竺を魔界に変じせしめたものを!!」



白面金毛が北へ向かって飛び去った後、斑足太子は憑き物が落ちたように立ち直った。
太子は耆婆や鷓岳叉らに伏して詫び、以後彼らを以前にも増して厚遇することで名誉を回復させ、
正道をもって国や民のために尽くしたという。


こうして天竺は白面金毛の脅威を退けた。
しかしこの件にて白面金毛の悪名は広く知れ渡り中国全土、さらには遠く日本の人々までもを恐れさせるようになったのである。


褒姒(ほうじ)の章


(しゅう)宣王(せんおう)


ここで舞台は時をさかのぼり、中国の周王朝に移る。
殷の紂王を倒した武王によって創建された周王朝は、時を経て12代目の宣王の時代になってもその名を天下に響かせ、国内を安らかに治めていた。

しかし王はある日、都の子供らが手を打ってこう歌っているのを耳にする。



― 月が昇り、日が沈む。

山桑の弓と矢を売る人が

周の国を滅ぼすぞ。



これを不吉に思った宣王は、臣下たちに歌の意味を聞く。
すると一人の臣が、これは白面金毛の復活の兆しであると言上した。
王はただちに宮中の女性のなかで怪しい者はいないか調べさせる。

すると先王の時代から仕えていた女官のひとりが、18年もの間妊娠した末にひとりの女児を産み落としたという。
詳しく話を聞くと、先王の命によって白面金毛が封じられた塚が暴かれたとき、
そこからにわかに湧き出した泡を浴びたところ男に触れてもいないのに子供が出来てしまったという。
しかし、その子は不浄の子としてすでに王宮の堀に投げこんだということだった。

宣王は胸をなでおろし、歌の中の「山桑の弓と矢を売る人」を探させる。
果たして該当するものが見つかった。それは長安の都に住む夫婦だった。
王はただちに妻の方を斬り殺し、災いの芽を摘んだ。

狐の化身は女性とされていたため夫の方は許され、ほうほうの体で都を落ちのびていった。
その際に立ち寄った林の中で、泣いている赤ん坊を見つけた。
男はその赤子を哀れに思い、拾って大切に育てたという。

褒姒(ほうじ)


時は流れ、13代目の幽王の治世。
幽王は暗愚な王で、苦言を申し立てる者を遠ざけ自分に逆らわず追従する者のみを側に置いていた。
その王のもとに、ひとりの美しい少女が捧げられる。
この女性こそ、あの時林の中で拾われ育てられた赤子だった。

女性は褒姒(ほうじ)と名付けられ、幽王の側に仕えた。
幽王は彼女の美しさに骨抜きにされ、彼女を皇后とする。
王は褒姒を大いに寵愛したが、一つだけ気がかりなことがあった。
それは、彼女が決して笑わないことであった。

あるとき幽王はふと思い立ち、危急の際にあげるとされていた狼煙を平時に上げてみる(ミスだったというものもある)。
たちまち領内中から諸侯が集まってきたが、来たところで何の変事も無く右往左往するばかりであった。
この有様を見て、褒姒ははじめてにこりと微笑んだのである。


味を占めた幽王はその後も幾度にも渡り偽の狼煙を上げ、慌てふためく諸侯の姿を褒姒に見せた。
しかしある日、西方の異民族が大挙して都に押し寄せてくる。
ここに至って幽王はあわてて狼煙を焚くが、もはややってくる諸侯はひとりもいなかった。
たちまち異民族の軍勢は都に押し寄せ、王を斬り殺した。
さらに軍勢は幽王を狂わせた元凶である悪しき狐を除くため褒姒をはじめとした宮中の女性を皆殺しにした。

ここに至ってようやく諸侯たちが駆けつけ、異民族の軍を追い払う。
さらに諸侯らは新しい王を立てて乱を収め、どうにか国内に平穏を取り戻す。

この乱の中、かろうじて生き残った褒姒の息子伯服(はくふく)は、敵の追っ手を逃れなんとか落ちのびていった。
だが人里を離れた伯服は、たちまち美しい夫人と化した。



「……なかなか、手強い」



褒姒と化した白面金毛は、かつて自分を討ち取った周王朝を滅ぼし復讐を果たした*8
しかし自分に対しての対策は徹底されており、世を魔界に変えるという大望は果たせなかった。
化身となる女性は徹底的に除かれ、それをかいくぐって国を乱してもたちまちのうちに建てなおされてしまう。



「……時を待ちましょう。人が、わたくしのことを忘れてしまうまで」



そうして、妖狐はいずことへもなく行方をくらましたのである。



「そして時が来たなら、海を渡りましょうか。まだわたくしのことを知らぬ国めざして ―」


玉藻前(たまものまえ)の章


若藻(じゃくそう)


それから千年以上の時を経て、の時代。
日本から遣わされた吉備真備(きびのまきび)が、いままさに日本に帰ろうとしていたときのこと。
皇帝から賜った船に乗り出港してから二日後、船内に30歳前ほどの夫人がいるのを発見する。
吉備真備は驚き、なぜ無断で乗りこんだのか女を問いただす。

女は玄宗皇帝の臣下の娘若藻(じゃくそう)と名乗った。



「どうしても、あなたとともに日本へ渡りたかったのでございます。

許されぬのなら、わたくしはここで鮫の餌となりましょう ―」



吉備真備は情けをかけ、彼女を日本まで連れていく。
しかし日本に着いたところ、若藻はいずこかへと消え失せてしまった。
彼女はやはり白面金毛の化身であり、これより長きにわたって日本に潜りこんで息を潜め、
世を魔界と成すという自分の大願を果たすため時勢をひたすらに待ち続けるのである。


(みくず)


若藻が吉備真備とともに日本に渡ってから、およそ370年後。
白面金毛は再び赤子に化け、武士の家に拾われていった。
武士はどこの誰の子とも知れぬ赤子に「根なし草」……(みくず)と名を付け、大切に育てた。

7年後、(みくず)は美しく利発な少女に成長する。
彼女はその和歌の才を見出され、宮中に迎えられることとなった。


玉藻前(たまものまえ)


それから10年。
鳥羽院が位につき、(みくず)は美しい女官に成長していた。
そしてこのころには、すでに(みくず)は鳥羽院の手つきとなっていた。
院があまりに(みくず)を寵愛したため、臣下は眉をひそめたという。

そんな折、高陽殿での宴において怪事が起きる。
宴の席で(みくず)の体から光が放たれ、夜半の薄暗い殿中がまるで昼のような明るさになったという。
周囲の人々はこの変異を恐れ何らかの凶兆ではないかと言上するが、
院は怪しみもせず(みくず)のような才媛であればこのようなこともあろうと取り合わない。

院はこの時から(みくず)玉藻前(たまものまえ)の名を与え、ますます彼女を寵愛するようになった。
しかしそれからまもなく院は体調を崩し、全身を走る苦痛に七転八倒するまでになってしまう。
医術も祈祷も効果がなく、みるかげもなくやせ衰えていってしまった。


安倍泰親(あべのやすちか)


この異変の後ろに妖狐の存在があるのに気づいたのは、宮中の陰陽頭安倍泰親(あべのやすちか)であった。

彼は高陽殿の変事より玉藻前を怪しみ、易術によって彼女の正体を見抜いたのである。

彼はそれを院に伝えるため参内し、玉藻前と対峙する。

横たわる院のかたわらに美しく着飾って座し、まるで皇后のごとく振る舞う玉藻前に対し
泰親は「わが易術により、院の病は邪悪な獣によるものと明らかになったのでございます」と申し伝える。
玉藻前はあでやかに笑い、悠然と答えた。



「邪悪な獣とはそなた自身のことであろう。

人が病み衰えるは天の定め、帝といえどそれを逃れることは能わず。

それをわらわの仕業と言い立てるとは、どのような了見か?」



泰親は激昂し「正法に不思議なしと申す。高陽殿の怪異をなんとお考えか、どこの誰の(たね)ともわからぬ者が!」と彼女を弾劾する。
しかし玉藻前はいささかも動ぜず無くこう答える。



「よくよく愚かなことよ。わらわがどこの(たね)ともわからぬから怪しいと?

子を捨てた親が、わたしが親でございますと名乗り出るはずもあるまいが」


「それに正法に不思議なしなどと、よくも恥ずかしげもなく言えるものよ。知らぬのなら教えて進ぜよう。

光明皇后をはじめとし、貴き御方や徳の高い僧らがその身から光をはなったという言い伝えは数多くあるものぞ」


「かの釈迦の教えにも、異形の者が空を飛び病をばらまく話があろう。これでも正法に不思議なしと申すかや?」


泰親は立て板に水を流すような玉藻前の言説に一言たりとも言い返すことができず
すごすごとその場を辞するしかなかった。
院は泰親の無礼と不明に怒り、彼を閉門に処する。
それでも泰親は玉藻前の正体に疑念を感じ、精進潔斎して院の平癒を願い祈祷を行い続けた。


鳴弦(めいげん)の法


寝食を忘れ院の病を癒さんと、そして玉藻前の正体を暴かんと祈祷を続ける泰親。
身も心も疲れ果て、意識がもうろうとしたところで不思議な夢を見る。



「宮中で鳴弦(めいげん)の法を行うべし。玉藻前は狐の本性を現し、院の病は平癒するであろう ―」



これぞ安倍家の守護者、加茂大明神の神託であった。

泰親が閉門の身でありながら自分のために祈祷を行っていることを知った鳥羽院は、
怒りをおさめ祈祷が成就したならば宮中へ来るよう命ずる。
そして玉藻前に、自分に代わって泰親に会うようにと伝えた。
玉藻前は平然とその勅を受け、泰親を清涼殿にて出迎える。

「なんという形相ぞ。祈祷ではなく呪詛でも行っていたのではあるまいな」



「ただ、帝のためならば」



「疑わしきことよ」



「仮に私が呪詛していたとしても、心正しきあなたがそばにいたなら何の効き目がありましょうや」



「……無駄なことを。もう付き合いきれんわ!」



そう言い放ち席を立とうとした玉藻前を、静かに泰親が制する。



「わが祈祷の成果を確かめたいというのは、帝のおぼしめしでございます。

あなたは帝の代わりにそれを行うためここにおられる。

それを蹴ってここを立ち去ろうとはいかなることか、お答え願いましょう」



玉藻前はついに返答に窮し、その場に座す。
泰親はおもむろに弓を取りだし、弓をつがえぬままそれを引き…



― 音高く、弦を鳴らす。





「おのれがあぁぁぁぁっ!!!」





玉藻前は顔色を失いわなわなと震え、血走った眼で泰親をにらみつけた。
にわかに空がかき曇り、雷鳴が鳴り響く。
みるみる内にその姿は白面金毛九尾の本性を現し、闇の中へ飛び去っていった。



殺生石(せっしょうせき)の章


殺生石(せっしょうせき)


白面金毛の正体が暴かれ宮中を追い払われたあと、鳥羽院の病はたちまち快癒した。
院は泰親を誉め称えるが、それでも白面金毛はまだ滅びたわけではない。
飛び去った妖狐は那須野の地に降り立ち、怪異をなすようになっていたのだ。
那須野の人々は白面に惑わされ、何人もの民が餌食になったという。

ただちに三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常を将軍に、陰陽師・安部泰親を軍師として討伐軍が結成され派遣された。
しかし藪へ影へ闇へと逃れ走りながら妖術を使ってくる白面金毛を捕らえるのは困難を極める。
それでも討伐軍は犬相手に騎射をするなど訓練を重ね*9、次第に妖狐を追いつめていく*10

追い立てられた妖狐が隠れたとおぼしき草原を焼き払うと、現れたのは子牛ほどもある巨大な古狐だった。
大狐は兵馬を跳びこえつかみ殺し逃れようとするが、ついに三浦介の弓が白面金毛を射捕らえる。

もんどりうって倒れたところに上総介が剛力で槍を突き立て、さしもの妖狐も動きを完全に止められてしまう。
そこに兵士が集まってきて顔といわず身といわず、よってたかって滅多切りにした。

しかしとどめをささんとするその瞬間、白面金毛の体は巨大な石と化した
すると奇怪なことに、彼女に寄り集まって斬りつけていた兵たちがたちまちバタバタと倒れてしまう。
さしもの軍勢もこれには手出しできず、その場を引くよりほかになかった。

その後も、その石は那須野で毒気をまき散らしつづけた。石は狐に戻ったり動いたりすることこそ無かったが、
知らずに近づく人や獣をたちまちその毒気で餌食とし、石の周囲は死体と白骨で満ちた
泰親も将軍たちも手の出しようが無く、立て札を立て接近を禁ずるよりほかになかった。
地元の人間たちは大いに恐れ、この石を殺生石(せっしょうせき)と呼ぶようになったのである。


玄翁和尚(げんのうおしょう)


それから年月がたち、時の帝たちは殺生石を除かんとして数々の名僧や祈祷師を派遣した。
しかしそのことごとくが毒気に当てられ、石を打ち壊すどころか生きて帰ることもままならなかった

そこを訪れたのが、法華寺の僧玄翁和尚(げんのうおしょう)である。
和尚は同行しようとした弟子たちを退け、ひとり殺生石のもとへと向かう。

玄翁和尚は払子と数珠を手に経文を唱えながら歩を進めるが、
たちまち毒気の風が吹きつけ着ているものがずたずたに破り裂かれてしまう。
けれども御仏の加護か和尚の体には毒気は及ばず、ついに殺生石と向かい合う。
玄翁和尚はひときわ通る声で、殺生石に向けて呼びかけた。



(ああ、)石霊石霊(せきれいせきれい)

魔則有法済(ますればすなわちあってほうすくう)

執魂無所帰(しゅうこんにかえるところなからん)

即今汝念底(そくこんなんじねんていせい)



すると絶えず吹き付けていた毒気の風がやみ、忽然と妙齢の、妖しいほどに美しい女性が現われる
和尚はさてはこれがかの妖狐の化身かと身構え、迷うな執着するな成仏せよと一喝する。
しかし、女性は何をするでもなく、和尚に静かに語りかけてきた。



「いまさら隠し立てはせぬ。わらわこそ玉藻前(たまものまえ)……

唐天竺で悪逆の限りを尽くした白面金毛九尾の狐ぞ」


「わらわはいままで生まれかわり死にかわり、世を魔界に化さんとしてきた。

人民鳥獣を害し、国を傾け、この身より生ずる恨み憎しみのままに幾星霜(いくせいそう) ……」


「……御坊よ。 こんなわらわでも、仏のみもとへゆけるのかや?

この恨み憎しみ、修羅の輪廻から解き放たれ、浄土とやらへゆけるのかや?」



和尚は、声高に経を唱えてそれに答える。



人畜悉皆宇宙塵(じんちくみなことごとくうちゅうのちり)

端的不逢劫外春(たんてきあわずんばごうげのはるに)

本来面目有何所(ほんらいのめんもくいずれのところにあらん)

無位心印磨不磷(むいのしんいんますれどもうすろがず)



玉藻前の幻は静かに手を合わせてこうべを垂れ、その場から消え去った。
和尚はそれを見届けると気合一閃、殺生石を打つ。



「石に精あり水に音あり風は太虚にわたる、喝!



殺生石は大きく二つに割れ砕け、破片とともに西めがけて飛んでいった。*11
玄翁和尚は破片で地蔵菩薩を彫り、鎌倉に安置した。
その像はその後京へと移され、あらたかな霊験を発揮したという。



こうして三国にわたって猛威を巻き起こした白面金毛九尾の狐は、西方の浄土へと旅立っていったのである。



【解説】

この項目では「白面金毛九尾の狐」について、その成り立ちや背景、現代創作での展開などについて説明する。
それぞれの詳しい内容についてはこちらも参照してほしい。

○九尾の狐について

獣が年を経て化けるという説は、中国の伝承の影響が大きい。
狐もその例にもれず、 50年生きると*12女性に化けることが出来るようになると言われた。
さらに100年生きると美女や巫女、男性に化けられるようになる上に天眼通*13を身につける。
1000年を経れば天に通ずるようになり、体毛は金色に輝き尾は9本に裂ける。
そして日月の宮殿にて天帝に仕える、狐の最高位である天狐となるのである。
これが「九尾の狐」というキャラクターの始原である。

しかし天狐はもはや天界の住人なので、人と積極的にかかわることは無い。
むしろ出現すればよいことが起こる兆しとされる瑞獣として知られている。
なので九尾の狐は、本来人間に害をなす存在ではなかった。

けれど、最終的には神に等しい存在となる化け狐も、 その過程では人を惑わすこともあった。
すべての狐が仙狐を目指すわけでもなく、邪悪な化け狐も当然存在した。
仙孤を目指す狐も、修行法のひとつに 「人間と交わって精気を吸い取る」 というものがあったため、
特に下位の狐はよく男の精気を狙って女性に化けて近づいてきたのである。
この性質から、化け狐はよく女性と、しかも男を手玉に取る悪女と結び付けられた。

さらにそれを発展させ殷王朝の妲己など極めつけの悪女、いわゆる「傾国の美女」 と呼ばれるような女性が
しばしば最上位の悪狐と……すなわち 「悪しき九尾の狐」 とされたのである。

そのイメージは日本にも伝わり妲己のほかにも周王朝の褒姒、そして玉藻前のモデルとなったと言われる
鳥羽帝の皇后美福門院(びふくもんいん)といった多くの悪女が狐の化身とされた。
それらすべての伝承が日本において習合され、さらに斑足太子から着想を得て華陽夫人のエピソードが作られ
そこに那須野の殺生石の伝承も加えられて、大妖怪白面金毛九尾の狐として結実した のである。

なお上記の通り「九尾の狐」自体は単一の存在ではないので、白面金毛以外にも著名な九尾狐は存在する。
代表的なところでは南総里見八犬伝に登場する政木狐(まさきぎつね)など。

○現代の創作における白面金毛九尾の狐

前述した通り、単なる「九尾の狐」であれば、邪悪な存在でも固有の存在でもない。
なので善性の狐として登場することもあるし、実力も低くはないまでもそれなりの扱いをされることが多い。

しかしこれが白面金毛九尾の狐あるいはその化身たる
「妲己」「華陽夫人」「褒姒」「玉藻前」らになると、ほぼ例外なく凶悪強大な存在として扱われる。
その存在感の大きさといい、スケールの大きな伝承といい、とても凡百のキャラクターとしておさまる存在ではないのである。
原典では決して高くはない戦闘力もきわめて強力であるという描写になることが多く、
出現するや否やその場の雰囲気を一気に凍り付かせ、作品自体をも我が物としてしまいかねない強烈な個性を発揮する。

白面の者うしおととら

現代日本の創作文化における白面金毛九尾の狐のキャラクターを決定づけた存在。
日本中の妖怪をすべて集めても歯が立たないほどの実力と、生命あるものすべてをもてあそびゴミクズのように扱う凶悪さをあわせもつ
当作にとどまらず近代日本の漫画作品全体の中でもその「格」において最強最大の悪役のひとり。

狐と呼ぶには異様な姿をしているが、このデザインは『山海経』にあらわれる九尾の狐(?)をベースにしていると思われる。
この妖怪は、諸国を荒らした狐との関係は不明だが、尾ばかりか首まで9つあり、虎の爪を持ち、赤ん坊のように鳴くという。漫画作中でよく「おぎゃあああ」と鳴いているのはこういうワケ。

あと、この作品には上記の伝承内の登場人物やエピソードが多数引用されている。
興味のある人は本作と「絵本三国妖婦伝」を読み比べてみてほしい。

詳しくは個別項目を参照されたし。


羽衣狐(はごろもぎつね)ぬらりひょんの孫

外見は黒いセーラー服を来た少女だが、その実(よわい)1000年を超える古狐。
京都一帯を勢力圏とする魑魅魍魎「京妖怪」を束ねる大妖怪である。
息子に安倍晴明を持つため葛ノ葉の要素も入っているが、
9本の尻尾を持ちその性格は極めて残虐で冷酷と、やはり白面金毛をベースにしたキャラクター。

人の体を依代(よりしろ)として転生を繰り返し、闇の子たる(ぬえ)を産み落として
この世を妖怪が跳梁跋扈する闇の世界へと変貌させんとしている。


なお白面金毛が登場するその他の作品はこちらを参照されたし。


○物語の背景についての私見

●白面金毛と安倍家の対決について

物語のクライマックスである、日本での対決。
大妖怪白面金毛九尾の狐を迎え撃ったのは、日本の陰陽師安倍泰親である。
恐るべき力を持った妖怪と、神仏の加護を受け敢然と立ちむかう人間との戦いであるが
見方を変えればこれは狐同士の対決であったとも取れるのだ。

安倍泰親は代々朝廷で陰陽頭を務めてきた安倍家の五代目当主である。
初代の当主は、かの名高い安倍晴明
安倍晴明の出生に関しては有名な伝説があり、なんと彼は狐の子であったというのだ。

伝承によると彼の母は信太の森の稲荷神社の遣いである狐、葛ノ葉であった。
狐の正体を知られ去っていく母を追って信太の森にたどりついた童子丸(晴明の幼名)は、
稲荷神から母に託された宝具を受け取り陰陽師への第一歩を踏み出すのである。
この伝説を下敷きにして考えれば、安倍家は稲荷神の眷族とも言える立場になる。

実際のところはどうであったのかは定かではないが、少なくともこの伝説を踏まえて考えれば
玉藻前と安倍泰親との戦いは、白面金毛稲荷神の代理戦争であったということになる。
それはすなわち中国の悪しき狐日本の善なる狐の対決であったのだ。

中国における化け狐は天狐のようなごく一部の例外を除き、基本的には獰猛な魔物であった。
これは仏教における野干(やかん)(ジャッカルのこと)がルーツであると言われている。
この悪しき化け狐のイメージは仏教とともにインドから中国を経て、日本に伝来した。

しかし、日本では狐はもともと神の遣いだった。
稲作の大敵であるネズミを追い払う狐は、稲荷神の遣いとして信仰の対象になっていたのである。
その善なるイメージは大国から渡来した先進的な思想でさえも崩すことはできず、
日本の狐は善なる存在として、お稲荷さまとともに日本中に広がっていったのである。



「インド・中国を経て日本に渡ってきた『悪しき狐』のイメージに対し

日本に根付いていた『善なる狐』のイメージが衝突して勝利をおさめた」


と考えると、史実と物語がちょうど符合するようで面白い。


ただ、日本においても狐の悪しきイメージは完全には払拭されず
お稲荷さまの裏に隠れてひそかに日本中に伝播していったのではあるが。
これもまた、白面金毛の妄執のなせるわざだったのだろうか……?*14


●「亡国の王」「傾国の美女」について

白面金毛九尾の狐の物語は、権力を持った男の哀れさを描いたものである。
女に騙されどれほど愚かしくなろう残虐非道になろうと誰にも止めてもらえず、
自分が治めていた国とともに破滅へとひた走っていく様は憐れみを誘う。
現実においても殷の紂王にしろ周の幽王にしろ、暗愚であると伝えられている。

ただ実際のところ王朝の最後の王と言うものは、その行状が必要以上に悪く伝えられがちなのだ。
これは春秋時代の時点ですでに、孔子の弟子子貢(しこう)によって言及されている。
王と言う存在そのものが国の美点も汚点もかぶせられやすいことはもちろん、
亡国の王は次代の王朝が自分たちを正当化するために、ことされに悪く言われやすいのだ。
そうでなくとも国の滅亡を目前として平常心でいられる人間はそうはいない。
国と命運をともにする王であればなおのことである。


これは彼らの妻と言われる「傾国の美女」たちについても同じことである。
彼女らはその多くが実在が不確かだったりそもそも最初から創作であったりする。
彼女らは亡国の原因を国とともに滅んだ王やその国を直接滅ぼした国、
そして国が滅んだ後も次の国で生き続ける民らの代わりに引き受けてくれる
都合のいい存在であったのである。

亡国の王にしろ傾国の美女にしろ、あくまで物語の中の存在として見るべきだろう。
実際はえてして、彼ら彼女らを隠れ蓑にしている人物がいるものだ。



ただやはり、権力や色香というものは人を惹きつけ狂わせる恐るべき甘美な毒だということは確か。
歴史をひもとくまでもなく、身近ででもそれらで身を持ち崩した人など珍しくもないだろう。
それでもなお言えることは、それらに惑わされるのはやはり本人の責任でもあるということ。
人であれば誰しも男性であっても女性であっても、自分の権力や美貌で誰かを思いのままに操りたいと心の隅で願うことはある。
しかしその毒に心を冒されてしまえば、行きつく先は暴君か妖狐しかない。

特に男性は、もし権力をもってしまったなら、このことは心しておくべきことだろう。
あなたが惑わされたりしなければ、目の前の女性はただの女性であるにすぎないのだから。
彼女らを妖狐にしてしまうのは、ひとえに惑わされてしまう男性の弱さなのである。









貴賤美色に心を(とら)わるものは家をうしなひ身を亡ぼす。

古往のみにあらず、今来の美人、たとへ()の性妖狐の変ずるにあらずとも、

男子昏迷(こんめい)せば何ぞ妖狐にあらずとせん。



これを鏡として少しく修身齋家(しゅうしんせいか)の端ともならば、

奇怪の談も(とが)むべきに、しもあらざるかと(いささ)か弁じて筆をとどめぬ。








― 「絵本三国妖婦伝」(高井蘭山)より






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  • 実はジャッカル
最終更新:2025年03月18日 04:01

*1 2メートル強

*2 4.5メートル

*3 歴史学上では殷の滅亡は紀元前1052年、周の幽王の在位は紀元前781年から紀元前771年、マガダ国は建国の時期は紀元前700年前後と推測され滅亡は紀元前381年

*4 「酒池肉林」の語源とされる

*5 実際には紂王は敵の手にかかる・捕虜となることを良しとせず自殺したとされる

*6 耆婆:Jīvaka(ジーヴァカ)。悪瘡が生じた阿闍世王に対し、治療のため仏門に帰依するよう進言した逸話で有名。

*7 薬王樹:枇杷の別名。

*8 この時点で崩壊状態に陥ったのは西周であり、新たに建てられた東周が東西の争いを制して新たな周となり500年ほど続く。これを期に春秋時代へと移行するが、春秋時代以降の周は往時とは比すべくもないほど没落した

*9 いわゆる「犬追物」。この時期ころに発祥したと言われる。

*10 この際に三浦介の夢枕に玉藻前が立ったという伝承もある。玉藻前は三浦介に兵を退けば守護者になるともちかけるが、三浦介はこれを妖狐が追いこまれている証ととらえ一気呵成に攻め立てついに白面金毛を討ち取る。しかし妖狐の誘いを蹴った三浦介は、子々孫々まで祟られることになったという

*11 この伝承により大型の金槌を「玄翁」と呼ぶようになったと言われる

*12 仙人としての試験に合格し然るべき修行を積むと、とも言われる。立派な仙人となるのに、動物は1000年の修行が必要なのだ。

*13 一切の物事を見通す神通力

*14 元より日本の原始的な神々は善神・悪神と二分化されるものではなく、恵みをもたらすこともあれば度々荒ぶることもあるので、むしろ「善なる狐」のほうが後から広まったイメージかもしれない。