烈風(航空機)

登録日:2017/09/24 (日) 10:26:47
更新日:2023/07/06 Thu 18:35:52
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零戦って知ってるかい?

昔、太平洋で粋に暴れまわってたっていうぜ……

今も世ン中荒れ放題、ボヤボヤしてると川西からバッサリだ!

どっちもどっちも…どっちもどっちも!!


A7M2 烈風





烈風とは、かつて大日本帝国海軍が待望して叶わなかった、幻の戦闘機である。
連合国でのコードネームは「Sam」。

本項では主に一一型について解説する。








基本性能諸元(一一型 試作機)

分類:艦上戦闘機
製造:三菱航空機
全長:11.04m
全幅:14.00m
全高: 4.23m
主翼面積:30.86㎡
自重: 3,267kg
全備重量:4,719kg
発動機:MK9A ハ四三 一一型(離昇2,200hp/2,900rpm)
最高速度:627.8km/h(高度5,660m)
巡航速度:415.0km/h(高度--m)
上昇限度:10,900m
上昇力:高度6,000m/5分58秒
航続距離:1,960km/全力30分・増槽あり
       --km/巡航2.6時間・増槽あり
離陸距離:--m(無風)
     --m(風速--m/s)
燃料:翼内 285L×2
   胴体内固定槽 145L
   外翼部増槽 50L×2
   落下増槽 600L
武装:翼内九九式20mm二号機銃四型 2挺(携行弾数各200発)
   三式13.2mm固定機銃 2挺(携行弾数各300発)
爆装:30kg~60kg爆弾 2発
総生産数:試作機7機
     量産機1機(未成)




開発経緯

時は1940年(昭和15年)末。零戦が大陸戦線で戦果を残していた頃、海軍は早くも零戦の後継機として“十六試艦上戦闘機”の開発を三菱航空機に打診していた。
しかし三菱としては十四試局地戦闘機(後の雷電)の開発と零戦の改修で手一杯。新型開発に割くリソースが無かった為に、十六試艦上戦闘機の開発は翌年1月に中止された。

それから更に1年後の1942年(昭和17年)4月。零戦三二型と雷電の初飛行が終わって一段落のついた三菱に、海軍は“十七試艦上戦闘機”として再度開発を要求。協議の結果、十七試の開発担当は堀越二郎技師に決定した。
使用する発動機に関して揉めつつも7月には要求仕様書が提示されたのだが、その要求というのが

  • 最高速度は高度6000mで345ノット(638.9km/h)以上
  • 上昇力は6000mまで6分以内
  • 航続距離は全力30分かつ巡航(250ノット=463km/h)5時間
  • 滑走距離は80m以内(合成風速12m/s)
  • 降着速度67ノット(124km/h)
  • 武装は九九式20mm二号機銃2挺と三式13mm機銃2挺
  • 空戦性能は零戦三二型と同程度かそれ以上

という無茶にも等しい厳しい要求であった。
当然ながら開発は難航。零戦の改修、雷電の不具合への対処も抱えていた設計陣の労力は半端ではなく、主任の堀越氏はとうとう過労で倒れてしまった程。

更に発動機ではトラブルが頻発。
大出力エンジンの技術とモータリゼーションの遅れがもろに響く形になってしまい、試作機が完成したのは開発開始から2年後。
既にアメリカでは次世代機が飛んでいた頃だった。


そして1944年(昭和19年)4月。苦難の末に完成した烈風試作1号機の初飛行の日が訪れた。

だが……





設計と特徴

当初の主任技師は堀越二郎。
堀越氏が倒れた後は、彼の右腕にして副主任だった曽根嘉年技師が中心となって設計・開発が行われた。

烈風最大の特徴は、やはりその巨大かつ緩やかな角度の逆ガル翼だろう。
こうなったのは、海軍の要求が高速・重火力に零戦並の運動性能と航続距離で小型空母からでも発艦可能という「ぼくのかんがえたさいきょうのかんじょうせんとうき」だった為。特に翼面積が約31㎡というのは艦上攻撃機に近い巨大さ。ライバルになる筈だったグラマンF6F ヘルキャットとほぼ同面積となる。
翼面積は広い程揚力が増して重い負荷を持ち上げられる。つまり低速で離着陸かつ短距離で離陸が可能となるのだ。

ただし、その代償としてサイズ、自重共に九六式艦攻や天山などの艦上攻撃機を越える機体となった。流石に全備重量は天山に及ばないものの、零戦きっての重武装と防弾装備を持つ五二型丙よりも1.6倍も重い。

一応こんな大きさでもF6F-5やF4U-4より多少大きい程度で、重量は約1,000~900kg程軽い。
とは言っても主翼が根元から畳めて、且つ重量級でもカタパルトで発艦させられる米軍艦載機主翼が翼端しか折れず、空母用カタパルトの開発に失敗した日本軍艦載機では全く事情が異なる。



攻撃力

主な武装として主翼内に九九式20mm二号機銃四型2挺と三式13.2mm固定機銃2挺の搭載されている。
零戦よりは重武装と言えるが、雷電や紫電一一乙型の20mm機銃4挺、同じ十七試の試製閃電(J4M1)の30mm機銃1挺+20mm機銃2挺には見劣りするものだった。
この火力不足への懸念からA7M2の量産型では武装を九九式20mm二号機銃四型4挺に強化することとなったが、この量産型第1号機は終戦により完成しなかった。

爆装に関しては零戦五二型までと同じく両主翼下に30~60kg爆弾を搭載出来る程度だが、こちらもA7M2量産型では胴体下の落下式増槽の懸吊架を爆弾架兼用の物に取り換えられた。
零戦の例を見るに、250~500kg爆弾くらいまでなら搭載出来たのではなかろうか。
まぁ、爆戦の五〇番はほぼ特攻用だけども。



防御力

当初は「特ニ考慮セズ」としていたが、途中で戦訓を取り入れて防弾装備が取り付けられるように設計変更された。
開発当初から発動機周りに消火装置が付いていたが、試作七号機以降には操縦席前方の防弾ガラス(遮風板10㎜+風防内55㎜)、翼内燃料タンクは発泡ゴム式の自動防漏式防弾タンクに変更、自動消火装置も設置された。
また、防弾タンクへの変更で容量が減ってしまう為、胴体後部に背面の防弾板を兼ねた固定増槽が増設された。

更に試作九号機以降では翼内燃料タンクも防弾タンクにすることになっていたが、これは実現する前に終戦を迎えている。



飛行性能

最高速度は一一型の時点で627.8km/hと、どう頑張っても565km/hが限度だった零戦を大きく上回る。*1
これは海軍期待の新星・紫電改二一型(595km/h)を上回り、陸軍の誇る日本最優秀戦闘機・四式戦闘機 疾風(624km/h)*2と比べても劣るものではなく、重量が四式戦よりも500kg程重いものの、エンジンの馬力も上昇しているので推力重量比に大差はない。特に空気抵抗係数はWWⅡ中の戦闘機としては最低レベルで、水平加速力は非常に高かったであろう。
また、急降下制限速度はF6F-35に匹敵する約770.kkm/hをである。


さて海軍にとって肝心の翼面荷重であるが、どうにか142.90kg/㎡まで抑えて初期の要求は達成した。
流石に零戦の107.89km/㎡に比べれば見劣りはするが、紫電改の161.7kg/㎡よりも優れていて、高い格闘性能は確保していたであろうことは疑いない。
例として一一型試作機が零戦との空戦実験で勝利していること、四式戦(翼面荷重185.24kg/㎡)がF6F-5(翼面荷重184kg/㎡)に対して格闘戦で優位に立てていたことを考えると少なくともそれら以下ということはないだろう。

高揚力装置としてスロット式親フラップとスプリット式の子フラップを組み合わせた親子式フラップを搭載。ゆくゆくは強風・紫電・紫電改で実用化された自動空戦フラップの搭載も予定されていたようだ。
堀越氏はフラップの作用によって荷重150kg/㎡の機体を約100kg/㎡まで下げられると試算していたという。

実際に小福田少佐と柴山操縦士が零戦と烈風を交互に操縦して自動空戦フラップを用いた確認飛行を行った結果、自動空戦フラップ未使用状態では零戦に分があったものの使用状態では烈風が断然優秀だという結果が出ている。
確認飛行で使用されたもものは紫電改などと同じ川西航空機製だが、後の研究会で空技廠製の「空盒式自動空戦フラップ」に変更することが決まっていた。
が、これは実際に積まれることはなく終戦を迎えた。



発動機

A7M1の初期試作機に搭載された発動機はNK9K誉二二型(離昇2,000hp)。
紫電改二一型や彩雲に搭載された誉二一型の性能向上型だが、これは開発陣の意に反して海軍の指示で搭載された物であった。
実際、試作1号機での飛行試験では零戦二一型に劣る最高速524.1km/h、上昇力に至っては高度6,000m/9分54秒という散々な結果しか出せなかった。


普通ならここで見切りを付けられる(実際一度は開発中止とされた)が、試験の結果に納得がいかなかった設計チームの検証によって使用された「誉」は定格出力の約7割しか出せない欠陥品であることが突き止められ、三菱のエンジンの自己負担を条件に開発続行の許可を得た。

そんな烈風に救世主として設計チーム待望の発動機が降臨した。
それこそ、三菱が開発しているMK9Aこと「ハ四三 一一型」。開発陣待望の、烈風が真の力を発揮する為のファクターだった。

この発動機はライバルの中島飛行機が開発していた誉への対抗馬として九六陸攻や九九艦爆などに使用された「金星」を18気筒化した物。
三菱の技術をこれでもかとばかりに突っ込んだ代物で、

  • 世界一軽いパワーウェイトレシオ*3
  • 馬力当たりの前面面積は世界最小
  • 信頼性世界一
  • 離昇2,200馬力
  • 高々度性能世界一

を目指して開発されている。
念願の2,000馬力クラスの発動機であり、「世界最小で最高の性能」を目指した野心作でもあった。




さて、ハ四三は別に烈風専用に造られた訳ではない。
ということで、実際にハ四三を積んだ試製紫電改五(試製紫電二五型)が作られた訳だが、こいつは飛行試験を目前にして空襲で破壊されてしまった。
無事に飛ばれてしまってはほぼ確実に烈風の命運にトドメを刺していただろうからセーフということで…


ちなみに堀越氏の長男雅郎氏によれば、戦後烈風について振り返った堀越氏は「最初からMK9を使っていれば実戦に出れたのになぁ」とこぼしていたそうな。
余程無念だったのだろう。
それが不可能だったのは上記の通りだが。



艦載機として

烈風の型番は「A7M」。「A」は艦上戦闘機を表している。
ただし、既に艦載機を運用出来る空母機動部隊も着艦出来る技量のパイロットも無く、戦局の悪化で機種を問わずに爆撃機の迎撃に駆り出されるような状況だったのでA7M2の量産型以降は局地戦闘機として採用する旨が通達されていたらしい。

一応艦載機だったので降着装置として着艦フック、主翼は翼端から1.8mで折り畳める仕組みになっていた。
ただ、上記のようにもはや局戦としてしか運用出来なくなっていたのでA7M2量産型以降は必要ない着艦フックと主翼折り畳み機構は撤去された。

そして艦載機として最大の欠点はデカい、重いということ。無改造で烈風を運用出来るのは大型のエレベーターと三式制動装置を持った大鳳、雲龍型、信濃、伊吹などに限られた。

発着艦については実験が行われていないので理論値になるが、ほぼ同じ翼面積でより重いF6F-5が合成風力12m/s(母艦が25ノットくらい)時の発艦距離が約74mである点を考えれば改装空母などでも十分可能だろうと考えられる。
ただ、アメリカ軍と違ってカタパルトで飛ばせられないので、一度に発艦出来る数はそう多くないだろう。





総合

試作機であるA7M1こそ散々な結果に終わったが、A7M2は陸軍の四式戦に匹敵する優れた戦闘機と言える(三菱並みの感想)。
結論から言えば、防弾装備と高火力を持ち、一撃離脱戦法も可能で格闘戦も得意な夢の高性能万能戦闘機であった。
零戦相手に猛威を振るったF6FやノースアメリカンP51マスタングにも対抗は出来たことだろう。

しかし、それはやはり夢でしかなかった。

解決しないエンジンの不調、下がり続ける搭乗員の練度、空襲・災害で灰塵に帰する工場、尽き果てた資源etc...
そして烈風最大の壁は、突如現れた紫電改が既に次期主力に収まっていたことである。

開発の懇願と努力が認められてなんとか採用された後も、海軍がかかりっきりだったのは紫電改の改良だった。
何せ紫電改は品質低下に悩みながらもそれなりの戦果を出し、艦上機としての試験もパスしている。
海軍からしてみれば、何時まで経っても完成しない烈風はもはや終わった戦闘機でしかなかった。

元はと言えば要求の無茶振りがここまで開発を難航させていたのだ。あまりに酷い海軍の態度は、戦後に小福田元少佐からも強く批判された。
身内からすら非難された程だったのだから、三菱からすれば海軍への恨みは相当なものだっただろうが……。



結局は大戦末期の航空機として帝国海軍の有終の美を飾るか、あるいは紫電改の存在に飲まれて消えていく影でしかなかったであろうことは想像に難くないだろう。




烈風のもしも…

未完成のまま終戦を迎えたので戦暦なんてものはない。例え間に合ったとしても、零戦のような活躍が出来たかは非常に怪しい。
何せ烈風を褒めちぎっていた小福田租少佐でさえハ四三の不調に苦言を呈していたくらいである。

仮に何の不具合もなく1945年に完成かつ実戦への投入が間に合ったとして、B-29や護衛機の迎撃以外だと恐らく出番は本土決戦
そしてこの頃のアメリカ軍は既に“最強のレシプロ戦闘機”ことF8Fベアキャットやイギリスのシーフューリーが実戦投入を目前に控えていたし、下手に戦いが長引くとジェット戦闘機ミーティアP-80シューティングスターと、F6FとかF4UとかP-51どころか更に次世代の機体がやって来る。
そもそも既に空襲や地震でメタメタにされていた日本の工業力でどこまであのチート物量に対抗出来るというのか。

結局のところ、完成までが遅すぎてどう頑張っても


烈風……ここにありィィィッ!!


と、某銀河烈風ばりに烈風散華していたであろうことは想像に難くないだろう。
何もかもが遅すぎたのだ…


ハ四三を搭載したA7M2はパワーウェイトレシオや翼面荷重がF8Fやシーフューリーよりも優れていたので、「対等の条件なら互角以上の勝負が出来たのでは」という話も存在する。
もっともそれ以外の要素、速度や上昇力、旋回率、機体内装備などすべてが劣っている。
勝っている部分だけを見て「勝てる」などというのは、保有艦数だけを見て開戦に突き進んだ日本帝国海軍と同じ思考と言えよう。






戦後の烈風

証言が錯綜している為に詳細は不明だが連合軍に接収されるのを防ぐ為、終戦までに生き延びた7機は海没されるか分解された。
三菱の関係者の一人はA7M1の内1機が終戦直後に松本飛行場から横須賀に運ばれてアメリカ軍に引き渡されたと証言しているが、その後の行方は解っていない。
戦後かなり時間が経ってからの調査でも発見されなかったらしいので、恐らくスクラップにされてしまったのだろう。

ちなみに投棄された場所が判明しているものに名古屋港沖の量産1号機があるが、この場所には現在防波堤が築かれているので確認することは出来ない。




バリエーション


A7M1 十七試艦上戦闘機 / 試製烈風

誉二二型を装備した試作型。試作機故に計7機のみの生産。

開発陣が想定していた発動機ではない誉二二型では十分な出力が出せず、試作一号機は運動性こそ勝っていたものの速力は零戦二一型に劣る最高速524.1km/h(改良後でも五二型より多少まし程度の574.1km/h)、上昇力に至っては高度6,000mまで9分54秒と計画値からは程遠い性能しか発揮出来なかった。

本機のテストパイロットを務めた日中戦争以来のベテラン・志賀淑雄少佐*6は戦後紫電改を高く評価した一方で、烈風に対して「格闘戦重視で速度と高高度性能がイマイチ」「被弾面積が大きいのに防弾装備が不十分」として、「実用化されなくてよかった」と散々な評価を下している。
こんな性能では真っ当な評価だが、志賀少佐が搭乗したのはこの試製烈風のみであって烈風全体を評した訳ではない点も留意するべし。

防弾装備の追加や仕様変更などで前期型と後期型では構造が異なり、後期試作機の5~7号機は下記のA7M2へと改造されている。



A7M2 烈風一一型 / 烈風改

後期試作機の内3機の発動機をハ四三 一一型に換装したタイプで、A7M1の後期試作機3機と烈風の量産型が該当する。

まだまだ未完成ながら空戦実験で零戦を圧倒。海軍の要求通りの優れた性能を見せて審査担当官の小福田租少佐からは“零戦の再来”とか“烈風が2000機あれば戦局の挽回も可能”と賞賛している。
これには一度烈風を見放した海軍も手の平返しで制式採用を通達、早速三菱に量産を命じている。
紫電改の片手間で、だが。*7

量産型は発動機をより高高度性能の高いハ四三 一二型(離昇2,150hp/2,900rpm)へ換装し、武装も翼内九九式20mm二号機銃四型4挺(携行弾数各200発)に強化され、課題だった火力面での不安も払拭している。
だが、量産第1号が完成する直前に終戦を迎えてしまった。

なお、A7M2、A7M3、A7M3-Jの3機は“烈風改”と称されるがいずれも俗称であって正式な名ではない。


A7M3 烈風性能向上型 / 仮称烈風三速 / 烈風改

A7M2の性能強化型。
次期甲戦闘機の候補として発動機を一段三速過給器付きのMK9C ハ四三 五一型(離昇2,130hp/2,900rpm)に、武装を新型の九九式20mm二号機銃五型6挺(携行弾数最大各200発)に強化している。
また、対爆撃機用に六番二十七号奮進爆弾(ロケット弾)2発の搭載も予定されていた。

開発は比較的順調に進んでいたが、製作準備中に終戦を迎えたので実機は製作されていない。


A7M3-J 烈風改

こちらは最初から高高度局地戦闘機として設計し直したタイプ。
艦上機としての機能を完全に捨て去り、それぞれ発動機を排気タービン過給器付きのハ四三 一一型ル(離昇2,200hp/2,900rpm)、しかる後にMk9Bハ四三 二一型(離昇2,200hp/2,900rpm)に、武装を翼内五式30mm固定機銃4挺(携行弾数各60発、過荷重時各73発)、胴体30mm斜銃2挺(携行弾数各100発)、爆装を六番二十七号奮進爆弾4発または250kg爆弾2発が搭載出来るようにあらゆる装備が換装・強化されている。
この強化改造の為、操縦席周辺と尾翼以外の殆どが設計し直され、ほぼ新規設計と呼ばれて然る機体に仕上がった。

こちらも製作準備中に終戦を迎えて敗戦の混乱で多くの資料が破棄された為に長らく設計図の存在が絶望視されていたが、2013年になって堀越氏の親族が群馬県藤岡市に寄贈した当時の資料の中に同機の設計図が含まれていることが発見された。


次期戦闘機 / 二十試甲戦闘機

計画のみ。
名乗りを上げた三菱、川西、中島の中でも三菱案がA7M2またはA7M3-Jの設計をベースとした高高度戦闘機となる。
開発中の二段三速過給器付きMk11-21ハ四四 二一型(離昇2,400hp/2,800rpm)またはハ四四 一三型(離昇2,350hp/2,800rpm)を搭載する予定だったが、性能を推算する段階で終戦を迎えた為に詳しい性能はわかっていない。

「二十試甲戦闘機」という名前は公文書で使われていた物ではなく、堀越二郎氏と奥山正武氏の共著が初出。


キ118

陸軍が三菱に対して昭和20年に発注する予定だったという機体。
判明しているのは「ハ二一一(ハ四三の陸軍名)を装備」、「近距離戦闘機」ということだけで本当に烈風と関係があるかは不明だが、当時の三菱に新しく設計を行う余裕がなかったことからA7M3-Jの陸軍型ではないか、とする説があるとのこと。




創作における“幻の戦闘機”烈風

実戦参加に至らなかった幻の高性能戦闘機ということで、架空戦記やゲーム等で人気がある。
ラバウル烈風空戦録』や『レッドサンブラッククロス』がその際たる例。
特に後者では「A7M3-N 烈風三三型 烈風改」とか「A7M4 烈風四二型 烈風改II」なる改良型まで登場している。


近年ではブラウザゲームの『艦隊これくしょん -艦これ-』での活躍が顕著か。
本作の烈風は今でこそスペックの上では制空値以外目立たないものの、開発可能な戦闘機としては最強という価値がある。憎いあんちくしょうである紫電改二よりも+1だけ対空が上で量産もできる!


人気空戦SLG『War Thunder』ではランクⅢのプレミアム機体として『A7M1(NK9H) 試製烈風』が、同じくランクⅢの艦上戦闘機として『A7M2 烈風』が実装されている。
全体的に高い水準の性能を持っているが、やはりデカいし重いのが欠点。使い勝手はそこそこ格闘戦が出来る一撃離脱機といった感じだろうか。
試製烈風、烈風共にその真価はアーケードバトルよりもリアリスティックバトルで発揮される。
「烈風の真髄が見たい!」という方は是非。








当時の日本で2,000馬力級エンジンを開発出来る方は追記・修正をお願いします。

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最終更新:2023年07月06日 18:35

*1 ただし、627.8km/hは軽荷重での記録

*2 なお疾風の量産型(推力式単排気管装備)では速度が向上し、650㎞/hを記録している

*3 出力重量比。馬力当たりの重量

*4 初飛行は42年だが、量産開始は44年4月から

*5 43年6月には実戦投入済

*6 元加賀、隼鷹、飛鷹、信濃(予定)の飛行隊長。後に第三四三海軍航空隊飛行長に着任

*7 あらゆる企業に声をかけて紫電改の月生産目標1000機を掲げていたのに対し、烈風は採用から年末の6ヶ月で170機だった。縮小されていた零戦の生産ラインを宛がわれただけだったのだ。

*8 本来艦載機ではないが、図鑑の説明から恐らくA7M3-Jと思われる。所謂if艦載機

*9 六〇一空=第六〇一海軍航空隊。マリアナ沖海戦時における第一機動艦隊の航空母艦飛行隊で、こちらもif艦載機

*10 烈風系は改修不可かつサブステータスが無いか微妙な為

*11 烈風(六〇一空)には改修は実装されていないが、ゲーム中の前身機となる零戦52型(六〇一空)には改修が実装されており、零戦52型(六〇一空)を烈風(六〇一空)に交換する際に改修が引き継がれるため。ただし現状交換できるのは1回だけであるため、零戦52型(六〇一空)の改修実装前に交換していた場合はこの恩恵を受けようがない。

*12 例として2018年7月現在量産可能な戦闘機で最強のF6F-5をフル改修するのに最低でも紫電改二が12個、烈風が4個必要となる。そもそもF6F-5を入手するまでに紫電改二を最低6個は消費している。

*13 「烈風改二戊型(一航戦/熟練)」は名前からして一航戦所属機だが、それ以外もイラストに一航戦所属を示すペイントが確認できる。