登録日:2024/03/07 Thu 11:49:44
更新日:2024/05/08 Wed 22:07:12
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“ラヴィシング”リック・ルード(“Ravishing”Rick Rude)=本名:リチャード・アーウィン・ルードは、1958年12月7日生まれの米国の元プロレスラー。故人。
旧NWA系のテリトリーでデビュー後、2大メジャーの
WCWと
WWFの双方でトップに立った実績を持つ実力者であったが、36歳にして頸椎損傷の重症から惜しまれつつも現役を引退。
その後はマネージャー業に転向していたものの、1999年4月20日に心臓麻痺により逝去している。
享年40歳。
口ひげと毎回変わるロングタイツの柄がチャームポイントだった。
日本では全日本プロレスと新日本プロレスの両方に来日しているが、特に92年の第2回G1クライマックスに於ける活躍が有名で、並み居る強豪を後目に決勝に進出。
蝶野正洋に敗れて準優勝に終わるも、見事にシックスパックが刻まれた肉体美と
腰クネパフォーマンスで日本のファンにも存在を刻みつけた。
公称
身長は191cm。全盛期の体重は114kg。……と大柄で筋肉美を売りにするビルダー型だったが、マッチョ系レスラーとしても珍しく、全く無駄が無いと思える程の痩せ型の体型で手足までも長いという恵まれたスタイルの持ち主で、その容姿を活かした伊達男ギミックで鳴らした。
実際、自分のキャラを客観的にも理解していたのか、団体を跨ぎつつ“Ravishing”をニックネームとして、デビューから引退までを一貫してヒール(悪役)で貫いたという、レスラーとしても極めて珍しいキャリアの持ち主でもある。
一方で、悪役レスラーらしく良識的なエピソードも垣間見え、抗争相手だったリッキー・スティムボートがWWFで“ザ・ドラゴン”なんてギミックを付けられて“火を吹いてる”のを見た時には激怒して「元NWA世界王者に何をやらせとんねん(意訳)」と怒ったとも言われている。
【略歴】
ミネソタ州ロビンズデール出身。
同世代でロシア人ギミックで活躍したニキタ・コロフ(ネルソン・スコット・シンプソン)とは同じ高校出身(ロビンズデール・ハイスクール)で、卒業後はミネアポリスにて酒場の
用心棒をしていたという。
ここで、同僚のロード・ウォリアーズ(アニマル&ホーク)やバリー・ダーソウ(=デモリッションズ・スマッシュ)等と共に、名伯楽として知られる元プロレスラー・プロモーター・トレーナーのエディ・シャーキーにスカウトされて1983年にデビュー。
地元ミネソタやカナダを転戦した後にアメリカ南部の有力テリトリーを渡り歩き、メンフィスのCWA、フロリダのCWF、ダラスのWCCWではキャリア数年にしてトップヒールととしての才能を見出され、移籍するまでの間に各々の団体のシングル、タッグ王座を獲得している。
そして、86年よりジム・クロケット・ジュニアの主催するNWAミッドアトランティック地区に進出。
同地区の最大のヒール軍団“ポール・ジョーンズ・アーミー”に加入して、マニー・フェルナンデスとのコンビでNWA世界タッグ王座を獲得。
ロックンロール・エクスプレス(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)やロード・ウォリアーズと抗争を繰り広げた。
87年からはWWFに参戦。
ボビー・ヒーナンがパートナーに付く程の若手の実力派ヒールとして活躍し、ポール・オーンドーフやジェイク・ロバーツといったベビーの大物と抗争。
88年1月には
ハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦している。
89年からはアルティメット・ウォリアーと抗争を開始し、WWFインターコンチネンタル王座を獲得とシングルプレイヤーとしての実績を固めた。
このWWF時代より伊達男キャラを完成させることとなり、自身の肉体美を描いたロングタイツに、試合後は勝利後に会場から選ばれた女性ファンに濃密なキスをサービスする等、
羨まけしからん現在では考えられない過激なパフォーマンスも定番となった。
90年からは古巣にして、WCWと名を変えていた旧NWA圏に戻ると、メデューサ(アランドラ・ブレイズ)をマネージャーに付け、業界にて名前を挙げ始めていたポール・E・デンジャラスリー(ポール・ヘイマン)がマネージメントする一大ヒール軍団“デンジャラス・アライアンス”にエース格として加入し、ここで“スタニング”スティーブ・オースチン(
ストンコ)や元フォー・ホースメンのアーン・アンダーソン、ラリー・ズビスコ、ボビー・イートンといった実力派ヒール達と共闘して
スティングやリッキー・スティムボートといったベビー軍団と、長期に渡り抗争を繰り広げた。
91年7月にテリー・ゴディ&スティーブ・ウイリアムスの“殺人魚雷コンビ”と共闘する形で全日本プロレスに参戦する為に初来日。
スタン・ハンセンとも対戦した他、シングルでは
田上明に勝利をする等の好待遇だったものの、御大
ジャイアント馬場からのウケはあまり良くなく定着しなかったと言われている。
91年11月にはスティングからUS世界ヘビー級王座を奪取し、長期政権を築くとともに虎の子のベルトとしてニキタ・コロフやダスティン・ローデス(ゴールドダスト)の挑戦を退けた。
そして、92年8月にWCW自体が提携を結ぶ新日本プロレスにて第2回G1クライマックスに参戦する為に初参戦。
復活したNWA世界ヘビー級王座がかけられた同大会にて、米国同様にメデューサを帯同させて参戦して準優勝を飾り、未知の強豪としての実力と共に腰振りパフォーマンスを日本の
プロレスファンの記憶にも刻みつけた。
尚、余談ではあるが同大会はWCW側としては優勝は譲りつつも日本側にルードを売り込む為の大会でもあったのだろうが、解説役のマサ斎藤が年齢、キャリア的にもルードには及ばない格で見た目も技も地味だった“スタニング”スティーブ・オースチンのことを
ベタ褒めしていた大会としても後に有名に。
正直な話、この時点ではどうしてマサがそんなにオースチンを買っているのか不明だったし、オースチンは大会のすぐ後にNWA王座となった蝶野に挑戦した際に禁じ手の“リバース・パイルドライバー”を仕掛けたことで少なくない不興を買い、更にそれから間もなくにはWCWまでクビになったりと、この時点ではマサさんのトンチキ発言の一つと既に聞き流されてるか、何なら速攻で忘れられていた程度の話題……だったはずなのだが。
しかし、92年12月には負傷してUS王座を返上。
復帰後の93年からはこれまでに抗争してきたスティングやスティムボートよりも格上で、団体やテリトリーの垣根を越えたトップ中のトップである
リック・フレアーと抗争を開始し、いよいよ業界のトップヒールとなる御膳立てがされ始めていたのだと思われる。
9月にはそのフレアーを破りWCWインターナショナル世界ヘビー級王座と命名されていた、黄金のフレアーモデルのベルトを獲得。
名実共にWCWの頂点に立った。
同王座を巡ってフレアー、スティングと抗争し、94年5月には新日本プロレスの福岡ドーム大会にてスティングから同王座を奪取しているが、この試合にて頸椎損傷の重症を負ってしまい選手としてのキャリアが潰えてしまうことに。
以降は、マネージャーとしてWCWのみならずポール・ヘイマンの伝でECW、更にはWWFにも登場する等していたものの、99年4月に逝去。
間違いなく80年代後半〜90年代中盤を代表する名選手の一人であった。
2017年には
WWE殿堂に迎え入れられる。
インダクターは
ライバルであったリッキー・スティムボート。
【主な得意技】
■ルード・アウェイクニング
所謂“ショルダー・ネックブリーカードロップ”と同型。
代表的な決め技で、格下相手には落とす前に腰振りパフォーマンスを入れてから落とすこともあった。
また、相手の片腕をとって仕掛ける通常型のネックブリーカードロップは痛め技として使用されていた。
■ダイビング・ニー・ドロップ
ルードの場合はブロディ方式の両膝を立てた“ダブル・ニー・ドロップ”と呼ばれるスタイルで使用。
飛び技も多用したルードの空中技の中では最も格上で、決め技としても使用。
■スナップスープレックス
いわゆる、高速ブレーンバスターと呼ばれる技。
長身でパワーもある選手がこのタイプのブレーンバスターを使うのは珍しく、ルードは通常のブレーンバスター(バーティカルスープレックス)や対空式ブレーンバスターも使いこなしているので、敢えて高速低空型を使用していたのが解る。
■DDT
長身なので強烈に決まった。
決め技としても使用。
■カナディアンバックブリーカー
■サイド(ペンデュラム)・バックブリーカー
■ストマックブロック
■パイルドライバー
■腰クネパフォーマンス
“ラヴィシング”キャラを完成させてからの代名詞。
日本でも現
石川県知事の
馳浩が現役時代にパクっていたことで有名。
若手時代の小島聡や金丸義信も披露したこともある
伊達男キャラも含めて、後にバル・ビーナス(ショーン・モーリー)に引き継がれた感がある。
追記修正お願い致します。
最終更新:2024年05月08日 22:07