馳浩

登録日:2012/09/06(木) 22:50:59
更新日:2018/04/21 Sat 04:45:34
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◆馳浩

(はせ)(ひろし)」は日本の政治家、元プロレスラー。
1961年5月5日生まれ、富山県小矢部市生まれ、石川県金沢市育ち。56歳。
現在の妻はタレントの高見恭子。
離婚歴があり、先妻はサンボの元選手であるビクトル古賀の娘。

自民党所属の衆議院議員で、安倍晋三~福田康夫政権下では教育問題に取り組んだ他、児童虐待防止法の実現にも尽力した。
そして、2015年には再び政権に返り咲いていた安倍晋三改造内閣にて文部科学省大臣として初の入閣を果たした。
政治家になる以前は元オリンピック代表の人気プロレスラーとして活躍し、90年代の黄金期の新日本プロレスに於いては主力スターにして道場主として団体の屋台骨を支えていた。
師匠・長州力の参謀役として当時の新日本プロレスのブック(台本)を担当していたと言われる。

95年に自民党の要請に応じ参議院選に出馬して以降は議員活動がメインとなり、96年には新日本プロレスから退団。
同年に議員レスラーとして全日本プロレスに移籍。
スポット参戦ながら、嘗ての新日本プロレスのトップレスラーの移籍は「四天王プロレス」全盛期の全日本ファンを大いに刺激した。

00年の全日本プロレスの分裂の後も所属選手として残り、新日本からまさかの移籍を果たした武藤敬司に協力した。


【人物】

名門と知られる専修大学にてレスリングに取り組む。
卒業後、古典の教師として母校である星陵高等学校にて教鞭を取りつつ、84年のロサンゼルス五輪にレスリング代表として出場。
85年、同じく専修大学の出身であり、新日本プロレスを離脱した長州力がジャパンプロレスを設立すると教職を辞して入門。
同じく新弟子である佐々木健介と共に全日本プロレスの若手に交じり研鑽を積む。

87年に長州力が新日本プロレスに電撃復帰をするとジャパンプロレス勢も新日本プロレスに編入される。

馳はオリンピック出場のバックボーンを買われて特別待遇を受け、カルガリー修行からの帰国第一戦にてIWGPJr.ヘビー級王座を獲得。
これに反感を抱くファンもいたが、ヘビー級に転向し自らの陽性のキャラクターを打ち出した他、長州力が団体の方向性を握る様になると健介と共に道場主に就任。
一選手ながら「ブック」も考えるなど団体の屋台骨を支える。

選手としても闘魂三銃士に続く若手の実力者として君臨。
90年には同門の佐々木健介とのハセケンで快進撃を続けていた武藤・蝶野組を破りIWGPタッグ王座を獲得。
カウント「2.9」の応酬が続く熱戦により90年代プロレスの始まりを呼び込んだとの最大級の評価を受ける。

また、この90年には危険なバックドロップの使い手として知られる後藤達俊のバックドロップを受け損ない心肺停止に追い込まれる事故を起こしている。

闘魂三銃士の他、90年代の新日本プロレスを彩るビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバンビガロ、スタイナーブラザーズ、スコット・ノートンらと激闘を展開。

健介の他、武藤とのタッグでも活躍。
抜群のプロレス脳の持ち主として知られており、試合を通して武藤からグレート・ムタの残虐性を引き出した他、
象徴的存在であるアントニオ猪木とのシングルマッチも実現させている。

しかし、95年に自民党の誘いを受けて参議院選に出馬。
政治活動を主にするべく96年に新日本から退団。
しかし、これに対しては 師匠である長州力との行き違いもあったとの事で、同年暮れにはまさかの全日本プロレスへの移籍を果たしている。
新日本プロレスのトップレスラーの移籍は大いに注目を受け、スポット参戦ながらも00年までに全日本プロレス四天王と秋山準の「五強」全員とのシングル対決を実現。
……結果は全敗であったが「四天王プロレス」には無かった、
新日本流のネチネチとしたグラウンドレスリング主体の攻めにより試合をコントロールしていたのは寧ろ馳であったとの意見もある。
(「ブック」により勝敗は決まっていたとの説もある)
矢張り三沢戦や小橋戦が大きな注目を集めたが、東京ドームでの専修大学の後輩、秋山との戦いでは初めてリストクラッチ・エクスプロイダーが解禁された試合としても名高い。
必殺技を身に付けた秋山が、この後四天王越えを果たして行く契機になった試合と考えればその意義も大きい。

00年に全日本プロレスが分裂。
崩壊の危機に晒された全日本プロレスだが、それに助け船を出したのは古巣新日本プロレスであり、交流を開始した両団体だったが、
新日本のエース格の中のエース格であった武藤敬司がまさかの全日本プロレスへの参戦を果たす。
盟友の移籍に馳も参謀役として加担。
超党派グループ「BATT」の結成から始まり、正式な移籍と共に社長に就任した武藤全日本で諏訪魔をデビューさせるなど、全日本の復興に協力した。
しかし、06年議員活動に専念するべくプロレスから引退。
尚、この引退試合では激励に訪れた会派の長である森喜朗元首相が対戦相手のVOODOO-MURDERSに挑発を受け、
あわや乱闘騒ぎとなる“サービスシーン”があった事で有名(現在の会派の長である町村信孝も顛末をにこやかに見守っていた)。
前述の様に、この引退から約10年を経ての元人気プロレスラーの初入閣をマスコミも大々的に報じた。
集団的自衛権の公使の容認や隣国からの干渉への苦言等、保守派議員として支持を集めている。
以降、表立ってはプロレスへの関わりがニュースとはなっていなかったが、
12年に創立40周年を記念して行われた新日本と全日本プロレスの合同記念大会のメインを飾った棚橋弘至と真壁刀義の一戦に対して苦言を呈した事がニュースになっている。

政治家としては保守色が強く、青少年健全育成基本法案に賛成するなど以前は表現規制賛成よりと見なされていた。
この点は赤松健のロビイングにより多少の変化が見られる。
また、教員時代に体罰を行なっていたことを反省しており、第3次安倍第1次改造内閣で文部科学大臣に就任した際には
当時問題となっていたピラミッド組体操の高層化規制に前向きな態度を取っている。



【得意技】

●ノーザンライトスープレックス
北斗原爆固め。
この技の元祖であり、馳の場合は相手の両腕を抱えるので脱出は非常に困難となる。

●裏投げ
ロシアでのサンボ修行で得た技で、この技の第一人者。
トップレスラーを相手にした場合は真っ逆様にマットに叩きつけた。

●ジャイアントスイング
最大の魅せ技で、馳の場合は回転数が売りであった。
引退試合では年齢に合わせて45回転を披露している。

●逆水平チョップ
独特のモーションの為に“馳チョップ”の通称がある。
威力は高いが、これで追い込むと何故か(相手に)逆転フラグが立つ。

●裏STF
第3回G1で蝶野を破った技。前夜に飲んでる時に思いついたらしい。

●ジャーマンスープレックス
非常に美しい弧を描いて決まる事で有名。

●各種スープレックス
●サブミッション

※当時の新日本プロレスは三銃士始め、グラウンドレスリングの強い選手が揃っていた。
オールドファンが現在の新日本プロレスに苦言を呈する理由の一つがそれである。


【余談】

※同門、且つ親友として知られる佐々木健介だが、僅かな差とは言え後輩の馳が特別扱いされる姿には含む物があったと云う。

※特別扱いされていたとは云え、当時の馳が要求したのは教職にあった時と同額の給与でしかなかった。

※健介と共に第3世代と呼ばれた選手達を指導したが、それ以前の新日本を知るファンからは没個性でつまらなくなったとの評価がある。
……尤も、これは師匠である長州力が自分が好むタイプの選手を育てるように馳らに命じた為であり、
これに反発した第3世代の西村修は後に長州力批判と共に新日本プロレスを退団している。

※セコンドに付いた際には非常にうるさく野次を飛ばす事で知られる。あまりにうるさい為にタイガー服部レフェリーに制裁としてキックを受けた事がある。

※共にサンボ修行をしたのが飯塚高史だが、瞬発力に欠ける飯塚の裏投げを“裏返し”と揶揄している。

※アマレス出身としてブリッジの美しさには絶対の自信を持っており、当時の流行技である投げっ放し式には否定的であった。
……唯一、馳が投げっ放し式を使用したのは92年の橋本真也とのシングル戦だが、
これは橋本のカウンターのローキックにより一撃で膝を破壊され踏ん張りが利かなくなると云うアクシデントによる為である。

※観客席にTシャツを投げ入れるパフォーマンスは自分であるとの自負がある。

※プロレス史に残る最大級の危険技であるスコット・スタイナーのSSD(スタイナー・スクリュー・ドライバー)を日本で最初に食らった。

※新日本プロレス入団を希望していた秋山準を落とした張本人。
……先輩として秋山が腰に古傷を抱えていたのを心配した為であったと云う。

※矢張り後輩の中西学の新日本入りにも反対していたが、理由は「バカ」で使い物にならないと思っていたからである。



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