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更新日:2025/01/06 Mon 11:56:51
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ジョージ・アンドリュー・ロメロ(George Andrew Romero)は、1940年2月4日生まれの米国の映画監督・脚本家・編集者・CMクリエイター。
俳優として出演している作品や、作曲を手掛けた作品も存在している。
ロメロと云えば、ホラー界に燦然と名を残す巨人(※身長的な意味ではない)であり、現在までに“ホラー”の枠を越えて
映画の一大ジャンルとしての地位を築き上げた
現代ゾンビ映画の礎を築いた
偉大なる始祖として知られている。
元々は、決してゾンビ(ホラー)映画を撮りたかった訳ではなかったというが、
幾度かの失敗を経た後には当人も自身の思想と信念を反映できる作品として、ゾンビ映画に拘りを以て製作するようになっていった。
……尚、高名に反して映画人としては“寧ろ不遇なキャリアを歩んだ”ことで知られているものの、確かに運や時代にも恵まれなかったことは確かだが、その境遇は自由な映画作りをするために自ら選んだ部分も多いという信念の人だった。
何れにしても、彼が自身の作品で見せた彼自身の深い感性と知識の豊富さから生み出された、時に哲学的ですらある“生ける死者の姿”は、正に近代史に於ける新たなるフォークロアとなって国や文化を越えて愛されるまでになっているのである。
【人物・評伝】
■生誕〜大学卒業まで
ロメロといえばペンシルバニア州ピッツバーグに本拠地を置いて活動していたことで知られているが、ピッツバーグは大学卒業後も現地に居着いていたというだけの話であり、本当の生まれは(お隣の)ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリンである。
因みに、晩年にはカナダのトロントに移住しており、当地で逝去している。
父はスペイン系のキューバ人。
母親はリトアニア人であったという。
ロメロ家は比較的に裕福な家庭であったようで、父親は広告デザイナーをしていた。
アート一家で父親が映画関連の仕事を手掛けることも多かったためか、
1940年生まれと、世間的にも一般人が“映像”を見るには映画館に足を運ぶしかない……というのが常識であったろうに、
この当時からロメロ家には家庭用の映写機があり、幼い時分からホームシアター感覚で映画に触れることが出来るという、恵まれた環境で育ったのだという。
そんな調子だったので、早い時期からロメロ少年も映画監督になる夢を抱いていたようで、
自分にそう思わせてくれた思い出の作品としてイギリスのオペラ映画『ホフマン物語』を挙げている。
また、ロメロはこの他にもベラ・ルゴシの『魔人ドラキュラ』や、ボリス・カーロフが演じた『フランケンシュタイン』といった、世間的にも大きく注目を集めたハマー社のモンスター映画を好んで視聴していたそうで、其れ等から得た知識が後の自身の“ゾンビ映画”にも活かされていくことになる。
中学生の頃には既に8ミリフィルムで自主製作映画の撮影に挑んでいるが、迫力のある映像を撮る為に近所のビルの屋上から火をつけた人形を落下させての撮影に挑み、大目玉を食らったことがあったという。
高校3年生の時にはアルフレッド・ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』の撮影にゴーファー(“使い走り”と訳される便利屋のこと。スタッフ補助。)として参加し、初めて本格的な映画業界との関わりを持つ。
……が、ここで当時から存在していた“ハリウッド的”な商業主義全開の現場風景を見て幻滅。
……映画への情熱こそ冷めなかったものの、この時からメジャー資本が絡んだ場合の作品作りへの嫌悪感と不信感が育つことになってしまった。
翌年より、お隣のペンシルバニア州ピッツバーグのカーネギーメロン大学に入学して映画を学ぶ。
ここで、後に共に映像製作を行うジョン・A・ルッソやラッセル・ストライナーとの親交を深めたロメロは、裕福な叔父の援助を受けつつ映画製作に挑むも資金が尽きてしまい失敗。
自力での映画製作の機会を待ちつつも取り敢えずは経験を積むためにも映像で仕事をしようと思い立ち、
再び叔父の援助を受けて友人達とCM製作会社“ラテント・イメージ”を設立。
CMや、産業用フィルムの監督・編集として働いた。
業績は中々に好調で仕事こそ途絶えなかった…… ものの得られる報酬は低く、自転車操業であったとのこと。
そのため、ロメロ達はなかなかに希望する映画を作る程の資金を作れずに雌伏の時を過ごすことになった。
■ナイト・オブ・ザ・リビングデッド
そんな訳で、苦労しながらも映像業界に携わる中で腕を磨いてきたロメロと仲間達だったが、1968年になって何とか11万㌦(現在のレートで約1億3千万円程)の資金を確保。
遂に、念願だった長編映画の撮影に挑むことになった。
……因みに、当初は宇宙人と思春期の少女の交流を描いたラブコメSFを構想していたというロメロだったが━━資金が足りないことから断念。
そこで、
渋々ながら
低予算でも撮れる題材として思いついたのが、以前に見たリチャード・マシスンの『地球最後の男』の実写映画版から着想を得た、
最も人間に近い怪物である“生きる死者”を題材とした怪奇映画……後に
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』と名付けることになる作品であった。
一見すると、そこそこの資金を集められているようにも感じてしまうのだが、当時は“映画用の資材”なんて概念がろくに無かったようで、必要な小道具は本物を用意する必要があり、その為に映画に掛かる予算は(レートを合わせた場合には)遥かに高額だった。
なので、11万㌦というのは当時としては考えられないレベルの低予算であり、撮影場所となった例の民家も、
運良く解体予定の民家を見つけて「自分達で始末する」ことを条件に安価で譲ってもらい、更に撮影中にはスタッフ総出で住み込みながら撮影したのだという。
作中の自動車や衣装ももちろん自前で、冒頭の墓場での自動車が木にぶつかるシーンも、撮影中にぶつけてしまった凹みを利用して追加されたものだったりする。
演者が満足に雇えないことからロメロやルッソ、ストライナーも自ら映画内に出演していることで知られている。
メインキャストも役者として雇い入れたのはベン役のデュアン・ジョーンズ位のもので、他は矢張り兼業のスタッフや、乃至は、その関係者や友人に声をかけてもらい集めた面子だった。
因みに、この当時には既にホラー・メイクアップアーティストのトム・サヴィーニとも知り合っていたのだが、サヴィーニがベトナム戦争に(戦場カメラマンとして)取られてしまったので不参加となっている。
……元々は上述の通りで、登場する“生ける死者”には大掛かりなメイクが必要ない……という、かなり後ろ向きな理由から採用されたアイディアだったものの、生真面目なロメロは特に好きでもなく仕方なしに選んだ題材……と言いつつも、いつの間にか世界観の創造にのめり込み設定を練っていった。
この時のロメロの世界観の練り込みが以降の伝説を生む礎となったのはファンならば周知の事実。
その中でロメロが参考にしたのが前述の通りの『地球最後の男』だった訳だが、ここでロメロは従来の映画では“ちょっと不気味”という程度の扱いでしかなかった“生きる死者”に生者に襲いかかって肉を喰らい、喰いつかれた者は新たな“生きた死者”になる……という属性を付与した。
更に、本当に死者が蘇ったのなら動きには相当に制限が掛かるだろうとし、ルッソらと共に死者の動きを研究してエキストラにも熱心に指導してリアリティを出すことに腐心した。
こうして、完成されて1969年より公開を開始された『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は各地の上映会にて衝撃を与え大きな話題を集めた。
死者とはいえ、人が人を喰らい、更にそれを人が殺す展開。
更に言えば、黒人男性を勇気と叡智を持った人物として描き主人公に据える構図は、この時点で既に何十年も映画文化に触れてきた米国人にとっても従来の常識を破壊される行為に見えたのか批判も巻き起こったのだとか。
……脚本やアイディアを売って資金を出してもらっていたら食人の要素や黒人を主人公とするアイディアは潰されていたかもしれない。
因みに、当初はロメロ達もベンをもっと粗暴で愚かな人物として描こうとしていたのだが、他ならぬデュアン本人の人柄と経歴に触れて、劇中のように“ブルーカラーとして働くことを強いられながらも知的な人物”に改めたのだとか。
故郷ニューヨークでは(特にロメロの出身地だと喧伝された訳ではなかったが)深夜上映枠の、後に“ミッドナイトカルト”と評された、伝説的なタイトルの一つとして人気作としての地位を確立。
気づいてみれば、全米で260万㌦以上とも言われる収益を叩き出すことになったという。
……しかし、本来ならば、この時点でロメロのサクセスストーリーは完成していた筈だったのだが、その成功はロメロ自身の大ポカにより果たされることはなかった。
実は、上述の通りで『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は、ロメロ達の革新的なアイディアが盛り込まれた作品だった訳だが、革新的すぎてロメロ達自身も自分達が生み出したこの新たなる怪物達の名前を定義することが出来ず(現在は“ゾンビ”として定着しているが、此れは後にファンが見た目や動きが“似ている”ことから自然発生的にそう呼ぶようになっただけで、撮影当時に“ゾンビ”と言えば、ブードゥー教の伝承通りの“生き返らされただけの死者”でしかなかった。)、劇中でも名称があやふや、自ずとタイトルも公開までに二転三転して、土壇場で『Night Of The Fresh Eaters』から『Night Of The Living Dead』に変えられていた……という経緯があった。
……が、余りに急だったのか“リビングデッド”という、漸く一度聞いただけで
この怪物の特徴を伝えられる単語を思いつけたことで興奮していたのかは定かではないが、何とロメロは
タイトル変更に伴う商標登録(TM)取得を出さずに発表……これによって、ハイエナ的な業界人や興行師から
パブリックドメイン無しのフリー素材として扱われて好き勝手にコピーされて許可も契約も無しに上映・販売されてしまったのである。
こうして映画自体は大ヒットとなったが、低予算に喘ぎつつ作品を世に送り出したロメロ達には正当には程遠い対価すら入らずに諸々の苦労と熱意が徒労に終わる結果となった。
……とはいえ、ちゃんと見てくれている人間は見ていてくれたようで、ロメロは手腕とアイディアを認められて以降も“映画監督”としてのキャリアを築いていけることになったのであった。
尚、ロメロ自身は「乗り気でなかった」と言いつつも続編の構想を練る位には気に入っていた題材であったようで、それは共に脚本を担当したルッソも同じだった。
しかし、続編もシリアスな方向で行こうとしていたロメロに対して、ルッソはコメディ的な要素も取り入れたいとの意向を持っており、お互いに其々に続編を作る権利を許諾し合った。
こうして、後にルッソの権利を得て製作されたのが『
バタリアン(リターン・オブ・ザ・リビングデッド)』(1985年)である。
■ドーン・オブ・ザ・デッド/ゾンビ
さて、各地での盛況に見合う興業収入こそ得られなかったものの、一応は名声は得ることが出来たロメロは続けて映画を撮り続ける……が、前述の通りでホラー以外のジャンルに頑張って挑むも、何れもヒット作には結びつかず。
いい加減に失敗が続いたと認めたロメロは、仕方なくホラーに戻り『ザ・クレイジーズ 細菌兵器の恐怖』(1973年)を撮影。
……これも、ヒットには結びつかなかったが批評家からは評価されているので、当人の希望はともかくとして、やっぱりロメロにはホラーが向いているのだと思われる。
そして、興業で失敗が続いたことで100万㌦近くもの借金を抱えてしまったロメロ━━だったが、ここで新たなパートナーとなる、TVプロデューサーのリチャード・P・ルビンスタインと出会って意気投合。
2人でローレル・グループ・プロダクションを設立すると、ルビンスタインがマーケティングを請け負ってくれるようになったことで、ロメロは映画製作のみに専念することが出来るようになった。
そして、77年に吸血鬼映画『マーティン/呪われた吸血少年』を製作。
大コケ映画が続いていたせいで公開までに2年近くも掛かってしまった……とも分析されるも、出来映えはロメロが「自身の最高傑作」と語る程で、実際に公開されてからは観客からの評価も上々。遠く、ヨーロッパ(カンヌ国際映画祭)にも出展された。
因みに、無事に帰ってきたトム・サヴィーニは本作からメイクアップで参加、長きに渡りロメロと組んでいくことになる。
……そして、この作品は更なる好機をロメロに呼び込むことになる。
キャリア初とも呼べる成功を得て、ここに来て漸く『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の続編の構想を思い描いていたロメロの下に、
『マーティン』と、これ以前にも『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を見たことがあった、イタリアのジャッロ映画(イタリアン・サスペンス/ホラー映画を差す。)の第一人者であるダリオ・アルジェントから直接の連絡が入ったのである。
実は、ロメロ自身も少し前にアルジェントの監督デビュー作品である『歓びの毒牙』を鑑賞したばかりというタイミングであり、海を越えた二つの才能が運命的な邂逅を果たすことになった。
こうして、既にイタリア国内で巨匠としての地位と資金力を得ていたアルジェントが共同製作として加わると共に、ヨーロッパでのマーケティングを担当して生み出されたのが、かの『ゾンビ(ドーン・オブ・ザ・デッド)』(1978年)となったのである。
本作も、ロメロの作風もあってか他の大作映画よりは低予算の僅か150万㌦で製作されたものの、自主製作レベルだった『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に比べれば遥かに規模の大きな企画となった。
何よりも、映画自体の完成度・テーマ性・スペクタクル性と多くの部分で観客の度肝を抜き、米国国内と欧州地域を初めとして世界中で大ヒットを記録して大作と認識させるに至った。
特に、アルジェントが編集した『ゾンビ(欧州版)』は『サスペリア2』以降のアルジェント作品でお馴染みとなっていたロックバンド“ゴブリン”によるアバンギャルドなBGMと、冗長さを無くした編集により人気を得て“
ゾンビ”というクリーチャーの名を世界中に広める起爆剤となった。
低予算ということで今回も多数のエキストラに頼ることになったのだが、当時のアメリカでは今作のアイディアを思いつくきっかけにもなった週末毎の大量消費が問題になると同時に、多数の失業者も出していたことから撮影地となったモンロービルでは、多数の失業者達がゾンビ役で暫しの救いを得たという。
この欧州版は日本初公開版の元でもあり、『ゾンビ』と言えば“ゴブリン”のBGMを思い出すという視聴者も少なくないことだろう。
そして、本作のヒットによって80年代にはホラーの1ジャンルとしての“ゾンビ”と“スプラッター”ブームが巻き起こることに。
殆どが粗製乱造の酷いタイトルばかりだったが、その粗製乱造の中から新たなるゾンビ映画の傑作や、若き才能が生まれていくことになった。
ロメロ自身も今作の成功で大手配給会社からお声が掛かり、映画監督としてのキャリアアップを果たすことに。
……が、相変わらず「ホラー(ゾンビ)映画だけの男とは思われたくない」との意向を示す中で、依頼された“3本の長編映画を撮影するように”とのお達しの中で、
最初に撮影したのは青春映画の『ナイトライダーズ』(1981年)、2つ目はホラーだがゾンビ物ではない(しかし、盟友スティーヴン・キングが脚本を担当するばかりか出演して話題となった)『クリープショー』(1982年)で、3本目がやっと『死霊のえじき(デイ・オブ・ザ・デッド)』(1985年)となった。
■デイ・オブ・ザ・デッド/死霊のえじき
こうして、紆余曲折を経つつもやっぱりホラー、そして期待通りのゾンビ映画に回帰したロメロは『ゾンビ』の続編の物語として『死霊のえじき』を世に送り出す準備を始める。
今回はいよいよ生者と死者の数が逆転した終末世界……ということで壮大な脚本を練り始めたものの、当初のロメロの構想はジャングルに追い詰められた人間達が築いた要塞が舞台で軍人達に調教されたゾンビ軍団が登場……と、壮大かつ前回よりも大幅に残酷描写をマシマシの内容━━になるはずだったが、ここで配給会社からの横槍が入る。
『ゾンビ』の続編を売り出したい会社としてはロメロの作家としての信念、姿勢は二の次で前作から大幅に世界観が変わることと残酷描写の多さには懸念を示したそうで、ここでロメロに2つの条件を示した。
会社からロメロに出された条件とは、自分達の介入を許すなら700万㌦。そうでないなら350万㌦……というものであったが、当然のようにロメロは後者を選択。
こうなっても、今回もアルジェントは共同製作&援助をするつもりでいたようなのだが、この時期には米ドルの為替レートが欧州の通貨に対して異常に高額になっていた為にアルジェントからの援助を断り、会社からの350万㌦のみで製作しなければならなくなり、更には米国のスタッフのみで製作することになった。
当初の予定から半分の予算となったので、ロメロは元から会社の指示でカットしてきた脚本を更に縮小していき追い詰められた閉鎖空間での極限状態を描くドラマとなった。
因みに、当初は200ページもあった脚本も減ったり増えたりしながら最終的に88ページに落ち着いた。
現在、大元の脚本は『死霊のえじき 完全版』DVDの特典DVD-ROMで読むことが可能。
尚、この時に没になったアイディアは後に『ランド・オブ・ザ・デッド』にてアレンジされて復活している。
しかし、当初の予定から縮小させられたとはいえ、結果的にテーマを分かりやすく纏められたとして『死霊のえじき』が初期(『デッド』)三部作では「一番のお気に入り」と語るなど、自作の中でも好きな作品となった。
また、前作の縁から付いてきてくれたスタッフも少なくなく、そういう点ではロメロの人徳が窺えると共に恵まれた環境での撮影となったのはせめてもの幸いであったのかもしれない。(例えば、本作で最大の悪役と呼べるローズ大尉を演じたジョセフ・ピラトーも前作のスタッフ&チョイ役から本作でもスタッフとして参加するつもりでやって来たのを主要キャストとして抜擢された。)
また、本作のゾンビ役も相変わらずの現地でエキストラを集める形となったが、今回は報酬が1㌦&参加賞として小道具の新聞のコピー+帽子という条件だったにもかかわらず、前作でゾンビ役のエキストラだった人間が再集結して「またゾンビ役をやらせてくれ」と押し寄せたという。
これに対して、前作のエキストラのゾンビの演技を気に入っていたロメロも優先的に経験者を採用したという。
このエキストラには地元の医者から作業員まで様々な職種、年齢、階層の人々がイーブンな立場で嬉しそうに参加していたようで特典映像などで見ることが出来る。
こうして『死霊のえじき』に纏わるエピソードとして有名な撮影に使うつもりだった豚の内臓をロケ地を離れる際にスタッフがうっかりと冷蔵庫の電源を切って腐らせてしまったアクシデント等を経つつもロメロは撮影を終了。
……ということで公開された『死霊のえじき』であったが、興行的には大失敗に終わってしまう。
一応は製作費こそ上回っているものの元の基準が低過ぎただけの話であり、何よりも期待されていた『ゾンビ』の続編としては“コレジャナイ”感が強い作品と認識されてしまったようだ。
既に世に溢れていたゾンビ&スプラッター・ホラーブームの中では、たとえ元祖や正統のジョージ・A・ロメロの“ゾンビ”と宣伝されようがセールスには結びつかず、ロメロが本作に込めた理念も直ぐには理解されることなく評価を得るまでには暫くの時間を擁することとなる。
■ランド・オブ・ザ・デッド
さて『死霊のえじき』が失敗に終わった後は05年の『ランド・オブ・ザ・デッド』まで目立った活動は無くなった━━等と言われるロメロだが、当初は普通に有名監督であることや友人達からの伝で仕事は依頼されていたようだ。
まず、1988年にオライオン・ピクチャーズの配給で『モンキー・シャイン』を監督。
1990年にはダリオ・アルジェントから声が掛かり『マスターズ・オブ・ホラー/悪夢の狂宴』に参加。
1990年にはサヴィーニが監督をする形でリメイク版の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/死霊創世記』が公開。
ロメロは脚本と製作を担当。
1993年にはスティーヴン・キング作品の『ダーク・ハーフ』の実写映画化を任されている。
……が、やっぱり大手の配給会社のやり方とは上手く行かずに衝突してしまい、90年代にはゾンビ・スプラッター映画が時代遅れとなっていた為か、ここから“過去の人間”として暫く忘れ去られることになる。
監督以外の珍しい仕事としては、ロメロのファンを自認するジョナサン・デミ監督が話題作となった『
羊たちの沈黙』にてB級映画の帝王ロジャーコーマンと共に出演させていることでも有名。
1998年には、ロメロへのオマージュを以て製作されたCAPCOMの『
バイオハザード』が人気になる中で『
バイオハザード2』の発売時にCM撮影を依頼されて快諾。
実は、そのままロメロが脚本も書く形で実写映画化企画も起きていたのだが、やっぱり大手とは上手く行かずに頓挫してしまっている。
1999年に公開されて大ヒットした『
ハムナプトラ/失われた砂漠の都』は、元々は古典ホラーの『ミイラ再生(The Mummy)』のリメイクだった訳だが、ゾンビもミイラ男も似たようなもんだと思われていたのか、当初はスティーブン・ソマーズではなくロメロがリメイク企画の監督候補だった。(当然のように折り合いが合わずに頓挫。)
……ロメロが監督してたら何故か映画史に残る人気悪役にしてネタキャラのイムホテップもロック様の演じるスコーピオン・キングも出てなかったやろなぁ……と思いつつもちょっと残念。
こうして見ると、ロメロ自身が世に出るチャンスを自分で蹴っていただけ、とも言えるので世間が見てる程には悲惨な状況とかではなかったのかもしれない。
そして、転機となったのが02年の『
28日後...』あたりから始まる
新世代のゾンビ映画の流行から後の話で、前述のようにロメロへのオマージュを込めた『バイオハザード』シリーズといった表現力の上がり続けるゲーム作品にて過去のホラー映画へのオマージュが捧げられまくる中で再びロメロの名前が浮上。
上記の『28日後…』やロメロが離れた後の実写版『
バイオハザード』が立て続けにヒットしてゾンビブームが訪れる中で、改めてのロメロ作品の再評価が起こった。
これを受けてか、2004年にはザック・スナイダーにより『ゾンビ』のリメイク版となる『
ドーン・オブ・ザ・デッド』が公開。
本作が(初では無いものの)売りにした“走るゾンビ”についてはロメロ自身は難色を示したものの大ヒット作となりゾンビブームを加速させた。
同じく2004年には、若手ながらも英国で既に確かな実績を作っていたコメディメーカーのエドガー・ライトとサイモン・ペッグにより、此方は反対にロメロに忠実なパロディ作品『
ショーン・オブ・ザ・デッド』が公開。サイモン・ペッグが世界的な知名度を得るきっかけともなった。
……前述の通りで実写版『バイオハザード』の企画こそ頓挫していたものの、ユニバーサル・ピクチャーズが声をかけて散々に大手と衝突してきたロメロに対して「ロメロの自由にしていいこと」を条件に1000万㌦(最終的には1500万㌦)を出資してゾンビ映画を作ることを依頼。
これを呑んで、2005年に約20年ぶりにロメロは『ランド・オブ・ザ・デッド』でゾンビ映画に復帰した。
ロメロはお馴染みのサヴィーニをスタッフ・俳優として使うのは勿論、盟友アルジェントの愛娘であるアーシア・アルジェントに声をかけて出演させているが、巨匠の復活に際してサイモン・ベイカー等は自ら志願して出演を希望したという。
この他にもデニス・ホッパーやジョン・レグイザモといったクセ強ながら実力派の有名俳優が出演。
上記の『ショーン・オブ・ザ・デッド』が賞賛された縁で、エドガー・ライトとサイモン・ペッグもチョイ役で出演している。
潤沢な資金を得られたことから、ロメロは前述の通り『死霊のえじき』の際に資金が足りないことから断念した元のアイディアを復活させて採用している。
世界観も前作までと完全に地続きとなっており、本作の舞台となる要塞都市は『ゾンビ』での生きる死者の大量発生から3年後に、ピッツバーグに共和党が作り上げた都市という設定である。
日本では、多数の新しく刺激的なゾンビ映画が溢れていたためか昔からのファンやマニア以外には受けなかった印象があるが、北米地域と全世界興行では大成功を収めている。
北米地域では『Land of the Dead: Road to Fiddler's Green』として、前日譚がFPSのゾンビサバイバルゲームとして発売されて人気を集めた。Xbox版とPC版が存在。
また、本作の撮影期間中にバーで働いていた3番目にして最後の妻となったスザンヌを老齢に突入していたのに口説いて結婚している。
因みに、スザンヌはロメロを知らず、ロメロも謙遜して自分を「映画の編集」と名乗っていたので、一部界隈とはいえ、実はとんでもない巨匠で驚いたのだとか。
■最晩年
さて、こうして人生初と言ってもいい真の意味での大作を成功させたロメロだったが、やっぱり大作は肌には合わず、晩年には再び……というか以前よりも小さな企画に回帰している。
ロメロの最晩年の作品としては『
ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(2007年)と『
サバイバル・オブ・ザ・デッド』(2009年)が存在。
この2作は共通して『デッド』4部作と近い世界観ながら別の世界線・低予算でもテーマ性を損なわずに成立する撮影方法が取られているのが特徴で、世間的にはヒット作とはならなかったものの、原点回帰しつつ映画監督・アーティストとして熟練したロメロの手腕を堪能出来る映画としてマニアからは一定以上の評価を受けている作品である。
実は、更に2015年には『ロード・オブ・ザ・デッド』と名付けた企画があることを明かしていたのだが……。
━━2017年7月16日に肺がんにより逝去。
享年77歳。
最期を看取ったのは3番目の妻であるスザンヌ・デスロチャー・ロメロと2番目の妻との子であるディナで、大好きな映画『静かなる男』のテーマ曲を聴きながら逝ったという。
【余談】
- 『ロード・オブ・ザ・デッド』は、友人のマット・バーグにより映画化が進められていたが頓挫。
しかし、コミック作品としては出版されており『ランド・オブ・ザ・デッド』の正式な後日談であることが明らかになっている。
- 妻のスザンヌにより“ジョージ・A・ロメロ財団”が設立されており、ロメロの業績の保存と未発表だった企画の発掘とリメイクが進められている。
スザンヌがどうにかロメロの功績を遺せないかと思っていた所で、同じタイミングにてロメロと最も関わりの深いピッツバーグの行政機関から「ロメロの功績を遺して紹介したい」との声が掛かったのがきっかけだったとのこと。
ロメロの母校であるピッツバーグ大学は特に熱心で、ロメロに関わる汎ゆる資料を保存・研究対象としている。
- 妻のスザンヌにより、上記の『ロード・オブ・ザ・デッド』とは別の最後の企画である『トワイライト・オブ・ザ・デッド』の映画化が進められている。
- 更に、最初の妻との息子であるジョージ・キャメロン・ロメロによって『ライズ・オブ・ザ・デッド』という企画が立ち上げられてクラウドファンディングが募られていたが頓挫。
……以上のように“ロメロの最後の作品”だけでも未発表ながら既に3タイトルも存在している。
- 2010年に発売されたFPSゲーム『コールオブデューティ ブラックオプス』におけるゾンビモード追加コンテンツのステージ「Call of the dead」では、ロメロ自身がゾンビとなって出現する。
追記修正は生き返った死者を演じながらお願い致します。
- 待ってました映画監督の記事!読み応えがありました。個人的には『アミューズメント・パーク』の話が曰く付きすぎて印象に残ってる -- 名無しさん (2024-10-13 17:54:34)
- ロメロと戦えるゲームなんてCoDしかないだろうな -- 名無しさん (2024-10-13 18:47:01)
- ゾンビよりURAMIの主人公の顔が印象に残ってる -- 名無しさん (2024-10-13 23:03:41)
- なんだかんだで死霊のえじきが一番好きだな 息詰まるような閉鎖空間に狂気に駆られる人間とか -- 名無しさん (2024-10-13 23:54:58)
- クレイジーズとデイオブ~の良さを理解するには何年もかかった。エンタメとしてはクリープショー、一番好きなのはダイアリー~かな -- 名無しさん (2024-10-14 21:28:42)
- 若手時代は火をつけたマネキンをビルから落っことす割とガチな危険人物 -- 名無しさん (2025-01-06 11:56:51)
最終更新:2025年01月06日 11:56