ハッピーエンド

登録日:2010/02/14 Sun 03:32:00
更新日:2025/03/04 Tue 16:33:51
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返してもらいに来た……。
ハッピーエンドを! 返してもらいに来た!!


物語の終わり方の種類。

目的を達成したり、好きな人と結ばれたり、希望が見える終わり方の場合こう呼ばれる。
対義語にバッドエンドがある。ハッピーともバッドとも判別しがたい場合は「開かれた終わり」(メリーバッドエンド)。


おそらく童話の英雄、大衆文化、サブカルチャーにおける殆どの物語はハッピーエンドである。

ハッピーエンドの定義としては諸説あるが、

メインとなる登場人物が幸せな状態になる。
絶望的と思われた状況から復帰して、最良(または最良とは言わなくとも二番目くらい)の結果を得る。
ずっと望んでいた事が、果たされたり、さらに昇華する。
予想外の「登場人物にとって嬉しい展開」が発生する。
努力が最後に実を結ぶ。(勝負物の場合勝ち負けが関係ない場合も多い)
上記項目のいずれかがが確実に満たされる条件が整う。(俺たちの戦いはこれからだエンドとは少し違う)

これらのいずれかを満たしていればハッピーエンドと断定してかまわないだろう。

要するに、「最初から最後までずっとハッピーな状態が持続する」というのではなく、
喜怒哀楽様々なドラマパターンが続き、最終的に良い結果を迎える事がハッピーエンドである。

逆に言えばそこまでの経緯に「ハッピーではない展開」が皆無だった場合、ハッピーエンドにはなりえない。(そもそもいつも通りのため)

最近、自分の思い通りにいかないとすぐにバッドエンドだとぬかす人もいるが、あまり表面的な部分だけでハッピーエンド、バッドエンドは語らない方が良い。


好きなキャラクターが頑張り、幸せになるのを見るのは誰だって嬉しくなるだろう。
また、一度バッドエンドを迎え、絶望した後に希望が射し込み、
そこから立ち直りハッピーエンドで終わる真のエンディングを迎える、という展開は非常に燃えるものがある。

「エンターテイメントの基本は笑顔とハッピーエンド」という作家がいるほどに非常に前向きで読んでいて気持ちが良く好む人も多い。

ただ、その話の展開が安直すぎたり無理矢理すぎると「ご都合主義」と揶揄されたりもする。
最近の作品ではハッピーエンドとは別にトゥルーエンドがあり、ハッピーエンドが一つの可能性に置かれるものもある。



ハッピーエンド否定派の意見

そもそもハッピーエンドとは嘘臭いものである、とバッドエンド症候群の虚淵玄は語る。

氏曰く
「物事は何もしなければ総じて悪くなっていく。どう転んだところで宇宙が冷えて行くのは止められない、
 "理に適った展開"だけで積み上げられた世界はどうあってもエントロピーの支配から逃れられない」

「故に物語にハッピーエンドをもたらすには条理をねじ曲げ、黒を白と言い、宇宙の法則に逆境する途方もない力を要求する。
 そこまでして人間讃歌を謌い上げる高貴な魂があってこそ物語を救済出来るのだ」

とのこと。
(もっとも、この言葉は「そんな意識があるから自分がうまく書けない。ハッピーエンドに持っていける作家はすごい。」
 というような意味の内容につながっているので別に氏はハッピーエンドを批判しているわけでは無いのだが)



いずれも感傷に過ぎないとする意見

文学や芸術の領域では、上記の虚淵氏よりも遥か昔からハッピー(喜劇性)批判・バッド(悲劇性)賛美がなされてきており、それに対する返答や反論も数多い。
例えば「飛ぶ」ことの理非善悪にこだわる態度に対して、次のような言葉がある。
鳥は、行くところへ行こうと思って飛んでいるだけなんで、何も空を飛ぶことが永遠につながると思って飛んでいるわけじゃない。
(D.H.ロレンス『息子と恋人』1913年)

あるいは、そもそも世界を二元論的に認識することに対して、次のような指摘がある。
喜劇的な見方では、植物の世界は庭園、木立や公園、生命の樹や薔薇である。
悲劇的な見方では、それは不吉な森、荒野や原生自然、クリフォトの樹である。
(ノースロップ・フライ『同一性の寓話』1963年)

これらは、ハッピーかバッドかの二分をする感情主義に対してリアリズム(写実主義)の視点から浴びせた言葉である。
物語にリアルな説得力や迫真性を持たせるリアリズムの立場に立てば、
物語がどんな結末を迎えようがリアルには結末も「最後の審判」も起こらない、という論理的・数量的事実を認める必要がある。
現実とは物理学の法則や数式通りに延々と運行している"理に適った展開"であって、そこには呪いも救いも無く、ハッピーもバッドも無い。
たとえ「宇宙の終焉」仮説(エントロピー増大による宇宙の熱力学的死など)が実現しても、科学的にごく自然な出来事が発生しただけである。

ハッピーやバッド等と分類した結末の描写を嘘臭いと批判するリアリズムの傾向は、19世紀から加速した自然科学の発達に伴っている。
これは「脱神話化」「脱宗教化」「合理化」とも呼ばれる。
第一に幸福か不幸かという判断は感情に大きく根差しており、ロマン主義的括りに捕らわれていることを自然科学が浮き彫りにし、批判した。
文芸もその影響下にあり、感情よりも理性を、印象よりも分析を用いることで説得力をもたせようとした。
このような実証主義や数量化に基づく傾向によって、宗教やロマン主義、ファンタジーは不条理な迷信、宇宙の自然法則をねじ曲げたかのように見せる「嘘」として、
大きく地位を引き下げられたのである。



それでもハッピーエンドへ?

確かに現実はそんなに甘くなく「こんな上手くいくわけねーよ!」と言ってしまえばその通りである。

だが、だからこそ人はハッピーエンドを望むのではないか。
あの「水戸黄門」だって、ご都合主義だの予定調和だの言われながら、未だに根強い支持を受けているじゃないか。
ほら、某病弱娘さんは「物語の中でくらいハッピーエンドがみたいじゃないですか」って言ってたし。

原作の悲劇を覆し、救えなかった者を救うというif展開こそが醍醐味という某ロボット大戦なゲームだってある。

「だからこそ現実にしたいじゃない、本当は綺麗事がいいんだもん」とサムズアップの似合う冒険家も言っている。

アーカムシティのとある貧乏探偵バッドエンド丸分かりな脚本のリテイクをヘボ監督に要求し、力づくで押し通した。
なんか違うか? なんか悪いか? 問題があるか?

なお、ある作家曰く、
「一流のハッピーエンドを描くのは一流のバッドエンドを描くことの数倍難しい」とのこと。

あるアニメ作品のノベライズでアニメの悲劇を覆した事を作者は後書きで、
「一流の悲劇を三流の喜劇に改悪した行為だが、これで一流の悲劇を見た後のやるせなさを少しでも癒して欲しい」というような事を語った。



「現実を超えていくもの」としてのハッピーエンド

上記のとおり、ハッピーエンドとは人の「望み」に基づくものであり、それゆえに非現実的、リアリティがない、嘘くさい、ご都合主義といった指摘には説得力がある。

一方で、人の望みというものは、時として、ある種の切実さ、リアリティを伴うことがある。

  • 戦争で平時の想像を超える体験をした人間が、もう戦争は嫌だ、平和がいいと生涯をかけて言いつづける。
  • 絶滅収容所に入れられた人間が、引き離された家族にもう一度会えることを望みに、かろうじて命を繋ぐ。
  • 壮絶な人種差別を経験した人間が、殺されることを覚悟で、白い手と黒い手が繋がれるという「夢」を語る。

これらの望みはいずれも、非現実的であり、リアリティがなく、嘘くさく、ご都合主義的なものだと言える。
しかし他方で、極めて強く、真正であり、切実であり、必死なものでもある。

ハッピーエンドとは何か?

自身も従軍した作家やなせたかしは、戦争を経て、アンパンマンという作品を生みだした。

やなせたかしは、こう言う。
「何が君の幸せ、何をして喜ぶ、分からないまま終わる、そんなのは嫌だ」

幸せや喜びがハッピーエンドの条件であることは論を俟たない。
しかし、ここで注目したいのは「そんなのは嫌だ」という一文だ。

ハッピーエンドとは、「君の幸せや喜びが分からないまま終わる」というありふれた「現実」に対して、「そんなのは嫌だ」と言うこと、そういう「今ある現実を超えていこうとする」態度であり、宣言なのである。

今ある現実を超えていこうとする試みは、それが現実的ではない、荒唐無稽だという理由で、常に笑われてきた。
空を飛びたいとか、地球の反対側にいる人と話したいとか、不治の病を治したいとか、好きな人に告白するとか。
ハッピーエンドを望むことも、これらと同類である。

ハッピーエンドは「現実を超えていこうとするもの」であるからこそ、必然的に、「生きのびるために現実を超えていく必要がない人間」にとっては、現実的ではないし、リアリティがないし、嘘くさいし、ご都合主義的なのである。

今ある現実を超えていかなくても生きていける人間にとっては、ハッピーエンドというものを信じる人は、「ほほえましいおばかさん」に見える。

それは、白人と黒人が平等になるということであり、アウシュビッツから生還したうえ家族も全員無事だということであり、世界から戦争がなくなるということであり、元気になって旅行ができるということであり、あなたが頷いてくれるということだからである。

「そんなことあるわけない」という一笑は、きっと客観的に正しい。

しかし「今を生きのびるために現実を超えていかなければならない人間」にとって、すなわち白人女性を見ただけで吊るされリンチされる少年にとって、同胞の死体を手際よく片づけられるという理由だけで生かされている収容者にとって、原爆が落ちた焼野原を歩いた人にとって、癌を宣告された人にとって、幾夜も躊躇したあげく告白するしかなくなった人にとっては、ハッピーエンドはまさに、現実的であり、リアリティがあり、切実であり、真正に自己都合的なのである。

なるほど、この必死の精神をもって「高貴」と呼ぶのであれば、ドブネズミが美しいというのと同じ観点で、高貴だと言えるだろう。

ハッピーエンドを現実的と見なすか否かというテーマは、現実というものに対する各人のスタンスや、置かれた状況を反映していると見ることもできる。
ハッピーエンドを笑える人が増えたということは、生きのびるために今ある現実を超えていく必要がない人々が増えたということであり、それだけ社会が平和で裕福になったということかもしれない。

さて、このようなハッピーエンドの「現実を超えていくもの」という性質は、絵本や児童文学や少年漫画にハッピーエンドが多いことと、おそらく無関係ではない。

人は成長するにつれて、今ある現実の状態、現実の強固さというものを学習していき、その多くは現実というものを受忍する。
現実というものを認めざるをえない、現実は変えられないという態度を獲得する。

しかしそうした人々に「子ども」が生まれたとき、その人たちの多くは、初めて自問・自覚することになる。
すなわち「自分は新しくこの世界に生まれたこの子に、何をするのか、何を語るのか?」という自問であり、「この世界に生み落としてしまった自分には、明らかにこの子に対する責任がある」という自覚である。

過去から現在までを生きてきた自分という存在が、現在から未来に生きていく子どもという存在を前に、何かをし、何かを語る責任があると自覚したとき、多くの人が「今ある現実と戦う覚悟」を決める。
現実というものの恐ろしさ、現実というものの強固さを知り、多くはそれに敗れ挫折したうえで、それでもこんな現実のまま子どもたちに引き渡すわけにはいかないと、再び立ちあがる――すなわち「現実を超えようとする」のである。

このことを、例えば宮崎駿は「子どもたちに『この世は生きるのに値するものだ』と伝えることが自分たちの仕事の根幹になければならないと思ってきた」と言い、富野由悠季は「絶望論は子どもたちに絶対言ってはいけない」と言った。

これらの人々は、作品を見ても分かるように、現実というものの恐ろしさや、創作の限界や、己の微力といったことを理解している。
しかし、つらいとかめんどくさいとか言いながら、くそったれと思いながら、このゴジラのように巨大で強大な現実というものに、小さな人間のちっぽけな中指を立てるのである。
現実の先に続く未来、おそらく現実に押しつぶされるしかないであろう未来を前に、少しでもいい結果になるように抗おうとするのである。

そうした気概、子どもという未来を背に、圧倒的な「現実」というものの前に立ち、せめて一矢報いようというガッツが、怖くても失敗するかもしれなくても前に進み道を切り開こうという信念が、絵本や児童文学や少年漫画におけるハッピーエンドの根源を形作っている。

すなわちハッピーエンドとは、ふがいない人間であっても、せめて子どもを矢面に立たせることだけはすまい、せめて子どもの前に自分が立とうという、大人の矜持とも言えるだろう。


 まるで、偉大な物語の中にでも
 迷いこんだような気分です。
 闇や危険が一杯に詰まっていて
 その結末を知りたいとは思いません。
 幸せに終わる確信がないから。

 こんな酷いことばかり起きた後で
 どうやって世界を元どおりに戻せるんでしょう?

 でも、夜の後で必ず朝が来るように
 どんな暗い闇も、永遠に続くことはないんです。
 新しい日がやって来ます。
 太陽は、前にも増して明るく輝くでしょう。

 それが人の心に残るような
 偉大な物語です。

 子供のとき読んで理由が分からなくても
 今ならフロド様
 なぜ心に残ったのか、よく分かります。

 登場人物たちは
 重荷を捨て、引き返す機会はあったのに
 帰らなかった。
 信念を持って
 道を歩き続けたんです。

 ―その信念って何だい?

 この世には、命を懸けて戦うに足る
 素晴らしいものがあるってことです。


そう考えると、真にハッピーエンドを作るということは、並ならぬエネルギーやモチベーションを必要とするものであり、それは時代や人生の苦難によって絞り出される血と涙の結晶でもあろう。

私も含め、平和な現代日本においてすら現実に疲れてやさぐれた人間には、ハッピーエンドを作ることは容易ではない。
それこそ、デュープリズムのミントのごとく「邪魔者は全員なぎ倒してハッピーエンドに雪崩れこむ!」くらいの根性がなければ務まらないのだろう。



余談

かなりの余談だが、「ハッピーエンド」の上をいく「ベストエンド」というものがある。

さらなる余談だが、その年の関東地方中央競馬最終競走となる、
中山競馬場第12レースは「ハッピーエンドカップ」(プレミアム制時代はハッピーエンドプレミアム)という、
サラブレッド系三歳上2勝クラスのハンディキャップ競走があるが、例年堅い決着が少ないため、
ハッピーエンドで終わる人と終わらない人の差が激しい特徴がある。
2017年以降は開催日程が変更されたことから、ハッピーエンドカップは行われていなかったが、
2020年久々に行われることになっている。

うしおととら」「からくりサーカス」の作者である藤田和日郎氏はうしおととらを構想した理由についてコミックス1巻で、
「小さいころに読んでもらったマッチ売りの少女のお話が大嫌いだった、女の子があまりにも救いようのない最期を遂げてしまうからだ。
 それを救うようなキャラを描きたかった」
ということを語っていた。
しかし連載後期においては、
「漫画を描いているうちにマッチ売りの少女の物語が大嫌いだった本当の理由が分かった。
 それは少女自身が自分の悲惨な境遇と向き合って戦おうとしていなかったからだ」と語った(どちらも意訳)。
ハッピーエンドとはどんな絶望的状況でも必死で立ち向かって得てこそ価値がある、というものである。
実際藤田先生(と、富士鷹ジュビロ先生)の作品はそういう過程を置いてからのハッピーエンドとなる事も多い。

ガチャピンなる恐竜のモデルとなったとあるSF作家は自著の後書きで、マッチ売りの少女人魚姫の結末を熱く激しく否定した。
無理やりだと、滅茶苦茶だと、話が破綻すると分かっていてもハッピーエンドに変えるための手段の一例を自著の「著者の御挨拶」で披露してくれた。
ハッピーエンドをその手で掴もうとする人たちを救う人たちが、ヒーローたちがいてもいいじゃないかと言わんばかりに。
だからこそ人はハッピーエンドを望み、それを実現してくれるヒーローの存在も望むのかもしれない。



「追記、修正が行われる?
ふっ…、子供じみたおとぎ話だ」

「だが、こんな世の中、おとぎ話が現実になってもいいとは…思わないかね?」






中山競馬場「どこがハッピーエンドだー!」





こうしてwiki篭りたちはいつまでも幸せに追記・修正しましたとさ。

めでたし、めでたし。




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最終更新:2025年03月04日 16:33