登録日:2014/11/01 (土) 11:18:49
更新日:2024/02/01 Thu 23:03:46
所要時間:約 16 分で読めます
旅の中で強力な力を身に着けていった
ピカチュウ。
そのピカチュウの力に目を付けたポケモンたちは世界中で人間に対して反乱を開始する!!!
サトシとピカチュウはどうするのか!?
彼らは長い旅での絆を信じるのか、それとも……
そしてロケット団が反乱を起こしたポケモン軍団に対してとった行動とは一体…?
近日放送予定!!!
追記・修正お願いします。
* *
* + うそです
n ∧_∧ n
+ (ヨ(*´∀`)E)
Y Y *
概要
色々と衝撃的な内容であり、アニポケファンからは大きな話題を呼んだ。
●目次
解説
首藤氏は当初アニポケがここまで長く愛されるアニメになるとは思っていなかった(というか誰でもそう思う)。
首藤氏はかつて参加した
宇宙戦士バルディオスなどで
アニメが打ち切られた苦い経験もあり、番組に人気が出ない事態を想定して、最初から最終回を考えておくタイプの脚本家だった。
そんなわけで、ポケモンというゲームが人気が出ずに終わった場合・キッズアニメでよくあるようにゲーム終了と共に終わった場合も想定して(人気が出たとしてもアニメ「ポケモン2」として仕切り直せば良いと考えた)、1年半~長くて4年といったスケジュールを想定して最終回を構想した。
そして氏は、最終回の伏線となるエピソードを書き上げた。
その最終回への伏線を張ったエピソードとしては、
といったエピソードに伏線を散らばせたようである。
ミュウツーの逆襲では『自己存在の意義』、爆誕では『他者との共存』、幻の三作目では『自分のいる世界』がテーマとなっていた。
これらのテーマはいずれ放送されるであろう最終回に繋がる…はずだった。
首藤剛志の構想
ポケモンとは何であるか、ポケモンの世界とは何なのか…
これは首藤氏がポケモンに触れた最初の際に考えたことであり、彼自身はそこから独自のポケモンの世界観を考えた。
実際にゲームもやってみて、「ポケモンはゲームの操作のやり方次第で、プレーヤーの思いどおりになる。手間はかかるが、プレーヤーに逆らったり死んでしまうこともなく、失敗してもリセットが可能。事と次第によっては友達になってくれる。ポケモンが生き物だとしたら、これほど思いどおりになる生き物はない。」と真面目に考え、ゲームをアニメにする際の世界観を練っていった。
構想する中で、「新しいポケモンとの出会いが目立つ作品にしたかった」「ゲームをそのままアニメに持ち込むと、主人公が苦労もせずにポケモンを捕まえて、自分の代理でポケモンを戦わせる代理戦争に見えてしまう」「個人的意見だがバトルが、サトシが直接手を下すことのない代理戦争が、目立つ作品にはしたくなかった」とも述べている。
そんな中、ゲームの中で映画『
スタンド・バイ・ミー』をオマージュしたシーンがあることに気づき、そのシーンに感銘を受けてアニメポケモンにも「子供の一夏の冒険」というイメージを抱いた。
そしてアニメ版世界観を考えるうちにアニポケの最終的な結論は『勝者の栄光』ではないと思い始めた。
首藤氏が少年アニメに抱いていたイメージは、『主人公が力を出し切って燃え尽きる』『悟りを開いて物語から退場する』といったイメージだった。
しかし氏は『いい意味でも悪い意味でもそんな大人びた結論の出るアニメにはしたくない』という思いを抱いていた。
氏は、『ポケモン』の世界を、サトシ(ひいては視聴者)の少年時代へのノスタルジーにしたいと考えた。
『ポケモン』の世界にはポケモンしか出てこない。サトシの中の空想の『ポケモン』世界だから、当然である。
『ポケモン』の世界は、子供の夢見る冒険の世界である。
でも、『スタンド・バイ・ミー』と同じように冒険を終えたいつか大人になり、子供の夢見る虚構の世界から卒業する。
だが、その時広がる大人の世界を、子供たちに殺伐とした目で見てほしくない。妙な悟りで受け入れてほしくもない…
かといって『虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子供』という人間を育てたくもない…
『ポケモン』の世界は、子供が大人になる途中の通過儀礼のように描きたかった。
子供たちには、いつか『ポケモン』世界の虚構と別れる時が来てほしかった。
そして、大人になった時、自分の子供時代を懐かしく思い出せるようなアニメにしたかった。
「自己を見失うな」もテーマとして、「他者との共存」を考えながら歩むようになっていってほしいと思った。
この当初構想していた最終回も、その想いが強く表れた内容となっている。
なお、首藤氏はポケモン世界を「虚構」として軽んじていたわけではなく、氏のアニポケ小説ではポケモン世界の「ジムの運営費用」「10歳で成人するポケモントレーナーの実態」「モンスターボール開発の経緯」などについて氏の解釈をしつつ出来る限りご都合主義にならないよう描いている。
子ども向けアニメだからとご都合主義の世界にするのではなく、首藤氏なりに「虚構」にリアリティを与えようと苦心したことがうかがえる。
ストーリー
ポケモンと人間は本当に共存できるのか?
当然、ポケモンと人間は同じではない。
しかも、人間にゲットされたポケモンはゲームで、戦いの道具にされる。
人間にゲットされたポケモンは奴隷である。グラディエイター(剣闘士)である。
人間に寵愛を受けたとしてもそれはペットにしか過ぎない。
共存は不可能……ピカチュウとサトシの間にも溝ができる。
おそらく、この番組(アニポケ)の終盤には、ピカチュウは強力なパワーを持つポケモンに育っている。
ローマ時代、ローマに反乱をおこし、ローマを窮地に陥れた剣闘士スパルタカスほどの実力を持ったポケモンになっている。
ポケモンは人間に反乱をおこす。
リーダーに祭り上げられるのはピカチュウだろう。
サトシとピカチュウは友人同士のつもりである。
ピカチュウはポケモンとしての自分を選ぶか?
違う生き物である人間と、友情、感情という移ろいやすいものをたよりにいままでのように共存していくのか?
サトシとピカチュウは苦悩する。だが反乱が起きている中で、
「人間とポケモンは共存できるよ」
と、いいながら、いけしゃあしゃあと、その戦いをやめさせるために活躍するのがロケット団とニャースのトリオである。
なぜなら、『ポケモン』の世界において彼らは出来の悪いポケモンを押しつけられ、様々なポケモンと出会ってきた。
自身が意識しなくても、ポケモンについていちばんよく知っているのは実はムサシとコジロウ……
そして、一度は人間になりたかったニャースなのである。
彼らはポケモンと人間の共存関係の見本になっていた。
そして「自己存在の問い」に対しては、自分がポケモンなのか人間なのか、クローンなのか、一つの答えを見つけたミュウツーがいる。
相手がポケモンであろうと、クローンであろうと、はたまた、出会うことのなかった何かであろうと、自己存在のある限り、我々はどんなものとも共存できる…
~~~~ ~~~~ ~~~~
年月がたち、老人になったサトシは、ふと、昔を思い出す。
それは美化された少年時代の思い出。空想……、想像の生き物ポケモンたちとの冒険。友情。共存。
それは、現実の人間の世界で、サトシが出会えなかったものだったかもしれない。
しかし、少年時代のどこかに、確かにピカチュウやポケモンがいて、ムサシがいてコジロウがいてミュウツーがいて……
それだけではない、サトシの少年時代の冒険で出会ったすべてが、老人になったサトシの目には見える。
サトシの耳にサトシの母親の声が聞こえる。
「さあ、早く寝なさい。あしたは旅立ちの日でしょう」
翌朝、母親に叩き起こされたサトシの姿は少年に戻っていて、元気に家を飛び出していく。
それは「ポケモン、ゲットの旅ではなく、ポケモンマスターになる旅でもなく、自分とは何か」を探し、他者との共存を目指す旅だ。
つまりどういうことか
アニポケではいずれ『ポケモンの反乱』を書く予定があった。
そのため、この最終回ではピカチュウを祭り上げたポケモンが人間たちとの戦争を起こすらしい。
「ピカチュウがリーダーなのは、最強のポケモンだから」などのつもりであり、最強のポケモンなのはサトシと共に最強となったから。
つまり、20年以上経つ今でも
サトシが掲げている、最高のポケモントレーナーである『
ポケモンマスター』はこの構想において
中間点に過ぎなかった。
ぶっちゃけ首藤氏としては話の主題ですらなかった。
その戦争の中で、ロケット団の三人組が戦いを止めるための仲介人として活躍する話でもあるようである。
ロケット団が主役じゃないか…
首藤剛志氏がロケット団のデザインを三枚目ではなく美男美女にしたのもこのためであり、
ニャースが喋れる設定や人間を目指した設定は、「ポケモンと人間の共存」の手本がロケット団の3人であり、
ニャースがポケモンと人間の架け橋となることで、自分に生きがいとやりがいを見出すものであった。
前述のように「サトシが直接手を下すことのない代理戦争が、目立つ作品にはしたくなかった」「ポケモンが生き物だとしたら、これほど思いどおりになる生き物はない」と思っていた首藤氏。
ピカチュウがゲームと違ってモンスターボールに入らないことについて「
ピカチュウは、サトシとは仲間であっても、サトシの所有物になりたくないのである」とも端的に表現していたことから、これらを踏まえると、首藤氏は自分の解釈として「ポケモントレーナーとポケモン」ではなく、「ムサシとコジロウとニャース」が人間とポケモンについてひとつの理想の関係として描きたかったものと思われる。
そして、おそらく首藤氏のこの話から考えるに…当初のアニポケで考えられていたラストは
夢からの卒業と、現実での他者との共存。
ミュウツーの葛藤を経て「自己存在」についてテーマに、
ただただ欲しいものを追い求め自分のことにしか興味がないゆえに躊躇無く他者の世界を破壊していくコレクター
ジラルダンと、それぞれの存在には住むべき場所があり世界の安寧のため自分が幻であることを願う
ルギアを経て「他者との共存」についてテーマに、
最終章での「ポケモンとの戦争」で、この二つを改めて描こうとした。
幻の映画第三作では、「動物はポケモンと人間だけいる世界とは何?」と少しだけかすめるストーリーにするつもりであった。
そして最後は、ある少年が、『ポケモンのいる“夢”の世界』の一生を終え
ミュウツーと同じように「自分とは何か」を思い、
ジラルダンのような自分の世界だけを優先し他者を破壊する人間にはならず、ロケット団とニャース達・和解したサトシとポケモン達のように「他者との共存」を考えて現実世界を歩み出す。
その少年とは、テレビの前の子供であるキミ自身というメッセージだったのだろう。
お蔵入りへ
結局このラストエピソードが作られることは無かった。
何故なら、放映開始後、首藤氏の想定を超え、『ポケモン』の人気は爆発的に高まる。
そして当初予定していた1年半では終わりそうでなくなったからだ。
湯山邦彦総監督自身、首藤氏と違い、サトシで10年続けたいと当時考えてもいた。
また、長くとも4年程度と考えていた首藤氏が、最終回に向けて用意していたエピソードも全て伏線的エピソードとならなくなった。
アニポケが話数を重ねる内に、初期に書いたエピソードがただの捨て回となってしまったためである。
首藤氏が後に振り返っているが、こうなったのは、最終回用の伏線回を早めに書きすぎたといった面も否定できない。
ロケット団が『
ルギア爆誕』にて大活躍をし、サトシに対して「あんたが主役ー!」と言いながら退場するシーンがあるが、これは当初の構想に反して、テレビ版で単なる三枚目と化したロケット団への複雑な思いがあったともいう。
そして、やがて首藤氏自身がこの最終回に対してやる気がなくなっていた。
アニポケが長期化するにあたって、彼自身がアニポケに御大層なテーマやエンディングは必要ないという結論に至ったためである。
氏はアニポケが
水戸黄門的アニメになったと考えたようだ。
そして作品の出来不出来の評価など超えて、『ポケモン』は、今や存在するだけで価値のあるアニメになった…氏はそう解釈している。
結局、首藤氏は金銀編においてシリーズ構成を降板。
その後体調を崩したこともあり、金銀編終盤においてアニポケの脚本から降りることとなった。
つまりこの時点で、この最終回が放送される可能性はほとんど消滅。
『虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子供』ではないような、他者と共存する大人への通過儀礼のような物語を描くはずだったサトシ達は、結果として20年以上子供として冒険を続けている。
だが首藤氏曰く、現在のアニポケでもこの最終回は実現が可能のようである。
何しろ首藤氏が語るには、アニポケのこの没最終回は『サトシ、ピカチュウ、ロケット団』がいれば話が成り立つからとのこと。
とはいえ、首藤氏が世を去った今、この最終回が再現される可能性はほぼ無い……。
更に後年、テロップによってアニメポケモン世界が「地球とは遠く離れた惑星」と明言されてしまった。
この事から設定面では既にこの最終回を成り立たせることは出来なくなってしまったのかもしれない。
しかし…?
そのため、久々にアニポケに首藤氏の名前が出てきたが、その作品でこの没プロットを意識したような話が描かれている。
キミにきめたのあるシーンでは、「現実世界の少年サトシ」が描かれたのだ。
しかし、キミにきめたのサトシは没最終回のサトシとは違って、現実世界に戻るのではなく、ポケモンのいる世界に戻るのだが。
没プロットが「現実世界の少年が夢見たポケモン世界」なのに対して、キミにきめたでは「ポケモン世界の少年が夢見た現実世界」という構図になっているのは、様々な意図を感じられなくもない。
ただし、キミにきめたでは「少年時代のどこかに、確かにピカチュウやポケモンがいた」という、没プロットでも結論付けられた事をサトシが感じるという場面も描かれている。
余談だが、そのシーンでピカチュウと出会う際、白黒だった世界が色付いていく演出があるのだが、夕暮れの赤→草原の緑→空の青→そしてピカチュウと、初代4作品の順番で色が付くという粋な演出がある。
また、アニメ本編においては、
ポケットモンスターXYにおける
カラマネロ回にて、知能が発達した一部の
カラマネロたちが、「人間とポケモンは共存できない」という結論を出し、人間をみな滅ぼしてポケモンだけしかいない世界を作ろうと暗躍し、それを止めようとサトシやロケット団たちが動く…というプロットの話が描かれた。
ある意味、没プロットの一部を実現した回であるといえるだろう。
これらの作品は、現実世界においてもポケモンが「今や存在するだけで価値がある」ようになったことに関して、没最終回と首藤氏に向けられた現在のアニポケスタッフによる一種のアンサーなのかもしれない。
一方で、アニメ外でのポケモンは
Pokemon GOや
実写版名探偵ピカチュウなどで虚構からの卒業とは真逆の「
ポケモンの現実世界への拡張」を推し進めており、当初アニポケ最終回プロットが考えられた時には想像もできないほどにポケモンという作品は現在も広がっている。
また、2019年には
別のゲームを原作とした映画でまさにこの最終回と同じ「今まで生きてきたのは全て虚構。作り出された"ゲーム"に過ぎない」という結末が展開され、賛否両論な結果となった。
そちらも「異種族との共存」が一つのテーマとなっている。
首藤氏が懸念していた『虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子供』『自分の世界のみに生き、共存を考えず他者を平気で踏みにじる
ジラルダンのような存在』やアニポケ初期の構想については、首藤氏の思惑を超えて今後も度々話題となり続けていくだろう。
追記・修正は他者との共存を目指してからお願いします。