登録日:2014/11/01 Sat 11:18:49
更新日:2024/08/29 Thu 06:34:18
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旅の中で強力な力を身に着けていった
ピカチュウ。
そのピカチュウの力に目を付けたポケモンたちは世界中で人間に対して反乱を開始する!!!
サトシとピカチュウはどうするのか!?
彼らは長い旅での絆を信じるのか、それとも……
そしてロケット団が反乱を起こしたポケモン軍団に対してとった行動とは一体…?
近日放送予定!!!
追記・修正お願いします。
* *
* + うそです
n ∧_∧ n
+ (ヨ(*´∀`)E)
Y Y *
概要
アニメ版『ポケットモンスター』(無印)において実は最終回のプロットが作り上げられていたという事実はご存じだろうか。
シリーズ構成の
首藤剛志氏が、WEBアニメスタイルのコラムで発表したその存在は色々と衝撃的であり、アニポケファンからは大きな話題を呼んだ。
●目次
解説
かつて参加した
アニメが打ち切られた苦い経験もあり、
最初から最終回を考えておく脚本家だった首藤氏はここまで長く愛されるアニメになるとは思っていなかった(というか誰でもそう思う)。
これは首藤氏が最初の際に考えたことである。そして独自の世界観を考えた首藤氏はキッズアニメでよくあるようにポケモンというゲームが人気が出ずに終わった場合も想定して、最終回への伏線を張ったエピソードを書き上げた。
ミュウツーの逆襲では『自己存在の意義』、爆誕では『他者との共存』、幻の三作目では『自分のいる世界』をテーマに、1年半~長くて4年といったスケジュールを想定して最終回を構想。
仮に人気が出たとしても、アニメ「ポケモン2」として仕切り直せば良いと考えた。
これらはいずれ放送されるであろう最終回に繋がる…はずだった。
首藤剛志の構想
少年アニメが『主人公が力を出し切って燃え尽きる』『悟りを開いて退場』といったイメージだった首藤氏は『いい意味でも悪い意味でもそんな大人びた結論の出るアニメにはしたくない』という思いを抱いていた。
だから実際にゲームもやってみて、
ゲームの操作のやり方次第で、プレーヤーの思いどおりになる。
手間はかかるが、プレーヤーに逆らったり、実際に死んでしまうこともない。
失敗してもリセットが可能である。
そして、事と次第によっては友達になってくれる。
動物のペットでも、まして人間でも、現代の子供たちの間ではこうはいかないだろう。
ポケモンが生き物だとしたら、これほど思いどおりになる生き物はない。
出典:、注釈:
プレーヤーとゲームのこの関係をそのままアニメに持ち込むと、主人公がなんの苦労もせずにポケモンを捕まえて、そのまま自分の代理でポケモンを戦わせる代理戦争のように見えてしまう。
出典:、注釈:
『ポケモン』に出てくる戦いは、基本的にサトシが直接手を下すことのない代理戦争である。
それが目立つ作品にはしたくなかった。
出典:
と
真面目に考えたこれをアニメに落とし込む構想中に『ゲーム中に
映画のオマージュ』があると気づき、アニメポケモンに
「子供の一夏の冒険」というイメージを抱いた。
「新しいポケモンとの出会いが目立つ作品に」
そして最終的な結論は『勝者の栄光』ではないと思い始めた氏は、『ポケモン』の世界を、サトシ(視聴者)の少年時代のノスタルジーと考えた。
子供の夢見る冒険の世界である『ポケモン』の世界にはポケモンしか出てこない。サトシの中の空想の『ポケモン』世界だから、当然である。
『ポケモン』の世界は、大人への通過儀礼を描きたい。
冒険を終えた『ポケモン』や『スタンド・バイ・ミー』の夢見る虚構の世界から卒業する子供のいつか大人になるように。
だが、その時広がる大人の世界を殺伐とした目で見てほしくない。妙な悟りで受け入れてほしくもない……。かといって『虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子供』という人間を育てたくもない…
だから「虚構」として軽んじたご都合主義ではなく、リアリティを与えよう。
「自己を見失うな」をテーマに、「他者との共存」を考えながら歩むようになってほしい。
いつか『ポケモン』世界の虚構と別れる子供たちが大人になった時、懐かしく思い出せるようなアニメにしたい。
氏が構想していた最終回も、その想いが強く表れた内容となっている。
ストーリー
ポケモンと人間は本当に共存できるのか?
当然、ポケモンと人間は同じではない。
しかも、人間にゲットされたポケモンはゲームで、戦いの道具にされる。
人間にゲットされたポケモンは奴隷である。グラディエイター(剣闘士)である。
人間に寵愛を受けたとしてもそれはペットにしか過ぎない。
共存は不可能……ピカチュウとサトシの間にも溝ができる。
おそらく、この番組(アニポケ)の終盤には、ピカチュウは強力なパワーを持つポケモンに育っている。
ローマ時代、ローマに反乱をおこし、ローマを窮地に陥れた剣闘士スパルタカスほどの実力を持ったポケモンになっている。
ポケモンは人間に反乱をおこす。
リーダーに祭り上げられるのはピカチュウだろう。
サトシとピカチュウは友人同士のつもりである。
ピカチュウはポケモンとしての自分を選ぶか?
違う生き物である人間と、友情、感情という移ろいやすいものをたよりにいままでのように共存していくのか?
サトシとピカチュウは苦悩する。だが反乱が起きている中で、
「人間とポケモンは共存できるよ」
と、いいながら、いけしゃあしゃあと、その戦いをやめさせるために活躍するのがロケット団とニャースのトリオである。
なぜなら、『ポケモン』の世界において彼らは出来の悪いポケモンを押しつけられ、様々なポケモンと出会ってきた。
自身が意識しなくても、ポケモンについていちばんよく知っているのは実はムサシとコジロウ……
そして、一度は人間になりたかったニャースなのである。
彼らはポケモンと人間の共存関係の見本になっていた。
そして「自己存在の問い」に対しては、自分がポケモンなのか人間なのか、クローンなのか、一つの答えを見つけたミュウツーがいる。
相手がポケモンであろうと、クローンであろうと、はたまた、出会うことのなかった何かであろうと、自己存在のある限り、我々はどんなものとも共存できる…
~~~~ ~~~~ ~~~~
年月がたち、老人になったサトシは、ふと、昔を思い出す。
それは美化された少年時代の思い出。空想……、想像の生き物ポケモンたちとの冒険。友情。共存。
それは、現実の人間の世界で、サトシが出会えなかったものだったかもしれない。
しかし、少年時代のどこかに、確かにピカチュウやポケモンがいて、ムサシがいてコジロウがいてミュウツーがいて……
それだけではない、サトシの少年時代の冒険で出会ったすべてが、老人になったサトシの目には見える。
サトシの耳にサトシの母親の声が聞こえる。
「さあ、早く寝なさい。あしたは旅立ちの日でしょう」
翌朝、母親に叩き起こされたサトシの姿は少年に戻っていて、元気に家を飛び出していく。
それは「ポケモン、ゲットの旅ではなく、ポケモンマスターになる旅でもなく、自分とは何か」を探し、他者との共存を目指す旅だ。
つまりどういうことか
前述のように「代理戦争が目立つ作品にはしたくなかった」「ポケモンが生き物だとしたら、これほど思いどおりになる生き物はない」と思っていた首藤氏はいずれ『ポケモンの反乱』を書く予定があった。
その戦争の中で、モンスターボールに入らずに「仲間であっても、サトシの所有物になりたくない」と端的に表現していた「ピカチュウがリーダーなのは、最強のポケモンだから」であり、最強のポケモンなのはサトシと共に最強となったから。
つまり、首藤氏としては
サトシが掲げている、最高のポケモントレーナーである『
ポケモンマスター』はぶっちゃけ
主題でも中間点でもない。
戦いを止める仲介人として活躍するのは「ポケモントレーナーとポケモン」ではなく、ロケット団の三人組である。
ロケット団が主役じゃないか…
首藤氏がロケット団を三枚目ではなく美男美女にしたのはこのためで、喋れるニャースが人間を目指したのも、
ポケモンと人間の架け橋となることで、自分に生きがいとやりがいを見出すもの。
「ムサシとコジロウとニャース」こそが理想の「ポケモンと人間の共存」関係として描きたかったものと思われる。
そして、おそらくラストは夢の卒業と現実の他者との共存。
ミュウツーの葛藤を経た「自己存在」の対として、ただただ欲しいものを追い求め自分のことにしか興味がないゆえに躊躇無く他者の世界を破壊していくコレクター
ジラルダン。
それぞれの存在が住むべき世界の安寧を願う
ルギアの「他者との共存」をテーマにした最終章の「ポケモンとの戦争」。
幻の映画第三作は、それを少しだけかすめるストーリーに。
その少年とは、テレビの前の子供であるキミ自身というメッセージだったのだろう。
お蔵入りへ
放映開始後、『ポケモン』の人気は首藤氏の想定を超えて爆発的に高まる。
当初の1年半、長くとも4年程度に考えていた放送では終わりそうになくなったうえ、サトシで10年続けたいと考えていた湯山邦彦総監督はこの最終回を作ることは無かった。
アニポケが話数を重ねる内に、最終回用の伏線回に用意していたエピソードもただの捨て回となったのである。
更に後年、テロップで「地球とは遠く離れた惑星」と明言されてたので、この最終回を成り立たせることは出来なくなってしまったのかもしれない。
そして最終回プロットで虚構を卒業し、他者と共存する大人への通過儀礼を描くはずだったサトシ達は
10年どころか20年以上子供の冒険を続け、卒業とは真逆の
Pokemon GOや
実写映画などで
「ポケモンの現実世界への拡張」を推し進めている……
しかし…?
首藤氏曰く、
この没最終回は『サトシ、ピカチュウ、ロケット団』がいれば成り立つので、
AG編以降もこの最終回は実現可能だったと言えなくもない。
とはいえ、氏が世を去り、その後しばらくしてサトシとピカチュウの物語も
最終章を迎え、本当の最終回をもって完結したため、ついぞ実現することはなかったが……
アニポケ20周年記念リブート作品である『
劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』は1話のリメイク作品でもあるため、一部脚本として首藤剛志の名前がクレジットされている(序盤の展開は1話と同じ)。
そのため、久々にアニポケに首藤氏の名前が出てきたが、その作品でこの没プロットを意識したような話が描かれている。
『キミにきめた』のあるシーンでは、「現実世界の少年サトシ」が描かれたのだ。
しかし、そちらのサトシは没最終回のサトシとは違って、現実世界に戻るのではなく、ポケモンのいる世界に戻るのだが。
没プロットが「現実世界の少年が夢見たポケモン世界」なのに対して、キミにきめたでは「ポケモン世界の少年が夢見た現実世界」という構図になっているのは、様々な意図を感じられなくもない。
ただし、キミにきめたでは「少年時代のどこかに、確かにピカチュウやポケモンがいた」という、没プロットでも結論付けられた事をサトシが感じるという場面も描かれている。
余談だが、そのシーンでピカチュウと出会う際、白黒だった世界が色付いていく演出があるのだが、夕暮れの赤→草原の緑→空の青→そしてピカチュウと、初代4作品の順番で色が付くという粋な演出がある。
また、TVアニメ本編においては
XY編第54話にて、知能が発達した一部の
カラマネロたちが「人間とポケモンは共存できない」という結論を出し、人間をみな滅ぼしてポケモンだけしかいない世界を作ろうと暗躍し、それを止めようとサトシやロケット団たちが動く…というプロットの話が描かれた。
ある意味、没プロットの一部を実現した回であるといえるだろう。
これらの作品は、現実世界においてもポケモンが「今や存在するだけで価値がある」ようになったことに関して、没最終回と首藤氏に向けられた現在のアニポケスタッフによる一種のアンサーなのかもしれない。
余談
2018年に放送された
とあるTVアニメの結末の一端は「一人の子供が、思い通りになる虚構から、対等な他者と共存すべき現実に目覚める」というものであった。アニポケとは無関係だが双方を知って既視感を覚えた人も多いと思われる。
また、2019年には
ポケモンとは別のゲームを原作とした映画でまさにこの最終回と同じ「今まで生きてきたのは全て虚構。作り出された"ゲーム"に過ぎない」という結末が展開されたが、こちらはそこに至るまでのプロセスが余りにもお粗末かつ無神経なものだったため、散々な低評価となった。
そちらも「異種族との共存」が一つのテーマとはなっているが、「作品である以上、いくらお題目ばかりが立派でも作品として面白くなければ受け入れられる事はない」のである。
首藤氏が懸念していた『虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子供』『自分の世界のみに生き、共存を考えず他者を平気で踏みにじる
ジラルダン(一言で言えば自己中人間)のような存在』やアニポケ初期の構想については、首藤氏の思惑を超えて今後も度々話題となり続けていくだろう。
追記・修正は子供を卒業し他者との共存を目指してからお願いします。
最終更新:2024年08月29日 06:34