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板東英二(タレント・プロ野球選手)

登録日:2012/07/15 Sun 07:51:59
更新日:2026/08/06 Thu 23:26:08
所要時間:約 10 分で読めんのやー




板東(ばんどう)英二(えいじ)は、日本の元プロ野球選手、野球解説者、俳優、芸人、YouTuber。


プロフィール

生年月日:1940年3月31日*1
没年月日:2026年7月22日
出生地:満洲国東安省虎林県(現:中国黒竜江省虎林市)
出身地:徳島県板野郡板東町(現:鳴門市)
身長:168cm
血液型:O型

来歴

徳島商業高等学校のエースとして、1956年と1958年の全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)に出場している。

1958年の大会では決勝まで駒を進め、商業高等学校の準優勝に貢献している。

中でも準々決勝の魚津高等学校戦では18回を投げ、0対0のまま引き分け翌日再試合となったが、
この引き分け再試合ルールのきっかけを作ったのも板東であり、この試合が引き分け再試合ルール適用第1号である。

彼はこの試合の前の春季四国地区高校野球大会でも対高知商で16回、翌々日の高松商業高等学校戦で25回を投げており、この事実を重くみた公益財団法人日本高等学校野球連盟はこの年から「延長18回を終えて引き分けの場合はその時点で試合を終了し、後日再試合を行う」ことを決定したという。

板東はその再試合も完投勝利を収め、準決勝も勝ち決勝まで駒を進めるが、惜しくも決勝で柳井高校に敗れている。
しかし、この大会で記録した83奪三振高校野球の一大会における通算奪三振の最多記録で、50年以上経った今でも破られていない(2012年7月現在)。
延長ながら、1試合25奪三振ということもやってのけている。

斎藤佑樹が2006年に奪三振記録更新に近づいた際は抜かれそうでヒヤヒヤしていた。
最早、彼の生きる糧ともいえる記録であるため、実際そうした時は記録更新阻止のために思念を送っているとかいないとか。

こうして、甲子園で華々しい活躍を見せた彼は中日ドラゴンズに入団する。ちなみに、この年に巨人軍に王貞治が入団。
彼と王貞治は個人的にも親しい仲である故、彼は王貞治を「さん付け」や「くん付け」せず、普通に呼び捨てている。
前述の好投からスター性はかなりのもので、プロフェッショナル入り契約金は王より高く(1800万と言われている)、本人曰く2000万らしい(これは本人もよくネタにしていた。ちなみに、高校時代の王は投手としての活躍が目立っており、打者としても注目されるようになったのは3年時からだった)。

しかし、甲子園での活躍に反してプロ野球選手としての活躍は華々しいものではなかった。

通算77勝65敗、防御率2.89、WHIP1.17。

初めて監督推薦で出場したオールスターではカールトン半田に対し、わざと舐めて甘い球を投げた所を痛打され、
オールスター史上初のランニングホームランを献上した。
ベンチに帰ると、当時の全セントラル野球連盟監督の水原茂に「板東、もう名古屋へ帰れ。お前を選んだ俺が馬鹿だった。」と言われたという。
その後も巨人の記念すべき2000勝目を献上してしまうわ、
自分を野次った相手に対してネットをよじ登って野次を吐いた奴の方向へ唾を吐きかけるわと様々な逸話を残した。


しかしながら、中日で未だ石川克彦に継ぐ開幕投手の最年少記録を保持(2025年現在)しているほか、当時は大きな注目はされていなかったが特に救援投手として目覚ましい実績を残している。
1964年から本格的に中継ぎ投手として投げ始めた板東の全盛期は翌65年から67年までの3年間。当時の成績を総合成績と救援投手としての成績に分け、当時存在していなかったセーブやホールドを換算すると以下の通りの成績になる。

1965年:47/55登板、112/156.1回、10勝3敗11セーブ3ホールド/12勝7敗、防御率2.17/2.25
1966年:59/60登板、128/133回、13勝4敗11セーブ3ホールド/13勝5敗、防御率2.57/2.57
1967年:50/51登板、116.2/119.2回、14勝6敗7セーブ4ホールド/14勝6敗、防御率2.47/2.55

登板数において現代の中継ぎ投手とも遜色ない記録を残していることが分かるだろう。さらに当時の救援投手は回跨ぎなど当たり前であり、投球回については現代の先発投手とほとんど変わらない量をこなしている。

また、1966年の11Sはリーグ最高であり、もし存在していれば最多セーブのタイトルに相当する。ちなみに、この記録にセーブポイントという記録を用いていた場合は1967年も最多セーブに相当する成績となっていた。

投手分業制が当たり前となった現代において記録の見直し等も進んだ結果、板東のプロとしての活躍についても徐々に再評価が進んでいる。
特に中日においては初めての救援専業投手でもあり、同年代の宮田征典(巨人)と並ぶ救援投手のパイオニアの一人としての野球界への貢献は計り知れない。



ちなみに、本人曰く「王と直接対決した時はよく抑えていた」とのこと。「ただ、王はぼく以外の投手からよく打ち、僕は王以外の打者からよく打たれただけ」と付け加えてもいたが。

また、マウンドでもニコニコしており、相手の選手から捕手に「板東にマウンドで笑うのをやめろ」と度々言われていた。
これもまた、相手の集中力を無くすためにしていたんだとか。

70歳を過ぎてからも100km/h超のストレートを投げられた。
当人は引退の原因の一つとして肘の悪化を挙げており、引退後も肘がまっすぐ伸びないほどの重傷でありながら、これは中々凄いことである。
実際に板東はストレートとフォークを中心としたピッチングをしており、見せ球程度にスライダーやカーブを投げていたぐらいであった。
これはあえて投げることで板東は他の変化球も投げてくると意識させるためにやっていた。

選手時代から先のことを気にして副業に手を染めて、実際本業と副業が逆転するような選手生活を送っていた。

実は巨人の星にも選手として出演し、あの星一徹にも賞賛された事もある。
さらに、来日し日本野球をバカにしていたアームストロング・オズマに日本野球を知らしめるため、
板東と闘将星野、山中巽にオズマを討ち取らせて、彼の傲慢な心を折る役目を果たした。

芸能界入り

引退後は芸人業を中心に活動した。
中でも彼が司会を務めた『マジカル頭脳パワー!!』では、視聴率31.6%を叩き出し、今でもマジカルは板東の代名詞とされている。

芸能活動の方の印象が先行していて元野球選手としての知名度は低いのもあり、
若い世代だと板東が元野球選手であることすら知らない者も多く、
「あのタレントさん、キャンプを見学に来るほどのうちのファンなんですね。」「馬鹿野郎、板東さんはOBだ。」などという会話があったとか。

そのため、野球解説の仕事で最もらしい解説を板東が行うと、視聴者から「板東はタレントに過ぎないのに、何故こんなに偉そうに解説しているのか」という抗議電話が相次いだらしい。

「ピッチャーやっちゅーねん」

ラジオパーソナリティーとして司会をしていた番組では中日の応援歌を募集し、これに当時大学生だった山本正之がテープを送り、
後の『燃えよドラゴンズ』が生まれたという事は有名である。嵐の英雄なんて知らないよ。
ちなみに『燃えよドラゴンズ』は本人も何度か歌い、CDを出している。
また「往年の名選手編」では選手としても登場している。

事業も行っていて、サウナや牛乳屋の経営、ジュークボックスの販売等色々やったが、どれも失敗して多額の借金を抱えている。

茹で卵が大のお気に入りで「小さい頃貧乏で、茹で卵が凄く御馳走だったから」だとか。因みに固ゆで派。

2013年に個人事務所の申告漏れ(約7500万円)が発覚した*2ことから『世界・ふしぎ発見!』を始めとするレギュラー番組や冠番組から次々と降板*3、暫くの間芸能活動を自粛した。
2014年からは吉本興業に移籍し、少しずつ活動を再開。
2016年頃にはYoutuber「B.E.」として動画投稿も始めたが残念ながらこれは不評だった。

2018年に吉本興業との契約を取りやめ、フリーとなるも2020年に自宅で転倒し、入院後は芸能活動を停止。
2021年末には遂に個人事務所を閉鎖してしまい、芸能人としても事実上の引退状態となり表舞台から姿を見せなくなった。

それ以降、彼の行方は近しい親戚や二人の娘ですら知らず分からずの状態である模様で、多くの週刊誌記者などが取材を試みたり、公式サイトに質問メールなどを送ったが、返答は一切来ていないという。
なお、2024年3月に『世界・ふしぎ発見!』がレギュラー放送最終回を迎えたが、彼がレギュラーだった時代の映像こそ普通に再放送されたものの、彼の再出演および関連するコメントが入る事は特に無かった。

2024年7月25日に中日OBによる特別試合が行われた際、同時代の投手の権藤博が監督として参戦した事もあり彼を呼ぶ案も出たものの「体調も優れないようで、正式なオファーまでには至らなかった(『夕刊フジ』2024年7月26日記事より)。」とされている。
それに近い時期の一部報道によると、既に要介護状態であり、次女の世話で静かに老後を過ごしていたという。

2026年7月22日、慢性心不全のため死去した。86歳没。

余談

  • 申告漏れ騒動後に放送が始まった『水曜日のダウンタウン』には説のターゲットとして何度か出演していたのだが、共演者やスタッフや仕掛け人に強く当たる事が多々あり、
    特に「ヤバい素人を装ったエキストラが撮影を邪魔する」という展開に対しては、そのエキストラ相手に激怒し以降のVTRは放送できないのでカットとのオチがついていた。
  • シーズンオフに妻の祖父に当たる安川財閥の祖の松本健次郎邸で次女を膝に載せた写真が中日スポーツに掲載された。ところが、後日に警官がその家にやって来る事態に。
    実はその写真には自生していたケシの花が写っており、それを処分するためのものだった。
    日本におけるケシの栽培は歴史的経緯から法律で非常に厳しく制限されているが*4、海外から取り寄せた他の植物に種子が付着して図らずも国内で自生してしまうことがあり、その例としてこのエピソードが引用されることも多い。
    2013年5月16日では、アイドルの植木南央がXでケシの花を(勿論それとは知らずに)アップロードしたところ警察から事情聴取を受け、投稿の削除を命じられている*5
    ケシの花を見つけたらまずは自治体や保健所に連絡しよう。
  • 「こんばんはー、板東英二でーす。」と番組で本人が名乗るときの「板東英二」という発音が「ボンデージ」に似ているとネタにされたことがある。
  • 日本プロ野球において初めて、マスコットキャラ、野球帽、ユニフォームといった球団グッズを考案し、
    売り出したのは自分だと度々語っている。
  • 日本プロ野球史上、日本人としては初となる(NPBで最初に打ち立てたのは外国人だったため)、一球勝利という記録を打ち立てている。
    ちなみに、この記録は普段投げないカーブをたまたま投げたらたまたま相手バッターが振ってたまたま当たって生まれたというものである。
    なお、試合は彼が投げた段階では中日が負けていたため、「どうせもう出番は終わりや」と思って降板後風呂に入っており、中日が逆転したのは風呂の中で知ったとか。本人の著書曰く「諦めの良い中日が、どういうわけかその日は逆転してもうた。」とのこと。
    プロ野球投手としての魂と魂のぶつかりあいのような全力勝負によって紡がれた記録とは対極にある、ある意味で彼らしい記録である。





「追記・編集で頭を鍛えよう『マジカル頭脳パワー』司会の板東英二でーす」

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最終更新:2026年08月06日 23:26

*1 中日ドラゴンズに入団する時は、日本高等学校野球連盟による出場規制の対象から逃れるために、1940年4月5日生まれと公表していた。

*2 よりにもよって板東は国税庁の確定申告推進キャラクターに起用されていたり、司法書士事務所のCMで過払い金請求を宣伝したりしていた。

*3 なお『世界・ふしぎ発見!』正式降板後に板東英二に代わるレギュラー解答者は登場せず、解答者がひとり減っただけである。

*4 食品としてあんパンの上などにケシの実が使われているが、日本で使用されるものは加熱処理を実施しており発芽しないようにしている。

*5 この一件により、植木南央は一部で「平成の板東英二」と呼ばれるようになったとか……。