全国高等学校野球選手権大会

登録日:2011/07/24 (日) 15:38:03
更新日:2020/11/14 Sat 07:35:12
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アアアアアアアアアアアアアアアアーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーアアアアアアア CV:柳沢慎吾ではなくサイレン音




-熱夏到来-



甲子園には魔物が棲んでいると言われるが



それは本当かもしれない



変わっていく時代の中で



毎年変わらない夏がある



ここを求めて戦う球児がいる



そんな甲子園の魅力こそが



まさに


魔物そのものなのかもしれない



高校の部活動の中でも、全国的に最も扱いが大きいであろう野球の選手権大会。主催は大阪朝日新聞社→朝日新聞社。後援は春の選抜高校野球主催者の毎日新聞社、特別協賛は大会開催球場である阪神甲子園球場。

他の部活でいえばIH(インターハイ)に当たり、単に「甲子園」と略称で呼ばれるのが一般的。

歴史は古く、1915年(大正4年)に第1回大会が開催され、その後に戦争や米騒動事件などで中止になったりもしたが、2018年大会で100回目を迎えた。

第1回・第2回は現在の大阪府豊中市にあった豊中グラウンド、第3回~第9回までは兵庫県西宮市鳴尾にあった鳴尾競馬場内に設置された鳴尾球場で行われていた。
しかし鳴尾時代末期にはキャパシティオーバーに陥いるほどの人気になったため、高校野球の球場として阪神甲子園球場が建設され、第10回大会より移った。
なお、戦後第1回目の開催となった第28回大会は甲子園球場が進駐軍に接収されたため、阪急西宮球場で、記念大会として出場校が大幅に増えた第40回大会と45回大会が甲子園と西宮球場併用となったが、組み合わせの問題で甲子園球場でプレーできずに敗退するチームが出たため、以後は西宮球場を使うことはなかった。

基本的に全国47都道府県から1校ずつが出場するが、北海道は南北に東京都は東西にブロック分けがされ、2校ずつ(北海道に関してはまだわからなくもないが、東京に関しては東京よりも愛知の方が高校が多いが…東京贔屓だろうか?)が出場し全49校がトーナメントで試合を行う。
(過去には記念大会で最多56校が出場)
優勝したチームには優勝旗が授与され、これは「深紅の大優勝旗」と呼ばれ、これを得る事が全国の高校球児の夢である。

ちなみに春にも同様に甲子園で大会が行われるが、こちらは「センバツ」と呼ばれる大会で、主に秋の新人戦の結果を元に高野連が出場チームを選定する。
優勝旗の色は、こちらは紫紺となっており、同様に高校球児達の目標である。

が、センバツは出場出来ない都道府県も出てくるため、地方規模に及ぶ夏に比べると若干扱いが小さい(本項でも夏に絞って解説していく)。

地方大会は概ね7月中に、各地方ローカルチャンネルで放送されているので、チェックしてみよう。

プロとは違い、まだ技術が未熟な高校球児達の試合ではプロでは考えられないようなミスが珍しくなく、ワンプレイごとに本当に気が抜けない。


圧倒的な点差がついていたかと思えば、ひとつのミスから逆転などザラであり、プロ野球とはまた違う面白さがあり、
だからこそ後の世まで語り継がれるドラマが生まれるのである。


ちなみに地方大会くらいになると、あまりに実力差があり過ぎて40-0などの超ビッグスコアなゲームになることも・・・。
98年の青森県大会の深浦-東奥義塾戦ではメジャーもびっくりの122-0という世界記録スコアが成立した。これもまた高校野球。

近年では気候の変化による夏場の気温の上昇、1人のエースがプロではありえない間隔で連日100球を越える球数を投げるなどの選手を酷使する風潮が時代に即していないとして、球数制限などの改革の声が上がっている。

…さて、ここからは甲子園に潜むという「魔物」が生み出した、数々のドラマ、奇跡を記していこう。

気になった内容があれば、動画サイトなどで検索をかけてみよう。




…それは決して色褪せない、白球の記憶…



  • 1979年(第61回大会)

高校野球史上最高の試合

詳しくは箕島対星稜の項目を参照。



•1982年(第64回大会)

やまびこ打線爆発

「山あいの町の子供たちに一度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ」と蔦監督が池田高校を甲子園初出場に導いてから11年。畠山、水野といった超高校級選手を擁してついに頂点にたどり着いた。
1番から9番まで隙のない打線で猛打を連発し、準々決勝では5期連続出場の荒木大輔擁する早稲田実業高相手に実に14点も取り、6戦で85安打という当時の大会新記録を樹立。ついたあだ名は「やまびこ打線」。この年のクリーンアップを打っていた江上、水野はまだ2年生であり、その勢いは翌年の夏まで続くことになる。



•1983年(第65回大会)

KKコンビ登場

「やまびこ打線」の池田高校の快進撃は前年からずっと続いていた。そして準々決勝までで公式戦では実に40連勝までになっていた。しかし、準決勝でその快進撃を止めたのはなんとエース、4番共に1年生のPL学園だった。
この試合はPL学園の1年生桑田の独壇場だった。投げればあの「やまびこ打線」を5安打完封。3塁すら踏ませぬ快投。打てばこれまで甲子園で被弾無しの池田高校エース水野からレフトスタンドに放り込むホームラン。桑田は4月1日生まれのため、出場選手の中では最も若い選手。
後々を見ればこの結果もやむなしかも知れないが、この時点では1年生の大金星に騒然としたものである。
甲子園の歴史に残る最強チーム候補同士のドリームマッチでもある。



•1985年(第67回大会)

高校野球史上最高チームの有終

1年生で優勝したKKコンビももはや3年生。優勝した後は、決勝まで行くものの優勝まではあと1歩届かないでいた。
もう一度優勝をと目指して5期連続で甲子園に乗り込んできたPL学園はさらにとんでもないチームへと変わっていた。
甲子園初戦となる2回戦では毎回得点のじつに29得点をマーク。決して崩れない大エースを擁しながらとんでもない打力でいろいろな大会記録を次々を更新しKKコンビ2度目の優勝を成し遂げた。
8月18日に18歳の誕生日を迎えた清原はそこから更に爆発。打率約8割ホームラン5本をかっ飛ばす。ここまで甲子園通算20試合以上を4番でフル出場してきた選手とは思えない。
準々決勝では高知商の中山から歴史に残る特大ホームランを打つ。その直後、その夏に唯一5番を打った桑田もホームランを打ち、KKコンビ唯一の連続アベックホームランもマークしている。
決勝戦の前に桑田はそれまでの疲労からチームメイトに初めて弱音を吐き「抑える自信がない。3点は覚悟してくれ」と言うと、清原が「分かった。3点やな。俺が必ずそれ以上取ってやる。しかし、藤井(その大会4ホーマー)にホームランだけは打たすなよ。それを越えてやるからな(清原はそれまで大会3ホーマー)」と言ったとか。
有言実行で有終の美を飾る。。桑田は藤井に特大のスリーベースヒットこそ打たれたもののホームランだけは阻止。見事3失点に抑える。対する清原も2発の同点ホームランを打ち3打点。「甲子園は清原のためにあるのかー」という実況はあまりにも有名。
この年のPL学園は3年生は実に5人ものプロ野球選手を輩出している。
2年生で1人、1年生で4人も出ているのでチームとしては合計10人となってとても豪華。
KKコンビのみならず1年生では元中日ドラゴンズの立浪和義、元横浜ベイスターズの野村弘樹、元阪神タイガースの片岡篤史
などがおり「プロに行っただけ」といった選手ばかりではない。

清原は大会通算打率440、13本塁打、29打点。
桑田は大会通算打率333、6本塁打、28打点、5三振。20勝3敗、防御率1.55。



  • 1992年(第74回大会)

勝利至上主義

当時、最強のスラッガーと呼ばれた松井秀喜(元タンパベイ・レイズ)を擁した石川県 星陵高校。
当然の如く甲子園にも出場したが、2回戦で当たった高知県 明徳義塾は松井との勝負を徹底して避け、回ってきた5打席を全て敬遠。結果、星陵は敗退した。
松井秀喜の実力を示すと共に、この「勝利至上主義」を疑問視する声もあがり、物議を醸した。 


  • 1996(第78回大会)

奇跡のバックホーム

愛媛代表松山商業高校対熊本熊本工業高校の決勝戦は古豪同士の対決らしく3-3の好ゲームのまま延長戦に突入する。
10回裏、熊本工業が一死満塁の大チャンスを迎えると、松山商業の澤田監督は選手交代を宣言。
登場したのはここまで出番の無かった矢野勝嗣。返球での暴投が多くその事をいつも監督に怒られていたという選手だったが、後に澤田氏は「この場面、矢野ならもしかしたら・・・」という天啓が降りてきたと語っている。
そして打席には3番・本多が立った。初球を捉えた本多の打球は、交代したばかりの矢野の守るライトへと打ち上げられた。
ホームランかとも思われた打球は甲子園特有の浜風に戻されライトフライ。だが犠牲フライには充分すぎる距離であり、3塁ランナーの星子はこれを見てタッチアップ。チーム一二を争う俊足であったこともあり誰もがサヨナラを確信した。
だが、ライトの矢野からのバックホームはホームベースまでの80m超を文字通り光の矢となってキャッチャーへ到達。3塁側にわずかにずれていたこともありランナーを刺し、結果的にダブルプレーで窮地を脱した。
この後11回表、このスーパープレーの矢野が先頭打者で2塁打を放ち打線が奮起、6-3と突き放してそのまま優勝した。
普段の練習では大暴投ばかりしていたという矢野だが、この時ばかりは定位置より深い守備であったことや浜風によって球速が加速したこともあってピンポイントな返球が可能となったとのこと。
投手2本柱の内1人がライトも守るためレギュラーでありながら控えに甘んじていた矢野だがこのプレーだけで高校生活のすべてを出し切っていた。

  • 1998年(第80回大会)

怪物覚醒

80回という節目を迎え、最多55校が出場したこの大会。

神奈川県 横浜高校は「怪物」松坂大輔(現中日ドラゴンズ)を擁し快進撃。
準々決勝でPL学園を壮絶な延長戦の末に下し、その勢いのまま準決勝では8回裏開始時点で6点ビハインドから逆転サヨナラ。
決勝戦ではなんとノーヒットノーランを達成し、完璧な強さを見せ付けた。



  • 2004年(第86回大会)

深紅の優勝旗 北の大地へ

駒大苫小牧が鵜久森淳志(元東京ヤクルトスワローズ)・福井優也(現楽天ゴールデンイーグルス)を擁する選抜覇者済美高校を破り、北海道勢として甲子園初制覇。
甲子園が始まってから初めて、深紅の大優勝旗が津軽海峡を越えた。

同校は翌年にも優勝し、二連覇という大偉業を達成。誰もが知る強豪校へ仲間入りを果たした。



  • 2006年(第88回大会)

ハンカチフィーバー

東京都 早稲田実業に登場したアイドルハンカチ王子こと斎藤佑樹(現日ハム)は、
決勝戦でマー君こと田中将大(現ヤンキース)を擁し、三連覇を狙う駒大苫小牧と激突。

優等生vs野性児という全く対照的な2人の壮絶な投げ合いは延長戦に入っても決着が着かず、
試合は1969年(第51回大会)以来2度目となる決勝戦引き分け再試合となり、翌日に持ち越された。

翌日の試合も安定した斎藤のピッチングで失点を許さなかった早稲田実業は、対する田中を打ち崩し見事優勝。

最後は斎藤が三振で締めたが、この試合のラストバッターとなったのは、奇しくも最大のライバル田中であった。
またこの88年世代生まれは現在プロ野球にて活躍している選手が多く、黄金世代とも言われている。



  • 2007年(第89回大会)

がばい旋風

この年、決勝に進出したのは広島の古豪 広陵高校と、全く無名の県立高校佐賀北高校だった。


佐賀北は甲子園での勝利がこの大会まで無かったが、準決勝では「東の横綱」帝京高校をサヨナラで下すなど、まさに神がかり的な勢いだった。
しかし決勝戦では広陵高校に抑えられ、快進撃もここまでかと思われた…

だが、なんと8回に1-4からの逆転満塁ホームランが飛び出し5-4と一挙に逆転。そのリードを守りきり優勝。

「ふつうの子」達が甲子園を制覇し、この現象は「がばい旋風」と呼ばれ、私立にお株を奪われがちな全国の県立高校の球児に勇気を与えたことだろう。

余談だが佐賀北は県内では進学校であり、優勝の影響で2008年度入試から数年間、倍率がはねあがった。
ちなみに広陵高校のバッテリーは野村祐輔(現広島東洋カープ)・小林誠司(現読売巨人軍)



  • 2009年(第91回大会)

魔物の呪縛

この年は新潟県勢の日本文理が初の決勝に進出。
決勝戦は堂林翔太(現広島)率いる中京大中京との一戦。
10対4と6点ビハインドを背負って迎えた9回表・日本文理の攻撃。簡単に2アウトを取られ、あっさり試合終了かと思われた…

が、そこから予想外の展開に。

2アウトで迎えた1番・切手が四球で出塁したのを皮切りに、普段から「1球打撃」というフルカウントを想定した場面での臭い球のカット、ボール球を見極める選球眼を
徹底的に磨いてきたという打線は驚異的な粘りで食らいつき、点差をジワジワと縮めていく。
だが、4点差まで追い上げたところで迎えた4番・吉田がサードフライを打ち上げ今度こそ万事休すと思われたが、なんとサードがこの飛球を見失いファールとなる。
(この打席を、吉田は「去年亡くなったお母さんが守ってくれたんだと思います」と語っている)
最後のアウトひとつが取れない中京大中京。この異様な雰囲気にのみ込まれ、動揺を隠せない堂林はこの直後に吉田を死球で出塁させてしまいついに降板。
続く5番・高橋も四球を選びなおも満塁。6番でキャプテンの伊藤が打席に立つ時にはブラスバンドの演奏すら止まり、甲子園は伊藤コールの大合唱に包まれていた。
そして伊藤の打球は左中間を抜け、2人のランナーが返り2点差。この時に飛び出した「繋いだ!繋いだ!日本文理の夏はまだ終わらなぁいっ!!」という
フレーズは、名実況として今日まで語り草となる。
続いて代打で登場した石塚もタイムリーヒットを放ち、とうとう中京大中京をあと1点までに追い詰める。

そして一打同点の場面でバッターはこの回先頭だったキャッチャー若林選手。
芯を捉えた運命の打球は…


サードライナー。

あと数cmだけ右に反れていれば外野に抜けたであろう痛烈な打球であった。

日本文理は準優勝に終わったものの、長年「野球後進県」と言われ続けた新潟県への他県の認識を大きく変える出来事に。
「負けて悔いなし」文理ナインの言葉が全てを物語っていた。
一方、優勝した中京大中京の途中降板した堂林は試合終了後のインタビューで、チームが勝利したにも関わらず悔しさをにじませ、涙を流していた。
勝者が泣き、敗者が笑うという他に類を見ない結末となったこの一戦は、「甲子園の魔物」は確かに存在するということを知らしめた。


  • 2010年(第92回大会)

初優勝と6校目の春夏連覇

琉球トルネード、島袋洋奨(現ソフトバンクホークス)を擁する沖縄・興南が出場。
これまで島袋の19奪三振といった健闘がありながら打線が振るわず甲子園での成績はパッとしないものだったが、春選抜で覚醒。

強打の智弁和歌山を島袋が抑え、打線も打ち勝ち『貧打の興南』の汚名返上した後は優勝候補を次々に撃破し春選抜を制覇。

夏は投打共に更に変態度を増した上で出場。大会では一二三や歳内など多くの好投手と激突。打線の爆発と島袋の防御率一点台の好投で勝ち進み優勝した。
これにより上述の横浜高校以来6校目となる春夏連覇を達成、初めて深紅の大優勝旗が海を渡った。

余談だがこの大会でとあるプロ注目投手の壮絶な大炎上によりプロ注目=死亡フラグという図式が出来てしまった。


ちなみにその翌年の2011年は春夏共にこの興南と決勝で戦って敗れた学校が優勝している。
そして遂に秋田県勢が14年振りに甲子園一勝を果たした年でもある。この年の秋田代表・能代商業は高校野球ファンなら必見。



  • 2017年(第99回大会)

乱れ飛んだ本塁打と生まれた新記録

第100回の記念大会に合わせ深紅の大優勝旗が新調される事が発表され、第40回から使われてきた2代目優勝旗を最後に手にするのはどのチームか。

今大会は、後にドラフト1位指名を受けた投手が4人もいた前年などに比べると投手は不作との前評判があったが、その分打線は例年にも増して活発であった。
各試合本塁打が出るわ出るわで通算本塁打数は今までの最高記録60本(2006年)を大幅に更新する68本が甲子園に乱れ飛んだ。
盛岡大付(岩手)-済美(愛媛)戦では、満塁本塁打の応酬という史上初の珍事も起こり、そのため「ボールが変わったのでは?」という疑惑も生まれたほどだった。
中でも広陵(広島)の捕手・中村奨成は神がかり的な打棒を見せ、かの清原和博が保持していた1大会5本という本塁打記録を32年振りに塗り替える6本塁打を放ち、
他にも17打点38塁打は最多記録、安打数19本も最多タイ記録とまさに記録づくめとなった。
中村フィーバーにも押された広陵は快進撃を見せ、中京大中京(愛知)、秀岳館(熊本)ら強豪を破り決勝進出を果たした。

そんな中村擁する広陵を決勝で破ったのが悲願の県勢初優勝の期待を背負った花咲徳栄(埼玉)。
乱れ飛ぶ本塁打の嵐であった大会の全体像とは裏腹に、花咲徳栄は抜群の選球眼を武器に低く鋭い打球を連発。合計21二塁打はこれまたチーム最多記録を更新した。
本塁打数はチームでわずか2本(2本ともソロ)ながら、49代表制になって以降初の全試合で9得点以上を記録して優勝したチームとなった。
また、綱脇・清水の両右腕の継投で6試合を投げ抜き、失点こそすれど許した本塁打はわずかに1本だけであった。

本塁打が雨あられのごとく降り注いだ大会で、本塁打に頼らず得点を積み上げ、相手に本塁打を許さなかったチームが優勝をもぎ取ったのはある種皮肉なものである。


  • 2018年(第100回大会)

金農旋風

第100回目という節目の大会において、まったくのダークホースが突如として浮上。
ごく普通の県立高校、それも全員が地元出身者でありながら、甲子園常連の名門私立を相手に連戦連勝を続けたのである。
その名は秋田県立金足農業高等学校
鹿児島実業、大垣日大、横浜、近江、日大第三といった強豪を相手に、次々と勝利を収めていき、「一般人がエリートに勝つ」という庶民の心をくすぐる展開で、全国的に注目を集めることになった。
予想以上に勝ち残ったせいで、応援団の滞在費が底を尽いてしまい、同高校のOBに寄付を募るという珍事まで起きた。

決勝にて対峙したのは、大阪桐蔭という超名門。そのメンバーも、日本全国からスカウトされた俊英ばかりで、まさにリアル海堂高校だと囁かれるラスボス感あふれる布陣であった。
初回裏でいきなり3失点。3回表で何とか1点を返すも、その後は次々と追い打ちをかけられ、最終的には2-13という大差で敗北することになったが、県立高校がここまで健闘しただけで大したものだと、観客からは惜しみない拍手が送られた。

…だが、マスコミがあまりに金足農業に肩入れしすぎだとして、報道の在り方も問われることになった。
対戦校とて、同じ高校球児であることに変わりはないし、中には名門校で野球に打ち込むために、親元を離れている子だっている。
以前から頑張って結果を残してきた球児たちを、悪役扱いするのはいかがなものかという意見も起こったのである。
そもそも、金足農業とて、春3回、夏6回の甲子園出場経験を持つ秋田屈指の強豪だし、公立高校とはいっても、普通科よりは恵まれた環境にいる*1
「ごく普通の県立高校」というイメージは、報道によって必要以上に強調されたものであったことは否めない。


余談

冒頭でも記した通り、1915年から大阪朝日新聞社が主催ではじめられた本大会だが、その4年前の1911年には東京を中心としたマスコミ・識者による
「野球害毒論」が展開される。主な著者は新渡戸稲造(後の国際連盟事務次長)乃木希典(陸軍大将)永井道明(東京高師教授)など、錚々たるメンバーが名を連ねている。

なお、そのキャンペーンの中心となった新聞社は「東京朝日新聞社」であった。


追記・修正は試合の途中にNHK総合からNHK教育(現Eテレ)に切り替えたことのある方にお願いします。

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最終更新:2020年11月14日 07:35

*1 工業高校や農業高校は、「技術監督」という名目で、部活の監督を招聘する予算が組める。