ダメ外人/ネタ外人(Jリーグ)

登録日:2012/09/02(日) 22:18:59
更新日:2025/05/13 Tue 15:42:09
所要時間:約 20 分で読めます





スポーツ界で「助っ人」といえばもっぱらプロ野球を指してきたが、93年のJリーグ開幕から年月が経ち数多くの外国人サッカー選手たちが日本のピッチを踏んだ。

その中にはジーコやストイコビッチのように現在に至るまで日本サッカーに影響を与え続けている者がいる一方、
誰の記憶にも残らず忘れ去られた者、むしろファンにとっては記憶から抹消したい者も存在する。

本項目の主役は後者、記憶から抹消したい者たちの方である。
後にネタ外人・ダメ外人と呼ばれ、Jリーグの歴史を彩ることになった彼らの一部を紹介したい。


◆90年代


◇ゲーリー・リネカー(FW・名古屋グランパス・1992~1994)

Jリーグ初期に来日した世界トップ級選手たちの一人であり、イングランド代表の英雄。
彼の代表歴代最多ゴール記録はオーウェンですら抜けなかった。

年俸は当時リーグトップの3億円。年齢も32歳と晩年とはいえまだ期待できる年齢。
しかしワンタッチゴーラーというプレースタイルのため周りからいいボールが来なくては何もできず、さらに怪我も多く2シーズン通算4得点に終わり引退。
ベッカムの米国移籍について「私が日本に行ったように現役の最後に良い給料をもらってサッカーを教えにいくのもいいことだ」とコメント。
ただ日本に対して悪感情を抱いているということはなく、当時を振り返るインタビューに応じたり日本人選手・日本代表チームの活躍に好意的なコメントを残すこともしばしばある。

引退後は解説者や英・BBCの名物サッカー番組『Match of the Day』の司会者として活躍。
また、カタールワールドカップの開催に際しその問題点を大きく強調する・母国の移民問題への対応を批判し司会業の進退問題に発展するなど、社会的正義感に強い人物である。

◇チェローナ(ハイメ・ロドリゲス)(DF・NKK→横浜フリューゲルス・1991~1993)

「W杯でマラドーナをマークした」のが売りという元エルサルバドル代表選手。国際Aマッチでは50試合以上に出場している経験豊富なベテラン。
だが、マラドーナをマークしたというだけで、抑えたかどうかわからない上マークした結果がどうだったかわからないため誰も評価出来なかった。

90年に自ら日本でのプレーを希望し来日し、日産自動車(横浜Fマリノスの前身)の清水秀彦に気に入られ入団しかけるが、当時の日産自動車は柱谷哲二・井原正巳という不動のCBがおり、翌年には大型ルーキー小村徳男の入団も控えているという理由から獲得が見送られ、JSL2部のNKKに入団し2年ほどプレー。

Jリーグ開幕後は日本リーグ二部での活躍が認められ、もう一つの横浜のチームであった横浜フリューゲルスに引き取られるが、1年目は怪我、2年目は外国人枠の問題でリーグ戦に数試合しか出場しないまま退団。
母国では英雄扱いだったようだが、マラドーナをマークしたという実績以外、すごいのかよくわからない選手であった。

◇マルセロ・モラレス&ヴィクトール・フェレイラ(FW・浦和レッズ・1993)

浦和レッズが開幕前、JSL時代から活躍した外国人選手を解雇してまで獲得した助っ人コンビ。モラレスは元エクアドルの年間最優秀選手の経験を持ち、フェレイラは元アルゼンチン代表でゴールも決めている実績の持ち主。

しかし、蓋を開けると両選手とも衰えもあってか動きが重くキレがなく、ボールキープすらままならない惨状でわずか3、4試合で解雇。
浦和レッズの黒歴史と言うか、暗黒時代の象徴である。

◇ヘニー・マイヤー(FW・ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)・1993)

記念すべきJリーグの初ゴールを飾った選手。
オランダ出身、エールディビジでMVPを獲得したこともあり、1試合のみだがオランダ代表の経験もある。しかし初ゴール後は全く活躍出来ず、シーズン途中に自ら帰国し退団。結局日本で奪ったゴールは初ゴールを含め僅か2得点であった。

余談だが、初年度のヴェルディは他にもイェーネ・ハンセン、エリック・ファン・ロッサムといったオランダ出身選手を獲得し、これまでのサッカーからオランダ流のサッカーに転向しようとしていた。
しかしながら、結局初年度で全員退団し、この唐突なスタイル変更は一部主力メンバーの反発による退団にも繋がったため失敗に終わり*1、翌年以降はそれまでの主力メンバーとブラジル人選手を中心とした以前の読売クラブ時代のサッカーに戻った。
その時の監督こそ、今はサッカー解説者としてお馴染みの松木安太郎である。

◇マルコーン(FW・清水エスパルス・1993)

93年ニコスシリーズ、ヴェルディと優勝争いをする清水エスパルスが獲得した秘密兵器。ポルトガルリーグ二部で得点王の実績を持つ。
当時の主力だったマルコ・アウレリオが負傷離脱したことによる代役選手かつ彼と名前が似ていたことから「マルコの代わりにマルコーン」などメディアからは面白おかしく報道された。

満を持して臨んだヴェルディとの大一番ではボールに乗って転ぶという天下の珍プレーをやらかしあっけなく粉砕され、その後わずか出場1試合で見限られ解雇された。

◇ウーベ・ラーン(FW・浦和レッズ・1993~1994)

西ドイツ代表として86年メキシコワールドカップに出場、ドイツ年間最優秀選手賞受賞、86年ブンデスリーガ得点王に輝くなど輝かしい実績を持つドイツのストライカー(ここ大事)。
攻撃の要として鳴り物入りで入団するも、なかなかフィットせず調子を上げられないうちにチームは故障者が続出。
FWが本職なのにCBやボランチをやらされるというあんまりな扱いを受け、当然結果を残せず、2年目は試合出場が無いまま夏にギド・ブッフバルトとウーベ・バインが加入することに伴って放出された。
入れ替わりで浦和に入ったバイン、ブッフバルトの両ドイツ人はともに大活躍したのだが……。

◇ミューレル(FW・柏レイソル・1995)

柏をJ昇格に導いた英雄カレカとブラジル代表コンビ結成を期待されて加入したがすぐ退団。
理由は嫁が日本のゴミの分別の細かさに耐えられずホームシックになったから。世知辛え。

◇モーゼル(DF・鹿島アントラーズ・1995~1996)

鹿島が95年後半から主力であるサントスを放出してまで獲得したセンターバック。

ポルトガルリーグ・ベンフィカからの移籍で元ブラジル代表と実績は十分だったがキャリア晩年で衰えは隠せず、簡単に競り負ける、レッドカード連発などほとんど使い物にならず。
その年はレギュラーを守ったが、96年はわずか2試合の出場に終わり退団、その年限りで引退した。
後述するベベットと並ぶ鹿島の名前倒れ助っ人の一人。

◇ダリオ・フィゲロア(MF・横浜マリノス・1996)

96年、リーベルプレートのユースから加入したアルゼンチンの若手選手。
磐田戦の後半44分で初出場したが、その直後にスキラッチがゴールを決め0-1で試合終了。
その後、出場機会は無く同年中に退団。つまり、通算出場時間1分

◇ミカエル・ラウドルップ(MF・ヴィッセル神戸・1996~1997)
96年、当時JFLだったヴィッセル神戸に突然やってきた世界の大物。
FCバルセロナを始め世界のビッグクラブを渡り歩いた輝かしい経歴を持つデンマークのレジェンド級の選手である。
彼の加入に奮起したチームはJリーグ加入条件を果たす準優勝を果たし、見事待望のJリーグ入りを果たした。

……ここで終わっていれば美談だったのだがその後がいただけなかった。

今でこそ、JFLからJリーグ入りする場合、J3→J2→J1と段階を踏むシステムがしっかりと構築されているが、当時はまだJリーグが始まってまだ数年の状態で、いきなりJFLから加入した神戸は他チームとの実力差が歴然だったのである。
そんな中彼自身はリーグ戦3試合、ナビスコ杯6試合に出場したものの、チーム成績は低迷し公式戦9連敗を喫してしまい、「このままここにいては、自分のためにならない」と発言しシーズン途中に退団してしまった。

さらに、引退セレモニーで自分が所属した歴代チームのユニフォームを展示するパフォーマンスがあったが、ヴィッセル神戸のユニフォームだけ飾られず、まるでプレーしていたことを無かったことにするかのような行動を行ったためにファンからは猛反発を受けた。

一時期日本代表監督候補に名前が挙がったこともあるが、上記理由によりヴィッセルファンからは「絶対にやめろ」と猛反対を受けた。


◆00年代前半


◇ベベット(FW・鹿島アントラーズ・2000)

久々の大物として期待された元ブラジル代表。89年南米最優秀選手、3度のワールドカップ出場、及び3度のオリンピック出場と輝かしい実績を持ち、鳴り物入りで入団した。

しかし来日当時36歳で既にピークを過ぎており今更という感じで、案の定Jリーグのプレースピードに全くついていけず(後年、入団前のコンディショニングを全く行なっていなかったことが発覚した)大した活躍もできないままわずか4ヶ月で退団した。

結果の出ていないベベットを起用することでトニーニョ・セレーゾ監督(当時)と選手間の確執を生むほどのダメっぷりであった。

◇アブデルジャリル・ハッダ(FW・横浜F・マリノス・2000)

モロッコ代表のエースという変わり種。
キャンプから合流したもののオズワルド・アルディレス監督に「構想に入っていない」とバッサリやられ、わずか3日で解雇。横浜の選手なのに横浜に入れないという快挙を成し遂げた。
イスラム教徒だったために合宿での食事がハラールに合わなかった、というのも一因とされる。

◇ウィル(FW・大分札幌横浜FM札幌大分・1998~2003)

98年に大分に入団し初年度から活躍、01年に移籍した札幌でJリーグ得点王に輝き、チームのJ1残留の立役者となった。

と、ここまで書けばただの優良助っ人外人である。
しかし、彼の問題点、それは度を超えた素行の悪さであった。

大分、札幌時代から得点力の一方で体重を管理できない自己管理の甘さ、自己中心的なプレーが問題視されていたが、極めつけとなるのは得点王の翌年、鳴り物入りで加入した横浜Fマリノスでのプレーである。
具体的には…
  • ナビスコカップのジェフ戦で中西永輔、立石智紀を故意に負傷させる
  • 練習法をめぐりセバスティアン・ラザロ二監督(当時)と対立
  • あげくの果てにチームメイトの奥大介がパスを出さない事に腹を立て、試合中に暴行
といった傍若無人な行為を繰り返した結果、当然ながら1年で解雇された。

翌年は札幌に復帰したが、怪我に悩まされ、更にはリハビリ中に札幌の居酒屋で暴行事件を起こしてしまう。罰金などの処分に留まったが処分が軽すぎるとしてフロントともども現地のマスコミから糾弾された。
シーズン中にレンタルで古巣の大分に復帰したが、大した活躍は出来ず03年限りでチームを去った。

しかし、ピッチの外ではサポーターと交流するなど極めて温厚な性格で、また上記の素行とウクレレ好き、高所恐怖症などの人間臭さとのギャップから「俺王」のニックネームでサポーターからは親しまれた。

◇エメルソン(DF・東京ヴェルディ・2001)

01年に開幕から不信にあえいだ東京ヴェルディが連れてきた助っ人外国人トリオの一人。
だがかなりプレーが荒く毎試合のように警告を受けあげく7試合連続警告という前代未聞の記録を打ち立ててしまい、そのあまりのプレーが問題視され1年限りで解雇された。
他の二人のうち一人のエジムンドは世界的な大物で翌年は優勝争いに貢献、もう一人のマルキーニョスは翌年は怪我に苦しんだが様々なクラブを渡り歩き大活躍したため余計彼のダメっぷりが目立ってしまった。
彼が唯一輝いたのはJ1残留を決めた最終節の東京ダービーくらい。

◇ロブソン(FW・コンサドーレ札幌・2002)

ロシアリーグ得点王の売り文句で来日したブラジル人ストライカー。
いざ試合に出るとさっぱり活躍できず得点王の話も実はチーム得点王の間違いだったことが発覚、柱谷哲二監督に名言「ロブソンには責任を取ってもらう」を吐かせた。
その後ロブソンはプレーに対する責任を、柱谷監督はチーム成績の責任を自分のクビで取らされたことは言うまでもない。

◇ジュニオール(MF・サガン鳥栖・2003)

「神様」ジーコの息子で記念すべき初の親子Jリーガーとなる。
が、選手としては父の経営するクラブ、CFZ・ド・リオ以外でまともに実績がない体たらくで案の定3ヶ月で退団。

◇エデー(FW・ベガルタ仙台・2003)

2003年、ベガルタ仙台と提携を結んでいたサンパウロFCからレンタル移籍で加入した19歳の若手有望株。
「仙台のベッカム」と称される甘いマスクと、左足のダイナミックなプレーで期待されていたのだが、3月のサテライトリーグでの大宮戦で相手選手を後ろから蹴倒し退場、そこで審判に抗議した際に審判の体に触れてしまったためサテライトリーグ4試合出場停止の重い処分が下される。
しかもその間Jリーグ本戦やヤマザキナビスコカップの試合にも出られなかったため、実質10試合の出場停止処分になる。

そこで反省……すると思いきや、なんと無断でブラジルに帰国し、そのまま戻ってこなくなり契約解除となった。

さすがにサンパウロFCも責任を感じたのか、代替選手でドッダを仙台に寄越したが、彼も活躍することなく翌年に日本を去っている。

◇イルハン・マンスズ(FW・ヴィッセル神戸・2004)

2002年の日韓ワールドカップにて日本の女性を虜にしたトルコの貴公子。

2004年に高額年俸で神戸に移籍。カズとのツートップが期待されたが膝に水が貯まるなど故障の繰り返しでほとんど試合に出なかったままシーズン中に退団。
後にフィギュアスケートに転向してペアで冬季五輪を目指したが、残念ながらその方面でもソチ五輪出場枠獲得はならなかった。

◇アルパイ(アルパイ・オザラン)(DF・浦和レッズ・2004~2005)

上記のイルハンとトルコ代表でチームメイトだった、日韓W杯ではベストイレブンにも選出されている大物DF。

1年目こそ3バックの一角で浦和のセカンドステージ制覇に貢献したが2年目に入ると2試合連続レッドカードなど荒々しいプレーが目立つようになり、結局レギュラーから外れた末チーム事情によりシーズン途中で解雇された。

もともと素行には問題があり、そのせいでビッグクラブからのオファーの話が取り消されるなどの経歴があった。それだけならストイチコフといった前列もあったのだが……。

退団後はなんと何を血迷ったかブンデスのケルンが獲得し、ワールドカップ後落ち目だった代表にも呼び戻されるが、ワールドカップ予選プレーオフで乱闘に参加しチームメイトを負傷させてFIFAから制裁金を喰らうなど相変わらずだった。

現役引退後は母国で議員になっているが、与野党議員の除名をめぐって乱闘する様子がネット記事となり古巣の浦和サポからは彼らしいとネタにされている。

◇ルイゾン(FW・名古屋グランパス・2005)

日韓ワールドカップ予選で不振にあえぐブラジル代表を救い本大会メンバーに選ばれたFW。

絶対的エースのウェズレイの新たな相方としてシーズン途中に来日するも日本のサッカーが合わず1ヶ月ほどで退団。
ちなみに、ルイゾンと同じ日韓大会のメンバーで柏に在籍したエジウソンは1度目の来日時は得点を量産した。

◇ファビオ・ジュニオール(FW・鹿島アントラーズ・2004)

元セレソンでセリエAやポルトガルリーグでのプレー経験も持つ超大物FW。

チームの得点源として大いに期待されたが、蓋を開ければ点は取れない、走れない、フィジカルは弱いと絵に描いたようなダメ外人で、13試合出場でわずか1得点に終わり1年限りで解雇された。


◆00年代後半


◇ダニーロ(ダニーロ・ゴメス)(MF・FC東京・2005~2006)

長らく主力で活躍したケリーがチームを去り、その後釜としてFC東京が獲得した中盤の選手。

来日時は「将来のセレソン(ブラジル代表)というより、今の僕の目標は、日本代表を目指すこと。日本で活躍して、名前を残したい。ダニーロという選手がいたことを、誰もが思い出し、覚えてくれる選手になりたい」という発言が話題となり、ブラジル全国選手権で大活躍するなど実力も確かだったが、蓋を開けると日本サッカーにフィットできずわずか5試合で海外へレンタル移籍、そのまま帰って来ることはなく退団。

なお、長らく監督を務めた原博実氏(のち日本サッカー協会理事)が退任する際、「一番苦労した選手は?」の質問に対し「ダニーロが一番苦労した。だって何を言ってもサムズアップしかしないんだもの」と回答している。

◇パウロ・ワンチョペ(FW・FC東京・2007)

ドイツW杯で開催国ドイツから2ゴールを奪ったコスタリカ代表のエース。
Jリーグ久々の大物として話題になったが、長身FWでタイプの似た平山相太とは何かと比較され、

開幕前には「平山の教育係になる」
シーズン中は「平山のほうがマシ」
退団してからも「平山がワンチョペ(のように悪いプレー)になっている」

と言われた。

◇マウリシオ・サーレス(FW・大宮アルディージャ・2007)

07年開幕から大ブレーキの大宮が緊急補強したFW。
途中出場した8分後に一発レッドを喰らう衝撃デビューを果たすがその後の名古屋戦で無駄に美しいヘッドを決めチームに初勝利をもたらす。

が、活躍はそれだけで練習で死んだ魚の目でDFをやらされていたのを最後に解雇された。

サッカー雑誌の「選手が選ぶすごい選手」という企画でヘディング部門に一票入っていたが、投票した成岡翔(磐田)とは一度も対戦していない。

◇ミネイロ(DF・ガンバ大阪・2008)

ガンバの守備を支えたシジクレイに代わる選手として期待されたが、あまりのザルっぷりにセンターバックでは恐ろしくて使えず。サイドバックやFWで試されるも一年で解雇された。

ただ明るく人懐っこいキャラクターでチームメイトからは非常に人気があり、無口で有名な二川孝広となぜか仲が良かった。
チームのムードメーカーとしては貢献したのか、ミネイロの居た08年にガンバはACL優勝・CWC3位・天皇杯優勝と上々の成績をあげている。

◇ノナト(FW・コンサドーレ札幌・2008)

08年、久々のJ1復帰を果たして残留、さらに定着を目指す札幌が切り札として獲得した選手。

ブラジルの古豪ECバイーアで133得点のクラブ記録を持ち、更に韓国Kリーグの大邱FCでリーグ2位の19得点を挙げるなど、実力はお墨付き……のはずだったが。
元々身長180cmもないのに77kgと大柄だったにもかかわらず、8キロ増量の85kgというサッカー選手、フィールドプレイヤーとしては考えづらい体重でキャンプインし、明らかな調整不足で不穏な雰囲気が漂っていた。

シーズンになればウェイトが落ちるのではという淡い期待もむなしく、わずかリーグ戦1試合、ナビスコ1試合のみでアンデルソンという別助っ人と入れ替わりで解雇された。

OBの平川氏からは「何かは持っているノナトおじさん」と称されていたが、何を持っているかは分からず終いだった。余計な脂肪のことだったのかな?

この年、彼以外にもキャンプ中の練習試合での暴行でスピード退団したアルセウ(後に柏や山形などでもプレー)など迷走した補強を繰り返した札幌は結局、わずか1年でJ2出戻りとなった。


◆10年代


◇パブロ・バスティアニーニ(FW・横浜F・マリノス・2010~2011)

横浜伝統のアルゼンチン人FWという点だけは期待されたが、練習試合でユースに競り負ける圧巻のバッドパフォーマンスであっさり見限られ、サポーターからは癒し系キャラ「ニーニさん」として生暖かい目で見守られる。

試合にほとんど出なかったにもかかわらずなぜか契約更新し11年シーズンを迎えるが、東日本大震災を受けて「家族が心配するから」と退団。爆笑と共に生暖かく送り出された。

◇カルロン(FW・鹿島アントラーズ・2011~2012)

鹿島アントラーズがポルトガルリーグ2部得点ランク2位の実績に目を付けて、高額な移籍金を値切ってもらい(それでも2億円)獲得したブラジル人FW。
しかし素人同然のプレーでファンをドン引きさせ、リーグ戦5試合、ACL4試合に出場してわずか1得点に終わり早々にスイス2部にレンタルに出され、そのまま契約解除となった。

ちなみに以前来日したマルコーンもポルトガル2部の得点王。ポルトガル2部ってどんなリーグなんだ……。

◇フレドリック・ユングベリ(FW・清水エスパルス・2011~2012)

久々の大物として期待された元スウェーデン代表。ヘンリク・ラーションやズラタン・イブラヒモビッチらと並び称されるスウェーデンの英雄で誰しも認めるワールドクラスの選手で、11年夏に加入が発表された時は世界中が驚いた。

しかし活躍が期待された矢先、数試合に出場した後天皇杯で負傷。
治療のため帰国したきり再来日せず、12年シーズン中にクラブとの双方合意の上退団が発表された。
この双方合意の内容は現代でも公表されておらず、日本のプレーが水に合わなかったからだとか、ACL出場を逃したからだとか色々な考察が流れている。

そして彼の退団から一気にチームも成績が下り坂となり、15年にはクラブ初のJ2降格となってしまった。

◇ジョゼ・カルロス・セホーン(監督・ガンバ大阪・2012)

西野朗監督のもと黄金期を築いたガンバだが、10年間の長期政権による弊害も生じ始めたため、無冠に終わった2011年シーズン終了後に西野を解任、後任として元日本代表FWの呂比須ワグナーを招聘することに。
しかしガンバがJリーグに確認したところ、呂比須の所持していた監督ライセンスがJリーグでは無効と判明。彼の紹介で急遽白羽の矢が立てられたのがセホーンである。
セホーン監督・呂比須ヘッドコーチの新体制で再スタートしたガンバであったが、チームやサポーター、ひいては日本のサッカーファンはセホーンにいろんな意味で驚かされることとなる……。

来日初日に空港に現れたセホーンのご尊顔はどうみてもマフィアのボスという感じのイカツさ。ユーモアのセンスもありファンとのコミュニケーションを積極的に取るなど、その外見はともかく人となりはよかったようだ。
しかし、過去数多のクラブの監督を務めるも1年しないうちに辞任していることが殆どという監督キャリアから力量があるようには全く見受けられず、練習の時点で選手からもその手腕を不安視する声が挙がっていた。

そして、その不安は現実のものとなる。
開幕からリーグ・ACLを含め公式戦5戦連敗。結果として就任からわずか3か月後の3月27日にクラブから呂比須ともども解任されることとなった。
その後のガンバはコーチを務めていた松波正信が監督に就任したものの力及ばず、スタートダッシュの失敗が響きクラブ史上初のJ2降格が決まってしまった。

なお、上記の経緯からも想像できるかもしれないが、実際に試合の指揮を執っていたのは呂比須のほうであり、セホーンも戦術について意見を求められることはあったものの最終決定権は呂比須にあったという*2。のちにセホーンはこの時の自分自身の役割を「対メディアにおける”顔”的存在だった」と発言している。

呂比須はその後S級ライセンス相当の経歴があると認められてようやくJリーグでも指揮を執れるようになり、2017年にJ2降格の危機に陥っていた新潟の監督に途中就任するが、残念ながら残留を果たすことは出来ず新潟はJ2降格。彼も同年限りで退任した。

◇フランシスコ・サンダサ(FW・FC東京・2015~2016)

2015年夏、ドイツ一部リーグマインツへ移籍した武藤嘉紀の穴を埋めるべくスペイン2部リーグのジローナから獲得したスペイン人FW。
スペイン2部リーグでの得点王という触れ込みでの獲得ではあったが、プレシーズンマッチでの活躍こそあれどいざ蓋を開けてみればPK失敗、得点力皆無でみるみるうちに出場機会を失いいつしかベンチ外が定位置となった。
番記者へのインタビューでは「まだ本物のサンダサを見せていない」とどこかのおにぎり頭FWと同じ強気な発言を見せるも、後にACL得点王に輝いたブラジル人FWムリキを獲得するための外国人枠を開けるためにあえなく契約解除となった。

◇ギマ(FW・湘南ベルマーレ・2015)

2015年、エースストライカー・ウェリントンがアビスパ福岡に移籍してしまい、その穴埋めとしてルーマニアリーグから獲得したポルトガル人ストライカー。
194cmの長身に加えポストプレイヤーという触れ込みで入団時にはエース番号とも言うべき「9番」を与えられた。

ところが、加入リリース直後に行ったメディカルチェックの結果、何と右ひざの軟骨に損傷があったことが発覚。
回復まで時間を要することから戦力として計算するのが難しいと判断され、加入リリースからわずか3日で契約が取り消しとなってしまった。
メディカルチェックの結果を待たずリリースを出してしまった湘南にも問題があると思われるが……。

この例から、加入が決まった選手が合流前にメディカルでNGとなってしまった場合を「ギマる」と言うようになったとか言わないとか……。

◇カイケ(FW・横浜F・マリノス・2016)

横浜Fマリノスが1年越しの交渉を経て1億円で入団にこぎつけたブラジル人ストライカー。
セレソン経験こそないもののブラジルの名門フラメンゴで若くして頭角を現し、欧州リーグでのプレー経験もある。

ガンバ大阪に引き抜かれた現役ブラジル五輪代表アデミウソンの後釜として大いに期待されたが、いざ入団すると、度重なる練習への遅刻や、試合期間中のSNSの私的利用など、複数の規律違反があったとしてクラブから全体練習への参加禁止処分が下されるなど典型的な問題児であった。

最終的に成績も22試合出場でわずか4得点と全くの期待はずれに終わり、3年契約だったがわずか1年で構想外となり、海外にレンタルされ戻ってくることはなく満了のリリースすら出されなかった。

シーズン終了間際には「地震が怖い」とどこかで聞いたような発言を残している。

◇アチーレ・エマナ(MF・徳島ヴォルティス・2016)

南アフリカW杯でカメルーン代表の10番を背負い、日本代表とも対戦した大物。

2016年夏に低迷からの巻き返しを狙うJ2徳島ヴォルティスがスペイン二部ジムナスティックから獲得した。

そして来日初の練習試合では早速桁違いのスピードを見せつけ、ゴールも決めるなど大いに活躍が期待されたが、シーズンが始まると天皇杯1試合にベンチ入りしたのみ(出場はなくチームも敗退)で公式戦出場なしに終わりそのまま契約更新されなかった。

これだけの大物にもかかわらず上記のような扱いだったのは加入してしばらくしたあと全治三週間の大怪我を負い出遅れたのが要因だが、それ以前にも上記の天皇杯で起用されなかったために監督を恐ろしい形相で睨み付けるなど、人間性にやや問題があったのではないかという推測もある。

◇ルドゥウィッグ・オーマン(DF・名古屋グランパス・2016)

2016年、名古屋グランパスがGM兼監督に就任した小倉隆史監督の下スウェーデンリーグから獲得したDF。

センターバックのレギュラーとして期待されたが、実際にはFWロビン・シモビッチとのセット販売での加入であり、フロントは全く彼の実力を把握していなかった。
そしてシーズンが始まりレギュラーとして起用されるも、開幕から大量失点を繰り返したDF陣の責任を取らされベンチに降格。

もっとも、2016年の名古屋は記憶に新しいようにチーム状況が極めて苦しく、守備崩壊を彼一人のせいにするのはもちろん酷ではあるのだが、サッカー専門誌の評価でも「あらゆる面でJ1のレベルに達していない」と酷評されており、彼のプレーが大きな原因の一つであったことはやはり否定できない。

シーズン途中、成績不振によって小倉監督からボスコ・ジュロヴスキーコーチに交代したことから一時レギュラーに返り咲くも期待には答えられず、終盤はベンチからも外れ、チームも結局初のJ2降格となった。

相方のシモビッチは翌年も契約更新しエースとしてJ1復帰に貢献、枠の関係で放出されたものの大宮に移籍し活躍しているが、オーマンはひっそりと翌年1月契約満了となった。

しかしながら退団コメントでは日本に深い感謝を述べるなど、人柄は良かったようだ。

◇ガリャルド (MF・アルビレックス新潟・2017)

日本での経験がないブラジル人選手を獲得することは、このように当たり外れが大きいことからサポーターはソシャゲのガチャに見立てて「ブラジル人ガチャ」と呼ぶ。
アルビレックス新潟は、過去に優秀なブラジル人選手を数多く獲得してきたスカウトの優秀さからその「ブラジル人ガチャ」の勝ち組として知られていた。

2017年シーズン、チームの主軸であったDFコルテースをサントス(ブラジル)に、MFレオ・シルバを鹿島に、MFラファエル・シルバを浦和に引き抜かれた新潟はそのブラジル人ガチャにより3人のブラジル人選手を獲得。そのうち一人が彼、ガリャルドである。

SNSでは家族想いの面や難病で闘病中の少年のために髪型を変えるなど人の良さからサポーターからの印象も良かった。

しかし、6月のリーグ中断期間に体調不良のため練習を欠席したが、実は仮病で選手を招いてホームパーティーをしていたことが発覚。
さらに練習中に練習生を故意に蹴飛ばし、それをなだめようとした主将の大野和成に襲いかかろうとして止められる、さらに練習中に少し痛んだだけで早退したりと、徐々に人間性を疑われるような行為が明るみに出始める。
そして9月26日、家庭の事情という名目で一時帰国。しかし一時帰国とは上部のみでそのまま再来日せず、事実上の解雇となった。

また同時期に加入したジャン・パトリックも規律違反を犯し6月に解雇、結局最後まで残ったのはFWホニのみであり、そのホニも翌年3月に選手登録されながらブラジルに帰国したまま復帰要請に応じず契約を巡って裁判沙汰になるなど泥沼の末退団し、現在でも決着がついていない。

それまでブラジル人ガチャで多くの当たりを引いてきた新潟だったが、ついに爆死を遂げたせいでクラブは04年の昇格から守り抜いてきたJ1の席を10数年ぶりに失う羽目になった。

そしてガリャルド自身はブラジル復帰後は日本でのお騒がせぶりが嘘のように活躍し、セレソンに初選出されるなど遅まきながら大飛躍を遂げている……。

◇ギレルメ(ギレルメ・サントス)(DF・ジュビロ磐田・2018)

2018年にDF陣の強化のためジュビロ磐田が獲得したブラジル人DF。海外二部などでのプレー経験もある運動量豊富なブラジル人サイドバックとして期待された。

しかし、練習試合などでラフプレーが散見しており、名波監督始めジュビロの首脳陣を不安にさせる。
それでもリーグ戦では開幕してしばらくは目立ったラフプレーなどもなく、レギュラーとして起用されたが、横浜Fマリノスとの一戦でついに彼はキレてしまった。

後半35分、2枚目のイエローカードで退場処分を受けると、この判定に逆上し近くにいた横浜FマリノスMF喜田拓也の臀部を蹴り上げ、横浜FMのスタッフにも暴行。

このあまりの愚行にリーグ戦6試合の出場停止の処分を受けたが、既に練習試合などで見せていた姿に不安を持っていたクラブから見限られてそのまま契約解除となった。

その後はブラジル2部のチームに戻ったが、決勝ゴールを決めた相手選手を殴ってレッドカードを食らうなど、気性の荒さは変わっていない様子。

◇カルロス・マルティネス(FW・東京ヴェルディ・2017~2018)

2017年に東京ヴェルディがJ1昇格への起爆剤として獲得したスペイン人ストライカー。
リーガ3部がキャリアハイではあるものの、名門ビジャレアルのBチームに所属しコンスタントに20点以上を毎年あげるなど点取り屋として期待されていた。
しかし蓋を開けてみると勝負せず簡単にバックパスする、決定機は外しまくり、ボールロストしてもジョギングで戻るなどあまりにも消極的なプレーが目立ち日本サッカーに全く適応できなかった。にもかかわらず加入後全試合に出場していたことから「ロティーナ監督のお気に入り」「出場契約を結んでいるのでは」などと揶揄された。

しかしながら、思わぬ形で彼は日本サッカーに大きく貢献することになる……。
それはあのバルサOB、アンドレス・イニエスタのヴィッセル神戸への移籍である。
バルサとヴィッセルが楽天のツテで結ばれていたのもあるが、日本だけでなく中国など複数のチームからオファーを受けていた彼自身に対しても、昔からの友人であったマルティネスが日本の素晴らしさを熱弁し、移籍を後押ししたのであった。

マルティネス自身は翌年も契約更新されたものの怪我にも苦しみわずか2ゴールに終わり夏に家庭の事情で退団。
残念ながらイニエスタと同じピッチでプレイすることは叶わなかったが、彼がいなければあの世界的スターを日本で見ることは出来なかったかもしれない……。

◇ジャエル(FW・FC東京・2019)

2019年ブラジルの名門グレミオより獲得したブラジル人FW。

2年前のコパ・リベルタドーレス優勝クラブからのFW獲得という歴代のFC東京が獲得した選手の中でも1・2を争うほどのビッグネームだった。
早速リーグ第2節サガン鳥栖戦では来日第1号を決めるなど順調な滑り出しを見せたかに思えた。

だが来日早々に負傷し試合から遠ざかるとだんだんと素行が悪くなる。
具体的にはInstagramのストーリーを頻繁に更新し、常にマテ茶と自撮りするか釣りをするか。
更にはブラジル時代のライバルチーム・インテルナシナオルの選手にTwitterで喧嘩をふっかけ炎上。怪我が癒え戦線に復帰したと思ったらブクブクに太り、最終的にはJ3のU-23チームへと島流し。
J3でも定位置を掴むことなく翌年はJ2の松本山雅FCへレンタル。そこでも結果を出すことなく契約満了を迎え母国ブラジルへと帰っていった。

◆20年代


◇フアン・マタ(MF・ヴィッセル神戸・2023)
2023年、首位につける神戸がリーグ初優勝への切り札として夏に補強。イニエスタらとともにスペイン代表の中盤を長らく支え、クラブでもチェルシーとマンチェスター・ユナイテッドで多くのタイトル獲得に貢献した世界的なビッグネームで、夏に退団したイニエスタに代わる活躍を期待されていたが……

時期が悪かった。
神戸を率いる吉田孝行監督は豊富な資金を投入しながら結果を出せないチームの戦い方に見切りをつけ、より勝利にこだわるため個の能力を活かすタフな戦い方に舵を切ったことで、走力がある選手が優先的に起用された。
彼は35歳と既に大ベテランの域に差し掛かっていたことに加え、ガラタサライを契約満了で退団してから数か月のブランクがありコンディション面でも不安を抱えていた彼は監督の構想外となってしまったのである。
そもそも上記したイニエスタの退団もこのチームスタイル変更によってポジションを失ったことが理由であり、同タイプの彼の獲得は明らかに矛盾していた。

チームは悲願のリーグ優勝を果たしたが、彼は出場時間わずか10分という結果に終わりオフにひっそりと退団。監督が目指すサッカーに合わない選手をネームバリュー重視で獲得した強化部との意向の不一致が浮き彫りになった。
経営不振に陥っていた親会社楽天が虎の子の資金で獲得した選手だったにもかかわらず戦力にならなかったという事実は、スカッドの戦果に反しクラブに手痛い損失を負わせてしまった。

◇オラ・ソルバッケン(FW・浦和レッズ・2024)

2024年の浦和レッズの目玉補強となったノルウェー出身の快速ウインガー。

まさかのイタリアの強豪ローマからのレンタル移籍。複数ポジションをこなすユーティリティー性とスピード感あるドリブルが特徴。
それも脂ののった25歳という若さでの加入ということもあり、同時期に加入した現役スウェーデン代表MFグスタフソンとともに優勝争いへの切り札として期待されていた。
もちろん、こんな選手がわざわざJに送られたのはローマで出場機会が無いための武者修行的な扱いではあるが。

しかし開幕前に筋肉系トラブルで離脱。浦和は基本練習もメディアにオープンにしており故障者の状態なども常にSNSで発信が行われているのだが、一度練習に復帰したがまたそこから離脱してしまい、5月ごろまで全体練習に合流できないという知らせで不穏な予感が漂っていた。

実は彼のレンタル契約は6月30日までと半年間の短期レンタルであり、このままでは試合出場がないまま日本を去ってしまうのではと危惧されたのである(明確な理由は不明だが移籍元がビッグクラブだけに買取やレンタルの金額が高額だったことや、その前にレンタルで出されていたギリシャ・オリンピアコスでも公式戦出場が少なく実力が不安視されていたなどの推察がある。もっとも、ローマ側からすれば自リーグのシーズン終了までの切りが良い期間であり、それほどおかしな契約というわけではない)

ぎりぎりの5月末にようやく公式戦出場したはいいものの、開幕から出遅れた影響もあってかゴール、アシストなどの数字は残せず、契約期限ぎりぎりで謎にJリーグ公式からプレー集動画がアップされたがわずか30秒という短いもの。それもドリブルと失敗したクロスが乗っているだけとハイライトとも言えない内容のため、イタリアメディアからは物笑いの種にされてしまった。

曲がりなりにも復帰したのもあってか浦和は契約延長の交渉を進めたが結局決裂に終わり、延長することなく退団。開幕前の故障が無ければもっと活躍も見られたかもしれず、残念ではある。

それに加えて、この年の夏の移籍市場で浦和は元日本代表にしてキャプテンの酒井宏樹、その後キャプテンを引き継いだ伊藤敦樹、守備の要のアレクサンダー・ショルツと主力が大量に海外流出。
サポーターも阿鼻叫喚となる中チームは奮闘するも成績は上向かず、遂にはこの年就任したばかりのペア=マティアス・ヘグモ監督を解任、前年指揮を執っていたマチェイ・スコルジャを復帰させるという策まで取った。
だがこれも功を奏さず、結局終盤まで降格も現実味を帯びたポジションに留まり続け、最終的には13位でフィニッシュという過酷なシーズンとなってしまった。

◇ハリー・キューウェル(監督・横浜F・マリノス・2024)

2006年ドイツW杯でかつてのジーコJAPANに悪夢を見せたオーストラリア代表黄金世代の一員であり、コーチとしてはセルティックで日本代表FW前田大然を覚醒させた実績を持つ元レジェンド選手。
アンジェ・ポステコグルー監督から続くオージー路線を受け継いだ形で2024年に就任したものの、監督としては4部クラスのリーグですら途中解任されるなどろくな実績がなく、サポーターからも若干不安視されていた。
いざシーズンが始まるとチームに合わない1アンカーシステムに固執することでチームは不安定な戦いに終始し、ACLの影響で過密日程になった影響もあり大量の引き分けや負けを積み重ねる。それでもACL優勝の望みが残っていた頃は良かったが、決勝第2ラウンドで大逆転負けを食らい準優勝に終わるとチームは更に低迷。結果としてクラブとして16年ぶりのリーグ戦4連敗をやらかした挙句、わずか半年で解任となった。

不安定な戦績もさることながら、試合後インタビューで何かとつけて審判の判定に不満を漏らす姿勢も問題視されたようで、この点にはファンからもよく批判されていた。

キューウェル監督の後任にはヘッドコーチだったジョン・ハッチンソンが暫定監督に就任。当初はチームはリーグ戦連勝、更には親善試合でプレミアリーグの古豪・ニューカッスルユナイテッドにも勝利する*3など復調の兆しを見せた。
……しかし長くは続かず、残留争い中の京都に逆転負けしたのを皮切りに、ACLでは光州に退場者を出すなどの末7失点の惨敗、リーグ戦では広島にもリーグ戦クラブワースト記録の6失点を喫するなど2試合で13失点という守備大崩壊を起こしてしまい、その後も復調できないままシーズン2度目の4連敗を喫する。
これによりわずかに残っていたリーグ戦逆転優勝の可能性も完全に途絶え、残留争いに巻き込まれる羽目に。キューウェルが残した負の遺産が大きすぎたのか、はたまた彼ら監督たちは責任を押し付けられただけの被害者で問題はもっと上にあったのか…

なお、上記の通りキューウェルがコーチとしては実績があり、ハッチンソンは監督就任初期は結果を残したことから「キューウェルとハッチンソンの間で監督・コーチの立場を入れ替えていたら良かったんじゃ…」とファンから冗談半分で嘆かれたことも。さすがにハッチンソンも怪しくなってからは言われなくなったが。


追記・修正お願いします!

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • サッカー
  • Jリーグ
  • 助っ人
  • 外人
  • 外国人
  • 戦犯
  • ネタキャラ
  • ネタ選手
  • 何しにきた
  • どうしてこうなった
  • ダメ外人
  • ネタ外人
最終更新:2025年05月13日 15:42

*1 マイヤーの退団もこのクラブ方針に反発したラモス一派の迫害が原因だったと言われている。OBの北澤氏も番組でマイヤーのシーンが流れた時「性格の悪いマイヤー」とコメントしている。

*2 呂比須はほかにも選手補強やブラジル人コーチングスタッフの人事も主導していたという。

*3 相手はプレシーズンの調整期間中であり前後半でごっそりメンバーも入れ替わったが、前半はほぼベストメンバーといえるラインナップであった