サッカースペイン代表

登録日:2025/06/21 (土) 10:45:14
更新日:2025/06/21 Sat 12:27:19NEW!
所要時間:約 40 分で読めます






サッカースペイン代表は、スペインサッカー連盟(RFEF)によって構成される、スペインのサッカーナショナルチームである。
愛称はラ・ロハ(赤)*1無敵艦隊

そして3つの主要タイトルを連続で獲得した初の代表チームであり、欧州以外で開催されたW杯で優勝した初の欧州チームである


概要


サッカー界の5大リーグの一角「ラ・リーガ」を擁する欧州の強豪。
テクニカルでスペクタクルなサッカーを志向し、国内を代表するクラブの一つ、バルサことFCバルセロナ由来の正確なパス回しでゴールへの道筋を作っていく「ティキタカ」*2で知られる。
これは体格やフィジカルが優れていない分、ボールを支配することに特化しているためであり、選手の技術は他の強豪国と比べても飛び抜けている。
2000年代後半から迎えた黄金期はサッカー界のパラダイムシフトの一つであり、この辺りからサッカーを見始めた人にとっては強く印象に残っていることだろう。
また、黄金期が長く続いたのも、守備戦術と違いテクニックありきなので模倣が困難だったことも大きかった。
そのため、華やかなる攻撃サッカーに憧れて真似たチームは大半が撃沈しており、ある意味罪作りな存在と言えるかもしれない……

しかし、今でこそ立派な強豪の一角となっているが、かつては大舞台で勝てない強豪の代名詞であり、「永遠の優勝候補」「無敵艦隊(笑)」などと揶揄されていた。
まあ、そもそも「無敵艦隊」という名前自体がアルマダの海戦でイギリスに完敗したことから皮肉でつけられたものだけど
世界最高峰のリーグを持ちながらW杯優勝に無縁だったことから、サッカー界でも有数の謎とされたほど。
一方で、かつては他の強豪とは違ってプレースタイルにこれと言って決まったものはなく、その時々の選手や監督に合わせて変わっていた。
黄金時代で現在のスタイルがようやく定着したのだから、いかに遅咲きだったか窺えるだろう。


歴史


・夜明け前のラ・ロハ 2000年代中期まで


代表は1920年にアントワープ五輪出場のために創設され、銀メダルに輝いている。
W杯は1934年イタリア大会が初参加であり、ブラジルを相手に1勝を挙げてベスト8という成績を残した。
……この時点で、何だか色々暗示的である。

事実、2010年南アフリカW杯で優勝するまで、W杯における最高の成績は、1950年ブラジルW杯の4位。
しかもこの大会はトーナメント方式でなく一次リーグの上位4チームによる総当たりで優勝を決める仕組みであり、その決勝リーグでは開催国ブラジルに6-1の大敗を喫し1分2敗の最下位だった。
以降はW杯出場もままならず、1954年、1958年、1970年、1974年と欧州予選で敗退し、出場した1962年、1966年、1978年もグループリーグ敗退した。
さらにEUROも1964年に優勝した後は1968年、1972年、1976年と3大会連続で予選敗退しており、実に10年間も国際大会に出場すらできなかった
80年代に入るとマシになってくるが、1982年の自国開催のW杯すら苦戦しており、あわや史上初の開催国一次リーグ敗退になりかける*3体たらくで、二次リーグでは最下位とあっけなく敗退。
長らくW杯ではベスト8(1986年、2002年)が壁となっていた。

当然ネタエピソードも豊富で、1998年フランスW杯では、初戦のナイジェリア戦でGKのアンドニ・スビサレッタが相手のクロスをポロリしてゴールを許し、そこから逆転負け。
「スペインの至宝」と呼ばれた超新星、ラウール・ゴンサレスを擁し前評判が高かったスペインだが、これで4年間の無敗が途絶えた挙句、結局グループリーグ敗退。
2002年日韓W杯で正GK確実と言われたサンチャゴ・カニサレスは、直前合宿で風呂で香水のビンを落とした際に足でビンをトラップしてしまい怪我。そのまま大会を欠場した
ベスト8の韓国戦で誤審の犠牲になった件はさすがに洒落にできる範疇を超えているが。


勝てないとされた原因は色々考えられるが、特に言われたのがこの二つ。


1.地域間対立

そもそもスペインという国自体地域性が非常に強く、各地方はそれぞれ独自の文化を持っている。
スペインのナショナリズムを象徴するレアル・マドリーとカタルーニャのナショナリズムを象徴するFCバルセロナの伝統の一戦「エル・クラシコ」は、サッカーにおける地域間対立の代名詞。
フランコ軍事独裁政権時代に自由を奪われ、迫害を受けたカタルーニャ人にとって、中央政府があったカスティージャのマドリードは遺恨の象徴になる。
この2クラブの対立は、「両者は、部外者に本当に衝撃を与えるほどの激しさでお互いを憎み合っている」と評されるほど。
他にも、レコンキスタ(再征服)で最後までイスラム勢力の牙城だったアンダルシア地方、ケルト文化圏であるガリシア地方、民族・言語共にルーツが謎に包まれているバスク地方など……
フランコ総統が死去し民主化すると、その反動で各地で自治政府が樹立。
「スペイン人」としての意識より生まれ育った地域への意識が強い以上、代表を応援する熱は低い状態が続いていた。
もし名物サポーター「太鼓のマノロおじさん」*4という盛り上げ役がいなかったら、もっと応援の熱は低かっただろう……


2.勝利へのこだわりの薄さ

同じラテン系の国であるイタリアとは対照的に、勝利へのこだわりが薄いと言われる。
戦い方にしても、厳格な守備と複雑な駆け引きを重んじていたカテナチオのイタリアと対照的に、スペインは真正面からドリブル突破したり、好パスから相手守備陣を突破するのが好み。
クラブの応援に関しても「情熱の国」のイメージとは裏腹に、ブラジルやアルゼンチン、イタリアなどと比べるとスタンドがおとなしいとされる。
筆者は実際にカンプ・ノウを訪れて観戦した経験*5があるが、10万人以上を超える巨大スタジアムでありながら、確かにスタジアムの空気はゴールの時以外静かだった
どちらかと言うと、結果より過程を重んじ、サッカーは人生そのものというより楽しむものという人が多いのだろう。
そしてこの「勝負へのこだわりが薄くW杯で優勝できない一方、美しく攻めるのが好き」という気質は、後に関係してくるオランダとも似通っており……


・暁のラ・ロハ EURO2008



転機が訪れたのは、2006年ドイツW杯でベスト16で敗退した後のこと。
ベスト8の壁を破れなかったら辞任すると語っていたルイス・アラゴネス監督は一転留任の意思を表明。
そこから黄金期につながる大改革が始まるのだから、わからないものである。

アラゴネスはチームについてこう考えていた。
「フィジカルでは他国に劣るが、技術面なら世界トップ5に入る」と。
さらに2004年に代表監督に就任した時から、バルサのサッカーを手本にすべきだと考えていた。
当時のバルサと言えば、ロナウジーニョにサミュエル・エトー、そして若きリオネル・メッシを擁し、華麗なポゼッションサッカーで注目を浴びていた。
そこから、バルサの司令塔シャビ・エルナンデスをチームの中心に抜擢。当時シャビが代表でレギュラーをつかめないでいたことを考えると、アラゴネスの覚悟が窺える。
ショートパス主体でボールを極力保持し、選手の連動性を重視したアラゴネスは、他にもアンドレス・イニエスタやダビド・シルバ、セスク・ファブレガスといったテクニシャンを重視。
この中盤の4人は、「クアトロ・フゴーネス(4人の創造者)」という、大変カッコいい呼び名がつけられることになる。
また、テンポよく正確なパス回し主体のスタイルは、コメンテーターのアンドレス・モンテスが時計が時を刻む音にちなんで「ティキタカ」と表現したことから、その呼び名で定着した。

しかしその後、アラゴネスは物議を醸す選択をすることになる。
EURO2008の予選でアウェイの北アイルランド戦に敗れると、何とそれまで代表のエースだったラウールを外すことを宣言
代表、そしてマドリーのシンボルであった彼。たとえ調子が落ちようとアンタッチャブルな存在であり、スペイン国内ではそれを認めることは許されない風潮であった。
メディアから数えきれないほどの質問攻めにされる中、アラゴネスは

「ラウールは何度W杯に出場した?3回。EUROには?2回。では何回W杯で優勝した?マスコミの言うことを聞いちゃいけない、間違うだけだ」
「私は人の言いなりになるために来たのではなく、スペインサッカーのために来た。彼を呼ばないのは、条件を満たさなかったからだ」

とバッサリ。
ラウールの件で監督を非難された選手たちは団結し、大幅な方針転換を行ったスペインは序盤の不振を覆して予選を首位通過。
するとアラゴネスはまたしても奇策を打ち出す。今度はEURO本大会にウイングを招集しなかったのだ
それまでスペインが得意としていたサイドアタック戦術を捨ててでも、アラゴネスはティキタカに賭けていた。


迎えたEURO2008。
グループDに入ったスペインは初戦のロシアに4-1と圧勝すると、その勢いのままスウェーデンを2-1で撃破し、2戦目で早くも首位通過を決めた。
消化試合となったギリシャ戦はスタメン10人を入れ替えながらも、2-1と貫禄の逆転勝利。

ベスト8の相手はイタリア。
当時のスペインにとってイタリアは天敵中の天敵で、実に88年もの間勝ったことがなかった
事実、スペインはボールを支配できてもジョルジョ・キエッリーニを中心とした守備陣に尽く跳ね返され続けた。
一方イタリア側も、ルカ・トニの頭めがけてクロスを送るくらいしか攻撃手段がない閉塞感が漂う展開となった。
しかし、それまでのスペインだったら根負けしていただろうが、PK戦まで耐えきり4-2で撃破。
ついにイタリアとベスト8、二つの鬼門を乗り越えたのだった。

準決勝は、アンドレイ・アルシャビンの活躍で台風の目となったロシアと再戦。
お互い攻撃サッカーを志向する両チーム、立ち上がりはほぼ互角だったが、34分、スペインにアクシデントが起こる。
初戦でハットトリックを決める大活躍を見せていたエースのダビド・ビジャが負傷交代。代わりにセスクが投入された。
ところが怪我の功名と言わんばかりに、中盤が分厚くなったことで、流れは一気にスペインの方へ傾いていった。
それまでカウンター寄りだったスペインに本来の流れるようなパスワークが復活し、3-0と快勝。

決勝の相手はドイツ。
これまでは、巧みな試合運びとしぶとさで、いつも最後に勝つのはドイツだった。そしてスペインはいつも負けていた。
おまけに舞台が隣国オーストリアなだけあって、応援も国歌の歌声もドイツが圧倒。そもそもスペイン国歌には歌詞がないし
だがこの日、歴史は変わった。
33分にシャビのスルーパスに抜け出したフェルナンド・トーレスがフィリップ・ラームとイェンス・レーマンの連係ミスを突いて浮かせたボールは、ゆっくりとネットに吸い込まれていった。
その後もスペインは試合を難なくコントロールし、試合は1-0で終了。実に44年ぶりにEURO制覇を果たしたのだった。
この時スペインにトロフィーを授与したのは、24年前のEUROでスペインを破り優勝したフランスのミシェル・プラティニ。ある意味伏線回収とも言える結末である。

また、この年バルサの監督にクラブのレジェンドであるペップことジョセップ・グアルディオラが就任した。
すると、暗黒期に片足を突っ込んでいたバルサは復活。そればかりか「リアルウイイレ」レベルの圧倒的な強さとなり、そのシーズン3冠を獲得
まるで、スペインの黄金期到来を告げるかのように……


・陽の沈まぬラ・ロハ 2010~2012


こうして後のサッカー界のモデルになるほどの驚異的なパスサッカーを披露したスペイン。
大仕事を終えたアラゴネスはEUROの後、代表指揮官を勇退。
後を継いだのは、マドリーの指揮官を6年務め、99-00シーズンからの4年間でCL2回、リーガ制覇2回と輝かしい実績を持つビセンテ・デル・ボスケ
彼はこのままアラゴネスからの路線を継続することを宣言し、同時に若手選手を積極的に招集。
コンフェデレーションズカップでアメリカにまさかの敗戦を喫し、FIFAランク首位陥落したこともあったが、W杯欧州予選は10戦全勝。
初めて正真正銘の優勝候補として、南アフリカW杯を迎えることとなった。

ところがグループリーグ初戦、スイスに敗戦。
スペインは元々初戦に弱い傾向があった*6上に、当時は「グループリーグ初戦で負けた国は優勝できない」というジンクスがあった。
あまりに幸先の悪いスタートとなったスペイン。
その後もホンジュラスやチリ相手に勝利し何とか首位通過を決めたが、中盤でボールを保持できず、パスは正確さを欠き、試合をコントロールしきれない。

それでも決勝トーナメントに入ると復調し、ベスト16のポルトガル戦は終始主導権を握り、63分のビジャのゴールで1-0で勝利。
ベスト8のパラグアイ戦は49分、相手キッカーオスカル・カルドソのPKの癖を控えのペペ・レイナ*7から教えてもらった守護神イケル・カシージャスが完璧に読み切って阻止する。
直後に与えられたスペインのPKはシャビ・アロンソのシュートが決まりスペイン先制……かと思いきや、味方選手がPAに入ったとの判定で蹴り直しに。
これをGKフスト・ビジャールがストップし、またもスコアは動かなかった。
延長戦が見えてきた83分、アロンソと交代で入ったペドロ・ロドリゲスのシュートはポストに弾かれるも、跳ね返りがビジャの足元へ。
これをビジャが決めて決勝点に。スペインはW杯でもベスト8の壁を打ち破ったのだ。

準決勝ドイツ戦。
ここでスペインは戦術変更し、中盤の左にペドロを起用。
代表での初めての先発がW杯準決勝。この大抜擢に応えたペドロは、攻守に躍動。
ティキタカとサイドアタックという、新旧のスペインの強みを生かした戦術によりドイツを圧倒した。
それでも0-0で折り返すことになったが、ハーフタイム中にDFのカルレス・プジョルがシャビに激高。
「CKの時あいつらがラインで上手く守っているのが見えないのか?PAに入れろ。俺なら出来る」
「あー、もう分かったわ、後半最初のCKでそうするわ」
そして73分、左CKを得たシャビが蹴ったボールはファーサイドへ。ジェラール・ピケがドイツの選手をブロックしている間に、宣言通りプジョルは豪快なヘディングを決めて見せた。
シャビ「あのバカマジでやりやがった……」
こうして最後まで試合をコントロールしきったスペインは1-0で勝利。ついに初の決勝進出を決めた。

決勝の相手は、同じくW杯初優勝がかかったオランダ。
ここまでのスペインを見て気づいた人もいるかもしれないが、チームのベースはバルサで、選手もほぼメッシのいないバルサ状態。
さらに現在のバルサの土台を築いたのは、オランダのヨハン・クライフ
80年代末に彼によってバルサに持ち込まれたオランダ流のスタイルは、リーグ4連覇とクラブ初のCL制覇を成し遂げた「ドリームチーム」として結実しスペイン全土に影響を及ぼした。
つまり、「チームが全員で連動し、ボールとゲームを支配する攻撃的サッカー」というスペインのスタイルの源流は、彼が活躍した70年代のオランダにあるのだ
しかしこの時のオランダは、「美しく敗れるより、無様でも勝ちたい」と、クライフへの意趣返しと言わんばかりに本来のスタイルを捨てた、リスクを取らずに効率性を重視するスタイル。
クライフの哲学を受け継いだスペインと、クライフの母国でありながら哲学を捨てたオランダ
かくして、クライフの哲学をめぐる一大決戦の火蓋が切られた

試合は序盤から激しい接触の応酬となり、30分までに両チームで5枚のカードが出る荒れた展開に。
オランダのプランは、スペインのプレーを激しい闘志で破壊することだった。
特にナイジェル・デ・ヨングがアロンソにかました飛び蹴りは、一発レッドにならなかったのが不思議なものだった。
それでも試合の主導権を握ったのはスペインで、立て続けにオランダゴールに迫る。

後半に入ると、62分に大ピンチが訪れた。
ヴェスレイ・スナイデルから乾坤一擲のスルーパスを受けたアリエン・ロッベンが抜け出し、自慢の快足でDF陣を振り切りカシージャスと1対1に。
しかしカシージャスはこれを足で弾き飛ばし、ピンチを乗り越えた。
その後も再びロッベンが抜け出す大ピンチを迎えるが、ここはプジョルの執念とピケの寄せ、カシージャスの飛び込みで切り抜けた。

0-0のまま迎えた延長後半。
イニエスタへのファウルで2枚目のイエローカードを出されたヨン・ハイティンハが退場。オランダにダーティーな戦いのツケがとうとう回ってきたのだ。
106分、スナイデルのFKがスペイン守備陣の壁に当たってゴール左へ逸れるも、判定はCKではなくゴールキック。これが、勝負の分かれ目となった。
その後、ヘスス・ナバスがライン際を長いドリブル。イニエスタ→セスク→ナバス→トーレスとパスをつないでいく。
トーレスは前線にクロスを送るが、これをラファエル・ファン・デル・ファールトがカット。しかしボールはセスクの足元に転がり、イニエスタへパスを送る。
イニエスタの放ったシュートは、この試合における「真実の瞬間」*8となった───
これを決めたイニエスタは、感動的なゴールパフォーマンスを披露する。
イエローをもらうことも厭わずにユニフォームを脱ぐと、アンダーウェアには……



DANI JARQUE SIEMPRE CON NOSOTROS(ダニ・ハルケ 僕たちはいつも一緒だ)



と、前年に亡くなった親友へのメッセージが書かれていた。このゴールは、友への思いもこもったものだった。
スペインはついに悲願のW杯初優勝を成し遂げ、8か国目の歴代優勝国として名を連ねることになった。
タイムアップの笛が鳴る瞬間まで、美しいサッカーを披露し続けた世界王者。スペインは、クライフの時代のオランダが果たせなかった理想を叶えたのだ。
さながら、この勝利は「トータルフットボールの逆襲」とでも言うべきか。
そして理想をかなぐり捨てた挙句敗れたオランダはクライフから雷を落とされたのであった


EURO、W杯と制覇し正真正銘の無敵艦隊となったスペイン。次なる目標は、前人未到のEURO連覇だった。
迎えたEURO2012は、全体的にポゼッションサッカーのチームが目立っていた。それだけ、スペインの影響力は大きかったのである。
エースのビジャを欠いていたスペインは、初戦のイタリア戦、代役にMFのセスクを起用。事実上のゼロトップで挑むこととなった。
1-1のドローで終えた後、アイルランド戦とクロアチア戦は本職のトーレスを起用し、4-0、1-0と勝利。

ベスト8のフランス戦は、再びセスクのゼロトップを採用。
試合は代表100試合目の節目を迎えたアロンソの2ゴールで勝利。しかもフランスの枠内シュートをわずか1本に封じ込めるおまけつきという圧倒ぶりだった。
準決勝のポルトガル戦は、CFにアルバロ・ネグレドを採用。
パス主体のスペインと、前線のクリスティアーノ・ロナウドにロングボールを入れる速攻のポルトガルと対照的なサッカーだったが、両者譲らず0-0のままPK戦へ。
互いに1人目が外した後、ポルトガル4人目ブルーノ・アウヴェスのキックはポストを直撃。 その直後、セスクが落ち着いてPKを沈め、スペインは2大会連続決勝進出を決めた。
そして決勝のイタリア戦は、三度セスクのゼロトップで4-0と有無を言わさぬ圧勝
スペイン、EURO決勝史上最大得点差で史上初の連覇達成。そして3つの主要タイトルを連続で獲得した初の代表チームとなった。
イタリアも伝統のカテナチオから脱却しパスサッカーを取り入れていたが、やはりここはスペインに一朝の利があったと言える。



こうして、かつて大舞台で勝てない強豪の代名詞だったスペインは、その華麗なプレースタイルでサッカー史にその名を刻みつけたのだった。


・落日のラ・ロハ 2013~2022


しかし、これだけ強すぎれば研究されるのも当然のこと。
2013年のコンフェデレーションズカップ決勝ではブラジルに完敗。お家芸のパスサッカーを披露していたのは、むしろブラジルの方だった。
それでも2014年ブラジルW杯の優勝候補筆頭に挙げられていたのだが……

グループリーグ初戦、前回大会決勝と同じカードとなったオランダ戦。
PKで先制するものの、ロビン・ファン・ペルシーの豪快極まるダイビングヘッドで追いつかれると、後半は4失点と崩壊。
オランダはスペインの3トップに対抗し3バックでマンマークする戦法を取っていた。
同人数なのでカバーできる選手がいないというリスキーな戦い方だったが、スペースの有効活用がカギとなるティキタカでずっと張り付かれることは致命的であった。
さらにチリ戦も2-1で敗北し、前回王者はまさかの早々の敗退決定。現地ブラジルサポーターから「ADIOS SPANA」と煽られるのだった……
なお、ブラジルにはさらなる惨劇が待っていたのだが

EURO2016でも、グループリーグ首位攻防戦となったクロアチア戦で、主力を欠く相手に逆転負けし2位通過。
そのため前回準優勝のイタリアと当たってしまい、0-2で完敗。EURO王者の称号も失い、デル・ボスケは辞任した。
スペインはポゼッションサッカーにこだわるあまり、他の戦術が取れなくなっていた。大きすぎる成功が、足枷になったのだ。

デル・ボスケの跡を継いだフレン・ロペテギは、世代交代を進めながら公式戦2年間無敗と最高の成績を収め、2018年ロシアW杯本大会への切符を手にした。
さらに契約を延長し、2020年のユーロまで指揮を執り続けることとなっていた……はずだった。
W杯開幕2日前、W杯終了後にロペテギがマドリーの監督に就任することが発表された。
この不義理にRFEFのルビアレス会長は激怒。W杯開幕直前に監督が解任されるという最悪の事態が発生したのである。
大会2か月前にハリルを解任した日本よりひでぇ
こんな状態でチームがいい成績を残せるはずもなく、ベスト16のロシア戦はパス本数だけを積み重ね、シュートすら打てないままPK戦に突入し敗退したのだった。

ロシアW杯後は、バルサを三冠に導いたルイス・エンリケが監督に就任。
EURO2008優勝から10年が過ぎ、黄金期のメンバーがほぼいなくなった中でペドリら若手を積極的に起用。
コロナ禍で1年延期となったEURO2020では、マドリー所属の選手が1人も選ばれないという珍事が起きた。
前評判が低い中、グループリーグは2戦連続ドロー。しかしチームはここから成長していき、スロバキア戦は5-0で快勝。
ベスト16のクロアチア戦は、終了間際に2点差を追いつかれるも、延長戦の末5-3で乱打戦を制した。
続くスイス戦は1-1のままPK戦にもつれ込み、スペインは1人目、3人目が失敗したが、スイスは2、3、4人目と連続で失敗。最後は5人目のミケル・オヤルサバルが決めてスペインが勝利。
準決勝のイタリア戦も1-1のままPK戦となり、両チーム共に1人目が失敗し2、3人目が成功したが、スペインの4人目アルバロ・モラタのシュートは阻まれる。
イタリアの5人目ジョルジーニョが決めたことで敗退に。だが、将来に向けて大きな希望の見える結果となった。

2022年カタールW杯では、初戦のコスタリカ戦は7-0の記録的圧勝、ドイツ戦は1-1の引き分け。
この結果は、ドイツ戦で大番狂わせを起こしたものの、コスタリカ戦で敗れた我らが日本にとってあまり望ましくない展開、だったのだが……
何とスペインもまた、ドイツと同じく日本相手に1-2の逆転負けを喫したのである!
こうして、日本がまさかの首位通過を果たし、スペインは2位通過。ドイツはご愁傷さまでした
W杯史上かつてないカオスな展開となったグループEについて詳しく知りたい人は、こちらの記事も参照。

ベスト16のモロッコ戦前、エンリケは「PKは運ではない。選手たちにPKの練習を最低でも1000本させた」と発言。
肝心の試合は、支配率81%を記録しながらも、シュート13本のうち枠内はわずか1。0ー0のまま本当にPK戦にもつれ込んだ。
そして練習の成果は……3人連続で止められ敗戦
特に3人目で蹴ったキャプテンのセルヒオ・ブスケツはこの大会で代表引退が決まっていたのだから悲惨さも猶更である。
日本に大番狂わせを食らったばかりか、モロッコ戦で特大のフラグを立てて敗退したエンリケは解任されたのだった。フリックの件といい森保恐るべし


・陽はまた昇る EURO2004


カタールW杯後、ついに黄金時代の選手が全員去ったスペイン。
しかしロドリなど新たな世代が台頭し始めており、2022-23ネーションズリーグではクロアチアをPK戦で破って優勝。
EURO2024では両翼に超新星ラミン・ヤマルとニコ・ウィリアムズが加わった。

グループリーグ初戦、クロアチアを3-0で一蹴すると、イタリア戦はリカルド・カラフィオーリのOGで1-0で勝利。残るアルバニア戦もフェラン・トーレスのゴールで1-0で勝利。
強豪が他に二つも入っている死のグループを、3連勝かつ無失点で突破するという圧倒的な強さを見せつけた。
特にクロアチア戦は、実に112試合ぶりにボール支配率が相手より下回った試合となったが、スペインの長所を生かしつつも攻守の切り替えが早くなっており、成熟したものを感じさせた。

決勝トーナメントも強豪の多い山に入ったが、初のEURO出場だったベスト16のジョージアは4-1で一蹴。
ベスト8のドイツ戦は試合終了直前に同点ゴールを許し延長戦までもつれ込むが、このままPK戦に突入かと思われた119分。
マルク・ククレジャからのパスを受けたダニ・オルモが右足でクロスを送る。そこからミケル・メリーノがヘディングで勝ち越しゴールを決め、ベスト4に進出。
準決勝のフランス戦は前半9分に先制を許すも、21分、ヤマルがEURO最年少ゴールとなる美しい軌道の25mゴラッソを決め追いつく。
その4分後には、ボックス内でクロスのこぼれ球を拾ったオルモが絶妙なタッチでDFを交わし、そのまま右足を一閃。ジュール・クンデに当たったボールがゴールに吸い込まれ、逆転。
そのまま逃げ切ったスペインは3大会ぶりに決勝進出を果たした。
しかもスペインはここまで全勝かつ、最多得点&最少失点で勝ち上がってきたまさに強いスペインが帰ってきたのだ。

決勝の相手は前回準優勝のイングランド
攻めるスペイン、守るイングランド。なかなか決定機が訪れることのないまま前半を0-0で折り返すと、スペインにアクシデントが発生した。
中盤の要ロドリが負傷交代したのだ。
これでスペインが劣勢になる……かと思いきや、47分、ダニ・カルバハルからのスルーパスを受けたヤマルは、見事なカットインから中央に侵入。
遅れて左サイドを駆け上がってきたニコにパスを送ると、ニコは逆足で決め先制。
このまま攻め続けるスペインだったが、モラタを下げた直後の73分、途中出場のコール・パーマーに決められ追いつかれる。
それでもスペインはイングランドを勢いづかせず、86分、ククレジャからのグラウンダークロスを送ると、モラタとの交代で入ったオヤルサバルが逆足でゴール。
イングランド最後の猛攻をしのぎ切ったスペインは、最多となる4度目のEURO制覇を成し遂げた。


さらにその直後に開催されたパリ五輪ではU-23が32年ぶりに金メダルを獲得しており、スペイン代表の未来は明るいと言えるだろう。


主な選手


○リカルド・サモラ


スペイン黎明期のGK。
サッカー史上最高と言われるGKの一人であり、「猫のような反射神経、鋼の精神、強い個性、ゴールライン上での安定感。GKとして必要なものを全て備えている」と評された。
1929年のイングランド戦では、胸骨を骨折していたにもかかわらずゴールを守り続け、4-3でスペインの勝利に大きく貢献した逸話がある。
これがイングランドにとって、英国4協会以外の国に初めて敗れた試合となった。
その功績は、スペインの年間最優秀GK賞であるサモラ賞の由来として刻まれている。

○ルイス・スアレス


スペイン人初のバロンドーラー。ウルグアイの人食いとは関係ない。
創造性あふれるエレガントなプレーで「エル・アルキテク(建築家)」の異名を持ち、スペイン史上最高の選手の一人とされる。
「魔術師」と呼ばれたエレニオ・エレラ監督の元、マドリー黄金時代の50年代末にバルサで連覇(1958-59、1959-60シーズン)を果たす。
その後エレラの要望によりインテルに渡った後は、初の欧州王者に導くなど「グランデ・インテル」と呼ばれた黄金期の中核となっている。*9

○エミリオ・ブトラゲーニョ


80年代後半のマドリーの黄金期「キンタ・デル・ブイトレ」の中枢。
この呼び名は、彼のニックネーム「El Buitre(ハゲワシ)」から取られている。
メキシコのウーゴ・サンチェスとのコンビは圧倒的な破壊力を誇り、リーグ5連覇の原動力となった。
代表では、1986年メキシコW杯で大会20年ぶりとなる1試合4得点を挙げている。

○フェルナンド・イエロ


マドリーのシンボルの一人で、90年代のスペイン最高のDF。
銀河系軍団時代のマドリーで、スターたちが前線で暴れる中ボランチのクロード・マケレレと共に必死に体を張っていた姿を覚えている人も多いはず。
DFながら類まれなる得点力と展開力を持っており、マドリーでは102得点、代表では29得点。この記録は現在でも歴代5位である。
特に1991-92シーズンは得点ランキング2位に輝いており、時代が違えばDFで得点王になっていたのかもしれない。

○ジョゼップ・グアルディオラ


バルサのシンボルの一人であり、クライフの一番弟子とでも言うべき存在。
現役時代はドリームチームのピボーテとして活躍し、極めて優れた戦術眼に正確無比なスルーパスやサイトチェンジを武器としていた。
監督としては21世紀最高の監督の一人として数えられており、バルサで2008-09シーズン、マンチェスター・シティで2022-23シーズンに3冠を達成。
異なる2カ国でそれぞれ3冠を達成した史上初の監督となった。
そして代表ともども世界のサッカー界に大きな影響を与えたのは、みなさんご存じの通り。*10

○ルイス・エンリケ


マドリーからバルサに禁断の移籍をした選手でありながら、その闘争心と利他の精神から尊敬された闘将。
本職は中央と右サイドの攻撃的MFだが、現役生活の中でGK以外の全てのポジションを経験したほどのユーティリティプレーヤー。
監督としても、バルサでは2014-15シーズン、パリ・サンジェルマンでは2024-25シーズンに3冠を達成しており、まぎれもない名将である。
代表監督の時は日本戦とモロッコ戦のPKの件でケチがついたとか言わないで
ちなみにお忍びでレースに参加するほどの自転車マニアで、バルサ監督時代は約15kmの“短距離”コースと、約40kmの“長距離”コース*11で通勤していたらしい。

○ラウール・ゴンサレス


「スペインの至宝」と呼ばれたマドリー最大のシンボル
1994年に当時の最年少記録の17歳4か月でデビューを果たして以降、リーグ制覇6回、CL3回と輝かしい実績を残した。
代表でも、ビジャに抜かれるまで当時の最多得点記録を持っていた。
人間性も優れており、シミュレーションを取られたことが一度もなく、ファウルのシーンでは必ず相手選手から手を差し伸べられていた。
2006-07シーズンのクラシコで靭帯断裂を負った時には、バルサの選手すら心配してラウルに駆け寄っていたほど。*12
シャルケで同僚となった内田篤人も、「献身的で守備もしてくれるがそれでいて点も取る。ああいう選手がいると後ろが楽」と評価している。

○フェルナンド・モリエンテス


ラウールの盟友で、彼と2トップを組んだFW。
マドリー移籍初年度からチーム得点王になると、決勝点を挙げるなど2度のCL制覇を含めた多くのタイトルをもたらした。
代表でもラウールとコンビであり、通算47ゲームに出場、27得点を挙げている。
ちなみに、ラウールと共にめちゃ2イケてるッ!のコーナー「やべっち寿司」に出演したことがあり、二人ともワッキーの芝刈り機のモノマネでウケていた。

○イケル・カシージャス


21世紀最高の守護神の一人であり、スペイン黄金期のキャプテン。愛称は「聖イケル」。
10代でマドリーの正GKの座をつかみ、2000年5月24日に行われたCL決勝では史上最年少の19歳4日でスタメン出場し優勝に貢献。
プロデビューから16年に渡ってマドリーのゴールを守り、2010-11シーズンにはキャプテンに就任。名実ともにマドリーの顔となった。
2015年に退団するまでリーグ戦509試合に出場し、リーガ5回、CLを3度制覇。
2025年には、なぜか『ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上』のプレイ動画が作られるという、まさかのコラボが実現した。
アイエエエエエ!イケル=サン、ナンデ!?

○カルレス・プジョル


マーティ・フリードマン似のバルサ一筋の闘将。*13
リーガ屈指のハードマーカーで、圧倒的なリーダーシップに、どんな劣勢でも全力を尽くすプレースタイル、そしてクラブへの忠誠心と、まさに理想のキャプテンであった。
2004-05シーズンには、クラブ史上初のビッグイヤーを掲げたカンテラ出身&カタラン人キャプテンという栄誉に輝いた。
代表ではEURO2008、南アフリカW杯でサッカーくじの胴元をやっており、バルサでのキャプテンの立場と同じくエンリケから引き継いでいた。これがチームの団結を高める鍵なんだとか。
なお、田舎出身のため、カタルーニャのコント番組「Crackovia」ではヤギを飼っているという設定にされた。

シャビ・エルナンデス


言わずと知れたバルサと代表の絶対的司令塔。
恐るべき精度のパスとポジション取り、鬼のようなキープ力を持ち、まさにチームの頭脳でティキタカの中核。
ペップ曰く、「チャビがいたからベンチに座る機会が増えると思い、それでバルサを退団した」
ただ、歯に衣着せぬアンチフットボール発言からネタ選手扱いされることも。
趣味はキノコ狩りで、代表ではあだ名付けの名人。
一例として、カシージャス→モフェタ(スカンク)、セスク→エンパナーダなど。
そんな彼のあだ名は「ペロポ(チ×毛)」*14
アレすぎる意味の割に、彼のターンは「La pelopina」と呼ばれ、何なら自身は所有していたヨットに「La Pelopina」と名付けていた。そんなにこの名前が気に入っているのか……

アンドレス・イニエスタ


シャビと並んでバルサとスペインを代表するテクニシャン。
その才能はペップから「俺もシャビもいつか追い抜かれる」と言わしめたほど。
左インサイドハーフが主戦場だが、攻撃センスにも優れトップ下やウイング、センターハーフでも起用された。
勝負を決定づけるゴールを決めることも多く、中でも2008-09シーズンのCLチェルシー戦と、南アフリカW杯決勝は語り草。
謙虚な性格から愛されキャラであり、シャビ自身も「(サッカー的な意味で)愛してる。僕にないものを持っている」と告白するほど。
キャリア晩年にはヴィッセル神戸にまさかの移籍を果たし、天皇杯初優勝に導いている。

○ダビド・シルバ


クアトロ・フゴーネスの一人。
どこか東洋人的な顔立ちだが、2011年に母親が日系人であることを明かしている*15
バレンシア時代、レンタルから戻ってきた際にパブロ・アイマールから背番号21を引き継いでおり、以降の背番号は代表でもクラブでも21である。
復帰後はバレンシアの攻撃を牽引し、国王杯のタイトル獲得にも貢献した。
2010-11シーズンからバレンシアの財政難のためにシティへ移籍。そのシーズン、クラブ史上初のCL出場権獲得とリーグ優勝に貢献
以降もリーグを3回、FA杯2回、EFL杯(現:カラバオ杯)を5度制している。
シティでは公式戦通算436試合に出場、76ゴール121アシストを記録し、10年連続で二桁アシストを記録した。
その功績の大きさから、シティは本拠地エティハド・スタジアムに彼の銅像を設立した。
キャリア晩年に在籍したレアル・ソシエダでは、久保建英の師匠になったことでも話題になった。

○セスク・ファブレガス


クアトロ・フゴーネスの一人。
インサイドハーフが主戦場だが、メッシと同じく偽9番もこなせる。
特に印象的なのは、南アフリカW杯でのラストパスや、EURO2012でのゼロトップでの活躍だろう。
また、長く活躍したプレミアリーグでは、歴代2位の通算アシスト記録を保持している。
バルサのカンテラ育ちだが、彼は競争の激しいトップチームへの昇格を目指すことなく、アーセナルへ入団。しかも会長選挙の隙間を突いたドサクサ移籍。
2008-09シーズンには21歳にしてキャプテンになるほどの中核に成長したが、バルサ復帰の噂は絶えなかった。
そして2011-12シーズンに念願の復帰を果たしたものの……結局パッとしないまま3年で退団。
自分から去っていった選手を高額で呼び戻すのはダメという教訓を残したのだった。
しかも移籍先は、アーセナルにとって同じロンドンのライバルであるチェルシーだったためにさらに物議を醸した。

○シャビ・アロンソ


ボランチの位置で自在にパスを操るゲームメイカー。
リバプールではイスタンブールの奇跡のメンバーとして同点ゴールを挙げ、CL制覇を達成。
その後もマドリーやバイエルンなど名門を渡り多くのタイトルを獲得。
代表ではEURO2008の頃はクアトロ・フゴーネスの影に隠れスーパーサブだったが、監督がデル・ボスケへ交代してからは、広い視野と展開力を買われレギュラーに定着。
監督としても、ドイツのレヴァークーゼンを無敗優勝に導き、2025-26シーズンから古巣マドリーの指揮官に就任した。
ちなみに、現アーセナル監督のミケル・アルテタとは幼なじみ。

フェルナンド・トーレス


圧倒的なスピードとシュート精度、端正な容姿の「エル・ニーニョ(神の子)」。またの名を師匠とも言う
アトレティコ・マドリーのユース育ちで15歳でプロ契約。
2007年にリバプールへ移籍すると、移籍1年目にもかかわらずリーグ戦で24得点を記録。瞬く間にエースの座をつかんだ。
代表では、EURO2008決勝の決勝点が語り草。
ただ彼のスタイルは1トップ・カウンターサッカー向けであり、スペインのポゼッションサッカーとは噛み合わない面も。
また、キャリア終盤にはサガン鳥栖で1シーズンを過ごしている。

○ダビド・ビジャ


スペイン黄金期のエースストライカーで、代表歴代最多得点記録保持者。
EURO2008で得点王となり、南アフリカW杯でも最多タイとなる5得点を記録して両大会の優勝に貢献した。
利き足は右足だが、左右両足を遜色なく蹴れるキックの精度とスピードや俊敏さを持つ。
これは幼い頃、医師からサッカーを諦めるようにと言われるほどの右足の大怪我を負った時に、左足でボールを蹴り続けたことで両足を使えるようになったためである。
愛称は「グアヘ」。「ニーニョ」と同じく「少年」という意味の言葉だが、こちらは「炭鉱夫見習い」の意味もある。*16

○セルヒオ・ラモス


代表最多出場記録を持つDFで、マドリーでも下部組織出身者以外で最も多くの試合に出場した選手。
プロ入り前にはストライカーとしてプレーしていたため得点力も高く、リーガのDFとしては歴代最多ゴール記録を保持している。
一方で荒いプレーから5大リーグ史上最大の退場記録を持っており、CLでも被イエロー数最多とカードコレクターでもある。*17
何なら古巣セビージャ相手でも容赦なく煽り散らかしてくるくらいだし
代表での背番号15は、2007年に急逝した盟友アントニオ・プエルタが代表デビューした時につけた番号を引き継いだもの。
そのため、代表がタイトルを取るたびにプエルタの写真と彼へのメッセージが書かれた白いTシャツを披露している。

○ヘスス・ナバス


セビージャ最高の選手の一人で、右サイドならどこでもプレーできる。
風貌がロベルト・バッジョっぽい。
実力は折り紙つきながら、パニック障害のために中々セビージャを離れることができなかったが、2013-14シーズンにシティに移籍。
元々はウイングタイプの選手だったが、シティ時代にペップがSBで起用したことにより、右SBが定位置に。
セビージャ復帰後は、プエルタのクラブでの背番号16を引き継いでいる。
キャプテンとして出場したEURO2024のアルバニア戦はスペイン代表の最年長出場記録*18を更新し、フランス戦では決勝点につながるクロスを送っている。
心の病と闘っていたことを考えると、これには感慨深いものがあるだろう。

ジェラール・ピケ


プジョルと共にバルサと代表のCBを担ったDF。某ルームウェアブランドとは関係ない。
大真面目でリーダーシップの塊だったプジョルと対照的に、こちらは盛り上げ役かつイタズラ好きな超陽キャであり、身長差もあってある意味凸凹コンビ。
長身を生かした得点力も持ち合わせており、セットプレーでは大きな武器になる。
その攻撃力も兼ね備えたスタイルは、かのドイツのレジェンドフランツ・ベッケンバウアーに似ており、愛称は「ピッケンバウアー」
祖父は元バルサ副会長という生粋のバルセロニスタであり、彼女はコロンビアの歌姫シャキーラ。2022年に別れたけど爆発しろ
ネタ要素も多く、ズラタン・イブラヒモビッチとのウホッな雰囲気の写真を撮られたり、タイトルを取るたびにゴールネットを切り取る奇行を見せたりしていた。

○セルヒオ・ブスケツ


色々な意味で吉田麻也にそっくりなピボーテ。
ペップが監督として駆け出しの頃に見出した選手で、派手さはなくとも技術は恐ろしく高く、ピッチを俯瞰するかのような大局観を持つ。
事実ペップ自身も、「生まれ変わったらブスケツのようになりたい。彼は戦術的に世界最高のMFであり、我々のバランスを最も整える選手だ」と太鼓判を押すほど。
また、バルサの選手では珍しい汚れ役タイプの選手でもあり、わざと派手に倒れてレフェリーを騙し、相手選手にカードを出させることもしばしば。

○ペドロ・ロドリゲス


抜群の運動量を誇り、守備でも貢献するFW。
2008-09シーズンにバルサのトップ昇格すると、翌シーズンからレギュラーに定着。
大一番に強く、土壇場でチームのピンチを救うゴールを挙げることがが多い。例としては、CWC決勝エストゥディアンテス戦の同点ゴールなど。
2019年にはチェルシーでELも制覇し、同選手が獲得し得る現在のサッカー競技における主要国際大会のタイトルを全て獲得した唯一の選手となった。

○ジョルディ・アルバ


弾丸と呼ばれるほどの快速左SBで、連戦が続いても1試合の走行距離が10キロを切ることがない脅威のスタミナも持つ。
子供の頃はトップ下や左ウイングでプレーしていたが、バレンシア時代、チームが左SBを怪我で尽く欠いた時に代役を務め切ったことからこのポジションに定着。
南アフリカW杯後の代表の左SBのポジションをゲットしEURO2012でも大活躍すると、肝移植手術を受けるために無期限の戦線離脱となったエリック・アビダルの代わりとしてバルサが獲得。
バルサのカンテラで7年間過ごしていただけあって、あっという間に適応していったのだった。
ちなみに、30歳になっても運転免許を取る気がなく、父親に送迎してもらっていたことをピケから暴露されたことがある。*19

○アルバロ・モラタ


高さとスピードを兼ね備えるストライカーで、189cmの長身は空中戦に強く、クロスとのタイミングの図り方も絶妙。
強靭なフィジカルも併せ持っており、技術も高くポストプレーも巧み。
EURO2024ではキャプテンとして臨み、クロアチア戦では先制点を決め、準決勝のフランス戦では1アシストを決め、決勝までの全試合に出場。優勝に貢献した。
移籍の回数が多く、そのたびに「ここでプレーすることが夢だった」と語る通称「モラタ構文」で有名であり、本人すらネタにするほど。
それでもビッグクラブから声がかかるのは、やはり優れた選手であることの証であろう。

○ロドリ


シティで中盤を操る20年代屈指のゲームメーカー。
リーガでキャリアを積んだ後、2019年からはシティで躍動。
2022-23シーズンのCL決勝インテル戦では先制点を挙げ、クラブ史上初のCL制覇に導いた。
代表でもEURO2024ではMVPに選出されるなど活躍が評価され、同年のバロンドールを受賞。
これはスペイン人としてはルイス・スアレス以来実に64年ぶりであり、新時代の扉を開いた。
タトゥーも彫らなければSNSもやらないという真面目な性格で、シティ移籍後も大学で経営学を学んだインテリでもある。

○ペドリ


バルサや代表で中盤のあらゆるポジションを務める天才。
その才能にはイニエスタも「18歳とは思えない」と太鼓判を押すほど。
しかし、バルサでも代表でもフル稼働が続いた結果、バルサ加入後実に9度も負傷という重度のスぺ体質に苦しんでいた。
が、遺伝子検査の結果、中距離ランナーのように継続的にトレーニングを行わなければならない体質だったことが判明。
トレーニング体制の変更とメディカルチームのケアのおかげで、2024-25シーズンに入ってからは克服している。

○ダニ・オルモ


攻撃的なポジションであればどこでもプレイできるユーティリティプレーヤー。
ライプツィヒではサイドハーフ、代表ではインサイドハーフを務めた。
バルサのカンテラ出身だが、クロアチアのディナモ・ザグレブでプロデビューした異色の経歴を持ち、愛称は「オルミッチ」。
なぜプレミアからオファーがあったにもかかわらず給与の低いディナモを選んだのかというと、指導法に感銘を受けたからだという。

○ミケル・オヤルサバル


ソシエダのエースで久保のチームメイト。
2021-22シーズンの、バスクダービーとなった国王杯決勝では後半にPKで決勝点を挙げ、実に34年ぶりとなる優勝に導いている。
が、翌シーズンの終盤に入る辺りで、トレーニング中に左膝の前十字靭帯を断裂。年内ほぼ絶望レベルと診断されるほどの重傷だったが、大晦日のオサスナ戦で復帰。
その後もトップフォームを取り戻せずにいたが、2023-24シーズンは公式戦14得点を記録。
そしてEURO2024決勝イングランド戦では決勝点を挙げるという、最高の結末が待っていたのだった。

○ニコ・ウィリアムズ


アフリカ系でありながら、バスク純血主義*20で知られるアスレティック・ビルバオの快速ウイング。
兄のイニャキはビルバオにおいて初の黒人選手であり、ガーナ代表を選択している。
EURO2024では、イタリア相手にキレキレのドリブルで破壊する大活躍でMOMに選ばれた。
ジョージア戦では1ゴール1アシスト、決勝イングランド戦では先制点を挙げる活躍を見せ、ビッグクラブ移籍も時間の問題と言われている。

○ラミン・ヤマル


メッシの再来と言われるほどの超新星。
何なら、父親によってメッシにお風呂に入れてもらう赤ちゃん時代の写真が公開されていたりする。*21
15歳9ヶ月16日でのトップチーム出場は、バルサ史上最年少記録。
さらには史上最年少となる代表入りを果たし、EURO2024予選のジョージア戦でデビューするといきなりゴールを決めて代表史上最年少得点者の記録を更新。
そしてEURO2024本大会のフランス戦では本大会屈指のゴラッソかつEURO最年少ゴールと、若くして記録づくめである。
ちなみに、同じウイングのニコとは親友同士。


追記・修正は、寸分狂わぬパス回しを繰り広げてからお願いします。


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最終更新:2025年06月21日 12:27

*1 かつてはフリア・ロハ(赤き激情)と呼ばれていたが、代表が勝てなかった時期の名前であるため、現在はこの名前で呼ばれていない。日本語訳だと結構カッコいい響きなのに……

*2 スペイン語で時計の針が動く擬音を表す。要するに日本語で言う「チクタク」である。

*3 格下ホンジュラスに引き分け、北アイルランドに負け、勝利したユーゴスラビア戦も誤審にに助けられたものだった

*4 本名マヌエル・カセーレス・アルテセロ。普段はバレンシアのメスタージャ付近でバルを経営しており、スペインW杯から数えて10回のW杯と8回のEUROを観戦に訪れたが、2025年5月1日に逝去。合掌

*5 2010年2月28日のバルサ対マラガ戦

*6 初出場した1934年イタリアW杯から本大会まで、初戦の成績は4勝3分6敗

*7 立場こそ第2GKだがチームの盛り上げ役であり、裏キャプテンとでも言うべき存在だった

*8 闘牛における、牛にとどめを刺す瞬間のこと

*9 ちなみに、エレラはここでカテナチオと呼ばれる戦術を発明し、これがイタリアサッカーの土台となった

*10 なお、ティキタカの概念が独り歩きしていることについては嫌悪感をあらわにしており、「パスワークのためにパスを繋ぐのではなく、相手ゴールに迫ることを目的として明確なパスを出さなければならない」と、手段と目的がすり替わったサッカーについてダメ出ししている

*11 しかもこちらは山間部をぐるっと回りこむルート。どんだけ健脚なんだ……

*12 しかもクラシコのプレーを止めたくないと担架に乗らず自ら歩いてピッチを去った

*13 そんな彼はナパーム・デスのファン。イメージ通り過ぎる……

*14 これでも下町ではよく使われるあだ名らしい……

*15 彼の出身地であるカナリア諸島は日本の遠洋漁業基地があるなど、日本と縁の深い場所である

*16 彼の出身地は炭鉱の町だった

*17 その割には代表では一度も退場処分を受けていない

*18 38歳216日

*19 フォローしておくと、その後運転免許を取得し、バルサのチームメイトたちも花道を作って祝福したとか

*20 厳密には「属地主義」といった方が正しい。つまり、バスク地方で生まれたならOKと見なされる

*21 『SPORT』が毎年発行していたバルサの選手たちが参加するカレンダー撮影の際に撮られたもので、2007年12月に撮影されたとのこと