天使の囀り(小説)

登録日:2019/06/30 Sun 22:40:00
更新日:2025/04/20 Sun 15:47:29
所要時間:約 7 分で読めます




おまえは、■■ではないのか。


天使の囀りが聞こえる


おまえは、本当に、■■ではないのか。


『天使の囀り』は1998年に出版された長編小説。
作者:貴志祐介
出版:角川書店(現KADOKAWA)




【概要】

「天使の囀り」を聞いた人々が謎の自殺を遂げるなか、そのおぞましい真相へと迫ってゆくホラー小説。

ホラーでありながら所謂ダイレクトに恐怖に訴えかける描写は少ないのが特徴。
ただし、じわりと忍び寄る違和感や生理的嫌悪感を催す描写が非常に多く、かなり人を選ぶ

ストーリーの主軸は後の『新世界より』でも描かれる「偽りの救済」がメイン。あと猿とキモオタ
1990年代の作品であるにもかかわらず、作中に登場するキモオタの思考や挙動は完全に現実にいる者そのまんまである。

その過程と末路、最後に描かれる選択は是非自らの目で確認してほしい。

2020年にコミカライズされている。



【あらすじ】

アマゾンへの調査に参加した人々が、次々と豹変した末に奇妙な自殺を遂げていく。
精神科医・北島早苗は、恋人であった作家・高梨光弘の死をきっかけに真相を追い始める。

調査を進めていく中で浮かび上がる「天使」「恐怖」「蛇」といった単語。
果たしてそれらは何を意味するのか───?






【登場人物】

  • 北島早苗
主人公。物語は彼女の視点で進行することが多い。
聖アスクレピオス病院のホスピス(終末医療棟)に勤務するアラサーの精神科医で、死に向かう患者たちのことをいつも気にかけている。
恋人であった高梨の豹変や自殺の原因を追うが、その先にあったのは……


  • 高梨光弘
早苗の恋人。物語の序章となる一連のメールは彼が送信したもの。死恐怖症。
アマゾンの調査から帰還したのち、人が変わったのかのように死を恐れなくなった
その豹変は加速度的に進行してゆき、最も忌み嫌っていたはずの自殺を遂げてしまう。
死ぬ少し前に、「Sine Die*1」という電波ギンギンな小説を書いていた。


  • 蜷川武史
アマゾン調査隊のメンバー。文化人類学の教授。
バイタリティに溢れ日本の現状を憂いているがその考えは典型的な救世主コンプレックスで非常に独善的なうるさいオッサン。
帰国後森と共に行方不明になるが……


  • 森豊
アマゾン調査隊のメンバー。新世界ザルの専門家。
自身の容姿にコンプレックスを抱いており、特に女性とは接したがらない。
暇さえあればMacを覗くMacユーザー。


  • 赤松靖
アマゾン調査隊のメンバー。苔と地衣類の専門家。
社交的な性格だが、動物嫌い。飼われている山猫にすら恐怖する


  • 白井真紀
アマゾン調査隊のメンバー。カメラマン。離別恐怖症。
暇さえあれば娘の写真を鬼気迫る雰囲気で眺めている。
昔、息子を亡くした事がトラウマとなっている
32歳。


  • 上原康之
早苗の勤務するホスピスに入院している少年。
非加熱製剤によるHIV感染で余命は残りわずか。
自分に迫りくる死の運命に恐怖している


  • 土肥美智子
早苗の同僚。思春期の心の病に関する複数の著作を持つ。
終末医療に心を擦り減らす早苗にアドバイスを送る。
何故か先輩という単語を嫌っている。


  • 青柳
早苗の勤務するホスピスに入院している初老の男性。
浮気した妻からのHIV感染で複数の病魔に蝕まれている。


  • 福家満
アマゾン調査隊の担当部署に所属している記者。
物語中盤で高梨の死に沈む早苗に再起のきっかけとなる小説の掲載を伝えた。
その後は取材と称した調査に同行することとなる。
さらっとカマをかけたりこっそり録音する等、抜け目のない人物。


  • 萩野真一(サオリスト)
もうひとりの主人公。28歳。
いくつかの章は彼の視点で進行する。
コンビニバイトの傍ら、エロ画像の蒐集とエロゲーを唯一の楽しみとしているキモオタ。要するに俺ら
特に「天使が丘ハイスクール」というエロゲーのメインヒロインたる「川村紗織里」にかなり入れ込んでいる。今風に言えば俺の嫁
先の見えないその日暮らしで生命をすり減らしていたが、あるチャットサイトとの出会いで……

屈折した性格の持ち主であることに間違いはないが、このように歪んでしまったのは幼少期における母親過干渉(教育虐待とその後のネグレクトのコンボ)が原因であることが地の文で語られている。
そして悲しいことに、現在の彼はそんな母親の歪んだ面が非常に似てしまっているようにも思える。
蜘蛛に対する理由のない恐怖を抱いている


  • ロバート・カプラン&ジョーン・カプラン
数年間アマゾンに住んでおり、オマキザルについての調査を行っていた夫婦。
アマゾンの中でなぜか脅威に対して無防備なウアカリを保護していた。ジョーンはよほどの猿好きなのか、餌を口移しなどで与えていた。
しかしある日突然、ロバートがジョーンを惨殺し、ロバート自身も燃料を被って焼身自殺するという凄惨な事件を引き起こす。
遺された手記には「天使の囀り」に関する言及と、「Typhon」、Eumenides(復讐の女神たち)に対する恐怖が綴られていた


  • 畔上友樹(ファントム)
真一がチャットサイト上で知り合った青年。
中々整った顔立ちをしているが幼少期に負った顔の傷*2見ること、見られることに恐怖している。醜形恐怖症。


  • 吉原逸子(憂鬱な薔薇)
真一がチャットサイト上で知り合った主婦。
学生時代に苛烈ないじめに遭い、先生含むクラスの人間全てから自身のダメさを追求された過去がある。
この時のトラウマにより先端恐怖症を患っており、指差し行為すら忌諱している。


  • 滝沢優子(トライスター)
真一がチャットサイト上で知り合った女性。囲碁プロを目指しており、たゆまぬ努力を重ねているがその結果指の爪が薄くなってしまっている*3のを気にしている。
美人らしいが過去に患った拒食症の後遺症で歯がボロボロ。
潔癖症で汚れを極端に恐れている


  • 渡邊
不審な死を遂げた赤松を解剖した教授。
解剖の結果、おぞましい痕跡を発見する。


  • 依田健二
渡邊教授の友人。
日本において専門とする学者が少ないあるものを専門に研究している。
早苗とともに本件の謎を追ううちにその正体を知り、強い恐怖を抱く









以下にネタバレを含みます
















天使Eumenides(復讐の女神)Typhon大地(ガイア)の子供達。
折り重なった言葉は一つの真相に収束する。

「天使」の正体とは───
+ ...
脳に寄生する線虫であった。
ウアカリと呼ばれる猿(この猿自体は実在する新世界ザルの一種)を中間宿主とし、ブラジル脳線虫またはウアカリ線虫と呼ばれる。
症状の一つに頭部の爬行疹があり、作中ではウアカリの頭部が禿げているのはこれを見極めるためとされている。ウアカリはこの症状の個体を見つけると群れから排除するという。

本来、この線虫は特殊な性質故にウアカリとその周辺の生態系で完結しているはずの存在だった。
その性質とは、宿主の脳組織(快楽を司るA10神経)に同化して恐怖快楽に変換するというもの。

今回はたまたまジャングルで遭難して食糧難に陥った高梨たちの前に発症したウアカリが現れてしまい、逃げもしないそれを食料としてしまったことで人間社会へと発露*4

これが人間に感染すると、主に以下のような段階を経る。

第1段階
+ ...
体に侵入した線虫が増殖を始め、血流に乗って全身に拡散する。この時点ですでに手遅れ

線虫は寄生虫より小さいため多くが組織の末端にまで入り込め、ウイルスより大きいために免疫系では排除不可。
さらに、血管を移動する際、複数の線虫が一つに固まることで免疫系に対してさらに防御力を上げることまで可能である。

線虫が脳のA10神経に到達・同化すると、ストレス物質がトリガーとなってA10神経への電気刺激が発生するようになるため、恐怖が快楽へと変換されるようになる。
この段階では日常的なストレスから解放されるため、ネガティブな性格が前向き*5になるなどの改善効果に見えてしまう*6
が、恐怖自体は感じているわけであり、脳は悲鳴を上げているはずなのに快楽を感じてしまうというこの時点ですでにおぞましい状態である。

また並行して、線虫の増殖により栄養分を奪われるため、食欲が大幅に増加する。

ただし脳/A10神経へは狙って移動できるわけではなく、耳や頭蓋骨の外側の血管に入り込んでしまう場合もある。これが頭部の爬行疹や耳の幻聴を引き起こす。
これこそが天使の囀り(あるいは羽ばたき)の正体。

男性の場合は線虫が睾丸に到達したことでテストステロンが過剰分泌されるためか、性欲も増加する。女性の場合は不明。
体液感染なので、感染拡大能力として機能する。

第2段階
+ ...
A10神経に同化した線虫の数が増えたことで、恐怖がより強く明確な快楽へと置き換わるようになる。

宿主側も与えられる快楽を受け入れており、より強い快楽を求めて半ば本能的により強いストレス環境へ身を置こうとする。
具体的には、宿主が自身の恐怖する事象へ自ら進んで接近するようになり、行動が恐怖による快楽を得ること中心へと推移していく。

あらゆる危険行動をとっては恍惚とするような状態だが、もちろん脳はこの間ずっと絶叫中
宿主によっては自身に何か良からぬことが起きていると認識することもあるが、それでも自身の行動をやめるには至らず、もはや元の人格は完全に壊れきっている。

なお、この状態になると宿主にとっての恐怖の対象がなんにせよ、基本的には行動が生命を脅かすような形へとエスカレートし、その果てに死亡することになる。

第3段階
+ ...
一転して無感動状態に陥るが恐怖が快楽になるのは変わらない。

活動性は低下し、無防備な状態へ自ら身を置く。本来ならば、野生で同様の状況になれば捕食者に食われてしまう。
描写からして高梨らの前に現れたウアカリはこの段階だったと思われる。

しかし捕食者と遭遇せずに死に至らなかった場合、おそらくは体内の線虫が一定以上になることで最終段階へと移行してしまう。

第4段階
+ ...
最終段階。
宿主のDNAへの干渉が始まり、身体が軽微な刺激により線虫入り体液をぶちまける爆弾に変異する。

拡散しやすいように水辺へと誘導された後、肋骨はバスケットのように作り替わり、体表に体液発射トリガーとなる突起物が多数生成される。
さらに頭部や胴体は体内に溢れかえった線虫で爆発的に膨れ上がり、逆に生命維持に直接関わらない手足は栄養を奪われ萎び切った状態になる。
人間の場合、顔に至っては目や口すら肉に埋もれてほぼ目視できないような状態になり、胴体の皮膚も相当薄くなっているという。

基本的にこの段階になると宿主は死亡するが、個体差の激しい形態であり最悪の場合宿主の意識が残っている
数少ない描写から見るに、おそらくこの段階ではA10神経への刺激は解除されている*7。酷ぇ。
そして宿主の生死にかかわらず爆弾としての機能は有効である。

ロバート・カプランが目撃した「Typhon(テュポーン)」とは、この段階に到達したウアカリから漏れ出す寄生虫の塊
保護されて危険から遠ざかったことでウアカリは最終段階に到達し、そのウアカリから感染した妻に起こっている事態の真相を知ってしまった。
大地(ガイア)より産まれし怪物たるテュポーンの姿は無数の毒蛇が邪悪に絡み合うものとされ、まさしくこの「天使」に相応しいものと言える。
自身は無事であったロバートはこれに対する恐怖を書き残し、感染者のジョーンとウアカリたちを自分諸共抹殺したのだった。

早苗の恋人であった高梨は死恐怖症(タナトフォビア)であったが、寄生虫の感染によって死嗜好症(タナトフィリア)に変異。
他人の死に興奮を覚えるようになり、最終的に悦楽を感じる(最も忌み嫌った)自殺*8によって命を落としたのだった。

他の調査隊メンバーも、
  • 動物を嫌っていながら、サファリパークの猛獣の前に無抵抗で(しかも自分が襲われるところを見るために仰向けで)身を晒した赤松
  • かつて我が子を失った経験にトラウマを持ちながらも、我が子を駅のホームに来る電車の前に投げ落とし、後を追った*9白井
と、自らの恐怖・嫌悪する行動快楽を得られる行動に変換されて命を奪われたのが真相。


本来の宿主たるウアカリに感染した場合、性質が非常に大人しくなり、アマゾンに多数存在する天敵に対して恐怖を忘れたかのようにふるまう。
これはもちろん捕食されることが目的であり、それが叶わなかった場合は宿主を肉袋に仕立て上げてまで拡散を行おうとする。
というか、上記のような悪鬼としか形容できない作用は様々なストレッサーが存在する人間特有のもので、こいつ自体は自然発生したものから特に変化してはいない「生態」なのである。
ゾンビカタツムリで有名なロイコクロリディウムのように、線虫としてはただ「拡散すること」と「中間宿主が捕食されて終宿主にたどり着くこと」だけが目的なのだ。

このおぞましい事実の発覚とともに、「天使」を巡る物語は終盤に突入する。








きっと、どこかにあるはずだよ。
Another time,Another place.
天使たちの降り立つ場所が。


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最終更新:2025年04月20日 15:47

*1 サイニーダイイーと読む。意味は「恒久的な」。だが、高梨的にはSineを英語ではなくローマ字で読むものとして付けた様子。つまり「死ね」そのものなタイトル。

*2 ただし、その傷はよく見ないと分からない。本人が必要以上に気にしている。

*3 囲碁の白石はハマグリが使われており、超微細な砥石のようなもの。碁石は指の腹と爪とで挟むため、やりすぎると爪が削れてしまう。

*4 ちなみに、過去にも現地部族間で似たような事件が起きたらしく、「自然から安易に提供される肉に手を出すな」と警告する歌が残されており、一行が発症したウアカリを食したと知った途端それまで友好的だった態度を一変し即座に追い出している。

*5 と言えば聞こえはいいが、ある意味軽い躁状態にあるようなもので、振る舞いが衝動的になる。高梨本来の人となりを知る早苗からすれば「こんな人じゃなかった」「何かおかしい」と違和感を覚えた

*6 蜷川はこれをうまく制御すれば人間を救えると考え、自ら発足した自己啓発セミナーを通じて感染した猿の肉を参加者に食べさせていた。

*7 かろうじて声を出せる程度に声帯を保っていた人物がおり、自分はもう終わりなのだという自覚があるらしき様子を見せている。先行してこの状況に陥ったであろう蜷川を見ても全員その場に留まっている辺り、本当にどうしようもない状況になってから解除されると思われる。

*8 ただの自殺ではなく、酒と睡眠剤を同時に過剰服用して意識が飛んだらそのまま死ぬという状態に追い込んで、じっくり堪能しつつ死んでいった。

*9 投げ落とした後に自身の行動に気づき、慌てて助けようとした結果死亡