多砲塔戦車

登録日:2020/7/19 (日曜日) ?15:43:00
更新日:2025/01/06 Mon 23:53:13
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第一次世界大戦中にイギリスが世に送り出した戦車
現代の戦車はほぼ全てMBTに統一されているが、ここに至るまでに様々な車種が考案され生まれては消えていった。
豆戦車、軽戦車、中戦車、重戦車、駆逐戦車、突撃砲

何か足りんな…ああ、あと巡航戦車と歩兵戦車

ある戦車は伝説として歴史に名を残し、またある戦車は世界一の撃破数を誇りながら現代では廃れてしまったり…
この項目で述べる多砲塔戦車も、そんな歴史に埋もれていった戦車の一つである。

どんな戦車?

読んで字の如く、「1つの車体に2つ、或いは複数の砲塔を搭載した戦車」であり、戦間期のイギリスで生み出された。
あくまで「複数の砲塔を搭載した戦車」であり、アメリカのM3中戦車やフランスのルノーB1等の「主砲塔+車体に砲を搭載した戦車」は含まれないので注意しよう。
しかし、文献によっては上記の戦車も多砲塔戦車扱いしてたりしてイマイチ基準が定まってない節がある。

ほらそこ、もう使われてないんだから基準なんてどうでもいいなんて言わない。

そんな多砲塔戦車の特徴としては↓
・1両で戦車2、3両分の火力を保持出来る
・あちこちに銃砲弾をばらまけるので隙がない
・同一方向に一斉掃射することで高い瞬間火力を発揮出来る
・見た目が強そうでカッコいい!これ1番大事

とその勇姿は陸上戦艦の如し、まさに漢のロマンを体現した大英帝国の誇る傑作戦車である!

開発経緯


この戦車が生まれたのは第一次世界大戦直後。同大戦でイギリスが開発した菱形戦車は世界中に衝撃を与えた。
戦争の趨勢にこそ影響できなかったが第一次大戦時に生まれた新兵器達と共に戦争を変える存在として知らしめたのである。
そして戦争が終結すると期待の次世代兵器として各国はこぞって戦車の開発、運用方法について熱心に研究し始めた。

そんな中、戦艦のような砲塔を搭載した高性能戦車「ルノーFT」が登場。
軽い、安い、強い。そして人数も少なくて良い*1という極めて高い完成度の性能には各国に大ヒットして輸出されまくり、次世代戦車の開発に多大な影響与えた。

特に砲塔というアイデアは一つの武装で全周囲をカバーすることで、
最小の装備で必要な戦闘力を確保できる画期的なアイデアだった。←ここ重要

当然というかイギリスもその砲塔というアイデアに引かれたのか、

1両の戦車に砲塔ガン積みして単独で塹壕突破できる戦車作ったら強いんじゃね?


という意見が飛び出し、早速イギリスは形にする。その結果完成したのが多砲塔戦車のインディペンデント重戦車。
この戦車は奇抜な見た目と先進国から生まれた威信の高さから各国から注目されたが、高いコストや軍縮の情勢に加え世界中を襲った世界恐慌のおかげで試作1両で終わってしまい、ここで多砲塔戦車の歴史は途絶える……


ことはなかった。ここで終わった方がよかったのに・・・
世界恐慌の影響を受けない国があった。
赤い大地のソビエト社会主義共和国連邦である。

社会主義故に世界恐慌の影響を受けなかったソ連は、他国を尻目に研究を進め、ついには唯一の多砲塔戦車の量産国となった。
ここでは量産されたT-35、T-28についても記載する。

だって多砲塔戦車の結末をその身をもって体現してるんだもの。



社会主義国家の陸上戦艦


1922年に誕生したソ連は伝統に囚われずに兵器の近代化を推し進めていた。
例に漏れずイギリスのインディペンデント重戦車に注目しており、同戦車の購入をイギリスに打診したが…


ソ連「我々はパンや空気のようにインディペンデント重戦車を必要としていr…」

イギリス「何を言う!貴様のような信用に足らん世界の新参者が、我が大英帝国の誇るインディペンデント重戦車を購入なんてできる訳がないだルォォオ!?」


なんてやり取りがあったのかなんてもちろん知ったこっちゃないが、ともかくソ連はインディペンデント重戦車の購入を一蹴されてしまった。
そもそも共産主義と資本主義が対立している時代だしね…。当然っちゃぁ当然。

しかしそんなことでソ連が諦める訳もなく。


ソ連「軍の近代化に戦車は必須だし、今は多砲塔戦車がブームだからやっぱり欲しい!どうしたものか……」

「そうだ!ドイツから技師を招いて自国で開発しよう!ドイツも国際社会から孤立してるし、誰も止めはしないだろ!」


と、第一次世界大戦の戦勝国への賠償金や、ヴェルサイユ条約等で首が回らなくなっていたドイツから技師を招き、2つの砲塔に5つの機関銃を装備した「TG戦車」を試作した。

この戦車に改良を加え、さらにインディペンデント重戦車の武装配置をパクr…ゲフンゲフン、参考にして誕生したのがソ連の多砲塔戦車のT-35である。
そのT-35を61両、そして並行開発したT-28を503両生産し、ソ連は世界で唯一の多砲塔戦車量産国となった。

T-28は主砲塔に76.2mm砲、そして車体前部に2つの銃砲塔と大人しめ。

それに対してT-35は主砲塔に76.2mm砲、その前後に45mm砲塔を2つ、そして2つの銃砲塔とインディペンデント重戦車より高火力。そしてやっぱり見た目はかっこいい。

1両の車体にドドドドドン!と5つの砲塔が搭載された正に殺る気マンマンと言った見た目は壮観で、多くの市民の心をガッチリと掴み、革命記念パレードでは多数のT-27豆戦車を引き連れ、堂々と行進してみせたのである。
実際、当時のプロパガンダポスターには大きくT-35が描かれており、この戦車に対するソ連の期待の大きさがうかがえる。

そしてついに、この戦車にも初陣に出る機会が訪れた。
大祖国戦争、つまり独ソ戦である。祖国に攻め入るドイツ兵に、T-35は果敢に突撃したのである。


で、どうだった?


結論から言おう。



大☆損☆害



その戦闘は文字通り悲惨の一言に尽きる。
残された記録によると、「故障で破棄、又は爆破」「撃破され全焼」「事故」のオンパレード。とにかくぶっ壊れまくって動けなくなり、多くの車両が撃破されるどころか搭乗員の手により自爆させられたのである。
38両のT-35が1週間も経たずに師団から落伍したケースもあったとか。


なんでこうなった?


当然こんな悲惨な結果になった原因はある。
まず原因の1つは…というか、ほぼ全ての欠点の原因が幾つも砲塔を搭載したことに起因する。

まずたくさんの武装を載せるということは、それだけ必然的に重量が増えるということ。
それに複数の武装を搭載する為、それらを操作する搭乗員、そして弾薬を車内に収めるため車体もそれなりの大型化を余儀なくされる。…ますます重くなる。

もちろん重くなると機動性は悪化する。
足回りの改良やエンジンの馬力を増加することで多少は改善されるだろうが、どれも当時の技術では限界があった。

では重量を減らす1番手っ取り早い方法と言えば車体を軽くする、つまり装甲を薄くすることである。
T-35は武装に反して車体正面は30mm、側面20mm程の装甲しかなかった。

どのくらいかと言えば、薄い薄い言われてきたドイツのIII号戦車より薄い!と言えばわかるだろう。型にもよるけどね。

にもかかわらず、重量はなんと50トン越え!
ソ連が大戦中に投入したどの戦車よりも重い*2のだ。
無論足回りの設計が洗練されている時代でもないので、この重量は駆動系に多大な負荷を与え、走行試験では2000キロ走破する間にエンジンを3基も取り替えたり、塹壕突破に主眼を置いてたクセにたった17°の傾斜しか越えられなかったりといいとこ無しである。

そしてそんなに武装てんこ盛りにしても全てを効率的に使える訳でも無かった。

戦車は戦艦と違い、車長1人が戦車の進行方向、攻撃目標を指示し、指令の応答をしている。

単砲塔でも1秒いや0.1秒を争う戦場で、指示をこなすのさえ大変だからこそ活躍する車長はエースとして名を轟かしているのに、単純計算にしてその大変さの5倍なんてやらせてみろ、車長がパンクしちゃうよ?
おまけに10人という普通の戦車の2、3倍の搭乗員が乗り込んでおり、撃破された時の死傷者も飛び抜けて多かった。

つまり、T-35は
・トロい
・いつ故障するかわからない
・自慢の火力も効率的に発揮できない
・デカくて目立つくせに紙装甲
・薄い装甲の車内は弾薬、燃料、そして人でギッチギチのぎゅう詰め

……もうこれ以上言う必要はあるまい。

アニヲタの諸兄も、RPG等のゲームで「強いスキル全部のせりゃ最強じゃね?」とやってみたはいいが、デメリットばかりが目立つ器用貧乏ができた、なんて経験はないだろうか。
それをリアルでやらかしたのが、この多砲塔戦車なのだ。

それでも、それだけならチャレンジャー精神には付き物の誇れる失敗と言えただろう。

だがそもそもの始まりである砲塔、それを何故ルノーFTは積んだのかを突き詰めたかと言えば
これら上記の諸々の問題を解決するために他ならない。
つまり多砲塔戦車という本質は粗削りな初期のタンク時代に自ら戻るという恥知らずな行為に他ならないのである


これほど失敗したにもかかわらず、ソ連の戦車開発陣は凝りもせずにSMK、T-100といったT-35の正統なる後継車両を開発した。
……ところが、多砲塔戦車への熱が絶対零度まで冷え込んでいたヨシフおじさんが「君たちは何故戦車に百貨店を作るのかね?」とまで言い切ってしまった。軍事オンチなんて噂があるあのヨシフおじさんが。
なお近年では「なぜ戦車を百貨店にするんだ!」と言った説が有力らしい。

しかもヨシフおじさんの機嫌を損なうと粛清待ったナシのご時世。
開発陣は慌ててSMKの胴体を縮小して単一砲塔にしたKV-1を試作し、この3車種はちょうど勃発した冬戦争に投入される。
その結果、SMKとは雪に足を取られたりと味方の足を引っ張ったため、単砲塔のKV-1が実用性に勝るとして正式に採用され、ここにソ連の陸上戦艦の夢は泡と消えるのである。
T-100はだと?SMKを見れば試験するまでもないってまだ分からないのか

…そのKV-1も重量や足回りの脆さで大いにソ連軍を悩ませたのだが、そのKV-1より実用性に劣ると言うのだから推して知るべしである。
まぁ原因となった大戦後期の大反撃で機動力が求められかつ傾斜装甲を採用し火力も同等以上のT-34が戦線を張るようになったされたからというのは皮肉ともとれるが


あれ?もう片方は?


一方のT-28。こいつは重量28トンとT-35の半分程の重量だったおかげでまだ運用しやすい戦車ではあったようだ。
ただこちらも変わらず多砲塔戦車故の複雑怪奇な構造で整備員は泣きを見たそうだが。

この戦車はポーランドで初陣を飾るが、本格的に前線に投入されたのは冬戦争。

…うん、冬戦争。
相手?もちろん白い死神やその他チート揃いで有名なフィンランド軍。しかも大雪の降る真冬である。

自分達の土地を知り尽くしたフィンランド軍の対戦車砲や火炎瓶による待ち伏せ攻撃でこっちでもT-28は大損害を受けた。
その被害率たるや、投入されたT-28は最低でも2回は損傷を受け、最大5回は撃破されるというフルボッコ状態。

あまりの被害に驚いたソ連軍はT-28に増加装甲を施し再度前線に投入したが、それに対してフィンランド軍は


フィンランド軍「増加装甲?じゃあ増加装甲がない箇所を狙い撃てばいい」


って感じで撃退した。マジで。
この件で最早「多砲塔戦車は役立たず」という認識はソ連軍ですっかり常識として広まってしまった。

続く独ソ戦でもT-28及びT-35は投入されるが、やっぱり今回も相手が悪すぎ、しかも新しい世代の戦車なのもあってかなりの数がやられている。
まあT-28一個小隊でドイツ軍を撃退したり、たった1両でドイツ軍が占領する街に突入して暴れ回ったり…なんて戦果を一部で残してはいるが逆に言えばそのくらいしかない。

その後の生き残ったT-28はモスクワ防衛に投入されたが、単一砲塔の戦車に急速に置き換えられていった。

しかし、まだT-28の人生は終わっていなかった。
前述の冬戦争でフィンランド軍は5両のT-28を鹵獲しており、そこでT-28は貴重な戦車戦力として重宝されていた。
そして継続戦争にて、性能で遥かに上回るT-34-85を撃破するという大金星を挙げている。やべぇなフィンランド軍。

その後は戦後も1951年まで戦車として自軍戦車部隊に配備し続け、さらに戦車回収車に改造するなどして1950年代まで運用を行っている。
現在、T-28中戦車はフィンランドに2両、ロシアにはクビンカ戦車博物館に1両が現存している。


各国の多砲塔戦車


量産されなかっただけで、多砲塔戦車を試作した国は実は結構ある。
量産したところで結末は大して変わらなかっただろうけど。


・イギリス

インディペンデント重戦車

全世界に多砲塔戦車たるブームを引き起こした原因。元凶。黒幕。諸悪の根源。
M3中戦車やルノーB1が上述したように多砲塔戦車扱いされないのは、「コイツから受けた影響が比較的薄いから」と言っても過言ではない。

単砲塔であることに成功を見出したルノーFTから一体何を学んだんですかね…?。

1925年にビッカース社が1両だけ試作した。
武装は主砲塔に47mm砲、その前後に2基の7.7mmの銃砲塔を備えている。そして装甲は最大29mm…
当然高価で複雑な構造のこの戦車を数を揃えることは困難だったが、


イギリス「じゃあ安い豆戦車とか量産したらいいんじゃね?」


と、同じ時期に安価なことしか取り柄がないカーデンロイド豆戦車を開発して足りない分は数で補うという計画を立てた。いわゆる戦車版ハイローミックスだ。ただしどっちも使い物にならんが。
前述の通り高いコスト、軍縮、世界恐慌のトリプルパンチで開発は断念されてしまい、豆戦車のみが生き残ったが。
なお活躍は弱い者イジメ以外はお察し。

たった1両のインディペンデント重戦車は現在ボービントン戦車博物館でその姿を拝むことが出来る。


・ドイツ

Nb.Fz

ドイツ版多砲塔戦車。
マイナー過ぎて名前も聞いたことがない人がほとんどだろう。
正式名称はNeubaufahrzeug、読みはノイバウファールツォイク。長ぇ。
日本語訳は新式戦車…塹壕突破に主眼をおいたこの戦車のどこが新式なのかは分からないが、とりあえず紅茶にたっぷり毒されていたのは確か。

突破用に開発されただけあり、主砲は当時としては大口径の75mm砲、その並列に37mm砲を装備した主砲塔、その前後にI号戦車の砲塔そっくりな銃砲塔を一基ずつ備えている。

その武装の反面、装甲は最大20mm、しかも砲塔は10mmと多砲塔戦車の中でも正に紙装甲。
しかもドイツ特有の垂直装甲である。
なのに重量は23トンにも及び、機動性に欠けるこの戦車は機甲部隊のお荷物になることもしばしばだった。

つっても本来は実戦投入も想定していない研究車両なので普通に理性的な車両である。トンデモ兵器を無理矢理にでも実用化しようとする末期のドイツじゃないしね。
1933年から1935年にかけて試作車両も合わせて5両制作されたが、1940年まで実戦に投入されることはなかった。

そして1940年の半ば、兵器不足故に既に旧式化していたI号戦車、II号戦車と共に戦車大隊を構成し、ノルウェーに投入された。ぶっちゃけ在庫処分。

しかし、意外や意外、ここでNb.Fzは大いに活躍した。
ノルウェー軍にはまともな対戦車火器が普及しておらず、装甲が薄くても問題にならなかった上、搭載された75mm砲から放たれる榴弾は陣地突破に大きな威力を発揮したのだ。多砲塔戦車が構想通りに活躍できた数少ない例である。
まあ、足回り壊れて泣く泣く自爆廃棄されたり、東部戦線に投入された車両はKV-1にあっさり撃破されたりしてるけどな!

その後、生き残った車両はやっぱり「強そうな」見た目からプロパガンダ演説の台にされたり、工場が稼働しているように見せかけるオトリにされたりして消えていった。
今では車両は1両も残っていない。


・日本

試製一号戦車

1927年に大日本帝国が試作した戦車。
日本が独自開発した記念すべき初の戦車である。
初の戦車が多砲塔戦車とは、我が国も中々やりおる。

武装は主砲に57mm砲。この砲はチハたんにも搭載されている大日本帝国陸軍お馴染みの砲である。
その前に銃砲塔、そして車体の後部の端にも銃砲塔を装備している。
装甲は最大17mm。
開発予算はなんと1両分のみ、しかも期限は22ヶ月という自動車もロクに普及していない当時の日本にとっては無茶難題だったが、開発陣は無事に期限内に完成させてみせた。

完成した車両は富士演習場で性能試験が行われた。
軍関係者が見守る中、8キロの道のりを故障することなく走り抜けたり、急な傾斜を容易に踏破、堤防と塹壕の超越を予定通りこなしてみせた。
初の国産戦車にもかかわらず、海外製の戦車よりも格段に高い性能を見せて軍関係者を大喜びさせたのは言うまでもない。

しかし、当初はせいぜい重量16トンの予定が18トンになってしまい、陸軍の要求した最高速度25キロを下回る20キロしか発揮出来なかったことで不採用となってしまった。
当時の陸軍は広大な中国大陸で運用するため機動性の高い戦車を要求していたからだ。
その要求の結果の1つがチハたんなのであって。

採用はされなかったが、この戦車開発で得たノウハウは大きく、
後の八九式中戦車やチハたん、さらには61式戦車、74式戦車等の戦後戦車への登場に繋がっていくのだ。


九一式重戦車

上記の試製一号戦車に改良を加えた戦車。
当時既に八九式中戦車が制式化されていたが、陸軍が「敵に対して優位に立つためには重戦車が必要である」と結論を出したことで開発がスタートした。
構造は試製一号戦車とほとんど変わらないが、エンジン馬力の上昇によって最高速度25キロまで出せるようになっている。

コスト等の問題でこの戦車も制式化されずに試作1両で終わってしまった。


九五式重戦車

1932年に、九一式重戦車を元に開発がスタートした重戦車。
火力の強化が図られており、武装は主砲塔に70mm砲、車体前部の砲塔に37mm砲、そして車体後部に銃砲塔。
装甲は最大30mmと当時の日本戦車では厚い方。

それに合わせて重量は26トンとかなり重くなってしまい、輸送に支障が出るとして制式化されたのにたった4両しか作られなかった。



1941年に試作された幻の多砲塔戦車。
……こいつはタダの多砲塔戦車じゃない。
なんと全備重量150トン超えのマジキチ戦車なのだ。
多砲塔超重戦車?超重多砲塔戦車?もうこれ分かんねぇな。

WOTにも登場していることで割と知名度はあるかもしれない。

主砲には150mm榴弾砲を備え、副砲塔には砲と機関銃が装備されていたらしいが資料が残っておらずよくわかっていない。
装甲は車体正面が75mmだが、さらに75mmの追加装甲を装備可能で実質150mm。しかも傾斜装甲。
側面は35mmだが、こっちも35mmの追加装甲を装備可能。
輸送時には分解して運び、現地で組み立てる予定だったらしい。

スペックでは正に日本戦車どころか世界最強クラスの多砲塔戦車なのだが、やっぱりそんな重いとまともに使えるわけが無い。
実際、性能試験では地面に沈みこんだり、無理矢理走らせると転輪がポロポロ外れていくというお約束を披露してしまい、元々冷ややかな目で見ていた軍関係者をさらにガッカリさせてしまった。
その後は放置され、やがてスクラップにされてしまったそうな。

今ではオイ車の物と思われるでっかい履帯が静岡県の若獅子神社に保管されているのみである。


・ソ連

SMK

上で述べた通りのT-35の後継車両の1つ。
SMKは革命的英雄セルゲイ・ミローノヴィチ・キーロフの頭文字を取った名称。暗殺されたけど。

当初は砲塔を3基搭載する予定だったが、ヨシフおじさんのあのお言葉を頂いた為に砲塔2基に変更された。
主砲塔には初期のT-34にも搭載されていた76.2mm砲、副砲塔にはT-26の45mm砲。
装甲は車体正面は75mm、砲塔正面は60mmと当時としては重装甲。

後述のT-100と共に冬戦争に投入され、雪堪りに埋まって行動不能となってしまい、その後2ヶ月も放置された。

45トンの重量のおかげでフィンランド軍も捕獲できず、ソ連軍が6両のT-28で牽引してやっと回収できた。
その後はこの戦車から副砲塔を省いて浮いた重量で装甲を強化したKV-1が採用されてスクラップになってしまった。


T-100

SMKと同時期に開発されたT-35の後継車両。外見、武装共にSMKと瓜二つだが重量はなんと58トン!

この戦車も冬戦争に投入されたが、KV-1が採用されたことで試作車2両作られただけで終わった。

しかし、開発計画が中止した後、この車体に海軍で使われていた130mm砲を搭載したゲテモノ自走砲SU-100Yを試作した。
モスクワ防衛の際に実戦配備されたが、交戦することないまま終戦を迎えた。今ではクビンカ戦車博物館で余生を送っている。

また砲塔を3つにする案もあったが設計に携わったコーチン技師が反対しこれにスターリンも「なら要らん砲塔分の余剰した重量を装甲に回せ」とごく真っ当な意見を出していたとか。こうして生み出された新たな重戦車は大戦後期におけるソ連軍の主力となって活躍することになる。

・フランス

シャール2C

第一次世界大戦中に設計され、大戦後に製造された戦車。
おそらく多砲塔戦車としては世界最古。そして元祖超重戦車

主砲は75mmカノン砲、車体後部に銃砲塔を備え、設計時期的には第一次世界大戦中の戦車にもかかわらず重量は70トン!*3
つまりこいつも超重多砲塔戦車なのか多砲塔超重戦車なのか…。
さらに本質的には最初期の戦車と同じなので、この戦車をフル稼働させるにはエンジン整備専門のエンジニアを始めT-35を上回る12名もの搭乗員が必要だった。

こんな戦車まともに使えるのか?とお思いだろうが実際使いモンにならない。…が、この戦車、生まれることが間違いだったとも言い切れない中々奇妙な生い立ちを持った戦車なのだ。

そもそも、フランスはこの戦車を本気で建造しようとは思っていなかった。

コイツの発端となったのは第一次大戦中にムーレ将軍が「独断で」行っていた重戦車開発計画。
しかしフランス軍は本命の軽戦車(ルノーFT)開発で手一杯だったのもあり「重戦車とか要る?ていうかそもそも作れる?」という風潮が強く、ムーレ将軍の失脚後は「万が一、必要になった時の為に開発だけは続けておこう」くらいの姿勢だった。
そこに大戦終盤、イギリスがアメリカとフランスを巻き込む形で戦車を大量に投入してドイツ軍に対して大規模な攻撃を計画する(Plan1919/1919年大攻勢計画)。
が、遅れてやってきたアメリカはともかく、ずっと自分の国の中で戦いっぱなしだったフランスの国力は当然クタクタでそんな余力は残されていなかった。
そこでイギリスから


イギリス「しょうがないからフランスは戦車を生産するフリしてよ。そうすりゃこれから作るMKⅧ菱型戦車700両を実質タダでやるからさ」


という提案が飛び出してフランスは速攻で飛びついた。
つまり、表向きは本気で作ろうとはしているが、実際はフリをしたらいい訳だった。
ちなみになんで開発するフリをしたのかというと大国としての建前もあったが、戦車製造という一大ビジネスを見逃すことを、重戦車製造というフェイクで工業界連中を誤魔化すためでもある。とんだタヌキである。
こいつが重戦車なのも「主力はFTとかの軽戦車だし重戦車は開発が遅れようがポシャろうが大したことないよね」て姿勢だったから。
それに留まらずわざと適当かつ頻繁な追加注文を行い「地雷探知機とか破城槌とか、渡河用のポンツーンを追加するために設計を変更」「最新鋭の無線機を開発して複数搭載するために設計を変更しろ」
挙句に「300台建造するために生産性重視の設計に変更」とか誰が見ても無理難題のオーダーに切れる関係者が現れる始末だが
それからもお構いなしに追加注文しまくってわざと設計を遅らせた。とかあれやこれややっている内に、1918年11月に戦争は終結。
前提の攻勢計画が実施される事はなくなり、予定通りこの戦車が建造されることはなかった。
ついでに言うと供与予定のMkⅧ戦車も工場建設の遅れとかで製造もされなかったし、フランスも必要では無かった。

ところが、その後シャール2Cは実際に建造した。否、されてしまった。しかも戦闘目的ではなく、経済対策で。

戦争中、フランスは総力戦を取っていた。
国を上げて工場をドカドカ建てて、それらをフル稼働させ、武器や兵器を製造していた。
当然、戦争が終わると大量に工場が余る。当然維持にも莫大な資金が必要になる。かと言って解体するのはもったいないし、なにより工場を閉鎖したら失業者が溢れ、たちまちフランスの経済は混乱してしまう。

そんな時、フランスの手元にあったのがシャール2Cの設計図だった。

じゃあ、この戦車を10両程建造しよう。少なくともその間は経済は安定するから、その間に別の対策を考えればいい、という結論に至ったのだ。

そんな訳で建造された10両のシャール2Cだが、作られた後はもっぱら放置された。
明らかに不適切な既存技術で無理矢理成立させた超重戦車であり多砲塔戦車でもある故に稼働率は最悪だし、動かしたら壊れるのは扱う兵士から見ても明らか。共食い整備で何台かは解体状態にされる有様。

だが唐突に意外な脚光を浴びることになる。戦争映画での主役である。
当時は最悪とされた第一次世界大戦直後である。当然それを題材にした戦争映画は作られるし売れもする。
そんななか大きな障害物をぶっ壊すパフォーマンスを行ったらたちまち大ウケ。
窓枠職業同然だったのは何だったのか、ただでさえ冗談では済まない経済情勢にもかかわらず優先して近代化改修が施され、一台ごとに州の名前を冠名する超好待遇のアイドル戦車と化す
一時期は部隊配備にまでされ後継機まで計画されたのである。担当の兵士にすら全く使い物にならないと分かっているにもかかわらず
だが悲しいかな、シンデレラストーリーでは終わらなかった。

奇跡的復興を遂げたドイツによる電撃戦を決起とする第二次大戦の開幕により、
万一破壊されたら士気に影響するからと揉み合ってるうちに結局使われないまま爆破処理されてしまった。
その後は爆破に失敗した1両がドイツ軍に鹵獲され、そこでも失敗作のプロパガンダ用として散々こき使われたそうな。

そして今度はベルリンに侵攻したソ連軍に鹵獲されたらしいが、ここで行方不明になってしまった。
いまではシャール2c関係の装備が残っているのみで本体の記録すら残っておらず本当にわかっていない。

このことから、一部のフランス兵器マニアでは


シャール2Cはロシアに持ち出され、広大なロシアの地のどこかで今も日の目を見るその時を待ちわびながら眠り続けている


という噂が囁かれているとかいないとか。うーん、ロマン。アーサー王伝説かな?
十中八九スクラップにされてるだろって?言うな。





シャール2Cを発見した方、追記、修正お願いします。

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最終更新:2025年01月06日 23:53

*1 当時は戦艦よろしく複数の武装を積むのが主流だったため多人数が必要だった

*2 KV-1から始まるソ連の重戦車シリーズは基本的に45トン前後(理由は運搬を考慮した設計上の要求の限界だから)。試作ならともかく採用や実戦投入経験のある50トン超級の戦車はこれ以外だとギガントことKV-2くらい。後は次世代機のT-54、IS-3以降

*3 開発当時は20トン程度ですら重戦車扱いされる時代